神功皇后戦勝祈願
油山縁起、宝満山
高良大明神(高良垂玉命)は誰か?
高良山、邪馬台国の領域?
邪馬台国の中心は筑紫三井郡
邪馬台国の領域と重なる物部氏の勢力範囲
有明海と海上交易
九州に残る英雄伝説
宗教者(聖人)伝
九州の白鳥(神社)地名
神功皇后戦勝祈願(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より) 戻る
神功皇后は、新羅など三韓親征を前にして、筑・肥の国々におよぷ山々に祭祀されていた神々に詣でて戦勝を祈願され、また三韓から凱旋後には、神々の加護に対して報賽されたという説話が、諸書にのこっている。雷山伝承史を「筑前国続風土記」にみると、仲哀天皇九年の三月、神功皇后は、天皇の遺志を継いで筑紫国に叛いた土族・羽白熊鷲(はじろくまわし)を討伐するために、さきに帰順していた恰土郡の伊都県主五十迹手(いとて)の協力をえて軍兵を集め、夜須郡(古処山)に熊鷲を攻め、これを平定した。そして皇后は、国内の一応の鎮定をみさだめてから、皇祖の神託に従い三韓親征の軍を起した。まず皇后は、異国遠征を前にして雷山に登り、天神地紙を祭麗して戦勝を祈願。このとき皇后みずから、曾増岐山(雷山の別称)に鎮座する水火雷電神社に、一七日(ひとなぬか、一週間)参籠して神楽を奏し、三つの仮面を奉納された。後世、この国が旱魃に苦しむとき、この面を祭祀して祈れば、必ず大雨が降るといい伝えられている(「筑陽記」八巻)。筑前・筑後の山に戻る
油山縁起(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、p15-17より) 戻る
油山近郷の古い口碑に、「油山縁起」なるものの伝説が残っている。昔、この山に海神・綿津見神の女、豊玉姫命が住んでいた。縁あって隣りの宝満山の神に嫁いだが、どうしたわけかこの夫婦神は仲が悪く、ついに離婚することになった。豊玉姫は、宝満山を去るとき、この山に咲く華麗なシャクナゲの一枝を記念に持ち帰ろうとしたが、宝満の神はこれも許さなかった。姫は大層憤り、「わたしの帰る油山には一本のシャクナゲも自生させない」といい残して去ったという。以来いまでも油山にはシャクナゲの自生は一枝もない。といい伝えられている。ところで余談になるが、豊玉姫が嫁いだという宝満の神について「油山縁起」は、宝満山の地主神で〃太田明神〃というとあるが、太田明神とはいかなる神かは不詳だという。この神は、のちに宝満山の神座を玉依姫に譲ったとも伝える。往古から宝満の神は玉依姫といわれてきたが、「記紀」にあるとおり玉依姫ば豊玉姫の妹にあたる。すると、宝満山の神座を玉依姫に護って、山上の詞から宝満山の中腹下の一の烏居横にある祠に遷ったといわれる大田明神(説では同祠を濡衣宮という)のことを、大己貴命(別名大国主命)という説もあるが、大己貴命または大国主命は太田明神という別名がないところから、この説は疑わしい。一の鳥居の横の祠を濡衣宮という説には、何か太田明神と玉依姫の間に悲しいいわれがありそうな気もする。太田明神というのは、もしかしたら大和国三輪山の神、大物主神(八百万神の首領神で天孫に仕えた神、この神を大国主神の別名ともいう)に奉仕したシャーマン大神(おおみわ)氏の祖、大田々根子ではなかろうか−−。この大神氏の末裔、大神比義は豊後国宇佐神宮で、応神天皇の神託をはじめて受け、宇佐八幡大神として祭祀した人物(宇佐八幡託宣集)。宝満の神、玉依姫はわが国の八幡宮祭祀の一神となり、主として筑前国の八幡三座神なかに宇佐の比売大神に替って組み込まれた神であることから、太田明神とは何かの繋がりがありそうである。 筑前・筑後の山に戻る
高良大明神(高良垂玉命)は誰か?(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より) 戻る
高良山は古くから高良の神のご神体山であった。往古の人々は高良山を評して、「山は蔚然として、とこしえに品位たかく、りりしい。また或る人、高良山をして不濡山(ねれせぬやま)と号す」(「筑後地鑑」上巻)などと称したという。また高良山の山腹から頂上へ登ること一五町(約1.6キロ)、山頂近くまでめぐる神籠石を、神護石といい、俗人のいう蓮花石というは非なり、と(「筑後志」)。こうした先人の記述をたどるなかで、山と神仏にまつわる伝承説話の古いことを知る。今日に至るも、高良社の創建は不詳といわれるほどに、どこかはかり知れない遠い山のロマンが感じられてならない。高良大社の神名を、高良垂玉命という(「延喜式」)。だがしかし、この神名は、「記紀」、「続日本紀」のどれにもでてこない神名である。それだけに高良の神の性格が複雑な伝承をもっている、とみてよいであろう。
武内宿禰説 それにしても高良の神を武内宿禰などという古い諸書がかなり多い。そのことに因んで、垂玉宮をして、琴引き宮などと称する書が出たのであろう。琴引きは、琴弾くで、武内宿禰が小山田(筑前粕屋郡)の斎宮に、夫帝仲哀の死を不審に思った妃の神功皇后が自ら巫女となって、託宣神の名を尋ねたとき、武内宿禰が琴弾きの役をすることから、高良神を武内宿禰と別称して、琴引き宮としたのであろう。さらにまた、高良大明神を武内宿禰なりというは非なり、とする反説もある。高良神は、藤大臣連保なり、神号を高良玉垂命という。干珠、満珠をもってささげしむる故に玉垂と号し、住吉明神の化身なり(「諸神根元抄中巻」)といった記事である。藤大臣とは、神功皇后が三韓征伐のとき筑前四王寺峰に登り、戦勝を祈願したとき、住吉神と高良神が示顕し、高良神は自ら皇后とともに従軍、名を藤大臣と称したことにはじまる、といわれる。この藤大臣が千珠・満珠をもって新羅軍を降伏させた、というのが,「高良玉垂宮縁起」にある。藤大臣を武内宿禰とした諸書があるのは、藤大臣を武内大臣(宿禰)に擬した説話であろうという(責柳柳園説)。この「同縁起」は、高良社の神人が著したもので鎌倉期末、元寇の役以降に成立した書である。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
景行天皇、筑後国開拓神説 さて、それならば古き高良の神の前身は、誰で、いつの時代から祭露されたのであろうか−−。さらに「高良伝説」の説話を追っていこう。「肥前国風土記」によると、昔景行天皇(12代)が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮官)を建て、国見をされたという。そのとき基肆(きい)の山が霧におおわれていたので、天皇は「この国ば霧の国と呼ぷがよい」といわれた。後世、改めて基肆国と名づけた。同じく天皇が、高羅の行宮から還幸の途中、酒殿の泉で食事中に天皇の鎧が光った。お供の占師、ト部殖坂が判じて、「土地の神が鎧を欲しがっています」と申し上げた。天皇は、「鎧を奉納するから、永き世の財宝にせよ」といわれた。それで永世社と名づけ、後の人は改めて長岡社(いまの鳥栖市永世神社、酒殿の泉は同市飯田町重田池だという)とした。また御井郡の川(筑後川)の渡り場の瀬が非常に広かったため、人々が難渋していたので、天皇は筑後国生葉山を船山(造船用の木材)、高羅山を梶山(舵用の木材)としたので、人々は救われた。この地を後の人は日理(わたり;亘理)の郷といった、という。この三つの説話は、景行天皇の行跡伝承で、その後この地方を支配した水沼県主、水沼君(水間君)らが、景行天皇の神霊を「山の神」、「川・泉の神」、合せて筑後国の開拓神、鎮守の神と仰ぎ、高羅山を神霊の依りどころにして、その行宮址、また水沼君の本貫地(筑後国三瀦郡)にそれぞれ祭祀したものである、とする説である。高良の神名については、前述のとおり「記紀」「続紀」には記事がない。元寇の役以前までは、不詳の神ということができるが、さて景行天皇の名を大足彦(おおたらしひこ)といい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)という。「足」も「垂」も、神功皇后の大帯姫(おおたらしひめ)の「帯」と同義語であることから、「日足らし育てる」の意に通じ、景行天皇と、高良山の神は相共通するという説がある。景行天皇を筑後国の開拓神として、高良山に祭祀したという県主の水沼君は、また自らを景行天皇の孫裔だと称している。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
仏教伝来後は権現神に 高良の神は、仏教伝来ののちさらに複雑になる。いわゆる神仏混淆によって権現の名で呼ばれるようになった。高良の神、つまり祭神の景行天皇は、仏尊の仮りの姿だというのである(本地垂迹説)。長保五(1003)年癸卯三月一五日に、筑後大介菅野敦頼が撰記した「高良山十講会縁起」によれば、「当国に霊山有り、高良と申す。高良の名を以って山名と称す。山に権現有り。これ古仏の垂迹かな」とある。菅野敦頼は、この書に五日問で一○座の講を、もうけているが、明らかに山岳密教修験者集団の供養法会である。平安初期以降から、すでに高良社は朝廷、地元有力豪族(水沼君ら)の手厚い庇護があって、高良社の神官寺跡といわれる山内の高隆寺(成立は鎌倉期説も)にそれらしき遺構があって、奈良末期の瓦類多数が発見されている。この瓦類は太宰府の都府楼跡や筑後国衙跡のものと同じだという。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
高良神が八幡神系譜へ 以上のことで、高良の神の草創のころは筑後国の総鎮守の神だったことがわかる。その後、奈良期以降に山岳仏教が入り、古仏垂迹があって権現神となるが、まだ垂迹の仏尊名は明らかでない。ところが高良神は、鎌倉期の元寇の役のあと八幡神の系譜に変貌してくる。説によると、九州の山岳仏教は、往々にして八幡信仰に変わるという中野幡能説や、水沼君のミヌマ信仰などは海神の住吉、新羅征伐の神功皇后信仰に結びつく可能性をもっているといった析口信夫説がある。ともかく高良の神は、宇佐八幡宮の影響を強くうけ、その傘下に入っていく。「石清水文書」の承暦二(1078)年二月一七日条にある「八幡宮造営日時勘文等」にある記述が、その初見だという。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
八幡愚童訓の編纂判る。 文永、弘安の元寇の役のあと、高良社の神人たちは、八幡信仰(神功皇后)の広がるなかで京都の石清水八幡宮の社僧に資料を提出して、「八幡愚童訓」を編纂させ、高良社においては、前述した「高良玉垂宮縁起」を自ら編している。この「縁起」は神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峰の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、九月一三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。高良神の月天子は、武内宿禰の請で「藤大臣」と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた干珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた、というのがその内容で、これが玉垂命という神名になったようである。また「同縁起異本」という別書に、はじめて高良権現の本地仏が明らかにされる。いわく中殿宮玉垂神を玉垂大菩薩とし、本地を大勢至菩薩または異説に十一面観音とあり、左殿宮は宇佐八幡大菩薩として、本地を阿弥陀如来、右殿宮の住吉大明神を本地釈迦如来としている。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
