筑豊/豊前の古歴史

物部氏の痕跡
 遠賀川中流の剣神社
六ケ岳への宗像三女神の降臨
人名・地名としてのクラジ

香春岳・新羅の神が住む
香春における渡来人の活動
原田一族の祖霊神か
香春の鬼ケ城(鬼岳城)
英彦山
求菩提山 霊験秘法の由緒ある山
修験道 
『熊野権現御垂迹縁起』
宗教界の覇者

生まれ清まり
豊前の秦氏王国 
豊国直菟名手
宇佐(八幡)宮 宇佐の比売大神とは
八幡信仰の形成
応神天皇
六郷満山

A 英彦山


神々の系譜へ

九州の人々へ   九州の古寺一覧へ
九州に残る英雄伝説  
宗教者(聖人)伝  九州の白鳥(神社)地名

九州の山と伝説に戻る

山への旅シリーズに戻る

(表紙に戻る)


 

物部氏の痕跡(1)   遠賀川中流の剣神社    もどる (白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)       周辺関連地図

 物部氏東遷の事実をさらにたしかめるために、私は奥野正男氏の案内で、北九州における物部氏の痕跡と思われる遠賀川中流の剣神社を見てまわった。剣神社は奥野氏の住んでいる近くに点々とある。私が剣神社に着目したのは、吉田東伍の『地名辞書』を開いてみていたとき、鞍手郡の条に次の記事があるのに出会ったからである。「剣岳。新分(にいきた)郷の東、粥田郷の北に独立する孤峰なり。標高三百四十米突」其頂上に剣大明神を祭り、山北を剣村と呼ぶ。此の峰、郡の中央にそびゆれば、中山とも称したり。剣明神は山下の諸村に分祀す。けだし物部氏の兵伎を祭る所にして、以て往時其族党の住止を徴すべきものとす」『地名辞書』が剣岳は「標高三百四十米突ばかり」と伝えているのは記述のあやまりで、実際はもっと低く一二五メートルの高さである。その南につらなる六ケ岳は三三九メートルである。『地名辞書』は剣岳と六ケ岳の高さをとりちがえたのである。しかし、鞍手郡の中央に位置するために中山と呼ばれる剣岳が筑紫の物部氏の信仰の中心であることは、さきの記述によって推察できる。縄文時代に遠賀入海があったことは、福岡県鞍手郡鞍手町の古月貝塚や新延貝塚、また直方市の天神橋貝塚や日出橋貝塚にその証跡をみることができる。それが海退期になって海はせばまり低湿地に変貌していくが、それでもなお鞍手町の古門に鎮座する古物神社の付近は、入海や潟であったことを思わせる浪内の地名がある。浪内の東がわの小字の松隈には貝塚がある。またその北には掛津、沖方、白水、室ケ浦、虫生津など、そこが海辺であったことをうかがわせる地名が点在することも見のがせない。

 古物神社の宮司の話では、神社の南にある道中という小字では稲ができないくらいに潮が出てくるそうである。古物神社は八幡宮であるが、そこに布留御魂神社と剣神社が合祀されている。所在地の古門の古は布留御魂社の布留に由来すると推察される。布留御魂社は物部氏の奉斎する石上布留の社である。それがこの地にあることは、物部氏との関連を抜きにしては考えられない。

 布留御魂社は近傍の宇久保に鎮座したのを大正十年(一九二一)に合祀した。剣神社のほうは、もともと剣岳に鎮座していたが、文政十一年(一八二八)八月に、九州一帯をおそった大暴風のために社殿がこわれたので、移して、古物八幡宮の相殿として合祀したとなっている。

『日本書紀』 には、天智天皇の七年に、沙門の道行というものが、草薙剣をぬすんで新羅に逃げようとした。途中風雨に出会って、迷って帰った、と記されている。道行は新羅僧といわれている。その剣はしばらくこの剣岳に置いてあったという地元の言い伝えがある。

 古物神社の縁起では、その剣は途中、空にまいあがり、古門の地に落ちた。土地の人たちは剣の光りかがやくのを見て、その所在を知った。剣は尾張の熱田神宮にもどったが、剣の霊は落ちたところにとどまり、そこを石上布留の大神のいますところとして、古留毛能村と名づけた、とある。

 こうしたことから、剣岳の周辺の剣神社を熱田神宮とむすびつけるようになったと思われる。けれども、『日本書紀』には剣が落ちたということは記されていないので、「天智紀」の記事を剣岳や古物神社の伝承にむすびつけたのは後世の付会であろう。『地名辞書』の指摘するように、剣神社は物部氏の兵伎を祀る神社と考えたほうが納得がゆく。また古物神社も物部氏の神を祀る神社であったろう。

 剣岳の西にある新北の熱田神社はもと剣神社であり、のちに尾張国熱田大明神を勧請した。また剣岳の東には大字中山字尾山に八剣神社がある。ヤマトタケルが熊襲を征討した帰途に、剣岳にのぽって四方の風景をながめ、中山と呼んだという伝承がある。そのときに供奉したのが今朝麿という人物で、今朝麿の遠孫にあたる人麿が安閑天皇の御代に、剣岳の頂上に神社をたてたとされている。

 このほか、剣神社と関連があるとみられるものに、鞍手町大字小牧の八剣神社がある。鞍手町大字新延にも剣神社がある。さらに鞍手町大字木月にも剣神社の名がみえる。これらは剣岳を中心とした物部氏の信仰とむすびつく神社であると考えられる。この剣神社のなかに熱田神宮の祭神のヤマトタケルを祀るものがみられるのは、尾張の熱田神宮の下宮に八剣神社があるからそれにあやかったものと考えられる。

 さて物部氏に関係があるのは剣岳だけでなく、それと峰つづきの六ケ岳もまた同じである。

物部氏の痕跡(2)    六ケ岳への宗像三女神の降臨     もどる (白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)    周辺関連地図

六ケ岳には宗像の三女神が降臨したという伝承がのこっている。『筑前国風土記逸文』には次の記事がある。「西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまして、埼門山に居ましし時、青(に)の玉を以ちて奥津宮の表に置き、八尺(に)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三つの表を以ちて神のみ体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と日ふ。其の大海命の子孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々」

ここにいう埼門山は、岩波古典文学大系(以下、岩波古典大系本) の『風土記』 の頭註に、福岡県宗像郡の北端、鐘ノ岬とされている。『地名辞書』にも、崎門山は鐘ケ崎(鐘崎) の古名であろうとしているが、『鞍手町誌』には六ケ岳を崎戸山に比定している。山麓の鞍手町室木にある六ケ岳神社の祭神は宗像三女神を祀り、土地の人は三柱様と呼んでいるそうである。

宗像神社文安元年(一四四四)の縁起には「三処大菩薩最初御影向地の事、室貴六嶽に御著有り、神輿村に著き給ふ、この村において、はじめて天神威を輝かせらる」とある。室貴は今の室木のことである。また永禄九年(一五六六)の棟書に「宗像郡室木村第二宮云々、室木は初め宗像郡の内なり」とある。これによっても、室木がはじめは宗像郡に属していたことが分かり、六ケ岳と宗像女神の縁由がおしはかられる。

この室木の里長に長田彦という者がいた。小狭田彦とも書く。「六ケ岳神社記」によると、筑紫国造の田道命の子孫の長田彦が、大神の神勅をこうむり、崎戸山上に神籬を建てたとある。その子孫はながく神官をつとめたといわれる。その長田彦(小狭田彦)について「香月文書」には、本名を常盤津彦命といい、ニギハヤヒの子の天照日尊の十五世の末裔としている。天照日尊と宗像の中津宮の市杵島姫命との間に生まれた御子神のあとといわれている。直方市大字下新入字亀丘の剣神社の祭神の倉師大明神を祀るのは、田道命の裔孫の長田彦と社伝にある。室木の六ケ岳神社は六ケ岳の西に位置し、下新入の剣神社は六ケ岳の東側に位置している。ところで「香月文書」をみると、ニギハヤヒを祖とする小狭田彦の系譜に可美日子とか忍坂埴生とか埴安とか椎日下とか、物部氏の系譜にあらわれる人名を思わせるものがあちこちにあらわれてくる。香月氏は木屋瀬の北にいた中世の豪族である。したがって、その文書をそのまま信ずるわけにはいかないにしても、古い伝承を反映している点もあると考えられる。とくに椎日下の名は物部氏が河内の日下に蟠踞していたことを示唆するものとして注目に値する。また「香月文書」には、小狭田彦の四代の孫の天賀那川王は新北ならびに室木の神官に任ぜられたが、別に香月家の本家を継ぎ、香月の君となったものがいる。その養嗣子の倭男人は磐井の乱のとき、物部鹿鹿火をたすけてたたかい、磐井町子の北磐津をとらえて奴僕にした、とある。

『鞍手町誌』は新北物部が倭男人の輩下として参戦したと述べている。新北物部は「贅田物部」のことである。鞍手町新延の大塚古墳、または剣神社境内の鎧塚古墳、おなじく鞍手町八尋の鋸冠塚古墳などは贅田物部に関連があると推定されている。こうしてみれば贅田物部は六世紀後半まで勢威をふるっていた。そして六ケ岳の神を祀っていたことになる。ここで思い起こすのは、「神代紀」に筑紫水沼君などが宗像の三女神を祀っていると記されていることである。水間(水沼)君は、物部阿遅古連の末裔である。物部氏と宗像氏の関係が六ケ岳の降臨伝承をとおして確認できる。この六ケ岳の南麓、犬鳴川に沿うあたりの鞍手郡宮田町大字磯光字儀長に天照神社が鎮座する。祭神は天照国照彦天火明櫛玉餞遠日尊、すなわちニギハヤヒの命である。ニギハヤヒを祀る天照御魂神社がこの鞍手郡の六ケ岳のふもとに鎮座していたことを現地で知ったのは、大きなおどろきであった。社伝によると、垂仁帝の十六年、鞍手郡宮田村の笠木山(現在宮田町の笠置山、四二五メートル) にニギハヤヒの神が降臨したという。垂仁帝の七十七年の春には笠木山の嶺に神殿を造った。稲の初穂をふもとの谷に掛けてニギハヤヒの神に奉ったので、その谷を穂掛谷という。十九代の允恭天皇のとき、神社が野火にかかった。また高山に老幼の人びとがのぽることが困難なので、笠木山頂の宮をふもとの穂掛谷に移した。そのとき、数千の石をあつめて、その上に社殿をたてたので、のちにその場所を千石原という。そのあと、天長五年(八二八)の冬、明野の里に宮を移した。それが今の脇野である。『三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(八七七)十二月十五日、筑前国正六位上天照神に従五位をさずけたまうとある。さらに花園天皇の延慶元年(一三〇八)に、ある人の夢にニギハヤヒの神があらわれて、白い鶴の住むところに移せと告示した。そのとき、鶴田の里に白い鶴の雌雄二羽がやってきたので明野から移し、そこを鶴田村と名づけた、と社伝にある。「弦田物部」の居住地の鶴田である。この鶴田は現在宮田町大字鶴田である。天照神社のある宮田町大字磯光は鶴田ととなりあわせの地域である。

物部氏の痕跡(3)     人名・地名としてのクラジ     もどる (白鳥伝説、上巻、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)        周辺関連地図

 天照神社は六ケ岳の南麓にあるが、その東北麓には剣神社がある。この剣神社は、直方市大字下新入字亀丘に属する。由緒によると、筑紫国造の田道命が成務天皇のとき、筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたという。さてこの倉師大明神は鞍手郡名の発祥の神社と称せられている。

