肥後の山と歴史

阿蘇神話の神々の系譜
草部吉見神社
阿蘇氏の肥後における版図拡大の構図
満珠干珠
 蹴裂伝説
羽衣(天女)伝説
ナマズ伝承と阿蘇神社
火焚き神事
鬼八
火振り神事
有明海・不知火海の豪族たち
再生を意味するシラ・ミツハ

火の国の拡がり

異本阿蘇氏系図:多氏の系譜

麻打ちのタブーに隠された軌跡

熊本県の製鉄遺跡

 

木葉山 稲佐廃寺跡・熊野座神社の御神像

草部(日下部)の民山部の民

宇土の額田部君
日羅(にちら)芦北国造

益城、矢部の山々
飯田山 常楽寺 甲佐岳 金海山釈迦院 


神々の系譜へ

九州の古寺一覧へ

九州の人々へ

九州に残る英雄伝説
宗教者(聖人)伝
九州の白鳥(神社)地名

九州の山と伝説に戻る


阿蘇神話の神々の系譜(阿蘇神社に祀られる12神)新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

 阿蘇神話によると、草部吉見神は神武天皇によって先に九州へ派遣されていた日子八井耳命のことで、健磐龍命とは伯父甥の関係になるとしている。井上辰雄筑波大教授は、草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。「日下部」というのは、雄略天皇の后妃※の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだという。つまり、阿蘇からの主要幹線は、すべて日下部におさえられていた。阿蘇氏とすれば、この日下部と同族的な結合を強めることなしには、その勢力を伸ばすことはできなかった。健磐龍命が草部吉見の姫をめとったとするのも、恐らく南郷谷の勢力との協調を物語る伝承と解してよかろう、というのが井上説だ。いずれにしても、阿蘇氏系図をみると、外来者である征服氏族が、婚姻を通して、一歩一歩一代ごとに先住集団の方に引き寄せられていくという〃逆転の現象〃がここにもみられて、興味深い。

もどる   肥後の山々に戻る    修験道文化と神楽へもどる

 

草部吉見社   阿蘇神社 阿蘇神社第91代宮司 阿蘇惟之編 学生社2007年より      神々の系譜へもどる  日向國都萬神社(草壁、龍宮信仰の共通性)へ

阿蘇郡高森町草部一帯を含む阿蘇外輪山東南部と宮崎県高千穂町は、それぞれ承平年間(九三一〜九三八) に成立した「和名類聚鈔」記載の肥後国阿蘇郡知保郷と日向国臼杵那智保郷に比定されているが、両郷は同一地域をさすという説もある。神話の主人公は草部吉見社の祭神・国龍命である。寛政十一年(一七九九) に吉見神社の社司、田上石見草部吉見が著した「草部諺記」を紹介しよう。

 神武天皇の第三子、彦八井耳命の子、国龍命(阿蘇十二神の系譜では国龍命は彦八井耳命とする)は日向の国から肥後の国へやってくると、菅萱が茂る清水で衣やはばきをそそいだ。そそぐという字は「雪ぐ」と書くので、この地を雪山と名づけたが、その後、誤って菅山といわれるようになつた。衣を干した場所は懸けほしと伝えられている。

 川走谷の水上に、入り口四間余り、横一二間程の岩屋があり、国龍命はそこを住居としたが、ここは端で陰気である、どこか良い場所はないかと探した。中ほどに行くと、窪地に池(吉の池) があり、気に入ってながめていた。まもなく池水が騒がしくなり、風も荒々しく起こり、大蛇が出てきて、明星のように両眼を赤くし、口からは火炎を吹きながら国龍命を襲った。勇猛な命は剣をとり、大蛇を良い場所におびき出して頭から斬り殺した。丈が二十尋あまりあった大蛇の血が大量に流れ出たところは血の原とよばれている。大蛇を焼いた場所は灰原と名づけられた。

国龍命は杉の枝を逆さに地にさして、「われこの里に住み、国家泰平にして栄えるならば、今炎天の時、七月であるが、この杉、よく根を生じて栄よ」と誓った。杉は生長して、「吉見の逆杉」あるいは「垂杉」とよばれている。大蛇が住んでいた跡の池を埋め、池の穢れた水は東の谷すそ、葦原に流して御殿が造られた。この時に龍宮から加勢があり、御殿は一夜のうちに築かれた。屋根も草屋根、壁も草壁だったので、草部と名づけられた。現在の草部吉見社である。「延書式」によると、大嘗祭の悠紀殿と主基殿は黒木造りであるが、屋根も壁も萱でおおわれ、地には青草を敷き、竹の簀が乗せられた。萱には魔除けの力があると信仰され、厳重な物忌に欠かせなかったことがうかがわれる。

 草部吉見社は七月三十一日の例祭で、神輿がお旅所に御幸する。かつては青萱で屋根と壁を作ったお仮屋「青はぜ」 に神輿を安置していた。「青はぜ」は国龍命の御殿を偲ばせる。阿蘇神社のおんだ祭りでは二ケ所のお旅所を四基の神輿がまわる。お旅所に建つお仮屋の地面は青萱(真薦)が敷きつめてあり、そこに神輿は置かれる。また、二月の節分には萱で作った葦塚に悪霊を封じ込めている。

 


阿蘇氏の肥後における版図拡大の構図  新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

 「記紀神話は、いわば朝廷によって一方的に作られたもの」(野田拓治・県文化課学芸員)といった考え方もあり、元熊本女子大教授の圭室諦成氏(故人)は「局地神話の研究−阿蘇神話の場合」と題し、地方(局地)神話形成と中央権力とのかかわりを論じている。つまり、「神話は中央においても地方においても、支配上の大きな武器であり、支配理念の中核をなしていた」(野田学芸員)というわけで、局地における神々の統一は、その地方での支配の完成であり、勢力の拡大、伸長であった。また地方神話の朝廷神話への系列化は、すなわち地方豪族の朝廷権カヘの服従であり、朝廷にとっては国家の統一を意味したといわれる。確かに、伝承によれば、速瓶玉命の奥方は神功皇后の三韓征伐に勲功をたてられた宇土郡三角町の郡浦(こうのうら)神社の祭神蒲池媛(かまちひめ)とされる一方では、速瓶玉命は小国生まれの雨宮媛とも〃二重結婚〃をなしており、小国町の両神社には、その間に生まれた火宮神、高橋神が祀られている。また上益城郡の甲佐神社には、健磐龍命の第二子という八井耳玉命(速瓶玉命の二子ともいう)が祀られており、健軍神社の創建は、三韓征伐の折、健磐龍命がその地に子供の姿になっておいでになり、戦勝を析ったことが由来となっている。これら健磐龍命を中心とする神々の系譜をみるとき、阿蘇氏の肥後における版図拡大の構図(平安後期以降のことだろうが)がまざまざと浮かんでくる。もどる   肥後の山々に戻る     修験道文化と神楽へもどる


満珠干珠    新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

 「阿蘇には神話や説話の類がいまも生きています」と、阿蘇神社の社家の一人、宮川三友さんは話す。 毎年三月、妃神をめとりに里へと降り立つ年弥(としね)の神が、神婚の儀式(御前(ごぜ)迎え)を阿蘇神社で挙げたあと、初夜≠過ごすのが宮川さん宅であり、宮川さんら社家のグループは、『阿蘇家伝書』などを読む会を持っている。

その宮川さんによれば、『阿蘇家伝書』のなかなどに、『古事記』の海事山幸の物語にある満珠干珠のことがしばしば登場するといい、『隋書倭国伝』に出てくる、「如意宝珠」こそ、その満珠干珠のことではなかったのか、と言う。釣りばりをなくした山幸彦は、わだつみ(海)の宮へと訪ね、そこで海神の娘、豊玉姫をめとり、満珠干珠の玉を手に入れて戻ってくる。そして、潮の満ち引きを自由にコントロールできるこの両珠で、海幸彦をさんざんやっつける。 

『日本書紀』には、神功皇后が三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあるが、阿蘇の神話では、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとなっている。 「この満珠の方は、蒲池媛を祀った宇土半島の郡浦(こうのうら)神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見神社にあったとか。あるいは『阿蘇家伝書』には、この珠を阿蘇山に納めたまふ、とも見え、それは、阿蘇山の玉嶽というところらしいんですが、はて阿蘇の五岳のどこを指すのか。まあ、神話のことですしね…」と宮川さん。  また、阿蘇郡高森町の草部吉見神社由来書には、いまの社殿が建っている辺りは、昔、大蛇のすんでいた池で、それを国龍神が満干の両珠でもって退治し、池を干したと伝わっている。「なんですか、この珠は明治に入って、泥棒に盗まれたそうです」と笑いながらも、「この説話のなかには、無視できない何かがあるような気がします」と話す。 海幸山幸の物語は、もともと、南九州の隼人の伝説だともいわれる。それは、山幸彦の敵役である火照命が「隼人阿多君の祖である」と『古事記』に書かれていることからもうかがうことができる。また、この物語の結びには「いまにいたるまでその溺れるときの種々の態絶えず仕え奉るなり」と『古事記』には書かれていて、隼人の人たちは、大和の宮廷へ出仕して、海幸彦が溺れる様を演じていたのである。  古代における海の民と山の民の覇権争いを、反映しているともいわれるこの海幸山幸にまつわる「満珠干珠」の説話が、南九州文化圏と北九州文化圏のはざまである九州中央山地の阿蘇地方に残っていると思うとなかなかに興味をそそられるのだ。

● 蒲池媛 阿蘇国造神社(一の宮町手野)の主神 速瓶玉命(はやみたまのみこと)の妃神とされ、宇土半島の三角にある郡浦6は、三韓征伐の際の手柄によって授けられたものだとされる。
※ 『隋書倭国伝』にある阿蘇山と如意宝珠の記事:『有阿蘇山 其石 無故火接天者 俗以為異 因行祭祀 有如意宝珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也』      もどる   肥後の山々に戻る

 


蹴裂伝説  新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 
阿蘇の火口原は満々と水をたたえた湖沼だった。ミコトはこれを干して、平野にしようと考えた。外輪山の一番低い二重峠を蹴ってみたが、堅固な上、峠が二つもあって壊れなかった。そこで火口瀬である立野を蹴破って水を流し、やっと平地をつくることに成功した。阿蘇神話が説く、あまりにも有名な健磐龍命の国造りの話だが、『肥後国誌』の伝えるところではもう一つの〃蹴裂伝説〃がある。鹿本郡を中心として玉名郡や菊池郡に及ぷ広大な地域はかつて水の底で茂賀の浦と称した。健磐龍命は狩りをして山鹿にやってきて、茂賀の浦に海水がたたえられているのを見て、鍋田の岩を蹴破って海へと流した。山鹿市の大宮神社の「社記」には、阿蘇大明神(健磐龍命)を勧請したとなっており、潮の水を有明海に流したと伝えられる水路が今の菊池川だという。菊池川の流域は肥後でも有名な砂鉄地帯だが、「こうした蹴裂伝説が阿蘇国造の祖神であるタケイワタツ命にまつわっていることは、阿蘇君の性格、ひいてはその同族である多氏の性格をつかむ手がかりになる」と水俣出身の民俗学者谷川健一氏は著書『青銅の神の足跡』の中に書いている。谷川氏によれば、このような〃蹴裂伝説〃は全国各地にあるらしい。例えば長野県安曇(あずみ)地方には、諏訪大明神の化身である龍が自分の氏子を繁栄させようとして巨岩を突き破り、潮の水を落として、田地を開いたという伝説が残っている。また富士川の上流にある甲斐の鰍沢(かじかさわ)には蹴裂神社があり、昔、この辺りが湖水であったときに、ある神が山を蹴破り、水をからして土地を開いたと伝えられている。さらには『日本書紀』の神功皇后の項に、次のような記事も見られる。現在、福岡市内を流れる郡珂川の水を田に引こうとしてかんがい用の溝を掘ったが、大岩がふさがっていて溝を通すことができない。神功皇后は武内宿弥を呼ぴつけ、剣と鏡を神前にささげて析らせたところ雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水が流れるようになった。そこで、その溝を裂田溝(たくたのうなで)と称した、というものである。谷川氏は「ここにいう雷神とは、鍛冶神または金属神の別称でもあるから、おそらく鉄器をもって大岩を壊したことを指すのでろう」と言う。そして、「古事記」によれば、火君、阿蘇君、大分君、それに科野君などは、神八井耳命の末裔である「多氏」の同族とされるが、これら多氏は「朝鮮半島からの渡来人」であり、「金属精錬の技術をもち、それによって低湿地帯を開拓する技術にもまた長じていた」と谷川氏は大胆に論じてみせている。そういえば、阿蘇山のすぐふもとで発掘された弥生後期の下山西遺跡(阿蘇町乙姫)の住居跡からは、鉄鏃や鉄斧などかなりの数の鉄器が出てきた。 もどる  肥後の山々に戻る    蹴裂伝説(天日槍とその妻)へ

