九州脊梁山地、落人の里

7世紀 :韓半島の落人(百済王伝説
10世紀 :菅原道真公嫡子
12世紀 :源平合戦
南北朝〜戦国時代 :菊池氏、阿蘇氏、北里氏、甲斐氏
明治10年 :西南戦争


地図1   地図

相良、人吉、湯前(熊本県)
相良村初神の白鳥神社西南戦争の古戦場(照岳、合戦の峰、退いたが蜂)
白髪岳景行天皇の熊襲征伐(白髪岳や狗留孫一帯)
市房山伝承説話盛況を種めた市房大祭市房の神はホホデミ命

五木(熊本県)
五木の地名、子守唄野々脇の片目の魚、折太刀(折立)、宮園の大公孫樹
五家(箇)荘(熊本県)
地名の由来菅原道真嫡子平家の落人:白鳥山鬼山御前
椎葉(宮崎県)
稗つき節:美しい鶴富姫との恋
米良(宮崎県)
米良ジカ物語(龍の駒)
菊池一族の落人
桂山
宮崎県
南郷村(宮崎県)
百済王伝説


肥後の山に戻る
日向の山に戻る
九州の山と伝説に戻る

神々の系譜へ
九州の古寺一覧へ
九州の人々へ

九州に残る英雄伝説
宗教者(聖人)伝
九州の白鳥(神社)地名

重層する文化、連続する意識へ


相良、人吉、湯前

相良村初神の白鳥神社 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 人吉願成寺町では旧暦2月の五日、七日、九日に市が立ち、平家の落人が作りはじめたという伝説をもつ、雉子馬や市箱が売られる。寺名が町名になった願成寺は、相良氏入国のとき遠州相良から僧を伴ってきてここに建立し、菩提寺とされた。本尊阿弥陀如来は藤原期の作で重要文化財に指定されている。なお願成寺の裏山には、相長家歴代の墓がきれいに並んでいる。
 五分ほどで川辺川に出る。ここにかかる柳瀬橋を渡って台地に登ると、前に訪ねた血敷原に出るが、渡らないで左折し、しばらく川に沿って行くとパスのすぐ右手にこんもりした森が見える。雨宮神社である。伝説によれば、文明四年(1472)領内異状の日照りのため、藩主相長為統みずから参拝し、つぎの和歌を作った。”名も高き梢も松も枯れつべしなほうらめしき雨の宮かな”ところが帰途大雨が降ったので、願成寺にしばらく雨宿りされたという。戦前まで、日照りの時は、雨乞いの祈願がさかんに行なわれた。
 雨宮からさらに10キロさかのぽると旧四浦村(現、相良村)の中心地田代に着く。ここで川辺川を渡るとすぐ初神の部落があり、ここの白鳥神社にはつぎのような伝説がある。昔、社殿がひどく荒廃した時があった。ところが突然、村の女が狂いだし「われは白鳥の使いなり。当地を初神というは、四浦に初めて神の宮居を決めたためである。しかるにこれを捨て祭らざるは、はなはだ無道なり。今より長くその礼を失わば雷火を発して一時にもとの野原となす」というので、村人は驚き、さっそく社殿を再建して祭ると、狂女は正気に戻ったと伝えられる。
 このあたりから川幅が急にせばまり、流れも速さを増してくる。そして初神から4キロさかのぽった藤田部落にさしかかったとき、V字の峡谷はもっとも険しさを示す。このあたりから西北を望むと、ひときわ目だつ仰鳥帽子山(1302メートル)がそそり立っている。その東の稜線に仏石(1205メートル)がある。昔、球磨川の舟運が開かれる前、四浦(現、相良)−山江−八代を結ぶルートはこの山道だけであった。ある時、八代の商人が岩上に祭ってあった仏像を家に持ち帰ったところ、毎晩枕辺に仏が現われ、もとの所に返してくれとのお告げがあり、気味が悪くなって返したという由来がある。さて、相良村最後の集落藤田を過ぎると、もうそこは子守唄で天下に名を知られる五木村である。もどる

西南戦争の古戦場(照岳、合戦の峰、退いたが蜂) (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 照岳(508メートル)の中腹に御鬢の水がある。こんこんと湧く泉で、建久のころ(1190-99)の相良頼親(第二代)が神瀬谷に庵を構え、人吉城からしばしば通っていた。ある時、ここで体息してのどの掲きを癒そうとしたが、近くに民家があるわけでもなし、困っていた。なにげなく持っていた杖を地面に突ぎたてると、不思議やその穴から清水が湧ぎ出したのでこれを軟み、さらにその水で髪を梳ったので、それ以来この泉を御鬢の水とよぶようになった。この照岳は、明治十年(1877)敗走する薩軍を追って、一路人吉をめざした官軍の八木少佐指揮する歩兵八ケ中隊、砲兵ニケ小隊の通った道でもある。西南戦争の古戦場には、人吉市の北郊、札の辻から約三キロの山江村との境に合戦の峰(176メートル)の丘陵がある。また近くを流れる山田川を隔てて通称退いたが蜂とよばれる地名もある。退いたが峰は、薩軍が人吉めざしてここを敗走して行ったから名づけられたものである。今年(昭和五十二年)は西南戦争からちょうど100年、伝説が新しく生まれる実例を合戦の峰とこの退いたが峰は示している。もどる

