豊前の古歴史

香春岳・新羅の神が住む
香春における渡来人の活動New 2004.11.28更新
原田一族の祖霊神か
香春の鬼ケ城(鬼岳城)
英彦山
求菩提山 霊験秘法の由緒ある山
宇佐(八幡)宮 宇佐の比売大神とはNew 2004.12.4更新
八幡信仰の形成
応神天皇
六郷満山

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香春岳(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年より) もどる 豊前の山に戻る

 香春岳三山には古くから三所権現の神々が祀られてきた。まず南瑞の一ノ岳(南端)には辛国息長大姫大目尊(からくにおきながのおおひめおおめのみこと)、ニノ岳は天忍穂耳命(「紀」の天忍骨尊)、三ノ岳は豊比口羊尊(とよひめのみこと)といった神々である。

 

新羅国の神が住む   もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

「昔、新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名づけて鹿春の神と申す」(「豊前国風土記」)、とあって、河の瀬が清かったので、「清河原の村」といったという。香春岳の山名由来であるが、五二代嵯蛾天皇の御代に伝教大師が七堂伽藍を香春岳山麓に建立し、国家鎮護と安寧の析願所として、これを賀春山神宮院と名づけた(「香春神社縁起」)といわれている。香春は、往古には清河原と呼称していたが、平安のころには賀春に改められ、元和(一七世紀)の頃からいまの香春に転化したようである。さて、一ノ岳の辛国息長大姫大目尊とはどのような神か?「息長大姫」という一ノ岳の神名は、「延喜式神名帳」に「尊び称えたる御名なり」とあるだけで、また「大目」は考えずとあるから、この神の正体は不詳というほかはない。この神名と似た名に息長足姫命がある。人皇九代開化天皇四代の曾孫、息長族の王息長宿禰の女で、一四代仲哀天皇の妃となった神功皇后である。しかし「太宰管内志」では、「御名の似たるによって息長足姫の御事なりという説は慎しむべき虚事か」と疑問視しており、いまでも香春の神を神功皇后とする説は聞かれない。いずれにしても新羅国から豊前国香春に渡来してきた新羅系秦氏(息長族もその一族)の集団が、故国で祀った神を住みついた香春の地に、再祭祀したものとしか考えられない
 ニノ岳の天忍骨尊は、英彦山の主神と同じ神で、「延喜式」では〃オシホミミ〃と訓じている。つまり天忍穂耳命(「記」)である。
 また三ノ岳の豊比口羊尊であるが、この神の神殿は、豊比口羊尊がのちに山麓の採銅所村に下って村の産土神となられたので空殿になってしまったといわれる。文永年間(1264−74年)の頃の「同社旧記」によると、豊比口羊尊(神社)はいまは三ノ岳の麓、中採銅所にある三カ村の産土神で、古宮八幡宮の神なり、とある。また「古宮八幡宮縁起」には、三ノ岳の神を祀り、八幡宮は相殿なり。考えれば、上古には三神ともに山上に鎮座せりと聞く。三ノ岳の東麓に〃古宮の森〃という所あり、これは古宮八幡宮の旧跡という。またここは、〃阿曾の隈〃のことであると述べるが、現在の古宮八幡宮の社は〃高巣の森〃といわれる所にあるという。この縁起のとおりなら、豊比口羊尊が三ノ岳から最初に遷座したのは〃阿曾の隈〃であったようだ。  豊前の山に戻る

 

香春における渡来人の活動 New 2004.11.28up    もどる(豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より)
 香春岳の鉱山は三ノ岳を北西から取り巻くように連なっていはいるが、二ノ岳にもないわけではない。そして香春岳全体から産出する鉱物は、金、銅、水銀、水晶などである。龍骨は太古の動物の化石として漢方薬に珍重される。香春岳の場合は石灰岩かも分らない。新羅からの渡来人は香春に住みついて、鉱物を採取し、それを精錬する仕事に従ったと考えられる。なぜ、「新羅の神」がやってきて「鹿春の神」と呼ばれたかといえば、古代には金属を精錬する技術者は高度な技能をもつがゆえに、神として衆人の尊敬を受けたのである。古事記や日本書紀には「天目一箇神」と称されている。つまり「目一つの神」である。炉の炎を長年見つめていると、視力が弱り一眼を失するに至る者が多い。
 この渡来人技術者たちは、香春岳に山の女神を祀った。その山の女神ははじめ三ノ岳の中腹の阿曽隈にあったが、やがて山の近くの古宮鼻に移し古宮社と称した。ところが和銅二年(709)に阿曽隈の女神は、一ノ岳のふもとの香春神社に勧進された。また古宮鼻の地で祀られていた古宮社のほうは、慶長年間に香春町大字の採銅所字鷹巣山に移された。かくして慶長年間以降は、香春には山の女神である豊比口羊命を祀る神社が二つ並び存したことになる。しかし、香春神社の豊比口羊命はいつも古宮社の方に行っていて不在であるといわれた。従って、豊比口羊命にとっては古宮社のほうが本拠であった。古宮社は一名豊比口羊社とも呼ばれた。
 和銅二年に創始した香春神社は、豊比口羊命のほかに辛国息長大姫大目命と忍骨命を祀る。辛国は韓国、息長は息が長いということで、ふいごの風がよく通るという説が一番有力である。大姫は神と人との間を取り持つ巫女的な存在である。大目は、たんに大きな目という意味ではない。大目はダイマナコと呼ばれる。ダイマナコはヒトツメコゾウ、あるいはイチョメドンとも呼ばれて、一つ目を云う。いわゆる金属技術者を指す「目一つの神」である。そうすると、辛国息長大姫大目命は、新羅から香春にやってきて、ふいごを使って銅を採掘し鋳造する技術者たちの信奉する「一つ目の神」に仕える巫女ということになる。
 また、忍骨命はその存在が稀薄で付け足しの感がある。そうすると、もともと香春岳の三ノ岳に祀られていた鉱山の女神の豊比口羊命と香春神社の辛国息長大姫大目命は同一神にほかならず、この二柱の神は実体において一つであったことになる。そこで豊比口羊命は新羅からの渡来人技術者が信奉した金属精錬の神であったことがはっきり分かる。

