九州の人々

古代和邇族 和仁氏

宗像氏

大蔵一族 秋月氏 原田氏 板井氏 日田氏 草野氏

調一党 黒木氏 星野氏

大神一族 緒方氏

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征西将軍ゆかりの人々  五条氏  真弓氏

津江氏(長谷部氏)

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少弐(武藤)氏 、筑紫氏

島津氏島津庄の成立

九州に残る英雄伝説

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九州に残る英雄伝説

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鎮西八郎為朝        (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 世に伝えられる為朝伝説は、各地に伝説地、遺跡をのこしているが、最も多いのは為朝が自刃して果てたという伊豆大島、九州、沖縄である。すでに、史記「保元物語」で為朝は、超人的英雄、豪傑として描かれ、しかもその末路が源義経と同じく、いかにも悲劇的な最期を遂げるので、とくに九州人特有の半ば同情的な感情が幾多の伝説を創り上げたのかも知れない。伊豆八丈島は為朝終焉の地といわれ、「保元物語」の大島に近く、島の「宗海寺」は為朝の子為宗が創建したと伝えられ、代々その子孫が住職だという。一方、南の沖縄には真に追った為朝渡来伝説があって、これまでにも多くの沖縄文献がある。たとえぱ江戸時代の袋中上人著「琉球神道記」(1648年)をはじめ、一八世紀の清朝の冊封副使、得葆光著「中山伝信録」羽地朝秀編「中山世鑑」、「慶長小説」、「続本朝通鑑」、あるいは新井白石著「南島志」、水戸光圀著「大日本史」、尚弘方著「中山世録」、それに江戸後期の国学者伴信友の「中外経緯伝」などが挙げられる。それらの沖縄伝説によると、伊豆に流された為朝は、漂流して沖縄運天港に流れ着き、今帰仁(なきじん)というところに上陸した。為朝は、島の長官、島尻大里大按司の娘を娶って仁安元(1166)年に一子尊敦をもうけたが、為朝は、その妻子をのこして再び大島に帰国したという。この尊敦が、のち沖縄王朝の祖・舜天王になったと述べる。舜天を記る崇元寺には、為朝の遺物鏑矢がある。また奄美大島や喜界島にも為朝伝説があり、その苗裔と称する人びとが多い。江戸後期、豊後国の由布岳山麓を舞台にした滝沢馬琴の名作「椿説弓張月」は、九州におけるこれらの伝承説話を種本にして、馬琴一流の想像力で創作されたものである。その他の九州伝説を拾うと、為朝の大蛇退治で有名な肥前国黒髪山(天童岩)に住みついた大蛇を強弓一矢て射止め、白川の谷底深く落ちたあと、短刀でとどめを刺したのが梅野の盲僧海正坊だという。豊前国京都郡豊津町にある若宮八幡神社は、為朝の祖・源頼光が、源氏の守護神、鶴岡八幡宮の加護で丹波国(京都府)大江山の鬼を退治したという故事から、為朝が鶴岡八幡宮の神霊を勧請、祭紀したと伝えられている。為朝は、この地でも暴れ回る鬼どもを退治したといい、いまも鬼岩、鬼橋というのがのこっている。同じ筑前国(福岡県嘉穂郡)大隈町には、古くから「為朝」という地名があって、為朝が隠れ住んだという巨大な岩窟がある。また豊前国(福岡県田川郡)香春町にも為朝の館という為朝屋敷があり、伊豆大島にも、為朝館址、為朝神社、家来鬼夜叉の墓、為朝の手植えの玉樟がある。*香春岳・由布岳・八幡岳・黒髪山・行麻山  もどる

 


大蔵一族(大蔵氏)   日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版より

 大和朝廷の官物を納めた蔵である大蔵に仕えた漢(あや)氏の子孫といい、のち大宰府の官人として九州に勢力をもち、嫡流の原田種直は平氏政権のもとで、九州支配の要として勢力を振るった。大蔵氏からは原田氏のほか、鞍手・三原・早良(さわら)・秋月・北郷・米生・湯江・坂井などの庶家が分出し、原田種直や坂井種遠は平氏と運命を共にしたが、その一門は鎌倉幕府成立後も北九州各地に根強く残った。  大蔵姓 原田氏、日田氏、天草氏

原田氏 大蔵一族 大蔵春実以来の本流で秋月に蟄居し大宰府官人として行政力を持ち、種直は原田荘(糸島郡)など3700町歩の所領を得、大宰権小弐に任命され、平氏のために北九州の地盤固めの要の役をなした。

原田信種(一五六〇−九八年)  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

天正一四(一五八六)年一二月、秀吉の島津征伐軍主力が九州に快進撃したとき、西筑前、高祖城城主原田信種は、秀吉先鋒の小早川降景に降伏、助命を乞うた。秀吉はそれを赦したが、降伏がおくれたといって領地を没収、筑後黒木氏の旧地わずか三〇〇町を与えて肥後佐々成政の与力に格下げした。かつて平家の名族・大蔵春美の一族として、九州筑前にならした豪族武門の原田氏も、戦国末期になって瓦解四散した。

*立花山

秋月氏 筑前の豪族大蔵氏の一族で、原田氏の支流、のち大宰府の官人として鎌倉時代のはじめから筑前国夜須郡秋月圧に住み、種雄がはじめて秋月氏を称した。南北朝内乱では、南朝方として活躍し、戦国時代には種方が秋月党を率いて毛利氏に内応し、大友氏に対立した。秀吉の九州征伐によって、種長の時降伏し、日向財部(のちの高鍋)に移封され、関ケ原の戦いでははじめ石田方に属したが、のち徳川方に転じ、本領を安堵された。子孫相次いで高鍋藩主となり、明治維新に及んだ(日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版より)。

秋月種実(一五四四−九六年) (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 永禄・天正の九州戦国時代、筑前の小京都といわれた秋月の領主。始祖は天慶四(九四一)年六月、大宰府一帯を荒し回った藤原純友を追討した大蔵春美で、その二男が秋月に住み、初代秋月種雄と名乗り、種実はその一六代目にあたる。弘治三(一五五七)年七月、秋月種文(種方?)は豊後の大友宗麟に攻められ自刃して果てたが、遺児三人は成長して秋月種実、高橋元種、長野種信といい、共に亡父の仇宗麟に徹底抗戦した武将として知られる。種実は天正一五(一五八七)年三月、秀吉の九州征討軍に降伏したが、それまで盟を結んできた島津義久に義して、秀吉軍に抗した、いわば信念に生きた戦国武将といえよう。そのため忠臣恵利暢尭の死の諌言にも耳をかさず、一族と共に敗将の悲哀を味わった。種実は一族の助命を願うため秘蔵の茶壷”楢柴=@の肩衝を献上したが、結局秋月三六万石から一挙に日向財部(高鍋)三万石に格下げ転封された。秋月は慶長五年以降、筑前黒田の支藩となった。

    古処山・馬見山

板井氏 大蔵一族 豊前国に土着して在庁官人となる。種遠の頃には京都郡板井の神楽城を本拠に、その所領は築上・京都・仲津・田川の各郡内に分布した。板井氏は宇佐宮とともに豊前国における平氏与党勢力の中心。