羽衣(天女)伝説 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 
田鶴原神社の縁起によると、昔、泉があり、新彦命が通りかかったら、三人の天女が舞い降り、水浴びをしていた。ふといたずら心を起こした新彦命は松の枝に脱ぎ捨ててあった羽衣の一つを隠した。天女のうち二人はすぐに天に昇ったが、一人の天女は羽衣がないばかりに新彦命の嫁となり、男女二人の子をなした。ある日子守り女が「おまえの母の羽衣は、せんだこづみの下にある・・・」と歌っているのを天女が耳にし、急いで手野のせんだこづみの下を探してみると、歌の通り羽衣が隠されていた。天女は新彦命と二人の子を残し、天に舞い戻った。この天女との間に生まれた男の子が若彦命。 もどる  肥後の山々に戻る

火焚き神事 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 阿蘇の早い秋の訪れは、阿蘇町役犬原の霜宮で八月十九日に始まる「火焚き神事」によって告げられる。社記には、健磐龍命が阿蘇に下ったとき、寒霜早降りて五穀が熟さなかったので、民人の苦しむことを憂え、天津神を祀り、寒霜の順降を析ったことに起源するとなつている。六十日間が火焚き期間とされ、本殿から東一町ばかり離れた御火焚き殿に移られた御神体は、割り竹を張った天井に安置され、その下の土間で乙女が絶え間なく火を焚き続ける。火焚き乙女は十五歳末満の少女。この忌み小屋は乙女以外にとっては禁足の地だ。ただ付添人が食事の世話をしたり、乙女の仮眠中、火勢の様子を外から見守るに過ぎなかった。御神体はずっしりと重たい石ぴつの中に納まっている。火焚きのほぼなかばの三十二日目、神主が御神体を真綿で包む「ぬくめ入れ」の儀式があるが、なかをのぞくことは神主とて許されていない。ところが、阿蘇町文化財保護委員長の大和勇さんが、同町小倉の阿部家に伝わる圧屋文書を調べていたところ、面白い個所に出含った。天保十年(1839)、この村を訪れた幕府の巡見使に霜宮の起源について問われた渡辺子八郎という人物が「北斗七星を祀ったのが本当らしい」と答えているのだ。確かに調べてみると、霜宮の天津神は七柱祀られており、祭壇にも七本の御幣が立てられ、お供え物も七つずつ。「御神体はイン石らしいという人もいましてね」と大和さんは話す。この北斗信仰は、中国では天帝の乗り物、一切の人民の生死禍福をつかさどる神とされ、陰陽五行思想の中核をなすものだが、日本の天皇家でもいち早くこの思想を取り入れている。なぜなら、この北斗思想ほど天皇家の絶対化に都合のいいものはなかったわけで、古事記に登場する神世の七代の神も実は北斗七星の雌雄の神に対応させたものだ、と説く学者もいる。とすれば、霜宮に祭られている七つ神も天皇家の斎く神々を阿蘇氏が勧請したのではなかったのか、といった考えも浮かんでこよう。火焚きの最終日の十月十六日の朝には「乙女上げ」を行い、火をとめ、その晩に御神体は本殿に帰られるが、その季節は北斗七星が西北の空にもっとも低くかかり、人の世に触れるばかりに近づくころである。ともあれ、宮中で深く信仰された北斗信仰がこの地に残っていることは、かなり早い時期から朝廷との関係を強めた阿蘇君の性格を反映しているように思える。しかし、土地の人々にとっては「霜害は健磐龍命に首、手足を切られた鬼八法師の遺恨のなせるわざ」というストーリーがずっと親しめ、おさまりがよいらしく、「なぜ、火であたためるかって。それは鬼八法師が悪さをしないようにキンタマをぬくめてやるとタイ」と古老の一人は健康そうに笑いとばした。もどる  肥後の山々に戻る

鬼八 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 阿蘇の民話に登場する鬼八は、いわゆる文化人類学でいうトリックスターではなかろうか。トリックスターとは、神話や民話に出てくるいたずらもののことだが、その手に負えない悪さを通じ、地上に善をもたらすといった意味を含んでいるらしい。昔々、鬼八は山野を自由に駆け回って狩りを生業としていた異族の首魁であったが、健磐龍命がやってきたことで、矢取りでこきつかわれる従者の身となった。ある日、命はドンベン塚(往生岳)に腰をかけて、的石に向かって百本の矢を射た。そのたびに鬼八は矢を取りに行かねばならず、くたぴれ果てて、百本目の矢は足の指に挟んで返した。激怒した命をみて、鬼八は根子岳をけとばして南へ逃げた。途中で屁を八つしたところが矢部である。結局、捕らえられ、首をはねられたが、首はすぐに元通りになってしまう。そこで命は鬼八の体をバラバラにして別々のところに埋めた。しかし首だけは天に舞い上がった。その恨みによって阿蘇には早霜が降りるようになり、霜宮を建立して鬼八の霊を祀ることになった。この鬼八伝説は、日向の高千穂地方にも語り継がれており、そこでは足の速さを物語るように「走健、はしりたける」とも呼ばれる。もどる   肥後の山々に戻る

火振り神事その1 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より
 
健磐龍命が初めて阿蘇の地へ来て、最初の住所とされて御幣をたてられた跡が幣立宮(蘇陽町)の起源とされ、阿蘇津姫と結婚され、人々が松明をかかげて嫁入りを迎えたことを伝えているのが、阿蘇神社の火振り神事、新婚の住まいとされた跡が男成(おとこなり)神社、媛がお産された時、人目をさけるため命が一晩で立てられた衝立が夜峰山という具合です。

火振り神事その2 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 柳田国男によれば、死者の霊魂は山岳に行くが、子孫から追善供養されることによって次第に清まり、祖神になるという。そして山中にいることから山の神といわれるこの祖神は、春先には里に下って田の神となり、収穫の終わった秋にまた山へかえって山の神になるという。その祖神を里に迎え、春の穀霊であろう「妃神」との神婚式を演出する儀式が「田作り祭」における”御前迎え”である。
 阿蘇神社に祭られている12神のうち、7神は草部の神々である。阿蘇に春を招く幻想的な火の祭典”火振り神事”も実は、草部吉見神とその妃の結婚を祝すものであり、この春祭り「田作り祭」の期間、健磐龍命は本殿を明け渡し神楽殿で過ごす。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族{本姓、山部※:宮司の宮川氏によれば、神武天皇の第一皇子、日子八井耳命(草部吉見神)が九州に派遣される前に住んでいたところが、大和国の山辺郷で、山部姓もそこからきているという}が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。

 

もどる  肥後の山々に戻る

 

ナマズ伝承と阿蘇神社 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 
阿蘇神社の社家の人々は、いまなおナマズを食べないといわれる。ナマズは阿蘇のカルデラが湖であったころの主であり、阿蘇大明神の使いとされてきた。
 上益城郡嘉島町鯰は、阿蘇大明神(健磐龍命)が外輪山を蹴り破って、湖を干したとき主のナマズが流れついたところで、その骨を調べたところ六荷もあったので、そこを六嘉といった。この嘉島町の隣、甲佐の地には早くから阿蘇明神が勧進されており、古くからこの一帯が阿蘇氏の勢力範囲にあったことと無関係ではないようである。
 菊池方面から阿蘇の二重峠への道筋である鞍岳の麓の村落、菊池郡旭志村姫井の乙姫神社には、ナマズの石像が祀られている。この社は、阿蘇町乙姫の乙姫神社と姉妹関係にあるようだが、土地の古老によれば、乙姫がナマズに助けられたため、この地区でもナマズを食べないとのことである。
 白川流域の熊本市小島町御坊山には阿蘇大明神が祀られているが、洪水の時おみこしを運んできたのがナマズとされ、ここの人はナマズを食べない。八代市豊原の遥拝宮にはナマズの絵馬がいっぱいかかっており、ここの祭神も阿蘇大明神である。旭志村のとなりの泗水町の三万田遺跡からは、ナマズの土偶らしいものが発見されている。
 ナマズ伝承を調べている元山鹿市立博物館長の原口長之さんによれば、県内あちこちにナマズを祀った神社があり、それらはいずれも阿蘇神社と関係が深いという。原口さんは「阿蘇氏の一族はナマズをト−テムとする種族ではなかったのか」と想像をめぐらせる。
 『隋書倭国伝』と『魏志倭人伝』の間に当たる『後漢書倭伝』には、「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国となる」のくだりがあり、注釈によると「魚是」はナマズの意味だとされる。民俗学の谷川健一氏も「この東魚是人はナマズをトーテムとする人種と解することが出来る」としてこの記事に注目。「それらの住む国がどこであるか不明とされているが、強いてそれをわが列島の中に求めるとするならば、九州の阿蘇山の周辺をおいて他にはない」と古代史ノオト』のなかで述べている。もどる  肥後の山々に戻る   肥前の山々にもどる

 

阿蘇の地主神と下野の狩    阿蘇一の宮町史 「神々と祭りの姿、阿蘇神社と国造神社を中心に」  佐藤征子著 1998年より

阿蘇北宮(国造神社)が祀られる手野村は往昔、片角(かたすみ)村と呼ばれていた。それは北宮の神庫に八俣の鹿の片角が奉納されていたことに因むという(もう一方の片角は朝廷に献上されたという)。

【下野狩由来紀】

『(阿蘇大明神が阿蘇谷の湖を干して、陸地にしようとして立野の数鹿流“すがる”を蹴ると水が引いて人里となったが、)其の時湖の底に大魚ふしたりけり。大明神、是はなにものかと尋ねると、是は大明神の御ためには六代前の姥也とこたへ給う。さては毎年下野の狩りをめされ、シシをとり、御贄にそなえ有るべきよし、かたく御約束ありて、阿蘇の手野へ御やしろを立、北ノ宮といはれさせ給ふ。』

【下野狩旧記抜書】

 国造大明神は龍宮の地主で阿蘇の海に魚の形で住んでいた。阿蘇大明神は海を干して国造大明神を手野のかたすみ(片角)に祀り、贄狩りをして鹿を供える。 もどる  

北宮は『手野北宮片角大明神』

        阿蘇、北宮神社と片隅  http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?latitude=32.97703056&longitude=131.1152750

        菊池、北宮神社と片角  http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?latitude=32.97650000&longitude=130.8194083

 

動物先祖伝説  火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より     肥前の山々にもどる  肥後の山々に戻る