香春神社の神職   New 2004.11.28up    もどる(豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より)
 
「太宰管内志」には香春神社の神職として赤染氏二家、鶴賀氏一家を挙げている。鶴賀氏は代々古宮社(一名豊比口羊神社)の神官をつとめていることから、鶴賀氏は鉱山神である山の神をもっとも古くから奉斎した神職であることが分かる。鉱脈をツルと呼ぶから、鶴賀という氏姓もそれに由来するものであろう。
 赤染氏はやはり香春岳の鉱山に関与していたと見られる。すなわち香春岳の鉱物、とくに金、銅、水銀などを調合し、不老不死の石(仙)薬を作ったのではないかと私は推測している。赤染氏が常世連を賜ったのも、それと深い関わりがあるに違いない。なぜなら、道教における常世とは、理世的な不老不死の世界に他ならないからである。「新撰姓氏録」には、常世連は燕国王の公孫渕から出たとある。もとよりそれは架空の話であるが「蕃別」であることは疑いなく、朝鮮半島からの渡来人であることを指している。とすれば常世連を賜った赤染氏もおそらくは、秦氏にも縁のある新羅出身の人々であったと考えられる。

原田一族の祖霊神か   もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 また、採銅所には「現人神社」という神社がある。主祭神を都怒我阿羅斯等という説があるが、本来の神は永禄四(1561)年、香春一ノ岳にあったという鬼ケ城城主原田五郎義種が豊後の大友宗麟に攻められて落城、採銅所付近まで落ち、ここで発見されて悲憤の死を遂げた。のちこの地方一帯に疫病が大流行し、村民に多くの死者を出したため、義種の御霊を祀って疫病退散をなしたことから現人神社を建立、祭祀したのが事実のようである。都怒我阿羅斯等は「垂仁天皇紀」一書にも一文があって、新羅系加羅国(辛国)からの渡来人だといい、現人神社の祭神は原田一族の祖霊神で都怒我阿羅斯等ではあるまい。さて、豊比口羊尊は豊姫命とも書き、一説では息長足姫命(神功皇后)の妹ともいう。「太幸管内志」は、この神はどのような方か知りがたいが、神功皇后の御妹とある豊姫神にてもあらんか、と書いている。豊比口羊神社の神官は、代々鶴賀氏が奉仕したという。鶴賀氏は仁平三(1153)年春、鎮西八郎為朝が、豊前田川に源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとき、鎌倉の鶴岡から豊前に西下した者ゆえに鶴賀氏を名乗ったとあって、さきの都怒我阿羅斯等の子孫がこの鶴賀氏だとも述べている(「応永戦乱記」)。  豊前の山に戻る

鬼ヶ城  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 香春の鬼ケ城(鬼岳城)といえば、平安−鎌倉−室町に及ぷ戦国記に登場する豊前国古城史のなかでは不落の名城として名ある古城。だが、この鬼ケ城は香春三山のどの山に築城されだのか、地元でも〃幻の鬼ケ城〃といわれてきた。五一年春以来の学術調査では、ニノ岳らしいという「かわら郷土史会」原田種実氏のレポートが、歴史と自然をまもる会の機関誌(五一年五月六○号)に発表されたが、調査は未完のままで確実な判断はできないようである。「豊前軍記略」などの史記によると、香春鬼ケ城の築城は、保元二(1157)年、平清盛が大宰大弐に任じられた翌年、香春岳山王権現の東に城を築き、神妙な山ゆえに鬼岳(城)と号し、一族の越中ノ次郎兵衛盛次に命じて守らせた、とある。また「両豊記」には、田河(川)郡香春岳の城は、天慶二(939)年、藤原純友がはじめて造った城で、純友は二男純再に守らせた、とも述べる。問題の鬼ケ城の在所は一ノ岳の中腹にあって、要書の地であったからはじめて城を造るともある。  豊前の山に戻る

英彦山     もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 英彦山をはじめて開いたのは北魏の善正ともいうが、平安初期の僧法蓮上人とも伝えられる。伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだといわれ、また26代継体天皇の御代に、大唐(いまの中国で異説では魏国)から善正和尚という僧が飄然として海を渡って大宰府につき、豊州(豊前国)の高岳(英彦山)の聖なる地に「彦山霊仙寺」という一寺を建立して、釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩を本地(仏)にしたという。また別伝によると、その昔、不思議な光を発する霊光が西方から飛来して英彦山の南岳に止まった。その光は、八角五光の玉石に見えたという(裏彦山道の玉屋の岩屋に現われたという伝説の水精の石のことであろうか)。さらに、中国の天台山(天梯山とも書く)に住んでいた王子が、日本国鎮西の日子山の峰に天降った、などの諸説がある。  豊前の山に戻る

