神々の系譜

神々の出現 : いざなぎ、いざなみ :
 迦具土神(かぐつちのかみ:軻遇突智) : ミズ象女命(みずはめのみこと;神)
大山祇命(おおやまずみのみこと)
アマテラスとスサノオ
五十猛命 大国主(おおくにぬし)命
アメノオシホミミの命 : 市杵島姫命
栲幡千々(たくはたちぢ)姫(「紀」)=萬幡豊秋津師比賣命(「記」)
饒速日(にぎはやひ)命
ニニギの命 : 木花咲耶(このはなさくや)姫 : 海幸彦・山幸彦
塩土翁(しおつちのおじ) 
 豊玉姫(とよたまひめ) : ウガヤフキアエズの命 : 玉依姫(たまよりひめ)
五瀬命 : 神武(カムヤマトイワレヒコ/ハツクニシラス)1
神武歌謡:久米唄
三島溝杭のムスメ(ホトタタライススキ媛
欠史八代(綏靖2、安寧3、懿徳4、孝昭5、考安6、考霊7、考元8、開化9)
神八井耳命 : 草部吉見神(くさかべよしみのかみ) : 健磐竜(たけいわたつ)命
多(意富、大生)氏の系譜
阿蘇神話の神々の系譜へ

 大物主神(おおものぬしのかみ): 倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ) 


古王朝(崇神王朝: 三輪王権
崇神(ミマキイリヒコイニエ/ハツクニシラス)10 : 垂仁(イクメイリヒコイサチ)11 
名前の交換 : 彦坐王野見宿禰
 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)  : 天日槍とその妻(阿加流比売、赤留比売:あかるひめ)
田道間守
五十迹手(いとて) : 羽白熊鷲(はじろくまわし)
景行(オオタラシヒコオシロワケ)12 : 成務(ワカタラシヒコ)13 : ヤマトタケル: 仲哀(タラシナカツヒコ)14


中王朝(応神・仁徳王朝
神功皇后(オキナガタラシヒメ):  応神(ホムダワケ)15
武内宿禰
応神王朝の系譜へ
ワケ『王族将軍』

倭の五王時代

(応神15)、仁徳(オオサザキ)16、履中(イザホワケ)17、「」反正(ミズハワケ)18、「済」允恭(オアサズマワクゴスクネ)19、「興」安康(アナホ)20

雄略

」雄略(オオハツセワカタケ)21、清寧(シラガノヤマトネコ)22

飯豊青皇女顕宗(ヲケ)23、仁賢(オケ)24:武烈(ワカサザキ)25

蘇我氏の出自


新王朝(継体・欽明王朝

継体26:安閑27、宣化28

筑紫国造磐井の乱(527-30?頃)

欽明29敏達30、用明31、祟峻32、推古33、舒明34、皇極(斉明)35・37、孝徳36

秦河勝

讖緯説にもとずく神武天皇伝説

白村江の敗戦(660)

天智38 弘文39

壬申の乱(672)

天武以降

 母たちの系図へ

海人と天皇 日本とは何か 梅原猛1995より

 


九州の人々へ  九州の古寺一覧へ
九州に残る英雄伝説  
宗教者(聖人)伝  九州の白鳥(神社)地名

九州の山と伝説に戻る

古代氏族と山の民

山への旅シリーズに戻る

重層する文化、連続する意識へ

(表紙に戻る)


神々の出現(古事記)もどる

        あめのみなかぬしのかみ(天之御中主神)、たかみむすひ(高御産巣日)、かみむすひ(神産巣日)

        二柱の神、かみよななよ(神代七代)

        イザナギとイザナミ(男女二神)

イザナギ、イザナミの生んだ神々(古事記):もどる

        あまのぬぼこ(天の沼矛)・おのごろじま(淤能碁呂島)・やひろどの(八尋殿)

        《国生み》 はじめの求愛・・・ひるこ(水蛭子)、求愛のやり直し・・・淡路島、えひめ(愛比売:伊予)、いいよりひこ(飯依比古:讃岐)、おおげつひめ(大宜都比売:粟)、たけよりわけ(建依別:土佐)、隠岐、しらひわけ(白日別:筑紫)、とよひわけ(豊日別:豊)、たけひむかひとよくじひねわけ(建日向日豊久士比泥別:肥)、たけひわけ(建日別:熊曾)、あめのひとつばしら(天比登都柱:壱岐)、あめのさでよりひめ(天之狭手依比売:津島)、佐渡島、おおやまととよあきつしま(大倭豊秋津島)、たけひかたわけ(建日方別:吉備の児島)、小豆島、大島、姫(女)島、知訶島、両児島

        《神生み》 おおわたつみのかみ(大綿津見神)、みなとのかみ(水戸神)、みくまりのかみ(水分神)、しなつひこのかみ(志那都比古神)、くくのちのかみ(久久能智神)、おおやまずみのかみ(大山津見神)、かやのひめのかみ(鹿屋野比売神)、とりのいわくすぶねのかみ(鳥之石楠船神)、ひのやぎはやおのかみ(火之夜芸速男神)イザナミの火傷・・・金山毘古、金山比売、埴土の神、水の神、農産の神、とようけびめのかみ(豊宇気毘売神)など、・・・イザナミの神避り・・・十拳の剣・・・たけみかずちのおのかみ(建御雷之男神)など、

        黄泉の国ゆき、黄泉比良坂・・・八柱の雷(いかずち)に追われて、桃の実三つ(意富加牟豆美命)を投げて雷を退散させた、禊・・・船戸神、道俣神、阿曇一族の神(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神)、住吉の神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)、左目を洗う・・・あまてらすおおみかみ(天照大御神)、右目を洗う・・・月読命、鼻を洗う・・・たけはやすさのおのみこと(建速須佐之男命)

迦具土神(かぐつちのかみ:軻遇突智)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 イザナミ命が生んだ火の神。母イザナミはそのため陰処を焼いて死んだ。「紀」では、母神は火の神を生んだあと、埴山姫(はにやまひめ)、みず象女(みずはのめ)を生み、さらにカグツチが埴山姫と結婚して椎産霊(わくむすび)を生み、椎産霊の頭の上から蚕と桑、臍から五穀が生じた。また一書は、母神が苦しんで吐いた汚物から金山彦、小便から岡象女(みずはのめ)、大便から埴山姫が生まれたともいう。この神話はわが国の農耕祭祀的な思想であり、火と土と水の結合によって豊穣霊の発生を物語る。カグッチ神は、父神イザナギ命によって斬殺され、剣についた血、火神体からはまた神々が化生する。後世、明治の廃仏毀釈以降には、この火神は、火防の神として神社に祭祀されるようになる。愛宕社の神や勝軍地蔵の本尊の垂迹身はおよそこのカグツチ神である。*雷山英彦山

ミズ象女命(みずはめのみこと;神)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 伊弉冉命(いざなみのみこと)が生前、最後に火の神軻遇突智(かぐつち)を生んだため陰部を火傷し、その苦しみのため流した尿から生まれたという水神(「記」)。ミズハは、ミヌマ、ミヌメ、ミルメなどの語と同系語で、水神を表わす名とし、民俗学者の折口信夫はミルメ、ミヌメは、水妻つまり水神の妻と解釈、古くは水神に奉仕する巫女を指す語とする。筑紫で宗像三女神を斎き祭った水沼君も、水神の宗像神に奉仕し、楔ぎに関与したであろう(「折口信夫の水の女」)。*冠岳

大山祇命(おおやまずみのみこと)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 イザナギ・イザナミのご夫婦神がお生みになった三五柱の子神の一神。この神は、山に住む山の神霊であろう。この「山祇」という言葉は普通名詞ではないかともいわれる。夫神イザナギが、火の子神カグッチ(迦具土神)を生んで死んだ妻神イザナミを悲しみ、怒り、殺戮したとき、カグツチの体からマサカヤマズミ(正鹿山祇)、オドヤマズミ(淤ど山祇)、オクヤマズミ(奥山祇)といった各種のヤマズミの神が誕生するからである。それら各山を司るヤマズミの神の総轄支配者が、この大山祇命であったと思われる。天孫降臨の神話では、大山祇命の娘コノハナサグヤ姫(木花咲耶)を皇孫二ニギの命に献った。このため命の寿命が、花のように短くなった、と説話は伝える。「伊予国風土記逸文」では、大山祇命は仁徳天皇(16代)のとき百済から渡来した神で、後世三島明神と呼ばれて四国伊予(愛媛県)の海上の平穏を守護する神ともなっている(「神話伝説辞典」)。*御前岳・紫尾山・野間岳

アマテラスとスサノオ(古事記):もどる

        神やらい・・・スサノオの追放

        あめのやすかわ(天安河)のうけい(誓約)、あめのまない(天の真名井)

        アマテラスの子生み・・・たきりびめのみこと(多紀理毘売命、胸形の奥津宮)、いちきしまひめみこと(市寸島比売命、胸形の中津宮)、たきつひめみこと(多紀都比売命、胸形の邊津宮)

        スサノオの子生み・・・まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)、あめのほひのみこと(天之菩卑能命)、あまつひこねのみこと(天津日子根命)、いきつひこねのみこと(活津日子根命)、くまのくすびのみこと(熊野久須毘命)

        スサノオの狼藉天の岩屋戸、神々の狂宴・・・やおよろず(八百万)の神々、思金(兼)神、あめのたじからおのみこと(天手力男命)、あめのうずめ(天宇受売)、あめのこやねのみこと(天児屋命)、ふとだまのみこと(布刀玉命)

日の妻アマテラス   もどる  (日本の神々、谷川健一著、岩波新書、1999年より)

 日の光に感じて孕み子を生むという話、つまり日光感精説話は海外にも広く分布している。新羅国に阿具沼という沼があって、そこで一人の女が昼寝をしている時、日光に感じて玉を生み、それから生まれた女が、新羅国王の王子である天之日矛の妻となったというのは、「古事記」で有名である。我が国では、鹿児島県の隼人町にある大隅正八幡宮の縁起が知られている。それによると、震旦国の陳の大王の娘の大比留女が七歳にして身ごもった。父王がそれを怪しんで問いただすと、朝の日の光が胸を覆っている夢をみたら、自分は妊娠したと答えた。父王はいよいよおどろいて、娘とその生んだ皇子とを空船に乗せて海に流した。母と子が流れついたのは、日本の大隅国の海岸であった。その皇子を八幡と呼んだ。この説話は、柳田国男や石田英一郎がしばしば取り上げている。また対馬の豆酸に照日之菜という娘があって、その娘は日輪の光に感じて子供を生んだが、のち豆殿の卒土の山で死んだ。この女を中古から正八幡という説がある(「天道法師縁起」)。照日之菜の菜は妻の宛字であろう。大比留女があり、照日之菜があって、ともに日光に感精して子供を生んだ。「大日(雨口口口女)貴おほひるめのむち」(「神代紀」上)、「天照らす日女の命」(「万葉集」巻二)などから、天照大神が日の妻、つまり太陽の妻であったことは疑い得ない。

 オホヒルメに村してワカヒルメという語がある。「椎日女尊、斎服殿に坐しまして、神之御服織りたまふ」(「神代紀上」)とある。このワカヒルメは年若いヒルメという意味である。それは「おもろさうし」にいう「若ノロ」と同じである。伊勢神宮の神衣祭には、麻績連などが麻を績んで神衣をたてまつったとあるが、神衣を織ることは神に仕える巫女のする仕事である。こうしたことから大ヒルメは年上の巫女であり、若ヒルメはそれに仕える年若な巫女であったことが判明する。

 日光感精説話は宮古島にも見られるが、南島でもっとも集中しているのは奄美の島々である。山下欣一の『奄美説話の研究』には七例が集められている。それにはさまざまな型があるが、共通している筋書をたどると次のような話になる。 オモイマツガネ(思松金)という美しい娘が川のほとりで洗濯していたら、太陽が手をさしたので心遠くなってしまった。そうして孕んだが神の子なので十二カ月かかって生んだ。男の子は七歳のとき、父無し子といじめられる。母親に父のことを教えてくれと頼むと、お前の父は「太陽がなし」(太陽の尊称)と言われて、天にのぼる。太陽は男の子を自分の子と認める。そして人間を助けるために人間の世界に下りさせる。そのためにトキ双紙という占いの本を勉強させる。そこで子どもの母のオモイマツガネはユタの先祖になり、子どもはトキ(男ユタ)の先祖になった、というものである。

 オモイマツガネという機織る乙女が日光に感精して日の御子を生むという別の説話も奄美に普及しており、ユタはオモイマツガネを自分たちの先祖として崇拝する。こうして見れば天照大神も日光感精説話を背負った巫女であり、最初は日神の妻であったものが、やがて日神としてあがめられるようになったことは疑いない。それは巫女を神とする祭の伝統からすれば、とりたてて怪しむべき事柄ではない。

 ちなみに「おもろさうし」には「照る妃」「照る実物」「照る雲」「照る日」など「照る」を冠する神女名の多いことが目立っている。本土でも「下照姫」「照日の前」「照夜の前」「照手姫」など「照」という字のつく巫女が見受けられる。巫女の命名の仕方が日琉双方に共通していることは、両者の関係がふかくかつ遠いものであることを暗示している。アマテラスも「天照る」から「天照らす」に政治的な意図の下に進化したことが分かる。

アマテラス     もどる        梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
  
アマテラスの誕生は祝福されている。『日本書紀』神代第五段の記述では、海・川・山・木・草---「山川草木」の生まれたる後、アマテラスは誕生する。イザナギ・イザナミの愛し子である。そして月読尊が生まれる。この弟の誕生も祝福されている。「光彩しきこと日に亜(つ)げり」。しかしスサノオの誕生は呪われている。蛭児が生まれ、その子が捨てられて後、スサノオの誕生がある。スサノオはいつも泣いている。父母は困り果て、「根國にいね」と言う。スサノオは赤子のように泣く。彼こそ御子神なのである。皇子なのである。そしてこの御子を守るのが姉・アマテラスである。
姉弟     
もどる           
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 
 『日本書紀』では、アマテラスはスサノオを「弟;なせのみこと」と呼ぶ。スサノオはアマテラスを「姉;をねのみこと」と呼ぶ。二人は、私の弟よ、姉よと互いに呼び合う仲の良い姉弟であった。また例の「ウケイ」は、〃勝負〃であるが、それはまた姉弟の〃結婚〃でもある。二人は「ウケイ」の方法として「子を生まん」とする。アマテラスはスサノオの剣を請うて、三女神を生む。スサノオはアマテラスの玉によって五柱の男神を生む。勝負は男神を生んだスサノオの勝ちとなるが、この二人の「ウケイ」は恋である。二人は夫婦として、八柱の神の子を生んだのである。スサノヲの繰り返される「姉と相見え」んという言葉が気になる。沖縄のをなり神(姉妹)はゑけり神(兄弟)と、うまくいっていた。しがし『記紀』では姉弟は仲を裂かれるのである。そしてアマテラスは「アメノイワヤ」に入る。即ちアマテラスの死である。「イワヤ」は墓である。アマテラスを殺したのは誰か。それは彼女を再生させた神々であろう。アマテラスとスサノオは「をなり・ゑけり」であった。「姉よ」「弟よ」という呼び掛けは「歌垣」の初めではないか。アマテラスはスサノヲに向かって、こう言った。「我が愛しき恋しき弟よ」--この二人称は現代の恋にも使われる呪語である。

五十猛命 【日本書紀 一書(第4,5)】

 スサノヲの御子、新羅の国に降臨したが、たくさんの樹の種を彼の地には植樹せず、筑紫からはじめて、大八洲の国に播きふやした。妹に大屋津姫命と枛津姫命。

 

スサノヲ(健速須佐之男、たけはやすさのをの命)の大蛇退治(古事記)

        大蛇退治、草薙の太刀

        スサノヲが大山津見神の子、足名椎・手名椎夫婦神の女、櫛名田比賣を娶して生ませられた八島士奴美神から、5代の孫が大国主命

        大国主命、因幡のシロウサギ

        『古事記』八十神に憎まれ根国へ                                 

大国主命は因幡の白菟に出会ったことをきっかけに、国作りをする偉い神に成長する。大国主命は、はじめは多くの見たちに従者のように扱われていた。八十神とよばれる大人数の兄の神々は、因幡の国の八上比売と結婚しょうとそろって因幡国に出かけた。そのとき大国主命は、兄たちの荷物をもってお供をしていた。すると、彼らの前に鰐に皮をむかれた白菟があらわれた。八十神は、裸にされた菟を見ていたずら心をおこして、「海水を浴びたあと体をかわかすように」と言った。白菟がその通りにしたところ、ますます痛みが激しくなった。そこに、大国主命が通りかかり、適切な治療法を教えてやった。菟はよろこんでこう言った。

「あの大勢の神は思いをとげられないでしょう。あなたが八上比売の夫にふさわしい人です」。菟の言った通りに、八上比売は八十神ではなく大国主命を選んだ。そのとき、八十神は大いに怒り大国主命を殺そうと計った。彼らは、大国主命を山に連れていって、「赤い猪を捕えろ」と命じた。そして、猪に似た石を赤く焼いて落とし、大国主命にそれを抱かせた。そのため、大国主命は焼け死んでしまった。そのことを知って大国主命の母の刺国若比売は、息子を救おうとした。彼女は神皇産霊尊に救いを求めた。そのため、尊は訶虫貝(きさがい)比売と蛤貝(うむがい)比売の二人の娘を地上に送り、大国主命を助けた訶虫貝(きさがい)比売は佐太大神の母にあたる。

