筑後(上妻郡)の牛島氏
1)馬渡俊継著 「北肥戦誌」より 戻る 郷めぐりへ戻る Topへもどる
天正七年(1579) 7月21日龍造寺の軍兵、河崎出羽守鎮尭※の伊駒野の城を攻む。この時の戦において、城より落ち延びる河崎出羽守をかばって、討ち死にした城兵として川崎氏7名(川崎但馬守ほか6名)、忠見氏3名(忠見紀伊守ほか)、原氏3名、藤木土佐守、樋口九郎左衛門、牛島金助などがある。
※ 河崎氏 天正15年(1587)豊臣秀吉の九州仕置により領地を没収され、筑紫氏が新たな領主となった。
天正一四年(1586)六月中旬、九州統一の機を狙っていた島津義久は、東西二手による九州北進の作戦コースを立て、西回りは一族島津忠長(義久の従弟)、新納忠元、伊集院忠棟、野村忠敦を将とする薩、隅の兵二万の軍勢で筑後川を渡って筑前への侵攻を企画し、東回りは島津家久を大将とし、入来、本田、肝付等の部将に、薩、隅、日、肥の兵三万を以って日向より豊後へ攻め入ろうとしたが、このときは筑前に主力を注いだので東回りの軍は同年一〇月初め頃までは肥後、日向に留まっている。
西回りの軍は、途中肥後国内の宇土、城、詑磨、赤星、山鹿、川尻、隈部、合志、小代、大津山、有働等の新付の将を先鋒に立て、怒涛の勢いで筑後へなだれこんで、大友方の山下、川崎、黒木の諸城を収め、城島を抜き、高良山に攻め寄せたので、座主良寛、尊能父子は降伏した。この時、高良山のふもと上妻郡古賀村(現在は広川町)にあった稲員安守、安直父子一族の古賀館の攻防戦において、稲員氏の家士に牛嶋藤左衛門の名がある。
稲員氏は、この戦いで一旦、領地を捨てて、豊後に逃れたが、翌天正十五年秀吉の島津征伐によって、上妻郡は筑紫上野守廣門に安堵された。筑紫廣門は安守、安直父子を憐れみ、古賀村の田畑の所有と館への居住を許した。天正十六年(1588)よりその後、稲員氏は当地の大庄屋として存続した。
※「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応三年(一二九〇)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在は広川町)に移り館所を構え田戸七〇町を領したことに、広川稲員氏の歴史が始まる。
南北朝時代の稲員氏の動静は不詳であるが、戦国時代に入ると一貫して豊後大友氏の旗下として行動し、在地豪族としての地歩を固めながら、高良社神管頭としても大きな役割を担った。稲員孫右衛門安則(一六三三〜一七〇七)の孫安綱が著した「高良玉
垂宮旧傳祭祀神職略記」によると、(前略)八人神管の頭領にして、同社の諸式令の行務・御幸・遷宮ならびに神輿一件の司職にて、先駈の吏務あり。金鼓具の護人を司り、且つ当社の重器三種の神宝出納職たり(以下略)ということからも、いかに大きな役割を占めていたかがうかがえよう。(中略)
稲員氏は天正十六年(一五八八)から寶暦二年(一七五二)に至る一六五年間、八代にわたり広川谷において大庄屋職を勤めた。中でも前掲した稲員孫右衛門安則は『家勤記得集』を著したのをはじめ、数多くの記録類を書き残したことで知られる人物であり、広川谷のみならず、あまたの水利土工を手がけて抜きん出た事蹟をも残している。はたまた寛文九年(一六六九)大祝保正・座主寂源ともに、絶えて久しかった高良社御神幸の復活を成し遂げたことは、同社の歴史においても燦然と輝く功績といえよう。」
3)筑後将士軍談(矢野一貞)より 戻る 郷めぐりへ戻る Topへもどる
筑後國上妻郡の豪族、牛島氏
本姓は倉部氏といい、筑後将士軍談に次のような牛島系図がある。
上妻郡津江村百姓、牛島直吉家記あり。大冊、この系図、即ちその中に取る。
秀政(上妻郡山上筑紫上野守臣※なり、牛島蔵人丞倉部秀政)
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隆政(蔵人)
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澄明(清右衛門、35才にて朝鮮に往く) : 文禄慶長の役?:1592年4月〜1598年
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隆曙(四郎左衛門)
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覚助・・・寛永14年(1637年)逝去
※ 筑紫氏 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
豊臣秀吉の九州征伐で筑後国上妻郡に1万8千石の所領を与えられた。文禄の役や慶長の役にも参陣し、小早川隆景の配下の部隊として奮戦する。
1600年、関ケ原の戦いで西軍に属して京極高次が守る大津城を攻めたため、戦後、徳川家康によって筑紫氏は改易された。
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筑紫氏三 大隅守
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筑紫教門 下野守 1420〜1430年ごろに活躍。
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筑紫尚門 能登守か? 1460〜1475年ごろに活躍。
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筑紫満門 1500〜1524年ごろに活躍。
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筑紫秀門 下野守
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筑紫尚門 1520年〜1530年ごろに活躍。
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筑紫正門 惟門の親?
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筑紫惟門 下野守 1550〜1565年ごろに活躍。
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筑紫広門 上野介 1565〜1600年ごろに活躍。
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筑紫晴門 広門の子とも弟とも。
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筑紫春門 (主水正広門)広門の子とも弟とも。
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筑紫信門 主水正広門の子。
※筑紫氏に関しては子や弟などの諸説が大いに混迷しているため、教門・満門・尚門・惟門・広門の5名しか判断できないのが実情のようである。
4)三百家臣人名事典 第七巻より 戻る 郷めぐりへ戻る Topへもどる
牛島益三 文化8年頃〜明冶6年(1811頃〜1873)
久留米藩校教官、私塾主。上妻郡津江村の和紙製造業の家に生まれる(父は牛島守善ともいう)。名は拡、のち益三、字は子充。粟斉、花宗漁父などと号す。幼少から秀れた素質を現し、同村の医師牛島毅斎に引き取られ、毅斎さらにその長男の川口省斎に医を学ぶ。十九歳のとき川口家を辞し久留米の著名な医師の門を叩いたが、一旦入門を許されながら結局拒絶され、これを機に医を捨て儒学に転向する。豊後日田の広瀬淡窓(1782〜1853)の咸宜園に入門するつもりで家を出たが、途中、生葉郡田主丸の重富鼎(縄山)の塾に立ち寄った際に強く引き止められ、この塾で学びかつ教授する。その後まさに大坂へ遊学しようとしたとき、父の病の報に接し帰郷。上妻郡山内村の川崎塾(本庄一郎)に出入りし、一郎が藩士に取り立てられ江戸勤番となったため一時これを預かる。のち故高山畏斉の私塾継志堂の復興がはかられた際、一郎の勧めによりこれを受け継ぎ、自宅を改築して新継志堂を開く。
安政四年弟子数名を連れて中国地方から東北地方まで七ヶ月かけて旅行し、その体験を三巻の紀行記に著す。この翌年藩から二人扶持を受け、文久三年には浪人格に任じられる。慶応元年、俸禄20石で藩校明善堂の教官となる。明治6年死去。津江村平松岡の高山畏斉墓のかたわらに葬る。
※ 牛島粟斎が新継志堂を引き継いだのは、彼自身が優秀であったことのほかに、父が畏斎に漢文の音読を教えた医師の守善であったことや、畏斎の旧家と同じように、その家が津江村の花宗川のほとりにあったことなどとも無関係ではないと思われる。