求菩提山 霊験秘法の由緒ある山  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 求菩提山は奈良時代から、役の行者行基上人仁聞菩薩などが来山してひらけた歴史的由緒の山で、その一つが山岳宗教上の求菩提山である。求苦提山の山名起源説にも俗説がある。茶碗を伏せた形に似ているところから〃クボテン(「和語」に久保天とある)山〃と呼び、これを語源だというものもいる。また昔、山上に五色の雲がたなびいて神霊降臨の奇瑞をあらわしたといい、「くもて」が「くもで」になって、現在の呼び名になったともいう。しかし、求菩提とは煩悩の解脱を願い、仏果を得るための修法の山、まさしく霊験秘法の山にふさわしい山名というべきであろう。求菩提の山伏道場は、日本三大修験の山(吉野、熊野、英彦山)とは別個に開山された山で、一○○○余の山僧が宿坊をひらいだ。求苦提の神(神社)は昔、求菩提山権現、または求菩提山白山権現と称した。その主神は、草創のころには大己貴命(おおなむちのみこと)‐といい、養老年中(717−24年)の奈良朝初期、釈行善という僧の開山らしいという(「豊鐘善鳴録」五巻)。まだ「求菩提山記」には、「顕国の神白山権現、および二童子、十五童子これを祀り、社数大小七つ、中宮に役の行者堂あり。また下宮に山王社、大行事社あり。山王社を北山殿となす。山王二十一社より勧請し、正月八日鬼神祭、二月二十九日大権現松会の祭礼とす。この両祭は一山の大大(法の誤りか)会なり」と記している。また、白山の姫神を祀り、合せて国魂の神を祀って両所権現と号し、社僧を護国寺という、とある。もどる 豊前の山に戻る

白山信仰 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 白山は、石川・岐阜・福井の三県境に聳える加賀白山(2,702メートル)をいい、古来霊山として栄えた山。山頂に白山の神、白山比口羊神(伊弉冉命か、菊理媛命か)を祀る白山比口羊神社がある。白山神社は、養老元(717)年に僧泰澄が開山して修験道場となし隆盛、本宮合せて三所、七社と呼ぱれ、総称して白山三所権現または白山妙理権現と称されるようになった。

山王信仰 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 山王二一社(日吉神社)は、日吉神社の上、中、下の摂社、末社が各七社あって、合せて二一社あるところから山王二一社、または山王権現といわれた。この山王信仰は鎌倉末期、天台宗と神道が融含して「山王神道」が説かれたことにはじまる。求菩提権現社が天台宗聖護院の末院といわれたのもうなずけよう。

宇佐(八幡)宮
宇佐の比売大神とは         日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年より
 梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』にもこう書かれている。宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡の大神。郡家の東、馬城の峰の頂に坐す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許(おもと)山(大元山−630メートル)のことで、このお山に天降ったと伝承している。御許山を御神体としているが、それはこの山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境としてはじめて影向され、ここに巨石崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。「宇佐に参るなら御許に参れ、御許もと宮もと社……」このような俗謡がいまに伝えられているが、宇佐神宮の元宮である御許山の山頂こそ、本当の祖神は坐すのである、祖神の坐すところに参拝することこそ、祖神に対する儀礼だ、ということをこの俗謡は伝えている。つまり、その山頂の巨石を比売神の顕現としたようであるが、この比売大神は、さきの「原始八幡神創祀遺跡(学説)」でみた「辛島・長光・赤染等が斎き祀っていた」「辛国息長大姫大目命、豊比口羊」と同じものにほかならなかった。これは田川郡香春町の香春神社などに祭られた祭神で、それがさらにだんだんと、「豊国の王」ということであった豊日別(とよひわけ)がのちにその祭神となった京都郡(行橋市)の草場八幡宮などをのこしながら、築城(上)郡綾幡郷の矢幡宮へと南下したものだったのである。もちろん比売神の南下とは、香春岳の産銅などで大をなした秦氏族からの出である辛島氏らの発展・南下ということである・・・。 もどる 豊前の山に戻る

八幡原始神は吐農の神     九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より
  “大日本史:水戸光圀著”説だと、八幡大神の原始神・吐農の神は、はじめ日向国の辛国城に降り、馬城峰の三大石(三柱石=三柱神)をご神体とし、豊国の駅館川の上流に鎮座して鷹居瀬社の神となり、その後、小山田社の神となった。さらに菱形山(小椋山)に遷って宇佐宮の神となした、と述べている。

辛嶋氏の宇佐進出  New 2004.12.4up 豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より
 宇佐八幡が現在地に鎮座するに至るまで、長い変遷があり、序走路があった。八幡神はまず辛嶋氏の神としてあらわれた。「承和縁起」には、大御神ははじめ宇佐郡辛国宇豆高島に天降りまします、とある。・・・辛嶋氏の伝承では、宇豆高島(稲積山)に天降りした神はそのあと宇佐の地域を転々と移動する。はじめ乙口羊(おとひめ)神社に祀られ、それから酒井泉社に移った。そのあと瀬社、鷹居社、小山田社に移り、最後に小倉山に鎮座した。大神氏が八幡神の奉斎に参与したのは鷹居社の頃からである。鷹居社は和銅五年に八幡大神の社殿を建立しているが、それ以前から小祠はあったと見られている。

