日向の古歴史

黒潮文化 縄文時代の稲作 熱帯ジャポニカ米

高天原は実在する

「そ」の地域

日向の古墳群

景行天皇と日向: 御刀媛(みはかしひめ)と豊国別(とよくにわけ)王

☆応神王朝の系譜
襲津彦とソの国

髪長媛
日向系皇統と日下部氏の登場
葛城系皇統と磐之媛(いわのひめ)
応神王朝と日向

古墳の世紀

行縢山 真言別当の熊野霊山説

火を噴く神の山・霧島

阿多・大隅の古歴史

ニニギノ尊と隼人 阿多 大隅 隼人

山部の系譜 :久米

コノハナサクヤ姫伝承、吾田族と日下部氏

都萬神社縁起:竜宮信仰と日下部氏

古代日向伝承の継承者

大宮姫伝説

古代日本の都


九州の山と伝説に戻る

神々の系譜へ

山への旅シリーズへ


黒潮文化 縄文時代の稲作 熱帯ジャポニカ米(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

「日向国風土記」(713年)逸文「知鋪郷」

“日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜晝別かず、人物道を失い、物の色別き難かりき。ここに、土蜘蛛、名を大鉏(おおくわ)・小鉏(をくわ)と曰うもの二人ありて、奏言ししく、『皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ』とまおしき。”

        これまでこの九州中央山地帯に伝わる稲作籾伝承では、どのように考察しても、北九州に渡来した北方系の水田稲作米とは関わりが見出せなかった。すなわち、この伝承では、米の呪力によって悪霊を払うという稲作農耕儀礼を、天孫ニニギノ尊に教えたのが、大クワ、小クワという農具名を称する土地の古層族であったということから、この古層族の存在をどのように考えたらよいのかが論点となっていた。この点に光を投げかけたのが、熱帯ジャポニカ米の存在と日本への伝来である。

        日本人が食べているジャポニカ米のうち、水田稲作による温帯ジャポニカ米のほかに、西南諸島など南島ルートによって、日本本土にもたらされた熱帯ジャポニカ米の存在が明らかになってきた(佐藤洋一郎、『DNAが語る稲作文明』1997年、『稲の来た道』1995年)。そして、この熱帯ジャポニカ米は、温帯ジャポニカによる水田稲作よりも前に日本に到来したとされ、その時期は縄文時代であり、焼畑耕作にも適応できたと説かれている(佐藤洋一郎、『検証・日本列島・自然・ヒト、文化のルーツ』1999年)。

        この熱帯ジャポニカ米が西南諸島を経て、日本の本土に渡来するとすれば、必然的に黒潮本流が真っ当にあたる日向地方が最も可能性が高い。  もどる

 

 日向地方の古墳群      戻る 西都原古墳群( http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/ ) オサホ塚  生目古墳群(http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/

高天原は実在する (長谷日出雄 著 天皇はどこから来たか 新潮社 1996年より)

高千穂とルソンの「棚田」

        九州のランドサット衛星画像と、立体的に措かれた宮崎県の傭撤図を見て、かりに現在の宮崎平野のかなりの部分が海であったとすれば、海岸線には複雑な屈曲が生まれ、舟の停泊に適する港湾が、いくつもあったと想像できなくもない。そしてまた、陸路より水路の交通が主であったころの古代人は、後世の人間より遥かに積極的に、舟で航行したとも考えられる。そんなふうに空想の航路を辿って、海岸ぞいに北上して行くと、舟はやがて、北川、祝子川、五ヶ瀬川などの河川が海に注ぐ河口部の延岡に達する。そのうちもっとも大きな五ヶ瀬川に、舟を乗り入れて、流れをどこまでも潮って行けば、その先にもうひとつの「天孫降臨」の伝説の地、高千穂峡が現われるのである。高千穂は、駅から中心部に向かって歩いて行くと、意外に大きな町である。着いたのは夕方で、付近一帯を歩き回ったのは翌日だが、田圃はほとんどが傾斜地に作られた小さな棚田ばかり---。津田博士は、豊饞な平野がないことを、日向に太古の皇都があったはずのない理由のひとつに挙げられたけれど、しかし、こうした地形が、昔ながらの稲作においては、案外大きな生産力を持つのを、ぼくはある経験で知っている。

         棚田が層をなして幾重にもかさなる山峡の地を、高所から俯瞰したとき、すぐにおもい出したのは、フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯の奥深い谷間にあるマヨヤオの景色であった。ここ臼杵の高千穂と、そっくりの眺めで、兄が戦死した場所であるマヨヤオヘ、ぼくは三度行ったが、案内してくれた大阪出身のN氏は、昔の邪馬台国というのは、こういうところやったんやないか、という気がするんですよ。 と、嘆息する口調でいった。谷間のゆるやかな傾斜地を、ちょうど地図の等高線状に、折り重なる細長い帯のような棚田(ライス・テラス)が埋め尽くしていて、なかのところどころに、茅葺きに似たニッパ葺きで高床式の小さな家が、点点と散在している。あとで日暮れ時に傭撤して、谷間のあちこちから細い炊ぎの煙が、夕闇のなかに立ち昇っている景色を見たときは、本当にわが国の弥生時代も、こんな風だったのではないか……という気がした。耕して天にいたる。という言葉があるが、まさにそうだ。

        谷の底から、棚田を一層ずつ石を組んで作った壁で支えて、稜線が高度千数百bにも達する山肌のかなり上まで、段段に積み重ねて行く。下から見上げると、それはまるで壮大な石造の城のようだ。だから、谷底から山の上方まで刻みつけられたライス・テラスを、一望に収められる台地の上にあるバナウエの高級ホテルには、ピラミッドに匹敵する驚異だというので、欧米から観光客がおおぜいやって来る。

        それほどの大工事を、イフガオ族の住民は、気が遠くなるくらい遥かな昔から、金属製の農具を用いず、ただ一本の木鋤(グルド)だけを振るって、営営と成し遂げてきたのだ。  もどる

「ソ」の地域 

        「ソのクニ」という地域は、古くから阿蘇山を中心とする地帯(阿蘇山、祖母山)から南霧島山一帯にかけての呼称であり、日向、肥後、大隅の三国に囲まれた山岳地帯周辺に、古く「ソ」という勢力圏が存在していたのではないか?「ソ」の中心地域は、宮崎県の高千穂一帯、それに熊本県阿蘇郡、さらに大分県直入郡地方を含めた地帯と考えられる。(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

        「ソ」とは「山岳地帯」という意味か、となると、更に北の久住山(クジフル)や玖珠、耶馬溪なども含まれるのかも知れない?  その意味で、米良鹿物語も興味深い もどる

 

 

日向の古墳群 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

宮崎県教育委員会の古墳調査では、県内に1590基(うち前方後円墳約160基)が現存している。これらの大古墳群は、主として宮崎市を流れる大淀川以北の中央平野部一体に展開しており、主要河川である一つ瀬川、小丸川、大淀川の三河川流域に沿って大群在している(西都原古代文化圏:古代日向王国?)。

        西都原古代文化圏内の各古墳群に見られる柄鏡式前方後円墳は四世紀代に比定できる可能性がある。

        この中央平野部は、古墳時代以前から歴史的な地域であり、西都原から北にかけての平野地帯は日本書紀の景行紀に記されている「子湯県」にあたり、その南の大淀川流域は「諸県」に推定される。

