豊後の古歴史

御前岳・木花咲耶姫を祀る津江権現
渡神岳
御前岳・南朝哀史
山の高さは一里ばかり・洪樟(伐株)山
南朝勢力の拠点とする・玖珠城
大友vs島津の攻防・玖珠城(高勝寺城)とも伐株城
鶴見岳の伝説
猪鹿狼(いから)寺由来記
久住長者原・朽綱長者、朝日長者、餅的、白鳥伝説
祖母山(嫗岳)・「神婚説話」蛇体の神と娘が交わる

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御前岳 (大宰管内志 筑後之六)    津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境)  豊後の山に戻る      黒木津江神社へ戻る    津江神社と老松大明神

 上妻郡矢部郷内の石河内村ノ内竹ノ祓イと云事あり、そこに岩屋権現と云物あり、岩屋と云処に家少しあり、そこに岩屋権現ノ社あり、・・・・、八女津媛ノ神を祭ると云、又、御前岳に大山祇ノ神を祭るこの山は九州にて一二の高山なり、・・・・・・、御側山という処より登る50丁余あり山ノ半腹までは樹木大にして茂く槻又黒もじと云木多し半腹より上は樹木漸くちひさくすずという小竹又石楠多し其の険阻なるこというべからず絶頂僅かの平地に小祀あり是即神殿にして東ノ麓豊後ノ内に拝殿ありと云

 此処より四方を望むに東の方に豊後の九重山見え西ノ方に肥前の多良岳見え南ノ方に肥後の八方岳見え東南の間に肥後の猫岳見え西南の間に同國雲母山肥前の温泉山見え西北ノ間に筑前の背振山・寶満山・古処山見え東北の間に宇佐ノ方見ゆるなり、又御前岳の岩屋と云は絶頂より下る事十町ばかりにして窟あり窟中に螺二ツありこの貝年々色を変えずと云阿蘇山の山伏護摩を修する処なり窟中に不動尊四体あり云云といへり

木花咲耶姫を祀る津江権現 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  もどる 津江とその周辺の山々 (地図;豊後・筑後・肥後の境)  豊後の山に戻る 

 津江権現は、豊後・筑後の人々には古くから広く信仰されていた。筑後国黒木の猫尾城城主黒木大蔵大輔助能は、嘉応元(1169)年に豊後田代村の津江権現を勧請して、黒木村の産土神とす(筑後史)とある。ところが、津江権現社の祭神は、御前岳の守護神・大山祇神といわれてきたようだが「筑後史」一巻によると、「御前岳山頂の祭神は、津江権現といって木花咲耶姫を祀る」という。「記紀」にいう木花咲耶姫は大山祇神の娘で、父と同じく山の守護神になった女神。有名な富士山の神はこの木花咲耶姫で、また一般には天照大神の孫瓊々杵尊の妻になった美しい女神でも知られる。

 

渡神岳(別名、水晶岳) もどる 

神功皇后が戦勝のお礼に神々を迎え祀られたことから水晶岳という山名が渡神岳に変わったと伝えられる。山頂には祠がまつられ、雨乞い祈願の山でもある。

津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境)  豊後の山に戻る

 

南朝哀史 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)   五条氏に戻る

 一四世紀の南北朝九州動乱の時代、後醍醐天皇の皇子懐良親王は、延元元(1336)年秋、御年僅か八歳で征西将軍宮として九州に下ったといわれる。御前岳の麓、筑後側の矢部村の名族五条少納言頼元(筑前三奈木荘で正平22年没)は、子良遠と共に征西将軍宮に従い、肥後の菊池武光、筑後の星野、黒木、秋月らとともに筑前・筑後で北朝側と戦ったことは史上に名高い。御側(おそば)部落に良成親王の墓碑があるが、親王は初代懐良征西将軍宮を後継した二代目征西将軍宮。建徳元(1370)年、鎮西探題となった今川了俊におさえられた親王は、矢部村山中(大杣;おおそま=御側の転化?)で五条氏らと南朝再興を図ったが、空しく逝去されたという哀史がいまに伝えられている。一説では、壊良親王も矢部村で崩じられたともいうが別説では、星野の妙見城で崩じられ、親王の遺言で遺体を肥後八代(山魔)に埋葬されたともいう。しかし確かな壊良親王の没年、場所はいまだに定かでないというのが、通説のようだ。津江とその周辺の山々もどる (地図;豊後・筑後・肥後の境) 豊後の山に戻る 五条氏に戻る