八十神は再び大国主命を殺そうと計った。大きな木を切り伏せてくさびを打って放ち、大国主命を木の間にはさんで殺したのだ。このときも、母の神が木を裂いて大国主命を助けた。母の神は、「お前がここにいると八十神に殺されるだろう」 と言い、彼を紀伊の五十猛命のもとに行かせた。しかし、八十神はそこまでも追ってきた。そのため、大国主命は根国の素箋鳴尊のもとに行くことにした。五十猛命は、素箋鳴尊に従って新羅に下ったのちに紀伊を平定したとされる神である。

 

大国主(おおくにぬし)命  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)       山への旅(15)へもどる

 大己貴(おおむなち)命(大汝命、大穴牟遅神とも書く)、八千矛神(やちほこのかみ)、顕国玉神(うつしくにだまのかみ)、大国玉神、葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ)、大物主神と七つの名(「紀」)を持った国つ神。素戔嗚尊の子(「紀」)また同神六世の孫(「記・紀」一書・「姓氏録」)、また同神七世の孫(「紀」一書)ともいう。出雲大社の祭神で、全国祭祀の神さまでは八播大神(応神天皇)に次いで多い。素妻鳴尊の女・須勢理比売(すせりひめ)はその妻。天つ神に対し国譲りの説話で知られる。*宝満山・開聞岳九州の山と伝説に戻る 

 

【古事記】   郷めぐり『宗像、筑豊、豊前』

        大国主命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)

        大国主命、神屋楯比賣命を娶して生める子、事代主神

【旧事本記】

        大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)、大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。 孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。

        三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。

【姓氏録】

        右京神別宗形朝臣大神朝臣同祖吾田片隅命後也

        河内国神別宗形君大国主命六世孫吾田片隅命後也

 

葦原中国の平定、大国主の国譲り(古事記)                杵島唱曲へもどる

        高御産巣日神と天照大御神が、平定に派遣した神々:天菩比神(紀、天穂日命)、天若日子(紀、天稚彦)、建御雷神と天鳥船神(紀、経津主神と武甕槌神

        中国の神々:事代主神の服従、建御名方神の服従、大国主神の国譲り。

        建御名方神は、建御雷神によって科野国州羽の海に追放された。

        諏訪神社:延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃國一之宮。

アメノオシホミミの命  もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 「記紀」にいうスサノオの命(「記」・健速須佐之男(たけはやすさのお)命、「紀」・素戔嗚(すさのお)尊)と、天照大御神(あまてらすおおみかみ;「紀」・天照大神)の誓約の神話がある。はじめに天照が、スサノオの十握剣(とつかのつるぎ)を三段に打ち折り、天之真名井(あめのまない)の水で清め、口で噛み吹き出すと、霧となって現われたのが三女神で、名をタキリビメの命(「記」・多紀理毘売(たきりひめ)命、「紀」・田心姫(たごりひめ))、イチキシマヒメの命(「記」・市寸島比売命、「紀」・市杵島姫(いちきしまひめ)、タギツヒメの命(「記」・湍津姫、「紀」・多岐都比売命)という、とある。そして今度は、スサノオが天照の500個の勾玉(「紀」・八坂瓊(やさかに)の五百箇の御統(みすまる))を貰い受け、天之真名井の水で清め、噛み吹き出すと、霧となって現われた神の名を、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつかちはやびあめのおしほみみ)命、(「紀」・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天忍骨(あまのおしほね)尊も同じ)という。このあとさらにアメノホヒの命(「紀」の天穂日(あめのほひ)命)、アマツヒコネの命(「紀」・天津彦根命)、イクツヒコネの命(「紀」・活津彦根命)、クマノクスビの命(「紀」・熊野櫞樟日(くまののくすび)命)ら、合わせて五男神が化生した、と述べる。このとき天照は、さきの三女神(のちの宗像の三女神)はスサノオの子神として授け、あとの五男神は、吾が子神なり、といった。従って天忍穂耳尊は、天照の第一皇子であり、天照はこの忍穂耳尊を、高天原から天降りさせるはずであった。それが、孫のニニギの命にかわった。英彦山の北岳に天降った主神が、この天忍穂耳尊である。*香春山英彦山

市杵島姫命もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 「延喜式神名帳」に筑前国宗像郡宗像神社三座と記し、三座神を田心姫(中津宮)、瑞津姫(辺津宮)、市杵島姫命(奥津宮)なり、という。「紀」には、天照大神と素養鳴尊の誓約で、大神は素養鳴尊の十握剣を三段に打ち折り、天真名井の清冽な井戸水を注いで清め、これを噛み、吹き出すと息が霧となって、生まれたのが三女神という。この三女神は素主鳴尊の子となり、次に素養鳴尊が大神の五○○個の玉を貰い、同じように清め、噛んて吹き出した目から生まれた正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊ら五柱の男神は、天照大神の御子とした。三女神は宗像の三宮に鎮座し、宗像君が奉斎した。また「紀」に三女神ははじめ葦原中国の宇佐島に天降り、いま海北の道中に在して道主貴(みちぬしのむち)という、これ筑紫の水沼君らの祭神なり、とも述べる。宗像の三女神は、一つには、宇佐八幡三座神の比売(ひめ)大神にも凝せられていたことがわかる。「文徳実録」によると、三女神は宇佐島に天降った神々で、宇佐八幡三座神の比売大神は、宗像の神と書いている。また、この三女神は宇佐に八幡大神が鎮座祭祀される以前から宇佐地方に鎮座する地主神である、とも記す。したがって、宗像神社に祭杷されたのは、宇佐島から再び宗像に天降ったからだともいい、このとき青い玉を奥つ宮に、紫の玉を中つ宮に、八尺只(やた)の鏡を辺つ宮に納め、三女神のご神体として祀ったので身形(みなかた)といい、のち改めて宗像とよんだという。宗像の神が海の守護神であり、航海の安全を守護する神であることから、宗像海人族の氏神として祀られたのもうなずける。仏説の本地垂迹説では、市杵島姫命を弁財天とするが、このことには種々論議がある。が、とにかく水神としている。この場合、市杵島姫命を垂迹身という。*脊振山 九州の山と伝説に戻る 

饒速日(にぎはやひ)命もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 「記」では邇芸速日命と書く。別称を櫛玉饒速日命ともいう。後世に物部氏の祖神。「日本書紀」によると、天磐船に乗って大和に下り、長髄彦の妹三炊屋(みかしきや)媛と結婚、子の可美真手(うましまで)命を生んだ。やがて神武天皇の御東征があり、天皇は長髄彦に、「汝の君という饒速日が、もし天つ神の子であるならぱ、その証拠を示せ」といわれた。長髄彦は答えて、「命の天羽羽矢一隻と、靱(ゆき)をご覧下さい」と天皇に見せたので、真の天つ神の子であることがわかった。そののち饒速日命は、長髄彦が天皇に帰順する意志がないと知り、これを殺して自ら天皇に降伏(帰順)したという。また「旧事本紀」にも、饒速日命の天降り物語が記されており、その天降りも最初は、河内国(大阪府)河上の哮峯(いかるがのみね)に降り、次いで大和(奈良)の烏見(とみ)の白庭山に遷り住んだとされている。この「旧事本紀」は、九−一○世紀ごろに作られた偽書とされている。*尾鈴山 九州の山と伝説に戻る
● 『旧事本紀』には万幡豊秋津師姫栲旛千千姫はニギハヤヒの母にあたるとされる。
長髄彦  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 トミビコとも言う(『古事記』)。登美、鳥見の字を当てる。妹の名は三炊屋媛、長髄姫あるいはトミヤヒメ。ニギハヤヒの妻。ニギハヤヒは、義兄・長髄彦を殺す。天磐船に乗って天降った、天孫・ニギハヤヒは、なぜ、大和の鳥見に居していたと思われる長髄彦と兄弟関係を結びながら、神武の大和入りに際して、義兄を殺すのか。ニギハヤヒは神武以前の「大和の王」である。しかし神武がニギハヤヒを征服すると、ニギハヤヒの〃天皇〃としての威霊を支えていた「トミビコ・トミヤヒメ」の兄妹神の力も滅びるのである。つまり長髄彦の死は、ニギハヤヒの神としての零落を示すのである。ここで、ニギハヤヒと長髄彦の関係は逆転する。長髄彦を殺したニギハヤヒは、その霊を祀らねばならぬ。故に彼は「霊部;モノノベ」(物部)となるのである。「神」は零落し、「神を祀る者」となる(折口信夫『鳥見彦・長髄彦』参照)
<<重層する文化、連続する意識へ  :白鳥伝説 谷川健一へ>>

ニニギの命もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 瓊々杵尊(「紀」)、邇々芸命(「記」)と書く。天照大神の子神天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊と、高皇産霊(たかみむすび)命の女、栲幡千々(たくはたちぢ)姫の間に生まれた皇子。つまり天照大神の孫である。日向国高千穂峰に降臨した天孫で知られる。二ニギの命の降臨神話は、命自身が稲穂の神格化である。「紀」では、天照大神が、命に〃斎庭(ゆには)の穂〃(神聖な田で獲れた稲穂を持たせて天降りさせている。降臨ののち命は、「木花咲耶姫(大山紙神の女)と結婚、海幸彦(火照命)、山幸彦(穂々出見命)を生む。降臨神話のなかに、はじめ天照大神は、わが子神天忍穂耳命を豊葦原の中つ国に天降りさせるつもりであったが、忍穂耳尊に孫(二ニギの命)が生まれたので、計画を変更して孫を降臨させたという。この不思議な降臨説話を解して、二つの降臨があったとする説もある。つまり天照の子忍穂耳尊と、高皇産霊尊の子二ニギの命の二人の天つ神の降臨である。忍穂耳尊の天降りは、九州豊前の霊峰英彦山(日子山)であったという説である。*英彦山尾鈴山可愛岳・紫尾山・野間岳・屋久島九州の山と伝説に戻る 

【古事記】もどる高木の神と天照大御神より、葦原中国への降臨を命じられたアマテラスの御子神である天忍穂耳命(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)は、自分の子供である邇邇藝命(天津日高日子番能邇邇藝命)に天孫降臨を命じます。邇邇藝命の母神は、高木の神のムスメで萬幡豊秋津師比賣命という名となっている。

        高皇産霊(たかみむすび)命(「紀」)=高木の神(「記」)

        栲幡千々(たくはたちぢ)姫(「紀」)=萬幡豊秋津師比賣命(「記」)

ニニギの命の母もどる【日本書紀】

        一書(@)にいう。天照大神は、思兼神の妹、万幡豊秋津姫命を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に娶あわせ、妃として葦原中国に降らされた。そこで勝連日天忍穂耳尊は、天の浮橋に立たれて、下を見下していわれるのに、「あの国はまだ平定されていない。使えない気の進まぬ平らでない国のようだ」とおっしゃって、再び帰り上って、詳しく天降られないわけをのべられた。このため天照大神がまた武甕槌神と経津主神を遣わして、先行して討ち払わさせられた。そこで二柱の神が出雲にお降りになって、大己貴神に問れれて、「お前はこの国を天神に奉る気はあるのかないのか」と。答えていわれるのに、「わが子の事代主が、鳥を射ちに三津の崎にいっています。今すぐ尋ねてご返事いたしましょう」と。そこで使いを送って尋ねた。答えていうのに、「天神の望まれるのを、どうして奉らないことがありましょうか」と。それで大己貴神は、その子の言葉をもって、二柱の神にお知らせした。二柱の神は天に上って、復命していうのに、「葦原中国は皆すでに平定しました」といわれた。ときに天照大神が勅していわれるのに、「もしそうならすぐわが子を降らせよう」と。まさに降らせられようとするときに、皇孫がお生まれになった。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊という。

        一書(E)にいう。天忍穂命は高皇産霊尊の娘、栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の娘、火之戸幡姫の子、千千姫命というのを娶とられた。そして天火明命を生んだ。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生んだ。その天火明命の子の天香山は、尾張連らの遠祖である。

        一書(F)にいう。高皇産霊尊の娘、天万栲幡千幡姫。一説では、高皇産霊尊の子、万幡姫の子玉依姫命。この神が天忍骨命の妃となって、子天之杵火火置瀬尊を生んだ。あるいは勝速日命の子、天大耳尊が丹潟(サンズイなし)姫を娶とって、子の火瓊瓊杵尊を生んだという。或いは神皇産霊尊の女、栲幡千幡姫が、子の火瓊瓊杵尊を生んだという。或いは天杵瀬尊は吾田津姫を撃とって子の火明命を生み、次に火夜織命、次に彦火火出見尊を生んだと。

        一書(G)にいう。正哉吾勝勝速日忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘、天万栲幡千幡姫を娶とり、子を生んだ。天照国照彦火明命と名づけた。これが尾張連らの遠祖である。次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊を生んだ。この神は大山紙神の娘、木花開耶姫を娶とって、子を生ませた。火酢芹命と彦火火出見尊である。

木花咲耶(このはなさくや)姫もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 皇孫瓊々岐命(ニニギの命)が日向の高千穂峰に天降りののち、笠紗の御前で美人に会う。名を訊ねると大山紙神の女で、神阿多都比売(かむあたつひめ;一名、木花咲耶姫) 注1) と答える。その父に女を請うと、父神は喜び姉女岩永比売(いわながひめ)をそえて多くの献上物を奉る。命は醜い姉を返し、妹を求められたので、父神はそれを恥じて申し上げた。「姉を差上げたのは、天つ神の御子の命が石のごとく永遠に続くようにという意味、妹は木の花が栄えるようにという意味でした」と。やがて咲耶姫は妊娠して出産するが、命は一夜だけで妊んだのを怪しみ、わが種ではあるまいと疑ったので、姫は「妊んだ子が、真の天つ神の子ならば安全な子でしょう」と、大きな殿に籠り、火を放って子を産む。火の盛んなときに生まれた子は火照命(ほでりのみこと)、次に火須勢理命(ほすせりのみこと)、次に火遠理命(ほおりのみこと;日子穂々出見命ひこほほでみのみこと)の三子であった(「記」。神話の海幸彦・山幸彦の海幸が長男の火照命(のち薩摩の隼人族の始祖となる)、山幸が火遠理命(ヒコホホデミの命)である。火遠理命が海神の女豊玉比売と結婚して皇孫鵜葺草葺不合命が生まれ、その子(四皇子)の四男が神倭伊波礼昆古命、つまり神武天皇である。*釈迦ケ岳・御前岳・可愛岳・
霧島山群・紫尾山・野問岳九州の山と伝説に戻る 
 注1) : 神吾田鹿葦津姫:かむあたかしつひめ

海幸彦・山幸彦もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 天照大神の孫神二ニギの命(瓊々杵尊)とコノハナサクヤ姫(木花咲耶)の夫婦神の間に生まれた火照命(ほでりのみこと)「紀」別伝一書の二、および同一書の六では火闌降命(ほのすせりのみこと)は、海幸彦として海の幸を漁とし、弟神の火遠理命(ほおりのみこと)(「記」・別名を日子穂々手見命;ひこほほでみのみこと)は、山幸彦として山の幸を猟としていた。ある日、兄弟は猟具を交換して夫々の猟場に出かけたが、弟は兄から預かった釣針を失ない、兄から返せと追られて海辺で泣いていた。そこに塩土翁(しおつちのおじ)がきて目無籠(まなしかつまの小船)をつくって海神の宮殿に行かせる。山幸彦はここで海神の女豊玉姫と結婚する。しかし、山幸彦は三年の間楽しい顔を見せなかったので、海神の綿津見神がその訳を間いて、鯛の喉にあった針をとりだして山幸彦に返した。やがて山幸彦は、綿津見神に塩満珠(しおみつたま)、塩乾珠(しおひるたま)をもらって鰐の背にのり、海神の宮殿から帰ってくる。そして、兄の火照命を二つの珠で降伏させた。そのとき火照命は、弟を昼夜守護すると誓って、遠く南海の地に去った。薩摩の隼人族はこの兄火照命の子孫だと伝えられる。これが神話に登場する海幸・山幸伝説である。*市房山・開聞岳九州の山と伝説に戻る 

塩土翁(しおつちのおじ)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 神話の海幸彦・山幸彦に登場する。山幸彦(火遠理命)は、兄に借りた釣針を失くし、兄海幸彦(火照命)から返せと追られ、海辺で泣いているところに、塩土翁がきてマナシカタマ(目無堅間)の小船(目無籠)を造って、命をのせ海に投じたので、命は海神の住む神宮に行く。この話は「記紀」にみえる。このうち「紀」第二の一書では、翁がもっている嚢(ふくろ)のなかから縦に長い櫛を取りだして地上に投げると、竹林に化し、その竹で籠をつくり、命をこの籠に入れて海に投じる、と語る。また「紀」の別書には、命が海辺で泣いていると、川鷹(かわかり;水鳥)がわなにかかっているのを助けた。しばらくして塩土翁が現われ、無目堅間の小船をつくって海におし出し、命は海神の宮に至るというのである。この物語から、川鷹はそもそもが塩土翁の化身であろう。さらに、「神武紀」のなかでも、天皇ら兄弟たちはこの塩土翁から、「東に美き国あり……」と聞いて東征を志すという一節がある。塩土翁というのは海の神霊であり、予言を司る神と思われる。*野間岳・開聞岳九州の山と伝説に戻る 