        参考: 南九州地方の古墳の編年                         もどる

景行天皇と日向(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より) 「書紀」の景行天皇13年の条

「悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと、すでに六年なり。是に、其の国に佳人有り。御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」

        景行天皇(オシロワケ)の時代は、ほぼ4世紀後半代のころに想定できる。豊国別王が児湯郡に出現した時代は4世紀末頃と推測できる。

        『日向国風土記』逸文、韓槵生村の項: 「昔、カサムワケといいける人、韓国に渡りて、この栗をとりて帰りて、植えたり。この故に槵生の村とは云うなり」とある。もしこの人物が実在の人物であれば、「ワケ」の称号を有していることから、豊国別王の時期と同じころとなる。もしかしたら、この「カサムワケ」という人物は、豊国別王の在来的な元の名称かも知れない。   もどる    

景行天皇 熊襲征討路(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

天皇が日向入りした時、海路によらず、直入県から真直ぐ日向の児湯県地域と推定される高屋宮に到着している。古来、この高千穂−諸塚−東米良−西都の「日向山地古道」は、中世・近世においても、肥後、豊後に通じる山地における唯一の交通路であった。「景行天皇紀」十八年の巡幸の時も、八女、阿蘇から日向の高千穂、米良山地を通過し、児湯県地域に来られている。   もどる

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応神王朝の系譜(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)     もどる

襲津彦とその国(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

井上光貞氏は前掲の『日本国家の起源』の中で、ソツ彦について、次のように解訳をしています。「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かしたものかであろう」。

この葛城ソツ彦は地方豪族という見解に対して、上田正昭氏は『大和朝廷』(一九六七年)の中で、また、井上辰雄氏は『隼人と大和政権』(一九七四年)において、それぞれ、ソツ彦を大和の葛城出身者とみなしています。はたしてそうでしょうか。私は、襲の出身者とみなしたい。しかし、この場合の襲は、前述した井上光貞氏の論説のように、熊襲の意味ではなく、繰り返し説いているように、広い範囲の「ソのクニ」の意味です。「ソツ彦」とは「ソの首長」という意味であり、日向中央山地を中心にして勢力圏を形成したと推測される「ソのクニ」と、極めて密接な関係にある人物と推定されます。

それは、この葛城ソツ彦の本来の名称は、「襲津彦」と呼称されていたのではないかと思われるからです。前掲の『百済記』所載の名称は沙至比脆(襲津彦)と記されてあり、また『日本書紀』の葛城ソツ彦に関する所伝においても、はとんど「襲津彦」と記されています。すなわち、「神功皇后紀」五年、同六十二年、「応神天皇紀」十四年、同十六年、それに「仁徳天皇紀」四十一年の各条に葛城ソツ彦についての記事が認められるのですが、しかし、子細に考察すると、「葛城襲津彦」と明記してあるのは、「神功皇后紀」五年と「応神天皇紀」十四年の二か所だけであり、あとの五か所はすべて「襲津彦」となっています。さらに、この「襲津彦」と記載してある条の説話は、三品彰英氏も指摘しているように、渡来人による伝承に基づいているということになれば、「襲津彦」という呼称の方が、より原初的な人名ではなかったかと思われます。そして、「葛城襲津彦」と記述してある二か所も、ともに大和王朝が葛城襲津彦を派遣したと記されてある記事のところのみになっています。九州に勢力圏を有したソツ彦は、朝鮮半島との交流もあり、その地理にも委しかったのではないかと思われます。『百済記』の中で、「襲津彦」を「沙至比脆」と記してあることが、より史実性を高めています。 

以上から考えられることは、本来の人名は「ソツヒコ」であったが、その後は大和地方と密接な関係ができ葛城地方に拠点がつくられるようになってから、「葛城」という名称がつくようになったのではないでしょうか。大和王朝の撰者によって成った『古事記』の中では、すべて「葛城之曾都毘古」と記述してあることからも、一層その感を深くするのです。

髪長媛 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

「日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふること能はず。依りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に謂りて日はく、『其、何なる麋鹿ぞ。巨海に浮びて多に来る』とのたまふ。ここに左右共に視て奇びて、則ち使を遺して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、『誰人ぞ』といふ。応えて曰さく、『諸縣君牛、是年老いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髪長媛を以て貢上る』とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし処をなづけて、鹿子水門と日ふ。凡そ水手を鹿子と日ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ」

 この 「応神紀」 にみられる髪長媛入内の播磨灘説話は、その冒頭に「一に云はく」と記されているように、全く別な氏族伝承によったものと考えられますが、その記事の中にみえる人名が、先に述べた「記・紀」 の所伝の人名と同一名称であることは極めて興味深いものがあります。この播磨灘伝承は多くのことをわれわれに伝えてくれます。

 まず、この播磨灘伝承の記事を見て、想定されることば、播磨地方の古代文化に関わりの深い加古川河口に、日向諸県君、牛族の根拠地としての 「船泊」が存在していたのではないかということ、すなわち、この一帯は、海洋性の強い日向の海人族集団の 「船泊」になっていたものと思われるということです。

 内陸的な大和王権勢力が朝鮮半島方面に進出してゆくには、どうしても、この日向海人族集団の協力が、必要であったのだろうと思われます。  もどる

 

日向系皇統と日下部氏の登場 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

 遥か西辺の地、日向国から仁徳天皇の后妃として入内(じゅだい)した髪長媛(かみながひめ)は、『古事記』 の所伝では、波多毘能大郎子(はたぴのおおいらつこ)またの名を大日下王(おおくさかのみこと)、波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)の二人を生んだと記され、また後述するように、『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます。この部族は西日本全般に、古文献の上で散見されますが、髪長媛の出自国である日向は、その源流の地であったのかもしれないと思われます。なお、この日下部氏は日向にたいへん関係が深い氏族です。 妻神社

また、大日下王(「紀」では、大草香皇子)と嫡妻・長田大郎女(ながたのおおいらつめ)(「紀」には、中帯姫(なかしのひめ))との間に目弱王(まよわのみこ))(「紀」では、眉輪王)が生まれました。  もどる  肥後の古歴史へもどる

 

葛城系皇統と磐之媛(いわのひめ) (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

『日本書紀』仁徳紀二年の条では「磐之媛命を立てて皇后とす。皇后、大兄去釆穂別天皇(おはえのいざはわけすめらみこと履中天皇)・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)・瑞歯別天皇(みつはわけすめらみこと反正天皇)・雄朝津間椎子宿禰天皇(をあさつまわくごすくねのすめらみこと)(允恭天皇)を生れませり。又妃(またのみめ)日向髪長媛、大草香皇子(おはくさかのみこ)・幡稜皇女(はたびのひめみこ)を生めり」と記載されています。仁徳天皇の皇后、磐之媛命には、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の三天皇が生誕されたが、后妃の髪長媛には、大草香皇子と幡稜皇女の二人が出生されたわけです。前者は葛城系皇統、後者は日向系皇統と称されています。     