 

山の高さは一里ばかり (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)   もどる  豊後の山に戻る  五条氏に戻る

「豊後風土記」に伐株山の古記がある。球珠(玖珠)郡の南に大きな樟の木があって、洪樟とも、また断株山とも呼ばれる山があった。山の高さは一里ばかり周囲は二里余りであった。山上は台のように平坦である。「古昔、ここに大樟樹(郡名はこの樟にはじまるという)ありて、樹の高さは幾干尺とも測り難し、土地の人その樹を伐り倒せり。村民伐りしあと根は台盤のような山となった、と伝えるのはこの山のことなり。また伝うるに、この山に寺有り。名を高(洪)樟寺といいその廃趾あり。村民この趾を暴き硫器を獲る」云々とある。伐株山の別名を高(洪)樟寺山ともいって、いまでも土手をめぐらした寺跡がみられる。もどる  豊後の山に戻る

南朝勢力の拠点とする (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  

時代はさかのぼって一四世紀の南北朝時代、建武三(1336)年三月、足利尊氏は九州に下って筑前多々良川で、南朝方の菊池武敏、阿蘇惟直を破って勢力を盛り返すが、九州南朝の諸将は軍を集めてこの玖珠城に籠り、南朝勢力の拠点とした。理由の一つは玖珠郡に皇領多く、また万年山を越えて肥後の菊池氏との連携が容易であったからだという。

籠城武将は、小田顕成、魚返宰相房ら玖珠郡土着の清原一族、これに天領日田の楢原兵衛次郎、敷戸普練、賀来第弁阿闍梨、同舎弟孫五郎、沙弥道円といった大分郡の武士、それに大友一族では大友貞順、入田士寂などであった。尊氏は鎮西探題一色範氏の弟頼行を玖珠城攻めの将とした。ときに建武三(1336)年三月二四日。実に八ヵ月以上の攻防戦が展開された後、一○月一二日、玖珠城は落城した。

この玖珠城攻防戦で、足利方についた武士にも土着の者がいた。清原一族の野上顕直、綾垣政明、野上資頼、帆足清六左衛門入道らである。同族一党の分裂である。そのほかは豊後、豊前、肥前三国の武士たちが動員されている。長期にわたって玖珠城が持ちこたえたのは、土着の魚返宰相房が清原一族きっての富豪の家系で、兵糧を十分に運び込み城内に水場があったからだといわれる。

「清原系図」によると、

豊後清原氏は平安初期の寛平年中(889−97年)、少納言清原朝臣正高が豊後介となって玖珠郡に住んだのがはじまりで、出自説は天武天皇の皇子舎人親王(「日本書紀」の編者)の孫貞氏王の子が大納言清原朝臣有雄といい、有雄から三代目の孫が正高である。

玖珠郡における清原一族の支流家系は多い。長野氏、山田氏、飯田氏、恵良氏、野上氏、古後氏、帆足氏、森氏、小田氏、太田氏、平井氏、ほか原田、志津里、綾垣、石田、魚返、松木などの家系に分流しでいる。もどる  豊後の山に戻る  五条氏に戻る

大友対島津の攻防 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  
 地元の伝承では、天正一四(1586)年、大友の属将が高樟寺に城塞を構え島津軍を迎撃して落城した古城跡で、玖珠城(高勝寺城)とも伐株城とも称したという。また『軍略記』という古戦記には同じ天正一四年一二月、薩摩の部将新納武蔵守が六○○○余騎を率いて玖珠郡に打ち入り角牟礼城を攻めたが、なかなか落城せず遠巻きにしたという記述がある。玖珠城の戦いは、そのときと軌を一にした戦いであろう。もどる  豊後の山に戻る