『鞍手町誌』は、鞍手の郡名のおこりを種々穿整しているが、それによると、鞍手町新北の熱田神社(もとの剣神社) の神官である金川家の家譜には、闇路公の文字がみえるという。またおなじ鞍手町の長谷にある鞍橋神社を土地の人はくらじさんと呼んでいる。さらに伊藤常信の著す『倉久村春日神社社記』によると、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、倉久の春日神社でしばらく休憩し、そのとき馬の鞍を楠にかけた。この楠は昼なお暗く繁茂していたが、その木が倒れて明るくなったから、暗出郡と名づけたという。もちろんこれらは伝承にすぎない。『日本書紀』欽明天皇十五年(五五四) の条に、弓の上手な筑紫国造がおり、国造の放った失はするどく、敵兵の乗った馬の鞍の前輪と後輪とを射通した。そこで鞍橋君という、とある。『日本書紀』 には、鞍橋、これを矩羅月貳という、と註記してある。岩波古典大系本の『日本書紀』の頭註には、クラジはクラハシの転であり、鞍の端から端まで射通したことによるあだ名であろう、といっているが、『日本書紀』の原註にクラジと読ませている以上、むしろ、鞍橋をクラジにあてたとみるほうが正しいと思われる。

 この鞍橋君は大和朝廷が百済と同盟して新羅とたたかったとき奮戦したのであるが、その戦闘には竹斯物部莫奇委沙奇なども加わっている。竹斯は筑紫であるから、おそらく筑紫物部は遠賀川の流域に播踞していたと思われる。前にみたように直方市下新入の剣神社は筑紫国造の田道命が筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたというから、筑紫国造として勢威を張っていた鞍橋君もまたそれと関係があったのであろう。『鞍手郡誌』には「現に郷内に鞍橋君を祀りし黒治社の廃址あり」と述べている。『旧事本紀』 の「国造本紀」によると田道命は阿倍氏と同族で大彦命の五世の孫となっており、物部氏とは深い緑由をもっている。また剣神社のある鞍手町新北はさきに述べたように贅田物部の居住地である。『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野目の連の四男辰狐の連を筑前鞍手に流す」とある。物部守屋は用明天皇二年(五八七) に蘇我馬子にほろぽされた。この『聖徳太子伝』は文保二年(一三一八) の著作で、内容は信じがたいといわれるが、物部一族を鞍手郡に流したというのは、鞍手郡が物部一族の根拠地であったからであろう。こうしてみれば、倉師、闇路、黒治、鞍橋と書いて、すべてクラジと読ませているのは、物部氏につながりがある名前とみなければならぬ。ここにおいて想起するのは、「神武紀」に高倉下、または兄倉下・弟倉下の名前が登場することである。『旧事本紀』「天孫本紀」には、ニギハヤヒの子の天香語山命は天降ってから手粟彦命、またの名は高倉下命と記されている。これを尾張氏系譜とみる説もあるが、私はそれをとらない。なぜなら、河内国北河内郡のニギハヤヒが降臨したという伝承の磐船の地に倉治の地名があるからである。倉下は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係があると私は考える。鞍手の地名は、『続日本紀』に、天平十二年(七四〇)、藤原広嗣みずから大隅・薩摩・筑前・豊後などの国軍あわせて五千人ばかりをひきいて、鞍手道より往く、とあるのがはじめてとされている。

 それ以前は鞍手はおそらくクラジと呼ばれていたのであったろう。筑紫国造である倉下君がそこに住んでいた。このクラジの名が筑紫から河内、大和の物部氏の居住地に移ったのはいつのことか、それをきめることはむずかしい。しかし河内の倉治、または「神武紀」の高倉下は筑紫のクラジと関連のあることを示す地名であり、人名であることは疑いを容れない。この点からも尾張氏とは関係がないのである。

 さてそのクラジの意味はそもそも何であろうか。「仲哀紀」には、神功皇后が山鹿から岡の浦に海をわたったが、船がすすまなくなったと述べてある。山鹿は『和名抄』にいう筑前国遠賀郡山鹿郷で、いまも遠賀川口の東に遠見の鼻があるが、そこを山鹿岬と呼んだ。岡の浦は「神武紀」にいう岡の水門であり、福岡県遠賀郡芦屋町付近を指す。神功皇后の船のすすまなくなった原因を聞くと、岡県主の先祖の熊鰐(わに)という者が進み出て、岡の浦に、大倉主、菟夫羅(つぶら)媛という男女二神がいますが、その神の怒りに触れたのであろうと答えた、そこで皇后は別の船に乗りかえて洞海(くきのうみ)から入ったという。

 大倉主の大は美称であり、主はその支配者である。倉は山穴または谷を意味する。岫または洞は洞穴とか、山の峰とか、両がわが崖になっている陸路をさす。『出雲国風土記』に記されている「加賀の潜戸」の潜も同様である。現在でも茨城県北部から福島県や宮城県にかけて、峰や峠をクキと呼んでいる。『筑前国風土記逸文』に次の文章が記されている。

「塢舸(をか)の県。県の東の側近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と日ふ。大船を容るるに堪へたり。彼より島・鳥旗(とはた)の澳(うみのくま)に通ふ。名を岫門(くきど)と曰ふ。小船を容るるに堪へたり」

 ここにいう大江は遠賀川の川口で、古くは入りこんで洞海湾に通じており、大船を入れることができるくらい広かった。そこから若松、戸畑(ともに北九州市)の方にぬける海峡を岫門(くきど)と呼んだ。『日本書紀』に洞海(くきのうみ)と記してあるのをこの『筑前国風土記逸文』には岫門といっている。要するに洞も岫もおなじ意味に使用されている。この洞または岫と、倉とは同じ意であると、岩波古典大系本の『日本書紀』の補註は述べている。したがって倉主というのは洞の主のことだという。つまり大倉主を洞海の主とするのである。

 さきにみたように『日本書紀』の文章に、岡の水門に大倉主と菟夫羅媛の男女二神がいると記されているが、遠賀川の西岸の吉木、黒山のあたりを島門と呼んだ。そこには天物部二十五部人のなかの「嶋戸物部」が住んでいたと推測される。そのため吉木の近くの高倉に高倉神社がある。『筑前続風土記』 によると、その高倉神社は、芦屋浦に鎮座する大倉主、菟夫羅媛の本宮であるという。芦屋浦は今の芦屋町船頭町で、そこに高倉神社の下宮の岡湊神社がある。とすれば嶋戸物部と大倉主とは密接な関係があったにちがいない。嶋戸物部の奉斎する神が岡の水門の神の大倉主であったと考えられる。「神武紀」にはタカクラジは高倉下または高倉と記されている。すなわち高倉と書いてもタカタラジとよませている。この高倉下または高倉が物部氏の系譜に属することはすでに述べたとおりである。大倉主を祀る高倉神社もまた高倉下と縁由があるにちがいない。その御神体は聞くところによれば剣である。また近くの遠賀町今古賀には八剣神社がある。倉主と倉下とはきわめてよく似た音である。こうして、クラジの名は倉主、すなわち、「洞海の主」 に由来すると思われるのである。

 今の鞍手町のあたりまでは、縄文時代に海が深く入りこんでいて、遠賀潟を形成していた。遠賀川は洞海湾と通じていた。そこで鞍手町を中心に幡据する筑紫物部に、洞海の主をあらわす倉主→倉下の名前がつけられ、それが訛ってやがて鞍手という郡名の起こりになったと考えてもあやしむに足りないのである。

 ところで物部氏の一族が剣岳をとりまくように播踞していたことは、今も残されている地名によって分かる。たとえば、剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北という地名がある。これは『和名抄』にいう鞍手郡新分郷で、『旧事本紀』の「天神本紀」に述べているニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二十五部人のなかの「筑紫贅田物部」に比定されている。そこに剣神社のあることはまえに述べた。

 また『鞍手郡誌』によると、『和名抄』にいう鞍手郡十市(といち)郷と、鞍手郡二田郷は、現在の小竹町新多(二田)と若宮町のうちの旧山口村、中村、福丸、水原、金丸および宮田町の芹田の一帯をさすとされ、いまもその地に都市(とち)八幡の社名や都市(とち)原の地名がのこっているという。そこは『旧事本紀』「天神本紀」のニギハヤヒ降臨に供奉した五部人の一人である十市部首等の祖の富々侶と五部造の二田造の居住地とみられている。天物部二十五部人のなかにも、「二田物部」の名は記されている。

 さらに『和名抄』には鞍手郡粥田郷の名が記されている。粥田郷はもと勝野村と香井田村で、香井田は粥田の訛りであるといわれている。その旧香井田村(現在宮田町)に大字鶴田があるが、その鶴田はニギハヤヒ降臨の際に供奉した五部人の一人の「筑紫弦田物部」等の祖、天津赤星の居住地と考えられている。鶴田は剣岳の南にあたる。

 このように剣岳をかこんで、物部氏一族の居住をつたえる地名と剣神社が点在する。このほか物部氏に関係のある神社としては筑後国三井郡高良内村字坂口(現在久留米市)の赤星神社がある。祭神は「弦田物部」の祖の天津赤星で、高良内村の明星嶽城地に祀られている。赤星はすなわち明星である。天津赤星が住んでいたので明星嶽と名づけられたのであろう。そのふもとに星の神の妙見社がある。その妙見社のかたわらには、広大な石窟があるという。そこの古墳に住んでいた天津赤星の子孫が、筑後国八女郡鶴田(現在筑後市) に移住して、筑紫の弦田物部の名を名乗った、と社伝にいう。

 高良神社が物部氏の奉斎する神社であると思われることからして、その南にあたる明星嶽(現在明星山、三六三メートル) のふもとに天津赤星が住んでいたという伝承があってもいっこうにおかしくない。

 さきに述べた水沼君に縁由のある筑後三瀦郡の鳥養郷は、筑後川畔の久留米市大石町あたりと比定されている。この大石に式内社の三井郡伊勢天照御祖神社がある。『地名辞書』 の説明では伊勢は石の訛りであって、つまりこの土地の名を指す。そして天照御祖というのは物部氏の祖のニギハヤヒを祀ったものであろうという。

『日本書紀』 に継体帝の二十二年、物部鹿鹿火が磐井と筑紫の御井郡(三井郡) にたたかうとあるところから、大功をたてた物部氏がそこにとどまったのかも知れないと推定を加えている。あるいはまた、高良神社は物部胆咋(いぐい)連を祀っている神社であることから、それと関連づけて考えることができる、と『地名辞書』は述べている。この大石町と筑後川をはさんでむかいあう豆津は「大豆物部」 の所在地であった。『和名抄』にいう肥前国三根郡物部郷はすでに『肥前国風土記』 にもその名を記されており、物部の経津主の神を祀るとある。そこは現在佐賀県三養基郡北茂安町で、豆津のすぐ近くである。また筑後浮羽郡にも物部郷がある。筑後川中流に沿う今の吉井町あたりとされている。物部郷は壱岐国石田郡にもあると 『和名抄』 は伝えるが、そこは旧渡良村(現在郷ノ浦町) であって、物部布都神社がそこにある。

 このほか物部一族の居住地と思われるものに、『和名抄』 にいう筑後国三毛郡十市郷がある。その所在地は明らかでないが、のちの三池郡、つまり肥後北部に近いところであると推察される。また、『和名抄』 には筑前国嘉穂郡に馬見郷があると記されている。そこは今の嘉穂町の大隈あたりとされており、馬見神社がある。ニギハヤヒの降臨のときに供奉した天物部二十五部人の一つ、「馬見物部」がいたところとされている。この大隈は豊前の香春から秋月や甘木を経て久留米にいたる古代の通路にあたっている。

