肥前の古歴史

肥君等祖健緒組

末羅国、 松津国

基肄郡、 神崎郡嶺県、 三根郷と葛城郷、 米田国、 佐嘉県、  小城郡

葛津立国、 杵島県

春日部屯倉

與止日女(よどひめ)神社

宇野御厨

肥前杵島郡の伝承


肥前國俯瞰図

 

A みやき町(旧三根町)  葛城一言主神社 : 葛城郷                                    もどる

 



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肥君等祖健緒組   武雄市史上巻 昭和56年   もどる       −海人族−と健緒組へもどる

    崇神天皇の御代に、肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘妹(大和朝廷に抵抗した土豪を卑しんだ呼称の一つ)を肥君等の祖の健緒組の率いる部隊を派遣して討滅した後、健緒組が国中を巡察した際、八代郡の白髪山で日没となって宿営をしたとき、大空に火が自然に燃えて少しずつ下にさがって、この山について、かがり火のようであった。後で健緒組が天皇の威霊によって賊を無事に討滅できたことと不思議な火のことを天皇に奏上したら、今まで聞いたことのない不思議なことであるとして火国と名づけられ、功を賞して健緒組を火君(君は姓の一つ)として火国を統治させた【肥前風土記】。

    「景行天皇の部隊をのせた船団が、今の熊本県葦北より火国に渡られる際、海上で日没となって困ったとき、不思議な火光(不知火)が現出して行く先が見え、火光をたよりにして無事に着岸することができた。着岸できた火の光った邑の名前を質問されたのに対し、住民が火国八代郡火邑である、今の火光は誰がなしたものか判らない不思議な火光(不知火)と答えたので、天皇は今の火光は人為的な火光ではない。神の火である、昔から火国といわれている理由がわかった」と語ったと伝えている【肥前風土記】。

    崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている【国造本紀】。設置の時代は問題であるが、遅男江命の遅男江は、【肥前風土記】に肥(火)君の祖とある健(建)緒組の行書を誤写した可能性が強く、遅男江命は健(建)緒組命と同一人物であろう。さらに健(建)緒組命は、日本書紀景行天皇32月の条に「屋主忽男武雄心命(一にいう、武雄心命)……紀直が遠祖菟道彦の女影媛を要りて武内宿禰を生ましむ。」とある屋主忽男武雄心命と同一人物視されたのではないかと思われる。もしもそうであれば、武雄神社の祭神の中の武雄心命・武内宿禰(古事記は建内宿禰と書く)と関係が生じてくる。関係というのは、武雄神社の祭神は本来は火国造らの祖の建緒組命であったものが、それを氏神とする武雄地方の豪族(武雄氏?)によって、武雄心命に改められたのでほないかということである。

 

末羅国    武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    末羅国は松浦国と同じで、魏志倭人伝にでる末慮国の地域で、この時代の豪族の墳墓である古墳の分布から考えて、現在の唐津市の鏡地区と浜崎玉島町とを中心として伊万里・平戸方面にも及んだ範域であろう。対外関係の要地として大和朝廷が重視した地域である。その国造には成務天皇の時に、有力な軍事団の長の一つでもある物部氏の祖の伊香賀色雄の子の大水口宿禰(足尼)の孫の矢田稲吉を任命したと記されている。この矢田稲吉は肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した大屋田子(風土記では日下部君らの祖とある)と同一人物ではないかと思う、大をとった場合にそう考えられる。

    日下部氏は大伴氏を統率者とする朝廷の軍事団である靭負部に属するものといわれるが、靭負部は大伴氏だけが終始統率者でなかったと思う。矢田稲吉にせよ、大屋田子にせよその祖先は武人として物部氏の配下であったときもあれば、大伴氏の配下であったときもあったと考えたい。その時代と系譜には問題が存するが、稲吉を稲置と同一と見た場合には重要な問題となる。稲置は県主に比べて極端に少なく、畿内・東海の両地方に出雲・讃岐を加えて九か国に十四例しかなく、九州には全くないといわれてきた。稲置は屯倉に関する税長のような職名の性格が強いものである。そうすると松浦国造や松浦の県主と稲置との関係をどう解釈するかが問題である。ここでは問題提起にとどめておく。

    肥前風土記には唐津地方には日下部君らの祖の弟日姫子(松浦佐用姫)と五三七年に新羅を討って任那、百済を救援した大伴狭手彦との悲恋伝説が記されている。また松浦郡賀周の里に土蜘妹の海松橿媛というものがいたのを、景行天皇御巡幸の際に陪従の大屋田子(日下部の君らの祖)が討滅したという話が記されている。討滅の地は現在の唐津市の見借附近であろう。この二つの説話によって、唐津地方に豪族日下部氏のいたことと、日下部氏が大伴氏と関係があったこと、朝廷に忠節をつくしてきたことを主張することによって、有利な地位の保持をはかっていることがうかがわれる。

松浦の玉島の里   西日本古代紀行・・・神功皇后風土記、河村哲夫著 平成13年より

    『魚が釣れるならば新羅の征服が成功するでしょう』大勢の男を引き連れた女王の輝くような神々しい姿と天真爛漫な行動は、村人たちに圧倒的な印象を残した。この時以来、玉島川では男たちの鮎釣りが御法度となった(明治初期まで約1400年、女性だけにしか鮎釣りは認められなかった)。

〔原始・古代〕谷口古墳と横田下古墳 (浜玉町)  角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    先土器時代の遺跡としては,飛地の鳥巣の鳥巣神社(標高620m)で石刃などが採集されているに過ぎないが,縄文遺跡については平原の戸房・座主・鳥巣・山瀬で石斧・石鉄・条痕文土器・押型文土器片が発見されており,縄文時代には町の中央部から東,または南の川沿いの地域で狩猟を中心とした生活が営まれていたものと思われる。弥生時代になって水田耕作が普及すると唐津地方には弥生の大きな文化圏が形成され,遺跡や遺物も豊富になる。これは「魂志倭人伝」の末虞国の存在を裏づけるものであろう。弥生遺跡は玉島川の渓口集落でもある五反田でドルメンや甕棺,対岸の玉島で甕棺が発見されているほか,海岸に近い淵ノ上今夏ので土器や磨製石器,横田川沿いの横田上で土器や石斧,横田下の草場で石蓋のついた甕棺が発見されるなど,町の西部の水田耕作に都合のよい平地に面した所に多い。このことはさらに農業技術の進んだ古墳時代も同様で,谷口の谷口古墳は竪穴石室をもち,三角縁神獣鏡5面など銅鏡7・勾玉7など,副葬品の豊富な前方後円墳(主軸88m)で,また横田下の横田下古墳は人骨8体,簡形銅器など特色のある副葬品をもつ横穴式石室の円墳(径33m)でともに国の史跡に指定されている。その他南山古墳・玉島古墳・淵ノ上古墳という円墳があり,この地方の開発が進み,豪族が支配していたことが理解できる。

古代の七山〔七山村〕  角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    古代における七山の歴史をたどることは困難であるが,玉島川・松浦川下流域の豊かな文化圏に接していたと思われることから,それなりの発展を遂げていたと考えられる。当村には真言密教との結びつきの深い白山権現の信仰があり,白木,仁部の前川と岩屋,樽門は白山神社があり,藤川の賀茂神社にも合祀されている。古代には太宰府から杉山(富士町)を通り,村内の大屋敷・滝川・藤川から松浦へ至る道があったと推定され,「万葉集」の山上憶良の歌に見える松浦路がこれに当たると伝えられる。また「肥前国風土記」に登場する佐用姫の伝説地(出身地)を当村藤川の芝原とする説があり,字麦尻のなめり坂は姫が狭手彦と別れを惜しんだ所と伝えられている。なお,「和名抄」の郷名で当地に比定されるものは見えない。

    ふじかわ 藤川〔七山村〕 :北は背振山地によって福岡県二丈町に接し,藤川・野井原・林の上の3集落からなる。延暦15年京都の賀茂別雷神社の分霊を勧請したと伝える賀茂神社は,貞観18年従五位下の神階をおくられた国史見在社として著名であり,藤川の氏神社となっている。

