宗教者(聖人)伝

清賀上人(5世紀)
善正和尚(6世紀)
慶胤仙人(6世紀)
 心蓮上人(-683年) 
役の行者(-701年) / 法蓮上人 / 仁聞菩薩 / 猛覚魔ト仙
行基上人(668−749年) / 泰澄大師(682−767年)
玄清法印(姓は橘。766−823年)
最澄(さいちょう、767年- 822年

空海(くうかい、774年- 835年
円仁(えんにん、794年- 864年)
智証大師(814−891年)
性空上人(姓は橘。910年- 1007年)、増賀上人(橘氏。917年-1003年)、皇慶阿闍梨(橘氏、性空の甥。977年-1049年)
最栄上人
寒巌義尹(1217−1300)

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清賀上人(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 聖賀とも書く。インドの帰化僧といわれ、聖武天皇の御代に筑前博多の南(旧早良郡)にある油山に住み、胡麻油(一説には椿油)を搾り、恰土郡の天皇勅願寺(五力寺)に灯用油として送るという。油山の山名はこれに始まる(「筑前国続風土記」)。また同じ油山に寂忍という僧がいて、聖賀上人の行為をねたんで論争した。このことを聞いた大宰府庁が、油を押取して五力寺への送油を差止め横取りしようとしたため、上人は怒って志摩郡の長垂山の麓油坂で油瓶を打ち壊した。それ以後、油を送ることは長く途絶えたという。「筑陽記』によると、『雷音寺縁起』に成務天皇(聖武天皇の誤りか。成務天皇時代はいまだ仏教伝来せず)の御時、天竺(インド)霊鷲山の僧法持、聖賀上人来朝当山(雷山)の漢谷に草庵を結ぷ、云々とある。雷音寺は旧寺名でいまの千如寺のこと。同寺は聖賀上人の開基という。本尊千手千眼観音像は、聖賀の作と伝えられる。入寂は応神天皇二年七月一五日とある(「同寺縁起略」)。*油山・雷山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

善正和尚(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)     修験道文化と神楽へもどる 
 英彦山開山の外来僧といわれる。継体天皇二五(521)年、北魏の僧、善正が彦山を開山す(「彦山縁起」〔1694年成立〕、「豊鐘善鳴録」〔1742年成立〕、「豊薩軍記」、「伽藍開基記」など)とある。しかし、この善正の出自は明らかでない。六世紀ごろの霊山の開山僧は、北魏をはじめ新羅、百済、唐、天竺などの外来僧がかなり多い。善正がやはり実在性を問われるのもそのためであろう。*英彦山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

慶胤仙人   (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)  もどる    修験道文化と神楽へもどる 

 「霧島神宮杜伝」によれば、同宮がはじめて創建されたのは六世紀(欽明朝)に真言宗の沙門(僧侶)が、いまの高千穂峰と御鉢(杜伝には火常峰とある)の中間にある背門丘(宮崎県霧島町と高原町の境界付近で天河原ともいう)に、社殿および別当寺華林寺を造営したのがはじまりと記している。つまり慶胤仙人は、霧島山開山の祖ともいうべきで、真言宗の密教修験者であった。しかし「三国名勝図会」は、霧島神宮の社殿は、慶胤がこの地に来る以前から存在していたから、おそらく慶胤が同宮を中興したのではないか、ともいう。また霧島山開山の僧と一般にいわれていた天台宗の僧性空が、霧島山に登ったのは天暦年間(九四七−五七年)で、そのときすでに崩壊していた同宮社殿、別当寺華林寺を再建して六所権現と称した、とされる。*・霧島山群

心蓮上人(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 宗派は法相宗(大和元興寺の僧道昭を開祖とする)。中国一三宗および日本の南都六宗の一。この法相宗を653年入唐して、玄奘三蔵に学ぴ日本に伝えた元興寺僧・道昭(629−700年)と同時代の同寺僧である。白鳳二(673)年、はじめて筑前大宰府の背稜・宝満山(一名竃門山とも三笠山ともいう)を開山、同山に法相宗・竃門山宝仲寺、その山頂に草庵(のちの仏頂山東居寺旧東尾寺ともいう)を建立し、法修を行なうという。心蓮、同山にて神霊玉依命の神託を受け、天武天皇の勅を得て竃門山神の上宮を建立したとある。心蓮、宝満山に10年坐籠し、白鳳二(683)年六月一○日、入寂すという。上人の墓祠は、仏頂山(旧宝満、八九六メートル)の山頂にある。昭和五三年四月二九日、同墓祠二○余年のあいだ崩壊四散しでいたのを、地元の宇美町自然と文化財を守る会が呼びかけ再建立した。祠内に心蓮上人の石像が安置されている。石像製作、献納者は博多人形師の三坂茂氏である。*宝満山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