宇佐神宮の祭神   New 2004.12.4up 豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より
 宇佐神宮には三柱の神が祀られている。一の御殿に八幡大神、二の御殿に比売大神、三の御殿に神宮皇后が鎮座する。このうち三の御殿に神宮皇后を配祀したのは、弘仁十四年(823)、嵯峨天皇の時代である。また八幡大神とされる応神霊は、奈良時代の前後に大神氏によって持ちこまれたようである。そうすればニの御殿の比売大神が最も古くその出自だけが問題になるが、比売大神の脇殿に北辰殿が祀られていることに注意を払う必要がある。北辰殿は北極星を神として祀っている。「託宣集」を見ると、北辰神は天空から降りた神で、小倉山の地主神であった。小倉山は、現在宇佐神宮の鎮座する亀山の別名である。亀山の南東方およそ4kmのところに、御許山(馬城峯)があり、そこを奥宮と称しているが、宇佐神の発祥には関係がない。「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむかって同じようなことを云った、とある。北極星を神格化した北辰神を、妙見菩薩といって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この妙見金鉱山の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の神であることから、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝えられ、それがそのまま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神との関係に置き換えられたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神とを宇佐の小倉山で斎祀したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏以外にない。大神氏は大和国中の近傍からの移住者と思われる。また宇佐氏は土着の氏族であって北極星の信仰を持たない。総じて日本には星に対する信仰は育たなかった。    もどる

八幡信仰の形成       日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年
 八幡神は「ハチマン」ではなく「ヤハタ」と読む。ヤハタは「弥秦;いやはた」がなまったもので、渡来人秦氏が祭った鍛治、銅の神である、というもの。秦氏といえば、豊前地域はその渡来拠点であったことが、大宝二年(702)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」で明らかにされている。それによると、豊前国の中心をなす仲津郡(現在の行橋市と京都郡)と上三毛郡(豊前市と築上郡)などで、総人口(611)の九三%(568)が秦部、勝の姓をもつ秦氏系で占められている。記載されてない企救、田川、宇佐などでも、おそらく同じ傾向だったと見てよい。このことは、八幡神が秦族の信仰神だったと見られるに充分な根拠をもつ、といってもよさそうだ。本項の最初に紹介した『宇佐宮託宣集』のなかでも、「辛国の城に始めて八流の幡を天降して我は日本の神になった」という八幡神の託宣がある。辛国とは、いうまでもなく古代の韓国(朝鮮)であり、八流の幡(白旗四、赤旗四の意味といわれる)は八幡−ヤハタに結ぴつく。そして「天降して日本の神になった」ということは、辛国(韓国)から渡来した神、ということを明言しているとも考えられるのだ。この最初の八幡神が、六世紀末、大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐に来た大神比義によって、応神(天皇)信仰が八幡のなかに入り込み、宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった。(中野幡能氏、「八幡信仰史の研究」)  もどる 豊前の山に戻る

参考資料: 宇佐八幡宮  (村山修一「八幡神の習合的成長」中野幡能編『八幡信仰』所収)

その創祀の地はおそらく今福岡県(豊前国)筑上郡椎田町綾幡に鎮座する矢幡八幡宮であって、ここに残る榊山神幸の行事は八幡神創祀の最も原始形態を留めた神事と考えられ、そこから原始八幡創祀の地たる意味が汲みとられるのである。辛嶋氏はやがて八幡神を下毛部に移したが、六世紀の終りになって大和国三輪のシャ−マン大神比義が宇佐に入り、わが古代の最有力君主とみられた応神天皇の神霊を持ちこみ、辛嶋氏との主導権闘争に勝って原始八幡神を皇室関係のものに転換せしめ、改めて鷹居社をつくって八幡神をここへ移した。当時朝廷は対半島政策において任那日本府滅亡を含む重大な時期に当たっており、北九州の政治的強化を特に痛感していた。国内的には蘇我氏が帰化人と仏教文化によって保守勢力である物部氏を打倒するため半島と密接な関係にある豊前地方の八幡神を傘下に収めようとして神功・応神信仰を持つ大神比義を宇佐に送ったのであろう。比義が祝になった五八四年より二年後の用明二年には天皇の看病のため蘇我馬子は豊国法師を参内させ、反対派物部守屋を怒らせるに至った。この豊国法師は『新撰姓氏録』泉国神別天神の条に、巫部達の説明に関連して雄略天皇御病の時招かれた豊国奇巫とあるもの一同性格の人物とみられ、『続日本後紀』(承和十二、七、十四条)にも同様の記事があって、医療にもたずさわったシヤ−マンであったと思われる。この場合奇巫といったのは、巫覡の類でかつ僧形を呈した、当時ほかの神祀信仰ではみられなかった風変りの宗教家であったからで、のち大仏造立に際し、八幡神が上京された時、これに従ったのは巫尼杜女であり、宇佐八幡では巫尼・巫僧の類が禰宜をつとめていたものと想像される。

