(海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995より)
宝皇女(皇極35/斉明37帝)【茅渟王(押坂彦人大兄王の子)×吉備姫王】
天智天皇・間人(はしひと)皇后【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】
倭姫【古人大兄皇子(舒明34帝×法提郎媛(馬子の娘))の娘】
遠智娘【蘇我倉山田石川麻呂の娘】
大友皇子【天智38帝×伊賀采女宅子娘】
大海人皇子(天武40帝)【舒明34帝×皇極35/斉明37帝】
大田皇女【天智38帝?×遠智娘?】【天武40帝の最初の皇后】【大津皇子の母】
持統41天皇(鵜野皇女)【天智38帝×遠智娘】【天武40帝皇后】
尼子娘(胸形君徳善の娘)【天武40天皇妃】【高市皇子の母】
刑部(親王)/忍壁皇子【天武40帝皇子】
紀朝臣橡姫【光仁49天皇の母】 紀朝臣竈門娘【文武42帝妃】
長屋王【高市皇子(天武40帝×尼子娘)×御名部皇女(天智38帝×姪娘)】
吉備内親王【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
栗隈黒嬢娘【天智38帝采女】 栗隈王【壬申の乱時の大宰帥】
美努王【栗隈王(壬申の乱時の大宰帥)の子】
橘諸兄【美努王×県犬養橘三千代】
県犬養広刀自【聖武45帝夫人:井上内親王・安積親王・不破内親王の母】
文武42天皇【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
元正44天皇【氷高内親王(草壁皇子×阿閇皇女(元明43帝))】
宮子【文武42帝夫人】
聖武45天皇【文武42帝×藤原宮子】
光明子【藤原不比等×県犬養橘三千代】
孝謙女帝(阿倍内親王)【聖武45帝×光明皇后】
高野新笠【光仁天皇最初の妃、桓武50帝並びに早良親王の母】
● 長屋王の変(727)
● 藤原広嗣の乱(740)
●
橘奈良麻呂の変(757)
●
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764)
日本の天皇はその初めから幼子であり、女性であった。 それが本来のスメラミコトの姿と思う。
だからこそ「小さ子」伝承が、「水の女」の物語が、いつの時代になっても語り伝えられたのである。
天皇と髪長姫。二人を結ぶのは〃海〃である。
「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 森博達著 中央新書 1999年 より
直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より
日本書紀の造作
山科山陵と高松塚−修正論 『古代史最前線』No35. 2011年 室伏志畔より
九州の人々へ 九州の古寺一覧へ
九州に残る英雄伝説 宗教者(聖人)伝 九州の白鳥(神社)地名
宝皇女(皇極35/斉明37帝)【茅渟王(押坂彦人大兄王の子、すなわち敏達30の孫)×吉備姫王】
宝皇女は斉明天皇として崩御し御霊≠ニなる。彼女の亡くなった地朝倉≠ヘ御霊を宿す地である。土佐の地にも朝倉≠フ地名があり、「土佐国風土記逸文」には朝倉神社の名がみえる。赤鬼山の東南麓に位置する。祭神は「天津羽羽神」。同名の朝倉≠フ名をもって、土佐の朝倉にも「斉明天皇出兵」伝説がある。この天皇は鬼≠ニ呼ばれた人たちとどこかで繋がっている。また八幡信仰とこの天皇との関わりも考えたい。筑前の朝倉宮跡地として、朝倉町山田の恵蘇八幡宮境内が挙げられている。宝皇女の名には、山の民の伝承が眠る。因みに高知市朝倉の朝倉神社のもう一柱の祭神は天豊財重日足姫即ち斉明天皇である。
阿倍引田臣比羅夫
比羅夫は「船師:ふないくさ」が得意である。彼は布勢臣に対し、阿倍氏の傍流で、奈良県桜井市白河(辟田郷)を本拠としたというが、果たしてそれだけで十分であろうか。斉明天皇が皇極帝であった時代に、「阿曇山背連比羅夫」という人物が出て来る。彼は百済への使者であった。安曇氏は海人の長である。「山背の」とあるので、おそらくこの氏の活躍した場所は「巨椋池」であろうと、喜田貞吉はいう。「ヒラブ」は貝の名として「天孫降臨」の場面に登場している。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*86(16)中大兄皇子【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】
大化改新に際し蘇我入鹿暗殺に自ら手を下した様子を、『書紀』は次のように語る。「即ち子麻呂等と共に、出其不意く、劒を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ」‐そしてついに「入鹿臣を斬りつ」(皇極四年六月)。歌舞伎『妹背山婦女庭訓』では、疑着(嫉妬)の相のある処女の血と爪黒の鹿の血でもって初めて入鹿を殺すことが出来た。処女の名は杉酒屋の娘お三輪、そして入鹿を討つのはお三輪の恋人、淡海公。入鹿は刀で斬っても死なない。〃血〃という犠牲が必要なのだ。
*229(14) 間人(はしひと)皇后【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】
間人と中大兄は妹と兄である。しかも同母である。二人は一対である。間人はその名の通り、神と人との〃間〃の女であろう。『万葉集』では「中皇命」と呼ばれる。彼女は〃国見歌〃をうたった舒明帝の娘である。彼女もまた母・斉明帝と同様、呪力を持った女性であった。彼女の歌にはその面影がみえる。「やすみししわご大君の(略)梓の弓の金弭の音すなり」(巻一・三)は、歌うことによって梓弓を鳴らし、神を呼んでいる。彼女は巫女である。そして〃間〃は〃橋〃に展開される。ただし、析口信夫は『万葉集』の「中皇命」は斉明(皇極)天皇とする(『女帝考』)。
*234(l)天智38帝(中大兄皇子)
天智天皇も伝承の世界では〃神〃である。神は時に眇であったり、一つ目であったりするが、天智もまた目を傷つけたことがある。阿波の葛城大明神社の伝承では、この社のある村、板野郡北灘では男竹が育たぬという(柳田國男『目一つ五郎考』)。それは天智天皇が、この社の池で鮒を釣ろうとして落馬した際、目を男竹で突いて、傷つけたからだという。また大友皇子(弘文39天皇)とともに祀られることが多く、天智を主神、大友を御子神としている。そして斉明帝と同しく、なぜか〃土佐〃にその伝承が多く残る。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*234(2)倭姫【古人大兄皇子(舒明34帝×法提郎媛(馬子の娘))の娘】
倭姫とは巫女の一般名称ではないか。あのヤマトクケルの叔母、「倭姫命」も神の花嫁であった。この名も玉依姫、豊玉姫などと同じくやはり巫女の名ではないか。倭姫は天智帝の皇后であったが、子はなさなかった。ここにも彼女の神の花嫁の資格がある。ところが不思議なことに、伝承の世界では、彼女は多くの子をなしている。天智38帝もまた用明31帝と同じく天子潜幸の物語を持つ(薩摩・大隅、土佐に分布)。天智の恋の租手の名は玉依姫。この玉依姫は即ち倭姫ではないか。もちろん彼女の産んだ子供たちは、神の御子であるので「若宮」として祀られた。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*423(11)遠智娘【蘇我倉山田石川麻呂の娘】
遠智娘は天智38帝の「嬪」であるが、大田皇女、鵜野皇女(持統天皇)、建皇子の三子をもうけた。皇后・倭姫王は子をなさなかった。名はやはり意味深い。倭姫は天皇の配偶者としてよりも巫女的性格が強い。伊勢斎官の「倭姫」の名を負っている。遠智娘は、「小千御子」の物語の「オチ」に繋がるのではないだろうが。この物語は父は都の尊い方、母は彼の地の美しき娘、二人は結婚して彼の地で子をもうけている。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
建皇子は長男である。当然、皇太子になる皇子である。しかし建皇子は口が利けなかった。それは母の傷心が原因ではないかと思う。おそらく父を夫に殺された狂乱の中に建皇子を身ごもったのであろう。そして彼女はついに夫によって父が殺されたショックで死に至った訳である。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 系図へもどる トップへもどる
大田皇女
大田皇女は大津皇子を産み、鵜野皇女は草壁皇子を産んだ。草壁皇子と大津皇子はほぼ同じ年齢で、草壁のほうが少し上である。とすると、鵜野皇女は母を失った後には、最も信頼出来る味方であるはずの姉、大田皇女と好むと好まざるとにかかわらずライバル関係にならざるを得なかったのである。もちろん大田皇女が生きている以上、大田皇女に一目置かねばならぬであろう。おそらく彼女は姉である大田皇女に強いコンプレックスを覚えていたに違いない。そればかりではない。特に大田皇女の産んだ大津皇子は体格もたくましく聡明で、深く祖父の天智帝に愛されたという。一方、彼女の産んだ草壁皇子は休も弱く、性格も平凡であった。おそらく彼女は、このただ一人の同母姉に強い愛情と同時に、強い憎しみを感じていたに違いない。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 系図へもどる トップへもどる
大津皇子
持続政治の第一歩は大津皇子殺害であった。天武天皇が亡くなったのは朱鳥元年(六八六)の九月九日である。大津皇子の謀叛が顕れたのが十月の二日である。そして十月三日、大津皇子は死ぬ。父天武帝が亡くなってから一カ月を経ず、謀叛が発覚してからたった一日で大津皇子は、鵜野皇后によって死を賜わっている。皇后は、大津皇子を抹殺する日を待っていたのである。この事件は全くのでっち上げであろうというのが大方の歴史家の意見である。というのは、この事件の加担者として『日本書紀』には八口朝臣音橿、壱伎連博徳、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、新羅沙門行心、礪杵道作などが挙げられているが、事件後、新羅抄門行心、礪杵道作を除いて皆許されているからである。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 系図へもどる トップへもどる
*159(11)大友皇子【天智38帝×伊賀采女宅子娘】
伊賀皇子ともいう。伊賀の名は母の「伊賀采女宅子娘」に依る。壬申の乱によって、皇位を継承することなく死んだとされる半面(『書紀』)、天智十年十二月の天智天皇崩御後、帝位に就いた(『扶桑略記』)との説もある。明治三年、三十九代弘文39天皇と遣諡された。大友皇子も御子神として崇拝される。貴種流離譚がこの信仰を支える。やはり山の民の伝承するところのものである。伊賀の名は、高崎正秀の「私は思ふ。近江・伊勢・伊賀・紀伊ほど、近世に至るまで、多くの団体的漂泊遊芸者を出した国はない」(『伊勢物語の成立』)という一文を想起させる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*245(5)大海人皇子(天武40帝)【舒明34帝×皇極35/斉明37帝】
柳田國男の記す「髪長姫」は、天武40天皇(大海人皇子)の后となった処女の物語である。この髪長姫は紀州の海人の娘とある。「髪長姫」の話は同じく紀州「道成寺開創縁起」として伝わる。こちらの髪長姫も海人の娘である。ともに伝承であるが、前者が陰陽博士によって、後者が藤原不比等によって入内しているところが異なる。そうして道成寺の髪長姫は文武天皇夫人・藤原宮子ということになっている。もう一人の「髪長媛」は仁徳16天皇の妃として大草香皇子と草香幡梭皇女を産む。天皇と髪長姫。二人を結ぶのは〃海〃である。
*235(3)吉野
応神天皇十九年十月、天皇は「吉野宮に幸す」。この時、吉野人、つまり国樔人は産物を奉る。酒、山の菓、ギノコ、年魚、そして蝦蟆(かえる)。このカエルを煮たものを「毛瀰」というと『書紀』にある。その料理は「上味(よきあじわい)」であった。吉野という地は、山の幸、川の幸に恵まれ、人々は歌を詠む風流人であった。大海人即ち天武天皇は今もこの吉野の地で〃神〃である。天武天皇を祀る桜木神社(吉野宮滝/現・吉野町大字喜佐谷)には、大己貴命・少彦名命が合祀されている。なぜが持統は夫・天武とともに祀られていない。
*243(6)吉野
地元の人々は吉野の桜木神社を「疱瘡の神」として崇拝する。少彦名を薬神とみれば、疱瘡の神というのは自然である。しかしなぜ、天武はこの桜木社で大己貴、少彦名、そして末社に坐す大山祗(山神)とともに祀られるのか。天武は吉野で山の神となっている。「神」というのは古くは海の彼方からやってきて、後に山に降るように成った」(岡見正雄「御伽草子講義」ノート)。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*158(10)持統41天皇(鵜野皇女)【天智38帝×遠智娘】【天武40帝皇后】
伝承の持統は歌詠みの美しい上蘢の一人である。持統七年正月十六日に「漢人等、踏歌奏る」という記事が『書紀』にみえる。「踏歌」は『書紀』補注によれば隋・唐の民間で行われる正月行事であったものが日本化したというが、日本古来より「踏歌」はあった。それは後世傀儡子が伝え、また琵琶法師が伝えた。海部の芸能ともいう。しかし足踏み、反閇・達陀は山の民のものでもあった。持統はたびたび吉野に行幸している。そして紀伊、伊勢ヘ。また隼人、蝦夷と親しい。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
22(8)尼子娘(胸形君徳善の娘)【天武40天皇妃】【高市皇子の母】
「尼子氏」について柳田國男は次のように言う。「尼子氏は佐々木京極の庶系で本國は近江、犬上郡の尼子郷を名字の地とすると謂ふにも拘らず、或代に家滅亡に瀕した時、幼少の孤兒僅かに一人有り、租母の尼公之を養育したまふと謂ひ、或は尼の弟子と為つて命を助かるなどゝ称し、之に因って尼子と名乗ったことになって居る。一には叉其先祀天人の子なれば、天子と呼ぶと記し、いわゆる余吾湖の羽衣の傅説へ持って行った本さへある」(『念佛水由束』)。この「尼子」は湖の人。アマやアマベという音にどんな漠字を当てたがを考えねばならない。
22(7)胸形君
ムナカタは宗像である。宗像の神は三女神。天照大神の息から生まれた。多紀理毘売、市寸島比売、多岐都比売。なぜかこの三女神はスサノオの五柱の御子と交換され、スサノオのもとで育てられる。三女神は〃女神〃の性格とともに〃御子神〃の性格を併せ持つ。「延喜式に敷多く見ゆる御子神は即ち主神の御末で同時に神意の宣傅を職掌とした家の祖神であらう。語を換へて言はば巫女のミコは御子神若宮のミコと同じ語意から分岐したものであらう」(柳田國男『傅説の系統及び分類』)。
11(2)伝承
光明皇后にも「髪長姫」の伝承がある。興福寺の宝蔵には皇后の一丈余りの髪があるという。また一人の〃髪長姫〃は天武天皇の御后に立ちたまう、という。この御后とは高市皇子の母「尼子娘(あまこいらつめ)かも知れない。「尼」は「海人」に通ずる(伊勢神宮の忌詞:いみことば「尼」は「女髪長」と言い換えられる)。そして彼女の父は、胸形氏(宗像氏)であった。さらに伝承の天武の后の出身は紀伊国であり、「兄海士;けあま」或いは「九泉郎;くあま」の家の出とある。ただし、「世につれて今は御坊となれり。其御坊の家の妻娘などは、世にいふ市子口寄懸神子の業をなせり」(管江真澄『筆のまに/\』)という。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*122(2)刑部(親王)/忍壁皇子【天武40帝皇子】
名は呪的な力を持つ。古代、天皇・皇后・皇子らは自分の名を冠することで「民」を私有した。これを「御名代」という。この皇族の私有民はやがて、皇族の名を伝えるようになる。「刑部」は允恭19天皇の皇后「忍坂大中姫」より始まった御名代である。その最も有名なものは「軽部」であろう。軽部は木梨軽皇子より始まる。この皇子の物語「軽皇子と衣通姫」の悲劇は軽部によって語られた。、刑部親王が『万葉集』(巻二・一九四)で、柿本人麻呂によって「忍坂部皇子」と呼ばれていることに注意したい。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*273(5)紀朝臣橡姫【光仁49天皇の母】 紀朝臣竈門娘【文武42帝妃】
紀朝臣の祖は建内宿禰と伝えられる。「竈門娘」という名もまた、玉依姫・豊玉姫・倭姫と同じく巫女の一般名称であろう。さらにこの氏は〃海〃と関係深い。『日本霊異記』に伝えられる「紀麻呂」の物語はその一つ。「紀麻呂」は紀伊国日高郡の人である。そして「網を結ぴて魚を捕る」人と記される。つまりこの物語の紀麻呂は〃漁師〃である。この伝承の時代は光仁天皇の代、宝亀六年(七七五)。光仁49天皇の母は紀氏の出身(紀朝臣橡姫)、祖父は天智帝、即ち淡海帝である。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*428(14)長屋王【高市皇子(天武40帝×尼子娘)×御名部皇女(天智38帝×姪娘)】