 ここで出てくる磐之媛(いわのひめ)(「記」では、石之日賣)の父君は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)ですが、この襲津彦は、日向の北西部一帯を根拠にして九州中央山地に勢力を扶植した「ソのクニ」の首長であったと思われます。景行天皇の九州征討、すなわち、大和王国の「ソのクニ」統合に際し、日向地方においては、豊国別王による「ソのクニ」の統轄がありました。そのような動きのなかで、襲津彦は、日向地方と古くから関係があったと推測される大和葛城地域に本拠を定めて、葛城襲津彦と称したのではないかと考えられます。その年代は四世紀の後半代であったと想定されます。

 さらに、履中天皇は、葛城襲津彦の子である葦田宿禰の女、黒媛を皇妃として市辺押羽皇子(いちのへのおしはのみこ)が生まれています。なお、この葛城と日向の両皇統は、皇后と后妃の父親がそれぞれ日向地方に関係があるわけで、この両皇統は相互に何らかの関わり合いはあったのかもしれません。  もどる

応神王朝と日向 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

西都原古代文化圏成立の時代は、応神王朝あるいは景行天皇からとされる「ワケ」王朝との交流の中で、「日向王国」形成の時代を迎えるのです。この日向王国成立の歴史的背景としては、日向中央部の子湯県一帯を本拠とした「景行紀」の熊襲征討、次に、豊日文化圏の大首長として豊国別王の出現、そして仁徳天皇の后妃、髪長媛の入内と、その嫡子、大草香皇子、孫、眉輪王が応神、仁徳王朝内の日向系皇統として存在していたことなど、畿内大和地方と日向とは、特に密接な間柄であったことが考えられるのです。

 ところで、『日本書紀』によると、応神天皇は、筑紫の蚊田に生まれたとあります。この記載からも天皇が九州にゆかりの深い天皇であることがうかがわれます。さらに天皇は、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とし、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(おばえのみこ)が生まれています。『古事記』にも、日向の泉長比責を召して生みませる御子大羽江王、次に小羽江王と記され、「記・紀」ともに同一の記事がみえるのです。后妃の髪長媛にしても最初に召されたのは応神天皇であったことも、日向地方と深い縁が結ばれていたことが察知できます。特に、われわれが興味深く思うのは、応神天皇陵の前にある陪塚の丸山古墳から出土した国宝の「金銅透彫鞍金具」と、西都原古墳群の一角、百塚原から発見された同じく国宝の金銅製馬具類の中の金銅鞍金具が、ともに極めて類似していることです。この両金銅馬具類は、日本の古墳出土品の双璧と謂われていますが、五世紀代の出土遺物と推定されており、それは朝鮮半島からの伝来品であるともいわれていることは、大陸−日向-大和の線上でも注目されるところです。  もどる

 

コノハナサクヤ姫伝承、吾田族と日下部氏 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より) もどる   肥後の山と歴史へもどる

 国津神のコノハナサクヤ姫(神阿田津姫)を祭神とする式内都萬神社が西都市妻地区に鎮座している。この都萬神社に奉祀してきた有力な氏族として日下部氏があり、妻地方に居住する末裔には『日下部姓之系図』が伝わっている。この日下部氏は仁徳天皇皇后妃、髪長媛の御子に対する名代部として現れている。

二王子難を逃れる。弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24) (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より) もどる  飯豊青皇女へもどる

記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)※と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。

※ 伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主−吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。

浦島子伝承と日下部氏: 余社(与謝)郡には浦島子説話が伝わり、その子孫が日下部首等であると書紀には記されている。恐らく、使主-吾田彦親子は二皇子を匿うのに同じ日下部氏の拠点があった丹波国余社郡を選んだのであろう。

この浦島子伝承についてですが、初見される文献としては、まず『日本書紀』雄略天皇二十二 (四七八)年の条に、次のように記しています。

  「秋七月に、丹波園の餘社郡の管川の人瑞江浦嶋子、舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。便(たちまち)に女(おとめ)に化為る。是に、浦嶋子、感りて婦にす。相逐ひて海に入る。蓬莱山に到りて、仙衆を歴り舐る。語は、別巻に在り」 「雄略天皇紀」 に記載されている浦嶋子説話は簡潔な記事にまとめられていますが、その後に編纂された 『丹後国風土記』逸文の中では、「浦嶼子」と題して、次のように記されています。

「丹後の国の風土記に曰はく、輿謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云いき。為人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。……長谷の朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、独小船に乗りて海中に汎び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即て寝るに、忽ち婦人と為りぬ」。この『丹後国風土記』逸文にみえる浦島子説話が、その後、民間伝承として日本人の中に浦島物語となって今日まで伝わっています。この「浦島子説話」 で注目されることは、この説話が輿謝郡筒川村(現、伊根町本庄浜)の島子伝承になっている一方で、この島子は 「日下部首等」の先祖にあたると記されていることです。

山幸彦と浦島太郎(日本神話の考古学、森浩一著 朝日文庫、1999年より)

『彦火火出見尊絵巻』が小浜市明通寺に伝えられている。現在は江戸時代の忠実な模写しか残っていないが、もとの絵巻は日本の絵巻物のなかでもたいへん古いものだと推定されている。この絵巻は、福井県小浜市の松永荘の新八幡宮に、室町時代にあったのは確実とされているが、私が不思議に思うのは、南九州を舞台に展開した海幸・山幸の物語を描く絵巻物が、どうして日本海沿岸の福井県にあるかということである。新八幡宮については、どのような由来をもつかはまだわかっていない。だが、若狭国の一の宮、二の宮としてよく知られている若狭彦神社と若狭姫神社の近辺、おそらくその境内にあったと推定される社である。

小浜市には、東寺の荘園として名高い太良荘があったが、太良の丹生神社は祭神が山幸彦つまり彦火火出見尊である。それだけではなく、若狭彦神社も祭神は彦火火出見尊であり、若狭姫神社はその妻・豊玉姫が祭神である。その点を考えると、この地に『彦火火出見尊絵巻』があるのは、いっこうに不思議ではない。

 私の研究分野からはずれるけれども、山幸彦の海神の宮訪問と滞在は、雄略紀以降にみられる浦島子(浦島太郎)の物語に一脈通じるものを感じる。いうまでもなく、浦島子の舞台は若狭の西隣の丹後半島である。それと、若狭は越水″ つまり変若(おち)水を汲みとれる聖なる土地と信じられていた。変若水とは若返りの水であり、不老長寿の聖水でもある。このような土地柄が、彦火火出見尊や豊玉姫への信仰を生み出した背景であろうか。なお、考えるべき問題が山積されている。

都萬神社縁起 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より) もどる

竜宮信仰と日下部氏: 西都市妻の都萬神社社家の家系に伝わる『日下部姓之系図』の前文には「都萬五社大明神之縁起」の名称で、都萬神社の由緒が記載されています。都萬神社の建立されている社地は、古くから「井門田里」と称されてきたと記されています。「イモ田」のことを意味していると思われます。つまり、この社地一帯には、里イモを中心とした南方的な原始畑作農耕が行われていたといえます。里イモ文化は縄文系の流れをくむ古層文化的存在ということができます。つぎに、この縁起には、日下部氏の出自として、次のような注目すべき記載がみられます。