●鯰

        それから阿蘇山について申しますと、『肥後国誌』に、上益城郡に鯰手永という所があると記されています。熊本市の東南に当たる今の嘉島町付近です。この伝説はよく御存じだと思いますが、阿蘇の大神が数鹿流ケ滝を蹴り通して湖水を流した時、それが今の白川になっているのですが、その時に大きな鯰が流れだした。湖の主の鯰が流れ出して嘉島村に止まったので鯰村という、その鯰を切ったけどそれが六荷あつたから六嘉という、という説がありますが、『後漢書倭伝』の中に「会稽の海外に東鯷(とうてい)人あり。分かれて二十余国となる。」とあります。会稽というのは、楊子江の河口の呉か越のあたりです。その海の東の方ですから、倭国の中でも九州のことでしょう。東鯷人の鯷は鯰なんですね。おそらく鯰を自分達の先祖とみなして、この嘉島村の氏子は鯰を今でも食べない。これは鯰を自分の先祖とした人達、つまり東鯷人が会稽の東、ようするに楊子江の東に居たということで、それは当然倭国のしかも六嘉村とか嘉島村あたりと考えられてよいと私は思うのです。

        阿蘇山、魚の目石、そしてこの鯰の話、皆九州の中央部の話なんです。これは中国と倭国が近い関係にあつたことを物語るものではないでしょうか。 

その他:

        福岡県糟屋郡西郷村(福岡県福津市上西郷802) 大森神社氏子:鯰を食べない(太宰管内志)  続日本の地名  谷川健一 岩波新書より    もどる  

 

●永尾(剣)神社 http://www.asahi-net.or.jp/~RD7F-ANB/kumamoto/kumamo5.html  http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/jinjyamonogatari9.html

自分達の先祖は動物であつたという話は世界各国にある。 松合の永尾 (えいのう) という所には永尾神社があり、エイを祀ってあるのは御存じだと思います。不知火海から有明海の方に大きなエイが渡ろうとして力尽きてここで死んだ、それが永尾に祀ってある。永尾はエイの尾、シツポですね。私はその神社の絵馬は見ておりませんが、エイの絵馬が沢山今でも掲げられていると聞いております。その永尾神社は八朔の日に不知火を見る場所なんです。 この永尾神社の氏子はエイを食べない、沖縄にはフカを食べない人が沢山居る。これは自分達の先祖がフカだと考えているからです。 宮古島の支配者の仲宗根豊見親の一門は、今でもフカを食べません。フカの油で何か揚げ物をすると胃が受付ない。吐くというのです。そういうアレルギーがあるのはフカが自分たちの先祖だと思っているからです。 

 地図: http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=323843&l=1303646

●天草のエイ信仰: 朝日新聞社 にほんの里100選 天草市五和町二江地区より

天草下島と通詞大橋で結ばれた通詞島は、周囲約4キロの小島で、かつて唐人通詞(通訳)が住んだと伝わる。島の中央に五和歴史民俗資料館と三天宮(さん・てん・ぐう)があり、弁財天と大黒天、毘沙門天をまつっている。弁財天が島流しにされ、大きなアカエイに乗って島に着いたとの言い伝えから、三天宮のほこらにはエイの姿を彫った大きな絵馬が飾られている。島の人はエイをエイガッチョと呼び、食べないという。
阿蘇の立野にもあった“エイノオ” の地名【合志川芥】

鱝ノ尾平: 明神が阿蘇の湖水を干そうと須軽(スガル)を蹴通した時、大きなエイ(鱝)がここにとどまった。

地図: http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=325314&l=1305849   

●伝承にみられる魚・・・・・・・エイ、フカ(鮫)、ワニ、龍(龍蛇)、大蛇、おこぜ

                                                   もどる


 

有明海・不知火海の豪族たち

火の君   火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より   参考: 肥後地域の古墳の編年  

八代郡の竜北町には姫ノ城古墳、中ノ城とか、そうした前方後円墳が4基並んでいます。 私もみかん山を通ってそこに行ったことがあるのですが、下を見ますと氷川(ひかわ)が流れている。ヒカワとは氷の川と書くのですが、これは何も氷と縁があるわけではないので、おそらく燃える火にちなむ川の名であつたと思われますが、それが八代海にそそいでいる光景を今も見ることが出来るのです。 前方後円墳は、よくいわれますように大和朝廷と関係の深い古墳です。地方の独立した豪族の古墳というよりは、大和朝廷とも関連のある火の君が、盤据した地域の、眼下に八代海を見下ろすような場所に墓を作ったと思われます。 今は干拓されておりますけど、昔はその古墳の真下まで海が迫っていたと考えられる。 そうした光景をまず想定して見ますと、火の君という豪族は天草島を越えてさらに東シナ海のむこうの国々とつながつていた可能性が非常に大きいと思われるわけです。 我々は現代の考えで計りますから、昔はそんな遠い所まで交流がなかったように思いがちですけど、けしてそうじやなくて、八代海、それから宇土半島を隔てて北の方に広がる有明海、この二つの海を中心として、東シナ海を隔てて中国と関連の深かった時代があるのだろうと思うのです。
 楊子江の河口から船出をしてしばらくすると男女群島が見えて、男女群島を過ぎますと五島の福江島の三井楽、今の中国人の難民が時々漂着する三井楽、あのあたりにやって来るそうです。実際に体験した人の話ではきわめて短時間にこれるそうです。当時は遠くの地方と交流がなかったと考えるのは現代人の考え方であって、古代の実情に則したものではないのです。

 そうしたことを考えますと、おそらくこの火の君も中国と関係があつたのではないだろうかと私は想像するわけです。 日本と中国としばらく国交は絶えていましたけど、日本の推古天皇の時に国交を回復しまして、そして使いを出します。それで隋の方でも、日本の国情がある程度分かってくるわけなんです。

 中国は王朝ごとに歴史を書いています。中華思想をもつ漢民族だけでなくて、周辺の蛮族の歴史もちゃんと書いている。その中に東夷伝がある。東夷伝は日本だけでなく朝鮮も東夷なんですが、日本の事も書いてある。 その中に阿蘇山の事が書いてあるのです。ですから阿蘇山を中心としたこの地域は中国にも知れ渡っていると思います。続いてこれは阿蘇山にあるかどうかよくわからないのですけど、とにかく「如意宝珠あり、その色青く大きさ鶏卵の如く、夜は即ち光あり、言う魚の眼精なりと、新羅、百済、皆倭を以って大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使、往来す」。

 ここで面白いのは、宝の玉があつてその色は青い、その大きさは鶏の卵ぐらいあって夜は光る。これには魚の目玉、眼精ということを書いてある。 新羅とか百済は倭には珍しい物が多いということで非常に珍重しているという記事が続いて載っているのですから、おそらく阿蘇と関連した形でその如意宝珠が取り上げられているのではないかと思いますが、しかしそれを切り離して考えることも出来るわけです。

 ところがこの魚の眼精というのは中国の民話に沢山出てくるのです。民俗学者の柳田国男が長崎の魚石というのを書いておりますが、その中に長崎に来た唐人が、ある旧家の土蔵の石垣を見て、青い石があつた、それを是非譲ってくれという。唐人がしきりにそういうので主人は惜しくなって断ってしまう、唐人が帰った後で、その青い石を工人に磨かせた。さいごはそれを二つに割って見たら石の中から赤い小鮒が二匹飛び出して来た。

 そういうような話は、中国に沢山あるのですね。 これと似た話は常陸にも、喜界ケ島や沖永良部島にもあるのですが、『今昔物語』にも筑前の男の話として唐人が珠をしきりにほしがつたという記事がある、これと少し変わった眼精の話は中国にあって、中国はアラビアと交流しておりましたから、アラビアの商人が中国で宝をほしがつたという民話じゃないかと言われているわけであります。

 そういう魚の眼精の話が阿蘇山の記事の次に出て参りますので、これは火の君の支配していた地域にそういう宝物があつたことを暗示しているのではないか。 これは実際に宝物があつたと考える必要はないのですね、それは伝聞ですから。 そういう話が伝わっている。しかし伝わったということは重要なことで、この話は中国から来たというのです。

 この話がすでに隋の時代にこの阿蘇地方にあつたらしいことは非常に重要な手掛りではないかと思うわけです。 つまり中国との交流を示唆する話ではないだろうかと考えております。 もどる  

 

再生を意味するシラ・ミツハ  火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より

不知火という言葉が古代からあつたかどうかは私は疑問です。それでは何かといいますと、不知火と言うのは、シラの火だと思うのです。 お産をシラ不浄といいます。お葬式のことをクロ不浄、それから女の月厄のことをアカ不浄といいます。それでシラ不浄というのはお産のことなんです。生まれることをシラという。沖縄では、産室をシラ屋といいます。産室に焚く火、これをシラ火といいます。新しく生まれ返ることをシラといいます。

みなさん御存知の槍垣の姐の話があります。『袋草紙』によると檜垣の姐は火の国の遊君で年老いて落ちぶれた女であつたわけです。その姐の歌というのは後でこしらえた歌だと私は考えるのですけれども、 「年ふればわが黒髪もしら川のみつはくむまでなりにけるかな」 年を取ってしまうと自分の黒髪も白髪になる。これは白川に懸けているわけです。みつはとは年を取ると歯が抜け落ちて、また小さい歯が出ると昔の人は信じていたのです。 赤ん坊に小さい歯が出ます。あれを瑞歯というのですが、これはみずみずしい歯のことで瑞歯出て来るまでに年を取ってしまったという歌です。 老いた遊君が、自分の若く華やかな時代を偲んで、その頃は黒髪がふさふさとしていたけども、もはや白髪になってしまったという女の嘆きをそこに歌っているのですが、その「みつはくむ」というのが曲者なんです。

それはなぜかというと、これは先程身狭村立主が呉の国からガチョウを二羽連れてきたのを筑紫の水間の君の犬に喰われたと申しました。 筑後に三瀦郡というのがあります。筑紫川の下流です。そこが水間君のいたところです。「みつま」と「みぬま」は同じです。それがまた 「みつは」 とも同じなんです。 「みつはくむ」という言葉に出てくる「みつは」はもともと「みつはめ」のこと、「みつはめ」とは何かというとこれは岡象と書き、水の神、水底に居る水の女神、格好は蛇身です。これが竜神の原形なんです。「みつはのめ」は水中にいる蛇身の女神に奉仕する女たちのこともいうのです。「みつはのめ」は、どういう役割を大和朝廷でやったかと申しますと、皇子が生まれるとき、それに水をかける役目をするのが、このみつはのめなんです。今でいえばウブユをつかわせる役です。ウブユといっても熱い湯でなく、生ぬるい潮水です。 皇子の誕生の時ウブユをつかわせる女は若い女であるとは限らない、お婆さんでもかまわない。それをククリ姫ともいいました。

ククルというのは水に潜ることです。ククリ姫は赤んぼの皇子を水に潜らせる役で 「みつはのめ」 と同じです。 イザナギは妻のイザナミが死んで黄泉国にいったので訪ねていくのですが、自分の愛する妻はもう元の形がなくて溶けてかかっており、ウジがいっぱいついていて、そして蛇がその回りを取り巻いている。 それでびっくり仰天して逃げ、ヨモツヒラ坂まで来て、やれやれと一息ついて、今までの汚れを払い去ろうとミソギをするのです。その時ミソギの仕方を教えたのがククリ姫なんです。

死の汚れを払い除けるククリ姫は菊理姫と呼ばれて加賀の白山神社の神様なんです。 ここで白山が出てくる。白山のシラとは何か、身を浄めて生れかわるのがシラなんです。 だから白山神社に菊理姫を祀ってあるのは深い意味があるのです。 ククリ姫というとミツハノメなんです、ミツハは水間と通じます。  もどる  