☆ 【宇佐宮記】 欽明32(571)年、宇佐郡菱形池上小倉山邊に神有り、3歳児に託し、異人大神比義に告げて曰く、辛国ノ城に八旒旗降、我是日本人王16代誉田天皇広幡八幡麻呂也、諸州処処に跡を垂れ神を為す、ここにおいて八幡大神と号し、祠を立てこれを祭る。     太宰府−九国国司人事年表

 

応神天皇 第15代  神々の系譜にもどる

秦氏と応神八幡神・天日槍・神武東征伝説(日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年)

 「宇佐在来の比売神と合休して七世紀以後の応神八幡神ができあがった」ということには、大変大きな意味が含まれる。安藤輝国氏や小島信一氏は「応神天皇は秦族の大王」で、「女王国を征服したのは秦族の誉田別命、のちの応神天皇である」というのである。応神天皇は秦族の大王であったといわれると、奏氏族がそれから出た新羅・加耶系渡来人集団である天日槍集団の天日槍と、応神とのからまりが気になる。まず、「古事記」応神段に天日槍(天之日矛)の渡来伝承がながながと書かれていて、息長帯比売の神功皇后はその天日槍の外孫であるとしていることがある。そして、「神武東征」伝説というのは、九州で生まれたという応神の「東征」または「東遷」のことをそのような形で語ったものではないかとみているが、すると、さきにみた(筑前の「九州における天日槍」の項など)林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」に、「私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている」とあるのも気になる。それからまたこれもさきにみた、その天日槍集団からの出である伊覩県主(伊都国王)の一派が「東方の美地〈大和などの畿内〉を望んで東征」したとする瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」も気になるし、同時にまた、大和岩雄氏の「朝鮮の伝説の足跡」にこうあるのも気になるのである。

 【神功皇后(ォキナガタラシヒメ)の母方の祖は、アメノヒポコ〈天之日矛〉と『古事記』は書くが三品彰英氏も指摘するように(「アメノヒボコの伝説」)、神功皇后・応神天皇の母子の九州から畿内への経路は、アメノヒボコ伝説の経路とかさなっている。 応神天皇は『古事記』では、敦賀のイザサワケ〈伊奢沙別〉の神と、名を交換したとある。通説では、イザサワケの神がアメノヒボコであることからして、アメノヒボコ=応神天皇である。とすると、難波王朝の始祖王は、その母方が新羅王子アメノヒボコにつながるだけでなく、その伝承でもアメノヒポコとかさなっているのである。

 いずれにせよ、私はこれまで全国各地を歩いてわかったことであるが、その天日槍集団から出た秦氏族というのは、古代日本最大の氏族であった。その分布は九州はもとより、四国、中国、近畿、北陸、東海、関東地方にまで行きわたっているが、なかでも有名なのは、「さて、東征した秦系集団は、応神朝の終わった段階で山城(京都)の太秦に拠点を移す」(安藤輝国『消された邪馬台国』)とある、その山城における秦氏族である。それは『日本の中の朝鮮文化(2)』「山城」でかなりくわしくみているが、かれらはそれでこれまた、宇佐八幡宮と同じく、全国にひろがった分社四万余の総本社である稲荷大社を祭っている。ばかりか八世紀末には、かれらはその経済力と政治力とをもって、それまでは奈良にあった宮都をこちら山城の京都に遷しているのである。もどる  豊前の山に戻る 九州の山と伝説に戻る

千葉の 葛野を見れば 百千足る ヤニワも見ゆ 国の秀も見ゆ (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) 

ホムタ別は、淡海(近江) へ行く途中、宇治に寄り、そこで名高い歌をよんだ。この歌は、記紀の両方にでているが、ヤニワの部分を普通「家庭」の字におきかえている。しかしその字面ではどうしても現代の「カテイ」を連想するので、ぼくはヤニワのままにした。“京都盆地の北西にあたる葛野を遠くのぞむと、たくさんのヤニワが見える、国の秀(富)が見えている。”

 この歌は国讃めの歌だとされていて、その通りなのだが、山城全体を讃めたのではなく、宇治のほうから葛野を遠眺しての葛野を讃めたという点に、ぼくはこだわっている。それは、渡来系の大集団といわれる秦氏の最大の根拠地である葛野にたいする羨望の歌であり、たんなる国讃めの歌ではなかろう。ぼくの推定では、葛野、少しおおげさに表現すれば「秦王国」への憧れをあらわした歌があって、それを記紀ではこの応神の個所に配列したのであろう。だから、秦氏の祖の弓月君の「来帰」を、『紀』ではいつにしているかには拘泥しない。『新撰姓氏録』の「左京諸蕃」の最初を例にあげると、「太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王之後也。男功満王は仲哀天皇八年来朝。男融通王(一に弓月王という)は応神天皇十四年に来朝し、二十七県の百姓をひきいて帰化す。金銀玉島らの物を献す(以下略)」とあり、他に秦氏は、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉など『新撰姓氏録』の対象としている畿内のすべての国に分居している。