戦国期高良戦場と化す 筑後一の宮として朝野に尊崇されてきた高良神の伝承的説話の足跡は、きわめて古く、そして長い。しかし、神仏の宿る耳納の山々も、中世に至って阿修羅の戦場の山ともなる。中世の南北朝時代から、室町末期に至る永禄・天正年間におよぶ約300年間の戦国時代、高良社の修験者、神人(座主)らは武力集団となって結集、あるときは豊後大友氏につき、あるときは肥前の竜造寺氏につくなど離合集散をかさね、ついに天正一四(1586)年、薩摩の島津義久に攻め落され、社殿はいうにおよばず、堂塔、僧房ことごとく焼失、44世座主良寛は、危うく高良山から脱出している。その後、天正一九(1591)年ごろから、約四年間の高良社は全くの無住の社寺となり、神社、仏閣は破廃し神宝、寺宝の大半が消失した、と寂源の「高良山開基」に記されているという。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)
高良中興は46世尊能 荒廃の極にあった高良社を中興したのは、文禄三(1594)年から46世座主となった尊能で、かれは秀吉に願って神領1000石の朱印状をうけた。この専能以降の正統は、48世の玄逸で断絶するが、その後は日光門跡の任命座主が高良山に赴任する。49世秀賀が、赴任してきたのは慶安二(1649)年で、以降高良山は天台宗の一社寺に組み込まれ、明治までつづく(山中耕作「高良山信仰の史的研究」)。
高良山をご神体山とした古代の筑後国の守護神、景行天皇から、神功皇后信仰にもとづく高良玉垂命、さらに山岳仏教が導入されて権現社といわれ、八幡神の系譜に入り、八幡大神、住吉大神が配祭される。その過程で、武内宿禰(玉垂命を藤大臣とした伝承から)といった祭神説まで加わって、高良の神は伝承の複雑さを示しながら今日に至っている。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より) 戻る
高良山 『稲員家文書五一通(近世文書)』広川町郷土史研究会編:「稲員氏の歴史と文書」佐々木四十臣氏(同会顧問)より 戻る
「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。正応三年(一二九〇)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在は広川町)に移り館所を構え田戸七〇町を領したことに、広川稲員氏の歴史が始まる。
南北朝時代の稲員氏の動静は不詳であるが、戦国時代に入ると一貫して豊後大友氏の旗下として行動し、在地豪族としての地歩を固めながら、高良社神管頭としても大きな役割を担った。稲員孫右衛門安則(一六三三〜一七〇七)の孫安綱が著した「高良玉
垂宮旧傳祭祀神職略記」によると、(前略)八人神管の頭領にして、同社の諸式令の行務・御幸・遷宮ならびに神輿一件の司職にて、先駈の吏務あり。金鼓具の護人を司り、且つ当社の重器三種の神宝出納職たり(以下略)ということからも、いかに大きな役割を占めていたかがうかがえよう。(中略)
稲員氏は天正十六年(一五八八)から寶暦二年(一七五二)に至る一六五年間、八代にわたり広川谷において大庄屋職を勤めた。中でも前掲した稲員孫右衛門安則は『家勤記得集』を著したのをはじめ、数多くの記録類を書き残したことで知られる人物であり、広川谷のみならず、あまたの水利土工を手がけて抜きん出た事蹟をも残している。はたまた寛文九年(一六六九)大祝保正・座主寂源ともに、絶えて久しかった高良社御神幸の復活を成し遂げたことは、同社の歴史においても燦然と輝く功績といえよう。」
邪馬台国の領域?(白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)
筑紫平野を制する強大な国
久留米市の高良山(312m)をおとずれて、高良神社の境内から俯瞰すると、足下にひろがる壮大な景観に目をうばわれる。広い筑紫平野の真ん中を筑後川が蛇行しながら流れている。それはときには、陽の光に銀の鱗を光らしてうねる一匹の竜のようである。筑後川の両側は福岡県と佐賀県に分かれ、左のほう、佐賀市よりもさらに遠方に小城町が望見できる。
水縄山地が筑紫平野にせり出した西北端に位置する高良山は、平野をへだてて、背振山地とむきあう格好になっている。この筑紫平野を北上すれば太宰府に達し、南下すれば肥後との国境に近い瀬高町(福岡県山門郡)にいたる。西は筑後川を下って有明海に出る。東北の豊前にいたる古道をたどれば甘木(福岡県甘木市)がある。これらの地点にいずれも五、六里の距離で達することのできる久留米は、北九州の扇の要のごときところに位置している。さらに東のほうは日田盆地を経由して大分平野に通じている。このように筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の諸国にまたがる交通の要衝として、久留米は枢要な場所を占めている。
こうしてみれば『魏志』「倭人伝」に登場する倭の諸国の中で、この筑紫平野を支配する国がもっとも強大であったにちがいないという感想はだれしも否定できないであろう。なぜならば倭の国々のうち、伊都国や奴国など、玄界灘に面した小国は、大陸諸国と交流する尖端部分として、海彼の文化を接受する重要な役割を果たしていたが、あまりにも前線にさらされていて、奥ぶかいヒンターランド(後背地)を形成する余地にめぐまれていない。私はここで、「大きな壺は大きな平野に生まれる」という考古学者の森本六爾の言葉を思い出す。倭国の中で最大の人口をかかえ、倭国連合の中心であり、宗主国であった邪馬台国は、狭小な土地にその所在地を求めることはできないであろう。そしてまた、その国は帯方郡の郡使が常駐していた伊都国など、もっともはやくから国際関係の尖端にあった玄界灘の国々とあまりにはなれているわけにはいかない、という理由から、邪馬台国を遠方の辺鄙な土地に求めることはできないであろう。これらの条件をもってすれば邪馬台国がどこにあるかは明らかであるにもかかわらず、その所在地を、生産力も低く、また博多湾沿岸とはるかにはなれ、常時密接な交流をむすぶことのできない、辺鄙な地に求めるという不合理な「邪馬台国さがし」が今もってあとをたたない。
それは「倭人伝」に記載された距離・日数・戸数などにとらわれすぎているからである。私は三世紀の日本列島の中心が依然として九州にあったと考えるものであるが、邪馬台国九州説のなかの有力な候補地は、いうまでもなく、『和名抄』に記載された筑後国山門郡山門郷か、あるいは肥後国菊池郡山門郷である。またこの二つの地方を一体とみなす考え方もある。それは邪馬台とヤマトの発音の類似に根拠をおくものであるが、夜麻登、夜摩苔の苔(登)と山門の門とは上代の音韻の法則では明らかに区別された性質のものであるという説がある。それに対する反論もある。
この問題は措(お)くとしても、そもそも『和名抄』の山門という郡郷名は、そこが八女山地の入口にあたる場所、すなわち山の戸口にあたるから名づけられた地名である。八女という名は「山」に由来するという説があるが、はたしてそうであれば、山の入口に山門の地名があるのはとうぜんのことである。普通名詞が固有名詞化したものである。筑後国山門郡山門郷は今日の瀬高町のあたりである。そこを訪れてみれば分かるように、土地は狭小であって、最盛期の邪馬台国の中心部分がそこにあったとはとても思われない。そこで瀬高町付近を邪馬台国に比定することができるとしても、そこは初期の邪馬台国のあった場所であり、その最盛期の中心はやがて久留米付近に移ったと考えられる。こうした見解は私がはじめてではない。榎一雄氏がその著『邪馬台国』の中ですでに述べている。すなわち、地名や国名は、小さな局所の名称が拡大使用され、あとになってより大きな地域の名称になるのがふつうであるから、山門郡は邪馬台国の発祥の地であり、それが発展した結果、中心が御井(久留米付近)に移り、さいごに邪馬台国が北九州から姿を消すとともに、邪馬台国の名はその起源である山門郡だけにかぎられるようになったのではないか、と榎氏は言っている。
植村清二氏も邪馬台目の所在地として筑後国山門郡は不適当だと言っている(『神武天皇』)。なぜなら山門郡は有明海の沿岸に位置し、その大部分は低湿地だからである。その低湿地をのぞけば、土地はあまりに狭小貧弱である。とても邪馬台国の七万戸をやしなうに足りない。そこで植村氏は邪馬台国の中心が御井にあったとし、卑弥呼の死後にその勢力がおとろえ、盛時における中心地をみずから放棄した(あるいはまた、新しい勢力によって中心部分を占領された)結果、今の山門郡、おそらく女山(ぞやま)付近に移ったのであろうと推定した。
榎氏は邪馬台国の発祥の地が山門郡であったと考え、植村氏は邪馬台国のさいごが山門郡であったとする。おなじように邪馬台国の盛時の中心は御井付近としながらも、このように両説がある。私はどちらかといえば榎説に与したい。
『筑後国風土記逸文』によると、上妻の県の南二里のところに筑紫君である磐井の墓があるとされている。それが岩戸山古墳で、瀬高町の山門から直線距離で二里半ぐらいの八女市に今も残っている。そこが筑紫君磐井の本居であったとすれば、磐井は根拠地の八女の山地から筑紫平野一帯に進出して、支配するようになったと思われる。
「継体紀」によると、火国(肥前・肥後)と豊国(豊前・豊後)をおさえていた磐井は御井で物部麁鹿火に決戦をいどんだとある。筑紫平野を掌握するものが北九州の覇者となる資格をもつことがこれで分かる。磐井が山地から出て筑紫平野をめざしたことは、そのまま邪馬台国の場合でもあてはまるのではないかと、牧健二氏も「魏志の倭の女王国の政治地理」の中で述べている。「倭人伝」の記事の中の距離・日数を放射線式に解すると、邪馬台国が筑紫平野の御井付近に置かれたとすれば、投馬国をおなじように筑紫平野の上妻・下妻もしくは三瀦郡に置くことはむずかしい。これを肥後・薩摩方面に求めることも適当でないとすれば、本居宣長や牧健二氏の説くように、日向の都万(妻)に比定するのが妥当である、と榎氏は述べている。この投馬国を日向の妻にあてる説には井上光貞も賛同している。太田亮は「高良山史」の中で、投馬国を上妻・下妻・三瀦の三郡の隣接する地域に比定している。三瀦の三は美称であり、上妻・下妻は妻から分かれたと説明する。だが、水沼君(みぬまのきみ)という名前が『日本書紀』に登場する以上、水沼と三瀦の開係を無視して論をすすめることはできない。ミヌマはミツハとともに水の神である。ミツハメといえばミツハの女の神、つまり水の妖精(ニンフ)である。ここにおいて三を美称として、瀦(妻)と切りはなす説は首肯しがたい。したがって、三瀦は水沼に由来し、上妻・下妻は、最初には八女県であったのを、のち上下に分かち、カミツヤメ・シモツヤメとし、それがカムヅマ(コウヅマ)・シモヅマとなったと考えることができる。ただカミツヤメがはたしてカムヅマ・コウヅマというふうにたやすく変化し得るか、いくぶん疑問の余地があることもここに書き添えておく。戻る 筑前・筑後の山に戻る
邪馬台国の中心は筑紫三井郡(白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)