豊玉姫(とよたまひめ)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 「記紀」神話では、海神(豊玉彦とも綿津見の神ともいう)の女という。玉依姫は同じ海神の女で妹といわれている。この姫は、山幸彦・海幸彦の神話で知られる弟の山幸彦(穂々出見尊)と結婚し、姫は鵜葺草葺不合命(「記」)を生む。神話では、姫が御子を生むとき「決して覗いてはなりません」と堅く禁じたのに、命は、ついつい覗いてしまい、怒った姫は大鰐になって海神の国に帰ってしまったという。ところが、姫は命が忘れられず、妹の玉依姫を御子のお守り役として遣わした。その叔母にあたる玉依姫と御子の鵜葺草葺不合尊が結婚して、五瀬(いつせ)命、稲飯(いなひの)命、御毛沼(みけぬ)命、磐余彦(いわれびこ)尊という四柱の御子が生まれる。磐余彦尊が、のちの初代神武天皇である。本書中の油山の女神・豊玉姫が、同一神かどうかは不詳。なお兄の海幸彦(ホデリノ命ともスセリノ命ともいう)は、弟の山幸彦に帰順して薩摩の隼人族の始祖となって去った。*油山・宝満山・市房山・尾鈴山九州の山と伝説に戻る 

ウガヤフキアエズの命もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 鵜葺草葺不合命(「記」)、慈烏草葺不合尊「紀」)と書き、出生のとき産舎が鵜の羽で葺かれ、まだ葺き終らぬうちに生まれたのでその名がつけられたと伝える(「記紀」)。父は山幸彦の彦穂々出見命(ひこほほでみのみこと)、母を海神の女豊玉姫とする。皇子はのちに母の豊玉姫の妹玉依姫と結婚して、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、伊波礼彦命(いわれひこのみこと;初代神武天皇)の五皇子をもうける。*紫尾岳・開聞岳九州の山と伝説に戻る 

玉依姫(たまよりひめ)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

九州の八幡神社に祭祀される例が多く、日本神話のなかでも馴染み深い海の女神。「記紀』神話のなかでは、海神綿津見神の娘であり、姉娘豊玉姫の妹である。そして、天つ神の彦火々出見命と、海神の娘豊玉姫の夫婦神の問に生まれた鵜葺草葺不合命の妃で知られる。もともとが海神の娘ということから、水神ともなる。太宰府の背山である宝満山の神は、玉依姫でミクマリの神と称す水の女神である。この玉依の名を当てた活玉依毘売(いくたまよりびめ:大和三輸山の大物主神の妻)、また京都賀茂神社の縁起に出てくる玉依日売などは別神である。八幡神社に祭祀される玉依姫は、北部九州の八幡宮に多い。宇佐八幡三柱神のなかの比売大神に、玉依姫をあてているようであるが、一面では玉依姫が海神という北部九州のローカル的な存在に似合う神であることから、八幡三柱神の一神として併祭されているようである。*油山・宝満山・桜鳥九州の山と伝説に戻る 

五瀬命   梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 五瀬命は紀国・竃山に死す。殺したのは長髄彦である。五瀬の名は「巌稲;イツシネ」即ち稲を表す、という(岩波・日本古典文学大系『古事記』註)が どうか。五瀬命を祀る竃山神社(和歌山市・和田)を中世守ったのは「鵜飼家」である。五瀬命はこの土地のやはり産土神ではなかったか。『古事記』では長髄彦を殺し、エシキ・オトシキを撃ち、「戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね」と神武が歌った後、ニギハヤヒが登場する。五瀬命は、征服されて神武の中に取り込まれた威霊ではないか。竃山墓は紀国唯一の陵墓である。

神武天皇(かむやまといわれひこのみこと) もどる       阿蘇神話の神々の系譜へ 

その御子神には手研耳命、神八井耳命(健磐竜命の父神)、神沼河耳命(阿蘇12の宮、金凝神=綏靖2天皇)、研耳命、彦八井耳命(健磐竜命の妃の父神)がある。

神武天皇            もどる      直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より

 神秘的説話は初代の帝王にはつきものであって、それがあることは神武天皇の第一代天皇であることを示す証拠だというかもしれないが、それは論理が逆である。古代国家の第一代の王は、たとえば新羅の赫居世が大きな卵のなかから生まれたとか、河伯のむすめが日の影に感じて生んだのが高句蔑の東明王朱蒙であるとか、不思議な経歴をもつ人物が多いのは事実であるが、それは、現実に国家を支配している後代の国王が、自己の地位の尊厳を飾り、権威を高めるために、民間の説話や信仰を材料にして作りあげた物語にすぎない。

 いいかえると、古代国家における第一代の帝王の像は、現実に存在する後代の王をモデルとし、当時の信仰習俗にもとづいてこれを理想化して、作りあげられたものが多いのである。もちろんこうして作りあげられた帝王の像や帝王をめぐる物語は、それが作られた時代の帝王の性格や貴族の思想、あるいは民間の伝承ないし信仰の状況を知るのに、貴重な史料である。

初代の帝王は後代の帝王をモデルとして作られるといったが、神武天皇の場合は、ある一人の天皇だけをモデルとして指摘することはできない。それはモデルがなかったからではなくて、何代にもわたって、神武天皇像が塗りあげられたことを示すものであろう。しかし神武天皇の物語に関係する氏族を調べてみると、その物語がいつごろ作られたかがわかり、どの天皇たちがモデルとなったかを、ほぼ察することができる。

神武天皇の物語のなかで、もっとも重要な部分は、いうまでもなく神武が日向(宮崎県)を出発してから大和を平定するまでの東征物語であろう。

『古事記』 による東征の経過:

【イ】神武天皇は兄の五瀬命と高千穂宮で相談して、天下を治めるのによい所を求め、東をめざして、日向を出発する。

【ロ】豊の国(のちの豊前・豊後)で字沙都比古・字沙都比売に会い、筑紫の岡田宮に一年、阿岐(のちの安芸)の多郁理宮で七年、吉備の高島宮で八年をすごし、速吸門で塙根津日子に会い、浪速の渡(大阪)をへて、白肩の津(大阪府東大阪市枚岡付近か)に上陸し、大和へ入ろうとした。しかし登美の那賀須泥毘古の抵抗にあい、五瀬命は傷ついた。神武天皇は「日の神の御子として、日に向かって戦うのはよくない」といい、太陽を背にして戦うために、南方をまわることとした。その途中、紀国の男之水門で五瀬命は死んだ。

【ハ】一行が紀伊半島南部の熊野村に到ったとき、大きな熊に会い、その霊力に打たれたためか、一行はたちまち気力を失って倒れた。このとき熊野の高倉下が天神の下した刀を献じたので、一行は元気を回復し、進軍を開始した。

【ニ】一行は天神の下した八咫烏を道案内として進み、大和の吉野河の河尻に到り、贅持之子や井氷鹿に会い、さらに進んで石押分之子に迎えられ、宇陀(大和国字陀郡) に着いた。

【ホ】これから大和平定の戦いがはじまる。まず宇陀の兄宇迦斯・弟宇迦斯であるが、弟字迦斯の内応によって兄字迦斯の計略がわかり、彼は道臣命と大久米命によって殺される。忍坂では、土雲の八十建が大きな室にこもっていたが、八十膳夫(料理人)に刀を帯びさせ、八十建を安心させておいて一気にうち殺した。磯城(奈良盆地東南部)の首長の兄師木・弟師木をも、苦戦ののちに従えた。

【へ】邇芸速日命は天津瑞を献上して降伏した。彼は登美毘古(那賀須泥毘古)の妹登美夜毘売を妻とし、宇摩志麻遅命を生んだ。

【ト】神武天皇は大和の荒ぶる神どもを平定したので、畝火の白檮原宮にいて天下を治めた。

神武東征物語に関係する諸氏族をながめると、東征軍のもっとも有力な部将が大伴連の祖の道臣であることは明白といってよい。また、物部連の祖の邇速日命は、はじめからの従事者ではないが、神武の長大の強敵であった長髄彦を倒した点において、道臣命につぐ功績があるといえよう。大和侵入の先頭に立つのが大伴氏の道臣、最後まで抵抗する長髄彦を亡ぼすのが物部氏の饒速日命である。つまり神武天皇の大和平定物語において、もっとも功績がたたえられるのは、大伴・物部両氏の祖先なのである。

神武天皇  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

神武天皇もまた御子神として祀られる。母は玉依姫である。「天皇は現神(あきつかみ)で、もとは多くの神よりも更に高い御位であつた」(柳田國男『玉依姫考』)。神武天皇は「現神」として生まれ、辛酉(革命)の年に即位した、とされている。しかしそれよりももっと、その母なる人の、そして伯母なる人の、玉依姫、豊玉姫の名に、日本の天皇の本質がみえるのではないか。伯母であり、祖母である豊玉姫の夫は山幸彦であった。「海幸・山幸」の物語から日本の天皇は生まれている。神武は末子であった。

神武東征: 「神武」天皇の九州からの東征といふ物語には、ある時代の皇室の祖先の歴史的事実が反映してゐるだらうといふことは、だいたい史学人も承認する人が多い。何回かにわたる西から東への民族の移動‐‐それが大嘗祭の悠紀;ユキ(往き)・主基;スキ(退き)の呼称にも遺留してゐることは、かつて先師折口先生も論及してゐられる」(高崎正秀『建国神話をさぐる』)。「大嘗祭のをりの悠紀・主基の國が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ夾し方とに、大體当たって居るのも、わたしの想像を強めさせる」(折口信夫『批が國へ・常世へ』)。神武の東征は、単なる民族の移動ではない。神武は理想郷を目指して旅に出た。「其空想の國を、祖たちの語では常世と言うて居た」(折口『同』)。そのあくがれの国が「大和」の「畝火の白檮原宮」であった。「白檮原」とは奇しき宮、白き宮−即ち、最もスメラミコトの坐すにふさわしい聖地なのである。大和はかつて縄文の地としても栄えた良地であった。

皇位: 皇位に就くための儀式、「大嘗祭」には「歌」が歌われる。「昔は大嘗祭の時には、ゆき・すき二國からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其國の古歌を用ゐて居た。後には、其國から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、郡の歌人が代表して歌を作る様になつた」(折口信夫『大嘗祭の本義』)。平成二年(一九九○)の「大嘗祭」でも「風俗歌」即ち「国振り(国風)の歌」が歌われた。悠紀の国(秋田)、主基の国(大分)の〃名所〃が歌われた。その地を〃名〃をもって讃めることで、地霊と〃天皇〃は交感するのである。天皇と地霊との関係は「巡幸」に見られた。天皇は地方に行って、その国を讃めた。即ち「国見の歌」、国讃めである。地霊とは、穀霊のみを言うのではない。その地のすべての神、山の神、川の神、海の神を言うのである。

 

神八井耳命(かむやいみみのみこと)  もどる       阿蘇神話の神々の系譜へ     豊の国とヒタカにもどる      杵島唱曲へもどる

神武天皇の次男、「日本書紀」には意富(多)氏の祖とあり、「古事記」には多氏の祖の他※にも、阿蘇の君、大分の君、筑紫三家(みやけ)の連などや、この他にも多くの古代豪族の祖に擬せられている神。 

        多(意富、大生、)氏の同族【古事記】: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ひたち)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏

 多(意富、大生)氏の足跡

 

草部吉見神(くさかべよしみのかみ)、日子八井耳命(ひこやいみみのみこと)  もどる    阿蘇神話の神々の系譜へ   豊の国とヒタカにもどる    

阿蘇神話によると草部吉見神は神武天皇によって先に九州に派遣されていた日子八井耳命のことで、健磐竜命とは伯父甥の関係となる。阿蘇都媛(健磐竜命の妃)の父神。国龍命は日子八井耳命自身とも、その子とも言われる。

 

健磐竜(たけいわたつ)命 もどる (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)        豊の国とヒタカにもどる      杵島唱曲へもどる

神武天皇の孫とされる。一説によると、祖父の神武天皇を祭祀した宮崎神宮(旧官幣大社)には、命の創建記録がのこっている。父は神武天皇の二男、八井耳(やいみみ)命で一九人の皇子がいた。その人脈をみると、阿蘇君のほか、肥後・日向・大隅・薩摩を合せ統治したのが健磐竜命で六番目の皇子であった。また筑後・肥前は四男の火(肥)の君が治め、豊前・豊後国造を五男の大分君が統治した。阿蘇神社は、健磐竜命の臣であった速瓶玉(はやみかたま)命に、孝霊7天皇九年勅命があって、健磐竜命が祭祀された。同社を創建した速瓶玉命が合祀されたのは、景行12天皇以後である。また速瓶玉命は、健磐竜命の子神ともいわれる。 阿蘇神話の神々の系譜へ  阿蘇山 九州の山と伝説に戻る

 

大物主神(おおものぬしのかみ)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)    山への旅(15)へもどる

 大和三輪山(奈良県大三輪町)に鎮座するご神体。「紀」には、大国主命が国護りの後、八百万神の首領となり天孫をお助けする神とされる。つまり大物主神は、出雲系の神で大国主命の霊魂の神名という説。一方、「紀」にはこの神にまつわる〃神婚説話〃がある。大物主神は大和国御諸に住む蛇神だった。大物主神は丹塗矢(にぬりや)に化生して三島涅咋(みしまみぞくい)の女、勢夜陀多々良比売(せやだたたらひめ)のもとに通い、便所のなかで比売の陰処を矢で突いた。比売は驚いてその矢を取って床の問に置くと、矢は立派な美丈夫と化し、その比売と結婚して神武天皇の妃、伊須気余理比売(いすけよりひめ)を生んだという。また「紀」では、孝霊7天皇の皇女とされる倭迹々日百襲姫(やまとととひももせひめ)のもとに夜々通い、昼は見えないので、姫は朝まで引きとめて顔を見ようとした。神は姫の願いに、「明朝汝の櫛笥に入っていよう。わが姿を見で驚かないよう」といった。朝になり、姫が櫛笥を見ると小蛇がいたので驚いて叫んだ。神はもとの人の姿となって、「お前は私に恥をかかせた」と言って、大空を飛んで、御諸山に去った。姫は悲しみ悔恨の果て、自分の陰処を箸で突いて死んだという(「箸墓伝説」)。*雷山・宝満山九州の山と伝説に戻る

 

ホトタタライススキ媛  (記紀の考古学 朝日文庫 2006年 森浩一著より)  もどる       

丹塗り矢が女陰を突いて生まれたのが、タタライススキ媛だとする伝承を検討しよう。ぼくはこういう話は記紀のなかで語られているだけと若いころは思っていたが、それに関連すると推定される遺物がある。福岡市の西南部にある早良平野では、東よりに室見川、西よりに十郎川がそれぞれ北流して博多湾に注いでいるが、十郎川の左岸に拾六町ツイジ遺跡がある。この遺跡のX層からは二百五十点の木製品が出土していて、その一つが先の尖った細長い串(ヘラ) 状の木製品である。長さ約八五センチの木製品の先端に女陰が彫られていて、突の先につけたヤジリ (鏃) の鋒が、まさに陰部を突こうとしたようすを彫っている。奈良時代末から平安初期の遺物と推定されている。古代遺跡の多い福岡市域でも、早良平野は一つのまとまった地域とすることができ、その当否はともかくとして、弥生時代中期ごろに早良国″ の存在が想定されることもある。この木製品の出土によって、丹塗り矢伝説に関係あると推定される習俗が、実際にあったとみてよかろう。男根の象徴といわれる失と女性の陰部が結合すると、どうしてタタライススキ媛の誕生になるのだろうか。

早良平野とその周辺は、古代製鉄の確認される土地である。ぼくも十数年前、その地区の野方古墳群の発掘を見学したが、古墳の盛り土の下に製鉄遺跡があるのを見て、この地では六世紀に製鉄をしていると判断したことがある。製鉄遺跡は土器をのこすことが少なく、相対的な年代のわかる場合が多くないのである。早良平野の東方の粕(槽)屋郡には元、多々羅村があったし、糟屋川の別名が多々羅川だった。多々羅浜を漢字一字で鞴浜と書くこともある。ぽくはホトタタライススキ媛とは、記紀を合成すると、女陰(ホト)と蹈鞴(タタラ)、それに大便中を襲われたときの狼狽(イススキ)を名前のキーワードとみてよいと考える。

 

倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)       山への旅(15)へもどる

 孝霊7帝の皇女とされ、霊感があってしばしば10代崇神天皇をたすけて天下を安泰においた、と伝えられる。大和大三輪氏(大神氏)の祖大田々根子(おおたたねこ)をして、三輪山の霊神・大物主神を祀らせ、疫病を鎮めた大物主神がこの姫にのり移って託宣を下したからである。また一説では、有名な邪馬台国の女王・卑弥呼をこの姫にあてている。昭和初期の学者笠井新也氏で、おおむね邪馬台国大和説の京都大学派の学説の特徴という(桑田忠親氏の説)。そのほか東京文理大の肥後和男氏も同様で、同氏は崇神10天皇を補した姫の時代を三世紀の前半とみたことで、崇神天皇と卑弥呼は、同時代の人物と推定している(伝説の箸墓の「紀」説は「大物主神」の項参照)。*宝満山

 

欠史8代

綏靖

神沼河耳命

阿蘇十二の宮、 神武の子(母=ホトタタライススキ媛):  金凝神  

葛城高岡宮

安寧

師木津日子玉手見命

 