● 高山畏斉、牛島粟斉の墓(八女市津江) 郷めぐりへ戻る 戻る Topへもどる

高山畏斎 享保12年〜天明4年(1727〜1784)
久留米藩校教官。紙漉きを副業とする上妻郡津江村の農民、久右衛門の長男として生まれる。幼名は可三郎、のち金二郎。諱は一之、畏斎と号す。「久留米小史」に「状貌奇偉、幼にして挙正几児に異なり」と記され、幼少から秀れた才能を示す。しかし本格的に学び始めたのは二十歳ごろで、近所の漢方医牛島守善に師事して以降である。家が貧しいため毎夜近くの天満宮の常夜灯で書物を読んだと伝え、その後父の久右衛門が買い与えた四書の古本を片時も放さずに独学する。二十二、三歳のとき埼門学派の留守友信の著書に接し、これこそ我が師と信じ大坂へ上って教を謂う。わずか百余日の滞在により長年の疑問を解く。大学の三綱領を講義して認められ京畿で塾を開くよう勧められたが、老父母のために帰国し自宅に「高山塾」を開く。育てた者数百人、優秀な学者も輩出し、上妻郡に学問的風土を生む。自らの勉学も欠がすことなく、五十歳を過ぎても刻苦し再遊の志をもつ。畏斎の学問的力量を聞き及んだ好学の藩主頼撞により、天明三年二月五十七歳のとき、藩士子弟の教師として徒士並の身分で召し出される。家をたたみ、城南両替町の屋敷(最初の藩校となる)に移ったが、翌年七月十七日病死。享年五十八歳。門人ら、旧家を買い戻ししその屋敷内に葬る。寛政十年三月平松岡に改葬。畏斎の人となりは、「久留米小史」に「天資高明、温厚雅僕、その人に接する公平、ことに城府を設けず。その学厚く洛閩の説を信じ、もっとも教導に長ず。門人業をうける者孜々健むを知らず(うまずたゆまず努力する)と記される。のち、門人たちの援助により、子の茂太郎が「継志堂」として私塾を再興する。(戸田乾古署「久留米小史」巻之二十、『稿本八女郡史』、篠原正一著『久留米人物誌』
久留米を訪れた高山彦九郎(1747〜1793)は、寛政五年(1793)五月に中折地組大庄屋太田黒氏に誘われて、継志堂(高山塾の後の名称)を訪れたとき、そうそうたる門弟が集まるのを見て、「筑後の文武は上妻にあり」と賞賛したと伝えられています。しかし、この言葉は決して誇張ではなく、上妻の地は学問を尊ぶ気風が強く、優秀な人物を多数生み出したのです。
※ 高山彦九郎
上野国出身、林子平・蒲生君平とともに、寛政三奇人といわれた勤皇家。十八歳で郷里を離れ、京都三条の大橋にぬかづいて皇居を拝したり、足利尊氏の墓をむちうつなどの奇行を重ねたと伝えらる。天明三年に再度入京して、都の公卿や有志を訪ね、勤皇の志を発揮したことから幕府に圧迫され、一家離散し、九州まで逃がれました。しかし、至る所に幕吏の手がのびてきたため、寛政五年(1793)六月二十七日、久留米藩士森高膳の居宅で自害しました。つまり、彦九郎ほ死の約一か月前に八女に連んだことになります。
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上妻郡の教学 「筑後の文武は上妻にあり」
高山畏斎(1727〜1784)「高山塾」・・・・・・・・・・・・・・・子 “茂太郎(1775生)” 「継志堂」
高足(弟子) 高足(弟子)
・ 古賀調山(黒木町、名は貞蔵) ・ 本荘星川(1786生、名は一郎)「川崎塾」
・ 今村直内(1763生) 「会輔堂」 高足(弟子)
・ 後藤濯来(新庄村、名は要介) ・牛島栗斎(1811〜1873)(毅斎の養子)「新継志堂」
・ 牛島毅斎(津江村、医師)「三省堂」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・子・・・牛島顕蔵(毅斎の子、医師、川口省斎は実兄)
・ 本荘清助(山内村)
・ 熊本原仲
・
中田
牛島毅斎は、高山畏斎の「高足」(すぐれた弟子)といわれた人物で、津江村に家塾三省堂を開いて、儒学・医学を教えていました。強健な身体ではありませんでしたが、強い信念と精神力の持ち主で、その人柄は“厳毅井然(厳しく強くきちんとしていて)、浮華(中味のない華やかさ)をしりぞけ、実践を尊び、その家人を遇する、仮借(大目にみる)する所なし”、と伝えられています(稿本八女郡史)。
この厳格な父に育てられた川口省斎が十歳になった年(寛政2年1790)、宗家の牛島徳五郎(浪人格)が同族の福島組大庄屋牛島次六を殺害するという、大事件が起こりました。父の毅斎はこの事件に連座して、数年間の謹慎処分になったため、塾も閉鎖せざるをえなくなり、家族は貧窮生活を強いられることになりました。父の苦しみを思いやった省斎は、幼いながらもひたすら農業に精を出して、家計を助けたといわれています。二十五歳のとき、病弱で医業を放棄せざるをえなくなった父の毅斎に命じられ、また、やほり病弱であった弟顕蔵のためにも、省斎は医学を学ぶことにしました。遠祖の川口姓を継ぎ、まず、肥後の村井氏に学びました。その後京都に登り、吉益南涯(吉益東洞の子で疾病の内的原因を突き止めようとして、実験医学の道を開いた人物)の門に入り、数年にわたって、学問的にも実際の診療上からも医学を勉強しました。文化九年(1812)に帰国し、故郷の津江村後江に開業しましたが、やがて山内村に移り、さらに忠見村に移って、ここで生涯を過ごしました。
牛島顕蔵(号は愚軒又は磊々堂、六石堂)は、幼いころから学問を好み、本庄一郎の私塾川崎塾で学び、やがてその高足になりました。本庄が江戸勤番になったとき、他の数人とともにこれに同行し、医学を吉益衛門らの名医に、儒学を古賀イ同庵らに学んで、研鎌を積みました。しかし、病床にあった父の希望により、一年後に帰国しました。帰国後ほ福島町に開業し、多くの患者を診るとともに、望まれれば喜んで学問も教えました。顕蔵の人柄は、“磊落(心が広く小事にこだわらない)にして、内直に外卒なり(内にも外にも正直で飾り気がない)。又、父母に孝敬にして、兄弟に友愛なり。故に人その言論を信ずること深し。”『稿本八女郡史』。天保十四年(1843)八月十五日、急に倒れ、往診中の兄省斎が駆けつけたときにほ、すでに亡くなっていたということです。まだ四十九歳の若さでした。
久留米藩 有馬(ありま)家
外様 21万石
1.
豊氏(とようじ)〔従四位下、玄蕃頭・侍従〕(1569年〜1642年)
2.
忠頼(ただより)〔従四位下、中務大輔・侍従〕 1603年生 | 1655年没
3.
頼利(よりとし)〔従四位下、玄蕃頭〕 1655年生 | 1668年没
4.
頼元(よりもと)〔従四位下、中務大輔・侍従〕 1654年生 | 1705年没
5.
頼旨(よりむね)〔従四位下、筑後守〕
1685年生 | 1706年没
6.
則維(のりふさ)〔従四位下、玄蕃頭・侍従〕 1674年生 | 1738年没
7.
頼徸(よりゆき)〔従四位下、左少将・侍従〕 1714年生 | 1783年没
8.
頼貴(よりたか)〔従四位下、左少将・侍従〕 1746年生 | 1812年没
9.
頼徳(よりのり)〔従四位下、玄蕃頭・左少将・侍従〕 1797年生 | 1844年没
10.
頼永(よりとう)〔従四位下、筑後守・侍従〕 1822年生 | 1846年没
11.
頼咸(よりしげ)〔正四位、中務大輔・左中将〕 1828年生 | 1881年没
柳川藩
立花(たちばな)家 外様 10万9千石
1.
宗茂(むねしげ)〔従四位下、左近将監・侍従〕1567年生 | 1643年没 〈元和6〜寛永15(1620年〜1638年)〉
2.
忠茂(ただしげ)〔従四位下、左近将監・侍従〕1612年生 | 1675年没 〈寛永15〜寛文4(1638年〜1664年)〉
3.
鑑虎(あきとら)〔従四位下、左近将監・侍従〕1646年生 | 1702年没〈寛文4〜元禄9(1664年〜1696年)〉
4.
鑑任(あきたか)〔従四位下、飛騨守〕 1683年生 | 1721年没 〈元禄9〜享保6(1696年〜1721年)〉
5.
貞俶(さだよし)〔従四位下、飛騨守〕 1698年生 | 1744年没 〈享保6〜延享1(1721年〜1744年)〉
6.
貞則(さだのり)〔従四位下、飛騨守〕 1725年生 | 1746年没 〈延享1〜3(1744年〜1746年)〉
7.
鑑通(あきなお)〔従四位下、左近将監・侍従〕1730年生 | 1798年没〈延享3〜寛政9(1746年〜1797年)〉
8.
鑑寿(あきひさ)〔従四位下、左近将監・侍従〕1769年生 | 1820年没〈寛政9〜文政3(1797年〜1820年)〉
9.
鑑賢(あきかた)〔従四位下、左近将監〕 1789年生 | 1830年没〈文政3〜天保1(1820年〜1830年)〉
10.
鑑広(あきひろ)〔夭折のため官位官職なし〕 1823年生 | 1833年没〈天保1〜4(1830年〜1833年)〉
11.