 香春は銅山をもって知られている。『三代実録』 に「元慶二年、詔令採規矩郡銅」とある。この銅は香春の銅山のことである。規矩は企救郡のことであるが、さらに古くは聞と記した。さきにも述べたように、「雄略紀」に、物部目連、筑紫聞物部大斧手をひきいて、伊勢の朝日郎を斬るとある。これは天物部二十五部人の一つの筑紫の「聞物部」と関連があると考えられる。こうしてみるとき、久留米の高良神社と香春とをむすぶ物部一族のつながりが明らかになる。高良も香春の名前も、もともとはおなじ語であったと思われる。

 このほか、物部五部造の一人である「大庭造」は、福岡県朝倉郡朝倉町の大庭に緑由をもち、またおなじく「勇蘇造」は、福岡県糸島郡二丈町の大字深江字磯崎に関連づけて考えられている。

 これら物部氏に経由のある氏族や神社がすべて磐井の乱の後に北九州地方に根を下ろしたとみるのは信じがたいことであって、それ以前の物部氏の勢力が、磐井の乱の後に拡大したと考えるべきであろう。

 

天照大神と倭大国魂を並べて祀る同床共殿   谷川健一著 “古代学への招待” 2010年より

『日本書紀』を見ると、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊の初期天皇はほとんど磯城県主の娘を娶っている。磯城県主の初代は弟磯城、名は黒速である、と「神武紀」は伝える。磯城は聖域をあらわす。琉球の神話に見られるシケ、スキ、スクなども同系の語であろう。太田亮は弟磯城を祖とする磯城県主は物部氏と婚を通じ、その系統はついに物部氏に移ったと見ている(『姓氏家系大辞典』)。県は古代の郡に相当する地域である。磯城県主の女の真鳥姫は、物部氏の伊香色雄命と婚し、建新川命を生んだ。「天孫本紀」に、建新川命は、倭志貴県主等の祖とあるが、母系を継いで志紀県主となったということが分かる。ただ『新撰姓氏録』には、建新川命の弟である大売布命を志貴県主の祖としている。このほか、「天孫本紀」には、建新川命の兄である十千根の子の物部伊岐美連公も「志貴県主云々等の祖」とある。いずれも物部氏である。さきに述べたように磯城県主は婚姻によって物部氏とむすばれ、物部氏の系統に組み入れられ、饒速日命を祖と仰ぐことになった。この間の経緯は『記紀』にたしかめることができる。第七代の孝霊天皇の妃は十市県主の祖の磯城県主大目の娘の細媛である。十市(とおち)県主は物部氏の系統である。第八代の孝元天皇の妃は、穂積臣の祖の鬱色雄命の妹の鬱色謎命である。穂積氏は物部氏の同族である。第九代の開化天皇の妃は物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘の伊香色謎命である。第十代の崇神天皇にいたってはじめて大彦命の娘の御開城姫を娶っており、崇神のあとはすべて皇室の血を引く者が妃となっている。このことは何を意味するか。古代においては家の祭祀はもっばら女性の手にゆだねられていた。開化帝までの同床共殿の時期にあっては、神々が同じ宮殿で一緒に祀られていたことから、妃として宮中に入った物部氏の女性が天照大神と倭大国魂双方の祭祀をつかさどっていたにちがいない。
 三輪山のふもとにある檜原神社の境内に立つと、大和国中をへだてて、真西に二上山を望み、春分の日の太陽は二上山頂の雄岳と雌岳のちょうど中間に沈んでゆくのが見える。宮中に祀っていた日神を移し祀ったという笠縫邑は槍原神社のあたりであるという説が有力である。ここならば太陽の運行を観測するのに最適な地であることはまちがいない。
 『記紀』には敏達天皇は訳語田(他田:おさだ)幸玉(さきたま)の宮で政を見たとあるが、そこは
桜井市の戒重(かいじゅう)付近に比定されており、戒重にある春日神社は他田宮とも称した。一方、他田宮を桜井市大字大田とする説もある。他田→太田→大田と地名が変遷したという。そこには他田坐天照御魂神社があり、二ギハヤヒを祀る。アマテルは自動詞であり、アマテラスは他動詞である。自然の球体である太陽はアマテルであり、地上を照らす支配者の太陽がアマテラスである。それゆえにここではアマテルという神社名が注意されるのである。物部氏の祀っていた日神はアマテルであり、天皇家の日神はアマテラスである。それは物部氏の日神アマテルを天皇家がアマテラスとしてわがものにしたと考えられなくもない。
 用明紀の即位前紀の九月に「酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)を以て、伊勢神官に拝(め)して、日神(ひにかみ)に祀(まつり)に奉(つかえまつ)らしむ」とある。用明帝の先帝の敏達天皇の六年(五七七)の春二月に「詔して日祀部・私部(ひのまつりべ きさいちべ)を置く」と『日本書紀』にある。日祀りは太陽を祀ることであって、それにふさわしい地は
笠縫邑・檜原神社のあたりしかない。槍原はまえに日原とも記した。また桜井市の草川は日下に由来するのではないかという池田末則の説がある(『日本地名伝承論』)。草川には川は流れていない。日下は河内の草香が日の下であるためにつけられた地名であることは私は明らかにした(『白鳥伝説』)。三輪山のふもともまさしく日の下であり、そこが日祀りの場であったことは想像に難くない。敏達天皇の時に定められた日祀部というのも、日神を斎き祀る集団から出発したにちがいなく、その祭司にたずさわる女性が日の妻であった。
 民俗行事としてながく残りつづけたヒムカエヒオクリ、またはニッテンサマノオトモとかヒノトモと呼ばれるのは、春秋の彼岸の日に、女たちが午前中は野原を東に歩き、午後は西に歩くという習俗で、京都府や兵庫県などに見られた。ヒノトモという言葉からして、素朴な日神崇拝の名残というほかはないが、遠く古代の日祀りの女たちの行動を思わせるものである。

 

香春岳(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年より) もどる      豊前の山に戻る

 香春岳三山には古くから三所権現の神々が祀られてきた。まず南瑞の一ノ岳(南端)には辛国息長大姫大目尊(からくにおきながのおおひめおおめのみこと)、ニノ岳は天忍穂耳命(「紀」の天忍骨尊)、三ノ岳は豊比口羊尊(とよひめのみこと)といった神々である。

 

新羅国の神が住む   もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

「昔、新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名づけて鹿春の神と申す」(「豊前国風土記」)、とあって、河の瀬が清かったので、「清河原の村」といったという。香春岳の山名由来であるが、五二代嵯蛾天皇の御代に伝教大師が七堂伽藍を香春岳山麓に建立し、国家鎮護と安寧の析願所として、これを賀春山神宮院と名づけた(「香春神社縁起」)といわれている。香春は、往古には清河原と呼称していたが、平安のころには賀春に改められ、元和(一七世紀)の頃からいまの香春に転化したようである。さて、一ノ岳の辛国息長大姫大目尊とはどのような神か?「息長大姫」という一ノ岳の神名は、「延喜式神名帳」に「尊び称えたる御名なり」とあるだけで、また「大目」は考えずとあるから、この神の正体は不詳というほかはない。この神名と似た名に息長足姫命がある。人皇九代開化天皇四代の曾孫、息長族の王息長宿禰の女で、一四代仲哀天皇の妃となった神功皇后である。しかし「太宰管内志」では、「御名の似たるによって息長足姫の御事なりという説は慎しむべき虚事か」と疑問視しており、いまでも香春の神を神功皇后とする説は聞かれない。いずれにしても新羅国から豊前国香春に渡来してきた新羅系秦氏(息長族もその一族)の集団が、故国で祀った神を住みついた香春の地に、再祭祀したものとしか考えられない
 ニノ岳の天忍骨尊は、英彦山の主神と同じ神で、「延喜式」では〃オシホミミ〃と訓じている。つまり天忍穂耳命(「記」)である。
 また三ノ岳の豊比口羊尊であるが、この神の神殿は、豊比口羊尊がのちに山麓の採銅所村に下って村の産土神となられたので空殿になってしまったといわれる。文永年間(1264−74年)の頃の「同社旧記」によると、豊比口羊尊(神社)はいまは三ノ岳の麓、中採銅所にある三カ村の産土神で、古宮八幡宮の神なり、とある。また「古宮八幡宮縁起」には、三ノ岳の神を祀り、八幡宮は相殿なり。考えれば、上古には三神ともに山上に鎮座せりと聞く。三ノ岳の東麓に〃古宮の森〃という所あり、これは古宮八幡宮の旧跡という。またここは、〃阿曾の隈〃のことであると述べるが、現在の古宮八幡宮の社は〃高巣の森〃といわれる所にあるという。この縁起のとおりなら、豊比口羊尊が三ノ岳から最初に遷座したのは〃阿曾の隈〃であったようだ。  豊前の山に戻る

 

香春における渡来人の活動 New 2004.11.28up    もどる(豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より)
 香春岳の鉱山は三ノ岳を北西から取り巻くように連なっていはいるが、二ノ岳にもないわけではない。そして香春岳全体から産出する鉱物は、金、銅、水銀、水晶などである。龍骨は太古の動物の化石として漢方薬に珍重される。香春岳の場合は石灰岩かも分らない。新羅からの渡来人は香春に住みついて、鉱物を採取し、それを精錬する仕事に従ったと考えられる。なぜ、「新羅の神」がやってきて「鹿春の神」と呼ばれたかといえば、古代には金属を精錬する技術者は高度な技能をもつがゆえに、神として衆人の尊敬を受けたのである。古事記や日本書紀には「天目一箇神」と称されている。つまり「目一つの神」である。炉の炎を長年見つめていると、視力が弱り一眼を失するに至る者が多い。
 この渡来人技術者たちは、香春岳に山の女神を祀った。その山の女神ははじめ三ノ岳の中腹の阿曽隈にあったが、やがて山の近くの古宮鼻に移し古宮社と称した。ところが和銅二年(709)に阿曽隈の女神は、一ノ岳のふもとの香春神社に勧進された。また古宮鼻の地で祀られていた古宮社のほうは、慶長年間に香春町大字の採銅所字鷹巣山に移された。かくして慶長年間以降は、香春には山の女神である豊比口羊命を祀る神社が二つ並び存したことになる。しかし、香春神社の豊比口羊命はいつも古宮社の方に行っていて不在であるといわれた。従って、豊比口羊命にとっては古宮社のほうが本拠であった。古宮社は一名豊比口羊社とも呼ばれた。
 和銅二年に創始した香春神社は、豊比口羊命のほかに辛国息長大姫大目命と忍骨命を祀る。辛国は韓国、息長は息が長いということで、ふいごの風がよく通るという説が一番有力である。大姫は神と人との間を取り持つ巫女的な存在である。大目は、たんに大きな目という意味ではない。大目はダイマナコと呼ばれる。ダイマナコはヒトツメコゾウ、あるいはイチョメドンとも呼ばれて、一つ目を云う。いわゆる金属技術者を指す「目一つの神」である。そうすると、辛国息長大姫大目命は、新羅から香春にやってきて、ふいごを使って銅を採掘し鋳造する技術者たちの信奉する「一つ目の神」に仕える巫女ということになる。
 また、忍骨命はその存在が稀薄で付け足しの感がある。そうすると、もともと香春岳の三ノ岳に祀られていた鉱山の女神の豊比口羊命と香春神社の辛国息長大姫大目命は同一神にほかならず、この二柱の神は実体において一つであったことになる。そこで豊比口羊命は新羅からの渡来人技術者が信奉した金属精錬の神であったことがはっきり分かる。