片塩浮穴宮

懿徳

大倭日子鉏友命

 

軽境岡宮

孝昭

御眞津日子訶恵志根命

 

葛城掖上宮

考安

大倭帯日子国押人命

 

葛城室秋津島宮

考霊

大倭根子日子賦斗邇命

 

黒田廬戸宮

考元

大倭根子日子国玖琉命

 

軽堺原宮

開化

若倭根子日子大毘毘命

 

春日伊邪河宮

 

 

三輪王権  もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)

ミマキイリ彦の物語は、奈良盆地南東の三輪山を仰ぎ見る磯城の地域(のちの城上・式上と城下・式下)を中心に展開する。『紀』では、ミマキイリ彦の都は磯城にあって瑞籬宮、『記』には師木水垣宮とある。水垣を水をたたえた囲郭と解釈すると、弥生時代の大集落にともなう環濠ではないかという見方も生まれるが、三輪山の山麓ではまだ該当しそうな環濠集落の遺跡は見つかっていない。この例にかぎらず、居住地遺跡と記紀などの史料との対応は、古墳にくらべると全般に進んでいない。これも本書で取りあげるヲホド王(継体大王)にしても、葬られた藍野陵については、特定の古墳.(今城塚)に候補地がしぼられているのにたいして、居住地としての樟葉宮、筒城宮、弟国宮などは、まだ考古学的な遺跡としての候補が浮かんでいない。古墳時代後期の実在に疑問のない大王についても、このようなアンバランスがあるのだから、ミマキイリ彦の居住地について遺跡の候補がしぼり切れないのは、残念なことだが現状ではやむをえない。
 磯城の地域には、三世紀後半にはじまり四世紀代に造営された前方後円墳や前方後方墳が、南北に帯状を呈して点在している。もちろん個々の古墳と墓の主(被葬者)の名との対比はなお問題があるにしても、古墳の規模からみて王墓とよぶにふさわしいものが六基あって、この時期に日本列島で抜きん出た王権がこの地域にあったことは事実とみてよかろう。古墳研究と記紀の伝承の両方から想定されるこの王権にたいして三輪王権 イリ王権 初瀬王権あるいは水野祐氏の提唱する古王朝など、名称は異なるけれども、それぞれの内容には大きな違いはないとみている。以下、聖なる実在の山に象徴させ三輪王権の名称を使うことにする。
 大和古墳群(大和古墳群、柳本古墳群、三輪(纏向)古墳群)の特色・・・・古墳文化の突然の出現、葺石型墳丘墓(出雲世界の影響)、円筒埴輪(吉備世界の影響)、古墳内副葬品(北部九州西地域の影響)

崇神天皇(ミマキ(御間城・御真木)入彦イニエ(五十瓊殖) )  もどる  天皇家と卑弥呼の系図  澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より
  崇神天皇の名前は「ミマキ・イリヒコ」だ。そして、その近縁には「イリ」が付く名前の者が多い。この天皇には、三人の后妃がいる。皇后は、祖父とされる孝元の子のオオヒコ (大彦命) の娘のミマキ(御間城。『古事記』では、御真津比売)姫で、その子には、次の垂仁天皇になったイクメ (活目・伊玖米) イリヒコと他に五人(『古事記』では十一人) の皇子・皇女がいる。次に、紀伊(和歌山県) のアラカワトベ (荒河戸畔・戸弁) の娘のトオツアユ・メマグワシ (遠津年魚眼眼妙)姫との間に、トヨキ(豊城・豊木)イリヒコとトヨスキ(豊鋤)イリヒコの二人の皇子がいる。そして、尾張のオオアマ (大海)媛との間に、ヤサカ (八坂) イリヒコとメナキ (浮名城・沼木)イリヒメとトイチニ(十市壊) イリヒメの二人の皇女がいる。
 崇神天皇の時代の事件として、「出雲の神宝収奪事件」の記事が 『日本書紀』 に詳しく載っている。
@ 即位六十年、天皇は「出雲の神宝が欲しい」と言い、矢田部造の祖の武諸隅を出雲に派遣する。
A 出雲の王者の振根は、当時、筑紫に行っていて不在だったので、弟の飯入根は神宝を献上する。
B 帰って来た振根は、そのことを怒り、川原で水浴し、欺いて弟を殺す。
C その事実が天皇側に伝わったので、新たに吉備津彦と武浮河別が出雲に派遣され、振根は殺されてしまう。この振根の子孫が後に、出雲臣として大和王朝に仕えることになる。
 この記事は、『日本書紀』 に載っている記述の中で、地域・人名の伴った歴史的事件として最初のものだ。話が具体的なだけに真実を語っているように見えるが、果して崇神天皇の時代の出来事をそのまま伝えているかどうかは、にわかに判定できない。実は、四〜五世紀にかけて行なわれた大和王朝による出雲征服戦争のことを、一つの事件として描いたものかもしれない。しかし、まったくの虚構ではなく、確実な伝承を素材として綴った作文という考えも成り立つだろう。
 ところが、この話は「天孫降臨」に先立つ神話として、「出雲の国譲り」として語られているものとよく似ている。そこで、「出雲神話」の筋を見てみよう。それは次のようになっている。
@高天原は、「出雪の統治権を譲れ」というので、アメノホヒ(天穂日命・天菩日命)を出雪のオオクニヌシ (大国主命) のところに派遣する。
Aところが、アメノホヒは命令を果たさなかったので、フツヌシ(経津主命。『古事記』では天鳥船)とタケミカヅチ(武襲槌命・建御雷之男神)が出雲に派遣され、剣を誇示して談判する。
Bオオクニヌシは、息子のコトシロヌシ(事代主命)と相談して国譲りに応じる。
Cコトシロメシの兄弟のタケミナカタ(建御名方神)は、国譲りに不満だったので力比べを挑んだが敗れ、信濃(長野県)の諏訪まで逃れ、その土地の神になってしまう(『古事記』)。
 この二つの話は、全く同じとは言えないが、明らかに前者を下敷きにして後者の「神話」が構成されていることは間違いない。現在も出雲大社の神官である千家の祖先の出雲臣家は、神話に出てくるアメノホヒの子孫だとする系図をもっているからだ。

垂仁天皇(イクメイリヒコイサチもどる  天皇家と卑弥呼の系図  澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より

「初国しらすスメラミコト」第十代崇神天皇ミマキ(御間城・御真木)入彦イニエ(五十瓊殖) の次には、その子とされるイクメ (活目・伊玖米)入彦イサチ(五十狭茅・伊沙知)が即位して垂仁天皇となったと『記・紀』は記している。しかし、崇神が「入り婿」であったと同じく、この天皇も、ただちに崇神の子だったとしてよいというわけにはいかない。その実在性についてさえ大きな疑問がある。
 @ この天皇についての『日本書紀』 の記事は、父の崇神天皇のものを、固有名詞を変えただけのものだと言いたくなるほど、そっくりになっている。すなわち、名前も父がイニエで子がイサチであるのはいいとしても、父の崇神が叔父の埴安彦の反逆を受けたのに対し、子の垂仁は妻の兄の狭穂(沙本)彦に叛かれている。前代には出雲の神宝の収奪があったが、今度は天の日矛の神宝を奪っている。その他、法制を整えたり、地溝を開発したりしていることは両者に共通しているし、アマテラス(天照)大神に皇女を付けて他の土地に遷したことも同じだ。崇神が「四道将軍」を派遣したのに対し、垂仁は、内容的には少し異っているが、田道間守を常世国に派遣して非時香菓を求めに行かせている。前者には、ツヌガアラシトの来朝の記事があり、後者にはヒボコが来たという話が載っている。崇神と垂仁は同一人物だとさえ言いたくなる。
 A 垂仁の皇妃は、第二十六代の継体天皇の后妃とそっくりだ。どちらも三尾氏の祖とされる男(垂仁の場合は刈羽田刀弁=カリハタトベ、継体の場合は加多夫=カタブ)の娘をそれぞれ二人ずつ妃にしている。これは偶然の一致とは言えない。それだけではなく、后妃の数は同じだし、子の数もほぼ共通している。
 つまり、垂仁天皇についての伝承はほとんど無に等しかったのだろう。そこで、『記・紀』の編者は崇神の記事を換骨奪胎して「垂仁紀」を飾り、継体の系譜の固有名詞を入れ換えて垂仁の係累に当てはめたのだと言いたくなる。したがって、こと『日本書紀』に関する限り、この天皇の記事の内容をいくら分析しても、三世紀後半から四世紀初めのわが国の状況を導き出すことは不可能だというべきことになる。

垂仁天皇(イクメイリヒコイサチもどる  天皇家と卑弥呼の系図  澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より
  醜い姫が退けられ、美しい姫が召された話《イワナガ姫の話》と、燃える火の中から皇子が生まれるという話《「三火神の誕生」の話》のモチーフは、実は、『記・紀』の第十一代の垂仁天皇の時代に描かれている歴史上の出来事の場合とピッタリ一致している。垂仁天皇には、サホ姫(狭穂姫・沙本毘売)という皇后がいた。サホ姫の兄のサホ彦☆は妹に向かつて、「夫の天皇と兄の自分と、どちらを愛しているか〜」と尋ね、ついに妹のサホ姫に天皇を暗殺することを命じる。しかし、姫は寝ている天皇を刺すことができず、この陰謀は露見してしまう。そこで、この兄妹は天皇の軍隊に囲まれ、稲城の中で火をかけられて焼き殺されてしまう。その時、姫は、炎の中で子どもを産み、その愛児を差し出して命乞いをする。こうして助けられたのがホムツワケ(誉津別・品牟都和気)という生まれつき唖の皇子だった。この皇子は、名前が応神天皇の幼名のホムダワケ(誉田別・品陀和気)に似ているだけでなく、成長した後に、鳥を追って諸国を経めぐり、ついに但馬の国でそれを捕え、皇子もやっと口がきけるようになった、というはなはだ理解しがたいエピソードが付いている。
 さて、その後、垂仁天皇は二度目の皇后を迎えるが、『日本書紀』では、焼き殺されたサホ姫が推薦した丹波の五人の女たちのうち、顔の醜いタカノ姫(竹野媛)を返し、そのうちのヒバス姫(日葉酢媛・氷羽州比売)を皇后とし、三人を妃としている(吉事記)では、召された女は四名で、返された女の名は違う)。垂仁天皇については、いずれ検討するが、この話はコノハナサクヤ姫の話と似ている。

☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王(開化の子)とサホノオオクラミトメ(その母は春日建国勝戸売)の間に生まれたとしている。

野見宿禰 『相撲』    もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)        河童と古代氏族にもどる
 
『紀』では、サホ彦とサホ姫の死のあとに相撲の話がくる。ぼくは和歌山市の井辺八幡山古墳で力士の埴輪を発掘したことがあり、古墳時代の相撲のことについて何度か意見を述べた。今日では相撲といえば、スポーツとしてとらえられているが、人の死、それも突然の死とか不慮の死とかにさいして、鎮魂のために相撲をとらせたことがあったようである。イクメイリ彦にとって、皇后の死はいたましいできごとであったし、サホ彦との戦いで命を落とした人もいたであろう。 『紀』の相撲の話に戻る。当麻邑に当麻蹶速という強力者がいた。イタメイリ彦は「蹶速は天下の力士である。これに匹敵する人がいるだろうか」というと、一人の役人が「出雲に勇士がいます。野見宿禰といいます。ためしにこの男を召して、蹶速と戦わせましょう」ということになり、前章に登場した倭直の祖である長尾市が野見宿禰の召喚にでかけた。野見宿禰は出雲よりやってきて、「すまい:(手偏に角と力)」をとった。余談になるが、鴨緑江畔の集安にある高句麗古墳の壁画に相撲の場面があり、それにちなんで角抵塚と名付けられている。五世紀の古墳である。角抵は角觝とも書き、『和名抄』(和名類衆抄)では「今の相撲なり」としている。
 二人は相対して立ち、二人とも足をあげて相「蹶」った。蹶にルビをつけたい。「ふむ」と普通は読ませているが、ぼくは「ける」と仮に読みたい。野見宿禰は蹶速の脇骨を蹶り折り、さらに腰を踏み折って殺してしまった。そこで蹶速の地を奪って野見宿禰にあたえた。このようにして、野見宿禰はヤマトにとどまって仕えるようになつた。 以上が『紀』のあらましである。
 先ほどもふれたことだが、井辺八幡山古墳で力士の埴輪が出土したときに、相撲について関心をもった。この古墳は、墳丘の長さ約八八メートル、六世紀初頭の前方後円墳で、力士の埴輪は、くびれ部の造出に置かれていた。発掘の報告書は一九七二年に『井辺八幡山古墳』(和歌山市教育委員会・同志社大学)と題して出版し、そのなかの「遺物を通しての文化の問題」のなかで、相撲をとりあげ、皇極元年(六四二)に百済の大使翹岐の前で健児に命じて相撲をとらせている『紀』の文章を引いた。注意してよいのは、大使の児と従者の一人が死に、児を河内の石川に葬ったとする記事のあとに相撲がおこなわれていることで、葬儀にさいしての鎮魂の一例とみた。今回、蹶速と野見宿禰との相撲もその例になるように感じた。記紀は何度読んでも、新たに気づくことがある。
 考古学資料によれば、相撲の古い例は井辺八幡山古墳の力士埴輪であり、それより少し新しい装飾付須恵器にはしばしば相撲のようすが立体的に造形されている。とはいえ五世紀以前には、人物埴輪がなく、人物や動物の小像をつけた土器もなく、古墳に壁画を措くこともなかったから、相撲についての考古学資料がないわけであり、今のところ、考古学資料がないから相撲がなかったとはいい切れない。
 野見宿禰について、『播磨国風土記』の揖保郡の条に興味ぶかい伝説がある。 立野 立野と号くる所以は、昔、土師弩美宿禰、出雲国に往来いて、早(日下)部野に宿り、乃ち病を得て死せり。その時、出雲の国人が来到たりて、人衆を連ね立て運び伝え、川の礫を上げて墓山を作る。故、立野と号く、すなわちその墓屋を号けて出雲の墓屋となす。この立野は今日の兵庫県龍野市、この伝説からヤマトと出雲との交通ルートの一つがわかる。

野見宿禰 『殉死と人型、馬型埴輪の起源』   もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)      河童と古代氏族にもどる
 サホ姫の死にのぞんでの指示というか希望によって、イタメイリ彦の新しい皇后が決まった。『紀』によると、丹波から五人の女がめしだされ、ヒバス (日葉酢)姫が皇后となり、三人の妹は妃になつた。
 イクメイリ彦の女の扱い方が、ここでもまずかった。というのは、美人でなかった竹野姫だけを国元に帰した (『記』 では二人を帰している)。そこで、竹野姫は葛野(京都市西部)まで来たとき、自ら輿より堕ちて死んだ。おそらく身を投げたのであろう。そのことにちなんで堕国の地名がつき、のち弟国(今日は乙訓) というようになつた。弟国は、六世紀に継体大王が都を置いた土地である。
 『記』 にも弟国のことはでているが、死んだのはマトノ姫 (円野比売) で、帰国させられることが決まり、「兄弟のうち、姿が醜いという理由で帰されると、隣里にも聞こえるだろう。恥ずかしいことだ」といって、弟国へ着く前に、山代国の相楽(京都府南部) で、木に首をつって自殺しょうとした。相楽の地名も首の懸った木からついたという。相楽郡は、木津川の両岸に及ぶ地域だが、弟国への古代の交通路からみて、今日の精華町祝園あたりがこの話にふさわしい。なおイクメイリ彦の妻たちは、丹波の出である。丹波についても考えねばならないことは多いが、ここでは省く。
 ヒバス姫が死んだ。イタメイリ彦は葬り方に関して、「殉死がよくないことを経験している。今回はどうしようか」と重臣たちに意見を求めた。というのは、その数年前に、イクメイリ彦の弟の倭彦が死に、身狭の桃花鳥坂に葬ったとき、近習者たちを生きながら陵域に埋めたところ、何日たっても生きていて、昼も夜も泣いたり呻いたりした。そのうちに死んで腐りだすと、犬や鳥がその肉を食べだした。イクメイリ彦はそのことで心に悲しい傷をうけ、殉死は、古からの風とはいえ、今後はやめようといっていた。
 『三国志』の倭人条には女王ヒミコの死にさいして、大いに家を作ったとする記事のなかで「絢葬者奴婢百余人」とある。『紀』の編者がその記事を参考にして、殉死を「古の風」としたのか、それとも実在していたかの問題の究明は今後にまたれる。なお身狭は、高市郡の見瀬と推定され、ツキ坂は橿原市の新沢千塚を含む一帯、桝山古墳(方墳)が倭彦を葬った地にあてられている。
 ヒバス姫の造墓にさいして、野見宿禰の建策によって、出雲国の土部(土師部)百人をよびよせ、人と馬やさまざまの形の土物をつくつたのが埴輪で、野見宿禰の子孫の土師氏が喪葬のことを司るようになったという。この伝説は、人や馬などの埴輪についての起源を語っていて、円筒埴輪の起源とは別である。土師氏については、いずれ先で扱うことにする。なおヒバス姫の墓は、奈良市の佐紀古墳群(『記』では狭木の寺間陵)にある。そこはサホ姫の実家のテリトリーの一画であり、死後まで目のとどく範囲に葬られた。