景行天皇の熊襲征伐:白髪岳や狗留孫一帯に住む熊襲 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 合戦の峰から南に2キロほどで人吉に入るが、芦原に天子という石の小祠がある。熊襲征伐にちなむもので、肥薩の国境に高くそびゆる白髪岳(1416メートル)や狗留孫一帯に住んでいたという熊襲を討つために景行天皇が軍を進められ、ここで休息されたところであるという。掃討戦は一か月に及び、天皇は「五月の壬辰の朔に、芦北より発船したまひて」火国に来ておられる。ところで、球磨郡内には芦原の天子のほかにも十二か所の天子がある。上村字麓の天子、上村字石坂の天子、上村字塚脇の天子、免田町久鹿の天子、多良木町牛島の天子、深田村草津山の天子神社、錦町一武字本別府の天子および御手洗、錦町木上字平良の天子神社、相良村柳瀬字三石の天子、山江村字山田合戦峰の天子、山江村城内の天子、人吉市中神町古屋敷の天子いずれも景行天皇の足跡を意味するものであろうが、天子でなく、天下という地名がさらに二か所あるからおもしろい。一つは、装飾吉墳で有名な錦町京ケ峰の天下神社で、あと一つは人吉市原田の天下山である。そして天下を土地の人は「アモイ」とよんでいる。これは万葉集に「久方の天の門開き、高千穂の、嶽に阿毛理(天降り)し、すめろぎの、神の御代よ(以下略)」とあるように、神が天から降りたったところという天降りがいつのまにか「アモイ」に転訛したのではないかと思われる。もどる

白髪岳(1417m)

 人吉盆地の南の白髪岳山塊が大きく横たわっている。日本武尊による熊襲征伐の伝説を秘め上村に下宮白髪神社、皆越の中宮白髪神社、三池(御池)にある上宮社と信仰の山であり、安産と雨ごいの神として崇められてきた。標高1370mの三池(御池)神社は鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)ほか五柱の神々を祀る。もどる

市房山伝承説話(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より) 周辺地図 
 市房山の登山口である湯山部落(球磨郡水上村)の人々や、球磨郡一帯の人々は、昔から市房山(1721.8メートル)、白髪岳(しらがみだけ;1416.7メートル)、江代岳(えじろだけ;1607メートル、別称津野岳)の三岳を〃球磨の三岳〃と呼んだ。そして、九州ではこの三岳が一番高いお山だと信じられてきた。確かに市房山は、九州本島では豊後の九重連山を除くと、1700メートルを超す唯一の山である。それだけに、熊本、宮崎の県境に聳える市房山からの展望は雄大で、三六○度の九州の山々が望めて圧巻だ。とくに山嶺の東側は、北部の椎葉の里と並び称される秘境米良部落が散在する。米良、椎葉はご存じの平家落人の隠遁僻地で知られる。なかでも米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題今川了俊に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだという。九州でいまも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だと称している。もどる

盛況を種めた市房大祭(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 霊峰市房山は、遠く中世のころから戦前まで約六○○年間にわたった山岳信仰のご神体山だった。毎年、旧暦の春三月一四日から一六日にかけて行なわれる市房神社の春の大祭礼は、実は湯前に近い岩野の生善院親音堂(猫寺)の春祭りなのである。そして、地元湯山部落だけでなく、球磨郡一帯の近郷、近在の人々の手で盛大な〃お岳さん詣り〃が行なわれた。昭和の初期ごろの祭りのときは、湯前線に臨時列車が走り、球磨川沿いの道は、郡内からの参詣人の人並みで埋めつくされた。さらに、湯山温泉場から市房神社への掛齢五○○年といわれる老杉並木の参道まで、数千人の人の列ができ出店で娠わった、といまも地元の語り草になっている。〃お岳さん詣り〃行事の地元、湯山部落の老男老女たちは、いまでも一様に若きころの日の祭礼をなつかしむ。三月一五日は、〃タケンゴヤ〃といって田楽豆腐を食ベ、新婚夫婦は夕方から一緒に〃お岳さん詣り〃にでかける習わしであったという。明治、大正そして昭和の初期ごろ湯山の若者たちは、年に一度の祭礼に名を借りて、密かに恋人との逢う瀬を楽しんだり、なかには浮気の逢引きをしたなどという。〃お岳さん詣り〃に歌われる湯山の古い民謡「一六日唄」は、そんな山里の若者たちを想わせる色っぽい歌である。

 お岳山から ドッコイ
 湯山をみれば
 湯山おなご(女)が出てまねく
 ナーイヨエー もどる

市房の神はホホデミ命(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 人々のいう〃お岳さん詣り〃というのは市房神社のことである。この祭神が〃武の神〃といわれてきたのはよほど遠い昔のことのようであるが、明治初期ごろのご祭礼からは、むしろ〃縁むすびの神〃として親しまれるようになった。市房神社の祭神は、二ニギの命の子神、ヒコホホデミの命(山幸彦)である。ホホデミの命は、海幸彦・山幸彦物語で知られるが、二ニギの命、ホホデミの命、ウガヤフキアエズの命の〃日向の三代天神〃は筑紫国(九州九国)の開拓神である。そのホホデミの命が縁むすぴの神に変身するとなると、命と海神綿津見神の女(むすめ)豊玉姫との恋愛結婚にあやかろうというのであろうか。もどる