一目の神       (四天王寺の鷹2006年、谷川健一、より)   もどる

 宇佐の放生会のとき香春の採銅所にある古宮八幡宮の祭主の長光家で銅鏡を鋳造して宇佐本宮に納めるが、この放生会に細男舞が舞われる。その祭で、

   いや身をきよめ  ひとめの神にいく 

   いやつかつか  まつりせぬはや

という歌がうたわれる。この歌の意味は不明であるが「ひとめの神」は一つ目の香春の神だろうと云われている。これらのことは拙著「青銅の神の足跡」ですでに書いている。

 香春神社の主神は忍骨命ではなく辛国息長大姫大日命であろう。では豊比口羊命との関係はどうか。私はこの二柱の神は同一神であると考える。阿曾隈に祀られていたのは三ノ岳の女神であった。この女神は鉱山に働く人々の守護神として崇拝の対象となっていた。

 「豊前国風土記」逸文に「新羅の神」とあるのは阿曾隈の山の女神にほかならなかった。その神はあとで古宮鼻に祀られていた。しかるに香春神社が創建され、宇佐神宮と同じく三柱の神を祀ることになった。そのとき豊比口羊命の神の本質を明確に示す必要から、辛国息長大姫大目命が創り出されたのではないか。豊比口羊命の本質は、韓国からやってきた鉱山採掘者の女神ということを明らかにする必要があったのである。香春神社における忍骨命の存在は稀薄で、つけ足しの感がある。したがって辛国息長大姫大日命は結局豊比口羊命の外向きの公式的な名であると私は云いたいのである。

日置氏の役割  香春岳の神々     (四天王寺の鷹2006年、谷川健一、より)   もどる

 香春岳の最古の神は三の岳のふもと阿曾隈に祀られる山の神の豊比口羊命であった。はじめは阿曾隈の森に置かれた石祠にしかすぎなかったが、拝殿を目と鼻の先の古宮鼻にもうけ、宮原の人たちは、そこで祀りをおこなっていた。ところが日置約(糸勿)子という人が和銅二年(七〇九)に阿曾隈の豊比口羊命を一ノ岳のふもとにある香春神社に勧請した(太宰管内志)。日置氏はおそらく三ノ岳の金銅を採掘する氏族ではなかったかと推測される。長州長登鉱山の労働者たちの中には日置氏の名前が多く見られる。「新撰姓氏録」によれば、「日置造」は高麗国人伊利須意弥より出ず、とあるから、渡来人であろう。

 これについて思い起されるのは、匹野神社(熊本県玉名市立願寺)のことである。疋野は日置野のことと解される。井上辰雄によると日置氏は玉名郡日置郷に本拠を置き、菊池川沿いに勢力を張った豪族である。日置氏は菊池川の砂鉄を掌握し、製鉄に従事したと見られ、匹野神社はその氏神とみられる。主神の波此岐(はびき)神はふいごに関係のある名前と考えられる。現に疋野神社を訪れると大きな鉄滓塊が置いてある。垂仁紀三十九年の条には、五十瓊敷皇子が茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮で剣千本を作らせたとある。それに協力し従事した部民に日置部があるところを見ると、鉄や銅を溶かす鍛冶に関係していた氏族であると考えられる。大神比義の比義も日置に由来するという説があるが、検討に催するとおもう。

香春神社の神職   New 2004.11.28up    もどる(豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より)
 
「太宰管内志」には香春神社の神職として赤染氏二家、鶴賀氏一家を挙げている。鶴賀氏は代々古宮社(一名豊比口羊神社)の神官をつとめていることから、鶴賀氏は鉱山神である山の神をもっとも古くから奉斎した神職であることが分かる。鉱脈をツルと呼ぶから、鶴賀という氏姓もそれに由来するものであろう。
 赤染氏はやはり香春岳の鉱山に関与していたと見られる。すなわち香春岳の鉱物、とくに金、銅、水銀などを調合し、不老不死の石(仙)薬を作ったのではないかと私は推測している。赤染氏が常世連を賜ったのも、それと深い関わりがあるに違いない。なぜなら、道教における常世とは、理世的な不老不死の世界に他ならないからである。「新撰姓氏録」には、常世連は燕国王の公孫渕から出たとある。もとよりそれは架空の話であるが「蕃別」であることは疑いなく、朝鮮半島からの渡来人であることを指している。とすれば常世連を賜った赤染氏もおそらくは、秦氏にも縁のある新羅出身の人々であったと考えられる。

原田一族の祖霊神か   もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 また、採銅所には「現人神社」という神社がある。主祭神を都怒我阿羅斯等という説があるが、本来の神は永禄四(1561)年、香春一ノ岳にあったという鬼ケ城城主原田五郎義種が豊後の大友宗麟に攻められて落城、採銅所付近まで落ち、ここで発見されて悲憤の死を遂げた。のちこの地方一帯に疫病が大流行し、村民に多くの死者を出したため、義種の御霊を祀って疫病退散をなしたことから現人神社を建立、祭祀したのが事実のようである。都怒我阿羅斯等は「垂仁天皇紀」一書にも一文があって、新羅系加羅国(辛国)からの渡来人だといい、現人神社の祭神は原田一族の祖霊神で都怒我阿羅斯等ではあるまい。さて、豊比口羊尊は豊姫命とも書き、一説では息長足姫命(神功皇后)の妹ともいう。「太幸管内志」は、この神はどのような方か知りがたいが、神功皇后の御妹とある豊姫神にてもあらんか、と書いている。豊比口羊神社の神官は、代々鶴賀氏が奉仕したという。鶴賀氏は仁平三(1153)年春、鎮西八郎為朝が、豊前田川に源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとき、鎌倉の鶴岡から豊前に西下した者ゆえに鶴賀氏を名乗ったとあって、さきの都怒我阿羅斯等の子孫がこの鶴賀氏だとも述べている(「応永戦乱記」)。  もどる      豊前の山に戻る

鬼ヶ城  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 香春の鬼ケ城(鬼岳城)といえば、平安−鎌倉−室町に及ぷ戦国記に登場する豊前国古城史のなかでは不落の名城として名ある古城。だが、この鬼ケ城は香春三山のどの山に築城されだのか、地元でも〃幻の鬼ケ城〃といわれてきた。五一年春以来の学術調査では、ニノ岳らしいという「かわら郷土史会」原田種実氏のレポートが、歴史と自然をまもる会の機関誌(五一年五月六○号)に発表されたが、調査は未完のままで確実な判断はできないようである。「豊前軍記略」などの史記によると、香春鬼ケ城の築城は、保元二(1157)年、平清盛が大宰大弐に任じられた翌年、香春岳山王権現の東に城を築き、神妙な山ゆえに鬼岳(城)と号し、一族の越中ノ次郎兵衛盛次に命じて守らせた、とある。また「両豊記」には、田河(川)郡香春岳の城は、天慶二(939)年、藤原純友がはじめて造った城で、純友は二男純再に守らせた、とも述べる。問題の鬼ケ城の在所は一ノ岳の中腹にあって、要書の地であったからはじめて城を造るともある。   もどる      豊前の山に戻る

英彦山  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)    もどる      豊前の山に戻る
 英彦山をはじめて開いたのは北魏の善正ともいうが、平安初期の僧法蓮上人とも伝えられる。伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げたといわれ、また26代継体天皇の御代に、大唐(いまの中国で異説では魏国)から善正和尚という僧が飄然として海を渡って大宰府につき、豊州(豊前国)の高岳(英彦山)の聖なる地に「彦山霊仙寺」という一寺を建立して、釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩を本地(仏)にしたという。また別伝によると、その昔、不思議な光を発する霊光が西方から飛来して英彦山の南岳に止まった。その光は、八角五光の玉石に見えたという(裏彦山道の玉屋の岩屋に現われたという伝説の水精の石のことであろうか)。さらに、中国の天台山(天梯山とも書く)に住んでいた王子が、日本国鎮西の日子山の峰に天降った、などの諸説がある。 
英彦山   (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より)    もどる      豊前の山に戻る    修験道文化と神楽へもどる 
 開創の伝説は、『彦山流記』という鎌倉時代にできた縁起に出ていますが、『豊鐘善鳴録』のいろいろのお寺や神社の縁起を集めたものです。豊前・豊後の鐘がよく鳴るというので「豊鐘善鳴」とつけたのでしょうが、非常に面白いいろいろの伝承が多いので、柳田国男先生はたいへんにこれを愛用した。そのほかに、このあたりの地誌である『太宰管内志』というのが江戸時代にできた。『彦山流記』と『豊鐘善鳴録』によると、北魏の善正という坊さんが、継体天皇の二十五年に彦山へきて開いた、という伝承になっている。それから山の中で、日田のもので藤山恒雄という狩人に出会った。藤山恒雄は殺生の身を恥じて入道して、善正の弟子になって忍辱という名前に変えた。この二つの開創伝説が一つになっていると推定しないと、この修験の山の開創伝説は荒唐無稽になってしまう。
 もう一つの縁起は『彦山権現垂迹縁起抜書』で − 『熊野権現御垂迹縁起』 によっているがー、これは現在、写本しかないのですが、また変わったところがある。だいぶ似ていますが、『熊野権現御垂迹縁起』では彦山のご祭神ほ水晶の形になって唐から飛んできたが、この話では五つの剣になってきたと伝えられています。剣を投げたところが、一つは彦山、一つは熊野、一つは日光、一つは羽黒、もう一つは淡路の乙鶴羽へ落ちたと書いてある。乙鶴羽は 『熊野権現御垂迹縁起』 では諭鶴羽です。これはこの五つの山の信仰上の同一性を主張する意味があった。もちろんそんな剣が飛んでくるはずはありません。こういう説話のもっている背景には、五つの山の修験信仰は同根だという主張がある、と解釈していいと思います。それに対して、『熊野権現御垂迹縁起』では彦山と石鎚と諭鶴羽と紀州の切部、それから新宮、本宮が一連の熊野権現の移ったあとであるともいっていて、そういうところも違います。剣というのと、神が移っていったということに違いがあります。八角の水晶の形で、唐から日本に渡ってきたというのはどちらも同じです。この第一の剣である彦山の剣の落ちたところに、四十九個の窟ができた。これが彦山の信仰のいちばん中心になる「洞窟信仰」です。
大陸の医術  (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より)     もどる      豊前の山に戻る    
 彦山の場合、どの伝承をとっても仏教公伝の五五二年、もしくは五三八年よりも古くから仏教が入っていると思います。高句麗へ仏教が入ったのは、日本の仏教公伝よりも約百八十年前です。それから百済に入ったのが百五十年前、新羅へ入ったのが百四十年前。一世紀半も朝鮮との間で文化の交流がなかったとはいえない。私は民間宗教者のレベルでの仏教の受け渡し、あるいは文化の授受はあったものと思います。『日本書紀』 には民間のことは出ていないが、船に乗って対馬海峡を渡れば新しい文化がいつもあったので、それはすぐに入ってくる。商人の往来にしても、あるいは宗教者の往来にしても入ってくるので、どうして彦山が医術で知られていたかという疑問も、そこに解くことができると思います。善正は 『日本書紀』 の用明天皇の二年に出てくる豊国法師と同じではないか、ということが彦山の古来の説ですが、これはそう考えないでいいのではないかと思います。要するに、豊国は豊後から出てきて、用明天皇の病気のときに祈祷した人、あるいは病気治療にきた人です。
 次の法蓮という人ははっきりと歴史上の人物です。『続日本紀』 に二か所はど出てきます。巻八にある養老五(七二一)年六月三日には、「詔していわく、沙門法蓮は心禅枝にかなかくのごとき住して、行法梁に居れり。尤も医術に精しくして、民苦を済い治む。善い哉、若の人、何ぞ褒賞せざらんや。其の僧の三等以上の親に宇佐君の姓を賜う」とあり、山中修行のことを禅行といいますが、法蓮は、その禅行でたくさんの弟子たちをもっていた、しかも医術に詳しかったとあります。こういうところから見て、やはり大陸との往来があったために医術、あるいは病気を治すマジックが彦山には栄えたと思われます。しかもそれは中央に知られていて、病気のときに呼ばれる。あるいは医術をもって奉仕して田四十町を賜う、ということが出てくるのだと思います。
熊野の増慶  (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より)      もどる      豊前の山に戻る   
 歴史上のはっきりとした開祖をいうと法蓮になると思いますが、彦山の修験ということからいうと、増慶という人が非常に大事です。すべての行事は増慶を祀ることから始まります。ところがこの人は彦山の第十一代の大先達といわれたり、別当といわれたりしている。一条天皇の寛弘三(一〇〇六)年の二月十日に死んだと、彦山の記録にあります。ところが、ちょうど同じころに熊野に増慶という別当がいた。第七代目の別当です。『熊野年代記』によると、康保二(九六五)年に別当をやめたと書いてある。しかも、入峰行事にしても烏の行事にしても、熊野と同じことを行なうので、同一人という説が昔からありますし、そう考えていいと思います。彦山を熊野の勢力下に入れるために、第八代別当を自分の息子に譲り、そして彦山にきて熊野式の修験道を植えつけたという推定が成り立つ。仮にこの人が八十歳で亡くなったとすると、熊野別当を四十歳でやめればいいわけです。四十歳でやめて彦山へきて、彦山の大先達になって、熊野のいろいろの修験道儀礼、修験道信仰を移した。豊国法師の場合も九十歳まで生きたとすれば、用明天皇二年のときの豊国法師は、継体天皇二十五年の善正とつながらないこともないが、増慶の場合は名前が同じですから、そう考えるのが自然だと思います。
 「増慶御供」、俗に八咫烏神事とも名付けられているものがあります。熊野の八咫烏にあたる烏にしとぎ(粢)を食べてもらうという、現在では「八咫烏精進祭」という名前でよんでいる神事です。増慶の霊が現われるという影向石の上にしとぎを上げて、それを烏が啄む。もしも烏がしとぎを蹴散らしたら、天下に乱れがある前兆だとも書いてあります。非常に神秘化されたお祭りになったわけです。