 沖縄では以前お産をするときは産室を暗くして夏でも囲炉裏に薪をぼんぼん燃やしたのですが、それをシラ火といっていることは前に申しました。 そのシラヒとシラの火、またはシラヌヒは似ているじやありませんか。 水底の蛇の形をした女神の 「みつはのめ」 は後では竜神になつてしまいます。 中国風の龍の観念がはいると、竜神に置き換えられるけど、もっと古代的に、日本的に考えると、それはそうじやない。水底の蛇神であつた。 竜神の燃やす火、それがシラヒであつた。 其の火は生命復活、再生の火であつた。八朔というと、ちょうど年の替わりの時、いまでも沖縄や奄美では八月を新年としております。 いのちを更新する日だから、その頃に不知火を見た人は、これで年がいよいよあらたまるのだという、自分達の再生の希望をそれにつないで行く、という火ではなかったかと私は空想をたくましくするのです。そして先程言いましたように、筑後川の下流にはみつはのめにつかえる水間君が居るのですから。 そうした人達が居るわけですから、有明海や不知火海(八代海)には当然水に対する信仰があつた。具体的にいえば水中の蛇身の女神(みつはのめ) に対する信仰であり、その女神のあびせた潮水は若がえりの水と思われていた。海上の不思議な火は竜神のかかげる火、つまりシラの火であるという信仰があった。大空から火が降って白髪山に燃え付いたと先程いいましたが、そういう例は沢山あるわけです。  もどる  

 柳田国男は、松に火が懸かる竜燈松伝説の例を沢山あげておりますが、南方熊楠は竜燈についてという論文で、外国の例を沢山書いている。 そうした現象の一つが大空から白髪山についた火だと思われます。要するに海の向うから飛んで来る聖なる火なんです。 その一例が白髪山の話として『風土記逸文』に出てきているのだろうと、私は思うわけです。白髪山のシラもまたシラの火のシラと解釈できると思います。 もどる  

火の国の拡がり  火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より

火の君については、後で井上先生もお話になると思いますが、これは非常に巫女的な性格が強いわけです。 君という言葉は、沖縄ではすべて巫女を指す言葉なんです。檜垣の姐は老いたる遊君といわれましたね。遊君はあそびの君です。この君は遊女がもともと巫女であつたことをあらわしています。 沖縄では宗教組織の中でトップに居るのは国王の奥さんとか、娘さんとかで、聞こえ大君と申します。 そして火の君の同族である阿蘇の君、大分の君、これもみな君がつくわけです。それから芦北の君、これも君ですね。 『筑紫風土記逸文』に筑前と筑後の国境の山にあらぶる神が居て人を害していた。そこで筑紫の君や肥の君が占つて、筑紫の君の先祖にあたる甕依姫を祭司者として祀らせたとあります。 甕依姫というのは玉依姫と同じなのです。魂を人に付ける役、要するにシャーマン、霊媒、これが玉依姫であり甕依姫である。 佐賀市に淀姫神社というのがあります。川のよどに神社が建っております。祭神は女性の淀姫で、そこに鰐がいつも小魚を連れてお参りに来るという文章があるのですが、それをヨタ姫とも、ユタ姫とも書いてある。ユタというのは沖縄や奄美で今でも使われている言葉です。神がかりして占いをする人です。 淀姫神社に行きますと、明治の政治家で、書の達人の副島種臣の筆で肥の国一の宮という額がかかっています。 かならずしも熊本だけが肥の国ではない、ここにも肥の国があつたんだと、私はあそこで分ったわけです。 あとで話していただく木下良先生は、諌早の御出身ですが、不知火は諌早からも見えるそうです。 不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あつたと、折口信夫は言っております。 その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生れかえる火だったと思うのです。  もどる  


異本阿蘇氏系図:多氏の系譜   新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

阿蘇神社に五十七年春、長野県の信越放送からスペシャル番組「我は海の子」の制作スタッフがやってきた。海のない長野県に安曇郡というのがあり、そこにはワタッミ(海洋神)を祖神に祀る穂高神社がある。古代の海人族といわれる安曇族。いったい、どこからこの信州の山奥深く入り込んできたのか。そのルーツをたずねていくうちに、阿蘇神社の健磐龍命に出会ったというわけである。宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、なんと科野(しなの)の国造と阿蘇国造とは「同根」の関係にあるという。というのも、健磐龍命は「武五百建命」の別名であり、その異本系図の説明書には、崇神天皇の代に今の長野県の北部に当たる科野国の国造に任命され、肥後国の阿蘇神社に祀られているとあるからだ。武五百建命の二人の子供のうち兄が速瓶玉命で、阿蘇の地にくだり、同じく崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。肥後国阿蘇郡手野に祀ってある国造神社はこれである。一方の弟の健稲背命は科野国造を賜っている。この弟の系図には、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という長野県の名門へとつながっていく。つまり、この異本系図によると、武五百建命はむしろ科野の地により深い関係があり、「健磐龍命(武五百建命)は阿蘇には来なかった」ともなりかねない。『和名類聚抄』には、長野県の小県郡部の郷名に安宗(阿蘇)というのがあり、大化改新後の信濃国造族といわれた金刺氏、他田氏の祖である多氏は阿蘇氏と同祖であるといわれている。もどる  肥後の山々に戻る


多氏(神八井耳命の子孫)の足跡     多氏の系譜    谷川健一著  日本の地名(岩波新書) 1997年よりもどる              杵島唱曲へもどる

多氏が大分君、阿蘇君などと共に神八井耳命を祖と仰ぐ同族であることは繰り返し述べた。

【古事記】多(意富、大生、)氏の同族: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ひたち)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏

柳田國男は姥が岳の伝承にみられるウバは最初の巫女のことをあらわし、代々の神主の祖神として祀られたものを指すだろうといっている。姥が岳(祖母山)のふもとに大分県竹田市の神原がある。そこに洞穴があって姥岳神が祀られている。近くに穴森社があり祭神は蛇神である。その隣が緒方三郎惟榮の拠点の大野郡緒方町である。緒方町も阿蘇氏の最初の根拠地である熊本県阿蘇郡高森町草部も五ヶ瀬、高千穂、日之影なども祖母山を中心に半径30kmの間に全て収まる。

豊後と肥後の阿蘇と日向の境の地の姥神信仰から発生した姥が岳伝説は、それに大神氏のもたらした三輪山信仰を加え、更に倭の水人の後裔である緒方一族の蛇の鱗の伝承を付け足して、それが多氏一族によって信濃に持ち込まれ、小泉小太郎伝説となった。

 

 “オウ”の地名地    火の国から常陸鹿島へ       もどる          杵島唱曲へもどる           多氏と海人の足跡(PDF)

分布

地名地

出典

内容  

九州

肥後 宇土半島【大岳製鉄遺跡群】 

         大見川 川原製鉄遺跡

地図参照

 

永尾剣神社(海童神:神武天皇の御母神=玉依姫)

大歳宮、大見神社、大口神社、底江神社

郡浦神社

日本海側

出雲國意宇郡

延喜式内及び出雲風士記

玉作湯神社: 櫛明玉神 大己貴命 少毘古那神 五十猛神

布自奈大穴持神社: 大穴持命、鷹(高)大明神

熊野坐神社、山狹神社: 加夫呂伎熊野大神(櫛御気野命)

但馬國出石郡 大生部

 

 

穴見郷戸主 式内 大生部兵主神社(兵庫県豊岡市三宅字大森

大生部兵主神社(兵庫県豊岡市奥野1): 大己貴命、武甕槌神

但馬國朝來郡

 

式内社・伊由神社(大森大明神): 稚産霊命、少彦名命

青倉神社、兵庫県朝来市、青倉山(811m)中腹に鎮座: 和久産果神、少彦名命

若狭國大飯郡

 

大神社: 大飯鍬立大神     靜志神社: 少名毘古名神

越後國三嶋郡

 

多多神社: 神八井耳命

太平洋側

富士川のほとり、大生部の多

【日本書紀・皇極】秦河勝と常世神

虫を常世神として世を惑わした大生部多を葛野の秦造河勝が打った(制裁を加えた)。

富士川を遡った山梨県南巨摩郡中富町飯富

 

以前は“オウ” と呼ばれた地名、甲斐の飫富氏は多氏の末裔

静岡県磐田市

【万葉集】【枕草子】おほの浦

天竜川河口の良港

千葉県袖ヶ浦市飯富

 

神八井耳命をまつる式内社飫富神社(現在の飯富神社)

茨城県行方郡板来村、潮来町大生原大生

【常陸国風土記】 

神八井耳命の子孫、建借間命(伊予国造と同祖)の国栖討伐

やまとたけるの食事を煮炊きする小屋をかまえた所

建借間命の軍勢が、故郷肥前国杵島山の歌『杵島唱曲(きしまのうたぶり)』を7日7夜歌い、賊を油断させいっきに滅ぼした。『あられふる杵島が山を峻しみと、草採りかねて、妹が手を執る』“あられふる”は常陸鹿島の枕詞となっているが、肥前杵島の枕詞でもある。

大炊(飯)の意味をとって、大生の村となずけた。

大生神社の氏子たちは、鹿島神宮はここから移されたものと信じ、大生神社を元鹿島の名でよぶ。

鹿島神宮の代々神職をつとめる東家の文書に、大生神社は南都大生邑(多村)から移されたとある。

大和多神社の神主は多朝臣と肥直となっている。

茨城県那珂郡飯富村(水戸市飯富町)

【和名抄】大井郷→【元禄郷帳】大部村

大井神社はもと仲国造の建借間命を祀っていたが、鹿島神を祀るようになった。

『大日本神名辞書』では、建借馬命は、神八井耳命の後裔

茨城県から福島県にかけての浜通りとよばれる地方における装飾古墳

 

有明海、八代海沿岸の筑後川、菊池川、白川、氷川などの流域の装飾古墳群と酷似する。

伝播者としての多氏の介在

瀬戸内海沿岸

河内国大県郡智識寺、筆頭檀越智識茨田宿禰弓束女

「続日本紀」「姓氏録」「日本書紀」

『日本書紀』宣化天皇元(536)年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

「姓氏録」 茨田宿禰 多朝臣同祖 彦八耳命之後也。 茨田勝ハ呉国王孫皓ノ後、意富加牟枳君より出ず。

讃岐国大内郡白鳥郷

『政事要略』

『朝野群載』

『平安遺文』

承平五年(935)六月十三日の太政官符に弾正少疏大初位下阿蘇公広遠の調を免除する(広遠が三年前に出した解状では、白鳥郷の戸主阿蘇豊成の戸口)とある。天暦五年(951)には左大史正六位上阿蘇宿祢広遠、正暦年間(とくに991〜994)の右少史として阿蘇有隣が見える。

讃岐ではほかにも寛弘元年(1004)の同国大内郡入野郷の戸籍(『平安遺文』)に戸主阿蘇氏宗(姓は不明)、同貞町、同中知など十八名の名前が見える。

伊豫國伊豫郡

国造本紀

【予章記】

「国造本紀」 神八井耳命の子孫、速後上命(はやのちあがりのみこと)、成務天皇の時代に伊予国造に任命

伊予神社(伊予市): 月夜見尊 愛比賣命 神八井耳命 速後上命

伊予神社(松前町): 彦狹嶋命 配祀 愛比賣命 伊予津彦命 伊予津姫命 大日本根子彦太瓊尊、細媛命 速後神命 伊予親王 藤原吉子

伊豫國越智郡

国造本紀

【予章記】

延喜式内

「国造本紀」 軽島豊明(応神)朝御世、物部連同祖大新川命孫乎致命、定賜小市国造

三島大祝家、大山祇神社大宮司、越智直、越智宿禰、河野氏、河野水軍、河野氏配下の村上水軍

大山祇神社(伊予国一の宮): 大山積命、『大三島記文』 仁徳天皇御宇、乎知命が祖神・大山祇命を祀る

大野神社: 大山積命 上津姫命 下津姫命、配祀 大穴牟遲命 少毘古那命

 