鶴見岳の伝説 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より) 
 むかし、鶴見岳には毎年の10月ごろから、翌年の二、三月にかけて白い鶴が大挙して飛来し、遠方から見ると、山頂に真っ白く雪が積ったように見えたという。また、豊後臼杵の学者鶴峰戊申は、この山から別府湾を見たとき、日出町豊岡を頭、高崎の入江が脚、鶴崎は翼にして、さも大鶴が羽根を広げたような姿を想わすといった。いずれも、鶴見岳の山名起源説として、いまにいい伝えられている。この鶴見岳には、西の由布岳と南の祖母山の二つの男性の山が、乙女の山鶴見を争ったという山の俗説がある。美しき乙女鶴見岳に想いを寄せた男性の山は降るほどあっだが、最後まで残ったのが美貌の由布岳と色浅黒い男性的な祖母山だった。二つの山は秘術をつくして争ったが、鶴見の乙女は由布岳を選んだ。由布岳は、念願がかない永遠に鶴見岳の隣りに座ることができたが、恋に破れた祖母山は、悲しみの涙で、志高湖をつくって遠く南の果てに去っていった。鶴見山麓の別府の湯は、恋の花を咲かせた乙女鶴見岳の激情からほとばしる血潮だといわれでいる。古い六国史といわれた史書の一つ「三代実録」に、「貞親九年二月二十六日、豊後国鶴見山の嶺に従五位上火男(ほのお)神、従五位下火売(ほのめ)神あり、山頂に三つの池あり、一池は泥水で色は青、一池は黒、一池は赤。去る正月二十日、池震動し、その声笛の如し、磐石は飛乱し、石の大きさは一丈四方、小石といえどもの如し、昼なお暗く、蒸気は雲のように、夜も炎々と火勢盛んなり。砂泥は、雪のように散り数里さきに積る。池の温泉は、沸騰して河流となり、往還は、湯水で不通となる。魚の死数一千万、その震動三日を経ぬ」とあっていまから1100年前の爆発惨状を思わせている。もどる  豊後の山に戻る

猪鹿狼(いから)寺の由来記 「猪鹿狼寺伝記」や「肥後国志」(豊後直入郡の項)によると、建久三(1192)年、源頼朝が、富士の据野で巻狩りを行なうにあたって、随将の梶原景時、仁田忠常を肥後の阿蘇大宮司に遣わし、狩りの古式を学ぱせた。二人の武将は、試みに九重山麓で、数多くの猪や鹿を無為に殺したので、その首を集めて、供養したのが寺の名のはじまりだとある。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)もどる  豊後の山に戻る

由布岳   (ガイドブックおおいた 大分県観光協会編纂 1966年、より)

湯布院の名は、昭和三一年由布院町と湯平村が合併してできたもので、駅と郵便局は由布院とかく。その由布院盆地というのは、東に標高一五八三・五米の由布岳を盟主にして北西に伽藍岳、雛戸山、立石山、飛岳、福万山、野稲岳。東南に倉木山、城ケ岳、高尾山などの山々にかこまれた東西一二粁、南北八粁の高原性盆地で、遠いむかしは大きな山上湖だったとされている。伝説には宇奈岐日女というのが部下の蹴破権現に命じて、湖水の一角をケヤプッていまの美田をつくったというのである。それに関係あるとおもわれる石松の六所宮は宇奈岐日女神社(元県社・式内古杜)ともいい、排水口にあたる川西には蹴裂権現がまつられている。また排水した名残りとみられる湖や湿地帯の多いのも盆地の特徴である。由布院盆地の中央部は湖底の沖積土を開いた美田で、古くから由布院五千石といわれた。