求菩提山 霊験秘法の由緒ある山  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)     修験道文化と神楽へもどる
 求菩提山は奈良時代から、役の行者行基上人仁聞菩薩などが来山してひらけた歴史的由緒の山で、その一つが山岳宗教上の求菩提山である。求苦提山の山名起源説にも俗説がある。茶碗を伏せた形に似ているところから〃クボテン(「和語」に久保天とある)山〃と呼び、これを語源だというものもいる。また昔、山上に五色の雲がたなびいて神霊降臨の奇瑞をあらわしたといい、「くもて」が「くもで」になって、現在の呼び名になったともいう。しかし、求菩提とは煩悩の解脱を願い、仏果を得るための修法の山、まさしく霊験秘法の山にふさわしい山名というべきであろう。求菩提の山伏道場は、日本三大修験の山(吉野、熊野、英彦山)とは別個に開山された山で、一○○○余の山僧が宿坊をひらいだ。求苦提の神(神社)は昔、求菩提山権現、または求菩提山白山権現と称した。その主神は、草創のころには大己貴命(おおなむちのみこと)‐といい、養老年中(717−24年)の奈良朝初期、釈行善という僧の開山らしいという(「豊鐘善鳴録」五巻)。まだ「求菩提山記」には、「顕国の神白山権現、および二童子、十五童子これを祀り、社数大小七つ、中宮に役の行者堂あり。また下宮に山王社、大行事社あり。山王社を北山殿となす。山王二十一社より勧請し、正月八日鬼神祭、二月二十九日大権現松会の祭礼とす。この両祭は一山の大大(法の誤りか)会なり」と記している。また、白山の姫神を祀り、合せて国魂の神を祀って両所権現と号し、社僧を護国寺という、とある。  もどる      豊前の山に戻る

    白山信仰 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)      もどる      豊前の山に戻る
 白山は、石川・岐阜・福井の三県境に聳える加賀白山(2,702メートル)をいい、古来霊山として栄えた山。山頂に白山の神、白山比口羊神(伊弉冉命か、菊理媛命か)を祀る白山比口羊神社がある。白山神社は、養老元(717)年に僧泰澄が開山して修験道場となし隆盛、本宮合せて三所、七社と呼ぱれ、総称して白山三所権現または白山妙理権現と称されるようになった。

    山王信仰 (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 山王二一社(日吉神社)は、日吉神社の上、中、下の摂社、末社が各七社あって、合せて二一社あるところから山王二一社、または山王権現といわれた。この山王信仰は鎌倉末期、天台宗と神道が融含して「山王神道」が説かれたことにはじまる。求菩提権現社が天台宗聖護院の末院といわれたのもうなずけよう。

修験道   (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より) 2010/9/19アップ   もどる      豊前の山に戻る        修験道文化と神楽へもどる
  熊野の発祥については、『長寛勘文』という論争がありました。甲斐国守藤原朝臣忠重の目代右馬允 中原清弘とその家来、在庁官人三枝守政などが甲斐国八代庄にあった熊野権現の神領を侵した。しかしその罪をきめるのに、熊野権現の神領を侵しただけならば軽い罪です。ところが熊野と伊勢が同体であるという理論が成り立てば、罪は重く、彼らは死罪になる。そこで、その当時の学者に諮問を出した。昔もやはり諮問ということがあったとみえ、学者が七人選ばれた。もっと命じられたのでしょうが、回答したのは七人だったと思います。それでこの論争の中で、熊野の発祥の問題があらゆる角度から出てくる。『古事記』『日本書紀』『熊野権現御垂迹縁起』『先代旧事本紀』『延喜式』など、古代の史料がすべて引用されています。結局、同体説が四人、非同体説が三人だった。多数決でやれば、当然、在庁官人は死罪になる。ところが太政官が判断して、数は少ないが非同体説を勝ちときめたのが結論になった。

『熊野権現御垂迹縁起』 (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より) 2010/9/19アップ   もどる      豊前の山に戻る     修験道文化と神楽へもどる
  この『長寛勘文』という論争があったために、熊野の発祥についていろいろの史料が出てきました。その中には右でふれた『熊野権現御垂迹縁起』があります。この非常に荒唐無稽に見える『縁起』は、少なくとも平安の末、長寛年間(1163-1165)には成立していた。おそらく平安中期までさかのぼるであろうと思われます。その中で、熊野を開いた人は中国の天台山の「王子信」だといっている。天台山は仏教の山ですから、そこの地方の領主の王子であったかもしれないし、あるいは「王・子信」と読むのかもしれない。この人が日本へ渡ってきて熊野の神になる。いちばん最初は彦山へ飛んできた、と書いてあります。『熊野権現御垂迹縁起』 に、「往昔甲寅年、唐の天台山の王子信の旧跡なり。日本国鎮西日子の山の峰に天降り給う。その体八角なる水晶の石、高さ三尺六寸なるにて天下り給う」と、水晶の石になって飛んできたとある。ずいぶん不思議な話ですが、これの意味するところは、仏教渡来以前から彦山なり熊野なりは開けていたという自己主張で、これがいちばん大事な点です。山岳宗教というもの、修験道というものの発祥は仏教の渡来とは関係がない、むしろ仏教渡来よりも古いということを言っているわけです。
  もう一つは同じ神様が彦山にも、石鎚山にも、いまでは修験道ではありませんが淡路の諭鶴羽山にも、紀伊国の切部山にも、熊野新宮の神蔵山にも行き、それから新宮の飛鳥社にも行き、最後には本宮の「大湯原」というところに行って、三つの月形になって木にぶら下がっていた、と書かれています。 「壬午年、本宮大湯原の三本の櫟の木の末に三枚の月形にて天降り給う」。だれが見たのかしりませんが、とにかく天降った。そして八年経てはじめて狩人がこれを見つけた。狩人がこれを開くということほ、熊野修験道の発祥を考えるうえで非常に大事なことですが、熊野部千与定という犬飼い、つまり狩人が猪を追って行き、猪が倒れたところが櫟の木の根本だったので、そこで清め肉をとって食べながら、木の下にひと晩宿っていたら、三枚の月形が見つかった。訊ねてみたら、「われは熊野三所権現なり」と言った。「一社を証誠大菩薩と申す。いま二枚の月形を両所権現となん申し仰ぎ給う、云々」こういうふうに書いてあります。 ここで「両所権現」といっているのは、新宮と那智です。そして平安の中期には「三所」といっても、じつは別々に発達したもので、ほんとうは本宮、新宮、那智、これが三山とし構成されておった。別々に発祥したものが三つになっていた。また大峯にはたくさんの山があります。山上ケ岳、大普賢岳、弥山、明星ケ岳、釈迦ケ岳、笠捨山、地蔵岳、次第に熊野へ近づいていきます。これらの山全部は別々に発達したものです。原初的には、それぞれ麓の民がこれらの山々を自分たちの先祖の霊のいく山、「神奈備」として拝んでおったものが、大峯・熊野両方の山伏がだんだんと勢力圏を拡大して、点を線で結んだのが「大峯修験道」だというふうに考えるのです。これと同じように本宮、新宮、那智の三つはもとは別々だったのが、それぞれの修験集団の中で、お互いに提携して宣伝しょうではないかということになって、ちょうど三十三か所の観音さんのお寺が別々にできたものを、いっしょにして西国三十三か所観音巡礼が始まるように構成されていった。その時期は平安中ごろであると推定されます。

宗教界の覇者 (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より) 2010/9/19アップ  もどる      豊前の山に戻る    修験道文化と神楽へもどる
 それと同時に、彦山も石鎚山も諭鶴羽山も熊野も全部一つの神様であるという主張が、『熊野権現御垂迹縁起』の中に出てくるわけです。ということは、熊野の勢力がこういう山々をすでに支配下に置いていたということです。いちばん最後にとどまった熊野が、彦山も支配しておった。石鎚山も支配していた。そして淡路の諭鶴羽山も切部山も支配していた。そしてそれ以後は全部熊野の勢力圏です。そのほかに伯著大山なども支配されていた形跡があります。
 修験道の歴史は、調べるといろいろの不思議なことがわかってくる。要するに、いわゆる表の歴史であるわれわれの歴史の裏に、宗教者、とくに山岳宗教者の歴史があることがわかってきますが、第七代目の増慶という熊野の別当が彦山へ行っていることもわかっている。彦山のお祭りはすべてが熊野ふうにできております。さらに烏の問題もあります。第七代目の増慶と彦山の第十一代目の増慶とは同じ人物である、といわれています。そういうふうに彦山のほうがもうすでに勢力下に入っているということで、これは非常に大事なことです。宗教界を制覇したのは熊野だったのですから。ちょうど源頼朝が全国を制覇するのと同じように、もう少し古く宗教界の覇者があったわけです。それで熊野のいろいろの信仰や行事や神様を、みな押しつけていたわけです。現在、全国で三千社ぐらい熊野社が数えられますが、とてもこんなものではない。昔はその十倍も二十倍もあったと思います。排仏毀釈以後に、那智大社の調査で三千社あるとリストアップされていますが、いちばん南のはうでは、もう鎌倉時代に沖縄に入っております。だからどんなに勢力を拡めたかということがわかると思います。沖縄では、一宮に当たる波之上宮という那覇のお宮が熊野神社なのです。南西諸島にもずっと拡がっています。そういうことで熊野は、一時期、宗教界の覇者であった時代があると考えられるわけです。 