 

脊振千坊 (背振村)(東背振村)  角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    脊振神社は神功皇后の三韓出兵の時に勧請され,航海安全を祈願して宗像三女神を祀り,のち仏教伝来によって弁財天が降臨したと伝える。背振山が日韓古代民族交通の拠点で英彦山や臼杵の高千穂,霧島の高千穂とともに天孫降臨の霊跡であり,「セプリ」というのは朝鮮古語のソウル(都)・ソホリ(新羅)の転化であるという説もある。和銅年間(70815)湛誉上人が神殿と東門寺を建立したと伝え,神仏習合の形をとっていたらしい。

    奈良期になると,当地域にも仏教文化が波及した。大字大曲の辛上廃寺跡は,「肥前国風土記」に記されている神埼郡2寺の僧寺の1つに推定され,奈良期の特色をもつ布目瓦や塔心礎が発見されている。また松葉の二軒茶屋丘陵や西石動地区からは奈良末期から平安期にかけての蔵骨器が出土している。現在地図上の背振山は脊据弁財天(上官)を祀る標高1055mの山頂をもつ山を指すが,古くは標高535mの乙護山と呼んでいる霊仙寺跡(中宮)を背振山と称したことがあったとされ,古代に脊振千坊岳万坊といわれた山岳道場の中心でもあった。脊振千坊岳万坊は,和銅2年(709)湛誉上人が元明天皇の勅を奉じて開山した九州一の大伽藍と伝え,脊振弁財天の上宮(脊振村)・霊仙寺の中宮・修学院の下宮に分かれていた。平安期には天台宗の修験道場として聞こえ,性空・円仁・皇慶などもこの山で修行を積んだと伝えられている。戦国期には豊後(大分県)大友勢の兵火によって焼失し,天正末期(159n年頃)に憎仁周によって再興されている。

〔原始・古代〕豊富な考古遺跡 (三瀬村) 角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    北山ダムは人工湖で知られるが,1万年ほど前には今のダム湖をひと回り大きくしたような湖沼(古北山湖)があって,村の大部分が水没していたと思われ,村内各所には当時の湖底を示す地層があり,水が引いた後は化石湖盆地の様相を呈していたと推測される。当村は山間部にしては平地が多く,先土器文化の遺物はいまだ発見をみないが,縄文時代の遺跡としては大字藤原には遺跡散布地が集中している。また宿と新村のほぼ中間,国道263号沿いの標高約420mの所に縄文前期の宿北方遺跡があり,その道路によって切断された断面の土層中から曽畑式土器が発見され,県内の縄文時代研究の端緒となった。また狂言平・椎の木・小竹の各縄文遺跡からは楕円押型文の土器片が、天塘1号・唐川辻・釜頭南方の各縄文遺跡からは多数の石匙・石槍・石鉄などが出土しており,石鉄の材料はサヌカイト・黒曜石が多く,他に,県内では数少ない土偶が大字三瀬字今原の杉神社北側から発見されている。数は少ないが,縄文時代の遺跡を兼ねる弥生時代の複合遺跡が天塘・床並・青野山・小ケ倉などに散見し,特に天塘2号遺跡・床並遺跡からは8世紀のものと推定される叩き目文の須恵器片が出土しており,これらの土地が奈良期に至るまで居住地として存在し続けたことを物語っているが,当村からはいまだ古墳の発見例はみられない。背振山頂には水神である弁財天が祀られ,ここから城原川の水系が発達して行くが,平安期になると隣接する脊振村の背振神社には貞観12年(870)従五位が授けられ(三代実録),東脊振村とともに一帯は古代山岳信仰の修験道場として栄えることとなり,当時,当村を含む背振山地の開発はかなり進んでいたものと思われる。

ふじばる 藤原 (三瀬村) 角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    藤原山ともいう。背振山地,背振山西部の嘉瀬川上流域に位置する。平安末期から鎌倉期にかけて藤原鎌足の末孫といわれる藤原内匠が三瀬山内に入り当地を領有したと伝え,のち藤原氏は神埼七山衆として,また神代家七人衆として活動した。地内土師の八竜神社は建久3年藤原氏の領地の守護神として祀られ,家臣山本左京大輔藤原貞房が宮司に任じられて以後代々山本氏が宮司を継承したという。また永禄2年居城晴気城を千葉胤連・竜造寺隆信に追われた千葉胤正は,三瀬城の神代氏を頼って被官となり,のち藤原山土師村に帰住したという(三瀬村誌)。承和3年に開発された神崎荘はのち奥山内の領域まで及び,唐河神社の鰐口には「建保元巽西九月吉日 肥陽国神幸荘薙野山」とみえる。地名の由来は鎌倉期に藤原山城主となった藤原内匠,柳野山城主(のち薙野山)となった藤原兼基(のち薙野氏に改姓)が奥山内に土着したことに由来する。地内一帯には唐川・天塘・椎の木・小竹・小ケ倉をはじめ多くの縄文遺跡が存在する。

背振山地の温泉町〔富士町〕  角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    福岡県前原町に接する佐賀県最北部背振山地に位置し,全体にほとんど平坦地のない純粋な山村で役場付近は海抜210mあり,佐賀市よりも平均気温で50C程度低い。嘉瀬川に沿った山間の湯治場である古湯・熊の川の2つの温泉があり,国民保養温泉地に指定され,福岡県からの客足も多い。

 

松津国  武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    松津国は松浦(末羅)国、あるいは藤津国、あるいは杵肄国の誤写であるといわれている。しかし同じ国造本紀に松津も松浦(末羅)も藤津(葛津立)も存在するので、これらの誤写ではない。松津は杵肄の誤写と考えると、杵肄(基肄国は律令制定以後の杵肄(基肄)郡、今の三養基郡の基山・基里・田代方面である。

    松を乎の誤写と考えると佐賀郡の小津郷(川副附近から嘉瀬久保田附近)を中心とする佐賀市部一帯となる。国造の後裔は大化改新後多く郡司に任用されたが、河上淀姫社建久七年の文書に小津郡司相秀の名が見える。基山・基里・田代地方も佐賀郡大和町、佐賀市金立町、久保泉町地方もともに前方後円墳などの豪壮な古墳の多い地方であってみれば、いずれの地域とも断定しがたい。前方後円項の分布からみれば、両地方共に国があって、国造が統治していた可能性がある。国造本紀に脱落の可能性もある。ただ大和町地方には県が設けられて県主があったことは後で述べる。しかし国造と県主の関係が学界でも明白でない以上、国と国造の存在を否定することもできない。

    松津(杵肄あるいぼ小津)国造には、仁徳天皇の代に物部氏の祖の伊香色雄命の孫の金弓連を任命したと記されている。そうすると末羅(松浦)国造の祖も伊香色雄命の曽孫の矢田稲吉が初代であるから、松津(杵肄あるいは小津)国造家と末羅(松浦)国造家は物部氏一族で、血縁であるということになる。そのことはともに軍事団の部隊長(国造軍の部隊長)として、物部氏の統率の下で活躍した歴史をもつ家柄であることを物語るものであろうか。

 

基肄郡  肥前風土記  和名抄    もどる

姫社郷 荒穂神社 長岡神社 城山 記夷城 四王院 酒殿泉 山田郷 基肄郷 川上郷 東屋権現社

    基肄郡の姫社郷を流れている山道川の西に荒神がいた。路行く人が多く殺害され、半ば凌ぎ、半ば殺んだ。そこで占ない、お告げの通り筑前国宗像郡の珂是古というものを呼んで、この神を祭らせた。珂是古は神の告げられた場所に社を建てて祭った。それ以後は路行く人が殺害されなくなった。

    基肄郡の荒神は、珂是古が韓国から渡来した人々が奉ずる機織りの神である姫社を祭ることによって和平いでいる。これは、もともと荒神と姫社との二つの神の伝承として伝えられていたものが、新しく入ってきた姫社と在来の荒神との伝承とが後に融合したものか、あるいは、荒神が新しい時代に即応するためにその神格を変えていった過程を物語っているのか、そのどちらかであろうと考えられる。織女神社