久住長者原伝説(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 古くは朽綱山 九重連峰の山々は、古い記録に〃朽綱山〃といわれていたことは余り知られていない。豊後の人々は九重を「くじゆう」と呼んだが、国境の肥後側では「ここのえ」といった。「豊後国風土記」には「九重、大船、黒岳の三峯、九重山の北に硫黄山あり、常に鳴動して雷の如し、黒姻は天に接して、質のよい硫黄を多く産した」とあるように、久住は九重山と書いた。また硫黄山、三岐山(三俣山)、涌出山(湧蓋山)の三山を含め、総称して、朽綱山といった、とある。いまの久住山と書くようになったのは、明治に入って陸軍が、測量図をはじめてつくったとき名付けたもので、総称で呼ぷときの名を九重と改めたものである。昔、九重連峰を朽網山といったころの「万葉集」(十一巻)の歌がある。朽綱山夕入る雲のたなびかばわれは恋む名君がめをほり(作者不詳)長者原の伝説のなかで、長者の末娘千鳥と桔婚した久多見長者(朽綱長者)の三男は、この九重地方の富豪で、朽綱兵衛泰親という地頭職であったといわれる。もどる  豊後の山に戻る
 近江の国より移り住む この長者原の伝説は、「古事記」「日本書紀」と同じころにできた「豊後国風土記」に見ることができるから、かなり古い説話であろう。いまの長者原一帯も昔は、千町無田といわれていたようで、そこに「朝日長者」という豪族がいて、前千町、後千町という厖大な美田を領有し、百姓を一○○○人、牛馬を一○○○頭使い、豪勢な暮しをしていたという。この朝日長者の祖先は、仲哀天皇(14代)の御代、近江国(滋賞県)浅井郡にいた浅井藤彦という豪族で、神功皇后の新羅征伐に従って、軍功があったので豊後国玖珠郡の領地を賜わったという。それで、藤彦は近江国から一族を連れて、豊後国に移り住み、田野に住んで「田野長者」といわれるほどの裕福な生活をしていた。その藤彦から一七代目が、浅井長治といわれる。「朝日長者」は、浅井長治をもじつた名であつたようだ。この浅井家の代々の当主は、同じように贅沢三味な放蕩をしたため、一度は、田圃が荒れ放題となって没落したらしいが、天平年中(729−49年)に速見郡に訓通(くに)という者が、荒れた田圃を耕して苗を植えたところ、一夜にして、苗が枯れてしまったので、神の崇りを恐れて逃げ帰ったという説話もあり、浅井長治という長者は、このときの訓通の子孫という一説もある。もどる  豊後の山に戻る
 娘と竜神 とにかく朝日長者といわれた長治は、一○○○頭の牛馬を、一○○○人の百姓に与えて、田圃を耕作させたほどの広大な美田の持主であった。豊作のときは、倉庫に入り切れない稲を田圃の端に捨ててしまうようなことをした。また、百姓の働きが悪いといっては、昼問の時間を長くしようと、西の瑞に沈みかけた太陽を、黄金の扇で呼び返すといっだ悪業を平気でやって、百姓を酷使した。ある年、旱魃で大凶作になろうとしたとき、長者は、九重山の東にある黒岳の頂上にあった〃男池〃の竜神に祈願して、「もし竜神が、大雨を降らせるならば、三人の娘のうち一人を差上げましょう」と約束した。長者が家に帰ると、突如大雨が降り、作物は生き返った。長者は、三人の娘に竜神との約束を話し、誰でもいいから一人だけ、竜神の山に行けと命じたが、姉二人は拒否した。だが末娘の千烏は父の言い付けを守って、竜神のもとに行くことになった。千鳥は、日ごろ信仰する観音像と、法華経を懐に入れて、黒岳に登り、男池の淵に立って法華経を唱えた。すると、池の水が沸き上がり、大蛇が現われて、千鳥をひと呑みにしようとしたとき、千鳥の懐から、観音像が飛びだして大蛇の口の中に入った。と、忽ち大蛇の姿はかき消えて、危うく千鳥は難を逃れることができた。その後千鳥は、九重地方の久多見(朽網)長者の三男朽網兵衛泰親に嫁ぎ、幸福な生活を送ったという。もどる  豊後の山に戻る
 長者の没落 長者の長女豊野は、筑後国の豪族星野内蔵に嫁いだが、その翌年長者とその一門は、〃婿もてなし〃といって長者の屋敷内で、破魔弓の行事をした。そのとき長者は、鏡餅を的にして射たところ、餅は忽ち一羽の白烏となって、南西の空に飛ぴ去った。驚いた長者とその一門は、始祖の藤彦が、近江国から勧請した白烏神社に、七日七夜参麓して、祖霊を祀りお告げを待った。すると、神社の社頭に白烏の羽が落ちていて、それに一首の歌が書かれていた。祖霊が告げた歌は、末孫の長者を戒める一首であったが、それでも長者の奢りは改まらず、一○○○人もいた百姓たちは死に絶え、田圃は荒れ放題となって没落していった。長者は、先祖がのこした財宝を牛車に積んで、人夫たちに埋蔵させたあと、露見を恐れて悉く殺し、河原に埋めてしまったため、長者に悪霊がとりつき、原因不明の病いで死んでしまった。千町無田といわれた二○○○町歩の美田もついに、荒野と化し、村人たちば土地の名を田野と呼ぶようになった、と伝えられる。現在の田野にある白烏神社は、もと長者屋敷内にあったが、江戸時代になって遷されたもので、日本武尊を祀るといわれ、境内にある朝日社は、この朝日長者(浅井長治)の霊を祀るという。豊後国に伝わる長者伝説は、同じ大野郡三重町内山にのこる炭焼長者とこの朝日長者が代表的なものだがこの伝説と類似した説話は、ほぼ全国的にまたがっている。しかし、朝日長者という人はこの地方の郡司で浅井長治だとする説話はここだけである。もどる  豊後の山に戻る 九州の白鳥(神社)地名へ