参考記事: 天武朝と隼人    竹の民俗誌 沖浦和光著 岩波新書(1991)より

景行天皇もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 皇統系譜では第12代天皇。名は大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)天皇と申す。史上では皇子の日本武尊とともに天皇の九州親征は有名である。「紀」をはじめ「豊後国風土記」、「肥前国風土記」に登場する天皇の九州親征の伝説は、ほぼ全土に分布する。 *耳納連山・八幡岳・阿蘇山 九州の山と伝説に戻る  ☆景行天皇と日向:日高正晴  ☆幻の九州王朝:古田武彦

ヤマトタケルもどる  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 伴信友『高橋氏文考註』に次の一文が載る。「薨後におよびて、こゝにしも殊さらに御幼名をもて記せるは、父天皇の愛子とおもほせる御情より詔へる御口語を、感深く聞継ぎ語傅へたる言の遺れるものなるベし」---『日本書紀』では、ヤマトタケルの父・景行12天皇はこの皇子の死を哀しみ「我が子小碓王;をうすのみこ」とその「幼名」を呼ぶ。 『常陸国風土記』では、景行12天皇自身がこの地まで出かけている。そしてここで「小碓」は「倭武の天皇;やまとたけるのすめらみこと」と呼ばれている。『高橋氏文』は「父の嘆き」を書き留める。高橋氏の祖は景行天皇に仕えた「膳臣;かしわでのおみ」である。海人である。この氏は「八百比丘尼」の伝承も伝える。若狭を起点に「東国のヤマトタケル」を考えたい。

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 南朝鮮の新羅王子といわれ、『紀』にある天之日矛(天日槍)の渡来説のなかで、石が美女となって現われ王子と結婚するという説話に、この人物は額に角のある人と伝えている。『播磨国風土記』では、神代の昔、彼は天日槍命として、大汝命(おおなむちのみこと:大国主命の別名)と相競う強力な神とされている。*香春岳 九州の山と伝説に戻る 

天日槍とその妻(阿加流比売、赤留比売:あかるひめ)もどる(日本の神々、谷川健一著、岩波新書、1999年より)
   朝鮮からの渡来人集団  金属製の祭器を人格化  蹴裂伝説  日光感精説話と卵生説話
 朝鮮からの渡来人集団 朝鮮からの渡来人集団の中で、記紀に最もとりあげられているのは天日槍(天之日予、天日桙とも書く)であろう。天日槍は「日本書紀」の記述によって、ツヌガノアラシトと同一人物と目される。「筑前国風土記」逸文に「高麗の国の意呂(おろ)山に、天より降り来し日桙の苗裔(すえ)、五十迹手(いとて)これなり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山(ウルサン)にある。意呂というのは泉を意味するという。五十跡手は、「日本書紀」によれば、「伊覩県主の祖」となっている。このように天日槍の苗裔と称するものが、伊都(覩)国にいたという伝承は、天日槍の上陸地が糸島半島であったことを物語る。ツヌガノアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。天日槍は瀬戸内海を東漸したようにも思えるが、日本海から播磨の西部に南下したという説もあって、その足跡を明僚にたどることはむずかしいが、天日槍の妻の足どりは、ややはっきりしている。「古事記」は天日槍の妻が夫といさかいしたあと日本に逃げてきて、のちには、難波にとどまり、比売碁曾(ひめこそ)神社の阿加流比売(あかるひめ)神になったことを伝えている。「日本書紀」には、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の妻となっており、同じように日本国にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡の比売語曾神社の神ともなって二箇所に祀られている、と記されている。福岡県糸島郡の前原町高祖に高祖神社がある。もとは高磯神社と呼ばれ、天日槍の妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾神祠がある。さきの「日本書紀」の記述に見える神社である。私もそこを訪れてみたが、海岸のさぴしい空地に小さな神社がひっそりと立っていた。「摂津国風土記」逸文によると、天日槍の妻は大分県の姫島にいても、なお夫の天目槍が自分を追いかけてくるような気がしたので、摂津の比売島松原まで逃げてそこにとどまった、とある。大阪市西淀川区姫島町に姫島神社がある。朱塗りのはでやかな神社である。しかしそこが往古の比売島と断ずる訳にはゆかない。大阪市東成区東小橋南之町にも比売許曾神社がある。また大阪市東住吉区平野三十歩町に赤留比売(あかるひめ)命神社が鎮座している。
 金属製の祭器を人格化 天日槍という名は多くの人が指摘するように、中国や朝鮮名にふさわしくない日本名である。「日本書紀」に次の記事がある。石凝姥(いしごりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全にはぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所生(ましま)す日前神(ひのくまのかみ)なり。これをみると、日予というのは日前神社の鏡とおなじく銅製のものであったことが推潮される。「古語拾遣」には鐸をつけた予という表現があるが、大和の穴師の兵主神社には日予または鈴をつけた予が御神体として祀られている。こうしたことから天日槍(天日予)も、金属製の祭器を人格化したものにすぎないと思われる。たしかにその事蹟をたどるとき、播磨でも、近江、若狭、但馬でも金属に関連があることがうかがわれる。たとえば、天日槍が近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長村とよばれ、息長一族の本拠であった。天日槍の従人たちが住んだという鏡谷の近くの三上山麓の御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛治の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は息長水依比売であるから、息長氏とも関係があることは疑えない。
 蹴裂伝説 また、近江国伊香(いかご)郡中郷(なかのごう)村の鉛練比古(えれひこ)神社はその社名からして、金属に由縁があるが、伴信友の考証によると、天日槍を祀るとされている。「近江伊香郡志」には、天日槍は中郷にとどまって、坂口郷の山を切り、余呉湖の水を排して湖を四分の一にちぢめ、田畑を開拓して余呉庄と名づけたという伝説を記している。これを蹴裂伝説といい、鉄器を便用して開墾や開拓を行うことを暗示しているのであるが、天日槍は、但馬の城崎、豊岡一帯の湖水の開鑿をこころみ、床之尾山(鉄鈷山)の鉄で作った盤をもって、円山川の川口の瀬戸を切り裂いたという伝承がある。
 日光感精説話と卵生説話 「古事記」によると新羅の阿具沼のほとりで女が昼寝しているとき、日の光に感精して産んだ玉の化身が天日槍の妻なのであった。この話には日光感精説話と卵生説話の両方の要素が見られる。太陽神の妻、すなわち日の妻から生まれた子が日槍の妻である。難波の比売こそ神社に鎮座して阿加流比売という神号をたてまつられたのも、太陽との関係があるからだろう。阿加流比売を下照姫と異名同神とする説がある。下照姫は前にも述べたように、「照」の字がつくことから巫女とみなしても差し支えなく、日槍の妻の阿加流比売も巫女と見てもよい。天日槍の妻は糸鳥半島から姫島に移動するまえに、福岡県田川郡の香春に足をとどめたようである。そこに新羅の神が宿ったことは「豊前国風土記」逸文にも見える。香春の北にある採銅所はその地名の通り、古くから銅山で知られている。また香春の近くに赤という集落もある。『地名辞書』によると、赤に鎮座する八幡の縁起に、上古この嶺の頂上が震動して鳴りとどろき、赤光を放ち、神霊があらわれた。よって「明流の神岳」と称し、その里を赤村といったという。これはもちろん付会にすぎない。むしろ「阿加流比売」とのつながりを考えるのが自然である。天日槍(天日矛)はもともと太陽神を祀る金属製の祭器であり、その矛をもって跳躍し神がかる明る姫と称する巫女がいたのであったろう。こうして見ると天日槍とその妻の物語は太陽神の巫女の話であると共に、また朝鮮半島から渡来した青銅や鉄の生産技術に長じた一群の人々の物語でもあったと考えられるのである。九州の山と伝説に戻る

 

田道間守     もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)

『記』の話をつづける。ヒボコは、ヤマトの海への門戸である難波で、ヤマト入りを拒否された。そこで多遅磨国(のちの表記での但馬国)に入って、土地(『紀』では出石)の女と結婚して、生まれたのがタジマモロスク(多遅摩母呂須玖、『紀』では但馬諸助)であり、その子孫にタジマモリ(多遅麻毛理、『紀』での田道間守)がいる。タジマモリについては後で述べる。さらに子孫の一人に葛城の高額比売がおり、いずれ先で取りあげる息長帯比売(神功皇后)の母である。ただしこの話は『紀』にはないが、神功皇后はホムタ別(応神)の母、ホムタ別に渡来人系の血が流れているとする根強い伝承のあったことは事実としてよかろう。

但馬は、考古学の遺跡、とくに古墳の数の多い土地であり、確認されただけでも約五千基の古墳があるという。兵庫県全体での古墳の数が約九千基だから、耕地面積の割にはたいへん多い。また考古学研究の盛んな土地で、豊岡市、八鹿町、城崎町などでのシンポジウムや講演にでかける機会もあって、どうしてもヒボコについて考えねばならなくなった。その記録の一つが『よみがえる古代の但馬』 (船田企画、一九八一年)という書物になっている。

ぼくが疑問に思うのは、ヒボコが最終的に拠点とするのは但馬ではあるが、果たして朝鮮半島、北部九州、豊後から瀬戸内海を通って難波、そこから但馬というルートを通ったのかそれとも日本海沿岸の但馬(もちろん越前・若狭・丹後・出雲も含め)と大陸とが結ばれていたのではないかということである。たとえば兵庫県豊岡市の大師山古墳群には百基ほどの古墳が群集しているが、各地で見かける横穴式石室ではなく、朝鮮半島南部の加羅に多い竪穴系横口式石室が古墳群構成の中心をなしている。付近に加陽(かや)の地名もあって、故郷の墓制を強くのこした渡来系集団の墓地とみてよかろう。

 『紀』によれば、イクメイリ彦は晩年に田道間守を常世国に遣わして、非時の香菓を入手させている。タジマモリは、おそらく但馬守、ヒボコの末商であり、この香菓は橘(柑橘類)のことだと 『紀』 は説明している。 田道間守は、『紀』によると、イクメイリ彦の死の翌年に、常世固から非時の香菓をもって帰った。 ヒボコの後商の田道問守を始祖とするのが三宅連だとして、但馬のほか、どの地に居住していたのだろうか。もちろん、ミヤケは屯倉とか宮家とかが設けられていたためについた地名もあるだろうから、峻別しなければならない。『和名抄』によると、大和国城下郡に三宅郷がある。現在の奈良県三宅町であるが、隣接の川西町結崎は中世の糸井庄で、式内社の糸井神社が鎮座している。

『新撰姓氏録』の「大和国諸蕃」の項に「糸井造 新羅人 三宅連同祖 天日桙命の後なり」と記していて、糸井造をヒボコ系の新羅の渡来系氏族に分類している。先に但馬のヒポコ集団がヤマトにも居地をもっていたのではないかと書いたが、この三宅郷とその周辺がその有力候補である。そういえば、三宅町には但馬、石見、三河の国名地名が残っている。

三宅連は、はじめは三宅吉士をなのっていた。六七二年の壬申の乱のとき、吉野から尾張へと進む大海人皇子(のちの天武)側に伊勢の鈴鹿で加わったのが国司守の三宅連(このときは吉士)石床であり、その功によって六八二年に姓を吉士から連にかえている。天武朝には、三宅吉士入石なる人物が遣新羅の副使として新羅に派遣されているが、ヒボコ以来の家の伝統によったであろう。

今回は深く追究することはできないが、筑前の恰土の県主の祖五十跡手が自らを「高麗国意呂山に天より降り来りしヒボコ(日棒)の苗裔」となのっている(『筑前国風土記』逸文)。仲哀紀にも、伊都県主の祖五十跡手が天皇に屈伏した話がのこつている。 ここではヒボコが高麗(高句麗)と関係するものになっているが、朝鮮半島南部との地理的位置を考えると、伊都(伊親、恰土)の地にヒボコ勢力の根拠地があるのは当然のように考えられる。 そういえば、恰土郡の東にある早良郡には、郡の大領の三宅連黄金とか早良郡の額田郷の戸主の三家連息嶋など奈良時代の人名が散見する。三宅連黄金は、史料によっては三家連黄金とも表記しているので、三宅連に含めてよかろう。

ヒボコという人がいたか、それともヒボコに象徴されるような集団がいたのかはともかく、各地に強力な足跡をのこしているのは事実とみてよい。なお豊岡市や出石町では、ヒボコは土地の開拓者としての伝説をのこしているが、この由来はぼくにはわからない。

 

彦坐王 もどる  天皇家と卑弥呼の系図  澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より

ヒコイマス王の父は開化天皇だが、母はヒボコの住んでいた但馬の出石の隣の国の丹波の竹野媛だ。そして、ヒコイマス王は山城・近江と広い範囲の女を妃としている。祖父のヒボコが金属精錬の技術をもって近畿北部の大王的な勢力者だったとすれば、この「ヒコイマス王イコール斐泥」という仮説は、あながち荒唐無稽な妄想として斥けるわけにはいかないだろう。ヒコイマス王の子孫の日下部氏が丹波に勢力をもったことも理解しやすい。

こう考えれば、『日本書紀』が彦坐王の系譜を省略し、ヒボコ (日槍)の孫の斐泥の名を隠したことも理解できるし、あれだけの勢力をもっていたヒボコの子孫が極めて少なく、ヒコイマス王の子孫が多いことも皇統を尊重したからだと納得がいく。また、ヒコイマス・ヒボコ・ヒネそして日下部氏は、すべて「ヒ(日)」の文字を共有していることも自然だということになるだろう。ついでに、『姓氏録』には、和泉に新羅系帰化人の日根氏の名があることも指摘しておこう。このように、「ヒコイマス=ヒボコ説」が正しいと考えれば、「垂仁紀」の記事は貧弱とか偽作とかいうべきものではなく、「存在した真実の記録の隠蔽」だったことになる。私は、そう解釈したい。

こうして、垂仁天皇は実在したとしても、実権をもっていたのは、ヒボコ系だったと私は考える。奈良市の佐紀の丘には、ヒボコの子孫の神功皇后の陵墓とヒコイマス王の孫ヒバス姫(やはり「ヒ」の字が付く)陵墓とが美しい堀に囲まれて壮靂に築かれてある。それに対して垂仁天皇の陵とされるものは、その近くの低地に小ぢんまりと営まれている。

☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王(開化の子)とサホノオオクラミトメ(その母は春日建国勝戸売)の間に生まれたとしている。

☆「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている)。

☆もうひとつ、日下部には『新撰姓氏録』に“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”との伝承もある。

 

神功皇后もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 「記紀」によると、神功皇后の呼び名は、後世の誼号で、本名は息長足比売(おきながたらしひめ)命で、父は息長宿禰、母は葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)といった。父の息長宿禰は、九代開化天皇の四代曾孫とある。この息長というのは、近江国(滋賀県)坂田郡の地名といわれ、開化9天皇一代の彦坐王(ひこいます)の子孫治田(はるた)連という豪族の子孫が、やはり近江国の浅井郡に土着したとある(「新撰姓氏録」)。また母方の葛城高額媛は、父を多遅摩毛理(たじまもり)【古事記では多遅摩比多訶】、母は父の姪にあたる菅竃由良度美(すがかまゆらとみ)。多遅摩氏は但馬地方の豪族で、その祖は天之日矛といわれている。天之日矛は、新羅の渡来人で、「紀」の垂仁11天皇紀に見える有名な伝説上の人物。母方の葛城というのも、大和葛下(かつらぎのしも)郡(奈良県北葛城郡)といった地名で、高額も同郡の地名であろうといわれる。息長足比売が、仲哀14天皇の皇后になったのは、仲哀二(193)年正月で、天皇四六歳、皇后二四歳のときである。また戦前の皇后の崩御説話は、神功摂政六九(269)年というから一○○歳であった。以上は「記紀」の皇后出自説だが、とくに「紀」の編年史では、皇后を二〜三世紀の人物として、「魏志倭人伝」の卑弥呼の時代に一致させている。だが、三世紀前半に、大和朝廷が果して統一政権として存在していたかどうか。この時代は、皇后が征伐した南鮮には新羅も、百済も国家として成立していなかった(新羅、百済は四世紀後半の成立)。「魏志東夷伝」は、三世紀前半の朝鮮半島の情勢を伝えているのでも明らか。皇后を二〜三世紀の卑弥呼に凝した「紀」の記事は、年代にして120年ずらしたもので、実在性は疑わしいというのが定説となっている。しかし、神功皇后の実在性を是とすれば、四世紀半ば以降の人である。*脊振山・油山・若杉山・香春岳尾鈴山 九州の山と伝説に戻る 

神功皇后   梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

 「応神15天皇の母で、新羅遠征を行ったり、みずから摂政を行ったと伝えられる神功皇后は、息長タラシヒメであり、天智38・天武40両天皇の父である舒明34天皇は、息長タラシヒロヌカであった。諡号は生前の功績を讃える意味も含めて死後に贈る称号であるが、歴代天皇の和風諡号のうちに氏族名を含むものは、この息長氏の二例以外には見られない」(岡田精司『近江王朝‐‐継体天皇は近江の息長氏出身』)。 新羅遠征をした神功皇后には、「船・鮎・出産」がその伝承のキーワードとしてある。鮎は「鮎占」として用いられた。皇后の巫女的性格を物語る一例である。神功皇后と新羅人との関係が気になる。京・修学院、赤山禅院に祀られる新羅明神は泰山府君=冥界の神と同一視される。また舒明天皇の「国見」の儀式も、息長氏の特殊な能力を物語っていないか。