「…・‥土を掘り男一人、女一人出たり、即ち各々衣服無き故に、萱を苅り壁を拵えて居住す。仇って、日下部立次と号し、(妻寓)大明神君に仕え奉ること二百四十年云々」、この記録にみえるように、日下部氏の祖先は、土中から男女一人ずつ生まれ出たのが始まりで、その初代が日下部立次と称しました。この系図に記されている日下部氏の出生伝承は、日本の古代氏族伝承の中でも極めて特異なものです。この土中出生伝承は、妻萬大明神により土中から掘り出された男女が日下部氏の始祖となるわけで、その氏族の神観念、神出現の信仰形態としては、岡正雄氏の説かれている「水平的神観念」 の宗教儀礼に該当すると考えられます。すなわち、天に昇降する神の信仰ではなく、水平的に横の方へ往来する神観念として、海の彼方から神が寄って釆て、海の方へかえる、また、川面に送るお盆の精霊流しなどのような民俗儀礼にもみられるものと同様の神観念です。なお、この神観念は、日本神話の中の「根の国」信仰にも通じるものであり、地下に神の世界が存在するという信仰でもあります。古く都萬神社の領有地であった妻の地域(旧市街地) には、なるべく井戸は掘らないようにして、限られた井戸から周辺の人々は水を汲んでいたようです。これは妻神に古くから奉祀してきた日下部氏が土中から生まれ出たという土中信仰と関連があるのかもしれません。都萬神社の社家に伝わった伝承として、地中は神出現の本源地とみなされていたのでしょう。

 「……また吾れ妻萬大明神君は、此の河(妻萬河)より竜宮に通い住む可き給う故に、他方より、上を塞ぐ可からず云々」都萬神社の祭神である妻萬大明神は、都萬川から竜宮に往来していたので、その川の上を塞いではならないと書き記してあります。日下部氏の祖先神とみなされる都萬大明神(妻神)が竜宮に通い住むという伝承が記録にみえることは極めて興味深く、その意味では日向神話にみえる海幸、山幸の説話も、この日下部氏伝承と関連があるのかもしれません。 これまで述べてきたように、都萬神社に奉仕してきた日下部氏伝承は、海の彼方に去来する神を信じ、そのことは地中に神の本源地をもとめる信仰にも通じていましたが、このような神観念をもつ日下部氏は、いうまでもなく、典型的な海人族系の氏族とみなすことができます。しかし、同じ海人族にしても日下部氏は、地下信仰をもつ特異な氏族として、古代日本でも極めてユニークな存在であったということができます。 もどる    肥後國草部吉見神社(草壁、龍宮信仰の共通性)へ   貝と月と竹−海の道−へ

蓬山(常世国)信仰:

これは海の彼方にある神仙境の思想を表現したものであり、その宗教思想は、先にふれた「妻萬大明神御縁起」に記載されている「竜宮」の意味と全く類似した信仰形態といえます。先の『丹波風土記』逸文所蔵の「浦嶼子」伝承と、この「都萬五社大明神之縁起」記載の「竜宮」伝承とは、同一の信仰形態といえるわけで、この特異な説話伝承が、ともに日下部氏族に伝わったことに対しては、特に関心を寄せられるところです。では、その際、この両日下部氏の何れがより古い氏族であるかということですが、日向の日下部氏の祖先神は、日向の吾田族の祖先神と同一神の火闌降命(『新撰姓氏録』八一五年)であり、さらに、仁徳王朝の名代部の系統でもあるので、日向の日下部氏の方がより古い年代と推測されます。

 これまで述べてきたように、古来、式内都萬神社に奉仕した日下部氏には、日本の古代氏族の中でも、極めて特異な神仙思想が伝承されていたようであり、そのことから考えられることは、この日下部民族系統の人々によって日向地方へもたらされた中国江南系の「竜宮伝承」と、一方、南島黒潮ルートにより北上して日向に流入したインドネシア系の「失われた釣針」伝承とが、古代日向地帯において融合され、日向神話の中に、「海幸彦」「山幸彦」伝承として形成されたと思われるのであります。

古代日向伝承の継承者: 以上述べた『日本書紀』の中で、日下部氏と関連深い記事が所載されている年代は、「応神紀」以降の時期です。元来、日下部氏は、仁徳天皇と髪長媛との間に生まれた大日下王(大草香皇子)と若日下部命(幡俊皇女)の御名代として設定されたものです。この御名代として日下部氏と称されるようになった在地系の氏族は、髪長媛が日向を出発するにあたり、おそらく、媛の入内に随伴して行った海人族集団であったと思われます。その一行は、海上交通路によって、畿内地方へ行ったものと推測されます。その髪長媛の近習としての海人族集団の人びとは、その後、日下部氏を称するようになったと考えられます。

 ところで、のちの代になって、日下部系氏族は「書紀」編纂の史局員となりました。かつて藤間生大氏はその論考の中で、『日本書紀』の天武天皇十年の条にみえる「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という、いわゆる『日本書紀』編纂の発足に際して、史局員に任ぜられた難波連大形(元草香部吉士大形)が果たした役割について論及されました。さらに、中村恵司氏も、藤間氏の論拠に立って、その論証を広げられました。すなわち、前項でもふれた「雄略紀」二十二年にみえる浦島子説話が日下部氏の伝承に基づくものであることを論述し、しかもその氏族のもつ海洋性がこの説話を生んだものとされましたが、さらに、「応神紀」十三年の日向諸県君牛諸井の播磨灘説話も日下部氏に関連する伝承であり、ともに『日本書紀』の編纂員であった日下部氏系の難波連大形の努力によって、『日本書紀』の中に盛り込まれたものと思われると説かれています。また藤間生大氏も、前にふれた論考の中で、「安康天皇紀」元年の難波吉師日香蚊父子が日向出自の髪長媛の御子である大草香皇子の最後の時に、父子とも殉死したこと、それに、「顕宗天皇紀」にみえる日下部使主父子の忠勤ぶりなどは、やはり、日下部氏系で、「書紀」の編纂にあたった草壁連大形の収り組みであったとされています。

 