応神 ・ 仁徳王朝  ☆ 秦河勝にもどる

六郷満山 
仁聞菩薩(=英彦山の達識僧侶、法蓮・華厳・躰能・覚満)
郷土資料事典ふるさとの文化遺産大分県1999より

 大化改新(645)により、今の国東半島を中心とした国崎郡は、来縄・田染・伊美・国前・武蔵・安岐に分かれた。この六郷に奈良末期から平安初期、宇佐八幡宮の境外寺院として、法華経八巻二八品になぞらえて二八ケ寺が建立された。これらとその末寺を含めた六五ケ寺を〃六郷満山〃といっている。寺の多くは仁聞の開基と伝えられるが、仁聞は神母・人母に通じ、すなわち宇佐八幡神の母菩薩−比口羊大神の仏教的表現とされている。実際に六郷満山の寺々を開いたのは、英彦山で修行を重ねた法蓮・華厳・躰能・覚満という四人の達識の僧侶たちであったといわれる。宇佐の八幡神信仰と大台宗修験道が結びつき、複雑な宗教体系のもとに発達したのが六郷満山で、二八ケ寺を学問場である本山八ケ寺、修練場の中山一○ケ寺、布教場である末山一○ケ寺に分けた独待の三山組織とし、平安末期(十二性紀)ごろ全盛を極めた。

「本山本寺」・・・後山金剛寺(宇佐市、現在廃寺)吉水山霊亀寺(宇佐市)大析山報恩寺(豊後高田市)鞍懸山神宮寺(豊後高田市、現在廃寺)西叡山高山寺(豊後高田市、現在廃寺)良薬山智恩寺(豊後高田市)馬城山伝乗寺(豊後高田市)津波戸山水月寺(速見郡山香町)

「中山本寺」・・・足曳山両子寺(東国東郡安岐町)金剛山長安寺(豊後高田市)長岩屋山天念寺(豊後高田市)加礼川山道脇寺(豊後高田市)久未山護国寺(東国東郡安岐町、現在護聖寺)黒土山本松坊(西国東郡真玉町、現在廃寺)小岩屋山無動寺(西国東郡真玉町)大岩屋山応暦寺(西国東郡真玉町)補陀落山千燈寺(東国東郡国見町)横城山東光寺(杵築市)

「末山本寺」・・・見地山東光寺(東国東郡国東町)大嶽山神宮寺(東国東郡国東町)石立山岩戸寺(東国東郡国東町)蛾山眉山文殊仙寺(東田東郡国東町)龍華山成仏寺(東国東郡国東町)参社山行入寺(東国東郡用東町)夷山霊仙寺(西国東郡香々地野)小城山宝命寺(東国東郡武蔵町)西方山清浄光寺(東国東郡国見町)懸樋山清巌寺(東国東郡安岐町、現在廃寺)

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中央の動き

太宰府

豊前

豊後

 

 

 

 

豊国値の祖、菟名手 

 

 

 

 

豊国造ハ志賀宮高穴穂朝御代 伊甚国造同祖 宇那足尼
比多国造ハ志賀高穴穂朝御代、葛城国造(同祖) 止波足尼
宇佐国造ハ 橿原朝高魂尊孫宇佐都彦命

 

429?

百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る

 

 

 

 

442?

沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)

 

 

 

継体朝
530-531頃

 

 筑紫君磐井の戦争

 

 

 

 

536

『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

 

 

 

 

554

百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

 

 

 

555

百済聖王の息子恵来倭、

 

 

 

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送

 

 

 

 

562

紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退

 

 

 

欽明31年

570

 

 

【神皇正統紀】肥後國菱形池に3歳児(人皇16代誉田八幡麻呂)出現
【元亨釈書】 宇佐郡厩岑菱形池に3歳児(第16王誉田天皇広幡八幡)出現

 

欽明32年

571

 

 

【宇佐宮記】宇佐郡菱形池上小倉山邊に神有り、3歳児に託し、異人大神比義に告げて曰く、辛国ノ城に八旒旗降、我是日本人王16代誉田天皇広幡八幡麻呂也、諸州処処に跡を垂れ神を為す、ここにおいて八幡大神と号し、祠を立てこれを祭る。

 

 

575

新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。

 

 

 

 

576

豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后

 

 

 

 

583

百済人日羅来倭*

 

 

 

 

585

蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立

 

 

 

推古1年

592

祟峻没(暗殺)

 

 

 

推古5年

597

難波吉士磐金 新羅へ

 

 

 

推古6年

598

難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上

 

 

 

推古16年

608

唐使裴世清来る

 

 

 

推古17年

609

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

 

 

推古36年

628

 

 

 

 

舒明13年

 

 

 

 

 

皇極4年

645

 

 

 

 

孝徳5年

659

 

筑紫太宰帥:日向臣

 

 

斉明4年

 

 

 

 

 

天智6年

667

 

百済鎮将劉仁 

 

 

天智7年

668

 

筑紫率:栗前王

 

 

天智8年

669

 

筑紫率:蘇我赤兄臣

 

 

天智10年

671

 

筑紫帥:栗隈王

 

 

天武1年

672

壬申の乱

筑紫太宰:栗隈王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天武5年

676

 

筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流

 

 

天武6年

677

 

 

 

 

天武11年

682

 

筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢

 

 

天武12年

683

 

筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢

 

 

持統3年

689

 

筑紫太宰:粟田真人朝臣
太宰帥:浄廣肆河内王

 

 

持統6年

692

 

太宰率:河内王

 

 

持統8年

694

 

太宰率:浄廣肆三野王

 

 

文武4年

700

 