ここで私は筑紫平野の三井郡(御井郡)一帯を邪馬台国の中心としたことについての、私なりの理由をかんたんに述べておく。まず『魏志』「倭人伝」の中の「南、投馬国に至る水行二十日」「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」という条についての解釈であるが、私は榎一雄氏や井上光貞の説にしたがって、伊都国からの放射説をとる。方角は間違われることがすくないから、南でよいとおもう。「水行十日陸行一月」のよみ方も「水行ならば十日、陸行ならば一月」というふうに解する。そして陸行一月は、帯方郡から女王国にいたる一万二千里のうち、伊都国までの距離をひき、残りの干五百里を一日の行程五十里(約二四キロ)で割って得た机上の計算にすぎない、という井上説を支持する。したがって水行十日というのも正確な距離の表現ではない。『魏志』「倭人伝」では、帯方郡を出発して、対馬、壱岐、未慮、伊都、奴、不弥の国にいたるまでの距離は里数をもってあらわしているが、投馬国、邪馬台国への距離は日数をもってあらわしている。これは何を意味するか。伊都国に常駐していた帯方郡の郡使はこの両国に直接赴いたことはなく、倭人から聞き及んだ知識によって漫然と日数をもってその距離をあらわしたにすぎなかったのである。井上光貞は、帯方郡から郡使がやってきて邪馬台国まで行ったとして、そのときは自分たちの乗ってきた大きな船を使ったとする。だが郡使のもってきた文書を伝送したりするのは、伊都国においてなされたのだから、わざわざ邪馬台国まで郡使が出かけていく必要もなかった。したがって、井上が博多から船で松浦半島、西彼杵半島、烏原半島など長崎県を迂回して、有明海から筑後川の南の山門郡に到達するのに十日を要するという説を述べるのには、反対せざるを得ない。波風の烈しい危険な玄界灘を航行するよりは、もっと安全な内陸部の河川を利用するほうがはるかにのぞましい。『魏志』「倭人伝」の末廬国の条には「草木茂盛し、行くに前人を見ず」という描写がある。そこで末盧国から「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」場合でも、先導者の姿も見えないような山地はさけて、波打際や岬の鼻をつたっていったにちがいない。それでなければ小舟を利用したであろう。弥生時代、陸地を歩くには、尾根筋か、けものみちしかなかった。見通しは利かず、どんな危険が待ち伏せしているかも分からなかった。そこで当時の旅行は、第一次的には海や川や潮沼などの水路を利用して、目的地に達したと思われる。陸地を通ることは第二次的であった。それはアイヌはもちろん、明治になって北海道の入植開拓者がもっぱら川を交通路として、舟で移動していたことからも分かる。では邪馬台国への道はどうであったかを考えると、伊都国から博多湾ぞいに航行し、博多港に川口をもつ御笠川をさかのぼって不弥国にいったと思われる。そこは今日の福岡県糖屋郡宇美町や太宰府市付近であった。そこからは筑後川の支流である宝満川を下って、久留米付近に着いた。川の利用法は上げ潮を利用してさかのぼり、引き潮を利用して川を下るというものであり、せまい水路では岸から舟を曳いていくことも可能であった。夜間はもちろん動けないから、昼間だけの行動であった。村山健治氏の『誰にも書けなかった邪馬台国』には、次のような貴重な証言が紹介されている。明治22年(1889)以前には、久留米に流れる宝満川と博多に流れる御笠川が両都市をむすぶ主要な交通路であって、舟底が川底につっかえて動けなくなると、川底の砂をスコップで除き、舟を深みに押していった。また、宝満川と御笠川の上流で荷を積みかえるときには、陸地を荷を担いで渡していった。そこには舟越、瀬越の地名※が残っているという。このように博多と久留米とをもっとも抵抗なく結ぶ最短距離の御笠川と宝満川の両河川を辿っていく時代がながくつづいてきた。博多と久留米をむすぶ主要道路としての役割を明治中期まで果たしてきた。それは奴の国から不弥国を経て邪馬台国への道を辿るときも利用されたコースにちがいなかった。 戻る 筑前・筑後の山に戻る 宮崎康平ワールド: まぼろしの邪馬台国7.不弥国 へ
※ 牛をこの時の陸送に使用していなかっただろうか?蘆城駅(あしきのうまや:阿志岐、吉木)=宝満(阿志岐)川 ・・・牛島の地名もある。
邪馬台国の領域と重なる物部氏の勢力範囲(白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)
邪馬台国が御井、つまり『和名抄』の御井郡の一帯を中心に展開していたとすれば、その中心となるところが、筑紫平野を一望に見わたす形勝の地の高良山であったことは誰しも異論のないところである。御井の名も高良山のふもとの朝妻にある泉から起こったといわれている。『肥前国風土記』によれば、景行帝はなんども高羅行宮(こうらのかりみや)に足をはこんでいる。そこで高良山にまつられる高良神の本体を究めることが邪馬台国の性格をつかむ一つの手がかりになる。瀬高町の女山とおなじく高良山にも神護石があり、女山に弥生時代の青銅器である広矛が出土しているように、高良山のふもとの御井町清水からも広矛が出土している。また西山麓にある紙園山古墳は九州でも最古の古墳の一つにかぞえられ、弥生終末期の古墳の形式を踏んでいるといわれている。高良山が弥生時代から重視されていたことはこれからも推測される。高良山の祭神は高良玉垂命、豊比口羊(とよひめ)を主神とし、左右の相殿に八幡大神と住吉大明神を祀っている。しかしその主神の高良玉垂命は、『記紀』やその他の古典に見えないのでいかなる神か不明であり、諸説も紛々としている。武内宿禰説、藤原鎌足説、綿津見神説、阿曇磯良麻呂説、住吉同体説、彦火火出見尊説、鵜葺草葺不合尊、御毛沼命説など枚挙にいとまがない。このほか筑紫君祖神説、物部氏神説、物部胆咋連説、香春同神説などがある。
以上は太田亮の『高良山史』の中に列記されたものであるが、これを見ると、一つには住吉や宗像や阿曇や水沼君など水や舟運に関係の深い氏族の神であり、一つには物部氏に関与する神に分類することができる。そしてこの二つの神はかならずしも矛盾対立するものでもなく、また無縁でもない。
「神代紀」の一書に、宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神であると記されている。一方、『旧事本紀』の「天孫本紀」に、物部阿遅古連は水間君等の祖なり、とある。水間君と水沼君は同一であるから、ここから物部氏と宗像の神との関連が浮びあがる。
「天孫本紀」にはまた物部阿遅古連の姉妹として、物部連公布都姫夫人、字は御井夫人、また石上夫人と註記されている人物の名が記されている。布都とか石上とかの名が物部氏に関連することは明らかである。字を御井夫人というからには、筑後の御井とゆかりのある名前であろう。そこからとうぜん高良山との関係が推定される。
『地名辞書』は高良神社の祭神に阿曇連の祖の綿津見神をあてている。高良神社の祠官の中の小祝(こはふり)に安曇氏の名前が見える。それに対して物部氏は代々高良神社の大祝(おおはふり)いう重要な祠官をつとめてきた。そこで高良の祭神は物部胆咋連をふくめた物部氏の氏神である、と太田亮は述べている。あとで述べるように物部氏と安曇氏は密接な開係をもっていた。物部氏の同族の阿刀氏と同じように安曇族は舟運をつかさどる集団であった。
ところが先にあげた物部阿遅古と同一の人物ではないかと想像されている珂是古という名前が、『肥前国風土記』の基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見える。それによると姫社の郷の中に山道(やまじ)川が流れて、筑後川と合体しているが、昔はこの川の西に荒ぶる神がいて、通行する旅人を殺害していた。そこで神託をあおぐと筑前の宗像郡の人の珂是古に自分の神社を祀らせよと託宣が出た。珂是吉は幡をささげて神に析り、この幡が風に吹かれてとんでいき、落ちたところが自分を求める神の所在地であるときめた。するとその幡は御原(みはら)郡の姫社の森に落ちた。そこで珂是吉はそこに神が住んでいることを知った。その夜の夢に、糸くり道具が出てきて舞い、珂是古をおどろかしたので、その神が女神であることが分かった。やがて社殿をたて女神を祀った。それ以来、通行人も殺されなくなった。珂是古が社殿をたてて女神をまつったのは鳥栖市(佐賀県)の姫方(ひめかた)にある姫古曾神社であるとされているが、幡が風にふかれて落ちたところはそこから東方2キロのところにある福岡県の小郡市大崎という。この大崎にはいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がある。祭神は媛社神と織女神である。ところでこの神社の嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている。磐船神社といえば、天磐船に縁由のある河内の磐船神社をただちに思い出すが、新潟県の村上市にある式内社の石船神社もニギハヤヒを祀っている。ということから大崎の媛社神社の宮司の多田隆氏は、ニギハヤヒをかつて祀ったにちがいないと推測している。大崎の地はむかしは宝満川の河口または有明海の奥ぶかい所に突出した岬であって、この岬にニギハヤヒを祀っただろうというのである。そして棚機神(織女神)のほうは、ニギハヤヒの母にあたる栲旛千千姫万幡姫(たくはたちじひめよるずはたひめ)命(『旧事本紀』には万幡豊秋津師姫栲旛千千姫)であろうという。あとになって星まつりの信仰が中国から渡来して織女神にすり変わったのではないか、と多田氏は推測している。もしそうだとすれば、媛社の神はニギハヤヒであるから、それを祀る珂是古が物部阿遅古と同一人であるのはつじつまがあうわけである。珂と阿は誤写しやすい。『肥前国風土記』の異本には珂是古を阿是古と記しているものがあり、そのほうが古いと思われる。いずれにしてもニギハヤヒを祀る磐船神社が久留米市のすぐ近くにあったことは注目にあたいする。ただこの小郡市の媛社神社または鳥栖市の姫古曾神社が、天日矛の妻を祀る大阪市東成区の比売許曾神社と間連があるかどうかは明らかではない。
「雄略紀」には、身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉(くれ)からもってきた鵞鳥が水間君の犬にくわれたことを伝えているが、一説には筑紫の嶺県主泥麻呂(みねあがたぬしなまろ)の犬にくわれたとなっている。ここから、筑後川をはさんでむきあう水間県と嶺県とはもともと同一の県であって、後世二つに分かれたのであろうと太田亮は推定しているが、このことは水間県と嶺県にまたがって物部氏が勢力をひろげていたことを暗示している。嶺県はのちの肥前国三根郡である。物部氏が筑後の三井郡や肥前の三根郡だけでなく、その南につらなる山門郡や三瀦郡にも勢力を扶植していたことは、天慶七年(944)すなわち、平将門の乱の直後につくられた『筑後国神名帳』によってもうかがわれる。この神名帳は高良神社に所蔵されているもので、きわめて信憑性が高いとされている。この神名帳には山門郡の条の中に磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神などの名が見え、三瀦郡の条に物部神および物部山国神の名がみえるところから、山門郡、三潴郡一帯に物部氏の神を奉斎する神社が、十世記の半ばに点在していたことを知る。また、山門郡には三沼神や巳止真(みとま)神の名が記されており、水沼神を祀る神社のあったことを知る。