『日本霊異記』中巻の第一縁には「己が高徳を恃み、賎形の沙彌を刑ちて、現に悪死を得る縁」という説話が載る。ここで長屋王は「長屋の親王」と呼ばれる。天武天皇の孫。おそらく天武がその後継者としていた後皇子尊、即ち高市皇子の第一皇子・長屋王は、皇位に就くべき位置にあった。この説話のながで聖武45天皇と長屋王は対立している。また、王の骨を「土左の國」に流したところタタリがあったので「紀伊の國の海部の郡の椒抄の奥の嶋に置」いたという。
*477(7)長屋王 系図へもどる トップへもどる
長屋王の父は天武の第一皇子・高市皇子。母は天智と姪娘の長女・御名部皇女(『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』)。長屋王の血統はすこぶる正しい。しかし長屋王の父・高市皇子の母は胸形君徳善の娘・尼子娘。胸形氏は地方豪族である。高市皇子は「後皇子尊」と称され、皇太子並みの地位にいたと思われるが、壬申の乱の功も空しく持統十年(六九六)に死んだ。そして待っていたように軽皇子即ち文武42天皇が即位する(六九七)。高市皇子暗殺説もここに登場する☆。長屋王の祖母の出自と彼の「左道」を考えてみたい。また王の母についても再考の余地があると思われる。
☆ このあまりにタイミングのよい高市皇子の死を疑う人もあった。かつて大浜厳此古氏は、この死に疑いを投げかけ、高松塚を高市皇子の墓と想定した。当時、私はこの大浜氏の説に反対であったが、今は氏の説も一理あると思う。梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より
高市皇子
持続は即位した年、つまり持続四年(六九〇)の七月忙、高市皇子を太政大臣に祭り上げ、丹比嶋真人を右大臣とする。もとより持続には高市を含め、天武の皇子たちを政治の要職に就けようなどという考えはない。天武の「皇親政治」の理想はない。しかし壬申の乱において功績を果たした高市皇子を無視する訳にはゆかない。そこでとりあえず、天武の皇子の中で最も年長で、壬申の乱に功あった高市を太政大臣に就けるのである。高市は皇子たちの中で皇位継承者としてはナンバースリーの位置にいた。草壁、大津、高市の順である。大津が死に、草壁が没した今、高市は一挙にナンバーワンの地位に躍り出た。持続帝は今やナンバーワンになっ高市を味方につけようとする。持続五年、高市皇子は二千戸を賜わり、今までの封戸と合わせて三千戸の封戸を手に入れている。さらに持続六年、高市は二千戸の封を賜わり、これで高市は五千戸の封戸を有することになる。高市皇子の権力は抜群であった。これは持続十年(六九六)、高市の死の記事によっても解る。
庚戌に、後皇子尊薨せましぬ。(『日本書紀』) 「尊」という尊号を持つのは高市の他には皇太子草壁皇子のみである。ここから高市皇子が皇太子ではなかったかという説が生まれる。梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 系図へもどる トップへもどる
20(5)左道
長屋王の「左道」事件とは実は「霊の秩序」の交替劇を言うのである。長屋王のたてた霊の秩序とは、父・高市皇子と「その妃」を最高神とする意識である。しかし「長屋王の変」後、霊の秩序は王の意識とは全く異なる形で再編される。つまり、草壁皇子を最高神とし、天智・天武・持統・文武・元明・元正の「七世先霊」という霊の秩序である。草壁の霊を最高としたのは中臣大嶋であるが、七世の霊に名を与えたのは一体誰であろう。藤原仲麻呂であろうか。(新川登亀男『奈良時代の道教と仏教‐長屋王の世界観』参照)
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*295(18)吉備内親王【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
吉備内親王は御霊となって、京都の上下御霊神社に祀られたという。ともに祀られるのは光仁天皇の皇后・井上内親王、その子・他戸親王、籐原広嗣、早良親王(崇道天皇)、橋逸勢ら八柱である。吉備内親王が御霊と化すのは、彼女が長屋王の妻というより、草壁皇子の皇女であるという要素のほうが強い。彼女もまた皇位継承者の資格を持つ女性であった。ただし、現在、上下御霊社の八柱に吉備内親王は入っていない。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*305(l)賀茂朝臣此売
カモヒメは藤原宮子の母である、と史書は記す。カモヒメの父は賀茂小黒麻呂、祖父は賀茂朝臣吉備麻呂と史書は言う。祖父吉備麻呂は『続日本紀』に登場している。もちろんカモヒメも『続日本紀』にその存在を記されている。天平七年(七三五)十一月「正四位上賀茂比売卒す」。さらに彼女ははっきりと天皇(聖武帝)の外祖母と記されている。史書はカモヒメなる人の実在を語るが、それでもなお彼女の存在は怪しい。「加茂氏系図」を丹念に追うと、宮子の時代に賀茂比売は存在出来ない。「ヒメ」は巫女の一般名称である。
*444(21)賀茂朝臣比売
「聖武天皇の外祖母ならば、文武天皇夫人宮子の生母にちがぴなく、不比等の妻の一人にちがひない。賀茂『朝臣』は天武改姓(六八四)の結果であつて(略)、鴨君蝦夷の一家に与へられたものである(略)。然る所、宮子の入内は文武元年(六丸七)であるから、この時、天皇とおない年の十五歳ならば、天武改姓の前年に賀茂朝臣比売は宮子を生んでゐる筈で、鴨君蝦夷以外に賀茂朝臣がなかったとすれぱ、比売は蝦夷の娘に違ひない」(神国秀夫『鴨と高鴨と岡田の鴨』)。賀茂比売がその名に負っているものは、古いカモ族の職能である。カモ族の女は子を育てる。天子の子を育てる。もう一つ、カモ族の職能に〃鋳造〃がある(賀茂県主同族会 藤木正直氏談)。この職能は宮子の故郷・紀伊国のものでもあったし、また宮子と関わり深い八幡神の性格であった。紀伊国・熊野の「弁慶」は、熊野より叡山を経由して〃都〃ヘ下りてきたとき、背に鍛冶師の技物を負っていた。熊野から京へのルートにカモ族の歩いた跡がみえる。物語の伝播者、熊野比丘尼・琵琶法師の関係とともに、「カモ族」を考えたい。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*279(11)栗隈黒嬢娘【天智38帝采女】 栗隈王【壬申の乱時の大宰帥】 河童と古代氏族にもどる
巨椋池の南に居住していたとみられる古代豪族・栗隈氏は秦氏と同じく土木工事の技術をもって大和政権に仕えた。『日本書紀』仁徳天皇十二年十月の条に「大溝を山背の栗隈懸に掘りて田に潤く」とある。栗隈氏は、「井戸を掘る」犬養氏とここで繋がる。また近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*279(10)美努王【栗隈王(壬申の乱時の大宰帥)の子】 河童と古代氏族にもどる
「美努」の「みぬ」は「水沼」に通ずると思われる。筑紫の水沼氏は宗像神(海神)に仕えた故に、「みぬま」の名を称したという。「みぬ」が「みぬま」の省略形であることは、折口信夫が『水の女』で記している。美努王と県犬養橘三千代の結婚も、三千代と不比等の結婚も、「水の神事」を媒介になされたものではないか。三千代がこの二人の夫との間にもうけた橘諸兄と光明子が政治の中心の人となってゆく背景には、彼女が〃乳人〃であったということが重要である。或いは彼女は御子、「とりあげの神女」であったのではないか。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
79(8)橘三千代
「首皇子を御養育申し上げたのは県宿禰犬養三千代であったろうと思われる」「三千代は天武天皇の御代に宮廷に奉仕し、又持統天皇の御代にも奉仕しておった事が知られるのであるが、これは天武天皇の皇太子草壁皇子の御子軽皇子(文武天皇)の乳母として又養育掛として奉仕したのであろうと久米博士は記している」(筒井英俊『東大寺論叢』)。久米博士とは久米邦武のことである。三千代が文武帝、聖武帝、二代にわたって乳母であったということは、三千代という人物を知る極めて重要な手掛かりである。彼女には乳母とともに出産の手助けをする「桂女」的性格がみえる。
*279(9)県犬養橘三千代 河童と古代氏族にもどる
「犬養」という姓からは「犬養部」や「鷹飼部」が連想されるが、柳田國男はこれらの部の職能の初めは「井戸掘ナリ」という(『所謂特珠部落ノ種類』)。また「犬」という動物はこの世とあの世を自由に往き来した。アイヌの伝承に、あの世で大に吠えられたという話がある(ジョン・バチェラー)。また昔話に出てくる犬は「ここ掘れワンワン」のポチに代表される如く、人間には見えぬものを感知する能力を持っている。
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※ 人名としての橘 吉武利文著 ものと人間の文化史87 『橘』 人名としての橘より
・ ヤマトタケル尊と弟橘姫
・ 雄略天皇皇后、草香幡梭姫皇女(またの名を橘姫皇女)
・ 「仁賢紀」、春日大娘皇女の第五子に橘皇女
・ 「宣化紀」、仁賢天皇の女橘仲皇女を皇后とす。
・ 欽明天皇の妃で蘇我稲目の女堅塩媛は、七男六女をもうけ、その第一子が橘豊日尊(後の用明天皇)、第十二子、橘本稚皇子。
・ 同じく欽明天皇の妃、糠子の子橘麻呂皇子(「欽明紀」には橘と名のつく皇子三人)。
・ 橘豊日尊(用明天皇)と欽明天皇皇女(穴穂部問人皇女)の間に聖徳太子、その妃に推古帝の初孫であり、尾張皇子の子にあたる橘大郎女。
・ 聖徳太子の死後、左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)の女橘娘の孫にあたるのが舎人親王。
※ 欽明帝から敏達、用明、崇峻、推古へと続く天皇の時代は、『集解』に「橘の京に都す」とも述ベられているが、この時代の人名に橘が多くみられるのが注目される。
50(18)橘諸兄【美努王×県犬養橘三千代】 河童と古代氏族にもどる
「井手村(京都府綴喜;つづき郡井手町)が橘諸兄の本拠地であった事には間違いない。そうしてこの井手村は隣地の多賀村と合せて往昔多賀郷と称せられた土地である事に私は興味を持つのであるが、それは東大寺の開山良弁僧正が鷲に取られて山城多賀辺に落され、郷人が之を見て養育したと云う東大寺要録の記事と照応する時に、橘諸兄と良弁僧正との間に何だか一連のつながりのある様に感ずるからである」(筒井英俊『東大寺論叢』)。井手という土地もやはり〃金属の民〃の住むところであった。「綴喜郡も、若しかしたら後述すぺき熊野の鈴木と同語なのではあるまいか」(高崎正秀『伊勢物語の成立』)。
78(7)橘諸兄
『太平記』巻三(岡見正雄校注)に「橘諸兄」の名が出てくる。「河内金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりといへども、民間に下て年久し」。「橘」姓は後に楠正成の「楠」に変化するのであろうか。楠正成は何故、橘諸兄を祖とするのか。橘氏と黄金の関係、そして正成が「金剛山」を拠点に活躍した山の民→金属の民であったことを考えたい。両者は〃黄金〃を介して確かに結ばれている。諸兄のもう一つの名「西院大臣」にも留意したい。西院の「サイ」とは境界の意である。
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73(5)県犬養広刀自【聖武45帝夫人:井上内親王・安積親王・不破内親王の母】
「刀自」とは「戸主」の転化で、家の中心にある婦人と言われているが、その発生は神酒を製する処女にあり、しかも後に「酒売る遊女」と変化する。処女と遊女の間にそう距離はない。どちらも神に仕える巫女であるからである。そしてこの刀自が物語文学に関係していることは析口信夫が指摘している(『階級傅承』)。「広刀自」という名には後に、〃女帝〃となり得るような〃力〃が秘められていた。
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*145(4)文武42天皇【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
文武帝は幼かった。しかし彼は母や祖母に抱かれて〃天皇〃となった。彼には皇子のおもがげが残っていた。「文武天皇の御遺蹟」が修験の山々に残るのも、彼の〃皇子〃的性格に因るものであろう。文武帝が夭逝したことも、伝承の主に祀られる背景となっている。文武帝は「大宝天王」という神の名を持つ。「大宝天王」は「太梵天王」の転訛である。ボンテンは御幣の最も大きく、立派なものである。それにしても「天王」というこの伝説の名称には、山の民たちの何か伝えたい物語があるように思われる。ポンテンは劇場の正面、矢倉(櫓)に神の降臨の印として今も立てられる。
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*287(13)元正44天皇【氷高内親王(草壁皇子×阿閇皇女(元明43帝))】
「あしぴきの山行きしかば山人の朕に得しめし山つとそこれ」(『萬葉集』巻二十・四二九三)。この元正上皇の歌は、奈良・帯解町大字山(奈良市山町)に行幸した折、「〃山人〃が、こんな〃土産〃をくれました」という内容の歌である。折口的解釈をすれぱ〃山人〃とは山・川の精霊を負っている〃常世人〃である。この歌はフィクションである。ここで元正は仙人であり、その仙人に仕えるのが山人である。彼女はこういう呪的な言葉を発することで、常世の国へ入ってゆくのである。
*294(17)元正44天皇
元正は称徳48帝によって「中天皇」と呼ばれた(神護景雲三年十月朔日の宣命)。元正も称徳もともに未婚の女性天皇である。称徳が元正を「中天皇」と呼ぶのは、この言葉の持つ力を、自分に引き寄せているのではないか。元正はオバとしてオイの聖武45に皇位を譲るべく天皇位に就いた。「宜命」に言う「二所天皇」とは元正と聖武のことである。
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*292(16)聖武45即位の宜命
この宣命は「父帝なる文武42天皇は曾租父、元明43帝は祀母、元正44帝は母と言ふ形に表され」(折口信夫『國文学の誕生』)‐−つまり、この宜命は物語であり、それ故、呪力を持つ。現実には文武帝は聖武の父であり、元明は祖母であり、元正は伯母である。しかし皇位は、文武↓元明↓元正と続いて、今、聖武に至ろうとしている。そういう意味で、前帝は母であり、前々帝はその母の母であり、そして聖武の父・文武は、その母の母の父、つまり「曾祖父」に当たるという訳である。
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*468(3)宮子【文武42帝夫人】
藤原宮子という人が、紀伊国と何らかの関係を持っていたことは、たとえその母がカモ族出身の賀茂比売であったとしても、ほぼ間違いないであろう。紀伊国に鍛治の技術のあったこと、カモ族に鋳造の技術のあったこと、加えて八幡神の持つ鍛冶の性格を宮子が負っているということは既に記した。紀伊の鍛冶は、一方で〃鉄砲〃を作る。時代は下るが、江戸城大手の三門を交替守備した鉄砲方は近江の甲賀組、伊賀の伊賀組、そして紀伊の根来組であった(高崎正秀『伊勢物語の成立』)。天皇が〃宮子〃を介して結びつく紀伊国は、武術にもたけていたのである。
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*379(12)聖武45天皇【文武42帝×藤原宮子】
行基開基と言われる寺には聖武天皇勅願寺が多い。聖武帝の第三皇女、松蟲姫は癩病を患い、そのため東国に流落したという伝承がある。そこは下総国(千葉県)印旛・松蟲。薬師如来が姫を救う。そして聖武勅願の寺・松虫寺が今に残る。本尊は榧材による木彫仏・薬師如来坐像。左右に三体ずつの立像が並ぶ。通称「七仏薬師」(重文)。平安後期の作とされるが、「寺伝」は聖武帝の代の仏としている。またここに行基伝説‐‐行墓と因縁ある大銀杏が現存---があることがら(柳田國男『杖の成長した話』)、この榧材による薬師仏を「行墓仏」と考えてみたい。
佐賀県多久市「桐野山妙覚寺」は行基開創の勅願所である。本尊二体のうち一体、「聖観世音菩薩」は行基作(もう一体は慈覚大師作、不動明王)。佐賀市白山にある「瑞石山高寺」は和銅四年(711)、行基開山。薬師如来は行基作(本尊は十一面観音。この観音は讃州志度寺からやって来たという。あの房前の伝承の寺である)。高寺には「聖武天皇の勅願にて楠一本を以て尊像八體を作る」という伝承がある。