● “アズミ”の地名地     西から東へと移動する海人 安曇族               もどる          多氏と海人の物語(PDF) 

本拠地

筑前国糟屋郡阿曇郷

及び博多湾の志賀島

日本海側

米子市安曇(伯耆国会見郡安曇郷)、石川県羽咋市志賀町安津見(奈豆美比盗_社)、糸魚川から南下し、信濃国安曇郡(穂高神社、安曇氏祖神穂高見神)

瀬戸内海

阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江の“アズミ:阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積”地名地

太平洋側

愛知県渥美半島(渥美郡渥美郷)、岐阜県(美濃国厚見郡厚見郷)

 

● 姥が岳伝説           もどる  

嫗岳(祖母山)   豊後、日向

姨捨山  長野県

姥ケ岳   長野県

【平家物語】【大神氏系図】

豊後の嫗岳伝説

豊後(或いは日向)の塩田大太夫の娘の元に通う謎の男

a)その正体を知ろうとして、針に長い糸をつけて男の衣服に刺しておくと、その糸の先は姥岳の岩屋にとどいていた。岩屋の中にいた大蛇が男の正体の嫗岳(高千穂)大明神。生まれた男の子は

偉丈夫で、アカガリ太夫とよばれた。

c)尾方三郎惟義(榮)はアカガリ太夫の子孫で、身に蛇の尾の形と鱗があれば、尾形という。

惟榮の先祖に、あかがり太夫と称せられた大神惟基がいる。惟基は海賊の棟梁として有名な藤原純友の副大将であり、佐伯を根拠地として東九州の水軍を率いた。天慶4年純友が捕らえられたその年に、大神惟基もつかまった。

惟榮は壇ノ浦の戦いのとき宇佐八幡宮に火を放ち、また、義経の九州亡命を船を出して迎え入れようとしたかどで咎めを受け、上州の利根郡に流された。そこで一子惟泰をもうけたが、惟泰は沼田氏を称し、沼田城にいた。その子孫は脇の下に蛇の鱗があったという。

 

【予章記】

伊予にも、河野通清が大蛇と人間の女の間に生まれ、その顔面と両脇に鱗のようなものがあった。緒方三郎惟義も河野通清と同じ時代に活躍した。

河野通清:河野親清の子。伊予権介。瀬戸内海に強大な水軍力を持つ。

河野通信:平安時代末期〜鎌倉時代初期の伊予国武将。河野通清の子。伊予水軍の将。子に通政、通久。出家し観光と号す。一遍の祖父。

 

【魏志倭人伝】

倭の水人は、体に蛇の入墨をしていた。

宗像は胸の部分に、尾形は尻の部分に蛇の入墨をしていたことから起こった名であると金関丈夫は述べている。

対馬の豊玉村の仁位に鎮座するわたづみ神社(安曇磯良の墓と称するもの有)の祀管の長岡家は安曇氏の系統の家柄とされるが、代々身に鱗のある人間が生まれるとの伝承があった。

 

 

長野市篠ノ井塩崎長谷

【和名抄】

更科郡小谷郷⇔小長谷部郷を略し、小谷郷としたもの

長谷寺があり、その裏山に長谷寺山(600m)があった。

この山はもと小長谷山(おはつせやま)と呼ばれており、この山の名から、姨捨山が言われ始めた。

大和国の長谷寺のある長谷は初(泊)瀬の略語で、果つ瀬であり、古代の葬地をさす。

【和名抄】

信濃国小県郡安宗郷(『地名辞書』今の東塩田村、西塩田村、別所村及び富士山村にあたる。総名塩田原ともいう、東塩田に古安曾の地名残る)

塩田はかつての塩田庄で、上田市の南西にあたり、塩田平の全域が含まれる。

その本郷が現在の上田市大字本郷で、そこが信濃国造の所在地に比定される。

信濃国塩田庄は安宗郷の後身とされる。

信濃国造と同族とされる多氏の祖の神八井耳命の子孫に小子部連があり、国造所在地は小県郡・上田市域とほぼ同域と考えられる。

平安末期に成立した小泉庄は上田市に含まれる。

長谷神社

科野国造、小長谷部等の祖、神八井耳命を祀る?

 

【柳田國男 『桃太郎の誕生』(小県郡史余篇)】

a)小県西塩田村の山頂に寺があった。そこに毎夜美しい女が通ってくる。その正体を知ろうとして、針に長い糸をつけて女の衣服に刺しておくと、その糸の先は産川の宿屋にとどいていた。女は大蛇であって、赤子を産んで自分は死んだ。大蛇の産み落とした子供は、

b)下流の泉田村大字小泉の老婆に拾われ育てられ、その名を小泉小太郎と呼ばれた。小太郎は小男であったが、十六の時大変な力を見せた。

c)小太郎の子孫は代々横腹に蛇の斑紋がある。

 

【産川伝説】

産川は塩田平を貫流する千曲川の支流で、15K程の短い川である。

その流域は古代の安宗郷、中世の塩田庄の区域と一致する。

産川にある鞍淵を住処とした大蛇が美女に化身して、僧と交わり子を産み人に見られて大暴風雨を起こして死んだという伝承があり、それが産川の起源とされる。

その蛇の遺骸がこの川の河床に産する蛇骨石となったという伝承を生んでいる。

【生島足島神社】

長野県上田市にあるこの神社は安宗郷に鎮座する式内社

その神社の神職の一族は、かって神社の池の鯉を食べたかどで、体に鱗のあるものが出てきたので、鯉をたべないという。

鎮座当初は多氏、ついで同族の金刺氏、他田氏が社家をつとめた。

この神社は多氏が信濃国造として入国したとき、国府の置かれた地に国魂の神として勧進したものとされる。

【中山太郎】

長野県の南安曇郡穂高町の穂高神社は、海神穂高見命を安曇氏が奉斎した神社。

神官は21日間の水垢離をして、穂高岳に登り蛇を見つけて帰社し、盛大な祭典をいとなむ。そして、氏子にはかならず、脇の下に鱗のあるものが生まれるという伝承がある。

 

 

a) 姥が岳(三輪山)神話

b) 小さ子(桃太郎)伝承

c) 倭の水人の伝承

 

● 和泉式部の足袋                        多氏と海人の物語(PDF)

         肥前杵島郡 杵島山丘陵の飯盛山福泉寺 

         鹿が法水(仏の供茶)を飲んで人の子を産む

         鹿の子だったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。

        養父母は塩田郷(嬉野市塩田町)の大黒丸夫婦

 

 

太宰府−九国国司人事年表                               もどる  


麻打ちのタブーに隠された軌跡    谷川健一著  青銅の神の足跡 小学館ライブラリー 1995年より                     もどる  

『播磨国風土記』の夜は暗い沈黙に閉ざされている。たとえば宍禾郡の川音の村の条に、「天日槍命、この村に宿りまして、勅りたまひしく、『川の音、甚高し』とのりたまいき、故、川音の村といふ」。ここで天日槍の耳につくのは川の流れのかしましい音だ。それが異国の旅人をして安らかな眠りにつかしめなかった。故郷を遠くはなれた人間が自分の寂寥を川の音に語らせているのだ。

また、揖保郡の麻打山の条に、

「昔、但馬の国の人、伊頭志君麻良比、この山に家居しき。二の女、夜、麻を打つに、即て麻を己が胸に置きて死せき。故、麻打山と号く。今に、此の辺りに居る者は、夜に至れば麻を打たず」

 夜、麻を打った女二人が、麻を自分の胸に置いたまま死んでいったというのはなんとも無気味な話だ。炉の炎だけが家族の姿をおぼろげに萱や土の壁に描き出す播州平野の暗い夜の片隅に、この挿話はめばえる。夜、麻を打つというのは、おりから月夜ででもあったのだろうか。しかし農作業がどうしてとつぜんの死につながるのか、そこには何の説明もない。ただ推察されるのは、麻を打ったことが神の怒りに触れたのではないかということだ。その神とはその麻打山に住んでいた伊頭志君麻良比神であろう。彼にとって麻はなぜ禁忌とされるのか。

 また『鉄山必要記事』の中には、金屋子神が麻苧の乱れに足をとられて転んで死んだので、タタラ師は麻苧を禁忌するという伝承が記されている。吉野裕氏は麻(アサ・サ)は砂鉄の意味であるとしている。サまたはソが古代朝鮮語で鉄を指すことからして吉野説には賛成できる。その語源穿鑿は別としても、鉄と麻との間に関係があるらしいことは、香川県善通寺市の大麻山の付近から銅鐸が出土していることからも類推できる。阿波一の宮の大麻比古神社の近傍の鳴門市檜からも銅鐸が出土している。また宮城県白石市にも青麻山がある。青麻山は大刈田山とも呼ばれる。その下を流れる白石川の支流から砂鉄が採れる。

 麻のするどい葉先が神の目を傷つけたという伝承があり、それが目一つの神の由来を物語る説話となっていたことから、鉱山やたたら炉の付近で麻を打つのは禁忌とされていた。それは麻でなく竹でも栗のイガでも胡麻の葉でもよいのだが、とくに麻がここで問題にされたということは、麻が鉄を意味していたためであると思われる。

 ところで、この麻打山は斑鳩村の大字阿曾(現在兵庫県揖保郡太子町)であると井上通泰の『播磨国風土記新考』(以下『新考』と略す)は述べている。また『新考』は、『古事記』開化天皇の条に、息長日子王は針間の阿宗君の祖とあるのを引いて、この息長日子王は、神功皇后の同母弟であり、その母は葛城之高額比売といって、伊頭志君麻良比と同族であることを指摘している。揖保郡には阿宗神社がある。こうしたことから麻打山のアサと阿曾または阿宗のアソとが関連をもっていることが分かる。備中にも阿曾村があり、吉備津神社と緑由ある鋳物師の村であったが、以前は阿宗郷と記されている。アサ、アシ、アソは通音で、もともと朝鮮語で鉄を意味するサに由来すると私は考えている。

 


熊本県の製鉄遺跡                   もどる  

 

阿蘇地方

        阿蘇谷湖に堆積した沼鉄鉱床  http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/limonite.html 

        大雨の後の阿蘇谷氾濫原に堆積する黒色砂状泥 ―――> 写真

遺跡名

所在地

主な時代

主な遺構

主な遺物

調査面積(m2)

調査期間

調査原因

下扇原遺跡

阿蘇郡阿蘇町三久保

弥生

竪穴住居跡

弥生土器、鉄器、べんがら

47878

2000.4〜2001.3

河川改修

小野原遺跡

阿蘇郡阿蘇町狩尾

弥生

(上記と同内容)

(上記と同内容)

(上記と同内容)

(上記と同内容)

(上記と同内容)

西弥護免遺跡

大津町大津字西弥護免

弥生

環濠集落跡

大量300点もの鉄器

 

 

 

 

 

菊池市

        菊池川流域  北宮阿蘇神社前―――>(写真

 

「三ノ岳山麓の西原製鉄遺跡」(玉名郡玉東町

        古墳時代の製鉄遺跡とされています。

 

「小岱山麓」(荒尾市から玉名郡)

        9世紀には生産が始まり、12世紀から13世紀代に生産量がピークに達しています。

        疋野(日置野)長者、炭焼き小五郎伝説

 

「たたら製鉄の里 大見 川原(こうら)製鉄遺跡」(宇土半島) 

http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/koura.html

        大見、大岳、川原(こうら)、大口 ここも“オウ”の地名地のようです。永尾剣神社も近くにある。

        他にも、大田尾、小田良、御輿来、お-だ(網田)、という地名がある。

        また、高良(不知火町高良)、川原(こうら)、郡浦(こうのうら—>“ごーら”ではないか?)などの地名は、産鉄民の移住を意味するのではないか?