ニニギノ尊と隼人  (日本神話の考古学、森浩一著 朝日文庫、1999年より)  もどる

ニニギノ尊は襲の高千穂峯から背宍の空国を通って吾田の長屋の笠狭碕に至った。ここでも二つの重要な問題がある。まず、背宍の空国については「荒れてやせた不毛の地」と注釈をつけている書物が多い。しかし、民俗学者の谷川健一氏が宮崎県、の椎葉村で猪狩りをする山人から採集した話では、「ソジシというのは、鹿や猪の背中の肉をさすが、そこは霜降り肉のようにきめがこまかく、脂肪も多くないので、もっとも美味である」と述べ、うまい肉がそのまま不毛というイメージに結びつくかどうかについて疑問を投げかけている(1椎葉村で採集したソジシという言葉について)『古代学研究』七八号、一九七五年)。 もう一つは、吾田という土地についてである。吾田は阿多とも書き、大隅半島とは鹿児島湾を隔てた薩摩半島を指している。今日では吾田の地名は人びとの記憶から薄れつつあるけれども、一九〇一年(明治三十四)に刊行された吉田東伍の『大日本地名辞書』では、薩摩半島を吾田半島とよんだり、半島西部の緩やかな湾を吾田湾とよんだりするのを紹介している。しかし、弥生時代や古墳時代の阿多勢力の根拠地は半島全体ではなく、半島の南東部、薩摩富士ともいわれる開聞岳を中心地とした地域であったと推定される。「日本のポンペイ」として発掘諷査のすすんでいる指宿市橋牟礼川遺跡は、弥生時代から平安時代に至る大集落の遺跡で、阿多の中心地での有力な集落として注目を集めている。この遺跡の特色は、時代が下がっても土地の伝統文化あるいは生活の習慣を失っていないという点である。一九九〇年には、薩摩半島中央部の金峰町の小中原遺跡で、平安時代の土器に「阿多」の二字をヘラ書きにした資料が発掘された。 阿多隼人については、その集団からでた女性が、これからふれるように天皇家の先祖やイワレヒコ(神武天皇)と婚姻関係を結んでいて、名族として扱われている。だが、古墳の大きさや数からみると、集団としては大隅隼人のほうがはるかに大きかったという印象を受ける。ニニギノ尊は、吾田の土地においてコノハナサクヤ姫に出会った。コノハナサクヤ姫は、神吾田津姫の名前ももっているから、吾田の土地との関係が示されている。ニニギノ尊に召されたコノハナサクヤ姫は、一夜で子を身ごもった。そこでニニギノ尊が疑うと、姫は怒って、入り口のない室を作って、そのなかにこもり、「もしあなたの子供でなければ焼け死ぬでしょう」と言って火をつけながら出産をした。名前は美しいが、気性の激しい女神である。そのため、いつしか富士山を祀る浅間神社の祭神にもなった。つまり火のことから、火山の神になったのである。 最初に出た煙の端から火闌降命が生まれた。これを隼人の始祖としており、海幸彦である。二番目に火熱が下がりだしたときに生まれたのが彦火火出見尊で、山幸彦である。最後に生まれたのが火明命で、尾張連の始祖とされている。『紀』の一書によっては、二番と三番の順序が逆になっているものもある。この出産記事のあと、ニニギノ尊は亡くなり、筑紫の日向の可愛の山陵に葬ったという。

 

山部の系譜   谷川健一著『古代学への招待』2010年より     もどる      −山部の系譜-へもどる。

  山部は太古以来の大民族であり、さきの指摘のごとく、氏族というよりはむしろ種族と呼んだほうが適切な存在であった。たとえば縄文時代の大遺跡である上野原遺跡(鹿児島県霧島市)から、深さ二メートルにも達する猪のおとし穴が百基近くも発見されている。これは紀元前四千年も昔の話であるから、それを弥生時代や古代にむすびつけるのは困難であるとしても、そこが大隈国府の中心であり、大隈隼人の根拠地であったことは、一応念頭に置いておいてもよいであろう。とすればこれらの地域は狗奴国とも無縁ではなかったと思われる。

 山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。

 この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。

久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。

 

鹿児島県 開聞岳 大宮姫伝説  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  もどる     薩摩・大隅の山々にもどる
 他県の人で知る人はまず少ないだろう。「開聞古事禄起」(延享二〔1745〕年、開聞神社側当寺瑞応院三七世快宝法印の作)で、それによると開聞岳の北麓にある天の岩屋で、孝徳天皇(三六代)の大化五(649)年、塩土翁(一説では開聞社僧瑞応院主となっている)が密法修業中、牝鹿が来て法水(閼伽の水)をなめ、忽ちはらみ、口から一女子を産んだ。この娘は容姿端麗だったので、瑞照姫と名付けて沙門智通に与えた。 美貌が都に聞こえたので、上京して藤原鎌足に育てられ、長じて大宮姫と改め、一三歳で天智帝の皇后となった。ところが、正月二一日の初雪の雪合戦のとき、姫の足の爪が鹿の爪であることがわかり、郷里開聞岳に帰された(この地を皇后来という)。天智帝は皇后を慕い、白鳳二(674?)年、潜行して開聞岳の麓にあった京殿(いまの京田)に入って、姫と共に三八年間暮していたが、慶雲三(七〇六)年、七九歳で崩御し、また姫も翌和銅元年、五九歳で薨去された、というのである。これを後世に「大宮姫伝説」としている。そしてのちの清和天皇(五六代)は、開聞神に二〇〇〇戸を封じたという。開聞神社の封戸の中に鹿籠村(いまの鹿児島)も含まれる、という。

      ニニギノ尊と結婚したコノハナサクヤ姫の名(神吾田鹿葦津姫:かむあたかしつひめ)からの連想であろうか?

      髪長姫伝説と鹿

      開聞岳 髪長姫と大宮姫 −海人、鹿の子、天皇の后−

      瑞応院跡: 開聞宮の別当寺である。本尊は聖観音阿弥陀薬師で、開山は真言五祖の一人智通僧正。大化5年(649)の春開聞岳麓に梵宇を構え白雉3年(652)今の 地に寺院を建てた。その後、数百年の間、廃寺となっていた。正中3年(1326)島津公が真言宗舜請和尚に中興させ、坊之津一乗院の末寺として 開山した。

 

行縢山 真言別当の熊野霊山説    (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  もどる     修験道文化と神楽へもどる
 
「むかばきさん」 と読む。珍名の部類に入る山だが、この山も九州霊山の一つに数えられるから、”やま ではなく、”さん〃 である。”むかばき〃とは昔、武士が狩猟をするとき、腰から脚部に袴のように着用した毛皮製のものである。股部の基部から二股になっている形が、この山と同形に見えるというので、それが山名になったという。なるほど行勝山は、山腹が原生林帯で、その頭上に奇岩と絶壁をつくる双頭の二股のピークを持っており、東岳を雌岳といい標高八〇九メートル、これに向いあっている西岳が八三〇・七メートルの雄岳で、二峰を総称して行縢山と呼ぷ。この登山コースは、いまでは九州自然歩道になっている。
 『三国名勝図会』によると、この行勝山は古くから開かれた霊山といわれる。山麓の行縢神社は、熊野大権現を勧請祭祀したもので、その創建は養老二(七一八)年と伝えられる(日向郷土事典)ところから、行縢山は九州の修験道場の霊山のなかでも古い方である。近世末まで同神社は、行縢山大権現社と呼ばれ、同社の社僧は別当真言宗金蔵院光福寺と称して、寺領五〇石を領していたという記録がある。

 

火を噴く神の山・霧島  (天皇家の“ふるさと”日向をゆく、 梅原猛著、新潮社2000年より)  もどる    修験道文化と神楽へもどる

 私の旅は、いよいよ霧島へと近づいてきた。 霧島は火山である。火山はしばしば火を噴いて溶岩をふき出し、灰を降らして人民を苦しめる。それはまさに神の怒りの象徴である。古代の日本人にとって、神は何よりも恐ろしいものであり崇りをなすものである。その恐ろしいもの、崇りをなすものを神と祀って、供物を捧げ、心をやわらげ、かえって自分たちの守り神にする。それが日本の神祀りの根源である。とすれば火山こそ最も恐ろしい、そしてまた最も尊い神なのである。そのようにして富士山は神となり、多くの日本人から厚く崇拝された。また薩摩半島の南端にある開聞岳は火を噴いたために開聞神と呼ばれ、朝廷から従四位下を授けられた。霧島もまた、富士山や開聞岳と同じように、火を噴く神の山である。『続日本紀』をはじめ、霧島の凄まじい噴火のさまが史書に語られている。それは遠い中央の人の耳にも届くほどであった。土地の人々はどんなに神の怒りに怯えたことだろう。富士山がそうであるように、この神の山・霧島の威容は見事である。どの方角からも秀麗な姿が見える。火口湖に映った姿などは、富士五湖に映った富士山の姿にも決して劣らない。このような山の美しさと壮大さでは、あの日向の西北にある二上山はとても敵ではない。
 霧島を囲むようにして、霧島六社権現と総称される一連の神社がある。霧島神宮鹿児島県霧島町)をはじめ、東霧島神社(宮崎県高崎町)、狭野神社宮崎県高原町)、霧島東神社(同)、霧島岑神社(宮崎県小林市)がそれで、多少の異同はあるが、日向四代の神々を祀っている。しかし昔は霧島の山そのものを神としたのであろう。