五木と五家(箇)荘

 五木の子守唄の五木(古くは居付谷と言った)は熊本県球磨郡五木村で、五家荘(古くは熊山と言った)は同県八代郡泉村の概ね東半分、即ち朝日(わさび)峠、笹越、小原川、清水橋を結ぶ線の以東を称し、これらの地区の中心は五木が頭地(とうじ)、五家荘が椎原(しいばる)である。もどる

五木  詳細地図 もどる  
五木の地名伝説 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 五木の地名伝説は落人伝説と深い関係がある。普通秘境に身をかくした落人は壇の浦敗戦後の平家というように相場がきまっているが、五木の場合、ちょっと混み入っており、つぎの三通りがある。
 その一、壇の浦の戦に破れた平家の一族、武将17人・従者135人が五木・五箇荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓、土肥・椎葉・那須・黒木を名のりいついた(いつき=五木)のであろうという伝承(平家説)。
 その二、壇の浦敗戦後、阿蘇の草部、八代の五家荘、球磨の五木、日向の椎葉というように九州脊梁山地に逃げこんだ平家を討伐するために来た源氏の武将たち(椎葉の那須大八と鶴富姫の伝説は有名)がいつしか平和な生活に馴れ、いついてしまったという伝承で、現在五木33人衆ともいわれる且那(庄屋)の家はその子孫であるという(源氏説)。
 その三、南北朝時代に九州に下っていた源氏の一門が、西征将軍懐良親王を奉じて転戦し、のち八代の名和氏に破れて河俣(八代郡東陽村)より大通越を通られて五木に入り、五木にいついたという伝承(勤王軍説)。その後親王は宮園より神渡瀬を渡られ、子別峠を越えて都へ帰られた。大通越は「お通り越」で、子別峠は、五木残留組と親王およびその従者たちが互いに別れを惜しんだ峠というわけである。 もどる

五木の子守唄 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 子別峠はもう一つの地名の由来をもつ。かつて、貧しい五木の名子たちは、娘たちが七つ八つになると、ロベらしのため、町(現在の人吉市)に女中奉公に出したものである。親子はこの峠で別れなければならなかった。「マチヘ行けば毎日ママ(御販)が食べられるとバイ」母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景も見られたことであろう。五木の子守唄の一節、^おどま親なし七つの年によその子守で苦労する^つらいもんばい他人の飯は煮えちゆおれどものどこさぐ、を思い出さずにはいかないところであろう。もどる

五木の野々脇の片目の魚 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 五木に入って最初の集落である小浜から約4キロさかのぽった野々脇には、片目の魚が住んでいるという祇園池がある。柳田国男の『一つ目小僧その他』の中に出てくる「片目の魚」と同類の事例である。この池から約九○○メートル難れた祇園社(八坂神社)の祭神は素戔鳴尊で、尊は蒲の穂で目を突かれたので片目だったといわれ、球磨郡内では「祇園さんの祭り(六月十五日)の日に働けば、盲になる」という俗信があって、この日は農休日にしたものである。祇園池の魚が片目なのは、素戔鳴尊が盲目だったことによるものか、柳田国男がいうように、神に捧げる印として魚の片目を抜く習慣と習合したのかはわからない。片目の魚がいるという伝承は人吉市南泉田の八坂神社、相良村柳瀬の浜宮神社(妙見社)にもある。もどる

折立の地名伝承 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 野々脇から五木村の中心、頭地は近い、ここで川辺川に小川が合流している。この小川をさかのぼると五キロのところに折立という、昔、平家の落人たちが、太刀一本で切り開き、その太刀がおれたので、折太刀(折立)の地名伝承を持つ集落がある。さらに小川をさかのぼると、さきに述べた大通越に至る。もどる

五木村宮園の大公孫樹 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 頭地から川辺川の名前は五木川にかわる。7キロほどのところに、五木第二の集落宮園があるが、ここの大公孫樹(大いちょう;県指定大然記念物)にはつぎのような伝説がある。昔、武士が大公孫樹に下がる乳房で煙草入れを作ったら、たちまち怪死したという。古くから乳が出るようにとお参りする婦人が多い。もどる