鑑備(あきのぶ)〔従四位下、左近将監〕 1827年生 | 1846年没〈天保4〜弘化3(1833年〜1846年)〉
12.
鑑寛(あきとも)〔従二位、左近将監・少将・侍従〕1829年生 | 1909年没〈弘化3〜明治4(1846年〜1871年)〉
5) インタ-ネット 「長崎街道Ver.2
/ 大村の紙すきの歴史」*Linkハ より
大村藩では、桜馬場と本堂川で紙すきが行われていた。
千葉卜枕系(桜馬場)
寛文4年(1664)、千葉卜枕が楮を植えさせ、荒瀬から水を引き、
中国地方から技術者を呼びよせ、土地の者に紙すきを伝授した。
筑後系(本堂川)
天保2年(1831)、成瀬太作が、柳川藩(現福岡県筑後市)から招かれ、藩の御用紙すきとなる。同時期、同地区から、近藤、牛島、中原の三軒も招かれ、御用紙すきとなる。明治の頃には、
紙業組合員は63戸あったといわれているが、大資本による機械化によって大量生産が可能になると、 次第に衰えた。楮も少なくなった。昭和12年頃までは、 桜馬場では23軒ぐらいは存在したというが、
本堂川でも、 昭和24年に成瀬家が廃業し、 その5、6年後残る近藤、牛島家も廃業し、現在では全くなくなってしまっている。 (前のペ−ジに戻る)
● 国武絣の考案者 牛島ノシ http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/den-008.htm 戻る 郷めぐりへ戻る Topへもどる


牛島さんがわんさか住んでいる筑後地方
福岡県八女市
八女郡広川町
八女郡立花町
山門郡山川町
八女郡黒木町
八女郡上陽町
八女郡星野村
福岡県八女市 戻る (故郷の山々に戻る) (前のペ−ジに戻る)
福岡県の南部に位置し、東は八女郡上陽町・同郡黒木町、南は矢部川を境に同郡立花町・山門郡瀬高町、西は筑後市、北は長峰(人形原)丘陵を境に八女郡広川町と接する。
矢部川の上流には黒木町をはさんで八女郡矢部村があり、星野川の上流には上陽町をはさんで八女郡星野村がある。
(原始)
筑紫の君磐井と岩戸山古墳、八女古墳群
(古代)
上陽咲評/上妻郡 三宅郷
(中世) (前のペ−ジに戻る)
上妻荘 建久4年(1193)上妻家宗を筑後国上妻荘内七箇所の地頭職に任じた中に,豊福・多久万田・境田などの地名が見える(筑後上妻文書)。宝治2年(1248)の関東下知状案には,上妻荘内に蒲原次郎丸地頭主殿助泰房や吉田三郎能茂の名が見え,また,岩崎八幡別官が神田14町余を有していたことが知られる(筑後室園文書)。元弘3年(1333)5月,少弐貞経・大友貞宗らは鎮西探題北条英時を博多に攻めたが,その軍中に筑後国上妻荘一分地頭宮野四郎入道教心の名が見える。教心は同年7月頃には上洛しているが(上妻文書),上妻氏の一族で宮野を居所としていたと思われる。
河崎荘と川崎氏 河崎荘は天授2年(1376)に初めて見えるが,現在の矢部村,黒木町の大淵をも含んだ当市東部の馬場以東に広がっていた。山内の大尾城址は黒木助能の子川崎定宗が鎌倉初期に築いたという。蒙古襲来に際し博多湾岸の石築地(元寇防塁)役を勤めた中に川崎氏が見える。川崎氏は戦国末期には大友・竜造寺・島津にあるいはつき,あるいは離れたが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州仕置により領地を没収された。ほかの市域の荘園としては南北朝期に安楽寺領吉田荘や忠見別符があった。
〔近世〕 戻る (前のペ−ジに戻る)
天正15年 秀吉は九州仕置後、筑紫広門を上妻郡内53か村,1万8100石の領主とした。福島城は広門によって築かれた平城である。関ケ原の戦で西軍に味方した広門は所領を没収され,筑後一国は田中吉政に与えられた。吉政は三男康政を拡張した福島城に置き3万石を与えたが,元和6年(1620)有馬氏の支配に代わり,翌年福島城などは廃され,久留米篠山城の石垣などに利用された。なお,廃城後も当地は市場町として栄えた。江戸期の村々筑後矢部川以北の21万石が有馬氏領となった。久留米藩は管下の村々を25の組に分け大庄屋に支配させた。矢原組(大荘屋甲斐田氏,元禄10年まで)は福島組(同松延氏,宝暦3年まで),高塚組,さらに福島組(同西村氏,のち佐々木氏)と組名が変動したが,管下の町村名は福島町と福島・稲富・大島・岩崎・吉田・宅間田・緒玉・光・矢原・柳瀬・宮野・高塚・酒井田・立野の1町14か村であり,新荘組は新荘・川合・大馬場・平・国武・蒲原・亀甲・室岡・今福・鵜池・前古賀の11か村が属し,大庄屋は矢賀部氏であった。矢賀部氏は戦国期この地の小土豪で,天正15年立花統虎(宗茂)から溝口荘新荘の庄屋に任じられたという(矢賀部家記)。津江組(大庄屋牛島氏)は本村組,さらに忠見組(同松延氏)と組名が代わったが,管下村名は津江・馬場・納楚・平田・豊福・忠見・大籠・本・井延・黒土・山内・北田形・柳島・祈祷院・長野の15か村であった。
(特産品) 戻る (前のペ−ジに戻る) (故郷の山々に戻る)
県特産工芸品に指定されたものに長野の八女石灯籠と,柳瀬を中心とする八女手漉き和紙がある。石灯籠は岩戸山吉墳の石人石馬と同じ阿蘇火山系の凝灰岩を材質にし,現在日本四大産地の1つにあげられている。矢原町の祇園橋は江戸未期、長野の石工の手によるものであるという。文禄4年(1595)越前国今立郡五箇村の日蓮宗の僧日源が溝口村(現筑後市)に至り,矢部川の清流を見て製紙業に適すると判断,製紙法を伝授したのが八女手漉き和紙の源流であるという。明治の最盛期には1,700軒の製紙業者を数えたというが,戦後は洋紙に押され,現在は20軒ほどである。文化勲章受賞者の版画家棟方志功は八女の和紙を好んだ。これらの伝統的産業は後継者難に悩まされながらも,手作りの良さを評価する声は今も高い。
(史跡・文化財・文化施設) 戻る
国史跡に八女吉墳群のうち乗場吉墳・岩戸山吉墳・丸山塚古墳・丸山古墳・茶臼塚吉墳(吉田・宅間田・豊福・本),国重文に石人・石盾(吉田,岩戸山歴史資料館),国重要無形民俗文化財に八女福島の灯籠人形(本町,八幡宮)があり,県史跡に童男山吉墳(山内),県天然記念物に鈍土羅の樟(馬場,熊野神社),南馬場の大樟(馬場,熊野速玉神社),山内のチシヤノ木(山内,紙園神社),天福寺の苦提樹(馬場),県文化財に石馬・武装石人残欠・石人残欠・石人石馬等(吉田,岩戸山歴史資料館),瓦経・滑石経(本町・土橋),県無形文化財に筑後手すき和紙がある。文化施設には市立図書館・八女文化会館(本町),岩戸山歴史資料館(吉田)がある。
盆地状の広川谷
県南部,八女郡の北西端に位置し,東西約14km,南北約5.4kmと東西に細長い形をなす。東は赤薮山(405m)など刑部谷の諸山を境に上陽町,西は筑後市,南は標高45〜55m程度の低い洪積台地である長峰丘陵をもって八女市,北は水縄山地と,その西に続く標高50〜60m程度の低い洪積台地である高良台をもって久留米市に接しており,俗に広川谷と呼ばれる盆地状地形である。西部を九州縦貫自動車道と国道3号が南北に,南部を主要地方道三瀬上陽線が東西に通る。白金山に源を発する広川が,南部を西流し,昭和46年上流に広川防災ダムが完成した。広川の北を長延川が西流して牟礼で合流する。町域の東部上広川地区は標高170〜400mの高地で,西から東に緩やかに高くなっている。ミカン・ブドウ・ナシなどの果樹栽培が多い。町域西部の中広川・下広川地区は広川による沖積平野で米作を中心とする
〔原始・古代〕
溜池からの銅鉾出土
当町域からは九州縦貫自動車道開通に伴う緊急発掘で調査された広川平原および赤坂遺跡で先土器時代の石器が発見されている。同じく平原遺跡から押型文・条痕文・撚糸文などの縄文土器16片が採集され,縄文早期末と考えられている。