日田氏 大蔵氏。豊後国日田郡を本拠。大蔵鬼蔵大夫郡司職、天仁年中高家日田冠者と号し、郡を支配、永俊郡内を諸子に譲る。文永・弘安に永基・永資軍功有り、21代七郎丸で断絶、大友永世郡司職をつぐ。親将自害、郡司職断絶、子親永朝鮮に死去、滅亡する。

草野氏 大蔵一族。御家人として筑後に勢力を持った。三井郡北野町に住し、草野次郎経長は弘安4年(1281)フビライの再来に当たり敵船に跳び込んで奮戦したことで著名である。

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調一党(黒木・河崎・星野一族)       九州の人々へもどる 

黒木氏の祖と伝承されている黒木助能は,大蔵春実の子孫とも,清和源氏多田行綱の息,あるいは本姓調氏であるとも伝え,出自は定かでない。猫尾城についても,鎌倉初期の文治年間(1185〜90)に黒木助能が本国薩摩から来て築城したとか,2年余の攻撃の後,城を抜き居城としたとか伝えている(角川日本地名大辞典より)。

※ 鎮西要略には、康平5年(1062)9月奥州の俘囚安倍貞任の弟、宗任と則任は筑紫に配流され、宗任の子孫は松浦氏となり、筑後の川崎、宮部、黒木氏等は則任の種流という、とある(肥前叢書第1)。

黒木氏 (吉永正春著 「筑後戦国史」 葦書房 1997、より)

筑後国上妻郡黒木荘木屋村(八女郡黒木村木屋)を本貫とした豪族。大蔵大輔助能に発し、その子孫黒木四郎定善が猫尾城の城主となったのを始めとする。建武年間菊池武敏らとともに終始宮方として活躍した。黒木氏の出自については、いろいろ伝説があるが〃調〃というのもそうである。大番役として京都に上った大蔵大輔助能が滞京中に内裏で管弦の楽が行われ、その際笛の妙技を奏でた。帝(後鳥羽天皇か)が御感のあまり〃調〃という姓を腸わったという。黒木、河崎、星野氏らはこの調の一党である。調の本家は黒木氏を称し、黒木町木屋の猫尾城が本城であった。長子貞宗は六百町を領し、河崎氏を称して大尾城(八女市山内)を居城とし、現在の八女市北部を領した。また義子胤実は星野氏を称して星野三十二村、六百町を領し星野谷に拠った。 

※ 黒木町津江神社の大樟  谷川城

星野氏 筑後国生葉郡星野村(八女郡星野村十籠)を本貫とした豪族。黒木氏を祖とする。弘安の役では博多湾沿岸の石塁築造に当たり、なお戦闘にも参加し功をあげた。南北朝時代、南朝方として行動した。『大日本地名辞書』に、「星野氏は黒木と同族にして、南北朝の乱に官軍に応じ、終始一節、以て矢部、菊池の宮方を擁護せり。戦国の頃大友氏に属せしが、天正中叛き島津氏に付く。同14年筑前に出戦し、立花宗茂に敗れ、星野兄弟共に死し、遂に亡ぴぬ」とある(角川日本地名大辞典 星野氏の活躍参照 )。      久住長者原伝説へもどる。  

川崎氏  河崎荘は天授2年(1376)に初めて見えるが,現在の矢部村,黒木町の大淵をも含んだ当市東部の馬場以東に広がっていた。山内の大尾城址は黒木助能の子川崎定宗が鎌倉初期に築いたという。蒙古襲来に際し博多湾岸の石築地(元寇防塁)役を勤めた中に川崎氏が見える。川崎氏は戦国末期には大友竜造寺島津にあるいはつき,あるいは離れたが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州仕置により領地を没収された。ほかの市域の荘園としては南北朝期に安楽寺領吉田荘や忠見別符があった。 

木屋氏  木屋氏は黒木氏の一族で,木屋の立華城を居城としたと伝えられている(角川日本地名大辞典より 黒木氏と木屋氏参照 )。 

 


大神一族(日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版より)

緒方(緒形・尾方・尾形・小形・小方・大賀・大神)神婚説話をもっ豊後武士団の棟梁

 豊後には大友氏入部以前、有力な在地武士として、大神(おおが)と清原・大蔵の各一族、および宇佐の神官の一族があった。

このうち清原・大蔵両氏が拠った日田・玖珠両郡は山間部に位置していたため、一族の発展はほぼ郡内に限られていた。これに対し緒方・大野・阿南以下の大神一族は、大野・大分両川の流域を含めた平野部を抑え、日向北部から豊後南半一帯にめざましく発展した。この大神の一族は、出雲族の大三輸(おおみわ)氏から起るとされる。「大野系図」によると、その流れを汲む良臣が、仁和の頃(885-89)、豊後介となり、大野郡の大領となった(『三代実録』)。これが九州の大神氏の祖であるとされるが、実在の人物としては大神惟基(これもと)から発すると考えられる。大神はここでは「おおみわ」といわず、「おおが」と読んでいる。

惟基は豊後大野郡領として入部し、周辺各郡の郷司職を獲得して在地領主として発展し、緒方・臼杵・高千穂・植田(わさだ)・大野等の諸氏となった。『平家物語』『源平盛衰記』や諸系図に、大和三輪の大蛇伝説と同系の神婚談が伝わり、その強盛ぶりを謳っている。この伝説はこの地方の各地に残されており、いずれも祖母岳と結ぴつけられている。それにもかかわらず、主役となる娘については、その父の長者をあるいは日向国塩田の大太夫とし、あるいは豊後大野郡の大領庶幾(これちか)とか、同国日田郡の赤雁(あかがり)大夫であるとする。大神氏一族の系図は、家系によってそれぞれ異なり、その根拠地も一致していない。このことは、大神一族を称する日向国臼杵郡の高知尾(三田井)、豊後国大分郡の阿南・植田・戸次、大野郡の大野・緒方・直入など、いずれも庄郷名を名乗るそれぞれの家が自己を一族の中心におくほどに独立の自覚をもって分立していたことを物語っている。

この大神=緒方一族がはなばなしい活躍を示すのは、源平争乱期である。豊後国内に分散し、在地領主化しつつあった大神一族=阿南・佐伯・大野・緒方の諸氏は源氏に与同して、平氏方として行動した宇佐宮と公然と戦いを交えた。ことに大野庄に隣接する字佐宮領緒方庄の庄官であった緒方惟義は、平家の都落に際し、一族を率いて、この平家を大宰府から海上に追い出した。さらに源範頼の渡海を助けて、九州統治の道を開いた。しかし、平氏の没落後、惟義の子三郎惟栄を中心とする大神一族が圧倒的な勢力を確立したことは、西国支配を志す頼朝にとって大きな障害であった。この間、宇佐氏による緒方氏らに対する策謀もあり、文治元年、義経の叛に従った惟栄はついに失脚し、流罪となった。