 これらの神社を六社権現として整備したのは性空上人だった。性空上人は十世紀、村上天皇の頃の人で、天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立した人物である。霧島でも修行し、霧島山信仰を体系づけたといわれる。第二章で触れた、霧島の高千穂峰山頂にある「天の逆鉾」も、この性空の系譜につらなる山伏のひとりが置いたのではないかといわれている。
慶胤仙人   (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  もどる        
修験道文化と神楽へもどる

 「霧島神宮杜伝」によれば、同宮がはじめて創建されたのは六世紀(欽明朝)に真言宗の沙門(僧侶)が、いまの高千穂峰と御鉢(杜伝には火常峰とある)の中間にある背門丘(宮崎県霧島町と高原町の境界付近で天河原ともいう)に、社殿および別当寺華林寺を造営したのがはじまりと記している。つまり慶胤仙人は、霧島山開山の祖ともいうべきで、真言宗の密教修験者であった。しかし「三国名勝図会」は、霧島神宮の社殿は、慶胤がこの地に来る以前から存在していたから、おそらく慶胤が同宮を中興したのではないか、ともいう。また霧島山開山の僧と一般にいわれていた天台宗の僧性空が、霧島山に登ったのは天暦年間(九四七−五七年)で、そのときすでに崩壊していた同宮社殿、別当寺華林寺を再建して六所権現と称した、とされる。

 

 


 

 

 

中央の動き

太宰府

日向

大隅

薩摩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日向国造ハ軽島豊明朝御代豊国別皇子三世孫老男

 

429?

百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る

 

 

 

 

 

442?

沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)

 

 

 

 

継体朝
530-531頃

 

 筑紫君磐井の戦争

 

 

 

 

 

536

『日本書紀』宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた

 

 

 

 

 

554

百済、中部木ь{徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

 

 

 

 

555

百済聖王の息子恵来倭、

 

 

 

 

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ恵を百済に護送

 

 

 

 

 

562

紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退

 

 

 

 

欽明31年

570

 

 

 

 

 

欽明32年

571

 

 

 

 

 

 

575

新羅軍 大宰府より播磨明石まで攻め上る。霊神が人を給わった(宇佐八幡御託宣集)。

 

 

 

 

 

576

豊御食炊屋姫(のち推古天皇)立后

 

 

 

 

 

583

百済人日羅来倭*

 

 

 

 

 

585

蘇我馬子、物部守屋・中臣勝海等と対立

 

敏達天皇の殯宮を隼人が警固する 

 

 

推古1年

592

祟峻没(暗殺)

 

 

 

 

推古5年

597

難波吉士磐金 新羅へ

 

 

 

 

推古6年

598

難波吉士磐金 新羅より帰国、カササギ2羽献上

 

 

 

 

推古16年

608

唐使裴世清来る

 

 

 

 

推古17年

609

 

百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊

 

 

 

推古24年

616

 

 

掖玖人来朝記事(620.631年も)

 

 

推古36年

628

 

 

 

 

 

舒明1年

629

 

 

田部連を掖玖に遣わす

 

 

舒明13年

 

 

 

 

 

 

皇極4年

645

 

 

 

 

 

孝徳5年

659

 

筑紫太宰帥:日向臣

 

 

 

斉明4年

 

 

 

 

 

 

天智6年

667

 

百済鎮将劉仁 

 

 

 

天智7年

668

 

筑紫率:栗前王

 

 

 

天智8年

669

 

筑紫率:蘇我赤兄臣

 

 

 

天智10年

671

 

筑紫帥:栗隈王

 

 

 

天武1年

672

壬申の乱

筑紫太宰:栗隈王

 

 

 

天武5年

676

 

筑紫太宰:三位屋王、土佐へ罪流

 

 

 

天武6年

677

 

 

多禰島人等を飛鳥寺の西で饗す

 

 

天武8年

679

 

 

多禰島に倭馬飼部造連等を遣わす。

 

 

天武10年

681

 

 

多禰島から使者帰朝し、国図を貢し、距離、風俗・産物などを報告する。

天武11年

682

 

筑紫太宰:多治比真人島等大鐘を貢

隼人が朝貢し、大隅・阿多の両隼人が朝庭で相撲をとり、大隅隼人が勝つ。 

多禰人・掖玖人・阿麻弥人に禄を賜う。

隼人等を飛鳥寺の西で饗し、人びとが隼人を見物する。

天武12年

683

 

筑紫太宰:多治比真人島等三足雀を貢

 

 

 

天武14年

685

 

 

畿内移住の大隅直に忌寸の姓を賜う。

 

 

天武15年

686

天武没

 

 

 

 

持統1年

687

 

 

天武天皇の殯宮で、大隅・阿多両隼人の魁帥が各衆を率て、シノビゴトをすすめ、魁帥等三三七人に賞を賜う。

持統3年

689

 

筑紫太宰:粟田真人朝臣
太宰帥:浄廣肆河内王

筑紫大宰栗田真人朝臣等、隼人174人・布50常・牛皮6枚・鹿皮50枚を献上する。 

持統4年

690

持統即位

 

 

 

 

持統6年

692

 

太宰率:河内王

筑紫大宰に詔して僧侶を大隅・阿多に遣わし、仏教を伝える。 

持統8年

694

 

太宰率:浄廣肆三野王

 

 

 

持統9年

695

 

 

大隅隼人を饗す。飛鳥寺の西で隼人の相撲を見る。

文武2年

698

 

 

文忌寸博士・刑部真木等八人に武器を与え、寛国使として南島に派遣する。この年、日向国初見。

文武3年

699

 

 

多禰・夜久・奄美・度感等の人朝貢す。

大宰府に三野(日向国児湯郡三納郷か)・稲積(大隅国桑原郡稲積郷か)の二城を修築させる。

寛国使南島より帰朝す。

文武4年

700

 

筑紫総領:石上朝臣麻呂

薩末比売・久米・波豆、衣評督衣君県・助督衣君自美、肝衡難波が肥人等を従えて覚国使をおびやかしたので、筑紫惣領に命じて罰する。  

大宝2年

702

 

太宰帥:石上朝臣麻呂

○薩摩・多袖が命令にさからったので兵を送って征討し、戸口を調べ役人(国司)を配置す。薩摩国(前身)成立。

○薩摩隼人を征討した軍士に勲位を授ける。

○薩摩隼人征討に際して祈祷した大事府管下の神九処に奉幣する。

○唱更国(薩摩国の前身)の国司が国内の要害の他に柵を建て兵士と武器を置くことを申し出たので許可する。 

大宝3年

703

 

太宰帥:大伴宿禰安麻呂
大貮:石川朝臣宮麻呂

 

 

 

慶雲3年

706

 