「生まれ清まり」の神楽   (山の宗教 修験道案内  五来重著 平成3年角川選書より) 2010/9/19アップ  もどる      豊前の山に戻る    修験道文化と神楽へもどる
 いまでも熊野神社のあるところでは、生まれたときに氏子としてお詣りをしますから、十五歳になると「願解き」 の神楽をする。「生まれ清まり」の神楽といいます。この神楽があるところはかなり多いのです。そこで子供から大人に生まれかわる。穢れがすっかりなくなって、生まれかわるための神楽をする。子供が自分で舞えないと、大人がうしろから舞わしてくれたりします。いまでも「花祭」 で有名な奥三河一帯に遣っています。そして、それは熊野の滅罪と福禄と長寿と往生の信仰でありました。そういうことで、全国にいろいろの神楽や田楽がありますが、神楽というものは伊勢や出雲からきたという学者がいますが、よく見ると民間神楽のほとんどすべてが山伏系統のものである。山伏神楽であり、法印神楽です。まだ断定的にはいえませんが、それを遡っていけば熊野へ結ばれていくことは明らかです。それは先ほどいいましたように、熊野信仰は修験道界を制覇した時代がある。そういう時代の名残として熊野系の神楽や田楽があるのです。
 熊野の信仰は南北朝時代に衰えてしまいます。これはあまりにも富が集中したことも一つあります。それから熊野修験が南朝についたということもあります。大峯修験が一時衰え、蔵王堂も高師直に焼かれてから百七年も再興しなかった。そういう百七年のブランクにつけ込んだ地方の霊山がある。これが白山です。それから白山信仰が拡がっていきます。 もどる      豊前の山に戻る

宇佐(八幡)宮
宇佐の比売大神とは         日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年より
 梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』にもこう書かれている。宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡の大神。郡家の東、馬城の峰の頂に坐す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許(おもと)山(大元山−630メートル)のことで、このお山に天降ったと伝承している。御許山を御神体としているが、それはこの山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境としてはじめて影向され、ここに巨石崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。「宇佐に参るなら御許に参れ、御許もと宮もと社……」このような俗謡がいまに伝えられているが、宇佐神宮の元宮である御許山の山頂こそ、本当の祖神は坐すのである、祖神の坐すところに参拝することこそ、祖神に対する儀礼だ、ということをこの俗謡は伝えている。つまり、その山頂の巨石を比売神の顕現としたようであるが、この比売大神は、さきの「原始八幡神創祀遺跡(学説)」でみた「辛島・長光・赤染等が斎き祀っていた」「辛国息長大姫大目命、豊比口羊」と同じものにほかならなかった。これは田川郡香春町の香春神社などに祭られた祭神で、それがさらにだんだんと、「豊国の王」ということであった豊日別(とよひわけ)がのちにその祭神となった京都郡(行橋市)の草場八幡宮などをのこしながら、築城(上)郡綾幡郷の矢幡宮へと南下したものだったのである。もちろん比売神の南下とは、香春岳の産銅などで大をなした秦氏族からの出である辛島氏らの発展・南下ということである・・・。   もどる      豊前の山に戻る

八幡原始神は吐農の神     九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より
  “大日本史:水戸光圀著”説だと、八幡大神の原始神・吐農の神は、はじめ日向国の辛国城に降り、馬城峰の三大石(三柱石=三柱神)をご神体とし、豊国の駅館川の上流に鎮座して鷹居瀬社の神となり、その後、小山田社の神となった。さらに菱形山(小椋山)に遷って宇佐宮の神となした、と述べている。

辛嶋氏の宇佐進出  New 2004.12.4up 豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より
 宇佐八幡が現在地に鎮座するに至るまで、長い変遷があり、序走路があった。八幡神はまず辛嶋氏の神としてあらわれた。「承和縁起」には、大御神ははじめ宇佐郡辛国宇豆高島に天降りまします、とある。・・・辛嶋氏の伝承では、宇豆高島(稲積山)に天降りした神はそのあと宇佐の地域を転々と移動する。はじめ乙口羊(おとひめ)神社に祀られ、それから酒井泉社に移った。そのあと瀬社、鷹居社、小山田社に移り、最後に小倉山に鎮座した。大神氏が八幡神の奉斎に参与したのは鷹居社の頃からである。鷹居社は和銅五年に八幡大神の社殿を建立しているが、それ以前から小祠はあったと見られている。

宇佐神宮の祭神   New 2004.12.4up 豊前国の秦氏と宇佐神宮、谷川健一、第17回熊本地名シンポジウムin多良木、2004年、より
 宇佐神宮には三柱の神が祀られている。一の御殿に八幡大神、二の御殿に比売大神、三の御殿に神宮皇后が鎮座する。このうち三の御殿に神宮皇后を配祀したのは、弘仁十四年(823)、嵯峨天皇の時代である。また八幡大神とされる応神霊は、奈良時代の前後に大神氏によって持ちこまれたようである。そうすればニの御殿の比売大神が最も古くその出自だけが問題になるが、比売大神の脇殿に北辰殿が祀られていることに注意を払う必要がある。北辰殿は北極星を神として祀っている。「託宣集」を見ると、北辰神は天空から降りた神で、小倉山の地主神であった。小倉山は、現在宇佐神宮の鎮座する亀山の別名である。亀山の南東方およそ4kmのところに、御許山(馬城峯)があり、そこを奥宮と称しているが、宇佐神の発祥には関係がない。「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむかって同じようなことを云った、とある。北極星を神格化した北辰神を、妙見菩薩といって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この妙見金鉱山の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の神であることから、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝えられ、それがそのまま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神との関係に置き換えられたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神とを宇佐の小倉山で斎祀したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏以外にない。大神氏は大和国中の近傍からの移住者と思われる。また宇佐氏は土着の氏族であって北極星の信仰を持たない。総じて日本には星に対する信仰は育たなかった。   摂社・末社   もどる

八幡信仰の形成       日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年
 八幡神は「ハチマン」ではなく「ヤハタ」と読む。ヤハタは「弥秦;いやはた」がなまったもので、渡来人秦氏が祭った鍛治、銅の神である、というもの。秦氏といえば、豊前地域はその渡来拠点であったことが、大宝二年(702)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」で明らかにされている。それによると、豊前国の中心をなす仲津郡(現在の行橋市と京都郡)と上三毛郡(豊前市と築上郡)などで、総人口(611)の九三%(568)が秦部、勝の姓をもつ秦氏系で占められている。記載されてない企救、田川、宇佐などでも、おそらく同じ傾向だったと見てよい。このことは、八幡神が秦族の信仰神だったと見られるに充分な根拠をもつ、といってもよさそうだ。本項の最初に紹介した『宇佐宮託宣集』のなかでも、「辛国の城に始めて八流の幡を天降して我は日本の神になった」という八幡神の託宣がある。辛国とは、いうまでもなく古代の韓国(朝鮮)であり、八流の幡(白旗四、赤旗四の意味といわれる)は八幡−ヤハタに結ぴつく。そして「天降して日本の神になった」ということは、辛国(韓国)から渡来した神、ということを明言しているとも考えられるのだ。この最初の八幡神が、六世紀末、大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐に来た大神比義によって、応神(天皇)信仰が八幡のなかに入り込み、宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった。(中野幡能氏、「八幡信仰史の研究」)   もどる      豊前の山に戻る

参考資料: 宇佐八幡宮  (村山修一「八幡神の習合的成長」中野幡能編『八幡信仰』所収)

その創祀の地はおそらく今福岡県(豊前国)筑上郡椎田町綾幡に鎮座する矢幡八幡宮であって、ここに残る榊山神幸の行事は八幡神創祀の最も原始形態を留めた神事と考えられ、そこから原始八幡創祀の地たる意味が汲みとられるのである。辛嶋氏はやがて八幡神を下毛部に移したが、六世紀の終りになって大和国三輪のシャ−マン大神比義が宇佐に入り、わが古代の最有力君主とみられた応神天皇の神霊を持ちこみ、辛嶋氏との主導権闘争に勝って原始八幡神を皇室関係のものに転換せしめ、改めて鷹居社をつくって八幡神をここへ移した。当時朝廷は対半島政策において任那日本府滅亡を含む重大な時期に当たっており、北九州の政治的強化を特に痛感していた。国内的には蘇我氏が帰化人と仏教文化によって保守勢力である物部氏を打倒するため半島と密接な関係にある豊前地方の八幡神を傘下に収めようとして神功・応神信仰を持つ大神比義を宇佐に送ったのであろう。比義が祝になった五八四年より二年後の用明二年には天皇の看病のため蘇我馬子は豊国法師を参内させ、反対派物部守屋を怒らせるに至った。この豊国法師は『新撰姓氏録』泉国神別天神の条に、巫部達の説明に関連して雄略天皇御病の時招かれた豊国奇巫とあるもの一同性格の人物とみられ、『続日本後紀』(承和十二、七、十四条)にも同様の記事があって、医療にもたずさわったシヤ−マンであったと思われる。この場合奇巫といったのは、巫覡の類でかつ僧形を呈した、当時ほかの神祀信仰ではみられなかった風変りの宗教家であったからで、のち大仏造立に際し、八幡神が上京された時、これに従ったのは巫尼杜女であり、宇佐八幡では巫尼・巫僧の類が禰宜をつとめていたものと想像される。

☆ 【宇佐宮記】 欽明32(571)年、宇佐郡菱形池上小倉山邊に神有り、3歳児に託し、異人大神比義に告げて曰く、辛国ノ城に八旒旗降、我是日本人王16代誉田天皇広幡八幡麻呂也、諸州処処に跡を垂れ神を為す、ここにおいて八幡大神と号し、祠を立てこれを祭る。     太宰府−九国国司人事年表

 

豊前の秦氏王国   豊国直菟名手    (四天王寺の鷹2006年、谷川健一、より)   もどる

 景行紀によると、景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。この三名はいずれも九州の土豪と見られる。多氏の同族に大分君があり、また物部氏は豊前の企救郡と関係がふかい。景行帝は豊前国の長峡県にいって、行宮を建て、そこを京と呼んだ。「和名抄」の豊前国京都郡で、今の行橋市あたりである。ところで、国前臣の先祖と記されている菟名手が景行帝の命で形勢を探るために、豊前国の仲津郡の中臣村にいったときに、白い鳥に出会った。白い鳥は餅になり、さらに芋となった。菟名手が朝廷にそれを奏上したところ、天皇はよろこび、菟名手に豊国直のカバネを賜ったと「豊後国風土記」にある。仲津郡の中臣村は「和名抄」の仲津郡仲津郷で、福岡県行橋市草場や福富など今川の流域とされている。豊前国の国府もみやこ町国作にあった。国作は豊国直もしくは豊国造の住んだところとされる。そこの国作神社について「地名辞書」は「古事記」に見える豊日別、あるいは豊国直菟名手を祀ったのであろうと推測している。国作神社は廃絶して地名だけが残っている。