役の行者(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)          修験道文化と神楽へもどる 
 「日本霊異記」によると、役の優婆塞(うばそく:役小角)は賀茂の役の公の氏、いまの高賀茂朝臣(たかかもあそん)の出という。生没年は不明(701年死亡説あり)だが、七世紀の飛鳥、奈良時代の大和葛木上郡茅原(ちはら)村の出身で小角は字名。大和葛城山に住した呪術者で、修験道の発展とともに霊山との伝説が生まれた。葛の皮を装い、松の葉を食い、四○年余葛城山の岩洞に籠って孔雀王呪経の呪法を修し神通力を得度した。毎夜五色の雲に乗って大空を翔び、仙人と共に長寿の気を吸った。鬼神を自在に駆使し、水を汲ませ、薪を拾わせた。ある時、鬼に葛城山と金峯山に橋をかけよ、と命じた。鬼どもは昼は何もせず夜だけ働いた。中々橋が完成しなかったので、行者は昼夜兼行を命じた。鬼どもは葛城山に一言主(ひとことぬし)という力の強い神がいて、夜だけ働くのてそうした、と答えた。行者はすぐ一言主を呼び、昼夜つづけて仕事をせよと命じたが、承知しないので怒った行者は、孔雀明王の呪術で一言主を呪縛して葛城山に閉じ込めた。一言主は宮廷人に憑り移って、天皇に「役の優婆塞は朝廷を滅ぼそうとしている」と讒言した。天皇は行者を捕えようとしたが、仙術で空を飛び、捕えられなかったので、行者の母を捕えた。行者は母を助けるため自首して、伊豆大島に流された。ところが行者は、夜は富士山に飛び、海上を歩き修行につとめた。三年後の大宝元(701)年正月、赦されて都に帰った。行者はそれ以後、諸国の霊山をめぐり山を開いた。行者讒言した一言主神は今も孔雀王呪経の呪縛解けないという。*背振山、雷山、福智山、英彦山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

法蓮(ほうれん)上人(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 八世紀初頭の宇佐八幡宮の有力な豊前の巫僧。八幡神宮寺の弥勤寺別当・法蓮の名で知られ、国東六郷満山の仏教開発者である。他方では九州最大の修験道場・彦山の中興の祖と仰がれる(「鎮西彦山縁起」元亀二〔1571)年)。法蓮の史記は、「続日本紀」の大宝三(703)年九月二五日に、その医術を褒賞されて豊前国の野四○町を賜わっている。また養老五(721)年六月一二日には、沙門法蓮は、彦山修験者の禅行(山岳修行)集団の頭梁として統率し、しかも医術に精通して、治民の苦しみを済度し、宇佐君の姓を賜わっている。法蓮は、彦山の玉屋谷の般若窟に自ら一二年間も坐籠し、他の修験者らも彦山四九窟を寺として住まわせ、法修を導いた。法蓮の彦山修験行の主眼は、洞窟寺院に住し、密教を法修し、陰陽道による呪術医療にあった。そのため彦山行者が、朝鮮大陸に最も近かった筑紫から盛んに渡航して、密教呪術や神仙術、医術の新知識を得ていたことは必然であった。彦山草創(仏教公伝以前)のころからの渡来僧説を物語るものであろう。このような背景から、役の行者の渡唐伝説が生まれたのであろうが、法蓮をはじめとする修験僧が、大陸を往来していたことはおよそ明白であろう。*英彦山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

猛覚魔ト仙(もうかくまぼくせん)(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 英彦山開山僧を北魏の僧善正というが、通説では実在僧ではないともいう。求菩提山の開山とされる猛覚魔ト仙も同じく、信仰上の創造神だろうという説がつよい。享保一二(1727)年、求菩提山の祐官坊祐舜が書いた「求菩提山縁起」によると、求菩提山修験地の開基を行善和尚(勅順・求菩提山護国寺を建立)といい、継体天皇のとき犬ケ岳(威奴岳と書く)の強暴鬼が民を凶害するので、この地の神人・猛覚魔聖者ト仙が鬼を、降伏させたとある。のち聖者は、御岳の東南の岩窟下に隠れたという。この猛覚魔ト仙というシャーマン性の山僧は、実名はわからぬが、「神化山霊の応変」というべし、と述べているから、やはり求菩提山の霊山信仰からの創造的な人物ではなかろうか*求菩提山  もどる  九州の山と伝説に戻る 