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28(9)聖武天皇
聖武は夢を見る。夢の中で行基に出会う。その時の行基はみに鯖を担った老翁であった。鯖大師である。また彼は伝承の光明子と夢で出会っている。その時、光明子は和泉の国の「織女」であった。また聖武の臣下の「船手大臣」という者は木地師の棟梁となっている。また彼は聖徳太子の生まれ変わりと伝えられる。これらの不思議は一人聖武の作るものではない。行基とともに聖武の霊性は作られたと思う。「和泉の国」は、二人を結びつける。
36(13)聖武天皇
聖武天皇は夢を見る。天平十四年十一月十五日の夜、伊勢の神、玉女として示現し、金光を放つ。そうして自分は「大日如来」であり、その本地は「毘廬遮那仏」という。さらに「衆生はこの理を悟解してまさに佛法に掃依すべきなり」という(『東大寺要録』)。そして天平十九年九月ニ十九日、大仏の塗金が完成せず、聖武が思い悩んでいると、またもや玉女が現れ、その結果、天平二十一年ニ月の陸奥国黄金出土という吉兆に見舞われるのである。聖武が都を離れ、伊勢に行った天平十二年十月、伊勢大神は聖武の守護神となる(堀一郎『東大寺建立の理念と民間佛教の台頭』参照)。
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31(11)恭仁宮
恭仁官の在った山背国相楽都は橘諸兄の別邸の在ったところである。「恭仁京は瀧川(政次郎)博士の御指摘によれば、東西に流れる木津川を洛陽城の東西に貫く洛水に見立てて建設されたもので、北極星に擬せられる北の宮城と南に展開する街区の坊を衆星と見立てたその間を、天漢つまり銀河を象徴する川が流れるという、秦の始皇帝以来の首都構想が聖武天皇によりとり入れられたのである」(村山修一『日本陰陽道史総説』)。
31(12)遷都
聖武の放浪は一つの〃国見〃の儀式ではなかったか。聖武は新しい都を生もうとして歩いた。山に登り、川を下り、海を見て、地霊と交感し、〃都〃を生もうとした。彼の〃国見〃の儀式の助言者は、橘諸兄と行基であったと思われる。しかし最終的に国見をする人はスメラミコトである。
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*428(13)光明子【藤原不比等×県犬養橘三千代】
聖武45天皇が生まれたと同じ年に誕生したという。その出生にまつわる伝承は興味深い。彼女の父は利修仙人。母は霊鹿(この伝承は藤原則隆の女玉依姫も持つ。彼女は天智38帝の妃となった)。母鹿は利修仙人の小水を舐めて懐妊、利修仙人の修行の地、三河の鳳来寺山(蓬莢山に因むと思われる。利修は鳳に乗って山を地を自在に巡った)で女児を生む。利修はこの子を都の「或る貴人」の家の前に捨てる。この女の子が後の皇后・光明子という(柳田國男『和泉式部の足袋』)。 鹿児島県開聞岳大宮姫伝説
*443(20)光明子
光明子が仙人と霊鹿の子として深山で生まれたという伝承は、彼女の不思議な力を語る。また彼女が「捨て子」であったということはこの伝承の深さを物語る。子を一度捨てると、その子は力を増す。子は一定の場所に捨てられた--−橋の袂、馬場、樹の下、辻---神の場所である。門前というのも意味があるがも知れない。伝承の光明子は「或る貴人」の門前に捨てられている。また霊山の麓は赤子の泣き声のする所である。九十九王子信仰は「赤子」と関係深い。「峯の薬師」の信仰もまたそうである。〃光明子〃の父・利修仙人は鳳来寺山で薬師を刻んでいる(柳田國男『和泉式部の足袋』参照)。
57(l)光明皇太后【藤原不比等×県犬養橘三千代】
『興福寺流記』に記される光明皇后伝承は次のようである。光明皇后、和泉国の織女、田を植ゑるに光あり{或いは夢に見る、或いは聖武右を見る、と云々。}嫌ひ出るの後、田植の諸人一人づつ上に至るに、光明女上り畢りぬれば田に光なし、と云々。仍て之を語り、奈良の都に迎へ取りて立后す。而して見聞恵稽首君二人の仏師に問ぴ阿弥陀仏三尊を造立し奉り、和泉の木津に船に入れ之を運ぷ。和泉国国分寺を建立し之を安置す。是光明皇后の御願なり。而して件の国分寺には免田の照田・光田二町を寄進す、と云々。是即ち皇后の昔植ゑ給ふ田なり。(訓読・宮崎健司)この伝承では光明皇后は巫女である。神の花嫁である。だから彼女も天照大神や「水の女」たちと同様、機を織る処女なのである。しかしなぜ彼女たちは機を織るのであろう。神の衣を紡ぐのであろう。岡見正雄の言う「衣」はその偉大なるヒントとなる。「京都」で有名な壬生狂言の際にその着ける衣裳は元来死者の衣裳を寺にあげたもので、その衣裏に死者の戒名と物故日が書いてある。それを着て念佛狂言すれば回向になると言ふ考へ方があつたわけである。死者の衣をかたみとして寺にあげる例はふり袖火事から考へられる様に、昔から行はれた慣習であつたが、かたみの代表は衣であつたのも衣類と霊魂とは開係が深かつたからであり(略)、兎も角祭禮の衣には霊魂宿つたので、能の着物なども言はば神が乗り移る手段であつた」『「もの」出物・物着・花の本連歌』)。神の花嫁たる巫女はまた、死者の魂を鎮める人であった。
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110(l)孝謙女帝(阿倍内親王)【聖武45帝×光明皇后】
孝謙天皇が皇太子であった時に舞った「五節舞」は天武帝の創製であるという(高野辰之『日本歌謡史』)。「凡そ諸の歌男・歌女・笛吹く者は、即ち己が子孫に傅へて、歌笛を習はしめよ」(『日本書紀』天武十四年九月)。天武がこの舞を作ったのは「壬申の乱」を契機としている。この舞は、やはり、天武の皇統を伝える舞なのである。そしてこの歌舞というものは、〃天皇〃と〃天皇の民〃とを結ぶ絆であった。天武は舞を好んだ。ワザヲギたちは天皇の民となった。そして〃天皇〃その人もワザヲギであった。
128(6)孝謙天皇
天平十五年(七四三)五月五日、阿倍内親王は皇太子として、自ら「五節舞」を舞った。この時、元正太上天皇は「そらみつやまとのくにはかみからしたふとくあるらしこのまひみれば」と歌った。二人の処女天皇は「舞」と「歌」で呼応する。孝謙即ち高野天皇が、自ら「舞」を舞うとはどういうことを意味するのか。彼女にはもう一つ大きな「芸能」の事蹟がある。河内「由義宮」で宝亀元年(七七○)三月二十八日に行われた「大歌垣」である。女帝はまず三月三日、由義宮を流れる博多川の辺で、宴を催す。この時、百官文人及び大学生らは、「曲水の詩」を奏上している。そして二十八日、葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が「歌垣」を奉り、この「歌垣」の後、「河内大夫」・藤原雄田麻呂(百川)らが「倭舞」を奏したとある。「五節舞」の作者は天武天皇であった。またこの舞は天皇と「天皇の民」を結ぶ手段であった。歌垣も同じような意味を持つ。そして「倭舞」は「鎮魂の舞」であった。「歌垣」を行った者たちの名、河内大夫という役職名に「天皇の民」が何者であったかが知れる。つまり、高野天皇の芸能は、「国見」の儀式なのである。「五節舞」は恭仁宮で舞われた。恭仁の土地、恭仁の民、そして由義宮の地・河内の国、河内の民と〃天皇〃は主従の関係を結ぼうとして、その土地の精霊を慰めているのである。高崎正秀の言葉を借りれぱ、「その土地の精霊たちを讃め、あやしながら、使役しようとする古代信仰」を女帝の「舞」にみる。彼女は祭祀の長者としてまことに古代的な形を採った。芸能によって民を支配するというのは、神々の時代の方法なのである。彼女は「国家」という「劇場」の主宰者であり、その劇場で演ぜられる芸能のヒロインであった。高野天皇の御代の「宜命」の乱発は、宣命が芸能であったことを示す。
*281(1)市場
境内に「市場」を持つ「龍華寺」(橘寺)は、大聖勝軍寺(下の太子)の僧坊の一つであったというが、その実体はよく解らない。ただ龍華寺の在った安中が交通の要衝の地であったことは、平城京と難波宮との往来のための道・渋川道があったことで解る。龍華寺の別名、橘寺は、この地と橘氏の関係を想像させるが、証拠はない。むしろ、聖徳太子との関係から明日香村の「橘寺」と関係があるかも知れない。ただ諸兄の父・美努王の名が気にかかる。この地は物部氏の地であるが、弓削氏と同じく美努氏も物部の一族である。龍華寺が孝謙女帝によって「市場」として開かれる前、既にこの地は、市場たる条件を満たしていたのであろう。西京と呼ばれた「由義宮」は左右京職に並ぶ都として、ただ道鏡のためにだけ作られたのではないような気がする。ここは平城京と難波宮、あるいは智努宮(和泉)を結ぶ重要な地であった。
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160(4)孝謙天皇
天平勝宝四年(七五二)四月九日「大仏」が完成する。この時、五節、久米舞、楯伏、踏歌、抱袴等の歌舞が奉納される。天平十五年(七四三)五月五日、孝謙即ち阿倍内親王は「五節舞」を舞った。「五節はともあれ、その他はいずれも足踏を主体とした跳躍乱舞であり、聖なる開眼供養の斎会において、まずはこれらを演して悪霊を退散させ、仏・菩薩の来臨を期したものにちがいない」(福田晃『中世語り物文芸』)。五節は田舞に発す。即ち後の田楽である。田の豊穣を祈るこの舞の元は山伏の延年舞である。山伏の芸能には必ず反閇(へんばい;足踏み・達陀)が伴う。「天津神が反閇を踏み、宣座から詔り下す宣座言一その最も神聖なものが天津詔詞の太詔詞に対して、下位者−‐土地の精霊・服従者が誓詞を言上し、服従の意思表示をするのだ。(略)ここから古代神事劇は発芽する」(高崎正秀『賀歌』)。彼女はワザオギとなることで同時にスメラミコトとなる。
295(6)孝謙=称徳天皇
孝謙天皇は持統天皇に似ている。持統天皇は柿木人麻呂が歌ったように、「大君は神にし坐せぱ」であった。持統は天照大神に似る。女帝たちは、やはり神の花嫁であった。ならぱ彼女たちは神の声を伝えねばならない。〃物語〃を語らねばならなかった。持統の物語とは何であったか。それは二人の皇子の物語であると思う。一つは「大友皇子」、もう一つは「大津皇子」の物語‐‐この皇子の〃悲劇〃を侍統は背負っていた。孝謙は、異母弟・安積皇子の悲劇を背負っていた。古代の女帝というものは必ず〃物語〃を持っていたと思う。その物語とは鎮魂さるべき人の物語と思う。その多くは皇子であった。即ち御子であった。推古も、持統も、孝謙も、皇極も元明、元正も、〃母〃であり、あるいは姉であった。しかしこの母たちは、〃子〃を殺す。姉は弟を殺す。なぜか。この母なる人、姉なる人の本性は「天照大神」にある。アマテラスとスサノオの関係こそが、女帝の〃物語〃の始まりであった。そして女帝は、この物語する人は、悲劇の生き証人なのである。
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*442(19)高野新笠【光仁天皇最初の妃、桓武50帝並びに早良親王の母】
白壁王の最初の妃。桓武50天皇の父・白壁王即ち光仁49天皇の皇后は井上内親王である。井上内親王は聖武帝と県犬養広刀自との間に生まれた。当然、その皇子は最も有力な皇位継承者である。皇太子・他戸皇子がその人である。しかし彼は藤原氏によって排斥される。大和国宇智郡に幽開され、母とともに彼の地で没する。高野新笠は白壁王即位とともに〃夫人〃となり、桓武夫皇即位の後は皇太夫人、没後皇太后を贈られた。彼女は京・上高野の地より出でたと土地の伝承は語る。上高野には新笠の第二皇子・早良親王の怨霊を祀る「崇道神社」(崇道は早良親王の天皇号、追号)がある。
163(6)渡来人
桓武天皇の母・高野新笠の諡号は「天高知日之子姫尊」。新笠の遠祖は百済の都慕王;とぼおう。この王は川の神の女が日精に感じて産める御子という。新笠の諡号は都慕王の伝承に依る。京・上高野では新笠をこの地の出という。その由をもって、上高野の人は、祖先を百済人とする。京・大原も同族を称し、若狭・小浜も同系統という。しかしなぜか、上高野と大原の間の地、「八瀬童子」の住む八瀬は新羅人をその祖とする。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
*120(1)藤原不比等
彼の伝記はなぜ現存しないのか。不比等は実は鎌足の子ではないという伝承がある。鎌足の歌、「われはもや安見兒得たり皆人の得難にすとふ安見兒得たり」(『萬葉集』巻二・九五)がその証拠とされる。安見兒は采女。朝廷に仕えていたと思われる。折口信夫はこの伝承に関して「藤原不比等落胤説」もまんざらではないという(『宮廷儀禮の民俗學的考察』)。上田正昭氏はこれを否定し、「藤原摂関家の遠祖とあおがれるにいたった不比等を〃皇胤〃とすることによって血脈のいわれを権威づけようとした後代の作為」(『藤原不比等』)とする。それにしてもなぜ、「史伝」は消えてしまったのか。もし不比等が皇胤であったとしたら、その父は中大兄皇子、天智天皇となる。
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288(5)吉備真備
吉備真備は『吉備大臣入唐絵』なる物語を持っている。この話の奉は大江匡房の『江談抄』にある。この絵巻は『彦火火出見尊絵巻』『伴大納言絵詞』とともに、「若州松永庄新八幡宮」にあった。このことは、後祟光院の『看聞御記』に記されている。なぜ、吉備真備の物語が、若狭・小浜にあったのか。
「彦火火出見」はこの地の若狭彦神との関わりで、また「伴大納言」はこの地と大伴氏の関係から解る(『八幡宮考』の著者、伴信友は大伴氏である)。二本の絵巻までが、この地との関係を示していることから『吉備大臣入唐絵』もまた必ず、この地と深い関係にあったと思われる。
絵巻をみよう。入唐した真備の才能を恐れた唐人が、彼を楼に幽閉する。これを助けるのが、唐土で非業の死を遂げた安倍仲麻呂である。彼は鬼≠ニなっていた。絵巻では、仲麻呂とともに飛行する真備の姿が描かれる。安倍氏、大伴氏、吉備氏---この三氏は若狭で出会う。
真備の出帆は難波からと言われるが、確証はない。若狭からの出帆も考えられないか。またなぜ彼があの「道鏡伝」を載せる『宿曜占文抄』に描かれるのか。また彼は、他人の夢を横取りして出世したという「夢買い」の伝承を持つ。彼は神仙の人。「絵巻」に描かれるということは、それだけで十分、神仙の人なのである。かつて「絵巻」というものは呪具であった。
120(5) 道鏡 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より 系図へもどる トップへもどる
道鏡とは何者か、を考える時、「河内国」(道鏡の出身地は河内国若江郡弓削)はいくつかのヒントを与えてくれる。まずこの国の南は「和泉」、その南は紀伊国である。和泉国は行基の故郷である。また八尾市に在る「河内国之志幾」(『古事記』)はヤマトタケル伝承の「白鳥の陵」の地である。またこの「志紀郷」には、「百姓志紀松取」が橘の樹を土器に植えて献じたという記録が残る(『続日本後紀』)。
まず行基は聖の初めであった。聖は橋を架け、道を拓いたが、もう一つ、人間の死と深く関わった。
「志幾」「志紀」は道鏡が天智帝の皇子・施基王の子というのと絡む。ヤマトタケルの墓″も気になる。さらに「橘の樹」とは、タジマモリのトキジクノカグノコノミである。かつて葬式に子供たちに配られた「山菓子」のもとはこの橘という(五来重)。いくつかの偶然を編みあげると「道鏡が称徳天皇梓宮に奉侍し陵下に留りょした」(堀一郎「民間佛教史に於ける死後往生の思想と死者追送の機能」)のは、彼が彼女の夫あるいは恋人という理由だけではないような気がする。道鏡は「鎮送呪術」をもって称徳の陵(奈良市山陵町)に奉侍した。
287(4) 弓削
弓削という地は聖徳太子の明日香から四天王寺までの「太子の道」と、熊野信仰の「熊野の道」が交差する場所である。この弓削の地の西北、かつて「市場」として賑わったという龍華寺の界隈に、今、杭全神社と大念仏寺がある。
杭全神社は平野熊野三所権現社と明治まで呼ばれていた。大念仏寺は四天王寺で聖徳太子の夢告を得た良忍が建立。融通念仏の根本道場。江戸時代に「融通念仏宗」の総本山となる。融通念仏は芸能である。「全国に大念仏あるいは踊念仏が民族芸能化したものが、津々浦々にひろまっている。その中には融通念仏の詠唱をうしなって和讃になったもの、和讃が今様から小歌化して世俗歌、民謡、盆踊歌、くどき歌になったもの、総じて風流化、娯楽化した郷土芸能が無数にある」(五来重「田代尚光著『融通念仏縁起之研究』序文」)。
熊野信仰の伝播には熊野比丘尼とともに琵琶法師が関係している(岡見正雄談)。杭全神社には『熊野本地』の絵巻がある(元は冊子)。杭全神社境内では、この物語の絵解きが長く行われていた。正に「弓削」という地は、奈良・大阪・熊野、そして京都を結ぶ、チマタ(衝)であった。遊行の民がここに集まった。
257(7) 和気清麻呂