 今日、豊日別宮は行橋市草場に鎮座する。宇佐神宮の放生会では、香春町の採銅所にある清祀殿で鋳造した宝鏡は、まず豊日別宮に納め、それから国作に仮宮する。そこから国府の総社八幡宮の氏子たちが供をする。そのあと、祓川でみそぎをする、という順路をたどって宇佐本宮にむかう。

 こうして見ると豊国直菟名手は行橋市とみやこ町にまたがる地域を中心に治めていたことは確実である。

 ここで私が問題にしたいのは菟名手という人名である。神功皇后摂政前紀に、筑前の那珂川の水を引いて神田を潤そうとして、潅漑用の溝 (ウナデ) を掘ったという記事がある。つまりウナデは田の用水の溝を指す。

話はとぶが、三重県の名張市平尾にある宇留富志禰(うるふしね)神社は宇奈根(うなね)神を祀っている。神社の南側の崖下の道路をへだてて西に名張川が流れる。そのすぐ下手から名張川の旧河道を利用して名張市街地へ用水路がひきこまれた。森川桜男によれば、治暦二年(一〇六六) には名張川の旧河道に用水溝(ウナデ)を掘り、みごとに開発した例があるという。またその一世紀前には当社の神主みずからが「宇奈抵社」と記した文書もあるという。こうして見れば、実際の用水路開塞をふまえてウナデ神が祀られ、それがウナネ神に移行していった道筋がたどれる。ちなみに宇留富志禰はウルシネ、今でいうウルチ米のことである。

 もう一つの例を示す。奈良県橿原市の雲梯(うなで)にある河俣神社は、曾我川の東畔に鎮座して事代主を祀っている。これは雲梯神社ともいわれた。ここでも川から水を引く溝をつくつて田を潤したと考えられている。 このことから、菟名手という人物も、川の水を引いて田にそそぐ溝を作る工人ではないかという疑いがもたれる。

そこで想起されるのは秦氏のことである。秦氏系の一族が灌漑土木に長じていたことは、京都の葛野の桂川の水をせきとめ、大きな堤をきずいたことで有名である。茨田堤(まむたのつつみ)もきずいている。豊国直菟名手は田に水を引く溝を作ったことからつけられた名であろうから、朝廷は財と技術に優れていた秦氏系の人物に菟名手の名を与えて、豊前国を治めさせたというのが、景行紀や「豊後国風土記」の菟名手の登場の真の意味ではないか。

「新撰姓氏録」に、雲梯連が見える、高向村主(たかむくのすぐり)と同祖で、右京諸蕃である。高向村主は魏武帝の太子文帝より出たものとある。豊国直菟名手も、渡来系技術者かも知れない。

 

応神天皇 第15代  神々の系譜にもどる

秦氏と応神八幡神・天日槍・神武東征伝説(日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年)

 「宇佐在来の比売神と合休して七世紀以後の応神八幡神ができあがった」ということには、大変大きな意味が含まれる。安藤輝国氏や小島信一氏は「応神天皇は秦族の大王」で、「女王国を征服したのは秦族の誉田別命、のちの応神天皇である」というのである。応神天皇は秦族の大王であったといわれると、奏氏族がそれから出た新羅・加耶系渡来人集団である天日槍集団の天日槍と、応神とのからまりが気になる。まず、「古事記」応神段に天日槍(天之日矛)の渡来伝承がながながと書かれていて、息長帯比売の神功皇后はその天日槍の外孫であるとしていることがある。そして、「神武東征」伝説というのは、九州で生まれたという応神の「東征」または「東遷」のことをそのような形で語ったものではないかとみているが、すると、さきにみた(筑前の「九州における天日槍」の項など)林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」に、「私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている」とあるのも気になる。それからまたこれもさきにみた、その天日槍集団からの出である伊覩県主(伊都国王)の一派が「東方の美地〈大和などの畿内〉を望んで東征」したとする瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」も気になるし、同時にまた、大和岩雄氏の「朝鮮の伝説の足跡」にこうあるのも気になるのである。

 【神功皇后(ォキナガタラシヒメ)の母方の祖は、アメノヒポコ〈天之日矛〉と『古事記』は書くが三品彰英氏も指摘するように(「アメノヒボコの伝説」)、神功皇后・応神天皇の母子の九州から畿内への経路は、アメノヒボコ伝説の経路とかさなっている。 応神天皇は『古事記』では、敦賀のイザサワケ〈伊奢沙別〉の神と、名を交換したとある。通説では、イザサワケの神がアメノヒボコであることからして、アメノヒボコ=応神天皇である。とすると、難波王朝の始祖王は、その母方が新羅王子アメノヒボコにつながるだけでなく、その伝承でもアメノヒポコとかさなっているのである。

 いずれにせよ、私はこれまで全国各地を歩いてわかったことであるが、その天日槍集団から出た秦氏族というのは、古代日本最大の氏族であった。その分布は九州はもとより、四国、中国、近畿、北陸、東海、関東地方にまで行きわたっているが、なかでも有名なのは、「さて、東征した秦系集団は、応神朝の終わった段階で山城(京都)の太秦に拠点を移す」(安藤輝国『消された邪馬台国』)とある、その山城における秦氏族である。それは『日本の中の朝鮮文化(2)』「山城」でかなりくわしくみているが、かれらはそれでこれまた、宇佐八幡宮と同じく、全国にひろがった分社四万余の総本社である稲荷大社を祭っている。ばかりか八世紀末には、かれらはその経済力と政治力とをもって、それまでは奈良にあった宮都をこちら山城の京都に遷しているのである。    もどる      豊前の山に戻る   九州の山と伝説に戻る

千葉の 葛野を見れば 百千足る ヤニワも見ゆ 国の秀も見ゆ (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) 

ホムタ別は、淡海(近江) へ行く途中、宇治に寄り、そこで名高い歌をよんだ。この歌は、記紀の両方にでているが、ヤニワの部分を普通「家庭」の字におきかえている。しかしその字面ではどうしても現代の「カテイ」を連想するので、ぼくはヤニワのままにした。“京都盆地の北西にあたる葛野を遠くのぞむと、たくさんのヤニワが見える、国の秀(富)が見えている。”

 この歌は国讃めの歌だとされていて、その通りなのだが、山城全体を讃めたのではなく、宇治のほうから葛野を遠眺しての葛野を讃めたという点に、ぼくはこだわっている。それは、渡来系の大集団といわれる秦氏の最大の根拠地である葛野にたいする羨望の歌であり、たんなる国讃めの歌ではなかろう。ぼくの推定では、葛野、少しおおげさに表現すれば「秦王国」への憧れをあらわした歌があって、それを記紀ではこの応神の個所に配列したのであろう。だから、秦氏の祖の弓月君の「来帰」を、『紀』ではいつにしているかには拘泥しない。『新撰姓氏録』の「左京諸蕃」の最初を例にあげると、「太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王之後也。男功満王は仲哀天皇八年来朝。男融通王(一に弓月王という)は応神天皇十四年に来朝し、二十七県の百姓をひきいて帰化す。金銀玉島らの物を献す(以下略)」とあり、他に秦氏は、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉など『新撰姓氏録』の対象としている畿内のすべての国に分居している。

応神 ・ 仁徳王朝  ☆ 秦河勝にもどる

六郷満山 
仁聞菩薩(=英彦山の達識僧侶、法蓮・華厳・躰能・覚満)
郷土資料事典ふるさとの文化遺産大分県1999より

 大化改新(645)により、今の国東半島を中心とした国崎郡は、来縄・田染・伊美・国前・武蔵・安岐に分かれた。この六郷に奈良末期から平安初期、宇佐八幡宮の境外寺院として、法華経八巻二八品になぞらえて二八ケ寺が建立された。これらとその末寺を含めた六五ケ寺を〃六郷満山〃といっている。寺の多くは仁聞の開基と伝えられるが、仁聞は神母・人母に通じ、すなわち宇佐八幡神の母菩薩−比口羊大神の仏教的表現とされている。実際に六郷満山の寺々を開いたのは、英彦山で修行を重ねた法蓮・華厳・躰能・覚満という四人の達識の僧侶たちであったといわれる。宇佐の八幡神信仰と天台宗修験道が結びつき、複雑な宗教体系のもとに発達したのが六郷満山で、二八ケ寺を学問場である本山八ケ寺、修練場の中山一○ケ寺、布教場である末山一○ケ寺に分けた独待の三山組織とし、平安末期(十二性紀)ごろ全盛を極めた。

「本山本寺」・・・後山金剛寺(宇佐市、現在廃寺)吉水山霊亀寺(宇佐市)大析山報恩寺(豊後高田市)鞍懸山神宮寺(豊後高田市、現在廃寺)西叡山高山寺(豊後高田市、現在廃寺)良薬山智恩寺(豊後高田市)馬城山伝乗寺(豊後高田市)津波戸山水月寺(速見郡山香町)

「中山本寺」・・・足曳山両子寺(東国東郡安岐町)金剛山長安寺(豊後高田市)長岩屋山天念寺(豊後高田市)加礼川山道脇寺(豊後高田市)久未山護国寺(東国東郡安岐町、現在護聖寺)黒土山本松坊(西国東郡真玉町、現在廃寺)小岩屋山無動寺(西国東郡真玉町)大岩屋山応暦寺(西国東郡真玉町)補陀落山千燈寺(東国東郡国見町)横城山東光寺(杵築市)

「末山本寺」・・・見地山東光寺(東国東郡国東町)大嶽山神宮寺(東国東郡国東町)石立山岩戸寺(東国東郡国東町)蛾山眉山文殊仙寺(東田東郡国東町)龍華山成仏寺(東国東郡国東町)参社山行入寺(東国東郡用東町)夷山霊仙寺(西国東郡香々地野)小城山宝命寺(東国東郡武蔵町)西方山清浄光寺(東国東郡国見町)懸樋山清巌寺(東国東郡安岐町、現在廃寺)

もどる  聖人伝へもどる    もどる      豊前の山に戻る   九州の山と伝説に戻る

 

 


 

 

 

 

中央の動き

太宰府

豊前

豊後

 

 

 

 

豊国値の祖、菟名手 

 

 

 

 

豊国造ハ志賀宮高穴穂朝御代 伊甚国造同祖 宇那足尼
比多国造ハ志賀高穴穂朝御代、葛城国造(同祖) 止波足尼
宇佐国造ハ 橿原朝高魂尊孫宇佐都彦命

 

429?

百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る

 

 

 

 

442?

沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)

 

 

 

継体朝
530-531頃

 

 筑紫君磐井の戦争

 

 

 

 

536

『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

 

 

 

 

554

百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

 

 

 

555

百済聖王の息子恵来倭、

 

 

 

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送

 

 

 

 

562

紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退

 

 

 

欽明31年

570

 

 

【神皇正統紀】肥後國菱形池に3歳児(人皇16代誉田八幡麻呂)出現
【元亨釈書】 宇佐郡厩岑菱形池に3歳児(第16王誉田天皇広幡八幡)出現

 

欽明32年

571

 

 

【宇佐宮記】宇佐郡菱形池上小倉山邊に神有り、3歳児に託し、異人大神比義に告げて曰く、辛国ノ城に八旒旗降、我是日本人王16代誉田天皇広幡八幡麻呂也、諸州処処に跡を垂れ神を為す、ここにおいて八幡大神と号し、祠を立てこれを祭る。

 

 

575

新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。

 

 

 

 

576

豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后

 

 

 

 

583

百済人日羅来倭*

 

 

 

 

585

蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立

 

 

 

推古1年

592

祟峻没(暗殺)

 

 

 

推古5年

597

難波吉士磐金 新羅へ

 

 

 

推古6年

598

難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上

 

 

 

推古16年

608

唐使裴世清来る

 

 

 

推古17年

609

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

 

 

推古36年

628

 

 

 

 

舒明13年

 

 

 

 

 

皇極4年

645

 

 

 

 

孝徳5年

659

 

筑紫太宰帥:日向臣

 

 

斉明4年

 

 

 

 

 

天智6年

667

 

百済鎮将劉仁 

 

 

天智7年

668

 

筑紫率:栗前王

 

 

天智8年

669

 

筑紫率:蘇我赤兄臣

 

 

天智10年

671

 

筑紫帥:栗隈王

 

 

天武1年

672

壬申の乱

筑紫太宰:栗隈王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天武5年

676

 

筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流

 

 

天武6年

677

 

 

 

 

天武11年

682

 

筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢

 

 

天武12年

683

 

筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢

 

 

持統3年

689

 

筑紫太宰:粟田真人朝臣
太宰帥:浄廣肆河内王

 

 

持統6年

692

 

太宰率:河内王

 

 

持統8年

694

 

太宰率:浄廣肆三野王

 

 

持統10年

696

高市皇子薨去

 

 

 

文武元年

697

軽皇子(文武)即位

 

 

 

文武4年

700

 

筑紫総領:石上朝臣麻呂

 

 

大宝2年

702

 

太宰帥:石上朝臣麻呂

 

 

大宝3年

703

 

太宰帥:大伴宿禰安麻呂
大貮:石川朝臣宮麻呂

 

 

慶雲3年

706

 

少貮:安倍朝臣首名

 

 

和銅元年

708

 

太宰帥:粟田朝臣真人
大貮:巨勢朝臣多益首

 

 

和銅6年

713

 

 

 

 

和銅7年

714

 

太宰帥:多治比真人池守

豊前の民200戸を隼人に移す

 

養老2年

718

 

 

 

 

養老4年

720

 

 

守:宇努男人(大隅、日向の隼人反乱に将軍となす)

宇佐宮禰宜:辛島波豆米 相率神軍行彼国

 

養老5年

721

 

大貮:石川朝臣石足

 

 

神亀4年

725

 

太宰帥:大伴朝臣旅人

 

 

神亀5年

726

 

 

守:宇努首男人

 

神亀6
(天平1)年

727

長屋王の変

 

 

 

 

    漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10)

 

 

    藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11)

 

 

    翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問

 

 

    長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺

 

天平2年

728

 

 

 

守:大伴太夫

天平3年

729

 

太宰帥:藤原朝臣武智麻呂

 

 

天平9年

737

 

太宰帥:藤原朝臣宇合 薨
大貮:小野朝臣老 卒

 

 

天平10年

738

 

大貮:高橋朝臣安麻呂
少貮:藤原朝臣廣繼

 

守:陽候史真身

天平12年

740

藤原広嗣の乱

 

 

 

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

 

天平13年

741

 

 

 

 

天平17年

745

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

大貮:石川朝臣加美
少貮:多治比真人牛養
少貮:大伴宿禰三中

 

 

天平18年

746

 

太宰帥:橘宿禰諸兄
大貮:百済王考忠
少貮:紀朝臣男楯

守:大伴宿禰百世

 

天平19年

747

 

 

 

守:多治比真人牛養

天平感宝1年

749

陸奥国黄金献上

少貮:小野朝臣田守

 

 

 

    大伴牛養、大伴稲君、大伴家持

 

 

    佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨

 

 

    橘諸兄、橘奈良麻呂

 

天平勝宝2年

750

 

太宰帥:藤原朝臣乙麻呂

 

 

天平勝宝4年

752

 

太宰帥:紀朝臣麻呂
少貮:佐伯朝臣美濃麻呂

 

 

天平勝宝5年

753

 

太宰帥:石川朝臣年足
大貮:紀朝臣飯麻呂

 

 

天平勝寶6年

754

薬師寺の僧綱行信、宇佐八幡主神大神多麻呂及び大神杜女、結託による厭魅事件

大貮:吉備朝臣真備

大神杜女 日向国配流

大神多麻呂 多禰島配流 

行信 下野の薬師寺配流

 

天平宝字元年

757

橘奈良麻呂の変

 

 

守:榎井朝臣子祖父

 

    安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人

 

天平宝字3年

759

 

 

 

 

天平宝字4年

760

 

 

 

 

天平宝字5年

761

 

 

 

守:池田朝臣足繼

天平宝字6年 

762

 

 

員外介:中臣酒人宿禰虫麻呂

 

天平宝字7年

763

 

 

 

守:笠朝臣不破麻呂/采女朝臣浄庭

天平宝字8年 

764

恵美押勝の乱

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
少貮:采女朝臣清庭

守:佐味朝臣伊與麻呂

 

天平神護元年

765

 

太宰帥:石川朝臣豊成

 

 

天平神護2年 

766

 

 

守:海上真人清水

員外掾:大神朝臣田麻呂

神護景雲元年 

767

 

大貮:藤原朝臣楓麻呂

介:中臣習宜朝臣阿曾麻呂

介:美和真人土生

 

 

守:佐伯宿禰久良麻呂

神護景雲2年 

768

 

太宰帥:弓削御浄臣清人
大貮:藤原朝臣田麻呂

 

 

神護景雲3年

769

 

 

 

 

宝亀元年

770

 

少貮:小野朝臣小贄

 

 

 

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
太宰帥:石上朝臣宅嗣

宝亀2年 

771

 

 

 

守:紀朝臣鯖麻呂

 

 

宝亀3年

772

 

 

 

 

宝亀5年 

774

 

太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂
少貮:石上朝臣真永
大貮:石上朝臣名足
少貮:多治比真人豊濱

守:多治比真人豊濱

 

宝亀6年 

775

 

 

守:弓削宿禰鹽麻呂

守:阿倍朝臣東人

宝亀7年

776

 

少貮:藤原朝臣仲繼
太宰帥:藤原朝臣魚名
大貮:石上朝臣息嗣
少貮:笠朝臣名麻呂

 

 

宝亀9年 

778

 

 

介:吉田連古麻呂

 

宝亀10年 

779

 

 

 

介:膳臣大丘

宝亀11年

780

 

太宰帥:藤原朝臣濱成
大貮:佐伯宿禰今毛人

守:小野朝臣滋野

 

 

太宰帥:藤原朝臣魚名

介:陽候忌寸人麻呂

天応元年 

781

 

 

 

守:多治比真人継丸(兄)

天応2年

782

 

 

 

 

延暦元年 

782

 

太宰帥:藤原朝臣魚名 薨

 

介:陽候忌寸珍璆

 

大貮:石上朝臣家成

守:阿倍朝臣石行

延暦2年

783

 

 

 

 

延暦3年 

784

 

少貮:藤原朝臣管繼

 

 

延暦4年 

785

 

 

介:秦忌寸長足

守:紀朝臣千世

 

 

守:日下部宿禰雄道

延暦5年

786

 

太宰帥:佐伯宿禰今毛人

守:阿倍朝臣草麻呂

 

延暦7年 

788

 

 

 

 

延暦8年

789

 

少貮:藤原朝臣園人

 

 

延暦9年

790

 

員外帥:藤原朝臣濱成 薨
少貮:藤原朝臣真鷲

 

介:百済王鏡仁

 

延暦10年 

791

 

 

守:中臣朝臣弟成

守:藤原朝臣園人

延暦14年 

795

 

 

 

 

延暦15年 

796

 

 

 

 

延暦16年

797

 

 

 

 

延暦18年 

799

 

 

守:藤原朝臣河主

 

延暦24年

805

 

 

 

 

大同元年 

806

 

 

介:小野朝臣木村

 

 

大同3年 

808

 

少貮:多治比真人今麻呂

?:和□朝臣雄成

守:文室真人正嗣

大同4年 

809

 

 

 

介:谷忌寸野主

 

守:文室真人正嗣

弘仁元年

810

 

 

 

 

弘仁2年 

811

 

 

 

 

弘仁3年 

812

 

 

守:永原朝臣最弟麻呂

守:阿倍朝臣真直

 

弘仁4年

813

 

 

守:平野王

守:笠朝臣梁麻呂

 

介:阿倍朝臣雄能麻呂

弘仁5年

814

 

 

 

 

弘仁6年

815

 

 

 

 

天長6年

829

 

 

 

 

承和2年

835

 

太宰帥:三品秀良親王

 

 

承和4年

837

 

権帥:藤原朝臣常嗣
大貮:藤原朝臣廣敏 卒

 

 

承和5年 

838

 

 

守:在原朝臣仲平

 

承和6年 

839

 

大貮:南淵朝臣永河

守:管野朝臣永芩

 

承和7年 

840

 

 

 

 

承和8年

841

 

 

守:大春日朝臣良棟

守:和気朝臣中世

守:善永王

承和9年 

842

 

大貮:藤原朝臣衛

権掾:丹墀真人時永

権掾:坂上大宿禰當岑

 

中井王、日田郡

承和13年

846

 

 

 

 

承和15年

847

 

大貮:紀朝臣長江

 

 

嘉祥2年 

849

 

 

 

権守:登美真人真名

 

嘉祥3年

850

 

太宰帥:三品葛井親王 薨

 

守:加茂朝臣弟岑

仁寿元年

851

 

 

 

 

仁寿3年

853

 

少貮:滋野朝臣善蔭
太宰帥:一品葛原親王 薨

 

 

斉衡元年 

854

 

 

 

 

 

斉衡2年 

855

 

大貮:正躬王

守:藤原朝臣友永

守:石川朝臣宗繼

斉衡3年 

856

 

 

 

 

天安元年

857

 

 

 

 

 

天安2年 

858

 

 

 

守:橘朝臣峯雄

貞観元年 

859

 

 

 

介:善道朝臣根筵

貞観2年

860

 

大貮:清原真人岑成
少貮:藤原朝臣真数

 

介:秦宿禰安雄

貞観3年 

861

 

 

 

 

貞観4年 

862

 

 

 

 

貞観5年 

863

 

太宰帥:二品仲舒親王
少貮:在原朝臣安貞
少貮:藤原朝臣元利麻侶

 

 

貞観6年

864

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観7年 

865

 

 

 

 

貞観8年 

866

 

 

 

守:紀朝臣繼雄

貞観9年

867

 

大貮:茂世王

 

 

貞観10年 

868

 

少貮:安倍朝臣清行

 

介:多治比真人安江

貞観11年

869

 

大貮:藤原朝臣冬雄
少貮:坂上大宿禰瀧守

 

 

貞観12年 

870

 

 

 

 

貞観13年

871

 

太宰帥:二品賀陽親王

 

 

貞観14年

872

 

 

 

 

貞観15年

873

 

権帥:在原朝臣行平

 

 

元慶元年

877

 

 

 

 

元慶2年

878

 

権少貮:藤原朝臣房雄

 

 

元慶3年

879

 

大貮:橘朝臣三夏

 

 

元慶4年

880

 

 

 

介:藤原朝臣安主

元慶7年

883

 

 

 

 

元慶8年

884

 

 

 

 

元慶9年

885

 

 

 

 

仁和元年 

885

 

大貮:藤原朝臣行有

 

守:橘朝臣長茂

仁和2年 

886

 

大貮:藤原朝臣保利

 

豊後介:大神朝臣良臣

 

守:源朝臣淵

仁和3年 

887