〔古代〕基肄郡六郷     角川 日本地名大辞典 佐賀県より         もどる

    「肥前国風土記」によると,基肄郡は「郷六所,里十七,駅壱所」とある。基肄郡は現在の基山・田代・基里の前身で,郷6か所のうち,姫社郷だけがわかる。「和名抄」には基肄・姫社・長谷・山田・川上郷の5郷をあげ,1郷を記していないが,「風土記」の永世神社があることや,他郷の配置から,永吉(鳥栖市)付近にあったとも思われる。基肄郷は現在の基山駅付近で基肄郡家も置かれていたようである。姫社郷は田代(鳥栖市)の姫方,山田郷は田代付近,川上郷は基山町園部付近,長谷郷は鎮西隈,脇田,中限を長谷川と呼んでいるから,この付近に比定している(基山町史)。

    大宝律令によって駅路の制がしかれ,「延書式」によると,「基肄駅 駅馬拾頭・伝馬五頭。切山駅 駅馬五頭」とある。各駅は馬5頭が配置され,基肄駅だけ駅馬10頭・伝馬5頭となっているのは,肥前路と筑後路の分岐点にあるからである。基肄駅は現在の基山駅の北,木山の関屋付近に比定されるが,切木駅は不明である。

  基韓城の築城 天智2年(663),半島での白村江の戦いで,新羅・唐の連合軍に敗れた日本は,半島からの侵攻に備えて北九州一帯に防備を施し,防人を配置した。大宰府に水城を築き,同4年秋8月には基山・坊主山に基肄城(橡城)を築き,大宰府の守りを固めた。「日本書紀」によれば半島の百済の遺臣福留・福夫の指導で城郭が築かれたとあり,一般に朝鮮式山城の型式をとっているといわれている。「続日本紀」文武2年(6985月の条には当城の修繕を命じている記事があり,その後しばらくは使用されたのであろう。現在城址は,礎石建物跡に群32か所,城門・水門5か所,土塁が残り,多量の平瓦と蓮華文軒丸瓦が出土し,土塁は延長4kmに及ぶ。「万葉集」には大伴旅人の歌で当城を詠んだ歌が見える。「日本紀略」弘仁4年(811318日の条に基肄軍団校尉貞弓らが新羅人の来襲を告げており,城の近くに軍団が置かれていたのがわかる。

   

 

養父郡  肥前風土記 和名抄 もどる

鳥樔郷 日理郷 狭山郷 養父郷 屋田郷 

〔古代〕鳥樔郷      角川 日本地名大辞典 佐賀県より         もどる

    古代の当市域は養父・基肄2郡に属していた。「肥前国風土記」によれば,基肄郡は6郷で,その内の姫社郷のみが,また養父郡は4郷で鳥樔・日理・狭山の3郷のみがそれぞれ記されている。「和名抄」では前者が姫社・山田・基肄・川上・長谷の5郷,後者が狭山・屋田・養父・鳥栖の4郷となっている。「肥前国風土記」に記される郷名が「和名抄」に記されないなど問題が残るが,「和名抄」の郷名で市域への比定を試みてみると基肄郡では姫社郷が姫方,不明な点の多い山田郷は条里地割りのみられる神辺付近と思われる。養父郡では養父郷が養、鳥樔郷が鳥栖,狭山郷が村田,屋田郷が高田付近と思われる。沖積地には広く条里地割りがみられ,国鉄鳥栖駅の東で,2郡が里界線を利用した直線状の郡墳を成していた。鳥樔郷の由来について「肥前国風土記」に雑鳥を取り集めて飼いならし,朝廷に貢上したことから鳥屋郷といい,後に改めて鳥樔郷になったとある。おそらく鳥飼部が集団で居住していたのであろう。「烽壱所」は古くは火ノ隈山といわれた朝日山(標高133m)に比定される。

    駅路は基肄駅(基肄郡家も同所であろう)で二手に分かれ,肥前・筑後国境に沿って南下し,筑後国府に達するルートと,基幹駅からほぼ並行して南下し,田代の北から宿を経て村田に達し,ここから西進して肥前国府に達したルートが考えられ,当市の東部が古代交通の要衝地であったことがわかる。後者のルートに近い蔵上の地名から養父郡家の遺称地とみられる。「続日本後紀」によれば,養父郡の肥君が大宰府の少典となり,さらには豊後国の大目になったと見えるが,彼らの一族が郡司であったことは間違いないと思われる。肥君の本貫地は肥後国八代郡肥伊郷であり,朝廷が軍事交通上の要衝地を肥君に掌握させようとした可能性が強い。郡名を負う養父に近い牛原の四阿屋神社は,延書20年(920)に従五位下を授けられた式外社であるが,ここの御田舞は県下では神埼を全町の仁比山神社とともに残る貴重な民俗行事で,県の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

神崎郡  太宰管内志   もどる

櫛田神社 白角折祇 山王社 三根郷 船帆郷 蒲田郷 琴木岡 宮處郷 

    神埼郡。この郡に荒神がいて、往来する人が多く殺害された。景行天皇が巡幸された時に、平ぎ、それ以後はわざわいがなくなった。この神は和平らぎ、それ以後はわざわいがなくなった。

海部直鳥の本拠(千代田町)    角川 日本地名大辞典 佐賀県より         もどる

    「肥前国風土記」によると,三根郡はもと神埼郡のうちにあり,神埼郡の三根の村を本拠とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立したとき,その本拠地の名にちなんで付けたものと記されている。海部直鳥は,その名からみて,有明海沿岸の漁民集団(部族)を統率し,海上交易を営み,大勢力を築いた豪族であったと思われる。町域内の直鳥はその本拠地の古代集落に縁故のある地名であろう。「肥前国風土記」には,神埼郡に9か郷があり,このうち三根・船帆・蒲田・宮処の4郷のみを記し,平安期の「和名抄」には,蒲田・三根・神埼・宮処(所)の4郷を記載している。蒲田郷は蒲田津付近(佐賀市蓮池町),三根郷は直鳥付近,宮処郷は境原付近,船帆郷は嘉納付近にそれぞれ推定されている。なお田手川と犬童川の中間一帯に条里制遺構の地名が顕著に残り,十条・又南里・乙南里・小直鳥里・竿田里・新田里・中島里・賛田里など構の地名が数多くある。また一ノ折・東ニノ坪・一ノ坪堀・八ノ角堀・十五ノ橋・六ノ坪橋という条里制にちなむ名称が,字名・堀の名・橋の名として散在している。

    乗船の寄港地(千代田町) 承和3年(83610月,神埼郡内の空閑地690町が勅旨田となり(類衆国史),のちに皇室御領神崎荘になる契機となっている。一説には,勅旨田として開発されたのは,背振山地と南部の海岸地帯と考えられており,当町域もそのとき開発されたものであろうか。当町域は平安期の11世紀以降,神崎荘内に含まれ,平安末期,神崎荘は鳥羽院領として日宋貿易の拠点となっている。長承2年(1133),瀬戸内海,九州方面で勢力を伸ばしはじめた平忠盛は,院宣と号して下文を出し,大軍府宮人の貿易への関与を断ち,自ら貿易を独占しようとする動きを示したという(長秋記)。荘内の蒲田津付近が宋船の着岸地と考えられている。

嶺県   武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    嶺県は三養郡の西部であった三根郡にその名が残り、米多国との関係が問題になる県である。風土記には、三根郡は神埼郡の一部であった三根村地方を、海部直嶋という豪族が政府に願って郡として独立させたと記してある。今の神埼郡の千代田町・三養基郡の上峰村(上三根)三根町方面が嶺(三根)県ではなかったかと推定される。日本書紀雄略天皇十年の条に県主泥麻呂のことが記されている。

    「雄略紀」には、身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉(くれ)からもってきた鵞鳥が水間君の犬にくわれたことを伝えているが、一説には筑紫の嶺県主泥麻呂(みねあがたぬしなまろ)の犬にくわれたとなっている。

 