 「神功征韓伝承の前半は、古い従軍巫女伝承を素材としているが、それは住吉神の霊験譚である」(岡田精司『古代王権の祭祀と神話』)。住吉神は海神であるが、ここに神功皇后の伝承が加わると、八幡信仰の御子神(応神夫皇)の性格が表れる。即ち、住吉もまた天満の「渡辺」や「阿倍野」の「阿倍」と同様に「九十九王子」の「王子」の要素を強く持っていたと思われる。『続日本紀』の紀伊の「忍海手人大海ら兄弟六人」の外祖父が陰陽家・津守通ということ、津守氏が永く住吉の神主家であったことを、もう一度考えてみたい。

一人の尼が称徳48天皇の病を治しにやって来た。『水鏡』に忽然と登場する、この「尼」とは何者か。尼は巫女、その呪力で病魔を祓う。辛嶋勝氏の女たちは、宇佐八幡宮の巫女として活躍するが、その呪力は、辛嶋のシャーマン「豊国奇巫」「豊国法師」の系譜にあると思われる。豊国寄巫は雄略21天皇の御代に、豊国法師は用明31天皇の御代に宮中に人っている。彼らは〃医術〃をもって、天皇の傍にはべった。辛嶋の女たち‐‐乙日(目)、意布売、波豆米、久須女、志奈布女、輿曾女‐‐彼女たちは、豊国寄巫、豊国法師の職能即ち医術を継いだ。称徳天皇の病を治しに宮中に入った「一人の尼」とは、この辛嶋勝氏につながる女かも知れない。称徳48天皇の死の年、宝亀元年(七七○)、辛嶋氏の女たちは動いている。この宇佐八幡の巫女たちの活躍と八百比丘尼がダブる。若狭神明神社の八百比丘尼は、肥後の菊池氏と関わっている。これは後の伝承だが、菊池氏が特殊の能力を持つ者であることを考える時、この八百比丘尼の伝承は、南へと広がってゆく。菊池氏は忍者である(岡見正雄)。 

八百比丘尼の伝承の一つに、彼女は肥後の姫君で、神の啓示を受けて、菊池某を伴として、伊勢国へ渡った、という話がある。そこでまた啓示を得て、若狭・小浜の青井に渡った。菊池氏はずっと姫につき従った。姫は、青井で十二人の神の御子を生んだ―この「八百比丘尼」の伝承は、神功皇后と武内宿禰と胎中天皇の物語に似る。サニワとしての菊池氏と武内宿禰は、神の声に従って、肥後から若狭へ、あるいは「新羅遠征」へと「ヒメ」に旅を促す。ヒメたちは旅即ち旅行によって、初めて、神の子を得る。神功皇后は、子を宿して新羅に出かけたのではなく、神の子を産むための手続きとして新羅に行ったのである。八百比丘尼のもう一つの名「白比丘尼」は「白山」信仰に由来する(五来重『白比丘尼の椿』)。

胎中天皇  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

 応神15天皇は、母・神功皇后の胎内に在る時より既に「天皇」であった。神はしぱしば赤子であったり、幼児の姿であったりする。しかし、「胎中天皇」は赤子でも幼児でもない。「胎中天皇」(胎児)の神性はむしろ、母・神功皇后にある。身籠もった女性の神性である。コノハナサクヤはヒコボホデミ(山幸彦)を、豊玉姫はウガヤフキアエズ(神武天皇の父)を宿した時、「変身」する。彼女たちは神の子を宿したという自負のもとに出産する。その出産は異常出産である。コノハナサクヤは「火中」で、豊玉姫はワニと化して、「御子」を生む。神功皇后の「鎮懐石」も異常出産である。異常出産による誕生は〃スメラミコト〃のシルシであった。

 

八幡神     梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

福井県小浜市門前に在る棡山・明通寺の社宝に『彦火火出見尊絵巻』が伝わる。江戸時代の模写本であるが、原本は平安末期に遡るという。内容は彦火火出見尊即ち山幸彦と海神の娘・豊玉姫の婚姻説話である。この絵巻、元は「若州松永庄新八幡宮」に在った。八幡宮はヒメ・ヒコの信仰---をなり・ゑけりの神である。いつの時代にヒメが神功皇后となり、ヒコが応神天皇になったのか。おそらく、それは、聖武帝の「大仏造立」の時代。古い、名を負わぬ神々に名が与えられてゆくのが「大仏造立」を源とする黄金伝承の語り始められる時代であると思う。「八幡神」は西方の国からやって来た。あるいは海の向こうの「白い国」=新羅からやって来た。海の向こうの神々の座す場所は、若狭・小浜からも近い(佐渡はもっと近い。この地に黄金の産する不思議は何を語るのか)。若狭国一の宮・若狭彦神社の御祭神は、上社・彦火火出見尊=若狭彦神、下社・豊玉姫命=若狭姫神である。なぜ『彦火火出見尊絵巻』は、この若狭彦神社のものではないのか。なぜ八幡宮にあったのか。八幡宮の古い性格はやはり海神であろう。そして海の伝承は必ず〃山〃ヘ昇る。柳田國男の語る「炭焼小五郎」も、海の彼方からやって来たのかも知れない。しかしそれはどちらにしても古い古い物語である。海と山とは同体。「海幸・山幸」の物語はその証。八幡神の正体を知るもう一つの鍵は「放生会」にある。「放生会」は海の祭りである。『彦火火出見尊絵巻』が八幡宮にあったことを重視したい。因みに小浜男山に鎮座する八幡神社は、称徳天皇・神護景雲三年(七六九)、宇佐八幡より勧請と伝えられる。

八幡神

八幡神の性格の特徴の一つは「胎中天皇」(応神)と母・神功皇后の関係である(八幡神は応神天皇に擬せられる)。つまり御子神(王子神)としての性格と、ヒメ神としての性格が、応神・神功から読み取れる。また職能の神としては鉄治神の性格が認められる。高良玉垂宮との関係(宇佐にも石清水にも玉垂宮が控える)。また、石清水八幡宮の麓には「三条小鍛冶」が祀られる(傍に山井戸もある)。そして八幡宮の例祭を彩る「放生会」は「犠牲(いけにえ)」の祭りである。

 

武内宿禰    もどる   (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 大和朝廷の初期に史上はなばなしく活躍する伝説的な人物である。それによると孝元天皇(八代)の曾孫で、景行12、成務13、仲哀14、応神15、仁徳16の各帝五朝に仕え成務帝13のとき大臣となり、仲哀帝14に従って熊襲を征し、帝崩御ののち神功皇后を助けて新羅征討に参加、のち応神帝15を守護したという数々の勲功が語られている。武内宿禰の孫裔と称するのに葛城、巨勢、平群、紀、蘇我の諸氏がある(「広辞苑」)。武内宿禰という人物は「記」にいう孝元天皇8の曾孫とあるが、論理的に成り立たない。つまり孝元帝8の子の布都押信(ふつおしのまこと)と、山下影比売のなかに出生したのが宿禰というが、全く年代的に合わないし、孝元帝の子(開化天皇9とその兄大彦命)に布都押信という人物はいない。しかし武内宿禰は、四世紀ごろの大和朝廷の総理大臣としたほどだから、武内宿禰の出自は今後に確かめることが必要であろう*耳納連山 九州の山と伝説に戻る 

建内宿禰  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

 鎌足を建内宿禰に例えているのは単なる修辞ではない。鎌足が仕えた天皇は、斉明37(皇極35)女帝であった。そしてもう一人の主は中大兄皇子である。この三人の関係はそっくりそのまま「神功皇后‐応神15天皇‐建内宿禰」に置き換えられる。しかも建内宿備は神功皇后の神託を聞く審神者である。彼は「ほぎうた」(祝歌・寿歌)を歌い、琴を弾いた。この翁の為すことは中臣の職掌に似ている。建内宿禰は不比等によって創られた人物か。たとえ創作の人としても中臣氏の背後にはこの翁を登場させる職能集団がいたと思われる(岸俊男『日本古代政治史研究』参照)。

「宿禰」  

 「かの武内宿禰で名高いスクネの姓は、元来何人にも敬意を表して氏名の下に附けて呼んだものらしい」(堀一郎『氏族制度の構造と氏族祭祀』)。武内宿禰は「スクネ」という「姓」を「名」としている。この「姓」つまり「名」に彼の職能が隠されている。神と人との中語者をかつて「スクネ」と言ったのではないか。「宿;やど」「禰;ね」(父を祀った廟の意)にその意が籠められている。彼は神功皇后とともに海を渡り「新羅」に渡った。「シラギ」は白い国、神の国である(高崎正秀『皇統譜の研究序説』)。スメラミコトの坐す宮としての「橿原」も「白梼原」と記される(『古事記』)。そこは白き地、であった。「宿禰」という「姓」は、武内宿禰をもって、その本性を語る。古い古い時代においては良賤の区別などなく、「姓」は〃天皇の民〃の職能を表した。

 

五十迹手(いとて)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 『筑前国続風土記』巻二三の怡土(いと)郡の項によると、『釈日本紀』の第八仲哀14天皇紀に日く、天皇熊襲を討たんと筑紫に行幸の時、筑紫の伊都県主の祖五十迹手は天皇の行幸を知り、五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を船の舳に立て、さきの枝に八尺瓊(やさかに)をかけ、中枝に白銅鏡(ますみのかがみ)をかけ、下の枝には十握剣をかけ穴門(長門国)の引島に出迎えて、これを献納し、天皇の征途を祝した。天皇が五十迹手をほめ、伊蘇志(いそし)とのべられたので、時の人は五十迹手のもとの国を名付けて伊蘇国(いそし)という。いま伊郡というは訛なり。著者の貝原益軒は、いそしというのは、いさおし(勲か、功か)という意味ではないかと、また或る人は、いさまし(勇し)ともいう、と説明。さらに、『筑紫国風土記』には、五十迹手は高麗国(高句麓)の意呂(いろ)山/蔚山(うるさん)から天降りした日桙(ひぼこ;天之日矛、天日槍とも書く)の苗裔(子孫)なりと述べる。このことは垂仁11天皇三年春三月、新羅王子日槍(ひほこ)来朝のことが『日本書紀』にあり。次いで天皇、五十迹手をほめて恪手(いそて)と宣う、五十迹手の本土を恪勒(いそろ)国というべし。いま恰土郡というは訛なり、とある。この五十迹手は、仲哀14帝の妃神功皇后が、応神15の御子を連れて筑紫から都に還るとき、皇后一行を穂波村大分(たいふ)まで見送っている。皇后は、この大分に行宮を建てられるが、のち聖武45天皇神亀二(725)年、神託ありて御廟(大分八幡宮)を建つ、とあり、また大分宮の神霊は延喜二一(921)年、七歳の女子に託宣され、筥崎に御殿をつくれと宣う。廷長元(923)年筥崎八幡宮成就せり、とある(『筑前国続風土記』)。*脊振山・雷山 九州の山と伝説に戻る 神功皇后戦勝祈願へ

 

羽白熊鷲(はじろくまわし)もどる(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 熊襲征討に筑紫に下った仲哀天皇が、軍議所の香椎宮で崩御されたのち、神功皇后は天皇に代って吉備臣の祖鴨別を遣わして、熊襲を討った。さらに荷持田村(のとりのあれだ:甘木市秋月野鳥)の羽白熊驚(一説に古処山に住んだ)という土賊ありて、人民を悩ます。皇后はこれを討たんと恰土郡雷山の曾増岐野(雷山を一名曾増岐岳)に来て、兵を集め、いまの朝倉郡夜須町付近で羽白熊驚を討ち滅ぼした。このとき、皇后は「わが心安し」といったので、地名の安(夜須)がうまれたとある。*雷山,古処山 神功皇后戦勝祈願へ戻る

 


名前の交換   もどる  天皇家と卑弥呼の系図  澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より

ツヌガアラヒトと崇神天皇
 ツヌガアラシトに対して、崇神天皇が自分の名前を与え、「汝の本国の名を改めて、ミマナ(任那)とせよ」と言ったという記事が 『日本書紀』 にある。このことに関して、それは逆であって、ミマキ入彦は、もともと任那すなわち朝鮮南部の王であったが、倭国に進出して国を開いたので、祖国の「ミマナの城から入って来た」という意味で「ミマキ入彦」と称したのだ、とする意見もある。俗にいう「騎馬民族説」を唱える人の中にその例が多い。しかし、崇神天皇が本来は大和の出ではないことは認めないわけにいかないものの、それが「倭韓連合王国」の王だったとする積極的な論証はなされていない。
イザサワケとホムダワケ(ホムダ・マワカ?)
 『古事記』の「仲哀天皇記」の終わり近くに面白い話がある。それは、タケノウチ・スタネ(建内宿禰)が生まれて間もない皇太子(応神天皇)を連れてツヌガ(角鹿。今の敦賀)のケヒ(気比)の大神の所に行き、名前を交換させたという話だ。『日本書紀』では、これは「応神紀」の最初のところに、神功皇后が皇太子を連れていくことになっている。こうして、これまでイザサワケ(伊香沙和気・去来紗別)だった皇子はホムダワケ(品陀和気・誉田別)となり、ホムダワケだったケヒの大神がイザサワケになったという。
 そこで、一つ注目したいことがある。それは「イザサ」という言葉の意味についてだ。「イザサ」によく似た「イササ」という言葉は、天の日矛が新羅から持って来た神宝の一つである太刀の名前だった。そして、もう一つ、「出雲の国譲り」の談判が行なわれた場所が「イザサの浜」だった。それを「稲佐の浜」と書いている本もあるが、『日本書紀』では「五十狭の小汀」と書いているから、「イナサ」のはずはない。では、「イザサ」とは、いったいどういう意味なのだろうか? 私は、この「イザサ」あるいは「イササ」という言葉には、土地の支配権ないし君主権に関する象徴的な意味がこめられているのではないかと考えてみた。イザナギ・イザナミという「国産み」の神の名前も、こう解釈すると意味が通じてきそうだ。そこで、この解釈を「名前の交換」の話に適用すると、どういうことになるだろうか?
 イザサワケという名前をもらったケヒ大神のもともとの名前は、ホムダワケだった。だから、この神というのは実はホムダ・マワカのことではないかと仮定してみよう。そして、「イザサ」の意味を「支配権」だとすると、この「名前の交換」が何を象徴しているかが少し見えてくる。
 イザサの神−実はホムダ・マワカは、なぜ生まれたばかりの皇子と名前を交換し、その礼として御食を贈物にしたのだろうか? それは、彼が皇子の母のオキナガ・タラシ姫に対し、「自分が支配している食料が豊かに取れる領地を献上しますから、その代わりに、『イザサワケ』という名前 − 大王位を自由にする権利をください」 と言ったのだと考える。


 

応神・仁徳王朝      もどる     直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より

初期の国家の中心となった地域は、やはり奈良盆地の東南部、三輪山の山麓周辺の地であろう。この地域に初期の古墳が多いところからそう考えられるのであって、年代は考古学の研究成果に従えば、三世紀末ないし四世紀初頭と推定される。このころはまだ天皇ということばはなかったが、天皇に相当する地位についたのは、のちに崇神天皇といわれるミマキイリヒコイニエノミコトであろう。それから約一世紀のち、すなわち四世紀末から五世紀初めが、応神天皇・仁徳天皇の時代であるが、この両天皇をはじめとして以下数代の天皇の陵および皇宮が、河内・摂津・和泉(いずれも大阪府)の地にあったことが、『記・紀』に伝えられている。このころから有力になる氏族、たとえば大伴・物部などの氏族も河内・和泉の地方を本拠地としていた。そのほか、種々の事情を総合して考えると、応神・仁徳を中心とする勢力が摂津・河内方面から大和へ侵入して、崇神天皇にはじまる王朝を倒して、新しい王朝を樹立したという推測がなりたつ。  ☆秦氏と応神八幡神・天日槍・神武東征伝説  巨大な前方後円墳 大規模な土木工事 難波の堀江

 

応神と仁徳   髪長媛     もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)

  髪長媛の話にもどすが、ホムタ別の息子のオホサザキが、髪長媛を見そめてしまった。細かい話は省くが、ホムタ別は、髪長媛を息子の妻にすることを同意した。のち、髪長媛はオホサザキの妃となり、男女の子を産んでいる。子の一人の大草香皇子は、別の表記では大日下王、日下は「ひのもと」でもあり、母の故郷日向の意識との関係も注目される。髪長媛のことで考古学的に重要なのは、日向の出自ということである。後で述べるように、宮崎県と大阪府とには、中期の前方後円墳の形に類似する場合があって、それらの年代が五世紀代ということもあり、日向から妃が出たという伝承との関連がうかんでくる。

『紀』 の異説によると、日向の諸県君牛(ここでは諸井は省かれている)は朝廷に仕えていたが、年老いたので日向に帰っていた。しかし、娘の髪長媛を朝廷にたてまつろうとして、播磨まで行った。ちょうどそのとき、ホムタ別は淡路島で狩りをしていた。すると数十の麋鹿が海に浮かんできて、播磨の鹿子水門に入った。使いをだして見させると、角をつけ鹿の皮をきた人間だった。「誰人ぞ」というと、諸県君牛で、娘の髪長媛をつれて来たと答えたという。