元禄10年(1697)藤田天神浦に溜池を築いた時に長さ1尺3寸〜2尺の銅鉾13本が出土し,藩主有馬氏に献上された。さらに享保7年(1722)溜池をさらった時に5本の銅鉾が出土した。また,吉常の八ノ久保でも銅剣・銅鉾各1の出土が記録されている。天神浦・八ノ久保ともに弥生中期の還跡かといわれている。
石人山古墳
長峰丘陵西端で一部筑後市にまたがる一条人形原には石人山古墳がある。5世紀中期頃の築造とみられ,長さ約110mの前方後円墳である。後円部中央の横穴式石室内には寄株屋横形の蓋に直弧文のある巨大な横口式家型石棺があり,石室の西には,貞享元年(1684)にそれまで倒れていたのを起こし立てたと伝承する1体の武装石人(国重文)が残っている。谷を隔てた東側に弘化谷古墳があり,二段築成,直径35mの円墳で,一重の周濠,石室内に勒・円・三角文などの装飾がある。同じ装飾古墳としては六田善蔵塚にある善蔵塚古墳も知られている。これら3古墳は八女市域の古墳とともに八女古墳群として国史跡に指定されている。九州縦貫自動車道関係の発掘で,広川の山ノ前1〜3号墳,平原1・3・5号墳,新代の鈴ケ山1・2号墳などが発掘された。すべて円墳であるが,山ノ前3号墳は長径13m,短径10mの楕円形に近い墳丘に2基の横穴式石室が南北に併存することと,墳丘途中に外護列石を設けていることで注目された。円墳は長延・書常・水原などでも10余基が確認されており,平原遺跡からは古墳後期の住居跡,鈴ケ山遺跡からは土師器・須恵器が発見されている。
太田郷
広川谷には条里がほぼ東西に走っていたことが認められ,一条・当条などの地名は条里制に由来するかとも推定されている。平安初期の「和名抄」に見える上妻郡太田郷は町域南西部に現在も太田という地名が存することから当地に比定されている。堂ケ平・梯には平安初期と推定される寺院跡が発見されており,書常の瓦窯跡も廃寺に関連する遺跡かと思われる。梯の畑からの出土とも,あるいは筑後市の若菜八幡社後丘からの出土とも伝える滑石経(県文化財)が水原の間借寺・顕正寺,新代の西念寺に保管されている。平安後期,仁平3年(1153)頃埋納したと思われ,湾曲した滑石に罫線を引き,法華経などの経文を刻したものである。
〔中世〕
広川荘
当町域を中心とした広川荘は平安末期の天承元年(1131)に立荘された。領家は待賢門院であったが,保延4年(1138)紀伊の熊野社に寄進され,以後熊野社領として終始した(坂東寺文書)。荘域は鎌倉〜室町期には当町域と筑後市の北部を含み,東を川崎荘に,西を三瀦荘,南西を水田荘,南東を上妻荘こ接し,水田荘との間には境界をめぐる相論も起きている。文献上での初見は建永元年(1206)で,領家熊野山が同荘への高良社造営役賦課について朝廷に訴えたものである(三長記)。保延4年(1138)の文書に「領家兼惣地頭」とあることから,地頭職も領家熊野山が有していたと考えられる。荘内に居住した武士としては,正応3年(1290)御井郡稲員村から移住したと伝える稲員氏がおり,上広川荘の古賀に館を構えたという。そのほか,応仁年間(1467〜69)からの居住とされる甘木氏・姫野氏,永正年間(1504〜21)川瀬に館を構えた矢加部氏,下広川知徳に館を構えた一条氏などが知られる。戦国末期,各氏はおおむね豊後の大友氏に属したために天正年間(1573〜92)肥前の竜造寺氏の攻撃を受け,さらに天正14年薩摩の島津氏の攻撃を受けた。稲員安守・安直などは島津勢を長延・甘木に防いだが敗れ去った。この戦いでは,高良社座主良寛らが長延山を越えて吉常に落ち,そこで村人に虜にされている。
大田清水の戦い
建武3年(1336),肥後の菊池武敏以下の軍勢は大宰府を攻略せんと北上した。途中,迎撃の少弐貞経軍と広川北岸の六田河原に戦い,次いで大田で戦っている。正平14年(1359)筑後川の戦いでは筑後の諸氏はおおむね宮方に従ったが,当町域の人々については確かなことはわからない。中世創建伝承のある寺社としては,正応5年(1292)の古賀の高良坂本宮をはじめ,甘木の七社大明神,一条の満願寺,六田の浄徳寺,甘木の願正寺,太田の善正寺,川瀬の円通寺などがある。
〔近世〕
江戸期の村々
天正15年豊臣秀吉の九州仕置後,当町域は筑紫広門の領するところとなった。関ケ原の戦後は田中吉政,田中家断絶後は有馬農民を初代藩主とする久留米藩領となった。藩では上妻郡を5組に分け大庄屋に支配させた。当町域の村々は古賀組に属し,大庄屋稲員氏は最初筑紫広門により任じられた。管下の村々は一条町と一条・古賀・川瀬・長徳・首里・太田・牟礼・当条・知徳・藤田・高間・清楽・太原謹呈・長延・吉常・甘木・内田・六田・久泉・増永・扇島の1町21か村で,天正17年の調査では200町の水田を有していた(稲員家記録)。古賀組はのち長延組(大庄屋萩尾氏),吉常組(同西村氏),川瀬組(同竹重氏)となり,明治維新に至った。
慶安4年(1651)古賀村の孫右衛門は21石5斗の大庄屋給米を支給されている。寛文〜元禄年間(1661〜1704)頃,大庄屋稲員安則は埋防・溜池など水利土木を大いに興し,潅漑の便をはかった。なお,文化9年(1812)2月7日伊能忠敬の一行が日本地図作成の目的をもって藤田・盛徳・一条各村を通り,10月10日には長峰石人右横(石人山古墳石棺)を見て,11日三瀦郡に出,12月,立花町の北田村,山下町に至っている。天保年間(1830〜44)の総石高は9,855石余であったが,明治2年の総石高は1方3,036石余と増加した。甘木・一条・大田・当条・長延・吉常の各村は1,000石を超える大村であった。
筑肥山地北斜面 県の南端に位置し,東は黒木町と熊本県鹿本郡鹿北町,南は同県玉名郡三加和町,西は山門郡山川町・同郡瀬高町,北は八女市に接する。町の北端は矢部川中流南岸の狭い沖積台地で,標高33〜89m程度の低地であるが,それを除く大部分は筑肥山地の北斜面を占め,標高300〜400m前後の古生層に属する波丘状の山地帯である。東西約8km,南北約10kmで,ほぼ中央部に標高450mの飛形山がそびえ,その東を辺春川が,西を白木川がそれぞれ北流して矢部川に注いでいる。国道3号が町の東部を辺春川沿いに南北に通じ,南は熊本県境小栗峠に達し,北に街村的小市街の主邑兼松がある。西部には主要地方道玉名八女線が南北に通じ,矢部川と並行して県道湯辺田瀬高線が通る。兼松には国重文に指定されている民家松延家住宅がある。
沿 革
〔原始・古代〕
大塚の巨石古墳
先土器時代の遺物は発見されていないが,北山の上ノ原から縄文時代の押型文土器破片数点,北山地区から光友地区にかけて,縄文・弥生時代の土器・石器が表面採集されている。現在知られている古墳としては,北山に関白塚・大塚・茶臼塚などがあり,いずれも円墳で横穴式石室を有している。茶臼塚の墳丘中腹から埴輪が出土したと伝えられる。大塚は巨石古墳として知られ,現在もほぼ完全な形で保存されている。昭和46年,北山の村社六所官参道の新設工事の際,石棺が発見された。棺内に朱が認められ,中からガラス小玉・鉄片・銑鉄各1個と土師器破片4個が出土した。
谷川寺
奈良期の神亀5年(728)に行基が創建したという伝承のあるのが光友の谷川にある牛頭山谷川寺である。本尊の薬師如来は2m近い仁王像や十二神将像とともに,同じく行基の作と伝えるが寺創建伝承と同様全国に多い行基伝説の1つであろう。谷川寺は鎌倉初期源頼朝が再建したというが,戦国末期の天正年間(1573〜92)に竜造寺氏の兵火にかかり,のち,藩主立花宗茂が再建した。立花家の殺生禁断など3か条を記した禁札がたっている。なお,辺春川・白木川が矢部川に注ぐ辺りには条里制の遺構が認められる。
〔中世〕
上妻荘の支配