『筑後国神名帳』には山門郡に堤大国玉(つつみおおくにたま)神の名がある。この神は瀬高町大字山門字堤にある堤古墳群と関連があるにちがいない。国玉はいうまでもなくその地域を人格化したもので、きわめて古い信仰とみられる。大和国に物部氏の関与する倭大国魂神社があることとあわせて考えられる。神名帳には三瀦郡に白口国玉神と国玉神、下妻郡の条に国玉神の名がみえる。このように小地域に数多くの国玉神があることは、その地域がきわめて古くからひらけ、村落国家とでも称すべきものをいとなんでいたことを示唆する。同時に倭大国魂神社の倭といえども大和国の中のごく限られた小地域を指していたことが以上のことから察せられるのである。これまでみてきたことから、物部氏の勢力の基盤と邪馬台国の領域とがほぼ重なりあっていることが確認される。戻る 筑前・筑後の山に戻る
物部氏の痕跡(3) 人名・地名としてのクラジ (白鳥伝説、上巻、谷川健一著、小学館ライブラリ-、1997年より)
高良神社が物部氏の奉斎する神社であると思われることからして、その南にあたる明星嶽(現在明星山、三六三メートル) のふもとに天津赤星が住んでいたという伝承があってもいっこうにおかしくない。
さきに述べた水沼君に縁由のある筑後三瀦郡の鳥養郷は、筑後川畔の久留米市大石町あたりと比定されている。この大石に式内社の三井郡伊勢天照御祖神社がある。『地名辞書』 の説明では伊勢は石の訛りであって、つまりこの土地の名を指す。そして天照御祖というのは物部氏の祖のニギハヤヒを祀ったものであろうという。
『日本書紀』 に継体帝の二十二年、物部鹿鹿火が磐井と筑紫の御井郡(三井郡) にたたかうとあるところから、大功をたてた物部氏がそこにとどまったのかも知れないと推定を加えている。あるいはまた、高良神社は物部胆咋(いぐい)連を祀っている神社であることから、それと関連づけて考えることができる、と『地名辞書』は述べている。この大石町と筑後川をはさんでむかいあう豆津は「大豆物部」 の所在地であった。『和名抄』にいう肥前国三根郡物部郷はすでに『肥前国風土記』 にもその名を記されており、物部の経津主の神を祀るとある。そこは現在佐賀県三養基郡北茂安町で、豆津のすぐ近くである。また筑後浮羽郡にも物部郷がある。筑後川中流に沿う今の吉井町あたりとされている。物部郷は壱岐国石田郡にもあると 『和名抄』 は伝えるが、そこは旧渡良村(現在郷ノ浦町) であって、物部布都神社がそこにある。
このほか物部一族の居住地と思われるものに、『和名抄』 にいう筑後国三毛郡十市郷がある。その所在地は明らかでないが、のちの三池郡、つまり肥後北部に近いところであると推察される。
天照大神と倭大国魂を並べて祀る同床共殿 谷川健一著 “古代学への招待” 2010年より
『日本書紀』を見ると、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊の初期天皇はほとんど磯城県主の娘を娶っている。磯城県主の初代は弟磯城、名は黒速である、と「神武紀」は伝える。磯城は聖域をあらわす。琉球の神話に見られるシケ、スキ、スクなども同系の語であろう。太田亮は弟磯城を祖とする磯城県主は物部氏と婚を通じ、その系統はついに物部氏に移ったと見ている(『姓氏家系大辞典』)。県は古代の郡に相当する地域である。磯城県主の女の真鳥姫は、物部氏の伊香色雄命と婚し、建新川命を生んだ。「天孫本紀」に、建新川命は、倭志貴県主等の祖とあるが、母系を継いで志紀県主となったということが分かる。ただ『新撰姓氏録』には、建新川命の弟である大売布命を志貴県主の祖としている。このほか、「天孫本紀」には、建新川命の兄である十千根の子の物部伊岐美連公も「志貴県主云々等の祖」とある。いずれも物部氏である。さきに述べたように磯城県主は婚姻によって物部氏とむすばれ、物部氏の系統に組み入れられ、饒速日命を祖と仰ぐことになった。この間の経緯は『記紀』にたしかめることができる。第七代の孝霊天皇の妃は十市県主の祖の磯城県主大目の娘の細媛である。十市(とおち)県主は物部氏の系統である。第八代の孝元天皇の妃は、穂積臣の祖の鬱色雄命の妹の鬱色謎命である。穂積氏は物部氏の同族である。第九代の開化天皇の妃は物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘の伊香色謎命である。第十代の崇神天皇にいたってはじめて大彦命の娘の御開城姫を娶っており、崇神のあとはすべて皇室の血を引く者が妃となっている。このことは何を意味するか。古代においては家の祭祀はもっばら女性の手にゆだねられていた。開化帝までの同床共殿の時期にあっては、神々が同じ宮殿で一緒に祀られていたことから、妃として宮中に入った物部氏の女性が天照大神と倭大国魂双方の祭祀をつかさどっていたにちがいない。
三輪山のふもとにある檜原神社の境内に立つと、大和国中をへだてて、真西に二上山を望み、春分の日の太陽は二上山頂の雄岳と雌岳のちょうど中間に沈んでゆくのが見える。宮中に祀っていた日神を移し祀ったという笠縫邑は槍原神社のあたりであるという説が有力である。ここならば太陽の運行を観測するのに最適な地であることはまちがいない。
『記紀』には敏達天皇は訳語田(他田:おさだ)幸玉(さきたま)の宮で政を見たとあるが、そこは桜井市の戒重(かいじゅう)付近に比定されており、戒重にある春日神社は他田宮とも称した。一方、他田宮を桜井市大字大田とする説もある。他田→太田→大田と地名が変遷したという。そこには他田坐天照御魂神社があり、二ギハヤヒを祀る。アマテルは自動詞であり、アマテラスは他動詞である。自然の球体である太陽はアマテルであり、地上を照らす支配者の太陽がアマテラスである。それゆえにここではアマテルという神社名が注意されるのである。物部氏の祀っていた日神はアマテルであり、天皇家の日神はアマテラスである。それは物部氏の日神アマテルを天皇家がアマテラスとしてわがものにしたと考えられなくもない。
用明紀の即位前紀の九月に「酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)を以て、伊勢神官に拝(め)して、日神(ひにかみ)に祀(まつり)に奉(つかえまつ)らしむ」とある。用明帝の先帝の敏達天皇の六年(五七七)の春二月に「詔して日祀部・私部(ひのまつりべ きさいちべ)を置く」と『日本書紀』にある。日祀りは太陽を祀ることであって、それにふさわしい地は笠縫邑・檜原神社のあたりしかない。槍原はまえに日原とも記した。また桜井市の草川は日下に由来するのではないかという池田末則の説がある(『日本地名伝承論』)。草川には川は流れていない。日下は河内の草香が日の下であるためにつけられた地名であることは私は明らかにした(『白鳥伝説』)。三輪山のふもともまさしく日の下であり、そこが日祀りの場であったことは想像に難くない。敏達天皇の時に定められた日祀部というのも、日神を斎き祀る集団から出発したにちがいなく、その祭司にたずさわる女性が日の妻であった。
民俗行事としてながく残りつづけたヒムカエヒオクリ、またはニッテンサマノオトモとかヒノトモと呼ばれるのは、春秋の彼岸の日に、女たちが午前中は野原を東に歩き、午後は西に歩くという習俗で、京都府や兵庫県などに見られた。ヒノトモという言葉からして、素朴な日神崇拝の名残というほかはないが、遠く古代の日祀りの女たちの行動を思わせるものである。
有明海と海上交易 森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より
大陸への海の出入口として、博多方面だけではなくて、有明海、神崎荘の方面もかなり重要な意味があったと考えることもできます。しかも、吉野ヶ里遺跡がそこの近くから出てきたということになると、それは弥生時代に遡ることになります。とくに中国大陸との関係では、江南との関わりを考えてみる必要があるのではないでしょうか。吉野ケ里遺跡というと代表的な弥生時代の遺跡で、邪馬台国がらみで、いろいろ言われているけれども、それでもまだ弥生時代の代表的な農村・ムラのように考えられている。しかしその場所が、神崎荘よりも少し古い時期と思いますけど、有明海へそそぐ川のそばに下中枝遺跡があって、後には神崎荘に含まれる場所だと思いますけれども越磁が非常にたくさんでてくる遺跡です。越磁というのは、越州窯の焼き物とも言いますが、中国の江南の焼き物です。唐の終わりくらいに、銭氏呉越国という国があって、小さな国だから貿易立国をはかりさかんに青磁を焼くんです。海岸の寧波の港のぐるりに、窯跡がいっぱいあります。そして、さかんに日本へたくさんもってきている。その越磁の非常にたくさん出るのが下中杖遺跡です。そうすると、文献に出てくる神崎荘の、もうちょっと古い時期から、越磁がたくさん入ってくる拠点であった。そして、さらに遡ると、雄略天皇の時に呉の国に派遣した船が帰ってくる。ところが、持って帰った珍しい鳥を、水沼(間)君の犬が噛んだという記事が『日本書紀』にあります。『日本書紀』はおもしろいんで、嶺県主泥麻呂の犬だという別の伝えをものせている。水沼君か嶺県主かは、筑後川の河口の右岸になるか左岸になるかの違いで、いずれにしても有明海への川の出口の豪族です。そうすると、古代史でよく言う「倭の五王と南朝」というまさにその南朝とのつながりの、ある段階の港がどこだつたかを言っていると思うのです。南朝への派遣船が全部有明海から行ったなんて考えてはいないけれども、有明海を発着地にしている場合があるということです。その時に呉に行った身狭村主青という人がいるのですけれども、『新撰姓氏録』 によれば、身狭村主の家は呉の孫権の子孫から出たことになっていますね。そうすると、江南貿易に従事するような責任者は、嘘か本当かは別にして、呉の孫権の子孫だと向こうへ行って言う方が、さまざま貿易の利益があったかもわからない。あるいは、本当にそう信じていたのかもわからないですね。孫権の子孫かどうかはわからなくても、呉の地域の、ある程度の日常会話くらいできるとか、そういう連中が抜擢された可能性もある。そういう意味では、吉野ヶ里遺跡を通じて、江南との関係が非常に浮かび上がってきたというのが実感ですね。だから、あのあたりには、難波津とか那津(博多) に相当するほどの港は、文献上にはでないけれども、何とか津というのが文献にでないからといって、貿易船が出入りしなかったということにはならないですね。僕は、神崎荘という名前になっているけれども、そういう船の発着の基地があった可能性は、非常に強いのではないかと思います。戻る 筑前・筑後の山に戻る
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中央の動き |
太宰府 |
筑前 |
筑後 |
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筑紫の君の祖、甕依姫 |
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筑紫国造ハ志賀宮高穴穂朝御世 阿倍臣同祖大彦命5世孫田道命 |
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429? |
百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る |