 すごい話で、解説をつけにくい。話をそのままうけとると、髪長媛も男たちと一緒に鹿の角をつけて、海に浮かんできたことになるのだろうか。海に浮くかどうかは別にして、女のほうが男の居住地へ移って結婚するときに、鹿に仮装する風習があったのだろうか(☆1   海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995 )。 それはともかく、皇后とか妃といっても、ヤカワエ媛のように父方の家にいて男のほうが来る場合と、髪長媛のように故郷を出て移住する場合の二通りがあったことがわかる。

堺市の百舌鳥古墳群の二番めの巨大前方後円墳である百舌鳥陵山(石津丘古墳ともいう。墳丘の長さ約三六〇メートル。現・履中陵)を、後円部といい、前方部といい、その形をきちんと二分の一にしたものがメサホ塚である。後円部も前方部も、その形を正確に二分の一にしているのだから、古墳時代の土木技術の高さには驚くほかない。このことは、当時すでにいく通りもの古墳の設計図があったと考えざるをえないことと、その設計図にもとづいて古墳の施工のできる技術集団(土師氏) がいたことなどが、頭に浮かぶ。

 百舌鳥陵山古墳は、オホサザキ(仁徳天皇) の子のイザホ別(履中天皇) の墓に宮内庁は指定しているが、いわゆる百舌鳥三陵のうちでは、現・仁徳陵(考古学的には大山古墳)より古く、もし記紀での伝承どおりに、百舌鳥野に三陵があるのであれば、百舌鳥陵山古墳が仁徳陵ということも考えねばならない。だから、百舌鳥陵山古墳とメサホ塚を、同じ設計図で造営したことの背景には、それぞれの被葬者が、生前何らかの深い関係にあったことを示唆している。

 ヲサホ塚は、すでに述べたように、本来の墳形はまだ確定はしていないが、後円部の直径が一三二メートルある。円墳や帆立貝式古墳の円丘部に比較すると、ぬきんでた規模である。その数値でみると、河内の誉田山古墳(墳丘の長さ四一五メートルないし四三〇メートル、後円部の径二六七メートル) の後円部の二分の一とみる網干善教氏の指摘がある (「古墳築造よりみた畿内と日向」(『関西大学考古学等資料室紀要』 二号、一九八五年))。

 宮川・網干両氏の研究をふまえると、応神陵の可能性の高い誉田山古墳、応神の次にくる仁徳陵の可能性のある百舌鳥陵山古墳のそれぞれ二分の一で造営されたのが、西都原古墳群で接近して構築されているヲサホ塚とメサホ塚であることは、見逃せない事実である。

 このことは、もちろん断定はできないけれども、『紀』が述べているホムタ別と息子のオホサザキが、諸県君牛とその娘の髪長媛とのあいだで展開した事件とかかわりがあるのではないかと思わせる。この視点でみると、西都原にはじめてあらわれる巨大古墳としてのヲサホ塚は、諸県君牛の墓であり、たんに娘を妃にだしたから河内の造墓技術で大古墳の造営ができたというだけでなく、ホムタ別の東進にさいして重要な役割をになったがゆえに、このような造墓が実現したのではないかという推測も生じてくる。南九州の鉄製武器と河内・和泉・近江などの古墳出土の鉄製武器の類似の問題もあるが、話が細かくなるのでここでは省く。

髪長媛は、ホムタ別が妃として日向からむかえたのに、太子のオホサザキが「吾に賜わしめよ」とねだって妃にしている(『記』)し、『紀』でも同じ経過が述べられている。物語ではそうなっていても、実際に父の妻(予定者)を、そう簡単に子の妻にできるだろうか。直木孝次郎氏は、応神と仁徳とは本来同じ一人の天皇であったが、のち説話を二つに分けたとする説(「応神天皇の実在性をめぐつて」(『人文研究』、一九七四年))を発表され、それを読んだとき衝撃をうけた。直木氏は、『新修大阪市史』(第一巻)でも、「応神・仁徳同一説は仮説の域を出るものではない」とことわったうえで、「このような推測が可能なほど、応神と仁徳の性格には共通性が多い」と指摘されている。ぼくは髪長媛の問題を考えるさいにも、直木説を前提に読むと、父の妃を子がもらったのではなく、同一人物の妃にすぎなかったのではないかと感じた。

オホサザキ (仁徳天皇) は、ホムタ別(応神天皇) の第四子だとされている (『紀』)。とはいうものの、前章で述べたように、二人は本来同一人物だったものを、のち説話のうえで二人に分けたという推測の生じる節が随所にある。

早い話、応神紀には陵の記述がない。オホサザキの時代に、父の陵を造営したとする記述もない。神武天皇から持統天皇までの三十九人の天皇のなかで、『紀』 に陵の記述がないのは応神天皇だけである。事績の大きさからみると、これは奇妙というほかない。 『紀』 の雄略天皇九年七月の条に、河内にあった誉田陵での馬の埴輪と田辺史伯孫が自分の馬とを取り換えた話がのっていて、今日の誉田山古墳(誉田御廟山古墳ともいう)を舞台にした物語とみられている。たいていのことにそれなりの辻棲をあわせている『紀』 の編者が、どうしていきなりすでに存在しているという形で誉田陵を登場させたのか。

 

雄略21)天皇     もどる     直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より

        大和政権の確立期

 大和政権の確立期について考えてみると、雄略朝を重視すべきだという意見を、最近亡くなられた岸俊男氏が数年前からとくに主張しておられた。岸氏がその意見をまとめられたのは、一つは稲荷山鉄剣銘に触発されたからだが、この鉄剣銘の解読によって雄略朝には東は武蔵、西は肥後にまで及ぷ範囲に大和政権が及んでいたことが明らかになった。それは四七八年の倭王武の上表文のなかに「山川を故渉して、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡って海北を平ぐること九十五国を支配した」といっているのに照応し、上表文には誇張があるにせよ雄略朝が日本国家の発展の一つの画期であることを思わせる。それから『万葉集』 の冒頭、巻一の第一番の歌が雄略天皇の歌で始まっている「霊異記」の上巻第一詰も雄略天皇が御諸山の蛇=神をとりにやらせるという話から始まっている、そのほか多くの物語が雄略に結びつけられて『日本書紀」 に出てくるのは、雄略を日本歴史の一つの始まりの時期と見ていたからではないかー。どういう話かというと、瑞江浦嶋子の話、あるいは田辺史伯孫が馬をとり替えられる話、これらはどの天皇のところへもっていっても別に不思議はないのに、とくに雄略にもっていっている、それから伊勢の外宮が雄略天皇のときに始まるという伝承もある。

 さらにもう一つ岸氏が重視しているのは、『書紀』 の暦が雄略で変わっている、『書紀』 の編成では、雄略の前の安康から変わっているのであるが、それは雄略に関係した話で、雄略から変わったと考えていい、雄略以後持統までが古い暦で編纂されていて、安康以前(はっきりしているのは安康のもう一つ前あたりからだが)が新しい暦で編纂されているという問題である。

 これはずっと前に亡くなった暦学の小川清彦氏の研究を再評価されて、つまり聖徳太子のときか天武天皇のときか、どちらかはっきりしないけれども、そのころに編纂された歴史は雄略以降の部分であって、その後新しい暦でそれ以前の部分が編集された。もっとも、前から伝えられていたものがあり、それを再編集したということであろうが、雄略から書きおこされた史書があることは、雄略朝が日本国家史の大きな画期であったことを認めるべきであるという意見である。近年の有力な一つの考えである。畿内政権の歴史は何も雄略に始まるわけではなく、その以前の少なくとも応神・仁徳あたりから始まることは認めるべきだと思うが、古代統一国家の形成ということを考えると、やはり雄略朝あたりが問題になると思うわけである。

  しかし、雄略の没後、統一政権は動揺を来す。すぐに星川皇子の反乱が起こり、これが吉備氏の反乱を誘発し、大伴氏の力で押さえられたと『書紀』には出ているが、すぐ続いて清寧の跡継ぎが決まらずに、播磨のほうから顕宗・仁賢が出てくる。ところが、顕宗・仁賢もそのつぎの武烈で跡が続かずに継体が越前から現われてきて北河内の樟葉で即位する。しかし継体も大和の磐余の玉穂に入るまで二十年も要したと伝えられ、雄略没後、大和の政治にかなり大きな動揺があったと考えていいと思う。雄略の統一は必ずしも強固なものではなかったのである。

 そしてこの継体のときに北九州の磐井の反抗があり、磐井を倒すことによって日本国家の統一がいよいよ軌道に乗るのではないかという見解もある。私などはやはり継体が出てくるのは六世紀前半であるから、六世紀代を古代統一国家形成の時期として重視すべきだろうと思っている。     ★多元的国家論   ★東と西のワカタケル大王

 

飯豊青皇女 もどる 葛城と古代国家 門脇禎一著 2000年 講談社より
 大王弘計王子(顕宗23天皇)の叔母とも姉ともする伝承があるが、葛城の蘆田宿禰の系流であった。のちのちも「飯豊天皇」(扶桑略記・皇胤紹運録)とされた最初の女帝である。この女帝を介して、ヤマト王国の大王は、白髪王子(清寧天皇・母は葛城韓姫)から、父母双方とも葛城系の弘計(顕宗23)・億計(仁賢24)両王子へと伝わることになったのである。

飯豊皇女   もどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
  飯豊青皇女、青海郎女、忍海郎女等、類似の名を多く持つ。履中17の皇女とも履中の皇子の市辺王の皇女ともいう。時の天皇清寧22(雄略の皇子)にはなぜか妻も子もなかった。当然、皇位が問題となる。そこで例の「二王子発見」の物語が生まれる。播磨国に「火焼きの少子二口、竃の傍に居たる」この二童子が後の顕宗23・仁賢24帝である。飯豊と二皇子は叔母、或いは妹という関係になる。二皇子の血の正しさを飯豊が証明している。飯豊に海の記憶があることは別称より知れる。〃飯〃にこだわれぱ〃山〃もまた、この名の中に見えてくる。

 

蘇我氏の出自(百済官人 木羅満致 説)  葛城と古代国家 門脇禎一著 2000年 講談社より  

大王大泊瀬王子(雄略天皇)の時代は、対韓関係が大いに緊迫した時代でもあった。高句震長寿王の南進政策を前にして、従来から結んできた百済が、危機に瀕したからである。そういう情況のもとで、ヤマト王国と百済との間には、官人の往来が繁くなった。また、大王大泊瀬王子が「唯愛寵みたまふ所は、史部の身狭村主青、檜隈民使博徳らのみなり」(雄略天皇紀二年一〇月是月条)と後世まで評されたのも、かれらが緊迫した国際関係のもとで活躍したからだとみられる。青・博徳は、対韓問題の緊迫化にかかわって、呉国に派遣されたとも伝承されている(雄略天皇紀八年二月条)。すでに桂川流域の葛野(京都市南部)の渡来人集団は秦氏として勢いをまとめつつあったが、対抗的に大和南部の渡来人集団も、こうした活躍を重ねながら、漢氏として一つの政治勢力を築きつつあったらしい。木満致が大王大泊瀬王子(雄略天皇)の宮廷へ迎え入れられたことにも、身狭村主青や檜隈民使博徳らの支持や働きかけがあった、とみていいと思う。ソガ(蘇我)氏は、この木満致とその一族から起こった、とみられる。

ソガ氏の出自については、公卿補任の蘇我氏関係にみえる系譜や蘇我石川系図・上宮聖徳法王帝説などが重視され、それは、蘇我石河(石川)宿禰−満智−韓子−高麗−稲目− (下略)とあり、(下略)とした部分、つまり稲目の子、馬子からその同世代の兄弟姉妹にわたって横にひろがる系譜が明らかになってくる。まず問題になるのは、両系図にみえる蘇我石河(石川)宿繭であるが、この人物は、六七二年の壬申の乱のあと、ソガ赤兄・果安の家などの滅亡ののち、蘇我連 (子) のあとの安麻呂 − 石足の家系が六八四 (天武天皇一三)年から石川 (臣)氏を名乗ったので、この氏によって構想・創出された祖先とされているのである (志田諄一『古代氏族の性格と伝承』、日野昭『日本古代氏族伝承の研究』)。従って、ソガ氏の実在した祖先としては、結局、蘇我満致に目が向いてゆく。満智の名は、古事記にはみえず、日本書紀の履中天皇二年条にただ一度、大臣就任のことを伝えるだけなのだが、そこには意外に重要な関連史料を見出すのである。

 関連史料とは、百済官人の木(пE羅)満致についての史料である。この木満致は、日本書紀では応神天皇紀やその分注の百済記にみえ、書紀紀年では三世紀の人物とされるのだが、木は百済の大姓八族の一つで、木пi木羅) は、蓋歯王の治下で称した貴姓としての二字姓であるし、当然五世紀末の人物となる (平野邦雄「日本書紀にあらわれた古代朝鮮人名」 『続日本古代史論集』 上巻一一八ページ)。

 木満致は、母は新羅人であったが、彼は父のあと百済の蓋歯王に仕えていた。この蓋歯王が、高句麗長寿王の放ったスパイ道琳の謀にひっかかって高句麗の攻撃に直面したとき、子の文周を避難させた。しかし、文周の一行は新羅に行き、一方の援兵を得てとって返し、蓋歯王とともに戦い、王は戦死したものの高句麗軍を撃退して、文周があとを継いだ。ところが、満致は、文周の一行に新羅まで同行したことは明らかだが、百済には戻っていないし、新羅から「南に行けり」と記されている。これをわたくしは、ヤマトに渡来したものと解している。

 この木満致を迎え入れた五世紀末のヤマト王国の朝廷はかなり動揺していた。すなわち、黄河流域を統一した北魂 (四三九) と結んだ高句麗の南進策に対して、百済は宋に入貢して対抗した。そして、四五一年に高句麗と戦ってからは、百済はいっそう宋に近づき、国王余慶は宋から鎮東大将軍の称号を授けられたが (四六〇)、三年後には高句麗王高lも宋に入貢し、車騎大将軍開府儀同三司という称号を授けられた。高句麗のこの動きは、百済とともに宋に入貢をつづけてきたヤマト王国の朝廷に、大きな衝撃を与えていたらしい。加えて、百済は、従来どおり宋への朝貢をつづけるとともに、四七二年には、初めて北魏に入貢して高句麗への出兵を求めた。ヤマト王国の大王は、このあとも北魏との交渉をもたず宋への朝貢だけをつづけたから、その点では明らかに百済と策を異にしはじめていたわけだ。

 百済官人木満致がヤマト王国の中へ渡来したのは、このような史的状況のもとにおいてであった。あるいは、木満致はすでに本国百済において北魂への朝貢に反対したのかもしれぬ。それはともかく、すくなくとも大王大泊瀬王子 (倭王武) の、四七八年の有名な宋の順帝への上表文も、右に述べたような状況のうちに理解すれば、木満致の意見具申か、なんらかの関与があったと推測してよいかもしれない。

 ヤマト王国の朝廷に迎えられた木満致とその一族は、葛城の曽我の地に定着した。畝傍山の北方、いまの橿原市今井町から曽我川にわたる地域で、中心に宗我都比古神社の坐すところである。そこは、滅亡した葛城の円大臣の遺領の内部であった。ここに発したソガ氏が、こののち葛城の地を蚕食していくことになる。

 


継体天皇26)  もどる   直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より

 神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多郁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀はじめに越前(福井県)からあらわれて皇位をついだ継体天皇が、大和へはいるまでに、河内の樟葉、山背(京都府)の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は、多郁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。この一致は偶然とは思われない。神武天皇が大阪平野から直接大和へはいらず、熊野を迂回するのは、先にも述べたように、熊野・吉野の山を神聖視する思想と壬申の乱の経過に影響されたのであろうが、継体天皇が越前を出発してから大和へはいるのに、たいへん手間どっていることにも影響されたのではあるまいか。

 古代の歴史物語である「旧辞」がはじめてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇のころ(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこのころに大体できあがったと考えてよかろう。

 

越と継体26)・欽明29)王朝    もどる   (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)

 ぼくは記紀の研究者ではまったくない。だが弥生時代や古墳時代の考古学では、記紀の物語る時代とかなり重複があるはずだ。一方は、陽があたっている右側の窓から屋内を見たのにたいして、もう一方は、陽のささない左側の窓から同じ屋内を見たときのように、印象は大きく違う。印象は違うけれども、同じものを見ているはずである。これを心にとめて自分なりの調節を試みたのが本書であった。

 戦後の古代史で明確になってきたことの一つが、継体王朝を新王朝としてとらえる考え方だ。この場合、王朝の定義が曖昧だとかいって、問題にせまることをしない人は、自分がそのことに立ち入ることを避けているだけであって、日本古代史、ひいては日本歴史の骨組みのうえでも継体王朝の問題はすこぶる大きい。

 必要なことを抜き出そう。武烈天皇は、第16章で述べたオケ王(仁賢天皇) の子だが、『紀』によれば、「元より男女(の子)無くして、継嗣絶ゆべし」の状況があり、後で述べるようにヲホド王 (継体天皇) の登場となる。ここで重要なのは、仮に武烈天皇に子がなくとも、すでに多くの例で見たように、当時の大王は皇后のほかにも複数の妃をもうけることが普通で、しかも概して多産の傾向があり、オオタラシ彦(景行天皇)の場合は、記紀ともに男女の子が八十人いたと述べていて、いずれにしてもかなりの多数を意味している。