「たまたま清麻呂が河内にたてたという『神願寺』の原型が、すでに、和氏が若狭にたてていた『神願寺』にあるらしいことも注目せねばならない」(平野邦雄『和気清麻呂』)。若狭・神願寺は即ち現在の若狭神宮寺である。御祭神は若狭彦神(遠敷明神)。遠敷明神の直系と伝えられる和朝臣赤麿が紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り、下根来の白石神社に影向していた遠敷明神を「神願寺」に迎えた、と伝えられる。和気氏と和氏はかなり近しい関係にあろたという。「神仏習合」にこの両氏が関わっていたことは興味深い。和氏は桓武帝の母、高野新笠を出している。
若狭の「送水神事」の第一の神事、「山八神事」は、根来八幡で行うが、かっては白石神社の講坊で行っていた。遠敷明神は神仏習合の初期の神〃であろう。
そして、この神の周りには巫女〃がいる。豊玉姫・玉依拒というヒメたちが、後の八幡の巫女たちへ乗り移るのである。白石神社には椿の巨樹の林がある。八百比丘尼の椿〃である。
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年号 |
西暦 |
事項 |
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推古1年 |
593 |
4/10 厩戸皇子立太子、摂政となる。 |
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推古8年 |
600 |
第一次遣隋使派遣 |
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609 |
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百済僧道欣恵彌ら肥後國葦北津に泊 |
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推古30年 |
622 |
聖徳太子、斑鳩宮で没 |
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推古36年 |
628 |
推古天皇、小墾田宮に没 |
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舒明2年 |
630 |
第一次遣唐使(犬上三田鍬) |
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舒明13年 |
641 |
舒明天皇、百済宮に没 |
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皇極2年 |
643 |
飛鳥板蓋宮に遷都、蘇我の入鹿 山城大兄王一族を襲い滅ぼす |
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大化1年 |
645 |
大化の改新、皇極天皇譲位、孝徳天皇即位、中大兄皇子立太子 |
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大化5年 |
649 |
蘇我石川麻呂 謀反の疑いをかけられ山田寺で自殺 |
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白雉5年 |
654 |
孝徳天皇、難波宮に没 |
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斉明1年 |
655 |
皇祖母尊(皇極天皇)、飛鳥板蓋宮に重祚(斉明天皇) |
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斉明4年 |
658 |
有間皇子、紀伊国藤白坂で処刑 |
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斉明6年 |
660 |
唐・新羅軍の攻撃により百済王投降 |
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斉明7年 |
661 |
百済救援のため西征に出発、斉明天皇、朝倉宮に没 |
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天智2年 |
663 |
白村江の戦いに惨敗 |
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天智3年 |
664 |
対馬、壱岐、筑紫に防人、烽を置く 郭務悰、筑紫へ |
爵位26階 |
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天智4年 |
666 |
百済男女2千余人を東国に移置 |
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天智6年 |
667 |
大津京遷都 |
百済鎮将劉仁 667年 斉明天皇崩御(朝倉宮の変)・・・・本当は667年(室伏志畔) |
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天智7年 |
668 |
中大兄皇子(天智天皇)即位 |
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天智8年 |
669 |
蘇我赤兄筑紫率、藤原鎌足没 |
669年 中臣鎌足の死(自宅への霹靂) |
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天智9年 |
670 |
庚午年籍を作成、法隆寺焼亡 |
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天智10年 |
671 |
大友皇子立太子、大海人皇子出家、天智天皇、近江宮に没 |
大海人吉野に去る(671/10月)、天智帝没(671/12月) 671年 天智天皇の崩御(沓一つを残し山林に消ゆ) |
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天武1年 |
672 |
壬申の乱、飛鳥浄御原に遷都 |
672年 大友皇子の死(壬申の乱) |
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天武2年 |
673 |
大海人皇子(天武天皇)即位 |
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天武8年 |
679 |
天武天皇・皇后(鵜野皇女)、草壁、大津、高市、川嶋、忍壁、施基の六皇子、吉野宮で盟約 |
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686 |
天武天皇、飛鳥浄御原に没。皇后鵜野皇女称制、大津皇子謀反発覚、自害 |
難波宮焼亡、 草薙剣を熱田社に移送 |
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持統3年 |
689 |
皇太子草壁皇子没 |
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持統4年 |
690 |
皇后即位(持統天皇)、高市皇子太政大臣 |
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持統5年 |
691 |
大三輪ら18氏をして祖先の墓(纂)記を提出させる |
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持統8年 |
694 |
藤原に遷都 |
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696 |
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文武1年 |
697 |
持統天皇譲位、太上天皇と称す。軽皇子即位(文武天皇)、藤原不比等の娘宮子を夫人とする。 |
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大宝1年 |
701 |
紀麻呂・不比等を大納言に任命。大宝律令完成。 |
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大宝2年 |
702 |
持統太上天皇、藤原宮に没 |
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慶雲4年 |
707 |
文武天皇、藤原宮に没、阿閇皇女即位(元明天皇) |
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和銅3年 |
710 |
平城に遷都 |
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和銅5年 |
712 |
太安万侶古事記を完成 |
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霊亀1年 |
715 |
元明天皇譲位、氷高内親王即位(元正天皇) |
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霊亀2年 |
716 |
第8次遣唐使派遣(阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ム) |
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養老4年 |
720 |
藤原不比等没 |
大隅、日向の隼人反乱 |
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養老5年 |
721 |
長屋王を右大臣に任命、元明太上天皇、平城京に没 |
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神亀1年 |
724 |
元正天皇譲位、首皇子即位(聖武天皇)、長屋王を左大臣に任命、宮子皇太夫人と改称 |
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神亀4年 |
727 |
藤原光明子基皇子出産 基皇子立太子 |
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神亀5年 |
728 |
基皇子没 |
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天平1年 |
729 |
長屋王謀反を密告され自殺。 藤原光明子立后 |
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天平5年 |
732 |
縣犬養橘三千代没、良弁金勝山中に金勝寺建立? |
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天平9年 |
737 |
玄ムを僧正に任命、玄ム宮子の病を癒やす。宮子、聖武と対面。天然痘流行、藤原4兄弟没。 |
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天平10年 |
738 |
橘諸兄を右大臣に任命 |
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天平12年 |
740 |
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天平15年 |
743 |
皇太子阿倍内親王五節を舞う。橘諸兄左大臣、藤原仲麻呂参議に任命、大仏建立の詔。 |
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天平17年 |
745 |
行基を大僧正に任命、筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向七國無姓人等に姓を賜う |
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天平18年 |
746 |
玄ム没 |
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天平感宝1年 |
749 |
行基没、橘諸兄正一位授与、聖武天皇出家・譲位、阿倍内親王(孝謙)即位、仲麻呂を紫微中台長官に任命、八幡大神入京 |
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天平勝宝2年 |
750 |
吉備真備筑前守左降、肥前守に移す。 |
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天平勝宝4年 |
752 |
大仏開眼供養 |
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天平勝宝6年 |
754 |
唐僧鑑真来朝、太皇太后藤原宮子没 |
薬師寺の僧綱行信、宇佐八幡主神大神多麻呂及び大神杜女、結託による厭魅事件 大神杜女日向国配流 大神多麻呂多禰島配流 行信下野の薬師寺配流 |
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天平勝宝8年 |
756 |
左大臣橘諸兄辞職、聖武太上天皇没、道祖王立太子 |
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天平宝字1年 |
757 |
橘諸兄没、皇太子道祖王を廃す、大炊王立太子、仲麻呂を紫微内相とし、大臣と同格とする。橘奈良麻呂の変。 |
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天平宝字2年 |
758 |
孝謙天皇譲位、大炊王即位(淳仁天皇)、藤原仲麻呂、恵美押勝の名を賜う。 |
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天平宝字4年 |
760 |
恵美押勝を大師(太政大臣)に任命、光明皇太后没 |
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天平宝字6年 |
762 |
恵美押勝正一位授与、孝謙太上天皇、淳仁天皇を非難、国家の大事と賞罰決定を自ら行うと宣言。 |
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天平宝字8年 |
764 |
恵美押勝の乱、道鏡を大臣禅師に任命、淳仁天皇を廃し淡路国に配流。孝謙太上天皇重祚(称徳天皇) |
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天平神護1年 |
765 |
和気王謀反により処刑、淳仁天皇淡路に没。道鏡を太政大臣禅師に任命 |
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天平神護2年 |
766 |
道鏡を法王、藤原永手を左大臣、吉備真備を右大臣に任命 |
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神護景雲1年 |
767 |
法王宮職を設置 |
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神護景雲2年 |
768 |
道鏡の弟弓削浄人を大納言に任命 |
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神護景雲3年 |
769 |
和気清麻呂、道鏡即位に反する宇佐八幡の神託を報告、大隅配流。 |
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宝亀1年 |
770 |
由義宮で歌垣、称徳天皇平城宮に没、道鏡を下野国薬師寺に配流。道鏡の弟浄人らを土佐国に配流。白壁王即位(光仁天皇)、聖武天皇皇女・井上内親王立后。 |
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宝亀2年 |
771 |
左大臣藤原永手没 |
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宝亀3年 |
772 |
皇后井上内親王を廃す。皇太子他戸親王を廃す。 |
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宝亀4年 |
773 |