ところがこのとき惟栄と運命を共にしたのは、直接の親子兄弟だけであって、三田井(日向臼杵郡)・阿南・稙田・直入・戸次(豊後大分郡)などの大神系や、大野郡に蟠踞した緒方一族は、緒方三郎と行を共にせず、その一族はあとまで残って、九州各地に尾形・緒形・小方・尾方等の名字をもってひろがった。豊前中津に移った大神の一族からは、対明貿易に従事して巨利を博した甚四郎が出た。甚四郎は博多に移り住み、明人の言により大賀と改めた。その三人の子のうち、九郎左衡門信房は、父の志をついで貿易に従事し、長崎五島にも屋敷をもった。福岡県にはいまも大賀姓が多い。終りに緒方氏から分れたという苗字を次に掲げておく(上掲分を除く)。佐賀・賀来・佐伯・野尻・小原・大津留(おおつる)・武宮・橋爪・松尾・城原・朽網・秋岡・由布・霊田(たまだ)・入倉・十時(ととき)・児島など。〔参考文献〕『大分県の歴史』。

九州の人々へもどる 大神姓 緒方氏、佐伯氏

 

緒方三郎   (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 「平家物語」巻八や「緒方家系譜」などによると、蛇神であった祖母山の神「嫗岳大明神」の〃神婚説話〃から生まれたのが〃あかぎれ大太〃で、緒方氏の祖、大神(おおみわとも訓む)惟基とも緒方惟栄(惟義とも書く)だともいう。大神氏は、もともとが奈良、大和三輪山の大物主神を奉斎する神官の氏族で、この伝説の原型は、「記」の三輪山神婚説からきたものであろう。*祖母・傾山群  もどる

 

 


古代和邇族 和仁氏

 古代和邇族の裔。和珥・和爾・鰐などとも記するが、肥後のワニ氏は多く和仁の表記を採っている。大和国添上郡南部にいまも地名がある和邇が本拠。この族はのちの春日氏である。古代に大いに栄えた。孝昭帝の皇子天足彦国押人命の裔。熊本県を飾る最古の族は阿蘇氏とこの和仁氏である。いつの頃、鎮西に来住したか不明。天正年間に和仁親続の名がみえ、玉名部和仁村、高地村十町村及筑後国白木村等百二十町を領し、和仁村田中城に拠った。この長男の勘解由(かげゆ)親実は天正十五年、佐々成政や隈部親泰を山鹿城村の城に攻めた、と(「肥後国志」)。和爾古、和仁古姓も肥後に見られるが、同族である。

九州の人々へもどる         吉野ヶ里・王仁(鰐)神社

 

 

宗像氏貞(一五四五−八六年)  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

 宗像大宮司の最後の第七九世当主。初代大宮司は源清氏といい、字多天皇の子延善帝の弟。醍醐天皇の延喜一四(九一四)年、宗像姓を与えられ筑前守となって宗像に着任した。以来氏貞まで六七〇年間つづいた名族。「筑前軍記略」 によれば、第七三、七五世興氏のとき、大内家に随臣して山口に参勤したという。そして七七世正氏が、大内義隆から長門の黒川、深川両庄を賜わって黒川庄に住み、黒川姓を名乗った。正氏は、黒川に大内家の部将陶隆房の娘(一説妹)を側室におき一男一女をもうけた。男子を鍋寿丸、女子を於色姫という。庶子鍋寿丸が、七九世大宮司氏貞で、このとき正氏の正室と嫡、庶の相続争いがある。先代興氏以来、宗像家は大内氏に属したので、大内氏滅亡のあとは母方の陶氏に、また陶氏が滅ぶと毛利氏に随ったのも必然であった。氏貞が、毛利と対立した大友氏と戦ったのもそのためであったが、しかし筑前ではやはり弱小氏族で、ある時は大友側にも追随した。永禄一二(一五六九)年、毛利氏が筑前から退いたあと、大友方の立花道雪と和を結び、妹於色を側室にやったのも一族の安泰を願ったためである。氏貞は天正一四年、赤間の蔦ケ城中で病没した。遺体は鐘崎の承福寺に埋葬。四二歳。宗像家は嗣子がなかったので、秀吉に没収され、そのあと筑前一国の領主となった小早川隆景が領有した。

*立花山

 


菊池一族   (日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版より)       九州の人々へもどる
(南朝のために奮闘した菊池三代)
 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆(のりたか)から起っている。この則隆の出自について、「菊池系図」その他によるこれまでの説では、中関白藤原道隆の子大宰権帥藤原隆家(満州方面から来襲した刀伊の賊を撃退したことで知られる;1019年)を祖とし、その子政則(まさのり)の子が則隆だとされてきた。

ところが最近になって、政則というのは、実は隆家とともに奮戦した府官藤原蔵規(まさのり)のことであることが明らかとなり、系譜上、隆家とは関係がないとされるようになった。

菊池氏のことが歴史に現われてくるのは、平安時代末期の隆直の代からである。当時隆直は肥後権守であったらしく、治承四年(1180)、平家の横暴を懲らさんとして兵を挙げ、一時は大宰府に追ったほどであった。しかし平家の大軍に攻められてこれに屈服し、一族の多くは壇ノ浦の合戦に平家と運命をともにし、残ったものも源氏のために重く処分された。

能隆のとき、承人の乱(1221)が起り、京都方になって忠勤を励んだため、またもや所領を減らされた。けれども、蒙古の襲来に際しては、菊池の一族は大いに奮戦して名を上げている。

元弘の乱(1331-33)のとき、十二代武時が、後醍醐天皇の隠岐脱出に応じて、鎮西探題北条英時を博多に攻めたのは、幕府の処置に対する恨みを果すためであったといわれる。しかしこの武時も、少弐・大友氏らの離反にあって敗死した。

武時の子武重・武士のあとをついだ弟の武光は、貞和四年(1348)、征西将軍宮懐良(かねなが、最近かねよしと読むのが正しいとの説がある)親王を薩摩から肥後の本城に迎え、南朝の一拠点として勢を振った。正平十四年=延文四年(1359)には、豊後に大友氏晴を破り、さらに筑後川畔の大保原において少弐頼尚を破った。正平十六年=康安元年には、少弐頼国を筑前に破って大宰府を占領し、以後ほぼ十年間九州全域を制庄した。

武光の子武攻は、正平の末年隈部(いまの隈府)に城府を置き、十八外城を四面に築いて、菊ノ城に移った。しかし今川貞世(丁俊)が九州探題として下向して以後、しだいに圧追され、長子武朝のとき、弘和元年=永徳元年(1381)、ついに本拠の菊池城を失って、八代に退き、南北朝合一(1392)後、菊池城に戻った。こうして往年の勢威は失ったとはいえ、室町時代にはなお肥後守護職を確保し、隈府を中心として儒学を起すなど、文教方面に見るべきものがあった(杉本尚推『菊池氏四代』)。戦国時代には阿蘇氏・相良氏らと並んで、有力な戦国大名であったが、天文元年(1532)菊池武包が陣没すると、その領土は大友氏に併合され、主流は絶えて一族も各地に分散した。このうち、日向国児湯郡米良に住んだ支族は、米良氏を称し、のち豊臣氏および徳川氏に仕えて旧領を安堵された。ことに江戸時代には交代寄合として遇され、則忠のとき本姓の菊池に復し、明治になって、名族のゆえに華族に列した。