建久4年(1193)6月19日の将軍家(源頼朝)政所下文案には,藤原家宗を「上妻庄内七箇所」の地頭職に任ずる事を上妻荘官に命じている。七箇所の地名から見ると上妻荘域は,筑後市の一部と八女市の南部,それに当町の光友・北田を含んでいる。矢部川の左右両岸を含んだ地域である。家宗を地頭職に任じることは,これより早く文治2年(1186)5月の源頼朝下文案に見える。その後,建永2年(1207)にも上妻次郎大夫家宗に荘内の光友・北田など4か所を支配すべきことが源実朝によって命じられている。この命令は家宗と資綱・家守らとの間に上妻荘内の土地をめぐる争いが発生していたことに対する判決である。しかし,その後も争いは止まらなかったらしく,建暦2年(1212)には再び上妻家宗をもって北田村地頭職たるべきこと,北田のうちであるとの理由により白木山地頭職も家宗に安堵されている。寛喜2年(1230)には荘内のうち北田など3か所を上妻次郎家能が元の通り支配すべきことを令されている(筑後上妻文書)。上妻荘領家は宇佐弥勒寺喜多院であった(石清水田中家文書)。同じ喜多院領の筑後国河合荘も矢部川岸の下辺春近傍を荘域とする説もあるが,おそらく八女市川犬に比定するのが妥当であろう。
今川了俊と谷川陣
南北朝期に九州探題として活躍した今川了俊と征西将軍官(南朝方)とは九州各地で戦闘を繰り返した。応安5年(1372)には菊池武政・武教軍と山崎の地で合戦をしている。同7年にも,8月末蜂起したこの地域一帯の南朝方と了俊の派遣した軍との間に山崎合戦が起こっている。同年11月27日了俊は黒木から谷川寺に陣を移し,翌年3月まで滞陣,27日には谷川陣を引き払い,辺春を越えて菊池氏を討つべく肥後に発向した。
山下城
戦国期にほ小領主が割拠し,谷川に谷川新三郎の拠った谷川城・皇餞鎮運の兼松城,光友には山崎城,辺春には辺春城、北山には山下城などが築城された。山下城は豊後の大友氏に属した蒲池鑑広が築城した城であるが,天正年間,大友氏の衰退に乗じた肥前の竜造寺隆信の攻撃を受け,ついにその軍門に降った。のち薩摩の島津氏が隆盛になるや,その旗下に属したため,豊臣秀吉の九州仕置に伴って蒲池氏は没落し,代わって筑紫広門が新領主として山下城に入った。慶長5年(1600)関ケ原の戦で筑紫広門は石田三成に味方したために改易され加藤清正の臣加藤百助が城番となったが,やがて新領主田中吉政の時に廃城となった。
〔近世〕
江戸期の村々
関ケ原の戦後,当町域は田中吉政の領地となったが,田中氏改易後は立花宗茂の柳川藩領となった。江戸期は谷川組(大庄屋松尾民,のち上野氏)に属し,管下には当町域の白木・本山・北田・山崎・兼松・谷川・原島・上辺春・下辺春・田形・山下町の諸村があった。鹿子生村の一部も当町域にあたる。藩は兼松町に制札場を設けて法令の周知徹底をはかった。
五条氏配下の山筒
現星野村にもいた山筒が当町域にも存在していた。山筒は猟人のことで鉄砲を所持している者をいった。山筒頭は戦国期の矢部高屋城主であった五条氏が,立花氏の扶持を受けて世襲した。五条氏は事ある時は200人(うち谷川組160人)の山筒方を率いることになっていた。白木村に17人,本山村に29人,その他,谷川・田形・山崎各村などにも山筒のいたことが確かめられる。
角川日本地名大辞典より Topへもどる 郷めぐりへ戻る 九州の人々へもどる
県南端に位置する。東は平野岳などをもって矢部村,南はやさぷ岳・姫御前岳をもって熊本県鹿本郡鹿北町,西は立花町・八女市,北は大山を境に上陽町・星野村に接する。町域は東西17km,南北12.5kmで,県内町村で最大の135.89km2の面積を有するが,9割は杉を中心とする山林である。町のほぼ中央部を矢部川が西流している。北寄りを西流する笠原川との合流点一帯は黒木平と呼ばれる小盆地で,町の中心部をなす八女山地入り口の谷口集落である。盆地は標高80〜90m程度の平坦地であるが,北西に隣接して130〜150mほどの豊岡の洪積台地が北の星野谷との間に発達している。町の北西端を占める黒木盆地と豊岡台地を除く大部分は,古生層とそれを覆う400〜900mの開析溶岩台地である筑肥山地からなっている。鹿児島本線の羽犬塚駅(筑後市)から分岐する矢部線が走り,終点黒木駅があったが,昭和60年3月31日に廃線となった。現在,町域内には国道442号が走り,主要地方道黒木鹿北線・県道後川内黒木線などが接続している。八女茶の発祥地といわれる霊威寺,矢部川県立自然公園の中心日向神ダム,町の木に選定されている国天然記念物の大フジなど,観光資源にも富んでいる。
〔中世〕
黒木氏と木屋氏 九州の人々へもどる
南北朝期南朝方として活躍した黒木氏は、矢部・笠原両川の合流点東側で,黒木盆地東端の木屋城山にあった猫尾城(黒木城)を本城とし,椿原の高牟礼城(戦国末期は老臣椿原式部居館)などを支城として一帯に勢力を振るった。黒木氏の祖と伝承されている黒木助能は,大蔵春実の子孫とも,清和源氏多田行綱の息,あるいは本姓調氏であるとも伝え,出自は定かでない。猫尾城についても,鎌倉初期の文治年間(1185〜90)に黒木助能が本国薩摩から来て築城したとか,2年余の攻撃の後,城を抜き居城としたとか伝えている。建治2年(1276),幕府により博多湾岸に石築地役勤仕を命じられた鎮西御家人中に見える黒木新蔵人大夫は,その子孫と考えられる。建武3年(1336)3月,足利尊氏は筑前多々良浜において肥後の菊池武敏を破ったが,敗走する菊池軍を追って,同月尊氏の部将上野頼兼らは黒木城に迫っている(近藤文書)。
一方,木屋氏は黒木氏の一族で,木屋の立華城を居城としたと伝えられている。正平年間(1346〜70)木屋家の祖木屋行実は征西将軍宮に属し,同家には軍忠状数通が残されている(木屋文書)。特に正平14年8月,懐艮親王・菊池武光らが少弐頼尚と戦った大保原合戦(筑後川の戦い)においては,「先勢十八人」その随一として最前に切り入り,若党など2人が負傷,2人を戦死させている。その後,九州においては南朝方が極盛を迎えた。九州探題今川了俊は応安5年(1372)征西府の支配する大宰府を陥落させ,勢いに乗じて2年後の10月,懐良親王・菊池氏の拠る高良山を落としたため,親王らは肥後菊池に逃れた。菊池陥落を目差す了俊は,11月黒木・高牟礼を攻めさせて城衆を降参させた。翌年3月には黒木辺りの軍兵も了俊に従って肥後山鹿に着いている。しかし同年8月,了俊が肥後水島に少弐冬資を誘殺したことは宮方に漁父の利を与え,早くも同月末,筑後において宮方の蜂起を引き起こし,黒木氏も永和4年(1378),弘和3年(1383),黒木に打ち寄せる探題方軍兵と攻防を繰り返している。元中8年(1391)10月にも大友親世の一族親氏らを将とする軍が良成親王・五条頼治らのいる矢部を攻め落とすべく追ってきたが,黒木筑後入道定善,その孫子黒木四郎らが頼治の手に属して奮戦し退けた。しかしその時以前からすでに黒木城は探題方(大友氏)の手に落ちていた(五条文書)。その後,戦国期にかけて五条氏・黒木氏は豊後の大友氏に属した。黒木氏は黒木城を代々居城としてきたが,肥前の竜造寺隆信の勢力強盛となるや,その配下に属した。
天正12年(1584)3月,竜造寺隆信が島津氏と肥前島原に戦って敗死すると,大友義統は五条鎮定ら家臣に黒木城を攻撃させた。戸次道雪・高橋紹運も参陣したので城主黒木家永(実久)は自害し城は落ちた。その後,家永の遺児延実がいったん城を回復したが,天正15年豊臣秀吉の九州仕置の際に所領を没収され,山下城主(現立花町)となった筑紫広門の領するところとなった。のち,慶長6年(1601)関ケ原の戦の功により田中吉政に筑後一国が与えられた。吉政は家臣辻勘兵衛を黒木城代にしたが,城は元和7年(1621)新領主有馬氏の命で廃城とされ,石材などは久留米篠山城修築に利用された。