 仮に一人の大王に十五人ぐらいの男女の子がいて、その子たちも同じぐらいの数の子をもうけたとすると、四代めには千人をこすだろう。ましてヲホド王について『紀』が「ホムタ(誉田)天皇(応神)の五世の孫」と述べる五世となると、もう鼠算的な数字になつていて、いくらでも候補はいたはずである。ということは、ヤマトやカワチなどには、大王の候補者は大勢いたのに、「継嗣絶ゆべし」という事態になつた。それは奇妙なことである。つまり水野祐氏の提唱する中王朝(応神・仁徳王朝)の系統では、大王候補はいない(出せない)情勢がおこつていたのである。では、どうしてこのような国内情勢がおこつていたのかである。

 応神・仁徳王朝の政治基盤は、ヤマトとカワチだった。大和という地域をあらわす文字は、八世紀以前にはなかったので、ここでは河内ともどもカタカナにするが、のちの「畿内」といってもよい。それと高校の日本史の教科書では五世紀の重要事件として、倭の五王と中国・南朝の外交関係をあげている。倭の五王のうち、対応の確実なのは、倭王済の允恭天皇、倭王輿の安康20)天皇、倭王武の雄略21)天皇であることはすでに述べたし、南朝も宋が相手国だった。この南朝は、江南に中心領域のある国家で、巨視的にみればやがて没落する。南朝は宋の三つあとの陳のときに滅亡している(五八九年)。つまり応神・仁徳王朝は、極端にいえばやがては滅亡する地域勢力と外交関係をもち、新興の、しかも徐々に勢力をひろげる北朝とは無縁だった。

 ヲホド王は、後に述べるように、日本海沿岸の越から現れた新王朝の始祖である。越は、歴史的地域としてはすこぶる広大で、福井県東部(のちの越前)から最初は山形・秋田まで及んでいた。越の範囲の東限は、越後(新潟県)と思われやすいが、八世紀初頭に越後国から出羽国が分立するまでは、今日の秋田市あたりまでが越の範囲だったとぼくはみている。

 日本海沿岸地域は、西方が出雲世界、中央から東方にかけてが越世界で、中間にまだ名称はつけられないが但馬、丹波(丹後も含む)、若狭があり、さらに越の北部は、蝦夷との雑居地帯で、秋田市あたりをすぎると蝦夷世界になるというのがぼくの描く地域像である。

 ヲホド王を生みだした背景の越世界とは、海を通じて朝鮮半島や中国大陸の情勢が、北(東)からも南(西)からも入ってくるところであり、そのような国際的感覚が応神・仁徳王朝系の大王では倭国をきりもりはできないという気運をおこさせていたのだろうとぼくは推測している。

 

継体天皇26) 

        継体天皇擁立、任那4県割譲、己汶・帯沙をめぐる争い、磐井の反乱、近江毛野の派遣、近江毛野の死、継体天皇の崩御

安閑天皇27)

        天皇崩御と屯倉の設置、大河内味張の後悔、武蔵国造の争い及び屯倉  ・・・・・鎌屯倉

宣化天皇28)

        天皇即位、那津(筑紫)宮家の整備

欽明29)天皇

        秦大津父(山中2狼の逸話)、大伴金村の失脚、聖明王、任那復興の協議、新羅謀略の戒め、任那復興の催促、日本府の官人忌避、任那復興の計画、日本への救援要請、仏教公伝、聖明王の戦死、任那の滅亡、伊企儺の妻大葉子、難船の高麗使人

敏達30)天皇

        烏羽の表、吉備海人直難波の処罰、日羅の進言、蘇我馬子の崇仏、物部守屋の排仏

 

推古天皇33)  もどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
大王
  岡田精司氏は『古代王権の祭祀と神話』で、聖徳太子の時代の「大王」について、次のように語る。「大王の地位は(天津日継)といわれるように、太陽神の祭祀権を継承する宗教的な地位であり、太陽神そのものとして行動する存在である。(中略)現実の〈日継〉の地位にある老女帝(推古)の存在が、長期の奉仕を続ける神の妻=斎王(スカデヒメ。用明の皇女)のイメージと重って、〈ヒルメの神〉の地位を向上させることになったことは想像に難くない」。〈ヒルメの神〉とは、この場合日ル妻神=A太陽の巫女である。また、「日の御子」とは大王の美称であった。
女帝  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
  喜田貞吉の「中天皇=女帝」説を折口信夫は支持する(『最古日本の女性生活の根抵』)。 この「中天皇」とは、いわば神と天子とを仲介する巫女なのである。となれば、やはり『記紀』の「天照大神」が問題となる。アマテラスは「神」という以前に、神の衣裳を織る神の花嫁であった。「神御衣を織る」というアマテラスの姿に女帝の意味がみえる。「中天皇」の「中」という言葉が重要である。柳田は「中居」という言葉の廃れるのを、或いその存在の軽視されるのを嘆いた。多至波奈大女郎:タチバナオオイラツメの「中の宮」も、ただその場所を示す言葉ではないように思える。「中居」は「中語」につながり、つまり神の言葉を仲介する者の意である。
推古女帝  豊御食炊屋姫(幼名、額田部皇女)   梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 
推古女帝の持つ神秘の根源は聖徳太子にある。太子はあまりに伝承の人である。その伝承は、太子の周りの者たちも神秘の人とする。母・穴穂部間人皇女、父・用明帝もその神秘の光を受けている。用明帝の持つ伝承「山路の牛飼」(これは元は美濃の青墓の遊女の語りという)は、用明帝が長者の娘に恋をし、身分を隠し、姫を探し出して結ばれ、太子が生まれた、という筋である。その時の帝の姿が、牛に乗って笛を吹く草刈童であったので、この「山路の牛飼」の題:タイトルがある。
 推古は太子の叔母である。オバ・オイの関係はやはりをなり・ゑけりの古い神の姿であり、アマテラス・スサノヲ姉弟の関係に通ずる。推古が敏達の「喪がりの宮」を出なかったこととアマテラスの「天の石屋戸」事件は類似する。

参考資料: 畿内の牧    森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より

 

讖緯説にもとずく神武天皇伝説     もどる   直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より

  神武天皇の姿がつぎに形をととのえるのは、七世紀はじめの聖徳太子の時代である。太子が摂政をつとめた推古天皇の九年が、ちょうど辛酉(かのととり)にあたる。当時中国で流行していた讖緯説という思想によると、「辛酉革命」といって、辛酉の年には天の命が革(あらた)まって、世の中に大変化が起こるという考えがあった。辛酉は十干十二支の組合わせの一つだから、辛酉の年は六十年ごとにあらわれるが、とくに大変化が起こるのは、二十一回目の辛酉すなわち(60x21=1260)で、千二百六十年目の辛酉の年であると信ぜられていた。『日本書紀』によって計算すると、神武天皇即位の年は、推古九年(西暦六〇一)の辛酉からちょうど千二百六十年前の辛酉の年(紀元前六六〇)にあたる。これは聖徳太子かその周辺の知識人が、讖緯説にもとづいて定めたのであろう、というのが、明治時代に那珂通世氏らが論じて以来、多くの学者の認めている解釈である。太子が蘇我馬子と協力して作ったと「日本書紀」にみえる歴史書のなかに『天皇記』という篇目がある。いま伝わっていないが、もし実際に編纂されたとしたら、そのなかには神武即位の年は記入されていただろう。

聖徳太子  もどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より    河童と古代氏族にもどる
  太子の母は穴穂部間人皇女である。欽明帝の皇女である。穴穂部は穴生部ともいい、穴太部とも書く。近江南坂本の地、穴太には石工集団、穴太衆がいた。また太子は「木匠の神」とされる。四天王寺の「チョンナ始め」はその伝承を語る。また太子の祖母、即ち用明天皇の母后は、「かぐや姫」と伝承される。『聖徳太子伝麿』によれば、聖徳太子は富士山の開祖という。彼は甲斐の黒駒に乗って「附神岳上」に至った。富士山は霊山であり、「竹取物語」の結びに出て来る不死の山である。太子の神秘は職能の神としてばかりではなく、日本の山の信仰と結び付いている。
厩戸皇子   
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より       河童と古代氏族にもどる
  厩戸皇子は「束髪於額して」即ち結った髪をとき放つ。束髪は少年の髪形であるが、「ひさご」という音は「瓢」即ちひょうたんを呼ぶ。なぜ少年はひょうたん形に左右の髪を結ったのか。瓢は呪具であった。あの形に古代人は何を見たか。それは神の宿り給うものである。そしてこのウリ科の植物は「水の呪性」と結びつく。中身が中空なることをもって、それは神を乗せる「うつぼ舟」でもある。
 また高崎正秀は、前方後円墳を瓢の形と見る(『「矛」の力』)。中くびれに意味がある。この一文の皇子は正に神の御子であった。ヌルデはウルシ科の落葉濯木。しばしば削り掛け(御幣)に用いられる。厩戸皇子、即ち聖徳太子を神〃とみる信仰がある。「タイシ信仰」である。「太子信仰はのちに聖徳太子に結びつけられたが、本来王子信仰であることは民俗学者の説くところである」(井上鋭夫『山の民・川の民』)。 聖徳太子は職人の神さまである。「金掘り・鋳物師・木地師・仙人・塗師・鋳物師・紺掻きなどに受容されることになる」(同)。太子の寺・四天王寺は今も昔もアジールである。遊行の人・一遍にとって、ここは熊野、善光寺と並んで重要な地であった。「太子」とは、何者か。「タイシ」が深く「金掘り」と結びつくのは、人麻呂が「天目一箇神」即ち鍛冶の神と結びつくのと似ている。「人麻呂」という童名を持つこの歌人も遊行の人である。
穴穂部   
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  もどる     河童と古代氏族にもどる
 「軽部と関係の深いもので、共々に猿女に習合統一せられ、その物語の一部を古事記に止めたものに、穴穂部・鍛冶部の語部があつた。それらは宇佐神の系統に属するもので、例へば、日本武尊の御事蹟を謳つたものは、彼らであつたのである」(高崎正秀『歌物語の展開』)。「穴穂部」は安康天皇
20)の御代に登場する。穴穂部皇子は、欽明29)天皇の皇子で、継休26)天皇の孫に当たる。実姉は、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女。穴穂部皇子も「ハシヒト」という名を負う。「埿部」と書かれる。 「埿部はハセツカべとも訓じられ、ハセツカべ(杖部)は語部的な手紙以前の手紙を管理してゐた」(岡見正雄『歌問答を廻りて』)。 「穴穂部」は、継体天皇の伝承、聖徳太子の伝承、また出羽三山の開祖、異形の蜂子皇子(穴穂部皇子の兄弟、聖徳太子の従弟)の伝承を伝えたのではないか。皇子の悲劇はこの「穴穂部」という名に既に用意されていた。「埿部」という名に悲劇は既にあった。
  道鏡の「弓削部」もこの「穴穂部」と同じ職能を持つという(高崎正秀『竹取物語研究』)。穴穂部は決して敏達天皇の山陵を汚したのではない。むしろ殺される穴穂部皇子は「人柱」となったのではないか。埿部は、元々山陵に関わる民であった(岡見正雄『同』)
用明帝
31)  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  もどる 
 聖徳太子の父、用明帝〔橘豊日命〕もまた神秘の人である。「山路の牛飼」という古い物語では、彼は「草刈童」に身をやつし、牛に乗り、笛を吹く。そして美しい娘、玉世姫を至って、皇子が生まれる。この皇子が聖徳太子であるという。近松門左衛門はこの物語を『用明天皇職人鑑』と題して書きとめている。また、この物語は美濃・青墓の遊女によって伝えられた。用明帝はなぜに牛飼いに身をやつしたか。笛を吹いたか。玉世は巫女の名である。そしてこの伝承の背景には八幡信仰が介在している。 聖徳太子の従弟、崇唆
32)帝の皇子、蜂子皇子が羽黒山の開祖で、異形の相のため辺土に捨てられたという伝承も合わせて、「聖徳太子」を考えたい(柳田国男『炭焼小五郎が事』参照)。
菟道貝鮹皇女  
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
 この皇女の名については、「うぢ」という音が一つのヒントになろう。宇治という地名を考えたい。柳田国男は『神を助けた話』の中で、宇治・巨椋池(宇治・小倉にかつてあった湖)の地を、日本の芸能史、工芸史の発生の地という。巨椋は小椋でもあり、山の民の代表的姓であった。また、この近江と山城の境界の地に居た小椋の人々が「かぐや姫」の物語を諸国に運んだという(高崎正秀『竹取物語研究』)。
 もう一つ「うぢ」を考える時、やはり兔道稚郎子の物語は外すことが出来ない。彼は宇治に宮を持つ応神帝の皇子であった。宇治と関わり深い。『竹取物語』が天子潜幸の物語であり、彼の地で必ず美女と出会い、皇子をもうけるという話であることは重要であろう。

 

秦河勝  谷川健一著 四天王寺の鷹 河出書房新社2006年より             河童と古代氏族にもどる

 秦河勝が大生部多に制裁を加えたと「日本書紀」にあるのは、皇極天皇三年(六四四)のことである。これによって、河勝がこの頃まで健在であったことがたしかめられる。しかし当時の政治情勢はけっしておだやかではなかった。この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は眼に余るものがあった。前年の皇極二年(六四三)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不遜な振舞いも見られた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目のあたりにしている。

 山背大兄王の側近の三輪文屋君は、山背大兄王に深草の屯倉にのがれ、そこから馬で東国に行き、再起をはかることをすすめている。秦河勝の根拠地の太秦と深草は近いところにある。山城国の深草は、京都市伏見区探草稲荷から深草大亀谷にかけての地で、山城国の葛野郡太秦に次ぐ秦氏の有力な根拠地であった。探草にいた秦大津父は欽明帝に寵愛され、大蔵の管理出納をまかされた。三輪文屋君は山背大兄王に秦氏を頼れと進言したにひとしい。そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるために太秦をはなれ、ひそかに難波から孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に隠棲したと推測される伝承が伝えられている。 

世阿弥の「風姿花伝」並びに世阿弥の娘婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。

「風姿花伝」神儀篇にいわく、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ〔奉り〕、此芸をば子孫に伝へ、〔化人〕跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変(れ)り。諸人に憑き崇りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。「大きに荒るゝ」と書きて、大荒大明神と名付く。今の代に霊験あらた也。とある。

この箇所を「明宿集」は次のごとく記している。業ヲ子孫二譲リテ、世ヲ背キ、空舟二乗り、西海二浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦二寄ル。蜑人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離二憑キ崇り給シカバ、大キニ荒ル神ト申ス。スナワチ大荒神二テマシマス也。

「風姿花伝」には「化人跡を留めぬ」とあり、「明宿集」には「世ヲ背キ」とある。これは、言外に河勝の置かれていた当時のきわめて困難な政治状況をほのめかす言葉でもある。一方河勝が播磨国での隠遁生活を目指したというのは、そこが都から遠く離れて、追手の力の及ばぬところであったという地理的条件に加えて、播磨が秦氏の一大勢力の拠点であったからでもある。つまり河勝の亡命にとって安全な土地であったからである。地元では、河勝は大化三年(六四七)に八十三歳で播磨国の坂越で死んだと伝えられてもいるが、もとより伝承の域を出るものではない。また河勝は播磨国で不遇な晩年を送り、死後は霊神となつて、諸人に憑き、崇りをなしたと、「風姿花伝」も「明宿集」も述べているが、それは河勝の荒びた晩年の心境を伝えたものであろう。

 

多至波奈大女郎  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より            河童と古代氏族にもどる
 位奈部橘王。推古天皇の御子・尾治皇子の娘。「天寿国曼荼羅繍帳」の作製を推古天皇に願い出たこのヒメは「中の宮」と呼ばれていた。それはヒメの住処が太子の他の二人の妃の住む斑鳩宮と岡本宮の中間に位置していたことに因るという。「繍帳」を蔵する中宮寺はこの宮より発する。 「橘」に注目すると、ヤマトタケルの妃、弟橘姫が思い出される。彼女は水の巫女であった。柳田国男の『海神少童』によれば、河童は「橘氏」の眷属である。刺繍というものも「機を織る」のと同様、水のヒメのものではないか。針と糸で、言葉をそこに留め置くのは、処女(をとめ)の仕事であった(高崎正秀『千人針考』参照)。

相撲 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

 相撲は神事である。「一人相撲」の相手は神である。河童が人を見れば相撲を取りたがるというのは、この異形の者の人間臭さを感じさせる。彼は「水中童子」の異名を持つ。水の神である。そのため相撲神事は農耕儀礼と説かれるが、果たしてそうか。

  相撲は芸能である。相撲取りもまた異形の者である。そして彼らは宮廷と深くかかわった。「村々で行ふ相撲の事を、草相撲と言ふのは、今では、民間の相撲の意味だと思はれて居る様だが、実は、相撲の古い形は、体に草をつけて行うたのである。これは、古代の信仰では、遠くからやつて来る異人の姿だったのである」(折口信夫『草相撲の話』)。

蘇我馬子 もどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
蘇我氏
 「土佐国には近世の調査ではあるが、神社の御神体を書上げた各郡の神体記と云ふ本があるさうである。其中で高岡郡波川村の蘇我神社は、古くより八幡と相殿にして御神体は一尺二寸四方の箱とあり」(柳田国男『「うつぼ」と水の神』)。蘇我社が八幡と相殿というところが興味深い。そして「蘇我殿の田植」(同『日を招く話』)という伝承に、蘇我氏と大友皇子が関わっていることも(大友皇子は御霊″である)。この伝承は五月七日には田植えをしないというもの。蘇我もまた御霊であろう。