山部親王立太子 |
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宝亀6年 |
775 |
井上内親王、他戸親王獄死。吉備真備没。 |
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宝亀10年 |
779 |
藤原百川没 |
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天応1年 |
781 |
光仁天皇譲位、山部親王即位(桓武天皇)、皇弟早良親王立太子 |
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延暦3年 |
784 |
長岡へ遷都 |
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壬申の乱 と 神武東征物語 トップへもどる 直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より トップへもどる
神武東征物語に関係する諸氏族をながめると、東征軍のもっとも有力な部将が大伴連の祖の道臣であることは明白といってよい。また、物部連の祖の邇速日命は、はじめからの従事者ではないが、神武の長大の強敵であった長髄彦を倒した点において、道臣命につぐ功績があるといえよう。大和侵入の先頭に立つのが大伴氏の道臣、最後まで抵抗する長髄彦を亡ぼすのが物部氏の饒速日命である。つまり神武天皇の大和平定物語において、もっとも功績がたたえられるのは、大伴・物部両氏の祖先なのである。
大伴・物部両氏がならんで朝廷に優勢をほこる時期を歴史上に求めるならば、大伴室屋と物部目がともに大連になったという雄略朝(五世紀後半)から、大伴金村が失脚して大伴氏が大連の座を失う欽明朝の初め(六世紀前半)の半世紀がまず念頭に浮かぷ。そのつぎに両氏が政界の上部に進出するのは、壬申の乱以降の時期、とくに文武・元明・元正朝(七世紀未から八世紀初め)である。このころ物部氏は石上に改姓しており、それを代表するのは石上麻呂、大伴氏は大伴御行・安麻呂・旅人である。私は、神武東征物語は、この二つの時期に形をととのえたのではないかと考える。そうでなければ、大伴・物部両氏の先祖がこの物語の主役を占めるはずがないからである。
大伴・物部のほかに、『古事記』では久米直の祖の大久米命も活躍しているではないか、と反論されるかもしれない。たしかに、東征物語をかざる歌謡のなかでも久米の子の勇ましい戦いぷりがしばしば歌われており、『書紀』では大来目部の働きが語られる。しかし『書紀』の東征の条や天孫降臨の条に記されているように、来目部の祖は大伴氏の祖にひきいられていたのであり、『古事記』では久米直の祖は大伴連の祖とならんで記されてはいるが、いつも久米直の祖のほうがあとに書かれていて、その間に上下の差があったことは否定できない。それゆえ久米直は来目部をひきいて大伴連に従属していたことが推定されるのであって、久米直・来目部の活動期は、大伴連のそれとほぼ平行するとみてさしつかえない。
中臣連の祖天種子命も、『日本書紀』のほうに姿をみせるが、「菟狭津媛」を以て侍臣天種子命に賜妻せたまう」とあるだけで、東征物語の本筋ではない。中臣氏が侍臣という形で天皇の側近に奉仕するのは、中臣鎌足(のち藤原氏となる)が大化改新に大功を立てて以後のことかと思われるから、この条は七世紀中葉以降の付加であろう(天皇ではないが、大津皇子の側近に中臣朝臣臣麻呂が仕えていたことが、持続前紀にみえる)。 そのほかの氏族をみると、いずれも地方土着の豪族と考えられる。※菟狭国造・倭国造(倭直)・※葛野主殿県主・阿陀之鵜養・吉野首・吉野国巣・宇陀水取(※猛田県主)・※磯城県主(※印は『紀』にだけ見えるもの)の諸氏がそれで、菟狭国造・倭国造・葛野主殿県主・磯城県主の四民以外は大和でもその盆地南部から吉野にかけての地方に集中している。大和全体を平定する物語にしては分布が片寄っているが、南方の熊野から山を越えて大和へはいるという物語の構想によるのだろう。では、なぜこの物語が通常の交通路を無視したコースを神武天皇の一行に辿らすという構想を立てたのであろうか。しかし私たちは、武力で大和を平定した古代の天皇がもう一人おり、それがこの同じコースを進軍したことを知っている。壬申の乱における天武天皇である。先にも述べたように、六七二年、天武は吉野のかくれ家を出発し東国へはいるのであるが、途中菟田の郡家を通過したことは『日本書紀」 にみえる。その一行のなかには大伴連馬来田がおり、菟田の甘羅村で二十余人の狩人に迎えられたのは、神武が宇陀で吉野の国巣の祖石押分之子に迎えられたことを想起させる。私は壬申の乱における天武天皇の行動が、神武東征物語の構成に大きな影響を与えたのではないかと考える。
もっとも、神武は宇陀から奈良盆地に進出するが、天武はいったん東国へ走る。そこに差があるが、東に走ってのち、西を向いて(日を背にして)反攻に移るのは、神武が東を向いて(日に向かって)戦うことを中止し、南の熊野へまわるのと似ている。
また壬申の乱の大和での戦いで、もっとも功績の大きかったのが大伴氏であることも、東征物語と共通している。物部氏の動向はどうかというと、壬申の乱のころ物部氏の中心人物と思われる物部麻呂は、はじめ天武の対立者である大友皇子に従い、皇子の最期に立ちあうほど信任を得ていた、乱後は天武朝に仕えて優遇され、その後も一族は栄える。東征物語における饒速日命の行動との類似点が多い。
このようにかぞえあげてくると、東征物語に壬申の乱が影響を与えたことは否定できないと思う。東征物語に吉野川流域や奈良盆地の豪族の先祖が多くみえるのは、これらの豪族が壬申の乱において天武天皇を助けた功によって、乱後の天武・持続の朝廷に仕える機会を得、東征物語に祖先の名をおりこむことに成功したからであろう。倭直もおそらく壬申の乱において天武側についたのであろう。葛野主殿県主が七世紀から八世紀にかけて、実際に宮庭に出仕していたことは、鴨県主系図によって証明される。 以上に述べたように、神武東征物語にあらわれる氏族は、ほとんどすべて五世紀後半から六世紀前半、もしくは七世紀後半以後に天皇家と関係をもったものばかりである。この物語の主要部分が形成された時期は、これから判断してほぼ誤りはないであろう。 トップへもどる
文武天皇三年(699)十月十三日に罪人の赦免があり、越智山陵と山科山陵の造営の詔が発せられる。宮内庁はこの二つを斉明陵と天智陵に比定している。私はその越智山陵が藤原宮と本薬師寺址の延長にあるのを地図上に見、加えて、薬師寺東塔の九輪の付け根部分から出た改版された擦銘には、薬師寺の縁起を皇后ではなく中宮のためとあるのを知った。その意味するところは、天武が薬師寺を発願したのは大田皇后のためで、そのとき持統は中宮でしかなかつたことが改版は明らかにしたのだ。それ以来、私は越智山陵を大田皇后陵とし、現在、その中腹にある大田皇后の墓をその娘・大伯皇女の墓に比定してきた。ところで、『日本書紀』は斉明と天智の崩御を661年と671年とする。その斉明の崩御から40年近く、また天智の崩御から30年近くして、越智山陵と山科山陵に二人の古墳の営造を造作しなければならなかつた歴史の裏に、どんな秘密が隠されているのか。
この10年を隔てる二人の死の間に663年白村江の戦いにおける九州王朝・倭国の敗戦が横たわる。この敗戦によって倭国は瓦解し、太宰府に唐の占領政府である筑紫都督府が672年までそそり立ち、唐は倭国権力機構を解体し引き上げる。しかし、この倭国敗戦に隠された秘密は、斉明・天智の朝倉宮勢力(倭国皇統)が唐に通じたことにあつた。そのため朝倉宮は戦後、唐に重んじられたため、その裏切りに敗戦を見た倭国残党の怒りは朝倉宮を襲い、斉明に致命傷を与え、天智は命からがら畿内の近江に逃亡する。つまり、我々にある錯覚は、皇統がそれまで畿内あつたのではなく、倭国王統の陰に倭国皇統として九州域内にあつたことを隠した記紀の手品にあつたのだ。それを記紀は神武東征を畿内に造作することで隠し、661年に朝倉宮の変を造作し、667年に起こつた朝倉宮の変の真実を隠した。この後代の造作によって、斉明・天智紀における重複記事が頻出したのだ。そこに倭国を敵に売ることで、唐から列島の盟主としてのお墨付きを得んとした斉明・天智の皇統の暗い野望を語るものである。のみならず、この変を661年に造作することによって、天智は660年の百済滅亡の翌年に、はやくも列島でその再興に手をつけた英王として『日本書紀』に出現した。この延長に701年の日本国が措定されたことは、それが列島における百済の再興で、天智が皇室によって新皇祖として崇められる理由である。その斉明崩御を667年に戻すなら、672年の壬申の乱に至るまでに、倭国皇統のトップの連続死を我々は見ることができる。
667年 斉明天皇崩御(朝倉宮の変)
669年 中臣鎌足の死(自宅への霹靂)
671年 天智天皇の崩御(沓一つを残し山林に消ゆ)
672年 大友皇子の死(壬申の乱)
斉明崩御のとき、山から笠を被った鬼が覗き、鎌足の死について自宅に霹靂があつたと『日本書紀』は書くが、霹靂とは雷のことで、俵屋宗達の「風神・雷神」図には雷神は二本の角をもつ鬼に描かれている。また『扶桑略記』には、天智は沓一つを残し山林に消えたと藤原系の皇円が記したことは、虜・抹殺されたことを意味し、平安時代に神隠しが鬼の仕業とされたことに結びつく。その仕上げが壬申の乱におけるその天智の継承者・大友皇子の首級が天武に捧げられたことは、鬼の正体が天武に纏わる勢力にあつたことを語る。鬼の別名がシコであることは葦原醜男である大国主命に連想は走り、この流れに出雲から畿内の大倭(おおやまと)に入った大氏を私は見、物部氏本流をこの流れに位置づけてきた。つまり天武勢力とは天武・物部体制にはかならない。
『日本書紀』は、大田皇后の父を天智とし、唐古・鍵遺跡に続き纏向遺跡を営み、巨大古墳を大和に営んだ物部系大氏を出自とする大田皇后・大伯皇女・大津皇子に至る流れを隠し、天武の外戚を隠し続けてきた。その飛鳥の多武峰に談山神社があり、藤原鎌足が祀られ、その御破裂山の山頂に鎌足墓が営まれ分骨されている。しかし、そこから眼下に見えるのは藤原京であることは、その被葬者は死後もそれを見ることを望み、埋葬されたことを意味し、それは鎌足墓でなかったことを意味する。しかし、飛鳥の東の二上山である多武峰の今一つの峰を成す談山は、天智と鎌足が大化の改新を謀議した場と喧伝され、多武峰は天智・鎌足の伝承で色づけられているのは『日本書紀』と同じである。しかし、その登り口に比叡神社(山王宮)が建ち、大原宮の勧請とある。その大原宮のあつた飛鳥の大原に、現在、鎌足誕生地の石碑が立ち、鎌足神社が営まれ、かつて、そこにあつた藤原宅で持統が即位したことに藤原京の名は因むと『扶桑略記』は記し、鎌足伝承で彩られている。加えて、そこに現在、立派な歌碑が建ち、そこにあった五百重姫に天武が送った『万葉集』の歌が刻まれている。彼女は鎌足の娘で天武の夫人とある。しかし、そこは藤原ではなく大原であることは、天武の次の歌に明らかである。
わが里に大雪降れり大原の古りにし里にふらまくは後(巻二一〇三)
藤原が藤氏の源泉(原) の意味を踏まえてあるのは、その『藤氏家伝』の表記がはからずも明かしているのに気づくなら、大原が大氏の源泉(原)を意味し、そこに大氏宅が営まれていたことを語るもので、次の天武への返歌は大氏の娘・大田皇后のものと私はしてきた。
わが岡のお神にいひてふらしめし雪のくだけしそこにちりなむ(巻二一〇四)
うかつであったが、この五百重媛が、天武との間に新田部皇子を設け、その崩御後、不比等との間に麻呂を設けている事実を知った。それは不比等が天皇の夫人を奪い、実妹との間に麻呂を成したことを意味する! この異常を、これまで誰も歴史家が問題にしないほど、我々の歴史感覚は鈍いのだ。大田皇后が天智の子に纂奪されたように、五百重媛もまた鎌足の子に纂奪されていたので、二人は天武体制を築いた物部達雄君の子とするほかない。その天武の妃を所望した不比等に応じた持続には、大津皇子を排した不比等への感謝と、皇位を脅かした大氏への悪意にあろう。不比等はこれまでの多くの征服者がしたように、被征服者の女をわがものにし、大原宅を藤原宅と言い張り、わがものにしていった理由はここにあつたのだ。歌を大田皇后からその妹・五百重媛に戻すものの、肝要なことは彼女もまた大氏の娘であつたことだ。そのため新田部皇子の皇子である塩焼王、道祖王の奈良朝の悲劇及び、藤原四家の一を成す京家の麻呂が最初に消えて行く理由は、この大氏の血を引くところにあつたのだ。
談山神社の登り口にある比叡神社の説明に大原宮の勧請とあり、また山王宮とあることは、御破裂山の山頂墓は大氏の墓で、それは大氏の入り婿に入り、壬申の乱の勝利をもたらし、大田皇女と五百重媛の娘二人を天武の妃に入れた物部連雄君以外ではありえない。とするとき談山の謂われは天武と雄君が近江朝打倒について東国の物部氏の糾合を談じたことに由来しよう。この故に雄君は談山公と呼ばれ、談山神社の謂われを成したので、山王墓に淡海公・鎌足が初めから祀られていたわけではなかつたので、それは不比等政権の成立後の『日本書紀』の造作に伴う飛鳥造作の一環としてあつたのだ。つまり大田皇后のために発願した薬師寺が、いつしか第二皇后の持続の寺と書き換えられたように、その大田皇后陵は斉明陵に書き換えられ、談山神社は談山公ではなく、淡海公・鎌足に因むと造作されたのである。つまり、現在の大和飛鳥の伝承は天武・雄君の栄光の誉れを、天智・鎌足の栄光にずらし語られた架空伝承で、それは『日本書紀』の歴史造作に倣うものである。
その上で壬申の乱を見直すとき、それは倭国を裏切り、倭国を解体させた皇統に対する復讐劇であつたことに気づこう。それは九州から近江に逃亡した倭国皇統に最後の鉄槌をくれるもので、天武はこの勝利に最も貢献した大和の物部系大氏に招かれ、大和飛鳥に大和朝廷をはじめて開朝し、その娘・大田皇女と五百重媛を皇后と妃に迎えたのだ。つまり、大和朝廷の開朝は神武ではなく天武に始まったので、それは九州王朝・倭国の、畿内大和での畿内勢力の手を借りての復活であつた。しかし、この天武・雄君体制が畿内大和で確立したことによって、それまで長く列島の中心を成した九州は見捨てられることになった。この九州勢力の不満を利用して持続と不比等は、天武崩御を聞くや、次期皇位を約束された大和勢力の大津皇子の首級を掻き、天武・雄君勢力によって、一度は打ち砕かれた倭国皇統の天智を戴く藤原体制へと道をつけようとしたのが、大津皇子の変であつたといえよう。この天武体制から変質した持続・不比等体制の上に、701年に倭国に代わる日本国が出現したので、その成立は神武から斉明まで九州の豊前に展開した倭国皇統の畿内大和における再興にほかならない。皇極朝の九州での蘇我氏征伐が畿内で大化の改新として造作され、特筆大書されるのはその斉明・鎌足・天智のかつての非業の死を鎮魂するための造作にほかならない。 山科山陵と高松塚−修正論 『古代史最前線』No35. 2011年 室伏志畔より
この最後に勝利した持続を介して天智を戴く不比等を中心とする藤原天皇制は、天武・雄君によって開かれた大和朝廷を、天智・鎌足を中心とするものに染め変え、『日本書紀』を完成した。そこに大田皇后陵が斉明陵とされ、雄君の談山神社が鎌足を祭祀されるものに纂奪されたばかりではない。雄君の墓である石舞台古墳は石室がむき出しになるまで暴かれたのは、それが壬申の乱による勝者の墓であつたことによろう。『日本書紀』は、それを一時代前の九州で起こつた天智・鎌足が倒した蘇我氏の全盛を築いた馬子の墓としてきた。その意味で藤原京の地は不比等にとって、斉明・天智・鎌足を殺した勢力に粛清をくれた血塗られた地以外ではなかつたのだ。これこそが彼をして奈良に遷都を急がせた理由なのだ。
とするとき、藤原京の太一星(北極星)の地に設計された山科山陵の被葬者は一体、誰の墓なのであろうか。というのは、大津皇子の変をこれまで我々は大津皇子の首級を挙げることにもちろんあつたが、その結句が「是年、蛇と犬と相交めり、俄ありて倶に死ぬ」とあることは、その背景での天武・物部勢力の粛清が隠されてあつたことを寓意するからである。なぜなら、天武は九州王朝の誕生となった委奴(いぬ)国の流れなら、物部系大氏は蛇をトーテムとする出雲王朝の流れであったからである。とするとき、この畿内大和勢力に担われた天武・物部体制を向こうに回し軍を動かした者を想像するとき、それは壬申の乱で大活躍した高市皇子以外にありえない。天武が大海人皇子でその背景に海人族をもつたように、高市皇子の母は宗像君徳善の娘・尼子姫で、それは海人子姫の意で、高市皇子の背景に壱岐の海人族の流れを引く宗像海人族が控えていた。壬申の乱での高市皇子の活躍は、この海人族が陰で動いていたのだ。天武の容体の悪化の中で、持続と不比等は天武構想のままに大津皇子の即位を許すことは、大和勢力に権力が引き続き受け継がれることを意味する。それは壬申の乱後に権力を大和に明け渡したため、九州は貧乏籤を引いてきた。この九州勢力の無念を利用せんと、持続と不比等は高市皇子を抱き込み、権力を畿内勢力から九州勢力に取り戻すべく、高市皇子の海人軍団をもって、大倭の大氏一族を襲わせたのではないのか。とするとき、万葉集における次の歌が気にかかる。