八女茶の起源
笠原の霊厳寺は出羽国の憎,栄林周瑞禅師が明国から帰国後の応永13年(1406),当時の黒木城主正清から土地を与えられ一寺を建立したとも,笠原の人松尾氏が禅師のために一堂を建立し霊厳寺と称したとも伝承されている。周瑞はこの地に明から持ち帰った茶の種子を栽培し,それが八女茶の起源であると伝承している。江戸期には京阪地方へ移出,鴬・初花などの名をつけた銘茶として好評を博したという。現在,八十八夜前後に禅師の遺徳をしのび,霊威寺で献茶祭が行われている。
〔近世〕
江戸期の村々
江戸期の当町域は,矢部川を境に北は久留米藩,南は柳川藩領となった。そのため両藩の間に水利問題が生じ,貞享3年(1686)柳川藩が込野井堰を作ると,正徳4年(1714)久留米藩が黒木井堰を作るなど紛争が絶えず,川庄屋が任命されて和談に当たった。当町域の久留米藩領は北川内などとともに,はじめ北川内組(大庄屋小川氏)に属したが,組名は本分組,師松組となり明治に至った。柳川藩領は現立花町などとともに谷川組に属していた。「旧高旧領」には久留米藩領の中籠・豆生野・今・湯辺田・本分・田本・鹿子尾・北木屋・梼原・釈形・北大淵の11か村,柳川藩領の土窪・田代・四条野・南木屋(木屋)・南大淵(大淵)の5か村が見える。ほかに鹿子生村の一部も当町域にあたる。黒木町には久留米藩が法令周知のために制札場を置いたが,市場町としても栄えた。
江戸期の騒動と一揆
正保年間(1644〜48)頃,梼原の百姓数十名が肥前島原に逃散,享保4年(1719)庄屋と村方騒動を起こして柳川藩領に逃散したりする事件があり,また同15年本分に石炭発見のことがあった。宝暦4年(1754)の一揆では北木屋の百姓が過料・追放にあっている。
山筒預 五条長安(矢部七郎左衛門)
寛永3年(1626)矢部七郎左衛門と称していた五条長安が肥後八代から大淵に帰り,藩主立花氏から客分の待遇を与えられ,のち山筒預として仕えるようになったという。
〔原始・古代〕
大伴部博麻
持統天皇4年(690)9月,軍丁筑紫国上陽口羊郡大伴部博麻が唐国から帰朝した(日本書紀)。翌月の持統天皇の詔によると,博麻は天智天皇2年(663)の白村江の戦いの2年前,どの方面の戦闘かは不明であるが,百済救援の役で唐軍の捕虜となり唐に連行された。天智天皇の時代に唐人の計る所を聞き,わが身を奴隷に売って衣糧を作り,筑紫君薩夜麻など4人の同僚を帰国させた。唐の計画を日本に伝えさせ,自らは唐に留まること30年にして今ようやく帰国できた。そこで天皇は博麻の尊朝愛国を賞し,のちの律令制では従七位下に相当する務大長津の位と,糸5匹・綿10屯・布30端・稲1,000束・水田4町を与え,水田は曽孫まで伝領し,三族の課役を免じた(同前)。
博麻については「上陽口羊郡人」(ただし,国の下級行政単位としての郡の字は大宝令に始まるから,当時は上陽口羊評であったと思われる)とあり,のちの上妻郡の人ということが確かなだけで,当町出身であるかどうかは定かではない。
しかし,文久3年(1863)に至り,古来からの口碑に大伴部博麻の墳墓と称されてきた古墳の傍らに,当時の北川内村室園神社の神職の小川柳,同村庄屋木下甚助らが「筑後将士軍談」の著者で久留米藩士の矢野一貞と相談し,高さ2.4mに及ぷ石碑を建立し,その表面に「大伴部博麻呂碑」と刻した。明治14年明治天皇の侍講元田永孚は「幼学綱要」を編し,その忠節篇第1に博麻の事を記し,昭和12年文学博士和田英松は天皇に対する御進講で大伴部博麻の尊朝愛国を賞揚している。先述したとおり大伴部博麻は上陽口羊郡(評)人とあるだけであるが,文久3年の博麻碑建立以来,一般に当町出身とされ,現町名の起こりともなったのである。
〔中世〕
南北朝期の北川内
肥後の菊池氏政略を目指した九州探題今川了俊は,応安7年(1374)11月筑後川を渡り,南朝方の皆尾(耳納)山を攻め落とし,15日黒木・北河内に押し寄せ,ついに黒木城衆を降参させている(入江文書)。その後,元中8年(1391)には豊後・筑後の守護大友親世が,矢部の五条氏に擁せられていた後征西将軍艮成を攻め,その軍の一隊が10月11日北河内に打ち入った。宮方は五条頼治輩下の黒木定善とその一族の力によりかろうじて勝利をおさめている(五条文書)。
発心城跡
久留米市草野に本拠を置いていた草野家清(鎮永)が天正5年(1577)に発心岳山頂に築いた山城が県史跡の発心城である。当町域の上横山・下横山および久留米市・浮羽都田主丸町にかけて存在し,城跡は東西約350m,南北約300mの規模を持ち,本丸・出丸・見張り台,切り堀などと推定される遺跡が発見されている。鎮永は天正15年,豊臣秀吉により誘殺された。
〔近世〕
江戸期の村々
豊臣秀吉の九州仕置ののち,当町域は現在の立花町に拠った山下城主筑紫広門に与えられた。関ケ原の戦後は柳川の田中吉政に,田中氏改易後の元和6年(1620)には丹波福知山(京都府福知山市)の有馬豊氏が大坂の陣の功により久留米に移され,その支配下の一部となった。
久木席銅山
寛文11年(1671),北川内において銅山試掘願いが出され薄から許可された。採掘が本格的になったのは,元禄15年和泉屋伝右衛門の願いにより銅山問屋が開かれてからであるという。別に享保20年(1735)塩屋作左衛門によって採掘が始められたとも伝える(石原家記)。いずれにしても鉱量が少なく経済的には採算はとれなかったようで,何度かの開閉を繰り返したのであろう。銅のほかに砂金採取も行われた。享保元年北川内山並川金掘につき藩の目付が釆ている。
村民の間には征西将軍宮懐良親王は当村で没したという伝承がいつの頃からか伝えられていた。明治40年,千々谷にあったチンのウバ塚という古墳こそ親王墓であるとして村民が発掘したところ,傍らを流れる星野川の丸石を高さ4m位に積んだ双円墳だった。ここから直径10cm余の海獣葡萄錬2面と銀のかんざしなどが発見された。おそらく7世紀末〜8世紀初期頃に築造された当地方の首長の古墳であろうと考えられている。
大円寺
土穴にある玉水山大円寺は,寺の由来書によれば神亀2年(725)の創建と称し,本尊の観世音菩薩は行基の作とされている。一説には懐良親王は同寺で弘和3年(1383)3月27日没したと伝え,現在境内に星野村資料館が建てられている。延書5年(905)の筑前国観世音寺資財帳に「生葉郡韓町,十三条十九土穴田五段二百十六歩」とあることをもって大円寺のある土穴近傍にも,条里制が施行されていたとする説もあるが,現在のところ確実な根拠はない。
〔中世〕
星野氏の活躍 九州の人々へもどる
中世、当村を中心に威を振るった星野氏は、その祖を星野胤実と称し,黒木助能の猶子で京都に生まれたという。嘉禄2年(1226),京都から当村に来たと伝え,本拠を本星野に置き,天正年間(1573〜92)末まで勢力を誇った。池の山の麻生池神社と室山の熊野神社はいずれも星野胤実の再建といわれている。毎年9月18日に麻生池神社に奉納されるはんや舞は征西将軍宮懐良親王を慰めるために始められたとも伝えられている。弘安の役には星野鎮実父子が参戦したという。南北朝期には星野氏は南朝方につき,1342年には麻生に「興国」という南朝年号を刻む石碑(現大円寺蔵)を建立している。正平14年(1359)筑後川の戦いにも親王に従って出陣している。文中3年(1374)征西将軍職を甥の良成親王に譲った懐良親王はその後,下小野の内宮や大円寺を居とし,弘和3年(1383)大円寺において死去したとする説がある。大円寺北側の山頂にある墓が親王の墓として村の文化財に指定されている。応仁の乱に星野氏は山名宗全の西軍につき,16世紀初めからは豊後大友氏に従い,さらに周防大内氏を頼り田川郡に所領を与えられた。16世紀中期頃からは毛利氏に従ったが,一族の中には大友氏につく者も出た。島津氏が九州に覇を唱えると同氏に属したが,天正15年豊臣秀吉の九州仕置に際し,星野氏は島津方に属して筑前若杉山高鳥居城に龍城し,立花宗茂らに攻められ一族討死した。星野近郊の星野氏末裔が星野氏歴代の墓標を集め,供養したのが村文化財の星野氏墓所である。、