多氏の同族・小子部の鍛冶族としての役割  谷川健一著  青銅の神の足跡 小学館ライブラリー 1995年より

 鍛冶屋としての小人の話は世界に広く分布している。小人はかつては非常に器用な鋳金者であると信じられ、ことに鋳刀師としては見事な腕前を持っていたという。北欧の伝説では最も優れた鉱夫は小人であった。おそらく小人は鍛冶技術の専門家であるという言い伝えが古くから流布されていて、小子部連はその名を負った者であろう。

『日本霊異記』の話も中国大陸から将来されたものにちがいない。それは三輪山説話や炭焼小五郎の伝説とても同様である。ただそれを最初に日本の国内で伝播したものたちは、雷=蛇=鍛冶の集団である伊福部氏、あるいは多氏と多氏の同族である小子部ではなかったろうか。これまでみたように雷と蛇とはおなじ神とみなすのが日本のみならず古代世界の考え方であつた。一方、多氏は蛇神にまつわる三輪山型説話をもち、他方、小子部栖軽(すがる)は雷神制圧の名人である。そればかりでなく、多氏と小子部連はともに神八井耳命を祖とする同族である。

        『常陸国風土記』 くれ臥山説話  蛇神=雷神、立(龍)野

        『大和志料』 多神社の若宮、子部神社、雷神を祀る小子部神社(あるいは蜾贏すがる神社とも称する)

        阿蘇郡南阿蘇村大字『立野』、阿蘇郡南阿蘇村『数鹿流すがるの滝』、「建久2年(1191年)、この地で行われた巻狩りは「下野の狩り」と呼ばれ、「富士の巻狩り」の手本となったが、その巻狩りの際、数頭の鹿が逃げ場を失い、渓流に流れ落ちたところからこの名が付いたとも、或いは阿蘇大明神がこの場所を蹴破って阿蘇湖の水を流した時、たくさんの鹿が流れ落ちたことからこの名が付いたとも言われている。」

        南阿蘇村の立野、数鹿流の地名は、多氏の鍛冶神=雷神信仰と関連する地名でもあるかも?

桃実三個 、「手野古器」 木原楯臣 蘇渓温故    新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

        弘化(こうか)元(1844)年手野村(一の宮町手野)の庄屋山部兵助が「古城」とよばれる裏山に隠居をかまえるため開墾中に横穴古墳が発見され、長身の被葬者と鉄製の剣や馬具をはじめとする副葬品の中に、桃実三個が混じっていた。

        古事記のイザナギ、イザナミの物語、イザナギが黄泉の国から逃げ帰る際、追ってきた雷に投げたのが桃の実三個であった。桃の実はイザナギから『意富加牟豆美命』の名を賜っている。阿蘇神社では現在でも桃の実三個を神前に備え毎年6月5日除雷祭が行われている。

         

天保5(1834)年

 

阿蘇山の火砕流                        もどる

四回の火砕流たい積物は、それぞれ阿蘇1、2、3、4と呼ばれ、絶対年代測定のデータは阿蘇1が二十六〜三十六万年前、阿蘇2が十五、六万年前、阿蘇3が十万年前、阿蘇4が八万年前であることを示している。そして噴火と噴火の間には長い休止期があったことが分かつている。

 


 

木葉山(玉名郡玉東町)       ○木葉山、かむろ山、国見山周辺   詳細地図         もどる    肥後の山々に戻る

 ●稲佐(廃寺跡)熊野座神社御神像  熊野座神社

 

現在の木葉山の姿

参考サイト

http://www2.higo.ed.jp/es/konohaes/sekkai.html

http://www8.ocn.ne.jp/~sakamoto/

 

木葉山は石灰岩の山、稲佐の近くには白木村や白木八幡宮(山北八幡宮白山宮)も存在する。

白木は『新羅』となると、木葉山も豊前香春岳と同じように新羅からの渡来人が鉱物資源を探索、採掘した山。

 

製鉄遺跡: 金峰山三ノ岳山麓の西原製鉄遺跡もあり、

 

極めつけは、【神皇正統紀】欽明31年 肥後國菱形池に3歳児(人皇16代誉田八幡麻呂)出現の伝承を持つ、菱形八幡宮地図)まである。

そして、稲佐に伝わる女神の御神像!

 

香春岳の阿曾隈の女神もこのようなお姿だったのではないでしょうか?

香春の神もはじめは女神

 

香春岳と木葉山周辺 地名の類似

鈴麦地名: 香春岳の鈴麦、 木葉山の鈴麦

 

肥後の山々に戻る

 

木葉山周辺の山々(リンク集)

http://yamaoba.web.infoseek.co.jp/menoyama/menoyama.htm

 

 

 

 

 

 

 

もどる    肥後の山々に戻る


日下部の民

@    草部吉見神社

井上辰雄筑波大教授は、草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。「日下部」というのは、雄略天皇の后妃※の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだ【肥後国合志郡擬大領 日下部辰吉 白亀を献ず、三代実録廿九巻※】という(新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年)。

A    阿蘇市吉松神社

 鷹山(往生岳とその北西-南西の山麓一帯のかなり広い範囲、下野の狩り神事を行う原野一帯の一部、御前迎え神事の妃神となる樫の神木をとりに行く場所)の地主神を吉松神といい、神農ともいい、国龍神(草部吉見神ともいう)とされている(阿蘇神社祭祀の研究、村崎真智子著1993年)。

日向出身の髪長媛(仁徳天皇后妃)の皇女、幡梭皇女(はたぴのひめみこ)【古事記では波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)】、 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載がある。

B    日田郡の日下部君等祖、邑阿自  :太宰管内志 伊藤常足著  豊後國三巻 日田郡より

 「風土記」 日田郡靫編郷、欽明天皇の御世、日下部君等祖、邑阿自、靫部に奉仕し、此村に宅を造り、之に住む、斯に因み、靫負村、後人改めて曰く、靫編村云々。「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり《※ 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”との記載もある》。「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々。

C    その他の日下部氏族: 

        日向系皇統と日下部氏の登場

        コノハナサクヤ姫伝承、吾田族と日下部氏

        都萬神社縁起:竜宮信仰と日下部氏

        古代日向伝承の継承者難波連大形(元草香部吉士大形)

 

山部の民  新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より      もどる 

 阿蘇神社のひざ元、一の宮町には山部姓が多い。電話帳で調べてみたら、ざっと百軒近くあった。岩下姓と並んで同町内では一番多い姓のようである。ついでながら、

阿蘇郡内の他の町村を引いてみると、阿蘇町に二十三軒、産山村六軒波野村に四軒の山部姓があり、南郷谷では白水村に六軒、蘇陽町には山部の部の字が異なる山辺姓が二十六軒数えられ、高森町にも山辺姓八軒、山部姓二軒がある。小国郷には山部姓は見当たらない。   

 山部は海部、鵜飼部などとともに朝廷の御贄を貢進するためにもうけられた最も古いタイプの郡民と一般的には説明されるが、そう簡単なものではないらしい。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』には「太古以来の大民族、否、氏族と云ふよりは寧種族と云ふ方、穏当ならんか」とあり、「されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、其の名に隠れしも多く、(略)これを研究する事甚だ難し」と言っている。

 肥後国の山部に関しては、『日本続記』に「益城郡人山稲主白亀を献ず」(宝亀元年=七七〇年)とみえ、益城郡に山部が置かれていたことが分かる、と井上辰雄筑波大教授は著書『火の国』に書いているが、今日、電話帳で見たかぎりでは、益城地方には益城町に山辺姓が四軒、山部姓一軒があるのみだ。また『景行紀』には、景行天皇が葦北の小嶋に泊まったとき、山部阿弭古の祖少左が冷水をすすめようとしたが、島に水がなく、神に祈ったところ、崖から水がわいたといういわゆる「水島」伝説がある。しかし、この芦北・水俣地方にも現在、山部姓を名乗る家はない。

 つまり、「太古以来の大民族」である山部姓はなぜか今日、古代阿蘇君の故地にのみ集中しているというわけだが、阿蘇神社の禰宜、宮川正也さんは「実は社家の宮川一族も本当の姓は山部なんですよ。宮川は神官としての姓です」と驚くべきことを打ち明けた。宮川さんによれば、神武天皇の第一皇子日子八井命が九州へ派遣されるまで住んでいたところが、大和国の山辺郷で「山部姓もそこからきていると私たちは聞いていました」と言うのだ。               

 神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。

 太田氏によれば、「隼人とは山積族(後の山部の民)の一種にして、地方的の称号に過ぎない」ということだが、いったい彼ら山部の民はどこからやってきたのだろうか。   もどる 

         山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)、益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)、山部姓の由来(書紀): 市辺押羽皇子の二王子発見物語〔顕宗紀〕

         伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主−吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。

        「新撰姓氏録」 山辺公 和気朝臣同祖 大鐸石和居命(=垂仁天皇皇子鐸石別命)の後也

        応神天皇の御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき


宇土における額田部君             正倉院文書

允恭天皇 額田部氏 額田部連比羅夫    森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より

おもしろいなと思うのは、推古女帝【豊御食炊屋姫(幼名、額田部皇女)】が蘇我氏を誉め讃える時に、「太刀ならば呉の真刀」。呉というのは中国の江南です。だから鉄ならば中国の江南のものがいい。「馬ならば日向の駒」がいいと例をあげて誉め讃えている。そうすると推古女帝は、非常にいい馬は日向の馬だと思っている。ところが、もう一つよく考えてみると、額田王で有名な額田ですね。字だけが一緒で氏族としての額田部ですね。その額田部氏が、『新撰姓氏録』のなかで先祖伝承を書いている。それは、允恭天皇の時に薩摩での戦争でとってきた名馬の額に田という格好の巻毛があった。それを天皇に献上したので額田という名前をもらって氏の名になったのだと書いています。そうすると、古い時代は隼人の根拠地である薩摩と大隅は日向の一部で、奈良時代頃になって日向からだんだん大隅と薩摩が分かれていくわけですから、推古女帝がうたっている日向の駒というのは、なにも宮崎県に限定しなくても、隼人の馬である可能性がある。そしておもしろいのは、推古女帝のもとに中国や朝鮮半島から使いが来たら、だいたい額田部連比羅夫が多くの飾り馬に乗った兵士を引率して、外国の使いを大和で迎える。だから、推古女帝は、たしかに額田部氏の率いていた馬を見ていた可能性があるのです。  もどる  

参考資料: 畿内の牧    森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より

 


日羅(にちら) よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より

『日本書紀』の敏達天皇一二年(583)の項に、「火芦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやっこありしと)の子、日羅」という人が出ています。国造というのは、地方の最有力者にあたえられた身分の呼称で、姓(かばね)の一種と言ってもいいでしょう。なお、阿蘇の君も国造待遇を受けました。阿蘇の君の場合は健磐龍命の子の速甕玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造の祖とされていて、阿蘇の手野にある国造(こくぞう)神社に祭られています。

日羅は芦北地方に残る口承伝承では、土地開発などの業績を讃えられている人で、ヤマト王権と百済の外交折衝の過程でテロに倒れた人でした。この人の墓所とつたえられている所が八代郡坂本村久多良木と芦北郡津奈木町赤崎にあります。