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442? |
沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗) |
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継体朝 |
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筑紫君磐井の戦争 |
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536 |
『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた |
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554 |
百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。 |
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555 |
百済聖王の息子恵来倭、 |
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556 |
蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送 |
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562 |
紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退 |
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欽明31年 |
570 |
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欽明32年 |
571 |
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575 |
新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。 |
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576 |
豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后 |
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583 |
百済人日羅来倭* |
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585 |
蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立 |
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推古1年 |
592 |
祟峻没(暗殺) |
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推古5年 |
597 |
難波吉士磐金 新羅へ |
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推古6年 |
598 |
難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上 |
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推古16年 |
608 |
唐使裴世清来る |
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推古17年 |
609 |
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百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊 |
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推古36年 |
628 |
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舒明13年 |
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皇極4年 |
645 |
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孝徳5年 |
659 |
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筑紫太宰帥:日向臣 |
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斉明4年 |
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天智6年 |
667 |
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百済鎮将劉仁 |
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天智7年 |
668 |
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筑紫率:栗前王 |
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天智8年 |
669 |
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筑紫率:蘇我赤兄臣 |
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天智10年 |
671 |
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筑紫帥:栗隈王 |
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天武1年 |
672 |
筑紫太宰:栗隈王 |
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天武5年 |
676 |
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筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流 |
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天武6年 |
677 |
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天武11年 |
682 |
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筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢 |
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天武12年 |
683 |
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筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢 |
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持統3年 |
689 |
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筑紫太宰:粟田真人朝臣 |
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持統6年 |
692 |
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太宰率:河内王 |
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持統8年 |
694 |
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太宰率:浄廣肆三野王 |
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持統10年 |
696 |
高市皇子薨去 |
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文武元年 |
697 |
軽皇子(文武)即位 |
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文武4年 |
700 |
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筑紫総領:石上朝臣麻呂 |
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大宝2年 |
702 |
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太宰帥:石上朝臣麻呂 |
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大宝3年 |
703 |
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太宰帥:大伴宿禰安麻呂 |
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慶雲3年 |
706 |
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少貮:安倍朝臣首名 |
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和銅元年 |
708 |
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太宰帥:粟田朝臣真人 |
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和銅6年 |
713 |
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筑後守:道君首名 |
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和銅7年 |
714 |
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太宰帥:多治比真人池守 |