少貮:安倍朝臣首名

 

 

 

慶雲4年

707

 

 

大宰府で南島人に位を授け、物を賜う。

 

 

和銅元年

708

 

太宰帥:粟田朝臣真人
大貮:巨勢朝臣多益首

 

 

 

和銅2年

709

 

 

薩摩隼人の郡司以下188人朝貢する。諸国の騎兵500人を徴集して威儀を整える。

和銅3年

710

 

 

○隼人・蝦夷が正月の朝賀の式に参列す(後日、授位・賜禄がある)。

○日向国は采女を、薩摩国は舎人を貢上する。

和銅6年

713

 

 

○日向国の肝杯・贈於・大隅・姶良の四郡をさいて大隅国を設置する。

○隼賊を討った将軍ならびに士卒のうち、軍功のあった1280余人に勲位を授ける。 

和銅7年

714

 

太宰帥:多治比真人池守

○豊前国の民200戸を移住させて隼人を勧導させる。

○多禰嶋に印一面を賜う。

○太朝臣遠建治等、奄美・信覚・球美等島人52人を率いて帰朝する。 

霊亀1年

715

 

 

南島人・蝦夷が朝賀の式に参列す(その後、南島人77人に授位)。

霊亀2年

716

 

 

大宰府が隼人の朝貢が道路遠隔・父母老疾・妻子単貧などで苦労が多いことを申しでたので、朝貢を六年相替と定める。

養老1年

717

 

 

大隅・薩摩の隼人が風俗の歌舞を奏す。位を授け、禄を賜う。

養老2年

718

 

 

 

 

 

養老4年

720

 

 

○隼人が大隅国守陽侯史麻呂を殺害する。【大隅、日向の隼人反乱】

○大伴旅人を征隼人持節大将軍、ほか2名を副将軍に任命し、征討に向う。

○南島人232人に授位。 

養老5年

721

 

大貮:石川朝臣石足

○副将軍ら帰還す。隼人の斬首獲虜合計1400余人。

○薩摩国、人まれなる地多し、便宜をはかりて併合する。

養老6年

722

 

 

○蝦夷・隼人征討の将軍以下に勲位を授ける。      

○大隅・薩摩・多禰・壱岐・対馬等の国司の欠員は、大宰府の官人を権に補任することを定める。

養老7年

723

 

 

○日向・大隅・薩摩三国の士卒、隼賊征討の軍役のため困窮す。三カ年の貢納を免除す。

○大隅・薩摩二国の隼人ら624人朝貢し、風俗の歌舞を奏す。酋帥34人に授位、禄を賜う。

神亀2年

725

 

太宰帥:大伴朝臣旅人

 

 

 

神亀3年

726

 

 

 

 

 

神亀4年

727

長屋王の変

 

 南島人132人来朝。叙位(南島人の来朝、以後見えず)。

 

    漆部造君足、中臣宮処連東人の密告(2/10)

 

 

    藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、左衛士佐津嶋家道、右衛士佐紀佐比物は六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲む(2/11)

 

 

    翌日(2/12)、舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、巨勢宿奈麻呂らが長屋王に罪を詰問

 

 

    長屋王、正室・吉備内親王、その子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王ら自殺

 

神亀5年

728

 

 

 

 

 

天平1年

729

 

太宰帥:藤原朝臣武智麻呂

○薩摩隼人、調物を貢し、風俗の歌舞を奏す。

○大隅隼人、調物を貢す。姶良郡少領加志君和多利・佐須岐君夜麻等久々売に外従五位下を授く。

天平2年

730

 

 

大隅・薩摩両国はいまだ班田を行わず、墾田のまま。班田収授に従うならば喧訴が多いと大宰府が報告したので、旧来の通りとする。

天平5年

733

 

 

多禰嶋の郡司らに氏姓を賜う。

天平7年

735

 

 

○大隅・薩摩二国の隼人296人調物を貢し、方楽を奏す。

〇二国の隼人382人に位を授け、禄を賜う。

天平8年

736

 

 

この年の薩摩国の収支決算報告書「薩摩国正税帳」の断簡現存す(正倉院文書)

天平9年

737

 

太宰帥:藤原朝臣宇合 薨
大貮:小野朝臣老 卒

 

 

 

天平10年

738

 

大貮:高橋朝臣安麻呂
少貮:藤原朝臣廣繼

 

 

 

天平12年

740

藤原広嗣の乱

 

○藤原広嗣の乱おこる。

○大野衆人を大将軍に任命する。

○広嗣みずから隼人軍を率いるが、隼人軍に混乱がおこり、広嗣軍敗走す

 

・朝廷軍、大将軍大野東人

 

天平14年

742

 

 

大隅の国司の報告によると、空中に声がして大鼓の如く、地は大いに震動す

天平15年

743

 

 

隼人らを饗す。曾乃君多利志佐・前君乎佐・佐須岐君夜麻等久々売らに叙位。

天平17年

745

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う

大貮:石川朝臣加美
少貮:多治比真人牛養
少貮:大伴宿禰三中

大隅・薩摩両国の公廨 (公費の山部) は四万束とす。他の中国は廿万束。

天平18年

746

 

太宰帥:橘宿禰諸兄
大貮:百済王考忠
少貮:紀朝臣男楯

 

 

 

天平19年

747

 

 

 

 

 

天平感宝1年

749

陸奥国黄金献上

少貮:小野朝臣田守

○大隅・薩摩両国の隼人ら、調を頁し、士風の歌舞を秦す。

○曾乃君多利志佐・前君乎佐・曾県主岐直志自羽志・加禰保佐に叙位。

 

    大伴牛養、大伴稲君、大伴家持

 

 

    佐伯浄麻呂、佐伯常人、佐伯毛人、佐伯靺鞨

 

 

    橘諸兄、橘奈良麻呂

 

天平勝宝2年

750

 

太宰帥:藤原朝臣乙麻呂

 

 

 

天平勝宝4年

752

 東大寺大仏開眼供養(顔までの部分塗金)

太宰帥:紀朝臣麻呂
少貮:佐伯朝臣美濃麻呂

 

 

 

天平勝宝5年

753

 

太宰帥:石川朝臣年足
大貮:紀朝臣飯麻呂

 

 

 

天平勝寶6年

754

薬師寺の僧綱行信、宇佐八幡主神大神多麻呂及び大神杜女、結託による厭魅事件

大貮:吉備朝臣真備

大神杜女 日向国配流

大神多麻呂 多禰島配流 

行信 下野の薬師寺配流

 

 

天平勝寶7年

755

 

 

大隅国菱苅村の浮浪930余人、郡家を建てることを許さる (菱刈郡の新設)。

天平勝寶8年

756

聖武天皇没

 

 

 

 

天平宝字元年

757

橘奈良麻呂の変

 

員外掾:藤原朝臣乙縄

 

 

 

    安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人、佐伯全成、小野東人

 

 

 

 

天平宝字3年

759

 

 

 

 

 

天平宝字4年

760

 

 

○大隅・薩摩・壱岐・対馬・多禰等の宮人 (国司ら) に大宰府の管理する諸国の地子を与える。

 

守:多治比真人木人

天平宝字5年

761

 

 

 

 

 

天平宝字6年 

762

 

 

守:田口朝臣大戸

 

 

天平宝字7年

763

 

 