祖母山(嫗岳)  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)    肥後の山にもどる           修験道文化と神楽へもどる    山への旅(15)へもどる

 神武天皇の祖母(豊玉姫命)を祀る 祖母山の神を嫗岳大明神(「和漢三才図会」八○巻に「社領八十石」とある)という。いまも祖母山頂の上宮(大分県、宮崎県側各一祠を比盗_社という)と神原下宮(健男霜凝日子たけおしもごりひこ神社)に祭祀されている。下宮健男社の祭神は、鵜戸の窟の神鵜驚草葺不合尊の第一皇子(彦五瀬命)を嫗岳大明神といい、大神氏(おおみわ氏ともいう)の祖とする説(「九州治乱記」)もあるが、第四皇子神武天皇の祖母、豊玉姫命を祭るという祖母説が、山名起源になっているようだ。だが嫗岳のご神体説話は、豊後国の豪族「緒方氏」、さらに緒方氏の始祖「豊後大神氏」(蘇我馬子の命で、豊後宇佐に下り応神天皇を宇佐八幡神に仕立てた大神比義で知られる)の祖流伝承説、またさらに大神氏の出自説にある大和大三輪山のシャーマンだった大和・大神氏の守護神大物主神と勢夜陀多々良比売、あるいは倭迹々日百襲姫との「神婚説話」を伝える「記紀」の「箸墓の伝説」などといった神代説にまで発展している。もどる  豊後の山に戻る
蛇体の神と娘が交わる 嫗岳伝説というのは、実は嫗岳大明神のご神体、つまり蛇体の神と人間の娘が交わり子を産む「神婚説話」があって、その子惟基が大神氏を名乗り、さらに緒方氏の祖となるという筋書きは、前述の「記紀」の神婚説話と余りにも類似し過ぎている。八幡信仰史で著名な中野幡能氏は、宇佐の土着豪族宇佐の君に追われた大神氏の一部が、豊後国の中南部に移り、勢力を張って独自性を示すために大和の大三輸伝説を改編、嫗岳大明神あるいは高千穂の神に結びつけた、と述べている。嫗岳伝説の代表作といわれる「平家物語」八巻、緒環(おだまき)の章に登場する豊後大神氏の後裔、緒方惟栄(惟基五代の孫で維義、惟能とも書く)のことを伝える一文を次に紹介しておこう。昔、豊後国大野郡緒方郷にいた緒方三郎維義という者は、おそろしき者の末裔なり。と申すは、当時、豊後国の或る片山里に住む夫をもたない独り身の娘がいた。ところがいつの頃からか、素性の知れぬ不思議な男が夜な夜な娘の許に通いつめ、やがて、娘の体は普通ではなくなったため、その母が不審におもい娘に問い尋ねると、娘は、男の来るときにはわたしの目にも見えるが、帰るときは何も見えないと語った。そこで母は、娘に男が帰るとき針で「緒環」(苧環)を通して、そっと男の襟に刺しなさいと、と教えた。娘は、その夜、母の教えどおり、男の襟に針を刺した。男が何も知らずに帰ったあとをたどると、日向国の境に聳える嫗岳の大いなる岩屋のなかに糸が続いていた。岩屋の奥では、一種異様な唸る声がしていたので、岩屋の前に立った娘は「一度、お姿をお見せ下さい」と言うと、奥から「わしは人間ではない、見ないほうがよいだろう」と、答えが返ってきた。それでも娘は見たいと、重ねて求めると、奥からはじめて姿を見せた。それは、嫗岳の主と思われる巨大な大蛇(説では伏したる長さ一四丈五尺と書く)で、針が喉笛に突き刺さっていた。苦しい息の中から大蛇は、「お前の孕める子は男なるぞ、弓矢打物を取らせば、九州九国二島に並ぷ者はあるまい」と告げた。間もなく娘は、大蛇の予言どおり男子を産んだ。男の子は偉丈夫で、母方の祖父大太夫は、自分の名に困み大太(一説は大弥太)と名づけた。大太は、夏冬にも手足にアカギレができたので、〃アカギレ大太〃と呼ぱれた。死んだ大蛇は、高千穂大明神だったという(「大神氏系図」では嫗岳大明神と述べる)。もどる  豊後の山に戻る