五家(箇)荘 詳細地図へ

秘境・五家荘、地名の由来 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 バスは、五木村の宮園から4キロ先の上荒地までしか行かない。五箇荘に入るには、ここから歩くか、頭地からタクシーで入るほかしかたがない。五家荘は管原道実の子孫、平家の落人、源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く住みついてしまったという興味ある伝承で有名である。
 五家荘は仁田尾(にたお)、樅木(もみき)、椎原(しいばる)、葉木(はき)、久連子(くれこ)の五家村のことをさしている。普通、五家荘(八代郡泉村)の地名の由来は、つぎのような伝説で語られることが多い。昔、壇の浦合戦(1189年)に敗れた平清経一行は、いったん四国の祖谷に身をひそめたが、やがてここを出て伊予の八幡浜から豊後の鶴崎に渡り、湯布院を経て竹田に入り、領主緒方三良実国に迎えられ、ここで実国の娘を妻として緒方姓を名のり、ふたたび道を南にとって逃避行をつづけるのである。九州脊梁山脈の道中、鞍岡では山賊約五○人に取り囲まれたが一五人の賊を捕え斬ろうとすると、頭の数馬なるものが助命の代わりに安住の地を教えるといって一行を白鳥山(1639メートル)まで案内した。緒方清経は頂上から四方をながめ、定住の地を決めるのに五本の矢を天に放って占った。一の矢はモミの木に当たったので縦木、二の矢は仁田のイノシシの尾に当たったので仁田尾、三の失は白い羽がとれて行方不明になったので、仁田尾と縦木の一部をはぎ合わせて葉木、四の矢は岩の間でわからず、子孫が久しく連なるように久連子、五の矢はシイの大木に当たったので椎原と名づけられたという。もどる

菅原道真嫡子、管宰相(左座太郎)と管次郎: (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 五家荘の歴史的住人として、平家の落人よりも二九○年ほど早く、管原道実の嫡子らが延長元年(923年、平安時代)に太宰府から落ちのぴて住んでいたという。仁田尾と縦木の殿様(庄屋のこと)は左座(ぞうざ)家を名のり、つぎのような由来がある。管原道真が筑前で死去(903)したあとも、藤原氏は菅家の根絶を計りその一族を追求した。道真には太郎と千代丸という兄弟がいたが、左座太郎、菅次郎と変名し、兄の太郎は、少数の家臣とともに、延長元年(923)三月、肥後国高瀬を経て、甲佐まで来り、左座太郎主従は八代郡四浦(現、柿追・粟木・下獄・河俣)を通り、岩奥から笹越峠の嶮を越え、奥(現、仁田尾字奥)という所に居を構えた。これが仁田尾左座の祖先である。一方、弟の管次郎は、兄の太郎と甲佐で別れ、矢部郷で三年を過ごし、兄によび寄せられ、縦木にいついたのであった。もどる

平家の落人:白鳥山(1639m) 
 それより約二九○年後の鎌倉時代に平清盛の孫、平清経らが平家の残党とともに豊後竹田に入り、緒方三良実国の養子となって、高千穂から緑川渓谷ぞいに今の内大臣あたりを遡行し、国見岳から向霧立山地の尾根伝いに南下し、白鳥山(1639m)に館を構えた。現在の白鳥山から500m北の御池を中心に約七二年間居住し、東側の椎葉の残党達とひそかに連絡をとっていたのであろう、現在はその地に左中将平清経住居跡の標柱がある。なお小松内大臣平重盛所有の白鳥之鎗を、三男の平清経が受継ぎこの地に持参したところから白鳥山の名がついたようである。樅木と宮崎県椎葉村向山日添には白鳥大権現を祀る白鳥神社がある。左中将平清経は改姓して緒方市郎清国と名のり、その曽孫、緒方盛幸、近盛、実明の三見弟が白鳥山の御池を出て、椎原、久連子、葉木にそれぞれ分住して以来、今日まで三十余世代を経ていると言われている。写真:樅木の白鳥神社   もどる

鬼山御前と那須与市宗高の嫡男宗治: (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 今ひとつ源平の戦のあと、那須与市宗高の弟、大八宗久の平家追討は、日向から耳川ぞいに椎葉に入り、この地の平家残党や平清盛の末孫鶴富姫との情愛と変り、いつしか三年の歳月を過ごした。これは源頼朝の意に反するところで、兄の与市宗高は弟の大八宗久を呼ぴ戻し、自分の嫡子那須小太郎宗治に再ぴ平家追討を命じた。宗治一行は砥用(ともち)から柿追を経て岩奥にたどりついた。当時、岩奥には落ちのぴていた平家の官女で美人の鬼山御前(扇の的の舳先に立っていた玉虫御前と言われる)と久茂(くも)の姉弟がすでに居住していた。宗治らを出迎えた鬼山御前らは自分達の仲間である平家一族がこの岩奥からさきの山奥に隠れ住んでいるのではないかと心配し、宗治らに板木村から先は道もなく、人の住めるような所ではないと進言して、保口から一歩も奥へ行かせなかった。鬼山御前は宗治らを岩奥の地に引き留め、心からもてなすうちに那須大八司様に源氏の追討組と平家側との敵同志が融和して、ほどなく鬼山御前は那須与市の嫡子那須小太郎宗治の妻となり、この地に住みついたと言われ、現在、保口地区の那須家三軒はいづれもその子孫と言い伝えられている。なお保口岳(1281m)から南へのぴる御前峰(1280m)はこれも鬼山御前の名前からつけられたもののようである。もどる