守:笠朝臣不破麻呂/陽胡昆登珍璆/高松連笠麻呂

左遷大隅守:伊加麻呂

 

天平宝字8年 

764

恵美押勝の乱

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
少貮:采女朝臣清庭

 

 

守:大伴宿禰家持

天平神護元年

765

 

太宰帥:石川朝臣豊成

守:大津連大浦

 

 

天平神護2年 

766

 百済王敬福没

 

 

 

 

神護景雲元年 

767

 

大貮:藤原朝臣楓麻呂

日向国白亀を献ず

 

 

 

 

 

 

 

神護景雲2年 

768

 

太宰帥:弓削御浄臣清人
大貮:藤原朝臣田麻呂

 

 

 

神護景雲3年

769

 

 

守:奞?晋卿

 

 

宝亀元年

770

 

少貮:小野朝臣小贄

 

 

 

 

太宰帥:藤原朝臣宿奈麻呂
太宰帥:石上朝臣宅嗣

 

 

 

宝亀2年 

771

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝亀3年

772

 

 

 

守:中臣習宜朝臣阿曾麻呂

 

宝亀5年 

774

 

太宰帥:藤原朝臣蔵下麻呂
少貮:石上朝臣真永
大貮:石上朝臣名足
少貮:多治比真人豊濱

守:秦忌寸襄守

 

 

宝亀6年 

775

 

 

 

 

 

宝亀7年

776

 

少貮:藤原朝臣仲繼
太宰帥:藤原朝臣魚名
大貮:石上朝臣息嗣
少貮:笠朝臣名麻呂

 

 

 

宝亀9年 

778

 

 

 

 

 

宝亀10年 

779

 

 

 

 

 

宝亀11年

780

 

太宰帥:藤原朝臣濱成
大貮:佐伯宿禰今毛人

 

 

 

 

太宰帥:藤原朝臣魚名

 

 

 

天応元年 

781

 

 

 

 

 

天応2年

782

 

 

三方王、弓削女王日向国配流

 

 

延暦元年 

782

 

太宰帥:藤原朝臣魚名 薨

 

 

 

 

大貮:石上朝臣家成

 

 

 

延暦2年

783

 

 

 

 

 

延暦3年 

784

 

少貮:藤原朝臣管繼

守:多治比真人年持
左降日向介:伊予守藤原朝臣末茂

 

 

延暦4年 

785

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

延暦5年

786

 

太宰帥:佐伯宿禰今毛人

左降日向権介:百済王俊哲
守:采女朝臣宅守

 

 

延暦7年 

788

 

 

 

 

 

延暦8年

789

 

少貮:藤原朝臣園人

 

 

 

延暦9年

790

 

員外帥:藤原朝臣濱成 薨
少貮:藤原朝臣真鷲

 

 

 

 

 

 

 

延暦10年 

791

 

 

 

 

 

延暦14年 

795

 

 

大供部阿弖良等妻親族日向国配流

 

 

延暦15年 

796

 

 

 

 

 

延暦16年

797

 

 

 

 

 

延暦18年 

799

 

 

 

 

 

延暦24年

805

 

 

 

 

 

大同元年 

806

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大同3年 

808

 

少貮:多治比真人今麻呂

 

 

 

大同4年 

809

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弘仁元年

810

 

 

守:大伴宿禰和武多麻呂

 

 

弘仁2年 

811

 

 

 

 

 

弘仁3年 

812

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弘仁4年

813

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弘仁5年

814

 

 

守:甘南備真人濱吉

 

 

弘仁6年

815

 

 

 

 

 

天長6年

829

 

 

 

 

 

承和2年

835

 

太宰帥:三品秀良親王

 

 

 

承和4年

837

 

権帥:藤原朝臣常嗣
大貮:藤原朝臣廣敏 卒

 

 

 

承和5年 

838

 

 

 

 

 

承和6年 

839

 

大貮:南淵朝臣永河

 

 

 

承和7年 

840

 

 

 

 

 

承和8年

841

 

 

守:秦宿禰氏繼

 

 

承和9年 

842

 

大貮:藤原朝臣衛

 

権掾:淡海真人豊守

権掾:丹墀真人縄足

 

 

 

 

承和13年

846

 

 

 

 

 

承和15年

847

 

大貮:紀朝臣長江

 

 

 

嘉祥2年 

849

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘉祥3年

850

 

太宰帥:三品葛井親王 薨

守:嗣岑王

 

 

仁寿元年

851

 

 

 

 

 

仁寿3年

853

 

少貮:滋野朝臣善蔭
太宰帥:一品葛原親王 薨

 

 

 

斉衡元年 

854

 

 

 

 

 

 

 

 

 

斉衡2年 

855

 

大貮:正躬王

守:藤原朝臣頴基

 

 

斉衡3年 

856

 

 

 

 

 

天安元年

857

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天安2年 

858

 

 

 

 

 

貞観元年 

859

 

 

 

 

 

貞観2年

860

 

大貮:清原真人岑成
少貮:藤原朝臣真数

守:藤原朝臣雄瀧

守:布勢朝臣真繼

 

貞観3年 

861

 

 

 

 

 

貞観4年 

862

 

 

 

 

守:忠世宿禰真直

貞観5年 

863

 

太宰帥:二品仲舒親王
少貮:在原朝臣安貞
少貮:藤原朝臣元利麻侶

 

 

 

貞観6年

864

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

 

貞観7年 

865

 

 

 

 

守:管野朝臣宗範

貞観8年 

866

 

 

 

 

 

貞観9年

867

 

大貮:茂世王

掾:清原春瀧
介:藤原朝臣定岑

 

 

貞観10年 

868

 

少貮:安倍朝臣清行

 

 

 

貞観11年

869

 

大貮:藤原朝臣冬雄
少貮:坂上大宿禰瀧守

 

 

守:安倍朝臣興氏

貞観12年 

870

 

 

 

 

 

貞観13年

871

 

太宰帥:二品賀陽親王

 

 

 

貞観14年

872

 

 

介:藤原朝臣苽作

 

 

貞観15年

873

 

権帥:在原朝臣行平

 

 

 

元慶元年

877

 

 

 

 

 

元慶2年

878

 

権少貮:藤原朝臣房雄

 

守:春日朝臣宅成

 

元慶3年

879

 

大貮:橘朝臣三夏

 

 

 

元慶4年

880

 

 

 

 

 

元慶7年

883

 

 

 

 

 

元慶8年

884

 

 

 

守:時統宿禰當世 解偁

 

元慶9年

885

 

 

守:安倍朝臣弘行 解偁

 

 

仁和元年 

885

 

大貮:藤原朝臣行有

 

 

 

仁和2年 

886

 

大貮:藤原朝臣保利

 

 

 

 

 

 

 

仁和3年 

887

 

 

 

 

 

仁和4年 

888

 

 

 

 

 

寛平元年 

889

 

 

 

 

 

 

 

 

 

延喜元年

901

 

権帥:菅原朝臣道真

 

 

 

延喜5年 

905

 

 

 

 

 

延喜9年 

909

 

 

 

 

 

延喜11年 

911

 

 

 

 

 

天慶3年 

940

将門・純友の乱

 

 

 

 

 

・小野好古、藤原慶幸、大蔵春實、橘遠保

 

 

 

天慶4年

941

 

 

 

 

 

天慶5年 

942