三根郡  太宰管内志

葛木一言主神社 葛木郷 物部經津主神 物部郷 漢部郷 米多郷 千栗郷 千栗八幡社

〔雄略天皇紀〕身狭村主青の記事、〔和名抄九巻〕三根郡千栗物部米田財部葛木

三根郷と葛城郷  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    当町(三根町)は海抜34mの沖積層からなる平地部のため史跡は乏しい。石井・持丸・本分などに貝塚があり,出土品としては石器・土器などが発見され,本文遺跡からは甕棺・紡錘車・石包丁や獣骨などが出土している。弥生時代は海岸線であったと思われる。

    三根の地名は「肥前国風土記」に「同じき天皇(景行天皇)行幸しし時,(中略)此村に宿りましき。天皇,勅りたまひしく,〈夜裏は御津甚安穏かりき。此の村は天皇の御寝安の村と謂ふべし〉 とのりたまひき。因りて御寝と名づく。今は寝の字を改めて根と為せり」とあるところから呼ばれるようになったと思われる。古来,この里は平和で豊かな人間味あふれる至誠の民の住むところであったと伝えられている。また,「肥前国風土肥」にみられる景行天皇の征伐説話は三根にも及び,この地方に対する大和朝廷の勢力を物語るものとして注目される。

    嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥」の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。

    「和名抄」には三根郡葛城郷が見え,「三代実録」貞観15年(873916日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。

葛城神社〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15916日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。

葛木郷〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。

漢部郷〈中原町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    漢部郷「肥前国風土記」の三根郡の条には物部・漢部・米多の3郷が記録されている。漢部(綾部)郷は中原町大字原古賀字綾部を中心に,上峰村の北部までに及んだと推定され,綾部から原古賀・寒水が1里と考えられる。綾部氏と同じ先祖の「嬉野氏系図」によると,「肥前国風土記」に忍海の漢人を連れてきて,綾部には兵器製造所と武器庫があり,大宰府の支城があったことが記されている。おそらく寒水川の砂鉄を利用したものと考えられている。 筑後川の支流寒水川右岸,鷹取山南麓に位置する。

    〔古代〕漢部郷 奈良期に見える郷名。三根郡のうち。「肥前国風土記」所出の郷名であるが,「和名抄」には見えない。「肥前国風土記」三根郡条には「漢部の郷〈郡の北にあり〉。昔者,来目の皇子,新羅を征伐たむとして,忍海の漢人に勒せて,将て釆て,此の村に居えて,兵器を造らしめたまひき。因りて漢部の郷といふ」とある。郷域は中原町全域にわたるか。同町原古賀の綾部が遺称地である。

千栗郷〈北茂安町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    千栗郷「肥前国風土記」「和名抄」に物部郷が見える。それによると,「此郷之中,有神社,名日物部経津主之神」とある。推古天皇の御世に来目の皇子を将軍として新羅を攻めるために物部若宮部に命じて神社を創建させて戦勝を祈らせたので,この辺を物部郷と名づけたという。板部に物部神社があり,このあたりに比定されよう。ほかに「和名抄」三根郡の郷名としては財部郷・千栗郷が見え,西尾の若宮八幡宮司が財部氏であることなどから,この地に比定される。千栗郷は「和名抄」に「知利久」と見えているので,当時から「ちりく」と訓じていたことがわかる。大字白壁の字に千栗が残り,当地は旧筑後川の河川敷にあたる。千栗八幡宮は,「本朝世紀」長保元年(999)正月朔日の条に「千栗宮」と見えており,当郷の鎮守であったと思われる。一帯は古代の交通の要衝で,筑後国府から千栗を通り神埼郡に至る駅路があったとも考えられる。

三津永田・二塚山両遺跡(東背振村)   角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    西接する神埼町との境界に近い,南北にのびた山麓の台地上の大字三津に戦場ケ谷縄文遺跡があり,押型文土器・石鏃・石斧を出土した。弥生時代になると,背振山南麓は広大な農耕地に恵まれ生活の中心として栄え,遺跡の分布も濃密となり,石動・坂本・横田・三津地区に弥生前期の遺跡が発見されている。なお三津永田遺跡は弥生後期甕棺の群集地で,100個余りが出土し,副葬品の内行花文明光鏡は中国の前漢のものとされ,昭和28年に県の重要文化財に指定された。甕棺は合口甕棺が主で,50体余りの人骨が出た。副葬品は前述の鏡のほかに元虫竜文鏡・流雲文獣帯鏡・鉄鏃・大刀・鉄釧・玉類などであった。大字大曲の横田遺跡も甕棺群で,銅鏡・銅剣・鉄文・大刀が出土した。また同48年に始められ,同51年に終了した佐賀東部中核工業団地の埋蔵文化財調査で,上峰村当村(東背振村)にまたがる同団地内の丘陵地帯から,弥生中期から後期にかけての大規模な埋蔵遺跡が確認された。その中心遺跡の二塚山遺跡からは,甕棺墓161基・土壙墓87基・石棺墓5基・人骨約70体分が見つかり,とりわけ注目を浴びたのは副葬品の青銅鏡が9面も完全な形で出土したことである。これらの前漢鏡のうち行花文清白鏡は県内では初めてのものであった。また後漢の方格規矩四神鏡には漢字の銘文が入っていた。ほかに彷製鏡・刀剣・腕輪・ガラス玉・土製模造品などが発見された。鏡が1つの遺跡から9面も発見されたことは,同地に有明海を臨む佐賀平野を治めていた古代有力豪族の本拠地があったことを示している。三津永田遺跡などの調査から推定されていた,背振山麓以南の古代王国で,「日本書紀」に見える嶺県主が,つまり三根国の存在が,これで一挙に浮き彫りにされたといえる。

米田国  武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    米多国は風土記や和名抄にもでる三根郡(今の三養基郡の西部)の米多(今の上蜂村米多)や神埼郡三田川町目達原(米多原)を中心とする地方である。目達原地方に存在(現在ほとんど消滅)した前方後円墳を中心とした古墳群はこの地方が米多国の中心であることと、国造家の存在を証拠だてるものである。初代の米多国造の米多君には志賀高穴穂朝すなわち成務天皇の代に、稚沼毛二俣命の孫の都紀女加王が任命されたと国造本紀は記している。古事記の応神天皇の条には椎野毛二俣王の子意富々抒王は筑紫米多君らの祖とあって、国造本紀の記事と符合している。しかし国造本紀の文の志賀高穴穂朝は誤りで、穴穂朝すなわち安康天皇の代が正しいらしい。

    米多国造の系譜や設置年代は疑問の点が多いが、古墳の大半は、形状、出土品などから六世紀の中期から末期ごろに編年されるもので、米多国造は六世紀中期ごろから強大化したものとみることができる。前の杵肄地方の優れた古墳(前方後円墳や壁画装飾古墳)も六世紀代に編年されるものがほとんどで、基肄国造の勢力も六世紀になって急速に拡大したようである。基肄国造家は前に記したように物部氏とのつながりがあり、米多国造も、風土記に三根郡に物部郷があって、そこの物部神社が物部若宮部によって祀られたと伝えられるように(時代は推古天皇十年(六〇二)来目皇子新羅遠征準備時ではあるが)物部氏との関係が認められる。このことほ継体天皇の代と伝えられる西暦五二七年の筑紫国造磐井の反乱の際に、米多国造家も杵肄国造家も、物部大連麁鹿火の軍に加担して、磐井を破る功績をたて、その功績によって勢力を拡大し、杵肄国造は物部氏との関係を深め、米多国造家は皇親氏族として待遇されるに至ったのでほないかと考えられる。

 