椎葉  詳細地図へ    椎葉村の郷めぐりへ   修験道文化と神楽

稗つき節:美しい鶴富姫との恋 (風土記日本第1巻 九州・沖縄編、平凡社より)
 椎葉村は、むかしから人跡まれな秘境として知られていた。俗に推葉千軒というが、一郡にも相当する広い面積の士地に、わずかな人家が散在していたのである。もともと日向は、中央からはなれた内陸の流刑地として、有名無名の罪人がこの地に遠流されたのである。源平合戦にやぶれた平家の一門がのがれのがれて、椎葉や山をこえた隣りの米良の僻地にかくれ住んだ。それを平定するために頼朝の命をうけて、下野の那須与一宗高がおもむくことになったが、病の床にふしていたので、弟の大八郎宗久が元文二年かわって椎葉へはいったと伝説は語っている。大八郎がここで見いだしたのは、追いうちに値する勇敢な平家の残党ではなく、平和にくらす山村の住民であった。かれ自身も、いつしかここに安住の地を見いだし、美しい鶴富姫との恋が芽ばえたというのが、今日椎葉を語るもののかならず口にするところである。もどる

米良   詳細地図へ   米良村の郷めぐり

菊池一族の落人: 
 米良、椎葉はご存じの平家落人の隠遁僻地で知られる。なかでも米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題今川了俊に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだという。九州でいまも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だと称している。もどる

メラジカ物語 (中武雅周 著 ふるさとの記 米良の荘 より、  中武雅周文庫……米良風土記)  日向の古歴史へ戻る
○龍の駒

日向の国の山奥に、米良という小さな村があった。明治の始め、深瀬に中武利三郎という行者があった。利三郎の祖は深瀬屋敷の天氏米良家の古い家系で、利三郎は時々猟をたしなみ、奥山の尾股谷筋から須木境まで出かけることも希ではなかった。幼少の頃から父や、父の仲の良い猟師仲間たちから七又の角をもつ「龍の駒」という大鹿の話しを良く聞かされてきた。「龍の駒」とは、米良山中から、南は霧島山系、北は祖母・九重連山にかけて棲んでいる大鹿で、体つきは牛ほどもあり、然も神通力を持った鹿である。「龍の駒」は神の使いであると伝えられ、山之神や時には龍神や雷神を乗せて、一晩に千里も駈けると言う。 山中で「龍の駒」 に出合った人たちは、神のお使いとして、大切に見守りそしてその場に座して両手を合わせ安全を祈った。七又とは、角の又が七ツある事で、日本鹿の角はせいぜい多くて三ツ又であるのに、「龍の駒」の角は、丸角でなく偏平であり、又が七ツあると言うのである。

明治八年頃という、利三郎は尾股の山中にかけておいた猪罠を見に出かけた。谷を渡り向う側の尾根に通ずる斜面ぞいの一張に、大きな鹿が首をしめられて頭を垂れて下がっているのをいち速く目撃した利三郎は、足をピッタリと止め、その得物をジーツと見ていた。今までにとった鹿とは違う、頭の先を見たら大きな角が付いている。利三郎はおそるおそる罠に近付いて行った。

「龍の駒」だ!、と利三郎はとっさにさけんだ。近付いて見ると、なんと牛ほどもあろうか、角を見れば普通の鹿の角ではない。なんと大きなこと、今までに見た事も、とった事もない動物だ。七又あげた大鹿を持った「龍の駒」の話しを聞いてはいたが、まさかこれがその「龍の駒」か、と利三郎はビックリした。利三郎は脇差を抜いて、罠の綱を切った。「ドサッ」と重そうな音を立てて、「龍の駒」は地面に落ちた。普通の鹿の体の二倍ほどはあろう。重いので、とても一人でかついで行けない。利三郎は供養の為に片角を切り落とし、死体の上に周りの土を盛り、丁重に葬った。そして其の前に座して、御祓いをあげて霊を弔った。

 切り取った右角を持って帰宅した利三郎は、樺の台にしっかりと固定し、球磨の森田に頼んで、この台にうるしをかけた。立派に出来た角を持って帰った利三郎は、神棚の横に納めて、毎日神前を拝しながら「龍の駒」の霊を弔った。

○遂に「龍の駒」の角動物学会へ

「龍の駒」の事など、我々の生活からすっかり忘れ去られてしまっていた昭和二十三年の初秋の或る日のこと、宮崎大学農学部教授中島茂博士と、宮崎大学学芸学部助教授松沢寛氏(後香川大学教授、農学博士) の突然の来宅となり、話題は米良の歴史から米良の生物へと発展していった。折も折床の間の横に、ほこりをかぶった「龍の駒」の角に二人の先生の目が止まった。そしてその角が改めて、しかも初めて先方へ紹介されたのである。

 後日、松沢寛氏によって研究同定の為、この「龍の駒」の角がはじめて村外に持ち出された。鹿の角のようだが形が特に異なり、どうも日本鹿の角のイメージから全くはずれたものであり、はたして鹿の角なのか。鹿とすればいったいどんな種類の鹿であろうか。

 角は直ちに農林水産省技官岩田久吉氏の研究室に搬び込まれ、後一ケ年間にわたって、研究が続けられたと言う。研究の結果、鹿の角である事は確かであるが、此の種の角を持った鹿は、日本に棲息していたと言う記録は全く無く動物学者の間でもずい分問題になったと言う。つまり外国から角だけを飾り用に購入されたものではないか。というのである。しかし現実に米良の山中で捕殺されたものである事は確かで、現在棲息中の日本鹿の前の時代に棲息していた鹿であろうと、色々検討された。しかし遂に最終的には、米良鹿と命名されたのである。メラセルバス セルバチァタス キシダという学名が、この時から動物分類学史に新しく加えられるに至った。和名は米良にて最初に発見されたと言う、動物命名方に準拠して新種メラシカ(米良鹿)と呼ぶようになったのである。時、昭和二十五年始めの事であった。松沢寛氏はいち速くメラシカの報告書を整理して農林省へその第一報として報告した。