菊池氏の一族としては、肥後に本田・吉田・田中の三氏があるほか、九州では、詫磨・小名・黒木・甲斐などの諸氏が分出し、美作にも菊池氏が栄えた。なお、武重の弟でその養子となった武士は、多病のため家を弟の武光に譲り、剃髪して諸国を廻遊した。その子孫といわれるものが、仙台にも住している。菊池氏はさらに、かつて瀬戸内海から紀伊半島にかけて、海賊としても活躍していた。彼らは主家の没落後、奥羽・信濃・志摩などに移り住んだ。現在、菊池でなく「菊地」と書く家々は、このような人たちの子孫といわれている。

大宰府官としての菊池氏:九州の中世武士団は府官系氏族が中心となって展開

 菊池氏の祖と考えられる蔵規(政則)−則隆−政隆の時代、彼等は府官あるいは権帥隆家の郎等として大宰府に密接な関係を持つとともに、政隆が「肥後国人」として運上物押領使ともなっていたことからわかるように、肥後国衛の中でも有力な位置を占めていた。このようなあり方は当時の府官の家の共通の特質であった。菊池と同族とされる府官藤原氏には、筑前の山鹿氏、肥前の高木氏、筑後の上妻氏・黒木氏などがあり、やはり同様なあり方をとっていた。その点藤原氏とならぶ有力府官家の大蔵氏や鎮西平家についても相似た情況にあり、九州の中世武士団は彼等府官系氏族が中心となって展開するのである。しかし、菊池氏の場合、政隆の前司殺害嫌疑ゆえか、政隆以降にあっては府官になった者は一人も確認できない。その点平安末期多数の府官を輩出した大蔵氏と対照的である。にもかかわらず後述のように、菊池氏はその後も一貫して強烈な大宰府への志向性を持ちつづけたが、それは府官の家柄であるにもかかわらず、府機構から排除されたことから、かえっていやましたものかもしれない。

赤星氏 菊池氏族。菊池郡赤星村より起こる。「菊池系図」に「経宗-経直-経俊(赤星祖十郎)」とある。その4代有隆こと赤星三郎は「蒙古合戦の折、壱岐・対馬・筑前において軍功が有り、蒙古大将を討ち取る」とある。親家は菊池氏が滅ぶと大友宋麟に仕えて隈府城主となった。しかし、子統家は、龍造寺政家と隈部親永に追われ、さらに豊臣秀吉が九州征伐のとき没落した。

系図

城氏 菊池氏族。肥後国山鹿郡城村発祥。菊池隆経は鎌倉中期に城村を領して城氏を称する。南北朝・室町期には菊池惣領家に所属。天文19年(1550)、親冬は鹿子木寂心が大友義鑑の勘気を蒙ったさいに、隈本城を護られた。以後天正16年(1588)まで隈本城主として勤務。その後、久基は筑後に替地になった。ざん訴による士地没収といわれる。

 ・系図

西郷氏 尊皇の志士を称した西郷隆盛は、先祖が菊池士族であるというので、菊池次郎という名で志士としての活動をした話は有名である。西郷氏は菊池初代の則隆の長男が西郷の地(現七城町)に住み、西郷氏を称したのが始まりと伝えられていて、現地の若宮神社には「西郷氏発拝之地」と書かれた石碑が建てられている。「荒木栄司著、菊池一族の興亡より」

甲斐氏 菊池氏庶流。武房の孫が高千穂岩井川に拠り、その子孫重綱の子親宜が阿蘇惟豊に仕える。その子親直が、御船房行を攻めて、御船城主となった甲斐宗運という。天正12年(1584)、宗運の子親秀の守る御船城は島津家久の軍に降ったが、三年後の天正15年、佐々成政にそむき、親秀は毛利勝信に誅されたという。しかし以後も甲斐氏分流は高千穂郷に繁延する。

米良氏 菊池姓。米良山を本貫地とする。その一族は早くから伊東氏の家臣となり、伊東義祐時代には、紙屋・戸崎・須木・門河・山陰・坪屋・雄八重・平野など領国境の城主に米良氏分流の名をみることができる。また伊東与力衆として「嶽ノ米良」とみえる。天文2〜3年(1533〜34)の山裏・米良一揆にみるごとく伊東氏の盛衰を左右する勢をもっていた。江戸時代には交代寄合格。

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五条氏   (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)                   九州の人々へもどる

 福岡県矢部村は、かって京から下った南朝の忠臣五条氏(五条少納言清原※頼元、その子左馬頭良遠)の本貫地。釈迦・御前岳を源流とする御側川の上部、御側部落には二代目征西将軍良成親王の墓碑がある。

※ 五条頼元は後醍醐天皇の皇子懐良親王が延元元(1336)年秋、御年僅か八歳で征西将軍宮として九州に下った際にお供をした南朝の忠臣で清原氏族である。豊後國玖珠郡には平安初期の寛平年中(889−97年)に豊後介となって玖珠郡に下向した少納言清原朝臣正高を祖とする豊後清原氏族が根をはっていた。ちなみに、正平年中(1346-1370)、征西将軍宮に従い、九州にあった五条少納言頼元の最初の領地も豊後玖珠郡であったという(大宰管内志 筑後之七)。

河崎荘と五条氏

南朝哀史

山に住んだ武士

 

五条氏配下の山筒方(農民鉄砲隊)

【八女郡立花町】 

現星野村にもいた山筒が当町域にも存在していた。山筒は猟人のことで鉄砲を所持している者をいった。山筒頭は戦国期の矢部高屋城主であった五条氏が,立花氏の扶持を受けて世襲した。五条氏は事ある時は200人(うち谷川組160人)の山筒方を率いることになっていた。白木村に17人,本山村に29人,その他,谷川・田形・山崎各村などにも山筒のいたことが確かめられる。

【八女郡黒木町】  山筒預 五条長安(矢部七郎左衛門)

寛永3年(1626)矢部七郎左衛門と称していた五条長安が肥後八代から大淵に帰り,藩主立花氏から客分の待遇を与えられ,のち山筒預として仕えるようになったという。

【八女郡星野村】  星野山筒方 

樋口実長は戦国期に星野氏の重臣であったが,星野氏滅亡後,小早川隆景に属し星野の再建に尽力した。墓は村内仁田原にあり,「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓」と見え,寛永4年(1627)死亡している。同14年実長の孫実次が庄屋の時代,島原の乱が起こった。久留米藩に属していた当村からも「鉄砲の者」として33人の百姓が出陣させられた。宝暦4年(1754)の百姓一揆の際,当村の百姓は猪退治のためと称し藩の鉄砲を借用して闘ったともいわれている。明治維新の時にも山筒隊として200余人が奥羽,五稜郭と転戦,功により士籍を得た者もあった。なお文化10年(1813)藩は星野村御用山筒の者200人に鉄砲を貸し給米を下している。山筒方(農民鉄砲隊)の起源は定かでないが,猪などの狩猟用に藩が鉄砲使用を認めていたのが始まりかと思われる。なお,当村は江戸期を通じて星野村一村で存続した。