泰澄(たいしょう)大師(682−767年)(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 越後(新潟県)の大徳と称され、七−八世紀にかけて活躍した伝説的山岳修行僧。白山三山の霊験記、縁起記に登場する主役的な僧で、養老元(719)年、はじめ白山を開山したことで有名となり、元正天皇の病気治癒にあたり、また天平八(736)年の疫病流行を鎮めて大和尚位を授けられた。泰澄伝は種々あるが、正中二(1325)年の「泰澄和尚伝」(近年金沢文庫が刊行した)が最古の文献だという。本書中の阿蘇山の伝承説話の項で、「越後の国の泰澄法師が、阿蘇神社に詣でて祈念加持していると九頭の竜が現われ、泰澄が怒って、畜竜の身を以って此の霊地を領せんや、と叱ると金色の千手観音が池上に現ず……」という一説話があるが、この話は、「元亨釈書」巻一八にある加賀白山明神垂迹の条によると、養老元年泰澄が白山にはじめて登り、池の辺りで念誦していると、池中から九頭竜の大蛇が出現した。そしてついに十一面観音像に現じたということが記されている。阿蘇中岳の噴火口を神霊池とし、九頭の竜と千手観音という説話は、全くの類似説である。阿蘇の三所権現と、白山の三所権現が同一系統の垂迹説であるからであろう。泰澄が止錫したという説がある九州の霊山は各地に多い。*古処山・求菩提山・珂蘇山・高隈山群  もどる  九州の山と伝説に戻る 

行基上人(668−749年)(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 奈良初期の傑僧で、一説では百済系の帰化僧という。上人の宗教活動は、全国的におよそ四九の道場(寺院)をつくり、橋を架け、潅漑用の用水路を設け、保育所設立など社会福祉事業を積極的に行ない、〃菩薩〃と呼ばれ民衆に慕われた。もともとシャーマン的な、いわば修験者的な僧といわれる。やはり、民衆の苦しみだった病気などの災厄を除く魔法を修得していた僧だったのは事実であろう。*雲仙岳  もどる  九州の山と伝説に戻る 

玄清法印(姓は橘。766−823年)(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 「成就院玄清法印芳蹤記」(筑前国小田部隆叙、中村徳玄共撰)によると、「法師玄清は光仁帝宝亀三(772)年、七歳で筑前大宰府の四王寺で出家、延暦元(782)年十七歳で失明し、仏教宗一派を開基せんと決意、琵琶を弾じて地神陀羅尼経を読誦、仏天に祈る。二○歳で四王寺に草庵を結び、三十七日間断食し満願に四天王の霊託を受けて、比叡山に登り伝教大師(最澄)と謁見す。二十四歳にて勅許を得、四王寺峰の麓に成就院を建立した。玄清が二十九歳のとき、延暦九(790)年、天下に大疫病が流行、天皇は直ちに伝教に勅を下して疫病退散の祈尊をせしめ、伝教はまた玄清にも聖旨を伝え、玄清は成就院にて祈尊、すると忽ち法験あらわれて平癒せり、という。これより、天下諸道、神社仏閣にも論なく四季土用の日毎に荒神を祭杷し、流行病災厄を払うに至れり」とある。土用の日の荒神祭はこのときからで、玄清法印を荒神祭の開祖とする。玄清は弘仁一四(823)年、ふるさとの地大宰府成就院で寂す。天寿五八歳であった。太宰府の北、四王寺山(天智665年築城の最古の大野山城と同山異名)の岩屋山頂に玄清の墓碑(天保五年建立)がある。*四王寺山  もどる  九州の山と伝説に戻る 
玄清法印は大宰府の出身。766年にうまれ、幼名を乙丸といった。父親は当時都から西下してきた橘光政。乙丸は7歳のとき受戒し、名を玄清と改める。

最澄(さいちょう、神護景雲元年8月18日[1] - 弘仁13年6月4日旧暦767年9月15日 - 822年6月26日新暦〉))は、平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。先祖は後漢孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。【ウィキペディアより】  もどる  九州の山と伝説に戻る

空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名(諡号醍醐天皇921年贈〉)で著名な真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国大陸より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。【ウィキペディアより】   もどる  九州の山と伝説に戻る

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海常暁円行円仁恵運円珍宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。【ウィキペディアより】   もどる  九州の山と伝説に戻る