○国東地方の米良鹿

全国でめずらしい米良鹿が国東地方に棲息していることが明かにされ、学会の注目をひいているが、わが国哺乳動物の権威者農林省猟政調査課岸田久吉氏の正式調査依頼により田島県計画課長らがこのほど予備調査を行い、つづいて同課嘱託加藤数功氏、林政課吉田主事らは五日から三日間両子山、文珠山、ヱビス岳の本格的調査を行っている。

米良鹿は宮崎県の米良というところに全国で唯一頭だけ捕獲されたことがあり、昭和二十五年国東町富来濱末正松氏が捕獲し(現在その角は内藤県総務部長所蔵)また昨年香々地町(三重)大刀清氏、猪又茂氏がそれぞれ角一本を付近の山で拾っており棲息は、ほぼ確実である。特徴は黒色が強く角が平たい、普通の鹿なら角が丸く二又か、三叉であるが米良鹿は五又以上もあり、普通鹿が二、三頭はいるという同地方には必ず数頭の米良鹿の棲息が専門家の間で推定されている。・・・・・・・大分合同新聞(昭和二十九年十二月七日)(中武雅周 著 ふるさとの記 米良の荘 より)

○国東のメラシカ

 昭和二十五年十一月、私は玖珠郡八幡村鳥屋の養泉寺に一泊し、当夜住職志津里氏や二、三の村の古老と民俗座談会を催したことがあった。この時珍しい変型のシカ(鹿)の角を祭神とする山神の話題が出て翌朝神体を拝観におよんだが、かって見ない驚異的な平型の大角であった。それは寒帯地方にすむトナカイの角のように、先端が偏平に開き、五又にも七又にも分岐したすばらしいものであった。ところが大昔、この地方にて獲れたものであるという以外全く不明であった。それから一年目に国東から上野鉄雄氏が来られて、かって調べた鳥屋の角と同型の、もっと見事なものを県庁の私の机の上に置かれ、この角の鑑定をしてもらいたいとの申出を受けた。聞いて見ると国東の山で、前年の二十五年暮に獲れたもので、まだ生々しい血痕も一部に見られ、国東まで調査に出掛け度いと興味は十分にわいていた。ところが、さきに上京の節奥祖母のカモシカやクマのことで、農林省狩猟調査所の主任技官で動物分類学者として有名な岸田久舌先生に合った時、その研究室の標本に前に見た角と同型の見事な骨格の付いたものを見た。お話では、このシカは九州宮崎県米良の山郷で獲れたもの、現在日本でこの型の角は、この標本のみであり、とりあえずメラシカとして発表したもののその生態一切が全く不明で、全国に調査を手配しているが、今日まで第二報がないとのことであった。その後調査のチャンスに恵まれず、たまたま田島計画課長と国東へ国立公園調査に出掛けた時その調査の糸口を調べて見たところ、かなり詳細な前のメラシカの捕獲の話も明りょうとなつた。その角の所有者は県の内藤部長であった。 加藤数功……大分合同新聞 (昭和二十九年十二月七日)(中武雅周 著 ふるさとの記 米良の荘 より)

○メラシカを生捕る

農林省がシカの新種として探しているメラシカ≠轤オいオスシカが、六日香々地町三重区鬼力城の山中で生捕りされた。県計画課では普通のシカより、ずっと大きく、形態も異るところからメラシカ≠ニ折紙をつけている。メラシカは二十一年ごろ宮崎県児湯郡米良渓の山中ではじめて猟師が射とめて、農林省に鑑定してもらったところ、わが国では珍しいシカの一種と判明、それからメラ (米良) シカと名づけられ同省が学術的にさらに研究するため、国内各地で探し求めていたもの。

農林省でこのことをきいた県計画課嘱託、加藤数功氏が二十五年二月、国東町富来上野鉄雄氏(50) が、メラシカらしいオスシカ一頭を射とめたことがあると同省係官に話したところ、同省も乗気になり、一月以来県計画、林政両課に依頼して調査を受けていた。

捕獲されたシカは六日の夕刻同町三重区東夷猟師猪股茂さん (49)隈井杉男さん (31) の二人が狩猟から帰途、猪股さんの猟犬に追われて小河内の他の中に逃げこんだところを、格闘して生捕りにしたもので、加藤氏が七日現地でこのシカの形態を調べたところ、高さ約八十三センチ、体長八十五センチ、胴回り約九十センチ体重十八貫、十歳以上十五歳前後のみごとなもので、ツノは落角期でなかったが、形態からして宮崎県でとれたのと同じで、わが国では珍らしいメラシカということが判った。なお県計画課ではくわしい生態学的データをまとめて農林省に報告、天然記念物指定申請する。・・・・・大分合同新聞 (昭和三十年五月九日)(中武雅周 著 ふるさとの記 米良の荘 より)  もどる

 

南郷村   南郷村の郷めぐりへ   山への旅(百済王伝説)