【山門郡山川町】  竹井組山筒隊

山林を背後に控えた当町は,上妻郡山地の谷川組と並んで山筒組の生活基盤であった。竹井組山筒隊は40人からなり,平時には農耕・狩猟に従事し,非常の際にはそのまま鉄砲隊に編成されるが,これを統率していたのは矢部(八女郡矢部村)在住の五条氏であった。享保2年(1717),藩は田尻惣馬を普請役として蒲池山に大堤を築造し,竹井・小川・楠田3組所属の村々の灌漑に供させたが,この堤は今日も大根川の水源として,その機能を失っていない(柳川藩三善氏記録)。

 

 

真弓氏                                    九州の人々へもどる

 第七代孝霊天皇第九皇子道豊事主尊(みちとよことぬしのみこと)の八世胤・大弓音人は、神功皇后に従って三韓を攻め、その功によって日本射騎将軍の名を賜った。その子孫は武智姓を名乗り隠岐に移り隠岐姓を名のった。

その後胤が「二郎太夫広有」であり、建武元年(1334)に、後醍醐天皇の御代紫宸殿に現れた怪鳥「ぬえ」を射殺した功績によって、真弓の姓を賜った。正平3年(1348)征西将軍懐良親王に従い松風の関に布陣、筑後地方に転戦、後に真弓の地(現在の福岡県山川町)に遁世。正平24年(1369)65歳で生涯を閉じる。

 

http://tesso.exblog.jp/551877/

http://www.kyobishisyuu-kougei.co.jp/kb03.htm

http://www2.117.ne.jp/~t-enya/kamikamada-yatai.html

 

肥後 真弓の里   柳田國男 日本の昔話より 

http://f27.aaa.livedoor.jp/~mdanbo/HLHANA.HTM

 

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津江氏(長谷部氏)                         九州の人々へもどる

 前津江村田代の長谷部家に伝えられている「豊後国津江氏歴名」と題すべき史料によると、建久四年(一一九三)に長兵衛尉長谷部信連が津江荘に居住したのを最初とし、以後は津江氏を名乗り、信継・信任・信世・信金・信景・信吉・信家・信満・信英・信重・信清・信兼と続き、これより口津江・奥津江両氏に分かれたとある。津江氏の本姓が長谷部姓であることを示すものであろう。

 長谷部信連については、『源平盛衰記』に高倉宮(後白河天皇第七皇子・第八〇代天皇)に仕えた人物とみえ、『吾妻鏡』 巻五 文治二年(一一八六) 四月四日条にも 「右兵衛長谷部信連者三條宮侍也」とみえ、平家の讒言により三条宮が配流の官符を蒙り、平家方の武士が御所に乱入した時、信連が防戦し三条宮を三井寺に遁したとある。

 また、巻廿二建保六年(一二一八)一〇月二七日条には、「左兵衛尉長谷部信連法師於能登国大屋庄河原田卒、是本故三条宮侍、近関東御家人也、長馬新大夫為達男也」とある。つまり、三条宮に仕えていた信連は、その後源頼朝に仕える関東御家人となったが、建保六年一〇月二七日に能登国(石川県)大屋荘河原田で死去したというのである。

長谷部姓は、静岡県・千葉県・岐阜県・富山県のほか各地に多く、その多くは長谷部信連の子孫としている。例えば石川県の長谷部氏、新潟県の長谷部氏、東京都の長谷部氏、愛知県の長谷部氏、鳥取県の長谷部氏、岡山県の長谷部氏、それに豊後の長谷部氏などがそれである。

 建久四年に長谷部信連が津江に居住したという内容は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』からも当然信用できないことになる。しかし、尾張(愛知県)長谷部氏は信連の側室の子信近に発するとあることからすれば、津江の長谷部氏にも可能性がないでもないが、現在のところそれを証するものはない。

関連サイト  http://snkcda.cool.ne.jp/mame/1ukiha/2nagaiwa.html

津江長谷部家   森春樹は「造領記」に次の説を紹介している。

 後鳥羽院建久三年、鎌倉将軍頼朝卿惣追副使となり給ひて、同四年妾腹の子一法師丸を大友次郎経家の養子に遺されたりしを、豊前・豊後の守護として下さる。これ則ち大友左近将監能直君也。其時高倉の宮の臣兵衛尉長谷部信連が猶子義連、実は高貴の御種なるが、能直君に屈従して豊後に下りしを、能直日田に遺したり、是津江家の元祖也。義連栃原村に居れり。この年、鎌倉将軍家富士野に狩し給んとて狩の古実伝えに、梶原景季・仁田忠常二人を肥後の阿蘇大宮司家に差遣さる。其時二人津江に来りて義連が宅にやどりて、景季仮山を築けり。其後其仮山の中に寺を建たり。これによりて堂の下まで庭中の石猶有り。此寺今の伝来寺也。義連津江に在て山中をひらきて子孫をのこせり。さらに、一説には信連は元暦中(1184〜85)に来たともいう説をあげ、「然れども此説はおぼつかなし」 と否定している。逆にいえば建久三年の津江来住説を肯定していることになる。

津江氏とその系譜

  『姓氏家系大辞典』も、津江氏は長谷部姓であるとし、「豊後国日田郡より起る。長谷部の裔なりと云ふ。南北二家あり、信兼雲ケ嶽に住みて、口津江と云ひ、其の弟信成、栃原にありて奥津江と称し、これを両津江殿と云ふ(豊後遺事)」と述べている。

 津江氏が長谷部姓であることを証明する一等史料には欠けるが、『豊後国志』古蹟雪嶽城の説明に、「…応安四年津江左馬頭長谷部信家ここにきずく…」とあるので、一応津江氏を長谷部姓とみても差しつかえあるまい。応安四年(一三七一)は南朝の建徳二年に当たる。信家の館は栃原田原にあり、家臣には佐藤・三苫・武永等がおり、それぞれ砦を構えていたとある。

 また、人物の項の津江信雄の説明にも、「民部少輔長谷部信雄」とあり、長兵衛尉信連八世の孫とする。その系譜は、信連−義連−信継−信任−信世−信包−信景−信雄としている。前津江村長谷部家史料の信連−信継−信任−信世−信金−信景−信吉−信家とはかなりの相違がある。

 続いて『豊後国志』は、南朝方についた信雄には嗣子なく、建徳2年(1371)、肥後の菊池武重の次子武元を養子とし、信家と改名したとする。以後、−信重−信行−信清−信兼と続くが、信兼の代に家臣の三苫・佐藤・武永等の内乱がおこり、津江氏は南北二家に分かれたとある。信兼は大野の雪嶽に入り北家となりロ津江を称し、その弟の信成は栃原に城を構えて南家となり奥津江を称したとする。長谷部家史料は信家−信満−信英−信重−信行−信清−信兼とし、二代ほど多い。信兼の代に「是より口奥に分る」とあるのは同じである。

 信兼の後は、津江鑑盛の説明にみえ、信兼−信道−信広−信正−信安−信俊−信勝−信忠−信政−信種−鑑盛−統永とある。長谷部家史料は信実を信直とするだけで、その他の人物については相違はない。いずれも口津江氏の系譜を示すものである。