日並皇子の命の 馬並めて御狩り立たしし時は来むかふ(巻一四九)
通釈は、この歌を、今は亡き草壁皇子が馬を並べて狩猟に出る時を想い浮かべ、その御子・軽皇子の阿騎野の狩りの開始の歌としてきた。古来、戦いは人狩りとしての側面をもっていたことを想うなら、御狩りは人狩りであるみいくさを含めてあつたのだ。我々は花鳥風月にならされたトンデモナイ万葉解釈の流れにあるため、真相を見失っているのだ。そこでは日並皇子は、太陽に並び立つ天皇に比肩され、ここでは持続の御子・草壁皇子を荘厳するものとされてきた。しかし、この「日並」の意味は、太陽に並び立つ意味への付会は窒息的なもので、本来は、太陽信仰を「無み」する意味であつたことを我々は見失っている。それは大和飛鳥の信仰が、三輪山に昇る太陽がセットになつた春日信仰がタブーとして隠されたことに対応する。大和で三角縁神獣鏡が量産されたのは、この春日信仰の地で、その主宰者が物部系大氏であつたが、大津皇子の変を境にそれが藤原氏によって廃神毀社され大和飛鳥から一掃され、その百年近くして平城京で藤原氏の信仰として三笠山の麓に春日神社として蘇ったことを我々は忘れている。それを主宰した大氏の神社は、現在の多神社の地にあつた春日宮にあつた。この大津皇子の変の背景で展開した大和飛鳥の粛清劇を『日本書紀』は「是年、蛇と犬と相交めり、俄ありて倶に死ぬ」と記したのだ。そのため、かつての春日宮の地に現在、多神社が立つが、それは春日信仰の主宰者としてではなく、大和の開拓者・物部系大氏の鎮魂社に成り下がっている。そのため神宝は三角縁神獣鏡ではなく、72体の木像でしかないのは、それは、この変の大氏一族の犠牲者を偲ぶものであろう。 山科山陵と高松塚−修正論 『古代史最前線』No35. 2011年 室伏志畔より
その大和豪族の大氏一族の期待を一身に担って大津皇子は、次期天皇に嘱望されていた。それを『日本書紀』は大田皇后隠しを行い、その父・物部連雄君を隠して天智とし、天武が大田皇后のために発願した薬師寺を持続にすげ、もう一人の五百重媛の父を鎌足とし、本来の大和開拓者にして天武の外戚となつた物部系大氏を隠し、この変の意味を見失わせてきた。その日神信仰の担い手・大津皇子を無みし、大和勢力に代わる九州勢力の、畿内での権力の樹立のために、軍を動かし次期天皇へ名乗りを上げたのが高市皇子であつた。その天皇の証しが長屋王家から出土した「長屋親王」 の木簡によって明らかになつた以上、阿騎野の狩りの歌は大津皇子の変を前にして、雌伏する高市皇子軍を人麻呂は万感の想いをもって歌っていたのだ。そこにあの絶唱の緊張感もまた生まれたのだ。
東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ (巻き四八)
それは単なる狩猟を前にした緊張感ではない。失敗は死に直結する緊張感が、馬を並べた兵士の緊張を伝えていたのだ。 その物部系大氏狩りは成功し、高市皇子は文武天皇(軽皇子) への譲位を条件に、持続に称制を解かせ、皇位に着いた。そして皇位は高市の薨去のあと、文武の即位となり、そこから女帝・元明・元正を挟み、ついに藤原系の聖武天皇を実現した藤原氏は、その藤原王権の恒久化をはかるために、その高市皇子の御子・長屋親王一族を729年に左道を理由に一掃した。それが菟罪であつたのは、一〇年を待たず露見したが、死んだ者はもう帰って来ない。この高市本系譜の絶滅によって、藤原氏は、もはや大和朝廷に先在した出雲王権や九州王権にもはや危倶することなく、大和中心の藤原天皇制をそそり立たせることが出来たのである。 山科山陵と高松塚−修正論 『古代史最前線』No35. 2011年 室伏志畔より
長屋王の変(729) 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
聖武天皇の事蹟について語ろうとする時、「長屋王の変」を避けて通ることはできない。神亀六年(七二九/天平元年)二月十日、左京の人・塗部造君足と中臣宮処連東人らが、「左大臣正二位長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」という密告をした。
直ちに、式部卿従三位藤原宇合、衛門佐従五位下佐味虫麻呂、左衛士佐外従五位下津嶋家道、右衛士佐外従五位下紀佐比物らは、六衛の兵を率いて長屋王の屋敷を囲んだ。そして翌十一日、一品舎人親王、新田部親王、大納言従二位多治比真人池守、中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養、少納言外従五位下巨勢宿奈麻呂などが長屋王の宅に着いて、その罪を窮間した。十二日、長屋王、正室・吉備内親王、その子・膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王らが自殺した。
そして翌十三日には、長屋王、吉備内親王の屍を生駒山に葬らしめたが、吉備内親王については罪が無いので、その身分に応じた葬送をせよとの、長屋王については「犯に依りて誅に伏」したので「罪人に准」じるが、「その葬を醜くするなかれ」との勅が出た(以上、『続日本紀』)。これは実に手早い処置であるといわねばならぬ。長屋王の謀叛が密告されてから四日にして、事件はすっかり片づいたのである。
長屋王 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より
長屋王の父、高市皇子は天武帝の長男であり、しかも壬申の乱での戦功は著しい。当然、次の皇位継承の有力な候補者になりうる資格を持つと思われるが、そうはならなかった。皇子の母は地方豪族であった胸形君 徳善の娘・尼子娘である。それで出自の卑しい母を持つ皇子ということになり、当時の常識では皇位継承の資格に欠けるとされた。しかしそのことがかえって彼に好都合に働いた。なぜなら、それによって我が子・草壁皇子を是非次の天皇にしたいという熱い願いを待った持統帝の掃疑の目を免れることができたからである。すでに彼は天武帝存命中の天武十四年(六八五)に、草壁・大津の位に次ぐ浄広弐(従四位下相当)を授けられ、朱鳥元年(六八六)、封四百戸を加えられていたが、持統帝が大津皇子を謀叛の口実で殺してしまった後はナンバー2の皇子として、持統四年(六九〇)、太政大臣同五年、封二千戸を増し、前と合わせて三千戸、さらに同六年、封二千戸を増し、合わせて五千戸の食封を与えられている。また『日本書紀』(持統十年七月十日)や『万葉集』(巻二・一九九〜二〇一)には、高市皇子は草壁皇子の「前皇子尊」に対し「後皇子尊」と称されているので、皇太子の地位についていたのではないかと思われる。
このようにみると、持統帝晩年において高市皇子は、皇太子なみの権力、財力を有し、持統帝との間に微妙な関係が生じていたのではないかと思われる。持統十年七月十日、突然、高市皇子は死ぬ。時に彼は四十三歳であった。彼の死が突然であったことは、柿本人麻呂の挽歌によっても解る。持統帝側にとり、まことに好都合な高市皇子の死の後に、早速次の皇太子を決める会議が開かれ、議論の末に持統帝の思惑通り、軽皇子が選ばれた。すると待っていたかのように持続帝は軽皇子に皇位を譲った。このように高市皇子の死は持続側にとって大変好都合であったが、その食封はおそらくそのまま子に伝えられたのであろう。
高市皇子は母の出自が卑しいために天皇になれなかった。しかし長屋王の母は元明帝の同母姉であり、長屋王が長屋親王と呼ばれていたのは、その父の血筋によるばかりか母の血筋の尊さにもよると思われる。従って長屋王は、父、高市皇子と違いその父母の血統からいっても申し分なく皇位継承権を主張できる。それに対して聖武天皇は、高市皇子よりはるかに母の血統に難点があり、天智の「不改常典」を持ち出さずにはとても皇位の正統性を主張できなかった。
しかしそれにも拘わらず強引に聖武の即位は実現されたが、ここにまた困った事が起こったのである。それは神亀四年(七二七)閏九月に聖武天皇と光明皇后との間に生まれた皇子−その皇子を聖武と光明皇后はその年の十一月すぐに皇太子とする−が翌神亀五年九月に死んだことである。この時点で聖武天皇と光明皇后は有力な皇位継承者を失ったのである。
とすれば次の皇位をどうするか。聖武には県犬養広刀自との間に安積皇子という皇子がある。彼が一応候補者と考えられるが、長屋王と吉備内親王の間の皇子たち、膳天王、桑田王、葛木王、鈎取王らがその有力な候補者となるであろうことは疑いえない。何故ならその王たちほ、父の血続においてはもちろん、母の血統においても、二重に天皇家の血を引いている。それは海人の子である聖武天皇と藤原家の娘である光明子の間の子がとても及ばない皇位継承権を、既にその血において持っているのではないか。しかもその「不改常典」を使って即位させるべき男性の皇子を既に失っているのである。
私にはこの変は、長屋王とともに吉備内親王および膳天王等を除くところに目的があったと思われる。おそらくこの段階で既に孝謙帝(阿倍皇女)の皇太子就任が考えられていたのかもしれない。とすれば、この血統においてとりわけ卓越性を持たない女子を皇太子にするには、おそらくその血統の正統性を楯に膳夫王らの皇太子就任を要求してくるに違いない長屋王を、その子とともに除かねばならない。そういう意志により、この変は起こされたのだと思う。
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藤原広嗣の乱(740) 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
資料としては十分な信頼のできない 『源平盛衰記』 の記事は、しかしこの光明子という、卓越した知性と厚い仏教への信仰を持ちながら女身の持つ深い業に悩まざるを得なかった一人の女性の姿を実によく語っていると言えよう。そして広嗣の眼には同衾しているとしか見えなかった二人の男女の姿が、聖武帝には十一面観音と千手観音が御顔を並べて衆生済度の方便を語っていると見えた。二人の情事がたとえ事実であっても天皇はそれを咎めることはできなかった。何故か。私は聖武帝の母・宮子が本当に不比等の子であったなら、光明子と聖武帝が叔母・甥の関係にあるにせよ、それを咎めることができたに違いないと思う。しかし宮子は実は海人の娘であり、聖武帝は藤原氏によって擁立された天皇にすぎぬとしたら、とても光明子に頭が上がらず、彼女を答めることなどできるはずはない。そういう聖武帝の微妙な心に配慮を欠いた広嗣を、彼は半ば流罪の形で筑紫に追いやったことは十分考えられるが、この場合、二人の関係そのものが二重性を持っていたと私は思う。
二人が一つの床に寝ていたことは事実であろうが、また二人が衆生済度の話をしたことも本当であろう。光明皇后は深い仏教信者であり、玄妨は唐の皇帝から紫衣を賜った高僧である。とすれば広嗣の見たものも、聖武帝の見たものも、決して幻影ではなかった。それは光明皇后と玄防の関係の二つの側面であった。もともと大乗仏教は、小乗仏教のように煩悩を否定したものではない。煩悩即菩提、菩提即煩悩を説く仏教である。泥の中に美しく咲く蓮の花をそのシンボルとする仏教である。仏教信者である聖武帝が見たものは、信者でない広嗣が見たものとは違い、二体の観音が一つの床に枕を並べて寝ていた姿かも知れない。
しかし仏教の世界ではその二重性は許されるが、俗世ではそれは許されることではない。広嗣はあくまでも俗世の論理に執着し、皇后の不倫を責め、果ては乱を起こして滅亡していったのであろう。
天皇の逃亡 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
聖武天皇の行動で最も奇怪な行動は天平十二年(七四〇)十月二十六日の平城京からの逃亡であろう。
朕、意ふ所あるに縁りて、今月の末、暫く関東に往かんとす。その時に非ずと雖も事やむこと能はず(『続日本紀』)。この不思議な「詔勅」を残して、聖武天皇は突然、都を捨てるのである。この天平十二年という年は重大な年である。天平十二年八月二十九日、藤原広嗣は「時政の得失を指し、天地の災異を陳べて、玄防、下道真備を除かん」との上表文を提出し、その数日後、筑紫において兵を挙げた。
聖武天皇が都を後にした時は広嗣の軍と、広嗣を追討するために派遣された大野東人を大将軍とした朝廷軍が戦っている最中であった。この戦は最初から朝廷軍が優勢であり、「広嗣の乱」の鎮圧はあと一歩というところにあったが、戦はまだ終わってはいなかった。とすればなぜこのような戦のさ中に、聖武天皇は平城京から逃亡したのか。天平十二年という年は、天平九年(七三七)に藤原四兄弟が相次いで流行病即ち天然痘で死んだ三年後である。また、この天平九年は皇太夫人・宮子が長年の憂愁から解放された年でもある。四兄弟の死は、聖武天皇及び光明皇后を困惑させた。一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄はどちらかといえば実務的政治能力に欠けていて、政治の実権は「太政官」の中心に座ったこの諸兄にはなく、天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄防と下道真備、後の吉備真備にあった。
広嗣は、自らが大宰少弐として左遷された恨みもあって、憤激にみちた先の上表文を提出したわけである。それにしてもいくら勝ち戦とはいっても、戦いがまだ終わらぬうちに官軍の総大将である聖武天皇が、突然、「朕、意ふ所あるに縁りて、今月の末、暫く関東に往かんとす」と言って都から出てゆくのは納得のゆかぬことである。この時は一国の帝王が決して都を留守にすべき時ではない。それは聖武天皇とて解っているのであろう。自分の行動が今、その時にふさわしくないものであることを。しかし彼は都を出る。そして、伊賀名張を経て伊勢神官へ行くのである。
藤原広嗣 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
広嗣の霊は怨霊となった。それは鎮魂されねばならない。誰がこの彷徨せる魂を鎮めるのか。それは行基を長とする行基集団即ち古代の聖たちであった。この聖たちは中世に入ると時宗化した(五来重『高野聖』)。「時衆は精霊の念仏回向をよくした宗旨であり、合戦の際には戦場に伴をして、丁度西欧で吟遊詩人が戦場に出かけ、かたわらの丘で見物した後にそれを語った」ように、時宗の聖も鎮魂のために物語をしたのである (岡見正雄『国文学における民俗学的方法』)。行基が聖武とともになしたのは「大仏造立」だけではない。怨霊となった人々の物語を語り伝えるのも彼らの仕事であった (五来重『遊部』参照)。
藤原広嗣は御霊神社の一柱として今も祀られる。
玄防法師、また『扶桑略記』は次のように語る。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
丙戌日。玄防法師、大牢小弐藤原広継の亡霊の為に其命を奪はるる。広継の霊は今の松浦明神なり。持つ所の経論、悉く興福寺(唐院)に納め、言比謬失誤なし。流俗に相伝へて日ふ、玄妨法師、大宰府観世音寺供養の日、其導師となり腰輿に乗り供養の間、俄に大虚より其身を捉捕され、忽然として失亡す。後日、其首、興福寺唐院に落置す、と。(天平十八年六月)
松浦明神 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
「松浦」という名にまつわる第一の伝承は「松浦佐用姫」であろう。地名の「松浦」は肥前国(佐賀県)にある。サヨヒメもまたこの浦の嶺に立って、海を渡る恋人との別れを哀しんで領巾を振った。その後、彼女は恋人とそっくりの男と契る。その男は蛇であった。そして彼女は蛇とともに沼に消える。このサヨヒメは水神の巫女。水神に捧げられる人柱伝承を担う女性の名もサヨ″である。
もう一つ、鎌倉期の物語に『松浦宮物語』がある。主人公は遣唐使として唐へわたり数々の冒険をする。彼は住吉の神を守護神としていた。松浦明神とは海神であろう。
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橘奈良麻呂の変(757) 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
天平勝宝八年(七五六)五月、聖武太上天皇は没する。その年の二月には橘諸兄は辞任し、左大臣の位を去っている。これはおそらくその頃、既に重い病の床に就いていた聖武帝が、彼を後ろ楯とする橘諸兄を支えきれなかったことを意味する。この聖武帝の死の前々年、天平勝宝六年七月十九日、宮子が死に、光明皇太后のわがままを制する人はいなくなった。そして一人天皇家の権力が光明皇太后に集まるとき、彼女の権力を後ろ楯にしていた仲麻呂の勝利は目に見えている。とすれば、「聖武帝=橘諸兄」ラインに繋がる皇親、官臣たちは立つ瀬がない。彼らが乾坤一擲の賭けに出たのが諸兄の長男橘奈良麻呂の変であった。 しかしこの「橘奈良麻呂の変」というものは、はっきり正体がつかめない。