佐嘉県   武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    佐嘉県は肥前風土記佐嘉郡の条に、佐嘉県主らの祖大荒田の名がでることによって、その存在が認められる。風土記には、川上に荒振神があって、往来の人は半は殺され半は助かるという悲惨な状態であったのを、大荒田が、土蜘株大山田女、狭山田女の二人の意見に従って、下田村の土で人の形や馬の形を作ってその神を祀ってから、荒振る行為がおさまった。二人の女を賢い女(賢女)だとほめ、この賢女という名を郡名にして賢女郡、それが靴って佐嘉郡になったと記されている。この神の荒振る行為は川上川の氾濫を表現したもので、この神は大和町川上の淀姫神社(川上神社)のことで、佐嘉県主の祭神であり、県主は、司祭者の性格を強くもっていたことを示している。この地方に小津国が存在していたなら、その国と県との関係も問題である。松浦国の地域にも松浦県があり、米多国の地域にも嶺の県が存在することは、国と県は時代的に性格を異にするものか、どうか、あるいは上下の統属関係の有無、あるいは同じ時代に同じ地域に並存した場合の関係や性格の違いなど明らかにしなければならない多くの問題をふくんでいる。ただ前にも記したように県は一般的古い時代の朝廷の直轄地であったものが多いということだけを附記しておきたい。

    佐嘉川の川上に荒神がいて、往来の人を半ば生し半ば殺した。県主等の祖である大荒田が占い、二人の女の土蜘蛛が言った通り、土で人形や馬形を作ってこの神を祭った。すると、神はこの祭りをうけて遂に応和いだ。

    佐賀郡の荒神の伝承でまず注目されるのは、神への奉賽物が明記してある点であって、土製の尾形や人形を供献して神意をなぐさめていることであろう。後世、絵馬を奉納するその起源が、土製の馬形までさかのぼるということを示している点は、興味深いことであり、また、古墳時代の原始祭紀遺物として鳥栖市安永田遺跡または三日月町石木遺跡などから出土している異形の滑石製子持勾玉は、この神への奉賽物としての人形・馬形に類するものではないかと考えられる。

佐嘉郡

〔古代〕河上神社の創建  (大和町)  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

    嘉瀬川が背振山地から佐賀平野に出るところに,河上神社(淀姫神社)が鎮座する。欽明天皇の25年(564)の創建と伝え,その祭神は,神功皇后の妹という「与止日女神(予等比口羊神)」で,「肥前国風土記」は「此の川上に石神あり,名を世田姫といふ」と記し,神体は川淀の石であるという。また「肥前国風土記」には,託宣を受けて川上の荒ぶる神,土蜘蝶を鎮めた大山田女・狭山田女のことが記されており,県主大荒田はこの2婦が賢女なるゆえに,賢女の郡とし,転化して「佐嘉」の郡となったとある。この大荒田は正確には「県主らが祖」と形容されており,のちに「佐嘉郡司」となる勢力をすでにこの地において培っていたことが察せられる。大山田・狭山田の居住地は現在の町域内の西山田・東山田と考えられ,「和名抄」に佐嘉(賀)郡六郷のうちの1つに見える山田郷の地であろうか。また六郷のうち城崎郷は当町城崎一帯,深溝郷は春日山(甘南備山)を含む地帯と考えられている。ただし河上神社の鎮座する川上郷は,佐賀郡ではなく小城郡の区域に属している。河上神社與止日女(よどひめ)神社は,「延書式」神名帳に記された式内社で,12世紀以後,「河上社一宮」とか,「当国第一之鎮守」とか記され,肥前国一の宮として人々の尊崇を集めた。この神が広く尊ばれたのは,用水源をつかさどる農業神でもあったせいであろう。11世紀末の寛治3年(1089),河上神社の神宮寺(神通寺か)が建立されたといい,神仏習合が行われたらしい〔河上神社文書〕。

與止日女(よどひめ)神社        もどる

    火の君については、後で井上先生もお話になると思いますが、これは非常に巫女的な性格が強いわけです。君という言葉は、沖縄ではすべて巫女を指す言葉なんです。檜垣の姐は老いたる遊君といわれましたね。遊君はあそびの君です。この君は遊女がもともと巫女であつたことをあらわしています。沖縄では宗教組織の中でトップに居るのは国王の奥さんとか、娘さんとかで、聞こえ大君と申します。 そして火の君の同族である阿蘇の君、大分の君、これもみな君がつくわけです。それから芦北の君、これも君ですね。『筑紫風土記逸文』に筑前と筑後の国境の山にあらぶる神が居て人を害していた。そこで筑紫の君や肥の君が占つて、筑紫の君の先祖にあたる甕依姫を祭司者として祀らせたとあります。甕依姫というのは玉依姫と同じなのです。魂を人に付ける役、要するにシャーマン、霊媒、これが玉依姫であり甕依姫である。佐賀市に淀姫神社というのがあります。川のよどに神社が建っております。祭神は女性の淀姫で、そこにがいつも小魚を連れてお参りに来るという文章があるのですが、それをヨタ姫とも、ユタ姫とも書いてある。ユタというのは沖縄や奄美で今でも使われている言葉です。神がかりして占いをする人です。淀姫神社に行きますと、明治の政治家で、書の達人の副島種臣の筆で肥の国一の宮という額がかかっています。 かならずしも熊本だけが肥の国ではない、ここにも肥の国があつたんだと、私はあそこで分ったわけです火の国の拡がり  火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より

    大和町の川上峡に鎮座する與止日女(よどひめ)神社。ここではナマズが神の使いとして崇められており、肥前風土記には「人、其の魚を畏(かし)こめば殃(まが)なく、或いは、人、獲り食らへば死ぬることあり」と書かれているほどです。流域の人々は今でもこのナマズ様を捕まえて食べることはしません。

     肥後 阿蘇−なまず伝承

    火の国の拡がり

かすが 春日 く大和町〉嘉瀬川中流域東岸に位置する。  角川 日本地名大辞典 佐賀県より

    〔古代〕春日 奈良期に見える地名。「日本書紀」安閑天皇2年の条によれば,同年設置された26か所の屯倉のうち火国春日部屯倉が見える。この春日部屯倉は皇后春日山田皇女に由来するものであって,春日という地名とともに近くに山田という地名も残っている。この地は,豪壮な前方後円墳が最も多く存在するように古くから開け,また国府に近いこととも合わせて屯倉の所在地と考えられる(神埼町史)。

かすがやま 春日山〈大和町〉

    甘南備山ともいった(大日本史云)。佐賀郡大和町大字久池井字春日にある山。標高237m。背振山地と佐賀平野の漸移地帯付近にあり,全山花崗岩よりなる。南麓一帯は早くから開け,肥前国府・国分寺・国分尼寺などがあった所である。「春日山高城寺記」に甘南備山の南麓にある甘南備神社について,「当山は春日大明神垂跡の霊区にして開聞以前より鎮座し給ふ。依て山号を春日山と称す。甘南備といふは,其後、当国の国司甘南備真人浄野といふ人寧楽京より此地に下向し,初めて城を築き住したるによるなり」とある。河上神社の大宮司職を勤めた高木氏は,平安末期から中世にかけて甘南備城(春日山城)を築いていたが(古跡詠),それは,当山が肥前国衛の跡を見下ろせる位置にあり,しかも交通の要衝の地にあったからである。

春日部屯倉  武雄市史上巻 昭和56年   もどる

  火国の春日部の屯倉は、日本書紀安閑天皇二年の条に記されている。同年に設置された二十六か所の屯倉の中の一つである。春日部の名は皇后の春日山田皇女の名代としての部民を置いて設けられたことに起因するものであろう。春日部屯倉の所在地については、熊本市春日町付近や熊本市国府付近(昔の託麻郡三宅郷)に推定する学者が多い。それらの学者のこれに関連する意見には、春日部屯倉と建部(軍事団の一つ)の設置によって、当時宇土半島の基部あたりに本拠地をもっていた火国の国造火君や白川上流の阿蘇国の国造阿蘇君は大和朝廷の大きな圧力を受け、火君は本拠地を八代地方に南遷させるに至ったと説き、しかも一方では、筑紫国造磐井の反乱の際は、火君は朝廷側に味方し、その功労によって乱後は北九州にも進出したと述べる学者が多い。春日部屯倉の設置は磐井の反乱の時の継体天皇の次の安閑天皇の代のことと伝えられる。その伝えが事実で、春日部屯倉が火君の本地という後の肥後(熊本県)であるならば、功績のあったものに対する処置としては過酷である。そのような観点からも肥後地方以外の火国、すなわち肥前地方に春日部屯倉の所在地を求めることには意義がある。肥前国における春日部屯倉の所在地としては、現在の佐賀郡大和町の春日地区(旧春日村)と藤津郡嬉野村の吉田地区(旧吉田村)の春日の二つがあげられる。前者は律令政治時代に長く肥前国衙(国府)が置かれた土地であり、隣接の川上地区(旧川上村)には山田の地名も存在し、佐嘉県とも重複する土地であり、蒙壮な前方後円墳が最も多く散在する地方でもある。藤津郡の吉田の春日は、隣接地の鹿島市鹿島町の琴路神社は安閑天皇を奉祀しているといわれるが、この付近は古墳はほとんど発見されていないばかりでなく、水田にもあまり恵まれない地域である。