 武元について

菊池風土記巻之6   赤星系図    武続(績)の子、武元化名津江三郎

新撰事蹟通考巻之13 菊池系図    武時の子、武元仮名詫磨別当太郎  / 武時の子、武澄の子、武元仮名詫磨別当太郎

新撰事蹟通考巻之21 城系図      武続の子、武元仮名津江三郎

 

長答部信経寄進状と宮三位中将家今旨 延元三年(暦応元年・1338)  肥後国広福寺文書

戦国末期の津江氏(津江信濃守親信津江鑑盛の活躍)

宮園老松神社(津江神社:中津江村)には延徳3年(1491)の棟札があり,山城守長谷部信安が社殿を再興したとある。また慶長5年(1600)の棟札には「大檀那梅野村伝右衛門尉長谷部信久」の墨書銘がある。

 


豊前宇都宮氏      (街道の日本史52 国東・日田と豊前道より)       九州の人々へもどる

宇都宮氏は元来、常陸国八田地域、下野国宇都宮地域を勢力下に置いた開発領主で、八田氏の系譜を引く。豊前宇都宮氏の祖となった信房は所衆として朝廷に仕え、中原信房と名乗っていたが、文治三 (一一八七)年、源頼朝の命で鬼界ケ島の平氏追討を成功させた。その功績により、田川郡伊方荘ほか、板井種遠の跡地など九州各地に所領を得た。宇都宮氏の本拠地は、伝法寺領といわれる築城町と犀川町にまたがる広大な荘園で、仲津郡城井郷(犀川町木井馬場)を拠点とし、豊前国衛在庁職を得て豊前国を実質支配した。

 そして、こののち宇都宮一族は、野仲・山田・西郷・友枝・佐田など多くの庶子・庶家を豊前各地に配し、豊前最大の武士団にまで成長を遂げ、宇都宮惣領家も次第に土着性を強め、地名から城井氏を称するようになった。特に鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては幕府執権北条得宗家と結びつき、肥後国・筑後国・豊前国で大きな勢力をもつようになり、一時は豊前守護職も得たといわれている。こうした時期に本拠地を仲津郡城井郷から築城郡本庄へ移し、後述する大規模館跡を築城郡松丸に造営し、山城なども配置したと考えられる。

 南北朝の動乱は九州にも広がり、観応の擾乱(一三五〇〜五二)が終息した後の応安七(一三七四)年、城井常陸介冬綱・家綱親子は突如宮方として、豊前仲津郡城井郷周辺で反乱を起こし、今川了俊率いる幕府軍に鎮圧された。これ以後、城井氏は急速にその勢力を失い、代わって周防固より大内氏が豊前国の支配に乗り出してくる。天正十五(一五八七)年六月、九州を平定した豊臣秀吉は九州国分を行った。これにより黒田孝高は豊前六郡を与えられたが、城井鎮房率いる宇都宮一族など豊前の国人・土豪の多くが黒田氏の支配に抵抗して蜂起した。いわゆる豊前国人一揆である。しかし黒田孝高・長政のまえに敗れ、およそ四〇〇年つづいた宇都宮氏の歴史は幕を閉じた。城井鎮房の滅亡については、中津城において黒田氏によって謀殺されたという説が有力である。司馬遼太郎をして、黒田孝高が、「豊前にやってきて、生涯の汚点ともいうべき謀殺をしている」と言わしめた出来事である。

 


大友氏・立花氏 (日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版より)   九州の人々へもどる

鎌倉時代以来の豊後の名門

 大友氏は豊後国の守護大名である。初代能直(よしなお)は、源頼朝の落胤といわれる。実際には、相模国大住郡古庄郷司近藤能成の子である。建久元年(1190)当時、『吾妻鏡』に三か所にわたって「古庄左近将監能直」とあるのが、その証拠である。母は同じ相模の足下郡大友郷の郷司で、藤原秀郷の後裔波多野経家の娘であり、その姉の夫は京都の下級公家で、京都から下って頼朝に仕え、天野遠景に代って鎮西奉行となった中原親能である。能直はこの親能の猶子(ゆうし)となり、やがて頼朝の有力な御家人となった。『吾妻鏡』には、頼朝の「無双寵仁、殊に近仕をなし、常に御左右に候す」とある。能直は本領の大友郷を母から譲られ、長じて豊後・筑後の守護職と、鎮西奉行に任ぜられて、これを子孫に伝えた。大友氏の豊後国への下向は、蒙吉襲来により、幕府から鎮西所領への下向が、東国の御家人に命ぜられた文永年問(1264-74)、三代頼泰の時と考えられる。ニ代親秀・三代頼泰の頃は、惣領制のもとに庶子が九州各地の所領と分割譲与されたときで、詫磨・志賀・田原・一万田・戸次をはじめとして、元吉・鷹尾・狭間などの庶子家が分出し、一族は豊後を中心に、肥前・豊前・筑後にまで広がった。南北朝期、大友氏では庶子の大友貞順(さだきよ)だけが南朝方についたほか一貫して足利氏に属し、動乱に乗じて寺社領をあわせ、少弐・菊池氏などの諸豪族と戦って勢力をのばし、北九州の有力な守護大名に成長した。延文四年(1359)足利義詮は、大友氏の惣領権を保証し、大友名字は能直以来、惣領の号であるから、庶子がかってに自称することは甚だ理由がない。早く自由の儀をとどめて、先例に任すべしと申し渡している(立花家蔵大友文書)。こうして大友宗家は、領国内においてしだいに一族を家臣として統御し、有力土豪を被官化して領国支配の体制を整えていったが、のち両流に分れ、交代で家督を継ぐことになった。これに中国地方の大内氏がからみ、一族間の争いが続いた。しかし大友二十代の義鑑(よしあき)が出て、大内義隆とも和議が成立し、その子義鎮(宗麟)のときには、大友氏の全盛期を迎えた。永禄二年(1559)には、豊前・筑前両国の守護にも補任され、九州九か国守講中六か国を兼有、さらに九州探題にも補任され、龍造寺氏・島津氏と九州を三分する覇権を確立した。彼はキリシタンに帰依し、天正十年(1582)、有馬・大村両氏とともに、わが国最初の遣欧使節を派遣した。宗麟は晩年、子の義統(よしむね)に家督を譲り、なお攻務をみたが、やがて保護したキリシタンと仏教徒との対立や、一族家臣の離反などにあい、そのカはしだいに哀えはじめ、本国豊後を島津氏に奪われ、不遇のうちに没した。義統は天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐に従い、豊後一国を安堵されたが、文禄二年(1593)朝鮮在陣中の失敗が秀吉の怒りにふれて改易された。関ケ原の戦い(1600)では豊臣方に属して豊後で挙兵したが、黒田氏に敗れ、義統は江戸に幽閉された。しかしその子孫は江戸幕府に仕えて、高家に列せられ、明治維新に及んだ。