百済王伝説: (西日本新聞より)
 約1300年前に滅亡した朝鮮半島の古代国家・百済の王族が移り住んだという伝説が残る宮崎県南郷村。「百済王」伝説をもとにしたといわれている祭りは、旧暦十二月にある師走祭り。百済の貞嘉王を祭る南郷村の神門(みかど)神社と、その長男福智王を祭る同県木城町の比木神社が共催する祭りで、子が父を訪れ再会するとの筋立て。今年は1月21日から三日間行われる。祭りでは、比木神社の宮司らが福知山福地王馨王のご神体とともに約90キロ離れた神門神社まで、「追っ手から逃れるため野に火を放った」との故事に基づく野焼きなどの儀式をしながら向かう。1991年に文化庁の「記録作成が必要な無形民俗文化財」に選ばれた。神門神社には、古墳時代から平安時代にかけての二十四面、中世以降九面の銅鏡をはじめ、戦国時代の鉄ほこ千六本、江戸初期の三十六歌仙板絵などの多彩な奉納品が残されている。だが、伝説の根拠とされる師走祭りや神門神杜の起源はなぞのままだった。調査団の一人で椎葉民俗芸能博物館(宮崎県椎葉村)の永松敦主任学芸員は「神門神社の奉納品から、歴代の権力者が泰納してきた格式高い神社だったことが分かる。なぜ山深い所の神杜がそんな力を持つていたのか興味深い」と歴史の変遷をたどる方針。
百済王伝説:六六○年に唐、新羅の連合軍に滅ぼされた百済の王族は畿内地方に亡命した。その後、動乱に巻き込まれ王族の貞嘉王とその長男福智王ら一行が筑紫(九州北部)に向け出航したが、日向国に漂着。神門と比木に分かれて住んだ。やがて追討軍が神門を目指して攻め込んできたため、貞嘉王らは地元の豪族と力を合わせて抗戦したが、貞嘉王は流れ矢に当たって戦死した、とされる。
百済王族伝説: 滅亡した朝鮮半島の古代国家「百済」から日本の畿内地方に亡命した王族が、その後の動乱から逃れ、船2艘で筑紫を目指したが、瀬戸内で激しいしけに襲われ日向の国の2つの浜に漂着した。それぞれが山奥に逃れ、後に父禎嘉王は南郷村の神門神社の祭神に、長男の福智王は木城町の比木神社の祭神として祭られた。
リンク  師走祭り:百済王伝説;

【百済伝説13】師走祭調査報告書の検証まとめ :百済王伝説が江戸時代の『高山彦九郎』と『高本紫溟』の創作ではないかと言うご意見も戴きました(2011/10/8)。
http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-87.html

☆【百済王伝説】 宮崎県のHPより:昔、朝鮮半島の古代国家・百済から王族が日本に亡命、日向の国に漂着したとする伝説がある。南郷村・神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の天平勝宝8(756)年ごろのことという。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/013.html 

http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/010.html

http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/041.html

 

   もどる


宮崎県東臼杵郡諸塚村桂山          九州山中の落人村      山に生きる人々 宮本常一著 1964 日本民衆史2 より  諸塚村の郷めぐり

 狩人にしろ、サンカにしろ、木地屋にしろ、みんな山を対象とし、自然採取を主として生きてきたのである。そしてこの人びとは自然採取から一歩すすんだ形で焼畑をおこない農耕生活へ接近していったので、畑作が主であった。

 ところが、これらの人びととは別に、野から山へはいりこんだ人もすくなくなかった。それらのなかには落人の村と称するものがすくなくない。とくに平家の落人と称するものが三〇〇近くもあるといわれている。その主なものをあげてみると、熊本県八代郡五家荘、宮崎県東臼杵郡椎葉村、高知県高岡郡仁淀村・名野川村、徳島県三好郡東西祖谷山村・那賀郡木頭村、山口県玖珂郡錦町、大阪府豊能郡能勢町、奈良県吉野郡十津川村などがあるが、これらの伝説地に確たる証拠のあるものはない。

 が、その初めどこからかやってきて山奥深く住まねばならぬ事情があったのである。そこでここに興味深いエピソードをあげよう。宮崎県東臼杵郡諸塚村に桂山というところがある。諸塚は「稗つき節」の椎葉村の東北に隣する地で山岳のかきなりあった椎葉に似た村で、いたって不便の地である。その村の七ツ山のことについては前述した。