筑紫総領:石上朝臣麻呂

 

 

大宝2年

702

 

太宰帥:石上朝臣麻呂

 

 

大宝3年

703

 

太宰帥:大伴宿禰安麻呂
大貮:石川朝臣宮麻呂

 

 

慶雲3年

706

 

少貮:安倍朝臣首名

 

 

和銅元年

708

 

太宰帥:粟田朝臣真人
大貮:巨勢朝臣多益首

 

 

和銅6年

713

 

 

 

 

和銅7年

714

 

太宰帥:多治比真人池守

豊前の民200戸を隼人に移す

 

養老2年

718

 

 

 

 

養老4年

720

 

 

守:宇努男人(大隅、日向の隼人反乱に将軍となす)

宇佐宮禰宜:辛島波豆米 相率神軍行彼国

 

養老5年

721

 

大貮:石川朝臣石足

 

 

神亀4年

725

 

太宰帥:大伴朝臣旅人

 

 

神亀5年

726

 

 

守:宇努首男人

 

神亀6
(天平1)年

727

長屋王の変

 

 

 

 

    漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10)

 

 

    藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11)

 

 

    翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問

 

 

    長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺

 

天平2年

728

 

 

 

守:大伴太夫

天平3年

729

 

太宰帥:藤原朝臣武智麻呂

 

 

天平9年

737

 

太宰帥:藤原朝臣宇合 薨
大貮:小野朝臣老 卒

 

 

天平10年

738

 

大貮:高橋朝臣安麻呂
少貮:藤原朝臣廣繼

 

守:陽候史真身

天平12年

740

藤原広嗣の乱

 

 

 

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

 

天平13年

741

 

 

 

 

天平17年

745

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

大貮:石川朝臣加美
少貮:多治比真人牛養
少貮:大伴宿禰三中

 

 

天平18年

746

 

太宰帥:橘宿禰諸兄
大貮:百済王考忠
少貮:紀朝臣男楯

守:大伴宿禰百世

 

天平19年

747

 

 

 

守:多治比真人牛養

天平感宝1年

749

陸奥国黄金献上

少貮:小野朝臣田守

 

 

 

    大伴牛養、大伴稲君、大伴家持

 

 

    佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨

 

 

    橘諸兄、橘奈良麻呂

 

天平勝宝2年

750

 

太宰帥:藤原朝臣乙麻呂

 

 

天平勝宝4年

752

 

太宰帥:紀朝臣麻呂
少貮:佐伯朝臣美濃麻呂

 

 

天平勝宝5年

753

 

太宰帥:石川朝臣年足
大貮:紀朝臣飯麻呂

 

 

天平勝寶6年

754

 

大貮:吉備朝臣真備

 

 

天平宝字元年

757

橘奈良麻呂の変

 

 

守:榎井朝臣子祖父

 

    安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人

 

天平宝字3年

759

 

 

 

 

天平宝字4年

760

 

 

 

 

天平宝字5年

761

 

 

 

守:池田朝臣足繼

天平宝字6年 

762

 

 

員外介:中臣酒人宿禰虫麻呂

 

天平宝字7年

763

 

 

 

守:笠朝臣不破麻呂/采女朝臣浄庭

天平宝字8年 

764

恵美押勝の乱

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
少貮:采女朝臣清庭

守:佐味朝臣伊與麻呂

 

天平神護元年

765

 

太宰帥:石川朝臣豊成

 

 

天平神護2年 

766

 

 

守:海上真人清水

員外掾:大神朝臣田麻呂

神護景雲元年 

767

 

大貮:藤原朝臣楓麻呂

介:中臣習宜朝臣阿曾麻呂

介:美和真人土生

 

 

守:佐伯宿禰久良麻呂

神護景雲2年 

768

 

太宰帥:弓削御浄臣清人
大貮:藤原朝臣田麻呂

 

 

神護景雲3年

769

 

 

 

 

宝亀元年

770

 

少貮:小野朝臣小贄

 

 

 

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
太宰帥:石上朝臣宅嗣

宝亀2年 

771

 

 

 

守:紀朝臣鯖麻呂

 

 

宝亀3年

772

 

 

 

 

宝亀5年 

774

 

太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂
少貮:石上朝臣真永
大貮:石上朝臣名足
少貮:多治比真人豊濱

守:多治比真人豊濱

 

宝亀6年 

775

 

 

守:弓削宿禰鹽麻呂

守:阿倍朝臣東人

宝亀7年

776

 

少貮:藤原朝臣仲繼
太宰帥:藤原朝臣魚名
大貮:石上朝臣息嗣
少貮:笠朝臣名麻呂

 

 

宝亀9年 

778

 

 

介:吉田連古麻呂

 

宝亀10年 

779

 

 

 

介:膳臣大丘

宝亀11年

780

 

太宰帥:藤原朝臣濱成
大貮:佐伯宿禰今毛人

守:小野朝臣滋野

 

 

太宰帥:藤原朝臣魚名

介:陽候忌寸人麻呂

天応元年 

781

 

 

 

守:多治比真人継丸(兄)

天応2年

782

 

 

 

 

延暦元年 

782

 

太宰帥:藤原朝臣魚名 薨

 

介:陽候忌寸珍璆

 

大貮:石上朝臣家成

守:阿倍朝臣石行

延暦2年

783

 