「橘奈良麻呂の変」が起こつたとき、多くの宮臣たちは喚問され、佐伯全成は次のような内容の自白をした。天平十七年(七四五)に、病気の聖武帝の後に黄文王父子を中心に多治比氏と小野氏に政治を補佐せしめ、大伴・佐伯の武力でその政権を守らせるという計画が、橘奈良麻呂によって佐伯全成に提案された。全成はこれを断ったが、大嘗の歳即ち天平勝宝元年、奈良麻呂は再び全成をくどいた。そして天平勝宝八年、また奈良麻呂は全成を誘った……。
奈良麻呂が一番頼りとしているのは大伴・佐伯の武力である。大伴古麻呂は既に奈良麻呂の味方である。佐伯全成を味方につければ万全だ。実際、確かに陰謀はあった。しかし本当にクーデターの実行計画はあったのか。小野東人の自白によれば、まず仲麻呂を殺し、皇太子を退け、光明皇太后の鈴璽を奪い、仲麻呂の兄・豊成をして孝謙帝を廃し、四王の中の一王を立てて天皇にすることを宣せしめるというのである。この小野東人の自白が真実であるかどうかは解らないが、陰謀の嫌疑だけでも反仲麻呂派を絶滅させるのに十分だと彼は考えたのであろう。
喚問は凄惨を極めた。皇親である黄文王、道祖王、それに大伴古麻呂、多治比犢養、小野東人、鴨角足は「杖下に死」んだ。即ち拷問を受け死んだ。黄文王の兄である安宿王も妻子とともに佐渡配流。佐伯大成、大伴古慈斐は各々任国の信濃、土佐に配流、多治比国人は伊豆配流。佐伯全成も自殺した。
ここで殺され、あるいは流罪にされた人には三種ある。一つは黄文王、安宿王、道祖王などの王たち。これは有力な皇位継承者で、天皇・皇太子のライバルである。つまり仲麻呂はここで反仲麻呂派に担がれようとする有力な皇子たちを一掃したのである。それに多治比犢養と国人に小野東人、これは皇親政治を助ける官僚であろう。そして次にそれを武力で助ける大伴氏と佐伯氏、大伴氏では古麻呂と古慈斐、佐伯氏では大成と全成。この事件によって古代豪族、大伴・佐伯両氏は、致命的打撃を受けた。本来なら大伴家持もここに入っているはずだが、彼はこの事件が起こる少し前から仲麻呂と好みを通じており、事件の傍観者とならざるを得なかったのである。この家持の心境は『万葉集』(巻二十・四四八三)に示される。
要するにこの「奈良麻呂の変」なるものは、クーデターの嫌疑を理由に反仲麻呂派を一掃しようとしたものであり、その殺し方も凄惨を極めた。この報いはやがて十年も経たぬうちにやって来る。しかし独裁者はこの時点では後に報いがこようとは夢にも思っていなかったのであろう。ところがここで杖下に死んだ人の中に、反乱の中心人物、奈良麻呂が入っていない。奈良麻呂については『日本霊異記』にも悪口が載っており、天皇に嫌われて殺されたとある。しかしこのとき奈良麻呂は光明皇太后の親戚なので助けられたという噂があるが、ここでは触れない。
「橘奈良麻呂の変」 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
変後の奈良麻呂について『続紀』は語らない。『日本霊異記』では殺された、とある (中巻・第四十縁)。『霊異記』 の奈良麻呂は罪深い。彼は一人の僧を呪っている。北山茂夫はこの僧を行基だという。その理由は行基が仲麻呂を介して天皇と結びついた人であるからだという (『天平末葉における橘奈良麻呂の変』)。しかし行基は、奈良麻呂の父・諸兄の最も頼みとした人である。奈良麻呂の呪詛した僧とは誰か。なぜ『霊異記』は奈良麻呂を悪逆非道の人と語るのか。そしてなぜ正史″は彼の死を記さなかったのか。
『霊異記』は奈良麻呂が怨霊となったことを物語りたいのではないか。長屋王を自害に追い込んだ「一人の沙弥」が思い出される (中巻・第一縁)。
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恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764) 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995より トップへもどる
また仲麻呂一族の「藤原恵美」姓への改姓は、不比等の、自分の直系のみを「藤原氏」とし、意美麻呂などを「中臣氏」 へ復すということに倣ったのであろう。不比等の場合は政治を行う「藤原氏」と祭祀を司る「中臣氏」を分かつことにより、政治と祭祀の両面で藤原氏が支配力を持ち、藤原氏による独裁を実現させようとする狙いを持つ。それゆえ意美麻呂たちにも全く不満が残らなかったであろう。しかし「藤原恵美」への改姓は違う。それは仲麻呂直系の子孫を他の藤原氏より一段上に置き、特権を与えることを意味する。これは他の藤原氏の怨嗟の的にならざるを得ない。そしてこのことが仲麻呂の孤立の原因を作ることになる。他の藤原氏の協力を得ずして、どうして彼の政権は安泰であり得ようか。なぜ「藤原恵美」という姓にしたかという理由は、仲麻呂の名を恵美押勝と改名したことによろう。
とにかく仲麻呂は不比等を見倣って、改姓、律令の施行、銭貨の鋳造、歴史の編集という事業を行ったのである。不比等の大事業の裏に女帝たちがいた。持続女帝、元明女帝、元正女帝。仲麻呂の後ろにいたのは誰か。それは私は孝謙女帝よりむしろ光明皇太后であったと思う。仲麻呂の活躍母体「紫微中台」は、その役職名に彼の中国趣味が表れている。太政大臣を大師、左大臣を大博、右大臣を大保とするのはその例であるが、こういうことは仲麻呂の趣味であるとともに光明皇太后の趣味でもあったろう。
仲麻呂と光明皇太后は運命によって結びつけられた人であった。そして晩年の光明皇太后は、まったく仲麻呂の意のままであった。正に「恵美押勝」なのである。仲麻呂の強引な政治を、光明皇太后はニコニコ笑って叙て良しとされたのである。そして二人は周囲から孤立し、光明皇太后が亡くなった時、もはや仲麻呂には大変危うい裸の権力しか残されていなかった。
そして仲麻呂にとっては思いがけない、第三の権力が現れたのである。それは孝謙女帝を後ろ楯とする道鏡の権力である。それは全く予想外のものであったが、仲麻呂の独裁政治に不満な宮臣たちは、むしろこの第三の権力に味方し、彼の独裁権力は脆くも崩壊するのである。これは聖武帝を失って崩壊した橘氏などの権力と同じ運命である。仲麻呂は彼が葬った者と同じ運命に見舞われた訳であるが、それは冷酷な歴史の法則であるといえるかもしれない。
『水鏡』は、仲麻呂も道鏡もともに貴い女性と通じた罪により滅亡した男としている。やんごとなき女性は、やはり永遠のタブーなのである。タブーの女性と通じてはならない。仲麻呂も道鏡も、そのタブーを犯して滅亡したのだ。『水鏡』の見方は当時の人々の仲麻呂や道鏡に対する見解を代表しているのかもしれない。
象徴天皇 トップへもどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
日本の天皇はその初めから幼子であり、女性であった。それが本来のスメラミコトの姿と思う。だからこそ「小さ子」伝承が、「水の女」の物語が、いつの時代になっても語り伝えられたのである。
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女帝 |
卑弥呼 |
元明天皇/元正天皇 |
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皇子 |
スサノヲ |
男弟 |
弘計・億計両王子 |
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時の実力者 |
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部族連合 |
蘇我入鹿—>中臣鎌足 |
藤原不比等 |
藤原不比等 |
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邪馬台国 |
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両王子の即位に先立って、同母姉の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で政治を取っていたという、所伝をともない、のちのち「飯豊天皇」(扶桑略記・皇胤紹運録)とされた最初の女帝 |
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額田部連比羅夫 ・
推古二十八年(620)皇太子(聖徳太子)・島大臣(馬子)ともには議りて、天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部、併せて公民等の本記を録す。 |
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安倍引田臣比羅夫 ・
安曇山背連比羅夫 ・
皇極四年(645)、蘇我蝦夷の誅滅の際に「天皇記」は焼失したが、「国記」のみは焼失を免れた。 |
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天武十年(681)国史撰修の詔勅 |
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即位 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
「大嘗祭」で歌とともに大切なのが、「舞」である。「舞ひを舞ふといぷのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。古く神服女の舞ひといふ事も見えて居る」(折口信夫『大嘗祭の本義』)。「神服女」とは神の衣を織る「機織女」であろう。即ちアマテラス自身である。かつて日本の〃天皇〃というものは、このアマテラスの威霊を身につけるために「舞」を舞ったのではないか。とすれば、日本の天皇は〃女〃でなければならない。日本の長い女帝の時代というものは、アマテラスという女神の存在によって支えられてきたと思う。「天皇の即位」におけるアマテラスの存在を重視したい。
笠衰 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
この『日本書紀』の叙述は、スサノオの神の本性を示す。笠蓑姿のスサノオが「宿」を乞う。笠蓑は旅姿を表す。スサノオの遊行の始まりである。神話のスサノヲは神々に「宿」を拒否されるが、遊行するスサノオに「宿」を提供する人々は全国に居た。各地に在るスサノオを祀る「社」はその遊行のスサノオの「宿」であろう。流浪と言えば、継体天皇が思い出される。彼の母の出身地とされる福井県坂井郡三国(三国坂中井)は「三国湊」で有名な港町である。継体はこの地で育ったという。三国町喜宝‐‐もう坂一つ下りると海という場所に「氷川神社」がある。スサノオを祀る。氷川神社は三国町桜谷にある三国神社とともに崇拝された。三国神社はオオヤマクイを祀る山王社と継体天皇を祀る水門神社が合祀されて出来た社である。スサノオは、山の民・海の民の信仰に支えられる。山の民・海の民はスサノオに「宿」を用意する。”天皇”の初め、神武もまた遊行の人であった。スサノオと、遊行の天皇たちの出自が気になる。神武の母は玉依姫、継体の母は振媛。「玉依」も「振」も巫女の名である。そしてこの夫皇の母たちは、海のヒメであつた。
「中世」 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
「源義経」の物語は、「中世」の時宗の道場で生まれた。京・四条道場・金蓮寺がその場所である。義経にはスメラミコトの面影がある。彼は幼名・牛若丸。笛を吹いた。これは、用明天皇の「山路の牛飼」の話と相似である。義経の物語は、また「金太郎」の物語に通ずる(岡見正雄)。金太郎は山で生まれた。母は山姥である。金太郎はオカッパ姿である。二十一歳になるまで童であった、と言う。異形である。御子神である。母の山姥は山の巫女としてこの御子神を守る。しかし山姥は妖怪となる。金太郎は山を下りる。「中世」とは、神が遊行を始めた時代、そして神が零落した時代である。その代わり、神は〃人間〃の形をとって、ちまたを往来した。スメラミコトも源氏となって地方に下り、スメラミコトの物語を伝えた。義経の物語には、「天皇の民」としての全属師が介在する。金売吉次がそうである。金太郎は、その名の「金」に皇子のシルシを刻む。なぜスメラミコトの物語に金属師が介在したのか。金属は山の神秘であった。山は金を生んだ。だから極端に言えば、スメラミコトは山で生まれなければならなかった。中世の神の御子の「山中誕生譚」はここにその源を持っていると思う。「時宗」の寺院の名に「金」の字の多くつくのにも、何か意味がありそうである。
象徴天皇 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
日本の天皇はその初めから幼子であり、女性であった。それが本来のスメラミコトの姿と思う。だからこそ「小さ子」伝承が、「水の女」の物語が、いつの時代になっても語り伝えられたのである。
一寸法師が、桃太郎が、瓜子姫が、織女星(織姫)が、天の羽衣の天女が、鶴女房が、乙姫が、そして山姥が、雪女が‐-神々は私たちの傍にいる。神はある時は乞食の姿である。「日本の天皇」の象徴性は、中世の神の捉え方から発している。スサノオは天上を追われる時の遊行の姿をもってスメラミコトの資格を得る。笠蓑がその証拠。宿を乞うのもそのシルシ。そして彼が初めて新羅の国に天降った(『日本書紀』神代第四段、一書)と言うのも、彼が、次のスメラミコトたる資格を持つ神功皇后の系譜にあることを教える。
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髪長姫伝説 トップへもどる 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より
天皇と髪長姫。二人を結ぶのは〃海〃である。 和泉式部の足袋 鹿子模様 鹿子絞り 水手・水夫(かこ)
天皇と海人(水手=鹿子)
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天皇 |
ニニギノ命 |
景行12天皇 |
応神15天皇 |
仁徳16天皇 |
天智38帝 |
天武40天皇 |
文武42天皇 |
聖武45天皇 |
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夫人 |
大山紙神の娘、神阿多都比売(かむあたつひめ)或は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ) (別名:コノハナサクヤ姫) |
日向髪長大田根〔諸県君泉媛〕(紀) 日向襲津彦皇子 |
日向泉長媛(紀・記) 大葉枝皇子 小葉枝皇子 |
柳田國男の記す「髪長姫」は、天武40天皇(大海人皇子)の后となった処女の物語である。この髪長姫は紀州の海人の娘とある。 ※陰陽博士によって入内。 |
文武天皇夫人・藤原宮子 (紀州「道成寺開創縁起」として伝わる髪長姫も海人の娘である。) ※藤原不比等によって入内。 |
光明皇后にも「髪長姫」の伝承がある。 |
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髪長姫説話 |
? |
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日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふること能はず。依りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髪長媛を貢上る。 |
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この御后とは高市皇子の母「尼子娘(あまこいらつめ)かも知れない。「尼」は「海人」に通ずる(伊勢神宮の忌詞:いみことば「尼」は「女髪長」と言い換えられる)。そして彼女の父は、胸形氏(宗像氏)であった。さらに伝承の天武の后の出身は紀伊国であり、「兄海士;けあま」或いは「九泉郎;くあま」の家の出とある。 |
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興福寺の宝蔵には皇后の一丈余りの髪があるという。 |
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鹿 |
鹿の足(葦) |