星野金山が名をなすのは江戸期であるが,金山の発見についても弘安2年・同7年などに熊渡山近傍で発見されたともいう。
〔近世〕
星野山筒方 五条氏に戻る
樋口実長は戦国期に星野氏の重臣であったが,星野氏滅亡後,小早川隆景に属し星野の再建に尽力した。墓は村内仁田原にあり,「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓」と見え,寛永4年(1627)死亡している。同14年実長の孫実次が庄屋の時代,島原の乱が起こった。久留米藩に属していた当村からも「鉄砲の者」として33人の百姓が出陣させられた。宝暦4年(1754)の百姓一揆の際,当村の百姓は猪退治のためと称し藩の鉄砲を借用して闘ったともいわれている。明治維新の時にも山筒隊として200余人が奥羽,五稜郭と転戦,功により士籍を得た者もあった。なお文化10年(1813)藩は星野村御用山筒の者200人に鉄砲を貸し給米を下している。山筒方(農民鉄砲隊)の起源は定かでないが,猪などの狩猟用に藩が鉄砲使用を認めていたのが始まりかと思われる。なお,当村は江戸期を通じて星野村一村で存続した。
星野金山
星野金山の採掘が本格化したのは,寛永20年(1644)藩士池田与兵衛が金山奉行となり,山師豊後国石田某,久留米丹波屋某が人足7,000〜8,000人で採掘を行ってからである。まもなく金山神社・黄金山正念寺,また金屋町・鍛冶屋町・芝居所・女郎屋町などが建ちにぎわった。明暦元年(1655)閉山,寛文11年(1671)開山,その後閉山したらしく天和3年(1683)山師金森某により再開,2年後には閉山元禄7年(1694)3月山師野田某により採掘が始まったものの5月には閉山。また同14年始まるも2年後には閉山など,江戸期を通じ開閉十数度といわれ,盛衰が激しかった。文政4年(1821)閉山されたが,明治26年星野金山合資会社が採掘を始め,大正期一時休山したが,昭和6年再開,同18年閉山した。同47年久留米大学医学部環境衛生学教室は旧星野金山従業員125人の集団検診を実施,41人が珪肺症という診断であった。
村方騒動
宝永3年(1706)百姓210名が幕府領日田代官所(大分県日田市)に庄屋樋口実富の不正を訴えた。結果は正徳4年(1714)百姓の勝訴となり,庄屋は追放された。代わって高木与三右衛門が庄屋に任命され,子孫が相次ぎ勤め明治に至った。与三右衛門は享保3年(1718)2月の受合書の中で,生葉郡星野村人数3,244人,男1,001人は御先手御用に相立つペく,うち200人は1日あれば差し出すことができ,差し出しても田意畑が荒れることはないといっている。同12年には星野村の仙頭(組頭)・百姓らが庄屋に対し非分の公事を取り結び,党を催して騒動したという咎で2名死罪,13名追放になっている。騒動中入牢を仰せ付けられた者の中に御鉄砲の者3名がいた。なお,この騒動に関連して名子(水呑)3名が,騒動に参加しなかったことなどを理由に百姓に取り立てられることを願っている。宝暦の百姓一揆では当村からも死罪1,追放7名の処分者が出た。一方では仙頭2名が米3俵を薄から与えられ,また被処分者の田畑は,一揆に参加しなかった名(集落)の百姓たちに与えられた。
県の南端に位置する。東は権現岳(御前岳,1,209m)・釈迦ケ岳(1,231m)・猿駈山(968m)の諸峰をもって大分県日田郡前津江村・同県同郡中津江村,南は三国山(994m)・国見山(1,018m)・休鹿山(866m)・星原山(793m)をもって熊本県鹿本郡菊鹿町・同県同郡鹿北町,西は黒木町,北は星野村に接する。東西11.2km,南北11.4kmでほぼ円形状をなしている。起伏の激しい急峻な地勢で,耕地はわずかに4.6%にすぎず,杉の山林が85.2%を占めている。村の中央を北西流する矢部川本流と,それに南北より注ぐ御側川などの5支流沿いに約30の集落が散在する。高嶺山岳地域のため,気温の高低差が著しく最高33℃,最低は−10.2℃の差が記録されている。降雨量も県下市町村中最大で年間2,600mmを記録し,それが杉などの生育に好結果をもたらしている。中央部をほぼ東西に国道442号が走り,主要地方道浮羽石川内線・県道八女小国線などが接続している。
〔原始・古代〕
沿 革
三宅郷
村域末端部に近い矢部川沿いの梅地薮の道路上のバラス中から縄文土器の破片が,また,殊正寺でも縄文時代と推定される石斧2個が採集されていることから,当村域にも縄文時代に人が居住していたと推定される。しかし,現在までのところ,弥生時代の遺跡・遺物は未発見であり,水田耕作を伴う弥生時代には,人々は西方の低地に移動したのではないかと推定されている。古墳の発見例も報告されていない。
平安初期の「和名抄」に記される筑後国上妻都三宅郷は,当村に三宅山があることをもって,村域付近の地ではないかとする説もある。
〔中世〕
河崎荘と五条氏 五条氏に戻る
天授6年(1380)に初めて河崎荘の名が見える。当村域も荘域に含まれていた(五条文書)。「五条系図」には,五条頼元が延元4年(1339)鎮西に来り河崎荘内矢部・大淵(現黒木町)を領したとある。応永32年(1425)には五条頼治が河崎荘矢部村のうち二津尾の石川を頼経に譲与しており,同年には荘内矢部村を沙弥宗剛(頼治)が3代相続の地として頼実に,また,文明4年(1472)には頼実が長子良豊に河崎荘矢部村を代々相続の地として譲与している。同荘は当村をはじめ現在の黒木町,八女市の一部にも広がっていたものと推定される。そのうち室町期には五条氏が代々荘内矢部を相続していたのであろう。
後征西将軍良成親王陵墓
南北朝期,九州宮方の総帥であった後征西将軍宮良成親王は征西将軍宮懐良親王の甥で,後村上天皇の子であった。良成親王の陵基は御側にあり,毎年10月8日に御陵祭りが行われており,一帯は大仙公園としてシヤクナゲが美しい。明治9年高良大社の宮司で国学者であった船曳鉄門は考証を加えてこの地を親王陵墓と確信した。太政官にその旨を上告し,陵墓に治定されんことを願った。同11年5月,宮内省はその請願通り陵墓に指定したが,付近には親王使用と伝える三水井や龍顔の峰,見参平,公卿坂などの地がある。懐良親王の死去した地は明らかではないが,弘和3年(1383)矢部で死去したとも伝えられている。五条頼元の子良遠が築いたといわれているのが標高643mの城山にある高屋城址である。良遠の子頼治も高屋城を守った。元中8年(1391)10月の五条文書には,筑後の諸氏はほとんど北朝方に属してしまったが,頼治は矢部・津江南山を領しており,この山は肥後・筑後・豊後3国の境で九州無双の要害であるといっている。なお,江戸期には矢部村と豊後国との間で国境争いが起きている。
元中8年9月,良成親王は居住の肥後国八代を今川了俊に攻められ,逃れて矢部村に立てこもっていた。翌年南北朝は合一したが,良成親王は矢部において依然南朝の元中年号を使用して合一を認めなかった。このことは元中12年豊後・筑後の守護大名大友氏の一族道徹の侵入を退けたことを報じた文書に「御在家所矢部大仙 元中十二年十月廿日」(五条文書)とあることにより明らかである。征西将軍を補佐した公家の五条氏は,その後歴代にわたって高屋城を居城とした。戦国末期には大友氏に属し,大友義続から一字を受けた五条統康までに至ったが,豊臣秀吉の九州仕置に伴い領地を失った。のち,肥後の加藤氏に身を寄せ,矢部七郎左衛門と名乗り,八代で死去している。