智証大師(814−891年)(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 円珍。天台宗寺門派の開祖で、空海の甥の子(母が空海の姪)で、一五歳で比叡山の義真に師事する。仁寿元(852年入唐の勅許を得て、同三年入唐、法全から密教を学ぶ。天安二(858)年帰国し、円城寺に唐院を建立、貞観一○(868)年天台座主となった。寛平一二(891)年入寂。七八歳。先輩の円仁(慈覚大師)とともに天台宗の密教を進めたが、円珍は円仁に対して「天台より密教が秀れている」と説き、のち一門の派は円城寺に拠って延暦寺と対立した。円珍は仁寿元年入唐のため西下、大宰府に同年五月二四日着き、そのまま大野山の円満山四王寺(天台宗)に便船待ちのため止錫した。その時、同山で毘沙門天像二体を彫刻し、一体を四王寺鼓ケ峰の本堂に安置、一体は宝満山・竃門山寺に安置して、入唐に対し天恩を祈った。またその間に壇像、普賢菩産像を造立して、普賢の行願を説法し、大乗経典を講演したので、台教はいよいよ盛んになった。円珍は同三(851)年に入唐し、天安二年に帰国したが、その高弟華台坊ほか七坊(六度寺、安祥寺、十境坊、真寂坊、宝寿坊、寂門坊、明星坊)は、同山鼓ケ峰から大原山(四王寺山の峰つづき)山麓に普賢菩薩を移祭し、堂宇を建立して「原山普賢院無量寺」と号した(「円満山四王寺縁起」)。いまもその址がある。*脊振山・四王寺山もどる  九州の山と伝説に戻る

性空上人(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)            修験道文化と神楽へもどる 
 脊振山修験道の始祖という。性空は三六歳で出家し、霧島山に寵り法華経を読誦す(「朝野群載」一巻)、とあり、またそれから数年後に脊振山に住む、とあるから、「本朝高僧伝」や「元亨釈書」等にいう霧島山の三年間滞在はまず間違いあるまい。だとすれば、性空三九歳で脊振山に止錫し、この脊振山に何年間いたのであろうか。「性空上人伝記遺続集」は、天暦元(947)年から康保三(966)年まで二○年也と述ベる。性空は脊振山から播磨国書写山に円教寺(天台宗)を建立するが、この『書写山円教寺旧記』によると、脊振山に三九歳より一七、八年を過ぎ、五七歳にして書写山に入る、その間の事は伝記にも見ない、云々と書かれている。性空の文献は一般には多く見ることができないので、『峰相記』の一文を記しておこう。「(中賂)康保三年に上洛、瑞雲影のように伴ない性空から離れず、翌朝戊亥の方高山に入山す。ここに筑紫で随仕した童子化け来りて山路を教える。また山僧現われて、この山を書写と名付く。一峰を一乗と号し、住山する者は六根を浄むという。僧すなわち文殊の化身たり。性空則ち草庵を結び寺院を建立す」云々とある。一説によると、性空の祖先は敏達天皇といい、その系譜には有名な奈良時代の廷臣・歌人橘諸兄(諸江とも書く。敏達天皇四世の孫美努(みわ)王を父にもち、母は光明皇后の異父兄)がみえ、また平安中期の天台僧、奈良多武峰に住した増賀上人も同一系譜にある。*脊振山・由布岳・霧島山群  もどる  九州の山と伝説に戻る
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))
 平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。日向国霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三ヶ所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
ウィキペディアより
増賀上人((C) 2004 談山神社, 奈良女子大学より)
 増賀(917[延喜17]〜1003[長保5])は比叡山の高僧、慈恵大師(元三大師)良源の弟子で、法華経に通じた。その生涯、事績は、『本朝法華験記』(下巻82)、『今昔物語集』(巻12-33)、『撰集抄』(巻1-1)、『発心集』(巻1-5)など、多くの説話集に語られているが、師良源の生き方の世俗的な側面を批判して、多武峯に隠棲したと伝えられる。橘氏で参議恒平の子、京の生まれ。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f561a52ee8453c60730013205c8b3236
皇慶阿闍梨(ウィキペディアより)
 皇慶(こうけい、貞元2年(977年)- 永承4年7月26日(1049年8月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。祖父は橘広相。性空の甥にあたる。谷阿闍梨・丹波阿闍梨・池上阿闍梨とも称される。台密谷流の祖。比叡山法興院静真に師事して天台教学を学び、長徳年間(995年−999年)伊予国で国司藤原知章のために普賢延命法を修し、九州では景雲から東密の法を受けるなど諸国を遍歴した。