小城郡   太宰管内志   もどる

天山神社 川上郷 甕調郷 高来郷 伴部郷

〔古代〕甕調郷 角川 日本地名大辞典 佐賀県より         もどる

    「肥前国風土記」小城郡の条には「郷漆(7)所」とあるのみで具体的な郷名はあがっていないが,平安期の「和名抄」には小城郡内の地名として「甕調」とあり,読みは「美加豆支」「美加都岐」と付され,「みかつき」と読むことがわかり,当町域一帯の呼称であったと思われる。「甕調郷」とは甕を調(特産物などを中央官庁に納める税)として納付していた所であろうと思われるが,古代において甕などの土器を焼成した大規模な窯跡は発見されていない。しかし,弥生時代の土生遺跡から多くの土器が出土したのは,このような地名が成立する条件となったものと考えられる。

  大化改新後小城郡にも条里制がしかれ,その範囲は東西が11町で,小城町から三日月町を経て佐賀郡大和町まで及び,南北は小城町の山麓部から牛津・芦刈両町の境界付近までの10町に及んでいたと考えられ,当町にも四条・五条および「何々ケ里」という地名が残っている。この種の地名の全てを古代以来のものと判断することはできず,近世初頭の検地による土地区分時に新たに画一的に呼称されたものも含まれると考えられるが,中世古文書には土生里(正平22年),よしわらかり・くまいりかり(永享11年),町神田ケ里(天文22年),高田ケ里(天正年中),佐保里ケ里(天文22年)などの条里制の遺称地名が見えている。

 

葛津立国  武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    葛津立国の葛津は、三代実録貞観八年五月の粂の藤津郡領葛津貞津や、藤原氏を葛原氏とも書く例などからみて藤津であり、立は藤津郡に隣接する高来郡(今の長崎県の南北両高来郡=島原半島)の高来で、葛津立国は現在の藤津郡から南北両高来郡にわたる地域を中心とした地方と考えられる。この国の国造家の初代は、国造本紀には、成務天皇の代に、紀直と同祖の大名茅(草)彦命の子の若彦命が任ぜられたと記している。若彦命は肥前風土記に、藤津郡能美郷の土豪大白一族を討伐して功績を立てたと記されている穉日子(紀直らの祖)と同一人物であると考えられる。この紀氏と同族であると伝えられる若彦命(穉日子)は後の藤津郡の郡司になった葛津氏の祖先とも考えられる。換言すれば風土記の穉日子の話は郡司葛津家の朝廷に対する服属と忠節とを反映したものであろう。平安時代初期の八一五年に氏姓の台帳として作成された新撰姓氏録の右京皇別上の部の紀朝臣の項には、紀氏は屋主忍雄建猪(武雄)心命の後なりと記している。この命は藤津郡に隣接する杵島郡に属した現在の武雄市の武雄神社の祭神である。杵島郡地方の紀伊氏となんらかの関係があるのではないかと考えられるが、詳細はわからない。

 

杵島県  武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    杵島県は、「肥前風土記の逸文」に、杵島山のことを「県の南二里一孤山有り・」と記すことによって、その存在を考えることができるが、風土記逸文の中には、中国風の一種の文飾として郡を県に作ることが多いので、杵島県をそのまま県として認めてよいかは問題であることも考慮しなければならない。県が存在した地方には大和朝廷の支配力波及の顕著な表徴としての前方後円墳がよく見られるが、杵島山を中心とした地方には現在のところ、前方後円墳が見あたらないことが問題である。しかし葛津立国造の存在やそれと関係のある古社の武雄神社の祭神を考えた場合、一概に杵島県の存在を否定することもできない。武雄平地では古墳の大半は平地周縁の山麓地帯やた平地内の独立丘の上に存在し、その多くは古くからの開拓によって早く破壊されている。その破壊されたものの中に前方後円墳が存在していたのではないかとも考えられるので、その決定は将来の全域的密な調査(再調査を含む)をまつべきであろう。

 

宇野御厨  森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より      もどる   −海人族−と健緒組へもどる

網野 おもしろいことに、摂津・河内に根拠地をもっている渡辺党という武士団がありますね。この渡辺党の人が馬寮の官人になっている。ですから、河内・摂津あたりの牧に関わりをもっていることは十分考えられます。ところが、一方で渡辺党は河内の大江御厨という海民が所属している御厨の一部で、摂津の渡辺の惣官にもなっているのです。有名な渡辺綱はその一族ですが、その根拠は大阪の渡辺橋あたり、地名は大川、つまり古い淀川のほとりにまだ残っています。幹線交通路である淀川の河口の拠点を押さえているわけです。渡辺党は、一字名の源氏ですけども、九州の松浦党も一字の実名を持つ源氏なんですね。また話が飛躍してしまいますけれども、北西九州に宇野御厨という大きな御厨があります。この御厨は、筑前・筑後・肥前にまたがっているのですが、土地が広いわけではなくて、あのあたりの川や海を全部押さえている御厨で、大宰府に属しています。大宰府の贅人の活動した舞台です。この贅人の中に一字名の源氏がでてきます。これが松浦党の祖先だと思うのですが、中世になると肥前の松浦郡の海辺の浦々にひろがって松浦党になっていくわけです。ところがその宇野御厨は一方では馬や牛を飼っているんです。有名な御厨牛というのは、この宇野御厨から送られて来るのです。これもやはり厩と関係がありまして、鎌倉時代の西園寺家は院の厩を世襲的に管理して、宇治川、淀川ぞいに牧や所領を持ち、伊予の宇和島や筑前の宗像社も所領にしているのですが、この西園寺家が宇野御厨を押さえています。御厨牛を買上させているわけで、『駿牛絵詞』 や 『国牛十図』 などに描かれている牛のなかで一番強そうで、立派な牛なんです。しかもその宇野御厨を現地で押さえているのが渡辺党と同じ一字名の源氏、松浦党です。これはまさしく海の武士団で、五島列島を含めた北西九州の浦々に根拠を持ち、「海夫」という海民を従えています。今、長崎県に御厨という地名がありますけれども、宇野御厨はそこだけではなくて、非常に広い範囲に及んでいる御厨で、松浦党はその小さな浦々に根拠をもっている武士団ですが、これが皆、牧をもっているのです。五島の島々でどのような牧があったのか、私はまだ具体的には調べていないけれども、この武士たちがみな牧をもっていて、馬や牛を飼っている。そのなかで馬は松浦党の軍事力になり、牛の中でよい牛が瀬戸内海を通って、買上されてくる。西園寺家が管理する厩に貢上されて、それが近都牧で育てられ、必要なときに天皇や貴族・僧侶に配分されるというルートになっているんです。ですから、馬と牛と、船の交通との関係は、かなり広域的に考える必要があります。ただ牛は東には余り見られないですね。やはり、牛が史料によく出てくるのは西国です。壱岐にも天皇家の牛牧がありますし、長門にも牛牧がありますが、これは摂関家の牧になっています。

 『肥前国風土記』に、五島列島の値嘉島の「ここの人たちは顔つきや言葉が隼人に似ていて、騎射がうまい」という有名な記事がある。だから、そういう漁民集団、あるいは小さな島−五島列島は決して小さな島ではないけれども−そういうところの馬や牛の文化もおもしろいですね。