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養老2年 |
718 |
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道君首名卒す |
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養老4年 |
720 |
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養老5年 |
721 |
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大貮:石川朝臣石足 |
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神亀4年 |
725 |
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太宰帥:大伴朝臣旅人 |
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神亀5年 |
726 |
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守:山上憶良 |
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神亀6 |
727 |
長屋王の変 |
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・
漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10) |
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・
藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11) |
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・
翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問 |
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・
長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺 |
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天平2年 |
728 |
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守:山上憶良 介:佐氏予首 目:田氏真人・・ 掾:門氏石足 |
守:葛井(フジイ)太夫 |
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天平3年 |
729 |
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太宰帥:藤原朝臣武智麻呂 |
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天平9年 |
737 |
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太宰帥:藤原朝臣宇合 薨 |
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天平10年 |
738 |
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大貮:高橋朝臣安麻呂 |
守:大宅朝臣君子 |
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天平12年 |
740 |
藤原広嗣の乱 |
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・朝廷軍、大将軍大野東人 |
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天平13年 |
741 |
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天平17年 |
745 |
筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う |
大貮:石川朝臣加美 |
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守:文忌寸馬養 |
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天平18年 |
746 |
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太宰帥:橘宿禰諸兄 |
守:粟田朝臣馬養 |
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天平19年 |
747 |
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天平感宝1年 |
749 |
陸奥国黄金献上 |
少貮:小野朝臣田守 |
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・
大伴牛養、大伴稲君、大伴家持 |
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・ 佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨 |
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・ 橘諸兄、橘奈良麻呂 |
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天平勝宝2年 |
750 |
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太宰帥:藤原朝臣乙麻呂 |
守:吉備真備 |
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天平勝宝4年 |
752 |
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太宰帥:紀朝臣麻呂 |
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天平勝宝5年 |
753 |
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太宰帥:石川朝臣年足 |
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守:清原連浄道 |
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天平勝寶6年 |
754 |
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大貮:吉備朝臣真備 |
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天平宝字元年 |
757 |
橘奈良麻呂の変 |
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・
安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人 |
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天平宝字3年 |
759 |
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天平宝字4年 |
760 |
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天平宝字5年 |
761 |
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守:縣犬養宿禰古麻呂 |
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天平宝字6年 |
762 |
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天平宝字7年 |
763 |
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天平宝字8年 |
764 |
恵美押勝の乱 |
太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂 |
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天平神護元年 |
765 |
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太宰帥:石川朝臣豊成 |
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天平神護2年 |
766 |
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守:紀朝臣廣純 |
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神護景雲元年 |
767 |
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大貮:藤原朝臣楓麻呂 |
守:阿倍朝臣三縣 |
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神護景雲2年 |
768 |
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太宰帥:弓削御浄臣清人 |
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神護景雲3年 |
769 |
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掾:山上朝臣船主 |
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宝亀元年 |
770 |
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少貮:小野朝臣小贄 |
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太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂 |