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天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に謂りて日はく、『其、何なる麋鹿ぞ。巨海に浮びて多に来る』とのたまふ。ここに左右共に視て奇びて、則ち使を遺して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、『誰人ぞ』といふ。応えて曰さく、『諸縣君牛、是年老いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髪長媛を以て貢上る』とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし処をなづけて、鹿子水門と日ふ。凡そ水手を鹿子と日ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ |
@ 彼女の父は利修仙人。母は霊鹿。藤原則隆の養女となる。 A 塩土翁(一説では開聞社僧瑞応院主となっている)が密法修業中、牝鹿が来て法水(閼伽の水)をなめ、忽ちはらみ、口から一女子を産んだ。この娘は容姿端麗だったので、瑞照姫と名付けて沙門智通に与えた。 美貌が都に聞こえたので、上京して藤原鎌足に育てられ、長じて大宮姫と改め、一三歳で天智帝の皇后となった。ところが、正月二一日の初雪の雪合戦のとき、姫の足の爪が鹿の爪であることがわかり、郷里開聞岳に帰された(この地を皇后来という)。 |
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母鹿は利修仙人の小水を舐めて懐妊、利修仙人の修行の地、三河の鳳来寺山(蓬莢山に因むと思われる。利修は鳳に乗って山を地を自在に巡った)で女児を生む。利修はこの子を都の「或る貴人」の家の前に捨てる。この女の子が後の皇后・光明子という(柳田國男『和泉式部の足袋』)。藤原不比等と県犬養橘三千代の養女となる。 |
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Key Word |
アタ隼人、南九州=海人 |
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水手=鹿子=諸縣君牛、南九州=海人 |
@ 藤原氏 A 鹿児島、南九州=鹿子=海人 |
紀州&宗像氏=海人 |
紀州=海人、藤原氏 |
藤原氏 |
※ 瑞応院跡: 開聞宮の別当寺である。本尊は聖観音阿弥陀薬師で、開山は真言五祖の一人智通僧正。大化5年(649)の春開聞岳麓に梵宇を構え白雉3年(652)今の地に寺院を建てた。その後、数百年の間、廃寺となっていた。正中3年(1326)島津公が真言宗舜請和尚に中興させ、坊之津一乗院の末寺として 開山した。
※ 鳳来寺山: 大宝3年(703年)に利修仙人が開山した山。開山以前から山岳修験道のメッカだったという説もある。真言宗五智教団の本山。利修仙人の作と伝えられる薬師如来が本尊。利修仙人は570年4月7日、山城の国(京都と奈良の間)に生まれ、修験道の開祖である役行者の血縁だったともいう。利修仙人は鳳来寺山の木の祠の中に住み、鳳凰や竜と仲良くしながら修行を続けていたが、655年に百済へ渡り修業し、672年には都へ出向き、17日間祈祷を続けて天皇の病気を治療。703年には聖武天皇の病気を治し、光明皇后より額を授けられる。後に、松平広平と於大の方が鳳来寺の峯薬師如来に子授けを祈願し、家康が誕生したとも伝えられる。
@ 和泉式部の足袋 髪長姫伝承へもどる 肥前の山にもどる 郷めぐりへもどる
【和泉式部】
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大江雅致の女。母は平保衡の女で、昌子内親王の乳母である介内侍と言われる。
・
はじめ橘道貞と結婚して一女小式部内侍を生んだが破綻、冷泉天皇(第63代天皇、在位 967年11月15日 - 969年9月27日)皇子為尊親王、次いで弟の敦道親王と熱烈な恋愛をした。
・ 両親王とも死別した後、道長女藤原彰子に仕え、紫式部や赤染衛門の同僚となる。
・ 30歳を過ぎて藤原道長の家司・藤原保昌と再婚したが結局離婚したらしく、小式部内侍にも先立たれた。晩年の足跡は明らかでない。
【肥前杵島郡の伝承】
和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。それを隠すために母は足袋を発明して娘にはかせたといふ。(柳田国男・和泉式部の足袋)
むかし杵島郡の和泉村の福泉寺※の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒かうとすると、白鹿が飲んでしまった。鹿は毎日現はれて茶を飲んだ。ある日、堂の裏で赤子の泣く声がしたので、僧が行って見ると、鹿が人の子を産んで乳(ちち)を与へてゐた。この子は、寺で薬師如来に子授けを祈願してゐた塩田郷の大黒丸夫婦に引きとって育てられた。この子は幼少名をお許丸といい塩田郷で9歳まで過ごしたが、小さい頃から評判の器量よしで、また利口このうえもなく、成長につれて誰教わるともなく歌詠みをはじめ、その優れた天性に村人を感嘆させることしきりであった。お許丸が9歳のころ、京の宮廷へも知られるところとなり、宮廷より大黒丸夫婦へお許丸を召し上げたいとの所望があった。宮廷に仕えることになったお許丸は和泉式部となり、すぐれた才覚と美貌の為その後波瀾に満ちた生涯を送るが、平安朝きっての歌人となり、紫式部・清少納言・赤染衛門とならんで当時宮廷の才女として平安の歴史を飾る存在となった。
和泉式部は遂に故郷へは一度も帰る機会はなかったが、塩田郷の大黒丸養父母のことは一時も忘れることなく、望郷の念は募るばかりであった。その心情を ”ふるさとに帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん” と詠いあげた。この秀歌に天皇はいたく感動され、また殊の外不憫に思召され、塩田郷の大黒丸養父母に五町歩の田圃を下賜されることになった。それから、五町の田圃―五町田の地名が起こったといわれている。佐賀県嬉野市塩田町、佐賀県杵島郡白石町、佐賀県鹿島市
※ 福泉寺: 杵島郡和泉山飯盛福泉寺本尊薬師如来而初真言宗之山也其後密法断絶而聖一国師弟子銕牛和尚中興之為禅窟云々【肥陽古跡記下巻】杵島郡錦江村大字田野上字泉
●海人と天皇 九州の山紀行 アソ、シオタ、イズミ、蛇の子、鹿の子 髪長姫(モロカタ、ムナカタの姫)と天皇/大海人皇子(天武天皇)
A 鹿の子模様 : 鹿の子百合
B 鹿の子しぼり
作詞:蕗谷虹児 作曲:杉山長谷夫
1 きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
2 文金島田に 髪結いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
3 あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖着てる
4 泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ
5 泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装
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日本書紀編纂 トップへもどる 「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 森博達著 中央新書 1999年 より トップへもどる
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巻 |
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三 |
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五 |
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七 |
八 |
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十 |
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25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
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紀 |
神代上 |
神代下 |
神 武 |
綜靖〜開化 |
崇 神 |
垂 仁 |
景行 |
仲 哀 |
神 功 |
応 神 |
仁 徳 |
履中 |
允恭 |
雄 略 |
清寧 |
武 烈 |
継 体 |
安閑 |
欽 明 |
敏 達 |
用明 |
推 古 |
舒明 |
皇 極 |
孝 徳 |
斉 明 |
天 智 |
天武上 |
天武下 |
持 続 |
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群 |
β |
α |
β |
α |
β |
30 |
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暦 |
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儀鳳暦(新しい暦) |
元嘉暦(古い暦) |
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述作者 |
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山田史御方 |
続守言(唐人) |
山田史御方 |
薩弘恰(唐人) |
山田史御方 |
紀朝臣清人 |
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書紀三十巻は表記の性格によって、β群(巻一〜一三・二二〜二三・二八〜二九)・α群(巻一四〜ニー・二四〜二七)・巻三〇に戴然と三分された。
●
β群は、歌謡と訓注の仮名が倭音によって表記されている。原音で読むとまったく日本語の音韻を区別できない。文章も倭習に満ちていた。漢語・漢文の誤用や奇用は枚挙にいとまがない。基本的に和化漢文で綴られているのだ。
●
α群は、中国原音(唐代北方音)によって仮名が表記されている。また文章は基本的に正格漢文で綴られていた。β群に比べて倭習ははるかに少ない。しかもα群の漢語・漢文の誤用には正当な理由があった。α群の誤用は、原則として引用文と後人による潤色・加筆部分に限られている。そしてα群の誤用は原史料の反映である。α群は本来、原史料を尊重しつつ、中国語で述作されたのだ。
●
巻三〇は仮名表記が少なく、原音か倭音か、その性格を判別できない。文章は倭習が少なく、α群に近い。ただし、語句や文体には、α・β両群にはない独自性もある。
元嘉暦と儀鳳暦 「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 森博達著 中央新書 1999年 より
本節の冒頭で検討したように、β群はα群に遅れて撰述が始まった。もしもβ群が持統朝に述作されたのであれば、その担当者は当時の大学博士、上村主百済が最有力候補となる。しかしβ群の述作は文武朝に始まったと、私は考える。 その時期については、「儀鳳暦」施行の経緯が参考になる。小川清彦(一九四六)によれば、書紀の暦日は巻三「神武紀」から巻一「安康即位前紀」までは新しい「儀鳳暦」が用いられ、安康元年からは、古い「元嘉暦」が用いられていた。そもそも「元嘉暦」は宋の元嘉二十二年(四四五)に施行され、まもなく倭国へも伝えられた。「儀鳳暦」は本来は「麟徳暦」と呼び、唐の麟徳二年(六六五)に施行された。儀鳳年間(六七六〜六七九)に新羅へも伝わり、次いで日本へも伝来した。
こうしてβ群の撰述の時期を限定することができる。書紀の持統四年(六九〇)十一月条に、「甲申(十一日)に、勅を奉りて、始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とある。実際には、両暦併用期間は持統六年(六九二)から文武元年(六九七)までの六年間で、文武二年(六九八)からは「儀鳳暦」が単独で施行された。したがってβ群の撰述者名を特定する場合も、文武朝以後の学者に注目する必要がある。
各巻の成立過程 「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 森博達著 中央新書 1999年 より
天武天皇は、壬申の乱で近江朝廷を滅ぼした。絶大な権力を掌握し、専制的中央集権国家を作ろうとした。天武は律令と国史を車の両輪と考え、両者の編修事業に着手した。まず天武十年(六八一)二月二十五日に律令編修の詔勅を下した。続いてその二十二日後の三月十七日、川島皇子以下十二名に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を記定させ、中臣連大島と平群臣子首に筆録させた。これが書紀の撰上に結実する修史事業の始まりであった。原史料の整備が進められていった。以下は私が考える書紀の成立過程である。
持統三年(六八九)六月二十九日、「浄御原令」が班賜された。その十日前、唐人の続守言と薩弘恰が賞賜された。「浄御原令」 の編纂に功績があったのだ。両名は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。もちろん正格漢文も綴れる。「浄御原令」が撰上された後、余裕のできた両名が書紀を撰述することになった。両名は持統五年(六九一)九月四日と翌六年十二月十四日にも賞賜された。書紀の撰述を促すためのものだ。
古代の最大の画期は雄略朝であり、その次が大化の改新であった。続守言が巻一四「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘恰が巻二四「皇極紀」 からを担当した。しかし、続守言は巻二一「崇唆紀」 の修了間際に倒れた。続守言に先立たれた薩弘恰は、「大宝律令」 の編纂にも参画し、多忙を極めた。巻二七までの述作を修了していたが、文武四年(七〇〇) 六月十七日の奉勅後間もなく卒去した。
続・薩両名を失った朝廷は困惑した。両名はどの適任者はいなかった。しかし書紀の編纂は続けねばならない。こうして文章学者の山田史御方が、撰述の担当者に選ばれた。御方は慶雲四年(七〇七)四月十五日に、学士としての功績により賞賜された。書紀の述作を促すためだろう。
この頃、書紀の編修方針に大きな変革が起こっていた。神代から安康までの撰述の必要が生じたのだ。御方は還俗以前に新羅への留学経験はあるが、唐へは留学していない。御方には漢文を正音で直読する能力がなかった。結局β群は、基本的に倭音と和化漢文で述作されることになった。また御方は学問僧の出身であり、仏典の知識をもち、仏教漢文に馴染んでいた。
持統上皇が大宝二年(七〇二)に崩御してから、巻三〇「持統紀」 の撰述が計画された。また、この際、書紀の各巻に漢籍による潤色を加えて文章を荘重にし、同時に若干の記事を追加しょうと考えられた。こうして崩御から十二年経った和銅七年(七一四)、二月九日に紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史撰述の詔勅が下りた。清人が「持統紀」 の撰述を担当し、藤麻呂が潤色・加筆を担当した。引用文以外のα群の漢文の誤用は、このときに藤麻呂によってもたらされた。続守言が執筆できなかった巻二一の巻末も藤麻呂が述作したのだろう。清人は翌霊亀元年(七一五)と養老元年(七一七) に、学士としての功績により賞賜された。
結語 「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 森博達著 中央新書 1999年 より
『日本書紀』成立の謎は、本書によって解明された。
持統朝に続守言と薩弘恰が書紀α群の撰述を始めた。続守言は巻一四から執筆し、巻二一の修了間際に倒れた。薩弘恰は巻二四〜二七を述作した。文武朝になって山田史御方がβ群の述作を始めた。元明朝の和銅七年から紀朝臣清人が巻三〇を撰述した。同時に三宅臣藤麻呂は両群にわたって漢籍による潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。こうして、元正朝の養老四年(七二〇) に 『日本書紀』 三十巻が完成し撰上された。
唐人の続守言と薩弘恰は正音により正格漢文でα群を述作した。つまり中国人が中国語で述作したのだ。倭人(日本人)の御方は倭音により和化漢文でβ群を述作した。若くて優秀な清人は倭習の少ない漢文で巻三〇を述作したが、藤麻呂の潤色・加筆には倭習が目立った。
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