※ 海を旅する人たち−沖縄・糸満漁師の軌跡− 20023月『長崎国際大学論叢』

網野 実際は漁労だけでなく製塩や廻船や商業をかねているのがふつうですから、山口徹さんが最近強調しているように漁村といわないで海村という方がいい。江戸時代になっても、やはり海村といった方がいいと思います。そういう海民が、隼人に似ているということは大問題です。隼人が、「騎射をよくする」といわれ、また一方では、隼人が海民的な性格を持つともいわれるわけですが、そうした隼人が畿内にかなり多数移住させられている。これは、「俘囚」が畿内から九州にまで、東国・東北から大挙移住させられていることと対照的なことで、大和の王権が征服した「異族」に対してとった施策でしょうが、隼人の場合、畿内の文化にかなり大きな意味をもっていたのではないか。たとえば、どこまであたっているか私にはわかりませんが、阿太の鵜飼の問題ですね。鵜飼は天皇の直属で、平城京のころは吉野の鵜飼、平安京に移ってからは桂川・宇治川の桂の鵜飼が直属の贅人となっています。その鵜飼が隼人と深い関係にあるといわれている。それから、田上の網代や、宇治の網代。宇治川の網代は鵜飼とも関係しているのではないかと思いますし、田上には、おもしろいことに厩があるんです。摂関家の厩があって、馬を飼っていたらしい。田上も、たしか隼人と関係のあるところではないですか。

 あれはね、『正倉院文書』で、今日の大津の近くの古市郷に阿多隼人乙麻呂とか刀自売という隼人がでてきます。だから、石山寺にも近い。あのへんには大集団ではないけれども、隼人がいたなということです。田上とも隣接地ですね。

網野 鎌倉後期には、中原氏が、隼人正を世襲するようになって、隼人司の所領を支配しているのですが、その中に山城国の大住荘があって、これも隼人司の所領になっています。ここの作人は山民的な性格を持っていたようで、鎌倉中期の薪荘との相論は大きな問題になっています。私は畿内に移住させられた隼人はいろいろなところで、重要な動きをしているのではないかと思うのですが。

 隼人集団というのは二つあって、一つはいわゆる大隅隼人です。大住とも書きます。これはだいたい霧島山を中心の信仰としている人たちです。霧島山のよく見えるところにお墓を作っているんです。それから、開聞岳を信仰の拠り所にしていたのが阿多隼人ではないか。人数的には阿多隼人の方が少なくて、大隅隼人の方がはるかに多そうだけれども、『古事記』『日本書紀』の伝承では天皇家に妃をだしているのは阿多隼人なのです。だから、そういう意味では、人数は少ないけれども名門ですね。その二つが代表的な隼人です。

  

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火の国年表

 

 

中央の動き

太宰府

肥前

肥後

 

 

 

 

神八井耳命は火君の祖

肥君等祖健緒組(祟神、磯城瑞籬宮)

山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)

 

 

 

 

火国造ハ瑞籬朝 大分国造同祖志貴多奈彦命ノ児遲男江命

末羅国造志賀高穴穂朝 穂積臣同祖大水口足尼孫矢田稲吉

阿蘇国造ハ瑞籬朝御世、火国造同祖、神八井耳命孫速瓶玉命

葦北国造纏向日代朝御代、吉備津彦命児三井根子命

天草国造 神魂祝命13世孫健島松命

 

429?

百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る

 

 

 

 

442?

沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)

 

 

 

継体朝
530-531頃

 

 筑紫君磐井の戦争

 

 

 

 

536

『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

 

 

 

 

554

百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

 

 

 

555

百済聖王の息子恵来倭、

 

 

 

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送

 

 

 

 

562

紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退

 

 

 

欽明25年

564

 

 

【延喜式神名帳】河上大明神(淀姫:神功皇后妹姫)鎮座

 

欽明31年

570

 

 

 

【神皇正統紀】肥後國菱形池に3歳児(人皇16代誉田八幡麻呂)出現

欽明32年

571

 

 

 

 

 

575

新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。

 

 

 

 

576

豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后

 

 

 

敏達12年

583

百済人日羅来倭*

 

 

 火芦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやっこありしと)の子、日羅」

 

585

蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立

 

 

 

推古1年

592

祟峻没(暗殺)

 

 

 

推古5年

597

難波吉士磐金 新羅へ

 

 

 

推古6年

598

難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上

 

 

 

推古16年

608

唐使裴世清来る

 

 

 

推古17年

609

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

推古36年

628

 

 

 

 

舒明13年

 

 

 

 

 

皇極4年

645

 

 

 

 

孝徳5年

659

 

筑紫太宰帥:日向臣

 

 

斉明4年

 

 

 

 

 

天智6年

667

 

百済鎮将劉仁 

 

 

天智7年

668

 

筑紫率:栗前王

 

 

天智8年

669

 

筑紫率:蘇我赤兄臣

 

 

天智10年

671

 

筑紫帥:栗隈王

 

 

天武1年

672

壬申の乱

筑紫太宰:栗隈王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天武5年

676

 

筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流

 

 

天武6年

677

 

 

 

 

天武11年

682

 

筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢

 

 

天武12年

683

 

筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢

 

 

持統3年

689

 

筑紫太宰:粟田真人朝臣
太宰帥:浄廣肆河内王

 

 

持統6年

692

 

太宰率:河内王

 

 

持統8年

694

 

太宰率:浄廣肆三野王

 

 

文武4年

700

 

筑紫総領:石上朝臣麻呂

 

 

大宝2年

702

 

太宰帥:石上朝臣麻呂

 

 

大宝3年

703

 

太宰帥:大伴宿禰安麻呂
大貮:石川朝臣宮麻呂

 

 

慶雲3年

706

 

少貮:安倍朝臣首名

 

 

和銅元年

708

 

太宰帥:粟田朝臣真人
大貮:巨勢朝臣多益首

 

 

和銅6年

713

 

 

 

筑後守:道君首名

和銅7年

714

 

太宰帥:多治比真人池守

 

 

養老2年

718

 

 

 

筑後・肥後守:道君首名卒す

養老4年

720

 

 

 

 

養老5年

721

 

大貮:石川朝臣石足

 

 

神亀4年

725

 

太宰帥:大伴朝臣旅人

 

 

神亀5年

726

 

 

 

 

神亀6
(天平1)年

727

長屋王の変

 

 

 

 

    漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10)

 

 

    藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11)

 

 

    翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問

 

 

    長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺

 

天平2年

728

 

 

 

 

天平3年

729

 

太宰帥:藤原朝臣武智麻呂

 

 

天平9年

737

 

太宰帥:藤原朝臣宇合 薨
大貮:小野朝臣老 卒

 

 

天平10年

738

 

大貮:高橋朝臣安麻呂
少貮:藤原朝臣廣繼

 

守:田中朝臣三上

天平12年

740

藤原広嗣の乱

 

藤原広嗣の乱

 

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

天平13年

741

 

 

 

守:阿倍朝臣子島

天平17年

745

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

大貮:石川朝臣加美
少貮:多治比真人牛養
少貮:大伴宿禰三中

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

 

天平18年

746

 

太宰帥:橘宿禰諸兄
大貮:百済王考忠
少貮:紀朝臣男楯

 

 

天平19年

747

 

 

 

 

天平感宝1年

749

陸奥国黄金献上

少貮:小野朝臣田守

 

 

 

    大伴牛養、大伴稲君、大伴家持

 

 

    佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨

 

 

    橘諸兄、橘奈良麻呂

 

天平勝宝2年

750

 

太宰帥:藤原朝臣乙麻呂

吉備真備筑前守左降、肥前守に移す

 

天平勝宝4年

752

 

太宰帥:紀朝臣麻呂
少貮:佐伯朝臣美濃麻呂

 

 

天平勝宝5年

753

 

太宰帥:石川朝臣年足
大貮:紀朝臣飯麻呂

 

 

天平勝寶6年

754

 

大貮:吉備朝臣真備

守:黄文連水分

 

天平宝字元年

757

橘奈良麻呂の変

 

 

 

 

    安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人

 

天平宝字3年

759

 

 

守:縣犬養宿禰吉男

 