順序として、父親の阿利斯登(ありしと)のことから述べます。『日本書紀』に垂仁11)天皇の二年のこととして、伽耶連合国の大加羅国の王子である阿羅斯等(あらしと)という人が越の都怒我の笥飯(つぬがのけひ、福井県敦賀市の気比)にやって来たことが書いてあり、その後も出身国との間を行き来したようです。敏達30)天皇一二年に、火芦北国造阿利斯登と書かれている人は恐らくこの人の子孫であろうと考えられています。そうであれば、肥の芦北地方に移往して土地の首長となったのでしょう。日羅は、名からしても、混血の国際人であったようです。

日羅は国造という倭国での身分を受け継ぐとともに、百済国で、十六段階ある官位の第二位の達率(だちそつ)という高位の官吏でもありました。この時代、倭国と朝鮮半島の国の両国に官位を持っていた人は珍しくありませんでした。敏達天皇は先帝の欽明天皇の時代の562年に新羅から奪取されていた朝鮮半島での権益を取り返そうして、軍事行動を起こそうとされていました。それで、現地の情勢を把握するために、日羅を招こうとして、使者を派遣されたのでしたが、百済国王は出国を許可しようとしませんでした。いったんヤマトヘ行かせれば、日羅を返さないのではないかと恐れたからであったといわれています。しかし、結局は使者の才覚でうまく出国する事に成功し、ヤマトに来ると、「今は性急な軍事行動は行なわず、国力の充実を図る方が得策である」と述べ、更に、百済が筑紫侵略の計画をもっていることや、その対策などの百済に不利な意見を述べたので、一二月、同行してきていた百済の国使の徳爾らに殺害されたのでした。

日羅は自分のことを、百済国の達率であり、また火芦北国造刑部靱負(おさかべのゆけい)と言っています。芦北地方には刑部という部が置かれ、国造であった日羅はその部に属する軍隊の長としても奉仕していたのでしょう。この刑部という部は大伴氏の部曲であったとする説もあります。八代郡坂本村久多良木の百済来観音は、日羅が百済から父の阿利斯登に贈ったものという伝承があります。日羅の子孫の加津羅という人が、日羅は最初は難波の方に葬られていたのをこの地に移送し、その墓所に堂を建てて、先祖伝来の地蔵観音像を祭ったという伝えです。もどる  肥後の山々に戻る

 

百済、新羅、多羅(朝鮮半島の国名)由来と思われる熊本の地名      

久多良木(百済来) ・・・(球磨郡)

多良木・・・・・・(球磨郡)

白木・・・・・・・・(玉名郡、八代)

                                もどる  肥後の山々に戻る


 

益城・矢部の山々

飯田山 常楽寺      熊本県益城町史より                  もどる  肥後の山々に戻る

 再興を発願した優婆塞圓斎豪澄は、飯田山常楽寺の開基由縁をもとに、妙永寺(熊本市日蓮宗寺院)の住職で、時の加藤家の学問僧でもあった日収上人に請願して、常楽寺再興の幹縁文(勧縁文、縁をもつ人々にすすめて浄財を寺院に寄附させるために記す文章)を記すとともに、常楽寺のもつ現世利益の功徳を「元亨釈書」(虎関師錬の著、一三二二年成立) に基づきながら、一般の人々にもよくわかるようにと絵で書いたのが「飯田山常楽寺絵縁起」である。この「絵縁起」では常楽寺の開基について、

肥後の国益城郡飯田山寺は百済国の日羅上人のたて給つるなり、この上人は智行徳を兼ね備へ、身より光を放ち、様々の不思儀を現し待りぬ。国主も敬れし、国民も謄仰し奉りしかは、其名我朝に聞えありて、敏達天皇十二年に紀押勝を遣かわしめし給ひけれ共、彼国の王、惜しみ給いて渡し奉らさりければ、重ねて之吉備羽嶋を遣わし、しきりに免じ給う、百済の聖明王も我朝の王命を恐れて、終に羽嶋とともに萬里の蒼海に船を浮かべ、風波の難をしのぎ、九重の石の塔二基、並びに彿像経巻積みてこの国に来りぬ。(以下略)

一方、鎮西肥後州益城郡飯田山常葉寺観音堂の再興の幹縁の文では、

密にもつてみれば、飯田山常楽寺は百済国の日羅上人の挿草の地なり。往季、榛を披き、岳を夷らして、一の叢寺を創す。彼の上人は、本朝敏達帝十二年癸卯に星槎を浮べ、滄溟を渡る。身より光明を放ち、神異は測らざるなり、聖徳太子幼年にして敬服潜宰して諸童子に交る。館に入りてこれを見る、上人、太子を指さして日く、是れ神人なり、太子走り去りて衣を易へて出づ。上人再拝稽首して日く、敬い礼す。救世観音傅燈東方栗散国、太子従容してこれに謝す。上人身光を放つ。太子も又、眉間の光を放つ、左右に謂て日く。我れ陳国に在りし時、彼の弟子となり、常に日天を礼す。故に光耀あり、群臣おののきおそる。此れより以来、太子は是れ観音の應化と云うこと街譚衢話せり、初め上人、巨瀛を臻る。佛事を創めんと欲するの志願有りて、九重の石塔を船底に斎持して、所處を此の上に相して則ちこれを安置する。(以下略)

「聖徳太子伝暦」(『続群書類従』巻第一八九)の敏達十二年の秋七月の項に、さきの「常楽寺幹縁文」とほぼ同様な文書がのせられている。聖徳太子(五七四年生、六二二年没)は、周知の様に、用明天皇の第二皇子で、幼少よりその俊英ぶりほ伝説化されているほどで、のち推古女帝の摂政となり、冠位十二階、十七条の憲法を制定するとともに、仏教の興隆につとめ、「三経義疏」を著し、法隆寺や四天王寺を建立した人物である。仏教が日本国中に伝播していく基礎は太子によるものであったことは、いまさら申すまでもない。その聖徳太子の伝承と事蹟を記したのが、この「聖徳太子伝暦」であるが、その敏達十二年(五入三)七月の項に、次のような趣旨を記している。百済の賢者で芦北出身の連率日羅が、使の吉備海部羽嶋に従って釆た。この日羅は非常に勇気があって、計策にたけている。身からは光明を放ち、それは火の焔のようである。天皇は使を派遣して任那の国政を日羅に尋ねることとした。聖徳太子は日羅が異相であることを聞いて、天皇に請願して使臣らを従えて難波の館に行き、日羅の人となりを視る。天皇はこれを許さなかったので、太子は密かに皇子と計らって館に入って日羅をみたところ、日羅はすぐさま太子を指さして、神人であると言った。そして太子の身なりが非常に粗末であったにもかかわらず、日羅は遥拝した。諸大夫らは大変な奇瑞であると門を出てみると、太子は衣服を変えて坐し、日羅を迎拝していた。そして日羅の房に入ると、目羅は地に伏して合掌して自ら申した。敬禮救世観音菩薩、傅燈東方粟散王と。太子はこれに感謝すると、日羅大師は身から光を放す、それほ焔のような火であった。太子もまた眉間から光を放ち、太陽の光の如くであった。暫くしてのち、太子は日羅に、自分の命が蓋き果てて害なわれて惜むことがあることがあるかも知れないが、聖人がこれを許しては呉れないであろう。自分はどうしたらよいか、と日羅に語られた。そのような話しが夕方に及んだ。人々はそれを解しえなかった。太子は翌日太子官に帰られた。

上記のように、要旨はさきの常楽寺の「幹縁文」とほとんど同様であるが、これと同様に日羅が観音菩薩の化身として身から光を放って聖徳太子を感応させた話は、「扶桑略記」と虎関師錬著の「元亨釈書」にみえる。「聖徳太子伝暦」は延喜十七年(九一七) に藤原兼輔が「日本書紀」等を参照して聖徳太子の伝記を記したもので、太子を神格化した俗説が多く収められている書である。「扶養略記」(『増補訂正国史大系』所収)は、延暦寺の僧皇円 (1112?〜1169)が神武天皇から平城天皇までの事蹟について、六国史や文献や寺院関係の古伝等をもとに編年体で記した書といわれる。「元亨釈書」は、虎関師錬が著した仏教史書で、その成立は元亨二年(一三二二) に成立した書である。

 こうみると、日羅が光を放って聖徳太子を感応させた話は、「聖徳太子伝暦」→「扶桑略記」→「元亨釈書」と継伝されたことが判明するとともに、その物語りの発生が十世紀以前にさかのばることほ考え難いし、また後述するように、「聖徳太子伝暦」 の本が畿内に流布し、そして 「扶桑略記」が記されるまでの期間に伝承が熟成し、聖徳太子信仰と相まって日羅伝説が成立していった、と考えた方がより適切である。

 

甲佐岳(753m) 福城寺

 この山は石灰岩からなり、南麓には白岩の地名や、東麓には風神鍾乳洞がある。福城寺は比叡山延暦寺の末寺で、811年湛西(たんせい)上人が開基し、古く16の僧坊で栄えたと言われる。今では牛馬の神として近郊の人々の信仰を集めている福城寺を残すのみとなったが、本尊十一面観世音菩薩は国宝に指定され、そのほか釈迦如来、馬頭観音、山王権現、不動尊、毘沙門天の六体が安置される名刹として遠来者が絶えない。もどる  肥後の山々に戻る

金海山釈迦院 大行寺山(942m)

 799年桓武天皇の勅願で、天台宗奘善(しょうぜん)台師により開基。伝説として、2つある。そのひとつは釈迦松で、天正16年(1588)、キリシタン大名の宇土城主小西行長が全山焼き討ちを行ったおり、本尊の釈迦如来は老松に法難をさけられたという。いまひとつはこの付近一帯では大豆をまいても実らないと言う伝承である。これは小西行長が釈迦院を焼くとき、大豆の殻を使ったので、それ以来この地方では釈迦院が大豆を嫌われるといい、植えたら罰があたると言われるようになった。3333段の石段やぽっくり寺でも人気がある。もどる  肥後の山々に戻る


火の国年表

 

 

中央の動き

太宰府

肥前

肥後

 

 

 

 

神八井耳命は火君の祖

肥君等祖健緒組

山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)

 

 

 

 

火国造ハ瑞籬朝 大分国造同祖志貴多奈彦命ノ児遲男江命
阿蘇国造ハ瑞籬朝御世、火国造同祖、神八井耳命孫速瓶玉命
葦北国造纏向日代朝御代、吉備津彦命児三井根子命

天草国造 神魂祝命13世孫健島松命

 

429?

百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る

 

 

 

 

442?

沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)

 

 

 

継体朝
530-531頃

 

 筑紫君磐井の戦争

 

 

 

 

536

『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

 

 

 

 

554

百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

 

 

 

555

百済聖王の息子恵来倭、

 

 

 

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送

 

 

 

 

562

紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退

 

 

 

欽明31年

570

 

 

 

【神皇正統紀】肥後國菱形池に3歳児(人皇16代誉田八幡麻呂)出現

欽明32年

571

 

 

 

 

 

575

新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。

 

 

 

 

576

豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后

 

 

 

敏達12年

583

百済人日羅来倭*

 

 

 火芦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやっこありしと)の子、日羅」

 

585

蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立

 

 

 

推古1年

592

祟峻没(暗殺)

 

 

 

推古5年

597

難波吉士磐金 新羅へ

 

 

 

推古6年

598

難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上

 

 

 

推古16年

608

唐使裴世清来る

 

 

 

推古17年

609

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

推古36年

628

 

 

 

 

舒明13年

 

 

 

 

 

皇極4年

645

 

 

 

 

孝徳5年

659

 

筑紫太宰帥:日向臣

 

 

斉明4年

 

 

 

 

 

天智6年

667

 

百済鎮将劉仁 

 

 

天智7年

668

 

筑紫率:栗前王

 

 

天智8年

669

 

筑紫率:蘇我赤兄臣

 

 

天智10年

671

 

筑紫帥:栗隈王

 

 

天武1年

672

壬申の乱

筑紫太宰:栗隈王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天武5年

676

 

筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流

 

 

天武6年

677

 

 

 

 

天武11年

682

 

筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢

 

 

天武12年

683

 

筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢

 

 

持統3年

689

 

筑紫太宰:粟田真人朝臣
太宰帥:浄廣肆河内王

 

 

持統6年

692

 

太宰率:河内王

 

 

持統8年

694

 

太宰率:浄廣肆三野王

 

 

文武4年

700

 

筑紫総領:石上朝臣麻呂

 

 

大宝2年

702

 

太宰帥:石上朝臣麻呂

 

 

大宝3年

703

 

太宰帥:大伴宿禰安麻呂
大貮:石川朝臣宮麻呂

 

 

慶雲3年

706

 

少貮:安倍朝臣首名

 

 

和銅元年

708

 

太宰帥:粟田朝臣真人
大貮:巨勢朝臣多益首

 

 

和銅6年

713

 

 

 

筑後守:道君首名

和銅7年

714

 

太宰帥:多治比真人池守

 

 

養老2年

718

 

 

 

筑後・肥後守:道君首名卒す

養老4年

720

 

 

 

 

養老5年

721

 

大貮:石川朝臣石足

 

 

神亀4年

725

 

太宰帥:大伴朝臣旅人

 

 

神亀5年

726

 

 

 

 

神亀6
(天平1)年

727

長屋王の変

 

 

 

 

    漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10)

 

 

    藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11)

 

 

    翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問

 

 

    長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺

 

天平2年

728

 

 

 

 

天平3年

729

 

太宰帥:藤原朝臣武智麻呂

 

 

天平9年

737

 

太宰帥:藤原朝臣宇合 薨
大貮:小野朝臣老 卒

 

 

天平10年

738

 

大貮:高橋朝臣安麻呂
少貮:藤原朝臣廣繼

 

守:田中朝臣三上

天平12年

740

藤原広嗣の乱

 

藤原広嗣の乱

 

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

天平13年

741

 

 

 

守:阿倍朝臣子島

天平17年

745

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

大貮:石川朝臣加美
少貮:多治比真人牛養
少貮:大伴宿禰三中

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

 

天平18年

746

 

太宰帥:橘宿禰諸兄
大貮:百済王考忠
少貮:紀朝臣男楯

 

 

天平19年

747

 

 

 

 

天平感宝1年

749

陸奥国黄金献上

少貮:小野朝臣田守

 

 

 

    大伴牛養、大伴稲君、大伴家持

 

 

    佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨

 

 

    橘諸兄、橘奈良麻呂

 

天平勝宝2年

750

 

太宰帥:藤原朝臣乙麻呂

吉備真備筑前守左降、肥前守に移す

 

天平勝宝4年

752

 

太宰帥:紀朝臣麻呂
少貮:佐伯朝臣美濃麻呂

 

 

天平勝宝5年

753

 

太宰帥:石川朝臣年足
大貮:紀朝臣飯麻呂

 

 

天平勝寶6年

754

 

大貮:吉備朝臣真備

守:黄文連水分

 

天平宝字元年

757

橘奈良麻呂の変

 

 

 

 

    安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人

 

天平宝字3年

759

 

 

守:縣犬養宿禰吉男

 

天平宝字4年

760

 

 

 

 

天平宝字5年

761

 

 

 

 

天平宝字6年 

762

 

 

守:大野朝臣廣立

守:百済王理伯

天平宝字7年

763

 

 

守:中臣朝臣鷹主

 

天平宝字8年 

764

恵美押勝の乱

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
少貮:采女朝臣清庭

守:佐伯宿禰今毛人

 

天平神護元年

765

 

太宰帥:石川朝臣豊成

 

 

天平神護2年 

766

 

 

 

 

神護景雲元年 

767

 

大貮:藤原朝臣楓麻呂

 

 

 

 

神護景雲2年 

768

 

太宰帥:弓削御浄臣清人
大貮:藤原朝臣田麻呂

 

介:山村許智人足

神護景雲3年

769

 

 

守:津ノ連真麻呂

 

宝亀元年

770

 

少貮:小野朝臣小贄

 

守:大伴宿禰益立

 

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
太宰帥:石上朝臣宅嗣

介:紀朝臣大純

益城郡人山稲主白亀を献ず

宝亀2年 

771

 

 

守:土師宿禰位

守:佐伯宿禰助

 

 

介:大伴宿禰村上

宝亀3年

772

 

 

 

 

宝亀5年 

774

 

太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂
少貮:石上朝臣真永
大貮:石上朝臣名足
少貮:多治比真人豊濱

守:多治比真人公子

 

宝亀6年 

775

 

 

 

 

宝亀7年

776

 

少貮:藤原朝臣仲繼
太宰帥:藤原朝臣魚名
大貮:石上朝臣息嗣
少貮:笠朝臣名麻呂

 

 

宝亀9年 

778

 

 

守:三島真人安曇

守:藤原朝臣是人

宝亀10年 

779

 

 

 

守:藤原朝臣末茂

宝亀11年

780

 

太宰帥:藤原朝臣濱成
大貮:佐伯宿禰今毛人

守:紀朝臣門守

 

 

太宰帥:藤原朝臣魚名

天応元年 

781

 

 

 

 

天応2年

782

 

 

 

 

延暦元年 

782

 

太宰帥:藤原朝臣魚名 薨

守:紀朝臣真木/守:甘南備真人浄野

守:紀朝臣本

 

大貮:石上朝臣家成

延暦2年

783

 

 

 

 

延暦3年 

784

 

少貮:藤原朝臣管繼

 

守:多治比真人乙安

延暦4年 

785

 

 

 

 

 

 

延暦5年

786

 

太宰帥:佐伯宿禰今毛人

 

 

延暦7年 

788

 

 

守:石川朝臣多禰

 

延暦8年

789

 

少貮:藤原朝臣園人

 

 

延暦9年

790

 

員外帥:藤原朝臣濱成 薨
少貮:藤原朝臣真鷲

 

守:粟田朝臣鷹守

介:百済王元信

延暦10年 

791

 

 

守:巨勢朝臣人公

 

延暦14年 

795

 

 

 

 

延暦15年 

796

 

 

守:多治比真人今麻呂

介:多治比宿禰真浄

延暦16年

797

 

 

 

介:多治比真人今麻呂

延暦18年 

799

 

 

 

守:紀朝臣兄原

延暦24年

805

 

 

 

守;紀朝臣廣濱/守:多治比真人今麻呂

大同元年 

806

 

 

守:大野朝臣犬養

守:高倉朝臣殿繼

 

介:多治比真人氏守

大同3年 

808

 

少貮:多治比真人今麻呂

 

 

大同4年 

809

 

 

 

介:豊宗宿禰廣人

 

弘仁元年

810

 

 

権介:紀朝臣良門

 

弘仁2年 

811

 

 

守:柿本朝臣弟兄/守:豊野真人仲成

 

弘仁3年 

812

 

 

 

守:大枝朝臣永山/守:紀朝臣昨麿

 

大掾→介:菅原朝臣清人

弘仁4年

813

 

 

 

 

 

弘仁5年

814

 

 

 

 

弘仁6年

815

 

 

 

 

天長6年

829

 

 

 

 

承和2年

835

 

太宰帥:三品秀良親王

 

 

承和4年

837

 

権帥:藤原朝臣常嗣
大貮:藤原朝臣廣敏 卒

 

 

承和5年 

838

 

 

 

 

承和6年 

839

 

大貮:南淵朝臣永河

介:藤原朝臣正雄

 

承和7年 

840

 

 

守:藤原朝臣板野麻呂

 

承和8年

841

 

 

守:藤原朝臣正雄

介:橘朝臣真直

承和9年 

842

 

大貮:藤原朝臣衛

 

肥後・筑後介:橘朝臣真直

 

介:菅原朝臣梶吉

承和13年

846

 

 

 

 

承和15年

847

 

大貮:紀朝臣長江

 

 

嘉祥2年 

849

 

 

 

守:有雄王

 

介:高丘宿禰真雄

嘉祥3年

850

 

太宰帥:三品葛井親王 薨

守:南淵朝臣彌繼

 

仁寿元年

851

 

 

 

 

仁寿3年

853

 

少貮:滋野朝臣善蔭
太宰帥:一品葛原親王 薨

 

 

斉衡元年 

854

 

 

 

介:橘朝臣仲宗

 

守:清原真人有雄

斉衡2年 

855

 

大貮:正躬王

守:仲嗣王

守:藤原朝臣冬緒

斉衡3年 

856

 

 

守:滋野朝臣善根

 

天安元年

857

 

 

介:物部朝臣廣泉

 

 

権介:當野伊美吉平麻呂

天安2年 

858

 

 

守:藤原朝臣有蔭

 

貞観元年 

859

 

 

 

権介:大原真人真室

貞観2年

860

 

大貮:清原真人岑成
少貮:藤原朝臣真数

 

 

貞観3年 

861

 

 

 

 

貞観4年 

862

 

 

守:橘朝臣忠宗

 

貞観5年 

863

 

太宰帥:二品仲舒親王
少貮:在原朝臣安貞
少貮:藤原朝臣元利麻侶

 

 

貞観6年

864

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観7年 

865

 

 

 

守:紀朝臣夏井

貞観8年 

866

 

 

守:上毛野朝臣澤田

守:在原朝臣安貞

貞観9年

867

 

大貮:茂世王

 

 

貞観10年 

868

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観11年

869

 

大貮:藤原朝臣冬雄
少貮:坂上大宿禰瀧守

 

権介:橘朝臣子善

貞観12年 

870

 

 

権介:小野朝臣春風

 

貞観13年

871

 

太宰帥:二品賀陽親王

 

 

貞観14年

872

 

 

 

 

貞観15年

873

 

権帥:在原朝臣行平

 

 

元慶元年

877

 

 

 

 

元慶2年

878

 

権少貮:藤原朝臣房雄

 

 

元慶3年

879

 

大貮:橘朝臣三夏

 

 

元慶4年

880

 

 

 

守:藤原朝臣房雄

元慶7年

883

 

 

 

 

元慶8年

884

 

 

 

 

元慶9年

885

 

 

 

 

仁和元年 

885

 

大貮:藤原朝臣行有

 

守:藤原朝臣時永

仁和2年 

886

 

大貮:藤原朝臣保利

肥前介→豊後介:大神朝臣良臣

姥が岳伝説へ

肥後介:大神朝臣良臣

 

守:藤原朝臣是行

仁和3年 

887

 

 

守:橘朝臣興門/守:藤原朝臣藤宗

 

仁和4年 

888

 

 

守:橘朝臣清樹

 

寛平元年 

889

 

 

介:春道新名宿禰

 

 

掾:橘良利(囲碁好手)

延喜元年

901

 

権帥:菅原朝臣道真

 

 

延喜5年 

905

 

 

守:小野保衡

 

延喜9年 

909

 

 

守:伴保平

 

延喜11年 

911

 

 

守:藤原朝臣高堪

 

天慶3年 

940

将門・純友の乱

 

 

 

 

・小野好古、藤原慶幸、大蔵春實、橘遠保

天慶4年

941

 

 

守:藤原慶幸

 

天慶5年 

942