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宝亀2年 |
771 |
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宝亀3年 |
772 |
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宝亀5年 |
774 |
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太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂 |
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宝亀6年 |
775 |
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守:高向朝臣家主 |
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宝亀7年 |
776 |
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少貮:藤原朝臣仲繼 |
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宝亀9年 |
778 |
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守:當麻真人乙麿 介:日置首若虫 |
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宝亀10年 |
779 |
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介:賀禰公小津麻呂 |
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宝亀11年 |
780 |
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太宰帥:藤原朝臣濱成 大貮:佐伯宿禰今毛人 |
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守:田中朝臣飯麻呂 |
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太宰帥:藤原朝臣魚名 |
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天応元年 |
781 |
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天応2年 |
782 |
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延暦元年 |
782 |
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太宰帥:藤原朝臣魚名 薨 |
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大貮:石上朝臣家成 |
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延暦2年 |
783 |
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守:為奈真人豊人/守:賀茂朝臣人麻呂 |
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延暦3年 |
784 |
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少貮:藤原朝臣管繼 |
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守:御方宿禰廣名 |
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延暦4年 |
785 |
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延暦5年 |
786 |
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太宰帥:佐伯宿禰今毛人 |
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延暦7年 |
788 |
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延暦8年 |
789 |
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少貮:藤原朝臣園人 |
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延暦9年 |
790 |
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員外帥:藤原朝臣濱成 薨 少貮:藤原朝臣真鷲 |
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延暦10年 |
791 |
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守:紀朝臣難波麻呂 |
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延暦14年 |
795 |
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延暦15年 |
796 |
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延暦16年 |
797 |
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延暦18年 |
799 |
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延暦24年 |
805 |
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大同元年 |
806 |
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大同3年 |
808 |
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少貮:多治比真人今麻呂 |
守:紀朝臣長田麻呂 |
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大同4年 |
809 |
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守:藤原朝臣清岳 |
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弘仁元年 |
810 |
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権介:御室朝臣是嗣 |
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弘仁2年 |
811 |
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弘仁3年 |
812 |
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弘仁4年 |
813 |
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弘仁5年 |
814 |
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弘仁6年 |
815 |
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守:乙村王 |
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天長6年 |
829 |
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筑後守ー>近江守:美能王 |
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承和2年 |
835 |
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太宰帥:三品秀良親王 |
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承和4年 |
837 |
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権帥:藤原朝臣常嗣 |
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承和5年 |
838 |
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承和6年 |
839 |
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大貮:南淵朝臣永河 |
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承和7年 |
840 |
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守:文室朝臣宮田麿 |
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承和8年 |
841 |
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守:南淵朝臣年名 |
守:清瀧朝臣臣藤-根 |
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承和9年 |
842 |
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大貮:藤原朝臣衛 |
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承和13年 |
846 |
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守:益善王 |
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承和15年 |
847 |
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大貮:紀朝臣長江 |