天平宝字4年

760

 

 

 

 

天平宝字5年

761

 

 

 

 

天平宝字6年 

762

 

 

守:大野朝臣廣立

守:百済王理伯

天平宝字7年

763

 

 

守:中臣朝臣鷹主

 

天平宝字8年 

764

恵美押勝の乱

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
少貮:采女朝臣清庭

守:佐伯宿禰今毛人

 

天平神護元年

765

 

太宰帥:石川朝臣豊成

 

 

天平神護2年 

766

 

 

 

 

神護景雲元年 

767

 

大貮:藤原朝臣楓麻呂

 

 

 

 

神護景雲2年 

768

 

太宰帥:弓削御浄臣清人
大貮:藤原朝臣田麻呂

 

介:山村許智人足

神護景雲3年

769

 

 

守:津ノ連真麻呂

 

宝亀元年

770

 

少貮:小野朝臣小贄

 

守:大伴宿禰益立

 

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
太宰帥:石上朝臣宅嗣

介:紀朝臣大純

益城郡人山稲主白亀を献ず

宝亀2年 

771

 

 

守:土師宿禰位

守:佐伯宿禰助

 

 

介:大伴宿禰村上

宝亀3年

772

 

 

 

 

宝亀5年 

774

 

太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂
少貮:石上朝臣真永
大貮:石上朝臣名足
少貮:多治比真人豊濱

守:多治比真人公子

 

宝亀6年 

775

 

 

 

 

宝亀7年

776

 

少貮:藤原朝臣仲繼
太宰帥:藤原朝臣魚名
大貮:石上朝臣息嗣
少貮:笠朝臣名麻呂

 

 

宝亀9年 

778

 

 

守:三島真人安曇

守:藤原朝臣是人

宝亀10年 

779

 

 

 

守:藤原朝臣末茂

宝亀11年

780

 

太宰帥:藤原朝臣濱成
大貮:佐伯宿禰今毛人

守:紀朝臣門守

 

 

太宰帥:藤原朝臣魚名

天応元年 

781

 

 

 

 

天応2年

782

 

 

 

 

延暦元年 

782

 

太宰帥:藤原朝臣魚名 薨

守:紀朝臣真木/守:甘南備真人浄野

守:紀朝臣本

 

大貮:石上朝臣家成

延暦2年

783

 

 

 

 

延暦3年 

784

 

少貮:藤原朝臣管繼

 

守:多治比真人乙安

延暦4年 

785

 

 

 

 

 

 

延暦5年

786

 

太宰帥:佐伯宿禰今毛人

 

 

延暦7年 

788

 

 

守:石川朝臣多禰

 

延暦8年

789

 

少貮:藤原朝臣園人

 

 

延暦9年

790

 

員外帥:藤原朝臣濱成 薨
少貮:藤原朝臣真鷲

 

守:粟田朝臣鷹守

介:百済王元信

延暦10年 

791

 

 

守:巨勢朝臣人公

 

延暦14年 

795

 

 

 

 

延暦15年 

796

 

 

守:多治比真人今麻呂

介:多治比宿禰真浄

延暦16年

797

 

 

 

介:多治比真人今麻呂

延暦18年 

799

 

 

 

守:紀朝臣兄原

延暦24年

805

 

 

 

守;紀朝臣廣濱/守:多治比真人今麻呂

大同元年 

806

 

 

守:大野朝臣犬養

守:高倉朝臣殿繼

 

介:多治比真人氏守

大同3年 

808

 

少貮:多治比真人今麻呂

 

 

大同4年 

809

 

 

 

介:豊宗宿禰廣人

 

弘仁元年

810

 

 

権介:紀朝臣良門

 

弘仁2年 

811

 

 

守:柿本朝臣弟兄/守:豊野真人仲成

 

弘仁3年 

812

 

 

 

守:大枝朝臣永山/守:紀朝臣昨麿

 

大掾→介:菅原朝臣清人

弘仁4年

813

 

 

 

 

 

弘仁5年

814

 

 

 

 

弘仁6年

815

 

 

 

 

天長6年

829

 

 

 

 

承和2年

835

 

太宰帥:三品秀良親王

 

 

承和4年

837

 

権帥:藤原朝臣常嗣
大貮:藤原朝臣廣敏 卒

 

 

承和5年 

838

 

 

 

 

承和6年 

839

 

大貮:南淵朝臣永河

介:藤原朝臣正雄

 

承和7年 

840

 

 

守:藤原朝臣板野麻呂

 

承和8年

841

 

 

守:藤原朝臣正雄

介:橘朝臣真直

承和9年 

842

 

大貮:藤原朝臣衛

 

肥後・筑後介:橘朝臣真直

 

介:菅原朝臣梶吉

承和13年

846

 

 

 

 

承和15年

847

 

大貮:紀朝臣長江

 

 

嘉祥2年 

849

 

 

 

守:有雄王

 

介:高丘宿禰真雄

嘉祥3年

850

 

太宰帥:三品葛井親王 薨

守:南淵朝臣彌繼

 

仁寿元年

851

 

 

 

 

仁寿3年

853

 

少貮:滋野朝臣善蔭
太宰帥:一品葛原親王 薨

 

 

斉衡元年 

854

 

 

 

介:橘朝臣仲宗

 

守:清原真人有雄

斉衡2年 

855

 

大貮:正躬王

守:仲嗣王

守:藤原朝臣冬緒

斉衡3年 

856

 

 

守:滋野朝臣善根

 

天安元年

857

 

 

介:物部朝臣廣泉

 

 

権介:當野伊美吉平麻呂

天安2年 

858

 

 

守:藤原朝臣有蔭

 

貞観元年 

859

 

 

 

権介:大原真人真室

貞観2年

860

 

大貮:清原真人岑成
少貮:藤原朝臣真数

 

 

貞観3年 

861

 

 

 

 

貞観4年 

862

 

 

守:橘朝臣忠宗

 

貞観5年 

863

 

太宰帥:二品仲舒親王
少貮:在原朝臣安貞
少貮:藤原朝臣元利麻侶

 

 

貞観6年

864

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観7年 

865

 

 

 

守:紀朝臣夏井

貞観8年 

866

 

 

守:上毛野朝臣澤田

守:在原朝臣安貞

貞観9年

867

 

大貮:茂世王

 

 

貞観10年 

868

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

貞観11年

869

 

大貮:藤原朝臣冬雄
少貮:坂上大宿禰瀧守

 

権介:橘朝臣子善

貞観12年 

870

 

 

権介:小野朝臣春風

 

貞観13年

871

 

太宰帥:二品賀陽親王

 

 

貞観14年

872

 

 

 

 

貞観15年

873

 

権帥:在原朝臣行平

 

 

元慶元年

877

 

 

 

 

元慶2年

878

 

権少貮:藤原朝臣房雄

 

 

元慶3年

879

 

大貮:橘朝臣三夏

 

 

元慶4年

880

 

 

 

守:藤原朝臣房雄

元慶7年

883

 

 

 

 

元慶8年

884

 

 

 

 

元慶9年

885

 

 

 

 

仁和元年 

885

 

大貮:藤原朝臣行有

 

守:藤原朝臣時永

仁和2年 

886

 

大貮:藤原朝臣保利

肥前介→豊後介:大神朝臣良臣

肥後介:大神朝臣良臣

 

守:藤原朝臣是行

仁和3年 

887

 

 

守:橘朝臣興門/守:藤原朝臣藤宗

 

仁和4年 

888

 

 

守:橘朝臣清樹

 

寛平元年 

889

 

 

介:春道新名宿禰

 

 

掾:橘良利(囲碁好手)

延喜元年

901

 

権帥:菅原朝臣道真

 

 

延喜5年 

905

 

 

守:小野保衡

 

延喜9年 

909

 

 

守:伴保平

 

延喜11年 

911

 

 

守:藤原朝臣高堪

 

天慶3年 

940

将門・純友の乱

 

 

 

 

・小野好古、藤原慶幸、大蔵春實、橘遠保

天慶4年

941

 

 

守:藤原慶幸

 

天慶5年 

942