最栄上人(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)       修験道文化と神楽へもどる 
 阿蘇の古代信仰は、欽明天皇五三八年の仏教伝来以降、神仏習合の時代に変貌していく。七六代近衛天皇の天養元(1144年、一説には四五代聖武天皇神亀三)年八月、比叡山の慈覚大師(僧円仁の誼号)の高弟最栄上人(他説では最栄は三三代推古天皇の御代の僧という)が、阿蘇大宮司・阿蘇友高に要請して、中岳の噴火口近い岩窟に籠り、天台密教を法修したという。それ以来、古坊中の山上に三六坊・五二庵(八八坊)の寺院が造立され、社僧・修験者の護法、法修が盛況した。このとき最栄は、阿蘇大神の本地十一面観世音菩薩(一説では千手観音)の像を彫って安置した。この安置堂を阿蘇神社の本地堂(寺号を西厳殿寺といい比叡山の末寺)といい、守護の社僧を衆徒とし、またその側に、役の行者堂一宇を造立して山伏が守護したという。この古坊中に建立された寺院は、慶長のころ阿蘇大宮司を庇護した加藤清正によって、山上から移されたものだといわれている。

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寒巌義尹 
(よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、1997、熊本出版文化会館より)
酒呑童子寺伝承(蛾、秦の益帝)熊本の昔話 、つり鐘、蝶*LinK/豊川稲荷1*LinK/豊川稲荷2、ダキニ信仰*LinK/宮崎県西臼杵郡高千穂町、竜泉寺*LinK/女人と禅宗(原田正俊)*LinK

・武家と禅宗
 元との戦いの直後の弘安六年(1283)、肥後の緑川の河口近いところに大梁山という山号を持つ大慈禅寺という曹洞禅派の大寺院が建立されました。この寺院は今も立派な大寺として熊本市野田町にあり、七百年余の昔、開山の寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師の法灯が守り続けられています。寒巌義尹(1217−1300)は後鳥羽上皇
*Linkの皇子で、幼年の頃に比叡山に入り一五歳で出家され、その後、山城国興聖寺の道元(1200-1253)の宗派の曹洞禅の修業をし、寛元元年(1243)と文永元年(1264)に宋に行き、道元の師であった長翁如浄に師事し、道元の教えを理解する事に努められました。第一回目の入宋は建長五年(1253)だったとも言われています。文永四年(1267)に帰国、はじめ博多の聖福寺、文永六または七年に肥後の素妙尼という女性の請願を受けて、肥後に来られ、宇土の三日村に如来寺、続いて建治二年(1276)に益城郡に極楽寺、弘安六年に大慈禅寺を開かれたのでしたが、この寺院建立、経営を外護(げご)したのは川尻庄の地頭河尻泰明で、寺地として四町四方を、寺領として五○町を寄進したといわれています。大慈禅寺の梵鐘は弘安一○年(1287)のもので、慶長(1596〜)以前の鐘を「古鐘」と言うそうですが、そのひとつです。如来寺は現在は宇土市岩古曽字上古賀にあり、寒巌禅師の像が安置されています。禅師は正安二年(1300)、この寺で示寂されました。ここにもお墓がありますが、大慈禅寺には廟があります。なお、大慈禅寺は河尻氏代々の菩提所でもあり、累代の墓もあります。
 大慈禅寺からは、南北朝初期に菊池一族の帰依を受けた大智、戦国時代の肥後の代表的な武将甲斐宗運の帰依を受けた洞春のような多くの傑僧が出ました。この時代、武家階級では禅宗の修業を積む人が多く、北条一門でも、時頼は宋の禅僧蘭渓道隆を招き、道隆は建長寺の開山となり、時頼は道隆を戒師として出家しています。時頼の次の執権が子の時宗ですが、時宗は無学祖元という、やはり宋人の禅僧に帰依しています。弘安元年(1278)に父時頼の師で、時宗も参禅していた道隆がなくなった後、時宗は僧を宗国に派遣して師とすべき高僧を招き、弘安二年にやって来たのが祖元でした。祖元は建長寺に入りました。弘安五年(1282)、時宗は円覚寺を創建して、祖元が開山となっています。弘安の役に臨んで、時宗に祖元は「莫煩悩(まくぼんのう)」という言葉を与えたといいます。一切悩まず、ひたすらに戦えという意味であったでしょうか。もどる 
津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境)  

 


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