 大蛇の申し子 「九州治乱記」では、人皇六○代醍醐天皇延喜一七(917)年、勅願をうけた藤原仲平卿(左兵衛督)が、筑前国大宰府安楽寺の建立勅使となって西下し、翌々年完成させた恩賞で中納言に任じられた(枇杷左大臣と号す)。仲平卿が、所領の豊後国にいたとき、一人娘の姫のもとに夜な夜な通いくる男がいて、姫はその男の種を李み、まもなく男の子を産み落した。この子は嫗岳の大蛇の申し子で、嫗岳大明神のご神使だという。七歳で元服し、大太郎惟基と名乗り、まこと弓矢打物を取らせば、九国二島に肩を並べる者がなかった。これより大神氏を称したという。この大太郎には、のち五人の子供ができ、嫡男を三田井太郎政次、二男緒方三郎惟秀、三男植田七郎惟衡、四男大野八郎基平、五男三江九郎とある。つまり緒方惟栄(推義)は惟基五代の孫だという。また「大神氏系図」によると、藤原伊周が九州流罪になったとき、その娘も一緒に下向し、娘は豊後国(一説では日向国)の塩田大太夫なる人物の下に預けられた。この娘のところに通ったのが、嫗岳大明神という蛇神で、生まれた子に大明神が大神という姓と、大太という名をつけた。これが大神惟基だとしている。この「系図」では、蛇神を嫗岳大明神とするが、さきの「平家物語」では高千穂大明神だとし、母(娘)の名は不詳というが、「大神氏系図」は藤原伊周の娘とし、また「治乱記」では、藤原仲平の娘、「源平盛衰記」は、塩田大太夫の娘だとして諸説まちまちである。祖母山のご神体が大蛇で、緒方氏はその子孫だとする説は、いささか眉つぱものだが、豊後国の諸伝説には「豊後国風土記」にもあるように、竜蛇の俗説が多いのも、高竣な山岳の国柄ゆえだ、と「太宰管内志」は述べる。また「緒方氏系図」の始祖のほうは、偽作らしいとも書いている。「三代実録」にいう「緒方氏系図」では、仁和二(886)年二月に、肥前国の肥前介から、豊後国に転任になった豊後介、大神朝臣良臣、その子庶幾らが大野郡の大領となり、これを大太夫と称したという。大太夫の大は、大神の大の字をあてたものとある。もどる  豊後の山に戻る
 「神婚説」さまざま 前記の各説話にある蛇神と交わり、子を産む神婚説は、「古事記」の大和三輪山の神(大物主神は大和御諸の蛇体神)が、勢夜陀多々良比売に夜這いして、神武天皇の妃、比売多多良伊須気余理毘売を生む伝説、また「日本書紀」では倭迹々日百襲姫(孝霊天皇の皇女)の許に夜通った大物主神が、正体をみせるよう姫に要求されて小蛇の姿に現じたという「箸墓伝説」、さらに大和三輪山のシャーマン大神氏の祖、大田々根子が活玉依毘売の許に通ったという「糸巻き式」の伝説などがあって、大蛇がご神体だったという嫗岳大明神の伝説と、すべてが共通、類似している。なおまた、伝説「神婚説話」は、祖母山山頂の比口羊神社上宮(祭神豊玉姫命)の下宮、健男霜凝日子神社(白雉二(651)年創建、祭神彦五瀬命)に伝わるほか同じく神原から、八丁越に向う途中にある扇岳の山麓穴森神社にも伝えられている。説話の内容は「平家物語」八巻、「源平盛衰記」三三巻と変らないが、娘の名を「花本姫」(華本とも書く)とも「花の御本」、あるいは土地の古老が伝えるところでは、「緒方の乙姫」ともいう(「神社考」五巻)。もどる  豊後の山に戻る     太宰府−九国国司人事年表