 立花氏は大友氏の一族で、大友氏泰の庶兄貞載(さだとし)が、南北朝期に筑前国粕屋郡立花城に拠ったのに始まる。豊臣氏のとき、宗茂(むねしげ)が出て、大名として筑後国柳川を領し、小田原征伐や文禄・慶長の役に活耀、関ケ原の戦いで豊臣氏についたため、陸奥棚倉に滅封されたが、元和六年(1620)柳川に復活、十二万石を領した。ついで、島原の乱(1637)に活躍し、徳川将軍の相伴衆となった。

 立花道雪(一五一三−八五年) (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)    九州の人々へもどる

 旧姓を戸次丹後守鑑連といい、豊後国(大分県)大野郡藤北の鎧ケ岳城で永正一〇(一五一三)年に生まれた。幼名を八幡丸、長じて孫次郎、伯耆守、丹後守と称し、永禄五年入道して道雪と号した。父は鎧ケ岳城主戸次常陸守親家、実母は同じ大友部将由布加賀守惟帝の娘で正光院といった。実母正光院は、道雪二歳のとき逝去、臼杵越中守鑑速の姉養孝院が養母となった。戸次氏は、国主大友氏の一族で、始祖は、大友宗麟と同じく、源頼朝の庶子大友能直である。三代目大友頼泰の弟重秀が、大分郡戸次庄に封ぜられて戸次氏を名乗り、代々大友氏に仕えた。これが戸次氏の祖である。鑑連は幼少から容貌魁偉で気性が烈しく、文武両道に優れ、軍略は大友部将中随一といわれた。鑑連の初陣は一四歳で、中国の雄大内義隆と、その部将佐野親基、間田重安を豊前馬ケ岳城に囲み降伏させている。道雪が半身不具者となったのは、四五歳(一説二七歳)のとき、落雷を一刀両断にした、という有名な逸話が 「柳川藩志」 にのっている。ある夏、道雪が樹陰で涼んでいるとき、突如樹上に雷が落ちた。瞬間、道雪は身につけていた千鳥の名刀を一閃した。その時代は雷のことを雷獣といって怪物だと思っていた。道雪は「手応えあり!」と思ったので、刀を雷切丸と改めた。それまではよかったが、数億ボルトの電流が刀のきっ先から道雪の体内を走ったのであるから、普通人なら黒コゲの死体が横たわっていたはず。ところが、流石は剛健無比の体力だった道雪、身体のあちこちと下半身が萎えて、歩行困難となった。以来、道雪は戦場に臨むとき高田の鍛冶の二尺七寸の刀と、種子島銃を輿にのせ、血気の家来一〇〇人を左右に引き連れ、棒で輿の縁を叩いて、「エイ! トウ! 進め、進め」とわき目もふらず敵に突進した、という。道雪はど部下を愛し、君主を愛し、養母を愛した戦国武将は少ない。

甲斐の武田信玄が一度、道雪と戦場で手合せしたかった、といったという逸話もある。天正十三年九月筑後で惜しくも陣没、七十三歳。

 高橋鑑種(一五三〇−七九年)  (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)           九州の人々へもどる

鑑種は豊後大友一族の一万田左京大夫親敦の次男左馬之助で、筑後の高橋長種が病死して嗣子がなかったので、高橋家の重臣らが大友宗麟に願い、宗麟は燐れんで一万田左馬之助を高橋家の後目とした。永禄二(一五五九)年、左馬之助は高橋鑑種と名乗って、太宰府の宝満城、岩屋城の城主となるが、のち毛利氏に通じて宗麟に反逆する。大友一族でありながら、なぜ鑑種は大友家に反逆したのか--。一説では、鑑種の実兄一万田鑑実には美貌の妻がいた。その妻に横恋慕した宗麟が、夫の鑑実を謀殺したため、鑑種が主君にあるまじ宗麟の行為を遺恨に思ったのが謀反の原因だという。いま一つの理由は、宗麟が宿敵の毛利を討つため、筑前の鑑種に中国侵攻の準備を命じた。鑑種は破格の武名だと考え、筑前の諸豪族に密使を送って誘い、苦心の末やっと中国侵攻の万端を整えた。その矢先、宗麟から中国侵攻は中止だという知らせがきた。このときから鑑種は、宗麟に不信を抱くようになったためだともいう。この鑑種も、永禄一二(一五六九)年、盟将毛利の小早川隆景らが筑前(立花城)から中国へ撤退したため宝満城に孤立し、大友の軍門に降る。そして実家の一万田氏の願いで、鑑種は危うく助命され、豊前企救郡一国に成り下るが、秋月種実の弟元種を養子にして、隠居したあと、再び大友に叛く。そして、大友方の豊前香春岳の鬼ケ城城主千手重盛を討って、元種を城主とした。鑑種は、この鬼ケ城で同年四月波乱の一生を終る。享年四九歳。この高橋元種も、秀吉に降伏して日向県(延岡)に転封され、慶長一九(一六一四)年奥州で死んだという。

高橋紹運(一五四八−八六年) (九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)           九州の人々へもどる

旧姓を吉弘弥七郎鎮理といった。天文一八(一五四九)年、豊後国国埼郡の筧城(豊後高田市) に生まれた。永禄一二(一五六九)年、二一歳のとき主君大友宗麟に推されて、代々筑後高橋を本拠とした高橋家(同家も天慶年間、藤原純友を討った大蔵春美の一族) を継ぎ、筑前宝満、岩屋の城主となった。のち入道(剃髪)して高橋主膳兵衛尉鎮種入道紹運と改めた。吉弘氏は、やはり大友一族で、大友二代親秀の一二男で、一族の田原氏を名乗った泰広の四代孫貞広の弟、正堅が国埼郡武蔵郷吉弘村に封じられて吉弘氏の祖となった。父の吉弘左近大夫鑑理は、戸次鑑連(道雪)、臼杵鑑速らとともに、大友累代のすぐれた武将の一族である。母は大友二一代当主宗麟の娘。紹運の夫人は、これも大友部将で名を馳せた斎藤兵部少輔鎮実の妹。若くして痘瘡に罹って醜女となったが、斎藤家の武勇一門の家柄と血統を尊び、紹運は嫁に迎えた。この夫人を宋雲院といい二男一女を生んだ。果せるかな嫡男統虎は、のちに立花道雪に請われて立花家を継ぎ、天晴れ戦国武将の武名を轟かした柳川藩主立花左近将監宗茂となる。また次男統増は、これも武勇に秀れた筑後三池藩主の立花主膳正直次である。天正一三(一五八五)年、筑前大友勢力の主柱だった立花城主、立花道雪が筑後北野の陣で没したあと、天下を狙う薩摩の島津義久麾下の大軍五万を、筑前大宰府の岩屋城に迎え撃った武将、高橋紹運以下七六三名の孤兵、実に一四日間にわたって壮烈な肉弾戦を展開、ついに薩摩の野望を砕いて全員玉砕して果てた。天正一四年七月二七日のことであった。衰運に傾いた主家大友家のため武士道の義を守り通した戦国武将紹運の名は、道雪の名声とともに、いまも筑前岩屋、立花古城祉にのこる。

    四王寺山・立花山

 

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鎮 西 探 題   風土記日本 第一巻 九州・沖縄篇  平凡社(昭和35年 初版)より     よみがえる九州王朝へもどる