 その七ツ山からきらに山一つこえた東の谷の奥に桂山というところがある。谷底から見あげると山の頂近いと思われるあたりにわずかばかりの畑をひらいて家が数戸ある。よくそういうところに住みついたものだと誰もが思い、またなぜそういうところに住みついたかをうたがわざるを得ないようなところである。そこは落人の村であった。永正一〇年(1513年)阿蘇惟長は弟の惟豊にゆずった阿蘇宮の大宮司職をうばいかえそうとして、薩摩の島津氏のたすけをかりて、阿蘇山の南麓矢部の館にいた惟豊を攻めた。惟豊は日向の鞍岡にいた甲斐親宣をたよってそこにかくれた。惟豊の軍は島津勢に追われて四散し壊滅した。惟豊の部下で阿蘇山の北の小国郷の領主であった北里伯耆守為義も島津の軍に追われて日向の高千穂に逃がれ、さらに山をこえた南の桂山で自決して果てた。そこで家来の一人が伯耆守の遺骨をほうむり、墓石をたてて墓守として住みついた。それがこの地の甲斐氏である。家は四五〇年の間に五軒にふえた。その本家はいま諸塚神社の宮司をしているが、いっさい百姓をせず、肥料を手にしない。また墓を守りつづけて、その墓域には女をたちいらせない。桂山には文献としては何ものこっていないが、甲斐氏が北里伯耆守の家来の子孫であり、伯耆守の墓守をして今日にいたったのだという伝承がある。ところが一方、小国郷の北里氏の一族は永正の合戦の後、また立ち直って小国郷を支配し、豊後の大友氏が勢力を持つようになるとその配下に属し、きらに細川氏が肥後の太守になると、二〇〇石ほどの知行を与えられて明治におよんだ。そしてこの家には南北朝以来の古文書を多くのこし、また「北里軍記」という合戦記ものこしていて、そのなかには北里伯耆守戦死の一条もある。系図のなかにも「墓地高千穂七ツ山桂村二在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とあって、伯耆守が桂山で死んだことも、北里家の方では知っていたはずであるが、そこ訪ねて先祖の墓参りをしたことはなかった。北里家の当主にあたる人はたまたまこの系図や軍記ものに心をひかれ、先祖の墓が桂山にあるものかどうか、仲よくしている友と二人で昭和三十二年九月に小国から阿蘇を南へ横切って馬見原に出てそこから飯千という峠をこえて諸塚村にはいり、道にまよいつつやっと桂山にたどりついた。行ってみると、その高いところに水田もあり、また焼畑づくりをして食料は自給している。訪ねていった事情を話すと、甲斐氏は非常に喜んですぐ村中の人をあつめた。村中といっても五軒にすぎず、いずれも甲斐氏のわかれである。そして昔の殿様の子孫が訪ねてきたとて大喜びで歓迎してくれた。神主の家は火事があって記録は何ものこっていないが、三尺五寸ぐらいの、信国と銘のある刀と千本槍が永正以来持ち伝えてきたのだといって保存されていた。

 桂山と小国の間には四五〇年のあいだ表立った往来も交渉もなかったようである。ただ、今から八〇年あまり前に一人のばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在した。小国の北里家の者だといっていた。桂山の者が先祖の基を丁重にまつっていることを心から喜んで、家の者にも必ず墓参りきせるからといって立ち去って以来、何の音沙汰もなかった。桂山の人たちの伝承や記憶では四五〇年の間に小国から訪ねてきたのはこの老婆だけだったようである。

 この話が本当であるかどうか、北里氏が小国へかえって戸籍をしらべてみると、一族のなかに七〇歳すぎて行方不明になった女性が一人いる。たぶん桂山まで墓参りにいったかえりに、家までたどりつけなくてどこかで死んだものであろう。その老婆は桂山へ行ったとき「家では蚕を飼っている」と話したそうである。事実、北里氏はそのころ農業をやっており、また蚕も飼っていた。そうした蚕に手をとられたためか、その女は他所へ嫁にも行かず、七〇あまりまで、北里家でくらしていた。すべての話が符合した。記録を持っている北里家の方では記録を見れば「そういうこともあったか」と思うことはあっても、日ごろはすっかり忘れているが、記録を持たない世界では記憶にたよりつつ語りついでいるためか、案外正確に四五〇年以前のことを記憶していたのである。もし口或伝承がこれほど正確なもので、しかも四五〇年ぐらいの間ならばそれが十分伝承せられていくものであるとするならば、平家の落人であるか否かは別として落人の伝承を持つものには何らかの根拠があったのではないかと思われる。 

もどる


天険可愛岳 一百里脱出

 薩軍は西郷とともに人吉に退き、薩摩をはじめ大隅、日向の三州に勢力を保持して、官軍と持久戦に持ち込む策をとり、各地に抗戦すること一力月。だが、作戦利なく宮崎に後退、さらに延岡の北、いまの北川村(当時は北長井村)まで追い詰められた。ときに明治一○年八月中旬。ここで西郷は、同村俵野に本営を置いて、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた。本営地の頭上には、岩峰鋭い天険の山可愛岳が聳える。西郷は決断した。栄光の脱出行を選んだのである。傷兵は本営地に病院旗をたてて、民家に後事を託した。総帥西郷に従う将兵は桐野利秋、別府晋介らわずか六○○名にしか過ぎなかった。ここ天険可愛岳から北稜を伝い上祝子、大崩山の鋭峰を右に九州山脈を踏破、深山の夜露をすすって、辛酸実に一百里におよぶ死の脱出行であった。西郷は同年八月一七日に出発、可愛から峻険可愛岳を乗り越え、官軍の追撃をかわしながら、あるいは桐野利秋、別府普介らの奮戦で官軍を撃退しつつ、九月一日、鹿児島私学校に見事帰着するのである。薩軍の脱出行コースは、可愛岳乗越え→上祝子→高千穂町→五ケ瀬町→諸塚村→北郷村→南郷村→東米良→西米良→須木村→小林市→鹿児島(私学校)であった。

 
西南戦争