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嘉祥2年 |
849 |
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嘉祥3年 |
850 |
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太宰帥:三品葛井親王 薨 |
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仁寿元年 |
851 |
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守:藤原朝臣真教 |
守:山口朝臣春方 |
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仁寿3年 |
853 |
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少貮:滋野朝臣善蔭 |
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斉衡元年 |
854 |
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斉衡2年 |
855 |
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大貮:正躬王 |
介:藤原朝臣興邦 |
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斉衡3年 |
856 |
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守:橘朝臣三夏 |
守:桑田真人虎吉 |
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天安元年 |
857 |
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天安2年 |
858 |
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守:紀朝臣本道 |
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貞観元年 |
859 |
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守:源朝臣興 |
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貞観2年 |
860 |
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大貮:清原真人岑成 |
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貞観3年 |
861 |
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守:源朝臣生 権守:紀朝臣本道 |
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貞観4年 |
862 |
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貞観5年 |
863 |
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太宰帥:二品仲舒親王 少貮:在原朝臣安貞 少貮:藤原朝臣元利麻侶 |
守:藤原朝臣真庭 介:永原朝臣永岑 |
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貞観6年 |
864 |
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少貮:安倍朝臣清行 |
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貞観7年 |
865 |
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権介:藤原朝臣業世 |
守:紀朝臣今守 |
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貞観8年 |
866 |
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貞観9年 |
867 |
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大貮:茂世王 |
守:藤原朝臣安棟/守:紀朝臣恒身 |
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貞観10年 |
868 |
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少貮:安倍朝臣清行 |
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貞観11年 |
869 |
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大貮:藤原朝臣冬雄 |
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貞観12年 |
870 |
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守:清原真人真貞 |
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貞観13年 |
871 |
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太宰帥:二品賀陽親王 |
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貞観14年 |
872 |
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貞観15年 |
873 |
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権帥:在原朝臣行平 |
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元慶元年 |
877 |
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守:毛野朝臣澤日 |
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元慶2年 |
878 |
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権少貮:藤原朝臣房雄 |
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元慶3年 |
879 |
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大貮:橘朝臣三夏 |
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守:紀朝臣令影 |
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元慶4年 |
880 |
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元慶7年 |
883 |
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守:都朝臣御酉 殺害事件 守:淡海朝臣有守 |
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元慶8年 |
884 |
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元慶9年 |
885 |
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仁和元年 |
885 |
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大貮:藤原朝臣行有 |
守:興我王/守:布勢朝臣園公 |
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仁和2年 |
886 |
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大貮:藤原朝臣保利 |
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仁和3年 |
887 |
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守:藤原朝臣興範 |
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仁和4年 |
888 |
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寛平元年 |
889 |
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延喜元年 |
901 |
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権帥:菅原朝臣道真 |
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延喜5年 |
905 |
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延喜9年 |
909 |
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延喜11年 |
911 |
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天慶3年 |
940 |
将門・純友の乱 |
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・小野好古、藤原慶幸、大蔵春實、橘遠保 |
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天慶4年 |
941 |
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天慶5年 |
942 |
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守:吉心宿禰公忠 |
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