九州の守護大名

 九州社会は鎌倉時代にはいって大きな変化をみせる。それは南北朝から戦国時代をへて江戸時代初期にいたる武士階級の興亡の序幕であった。関東や近畿に争乱がおこると、それは九州にいちはやく波及し、西国にのがれた武士もそれにくわわって、九州社会の情勢は一段と複雑さをますことになったのである。

 源頼朝は文治元(一一八五)年に九州に鎮西奉行をおいておさめさせたが、建久六(一一九五)年、その鎮西奉行天野遠景が宇佐宮領にじぶんの家来をいれて非行をはたらいたというかどで職をやめさせられた。かわって藤原親能が鎮西守護に任ぜられて太宰府にくだり、太宰府は守護所とよはれることになった。

 当時九州には、各地にもともとからの土豪が数多くいてたがいに勢力をはっていた。これを鎌倉幕府の御家人とすることは、幕府にとってもたいせつな仕事であった。頼朝はこれら在地の有力武士の本領を守ってやったり、または地頭に任命することで、御家人にくりいれていったのであるが、さらにこれらの小地頭の上に惣地頭を任命して、その統率にあたらせた。

それと同時に、武藤資頼を豊前、筑前、肥前三カ国の守護に、大友能直を豊後、筑後、肥後三カ国の守護に、島津忠久を薩摩、大隅、日向三カ国の守護に任命した。武藤氏、大友氏、島津氏ほいずれも関東の武士で、その子孫は、こののちながく九州の守護大名として勢いをふるった。とくに武藤資頼は、筑前など三カ国の守護に任ぜられるとさきの鎮西守護藤原親能に代って鎮西守護となり、太宰府内山城に居をかまえ、大牢府の政庁をその役所とし、大宰少弐に任ぜられ、公武の職をかねて九州を統治した。彼の子孫もまたこれを世襲したので、ついにその官名小弐が氏名となった。公家の役人によって占められた大宰府は、武家である武藤氏の下で政務をとりおこなうこととなったが、大友、島津両氏も少弐とならんで九州を三分する形をしめした。けれども十三世紀鎌倉時代の初めころは、在地の武士たちの勢力はつよく、これら関東からくだってきた守護の命令には、かならずしも服従しなかった。このころ九州の地は、庄園となっているところが多く、近衛家領である島津庄をはじめとして、京都の皇室や権力のある家を本所領家とする庄園がいたるところにたてられたほか、豊前の八幡宇佐宮、太宰府の安楽寺などが九州全土にひろく庄園をもっていた。太宰府の安楽寺は今日の太宰府神社であり、延喜三(九〇三)年、大宰権帥として太宰府に配流されてこの地で亡くなった菅原道真の廟所である。道真の死後間もなく、彼が無失の罪を負わされたというわけで、人々の尊敬をあつめ、天満天神としてまつられたが、道真が詩文にすぐれていたところから、文学の神としてあがめられた。大宰権帥となってくだった大江匡房も安楽寺廟でしばしば文学のあつまりをもよおして、道真の霊をなぐさめ、代々の大宰帥や大宰大弐は仏会、宴会をはじめて、その費用として寄進した庄園は、筑前、筑後、肥前、薩摩などにひろく分布し、この庄園を通じて天満信仰がひろまることともなった。八幡宇佐宮は、奈良大仏を作るのにその金銅が不足したとき、国内に金や銅の産出を予言する神託をおこない、それによって大仏が完成したという事件や、和気清麻呂が弓削道鏡をのぞくために勅使として神託をぅかがったという事件のために、国家の神としてあつい信仰をうけることになった.そしてのちには九州第一の宗廟として古くから豊前、豊後、肥前、日向、薩摩などに一万町歩にあまる庄園をもっていた。これらの庄園には、千教百町歩から数十町歩におよぷ大名主がおり、有力な土豪として庄園の庄官またほ国衝の役人となっていて、かならずしも武家の命令忙したがうものはかりでほなかった。

異国警固番役

 ところが文永・弘安の蒙古の来襲は、こうした在地武士の半独立的な存在を許さなくなった。文永一一(一二七四)年の蒙古軍との戦いでは、少弐氏をその日の大将として、筑前の原田、山鹿、宗像の諸氏、筑後の草野、豊前の宇都宮、城井、豊後の大友、薩摩の島津などおよそ一〇万の武士が蒙古軍を迎え戦ったが、蒙古軍の火砲と集団的ないくさのかけひきになやまされて苦戦をかさね、しだいに破られて水城に退却し、博多の市街や宮崎宮も焼けうせてしまった。さいわい戦いの当夜、猛烈な台風によって蒙古兵船の大部分は沈没したので、残兵は逃げかえったが、この戦いの経験で、強力な統制が必要であることを痛感した鎌倉幕府ほ、建治元(一二七五)年、鎮西の将士に命じて城を箱崎にきずかせて島津久経に守らせた。それとともに、総指揮官として、執権北条氏の一門である北条実政を鎮西探題として大宰府に派遣し、大友氏を東方奉行、少弐氏を西方奉行とした。そして九州の御家人はいうまでもなく、庄園の諸司、名主、寺社領の下級役人などの非御家人をも、すべて番をつくって守護の指揮をうけさせ、今津、姪浜、博多、箱崎などの博多湾の沿岸警備につかせた。これを異国警固番役という。そのわりあては、一月から三月までが筑前、肥後の両国、四月から六月までが豊前、肥前の両国、七月から九月までが筑後、豊後の両国、一〇月から一二月までが日向、大隅、薩摩の武士たちというふうに警固区域と当番をきめた。あくる年、西は今津から東は名島にいたる沿岸におよそ一六キロメ−トル以上にわたるながさの石築地をきずかせたが、その際に筑前は前浜、筑後ほ博多庄浜、豊前は青木横浜と国別に負担区間をきめ、領地一段につき一寸のわりあいにわりあてて作らせたのである。これが有名な元寇の防塁である。この防塁の築造には北九州の主なる武士はすぺて動員され参加している。

そして弘安四(1281年、再度の蒙古兵来襲をうけたが、防塁の効果とまたもや起った台風のために、ふたたびこれを退けることができた。けれども蒙古兵が来襲する危険は依然として去らず、沿岸防備ほますます固めねはならなかった.そこで幕府は北条実政を長門探題とし、また肥国の小国にいた北条時定は福岡の姪浜に奉行所を開き、鎮西防備の総指揮にあたった。弘安九(一二八六)年には、文永・弘安の役に従軍した武士たちの恩賞のことをとりあつかう鎮西談議所を博多にもうけ、永仁元(一二九三)年にほ、北条兼時が大兵をひきいて姪浜の奉行所にはいり、探題の職についた。

鎮西探題という名称はこのころから用いられた。 ここに幕府とくに北条氏の実質的な、強力な九州支配が確立されたのである。

 

 


少弐(武藤)氏

 

 

筑紫氏

※ 主な筑紫氏 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

※筑紫氏に関しては子や弟などの諸説が大いに混迷しているため、教門・満門・尚門・惟門・広門の5名しか判断できないのが実情のようである。