 

 

 

延暦3年 

784

 

少貮:藤原朝臣管繼

 

 

延暦4年 

785

 

 

介:秦忌寸長足

守:紀朝臣千世

 

 

守:日下部宿禰雄道

延暦5年

786

 

太宰帥:佐伯宿禰今毛人

守:阿倍朝臣草麻呂

 

延暦7年 

788

 

 

 

 

延暦8年

789

 

少貮:藤原朝臣園人

 

 

延暦9年

790

 

員外帥:藤原朝臣濱成 薨
少貮:藤原朝臣真鷲

 

介:百済王鏡仁

 

延暦10年 

791

 

 

守:中臣朝臣弟成

守:藤原朝臣園人

延暦14年 

795

 

 

 

 

延暦15年 

796

 

 

 

 

延暦16年

797

 

 

 

 

延暦18年 

799

 

 

守:藤原朝臣河主

 

延暦24年

805

 

 

 

 

大同元年 

806

 

 

介:小野朝臣木村

 

 

大同3年 

808

 

少貮:多治比真人今麻呂

?:和□朝臣雄成

守:文室真人正嗣

大同4年 

809

 

 

 

介:谷忌寸野主

 

守:文室真人正嗣

弘仁元年

810

 

 

 

 

弘仁2年 

811

 

 

 

 

弘仁3年 

812

 

 

守:永原朝臣最弟麻呂

守:阿倍朝臣真直

 

弘仁4年

813

 

 

守:平野王

守:笠朝臣梁麻呂

 

介:阿倍朝臣雄能麻呂

弘仁5年

814

 

 

 

 

弘仁6年

815

 

 

 

 

天長6年

829

 

 

 

 

承和2年

835

 

太宰帥:三品秀良親王

 

 

承和4年

837

 

権帥:藤原朝臣常嗣
大貮:藤原朝臣廣敏 卒

 

 

承和5年 

838

 

 

守:在原朝臣仲平

 

承和6年 

839

 

大貮:南淵朝臣永河

守:管野朝臣永芩

 

承和7年 

840

 

 

 

 

承和8年

841

 

 

守:大春日朝臣良棟

守:和気朝臣中世

守:善永王

承和9年 

842

 

大貮:藤原朝臣衛

権掾:丹墀真人時永

権掾:坂上大宿禰當岑

 

中井王、日田郡

承和13年

846

 

 

 

 

承和15年

847

 

大貮:紀朝臣長江

 

 

嘉祥2年 

849

 

 

 

権守:登美真人真名

 

嘉祥3年

850

 

太宰帥:三品葛井親王 薨

 

守:加茂朝臣弟岑

仁寿元年

851

 

 

 

 

仁寿3年

853

 

少貮:滋野朝臣善蔭
太宰帥:一品葛原親王 薨

 

 

斉衡元年 

854

 

 

 

 

 

斉衡2年 

855

 

大貮:正躬王

守:藤原朝臣友永

守:石川朝臣宗繼

斉衡3年 

856

 

 

 

 

天安元年

857

 

 

 

 

 

天安2年 

858

 

 

 

守:橘朝臣峯雄

貞観元年 

859

 

 

 

介:善道朝臣根筵

貞観2年

860

 

大貮:清原真人岑成
少貮:藤原朝臣真数

 

介:秦宿禰安雄

貞観3年 

861

 

 

 

 

貞観4年 

862

 

 

 

 

貞観5年 

863

 

太宰帥:二品仲舒親王
少貮:在原朝臣安貞
少貮:藤原朝臣元利麻侶

 

 

貞観6年

864

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観7年 

865

 

 

 

 

貞観8年 

866

 

 

 

守:紀朝臣繼雄

貞観9年

867

 

大貮:茂世王

 

 

貞観10年 

868

 

少貮:安倍朝臣清行

 

介:多治比真人安江

貞観11年

869

 

大貮:藤原朝臣冬雄
少貮:坂上大宿禰瀧守

 

 

貞観12年 

870

 

 

 

 

貞観13年

871

 

太宰帥:二品賀陽親王

 

 

貞観14年

872

 

 

 

 

貞観15年

873

 

権帥:在原朝臣行平

 

 

元慶元年

877

 

 

 

 

元慶2年

878

 

権少貮:藤原朝臣房雄

 

 

元慶3年

879

 

大貮:橘朝臣三夏

 

 

元慶4年

880

 

 

 

介:藤原朝臣安主

元慶7年

883

 

 

 

 

元慶8年

884

 

 

 

 

元慶9年

885

 

 

 

 

仁和元年 

885

 

大貮:藤原朝臣行有

 

守:橘朝臣長茂

仁和2年 

886

 

大貮:藤原朝臣保利

 

豊後介:大神朝臣良臣

 

守:源朝臣淵

仁和3年 

887

 

 

 

 

仁和4年 

888

 

 

 

 

寛平元年 

889

 

 

 

 

 

延喜元年

901

 

権帥:菅原朝臣道真

 

 

延喜5年 

905

 

 

 

 

延喜9年 

909

 

 

 

 

延喜11年 

911

 

 

 

 

天慶3年 

940

将門・純友の乱

 

 

 

 

・小野好古、藤原慶幸、大蔵春實、橘遠保

天慶4年

941

 

 

 

 

天慶5年 

942