善正寺の厨子
北矢部の善正寺には永禄3年(1560)成就と記した銘を持つ高さ1m弱の厨子(県文化財)がある。阿弥陀如来を祀るもので,極楽寺の住持澄全が筑前国宗像こ住む大工に作らせたものである。なぜ善正寺にあるのかは不明であるが,釘を全く使用せず,はめ込み式になっており,戦国末期の厨子として知られる。
〔近世〕
北矢部村と矢部村
江戸期,矢部川を頓に右岸の北矢部村は久留米藩,左岸の矢部村(南矢部村)は柳川藩に属した。久留米からは大淵・平野を経て日向神に至る久留米道があった。柳川藩では一里石をたてたが,現在所野の荘厳寺,谷野と椎葉の中間に「柳河より拾参里」「拾弐里」などの一里石が残存している。北矢部村は北川内組(のち本分組),矢部村は谷川組に属していた。組は大庄屋の管轄する行政区画で,大庄屋の居住する村をもってその名称とし,大庄屋の下に庄屋・仙頭・横目などの村役人がいた。
村々の状況
江戸期にはまだ林業は盛んではなく,若干の水田のほかは,茶・コンニャク・椎茸・緒・櫨などが主産物であった。安政5年(1858)6月に矢部村庄屋が谷川組大庄屋上野伊助に提出した文書によると,家が107軒,人口725人(内訳は僧4人,男子345人,女子376人)であった。明治元年の調査では矢部村の村高は254石,田の面積27町余であり,北矢部村は512石余であった。山村であるために小集落が点々と散在し,それらの集落を名といった。矢部川右岸の久留米領北矢部村では八和山・虎伏木三善・柴庵増・稲付・福取・宮尾・尾園・中村・鬼塚・篠又・日向・津留・湯ノ瀬・枝折・枝折名内ゼイ・藤木・下津留・花巡・湯柿・椎窓・下中村・坊・下払・平・乙宮瀬・馬渡・小園の27名があり,左岸の柳川藩領矢部村には一本松・栗原・月足・掘巡・仏石・桑ツル・城原・下城原・依り・大梅・原・正無男・山中・長城・桜の15名があった。安永7年(1778)本分大庄屋松浦嘉右衛門の提出した文書によれば,元文4年(1739)北矢部村又兵衛は藩から扶持を与えられ御用弓細工をもって仕えその子に至っていると記されている。
なお,久留米藩最大の一揆であった宝暦4年(1754)の百姓一揆には北矢部村の百姓も参加したことが,一揆鎮圧後,追放などの処分者を出していることからわかる。
山門郡山川町
県の南部に位置し,東は八女郡立花町,北は瀬高町,西は三池郡高田町,南は熊本県玉名郡の南関町・三加和町に接している。町域全体が山がちであるが,古来筑後と肥後を結ぶ街道が当町東部山麓を通っていたため,集落はこの街道沿いに形成され,なかでも原町は近世には宿場町として栄えた。現在,九州縦貫自動車道が国道443号と並行して当町を縦断し,山川パーキングエリアが設置されている。国道から県道富多大城線が北に分岐する。当町は戦前から温州ミカンの主産地として知られていたが,現在でもみかん栽培は町の中核産業となっており,「山川ミカン」の名で全国各地へ出荷されている。
【原始・古代】
古代の官道
当町域における縄文・弥生時代の文化については,十分明らかにされていないが,西向きの山麓地帯を中心に古墳が多く,「福岡県道跡地図」によると,山の上・赤坂・中尾・九折・河原内・二本松・赤山・日当川・原町・立山などの古墳群が分布する。律令制下の当町域は山門郡に属した。「和名抄」所属の郷名は明らかでないが,「延書式」に見える筑後狩道駅から肥後大水駅(熊本県玉名都南関町)に至る古代の官道が当町を縦断していた。県境に近い北関は,肥後大津山関の北側にあたることからこの名が起こったといわれる(南関紀聞)。「吾妻鏡」治承5年(1181)2月29日条には,肥後の豪族菊池隆直が,反平氏の挙兵と同時に600余騎の精兵をもって大津山関を固め,海陸の往還を止めたことが見える。
【中世】
南朝の軍事ルート
鎌倉期から室町期にかけての当町域の状況を知り得る史料は極めて乏しい。しかし,後醍醐天皇の時皇居紫宸殿の怪鳥を射殺した弓術の名手隠岐広有が,帝より真弓の姓を賜りこの地に隠棲したという伝説や,南朝の廷臣万里小路宣房がこの地で没したという言い伝えなど,当町には南朝系の伝説が目立つ(旧柳川藩志・山門郡志)。いずれも確証はないが,たとえば康永2年(1343)に南朝の中院侍従義定・菊池武敏・大城藤次らが肥後境の竹井城に拠っていることからもわかるように,当地が肥後南朝方の主要軍事ルートに当たっていたことがこうした伝説を生みだす背景となったのかも知れない。
国人田尻氏の支配
戦国期には国人田尻氏の勢力圏であったと見られ,天文19年(1550)の田尻親種竹井原合戦手負注文(田尻家文書)には当町真弓・三峰あたりの地侍層と思われる真弓助八郎・三峰小四郎らの名があり,おそらく田尻氏の被官と思われる。天正3年(1575)の「島津家久上京日記」によれば,家久一行は当町を通過しているが,北の関の小市別当のもとに一宿している。また天正15年,豊臣秀吉の島津討伐軍は4月11日に当地を通過しており(九州御動座記),今も旧街道を太閤道と呼んでいる。
柳川領竹井組
天正15年に下筑後の5郡は豊臣秀吉によって立花宗茂に与えられたが,文禄4年(1595)12月の「筑後国知行方目録」(豊臣秀吉朱印状)に見える当町関係の村は立山・北の関・河原内・中尾の4か村合計2,188石2斗6升だけである。ほかは,おそらく上妻郡山下城を預けられれた筑紫広門の知行地に含まれたのであろう。慶長5年(1600),立花宗茂は関ケ原の戦で改易となり、代わって筑後一円は田中吉政が支配した。田中氏時代の支配については史料が全く残っていない。元和6年(1620)田中家は断絶し,翌年には再び宗茂が旧領に復帰した。
柳川藩立花氏による郷村支配のもとで,当町の村々は竹井粗に組み込まれた。郷村には郡役の配下に属する代官・大庄屋があり,一村または数村ごとに庄屋・長百姓・組頭の村方三役が置かれた。竹井組の大庄屋は樺島氏が世襲した。竹井組は山門都南東部の肥後境に接する22か村で,このうち当町関係の村落は,中尾・川原内(河原内)・立山・在力・原町・佐野・中原・三峰・小萩・真弓・北関の計11か村,「天保郷帳」による村高は3,746石余である。また,「旧高旧領」では南広田村と野町分が加わっている。
御牧山と山筒隊 五条氏に戻る
当町一帯の山野(佐野山・蒲池山)は柳川藩の御用林として御方が支配した。「旧柳川藩志」によれば,樹木の下葉浚えは所属の村落が受け持ち,下葉は無償で下付したが,伐採・山出しなどの人夫は,公役として庄屋を通じ 村から徴発したという。佐野山は3代藩主鑑虎の天和2年(1682),藩営の牧場として開発したため,その名を御牧山と称するようになったが,これに伴い貞享4年(1687)以後,野町では牛馬市が開かれるようになった(旧柳川藩志)。
山林を背後に控えた当町は,上妻郡山地の谷川組と並んで山筒組の生活基盤であった。竹井組山筒隊は40人からなり,平時には農耕・狩猟に従事し,非常の際にはそのまま鉄砲隊に編成されるが,これを統率していたのは矢部(八女郡矢部村)在住の五条氏であった。享保2年(1717),藩は田尻惣馬を普請役として蒲池山に大堤を築造し,竹井・小川・楠田3組所属の村々の灌漑に供させたが,この堤は今日も大根川の水源として,その機能を失っていない(柳川藩三善氏記録)。
原町宿
古代の官道は,近世には原町往還と称し,江戸初期までは原町より山門郡の東部山麓沿いに本吉・小田を経て久留米へ出たが,3代鑑虎の時,野町より瀬高・本郷を経て羽犬塚(筑後市)・久留米に至るコースを九州大名の参勤道路に定めたといわれる(旧柳川藩志)。その宿場が原町で,馬触所や茶屋が設けられ,街村を形成した。今日小町女郎屋跡と称している所は茶屋の近くにあり,「桜屋」の屋号で旅籠を営業していたと伝えられる。