 

東北アジアの中の姥岳伝承 鳥居博士の姥岳伝承研究   (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

 さて、以上述べてきたように、『平家物語』にはじめて現れた特異な民族伝承である姥岳説話は、時期的には鎌倉時代初期の記載ですが、内容的には極めて本源的な古い要素を含んでいるようです。これまで一般的にいわれているように、姥岳伝承が、はたして大和の三輪山説話の西への影響によって伝わったものかどうか検討を要すると思われます。特に、その伝承に極めて密接不可分の関係にある大神氏の源流が謎に包まれていることも一層、その感を深くするものです。

 この問題については、渡辺澄夫氏もその著作『緒方三郎惟栄』(一九八一年)の中で、豊後大神氏の出自および姥岳伝承などに関して考察されました。同氏はその巻頭で、「まず、緒方惟栄を含めた豊後大神氏の出自(生まれた祖先)さえはっきりしない」と述べています。さらに、これまで一般的に説かれているように、大和の大三輪神社に奉祀した大神氏が、同社の神婚神社をこの豊後に移し、それが姥岳伝説となったのであろうということについても、「では、その根拠は、何によるのであろうか。以上の姥岳伝説では、大和大神氏がこれにかかわる必然性はなく、また姥岳大明神の化身である大蛇がその子に『大神』の姓を与えた理由もわからないのである」と述べています。

 問題は、その両者の説話内容において、いずれがより原初的な伝承であるかということです。この点、鳥居龍蔵博士の東アジア調査にもとづく研究は多くのことを示唆してくれます。博士が、明治四十四年の実地調査の際、朝鮮半島北東部、現在の朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道で採録した民族伝承が、『有史以前の日本』(大正十四(一九二五)年)の中に二例記載されており、しかも、その伝承が鳥居博士も指摘されているように、三輪山説話に類似しているのです。ここでは、博士がこの地方では最も古い形式のものであるとしている、広積寺の伝承の内容について記し、さらに三輪山、姥岳両説話との比較検討をしてみます。

 それは次のような説話です。

 「昔し〈此虞に廣積寺と云ふ大寺があつて、其の寺に一疋の大きな蜘妹が住んで居つた。寺の和尚は大層此の蜘妹を愛して毎日彼に御飯の残りを輿へて居つたのである。ところが蜘妹は段々と大きく成り、終には美しき乙女と攣じたのであるが、此の乙女は、何時しか懐胎し、日を経るに従つて、漸く人目につく様になつた。そこで和尚は大に驚き、乙女に向つて、如何してその様になつたかを尋ねたが、乙女は和尚に談つて云ふには、毎夜〈所も知らぬ名も知らぬ或る美しい青年が、妾の許へ通ひ来たのであるが、その情にほだされて遂に同衾するに至り、斯くも身重になつたのである。そして其の男は、何時も晩に来て、夜の明けぬ中に帰つて少しもその姿を見せないのであると。そこで和尚は、それならば、針に絲をつけて置き再びその男が来たならば、男の着物の何虞かに、その針を着けて男の帰つた後でその絲を縁りに尋ねて見よ、然らばその男の住所も知れ又その男が何んであるかゞ解るであらうと教へた。その晩になると常の如くに彼の男が来たから乙女は和尚の教へられた如くに、その男の知らぬやうに、絲の付けてある針を男の衣に指しておいたが、彼の男はそれとも知らずに絲を引きながら出て往つた。依つて乙女はその絲をたどつて行つて見ると、彼の男は、寺の背の雪峰山と云ふ山の中の池に入つたのである。此に於て始めてその男の住居も解り、又彼の人でないことも解つた。即ち彼の男といふのは、此の池の中に居る龍であつたことを知るに至つた。ところで乙女は満十ケ月の後に美しい男の兒を挙げた。そして此の兒は成長して二十歳の時、大国支那に行つて、天子となつたのである、即ち、明の太祖がそれである〉

鳥居博士があげている、もう一っの説話もほとんど同内容です。これらの民族伝承と、これまで述べてきた祖母山を中心とした東九州山地の姥岳伝承とを対比させるとき、この両国の民族伝承が全く同一系統の説話であるということがわかります。もどる  豊後の山に戻る