橘姓渋江氏系牛島氏    戻る

寛政6年 渋江公正著 「菊池風土記」より     天地元水神事のこと 渋江氏    更新031108     

  人皇三十一代敏達天皇の五代目の後胤である葛城王は、王族であることを忌み嫌い、天平の頃四十五代聖武天皇より姓を賜わり、橘朝臣諸兄公と称し、正一位井手左大臣となられた。
 二代目の後裔は、従四位下島田丸兵部大夫で、この代に、和州(和歌山)国三笠山に春日大明神を鎮座されるときに、造営の職を頂いて冥感微妙の事であるので、四十六代称徳天皇から、「天地元水神」を氏神として付けるよう勅許があった(その時腸わった御綸旨は、いまも渋江家の本家にある)。
 その後、「水部の主」として、勅許の行事を代々引き継いで来たもので、当家以外には伝承されていない。
 橘朝臣好古の時代に、賊臣純友を追い討ちした功績によって、従三位大納言鎮守府将軍に叙仕され、伊予国を賜わって宇和部の城主となった。
 橘朝臣公光の時代には、保安三年の勲功によって、七十四代鳥羽院より「公」の一字を賜り、これより代々の実名に公の宇を用いて来た。
 その後、鎌倉頼朝公の代に、出羽国秋田郡内に領地を賜わり、橘朝臣公業の代には頼経将軍より替地として、肥前杵島郡長島庄・大隅国種ケ島・豊前国副田庄・肥後国球磨郡久米郷を賜わり、この時から九州に来て、肥前国長島に居城した。
 公業は鎌倉幕府に任えて軍功があり、また橘朝臣公治の代にも、室町家に任え軍功によって度々感謝状を賜わった。
 橘朝臣公村の時、はじめて、姓を渋江と改め、その弟三人は分家して、牛島・中村・中橘を名乗った。勅許の行事は、渋江本家のみに伝えて分家には教えず、この行事を代々伝承して橘姓嫡流の証しとした。
 肥前国杵島郡三法方郷にある潮見山大明神の、上宮は正一位橘朝巨諸兄卿を祭り、中宮は泉大明神島田丸を祭り、下宮は渋江・牛島・中村の三社で、渋江家先祖の神霊を祭るところであって、いまでも九月二十九日の祭礼には、供え物をして流鏑馬を行なっている。その供え物はいまも感応院から贈られている。
 上宮は感応院によって守られ、(当時の院主は亮海法印であった)中宮と下宮は当社の神職が守る。(当時の神職は参河であったという。)社の用地である潮見山は佐賀の領地内にあって、麓の村は溝の上村で、この村は蓮の池領地内である。
 橘朝巨公重の代に肥後国に移る。その頃の肥前にいた同族は、大村侯御家中の大村右膳(君主より大村の姓を賜わり大目付役となる)・渋江息門・渋江橘右衛門・渋江善助・渋江主水ならぴに、佐賀領水神社司渋江隼人・長崎水神社司渋江能登などがいて、いまでも親戚の交流は続いている。
 古くは、紅毛人が長崎の渋江家より守護の御礼を受けて、不思議にも航海中の災難を免れたので、いまでも帰国の際には毎年、渋江能登から「お守り札」を受けて航海の安全を析っている。

 

肥後菊池の文教渋江塾の人々

 渋江家は天地元水神をまつる家でありますが、渋江紫陽以来数代にわたって私塾を開き、学問を教えて菊池文教を盛んにした学者の家として知られています。俗に渋江塾と呼ばれていました。

        渋江紫陽(公豊)(1719-1792) 集玄亭

        渋江松右(公正)(1742-1814) 紫陽の養子、星集堂

        渋江龍淵(公隆)、松右の長子(1778-1852)、銀月亭

        渋江涒灘(公豪)、松右の第三子(1788-) 梅花書屋

        渋江公穀、涒灘の次子(1830-) 梅花書屋

        渋江晩香(公木)、公穀の弟、遜子堂

        渋江龍伏(公寧)、晩香の子(1858-)、遜子堂

 

 

肥前国杵島郡三法方郷(現; 佐賀県武雄市)にある潮見山大明神

      御誓文の石

      肥前 橘町

      潮見神社河童伝説

       水の神、山の神、田の神: 飛鳥の猿石と河童(五来重 石の宗教:第五章 道祖神信仰より)

 

菊地市原の天地元水神社 写真(2003年10月撮影) : 

参考*Link       http://www.kanagawa-u.ac.jp/05/ken_nihon/05/16/002.html

河童関連のリンク http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/nakasima.htm

            http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/nakasim3.htm

 

 

肥後 山の上の三名字

1)角田政治著  「肥後人名辞書」より 

牛島公尚・俊政・公俊(山上三名字)  戻る
 牛島氏は桓武天皇より出づ、初は渋江氏代々紀伊國中山の城主にして壱萬三千三百五十町を領せしと云ふ、寿永二(1183)年四月肥前國長島庄牛島に来る。困て渋江を牛島と為す。建久九(1198)年肥後國飽田郡活亀庄河内村に、菊池家の許を得て地を開きて住居す。此れ即ちもとの渋江五郎にして後の牛島公尚なり。公尚より三十八代の孫を俊政と云ひ、天文十九(1550)年菊池義武(義宗)と大友宗麟と葛藤の時、義武を助けて嶽村にて大友勢と戦ふ、大友は大軍を引率し、大将は南の広野に陣を張り、其の軍勢は嶽村に攻め寄せ三名字と激戦し、牛島三郎左衛門尉俊政討死す。然れども遂に大友勢を撃退したり。山の上にも三名字の一族上妻新右衛門※(建久頃より山の上野出村に代々住す)、下田五郎兵衛(金峯山の麓平山村に数代住す)を初め二十一人戦死す。此の戦の敵首を埋めたる所を今尚首塚と云ひ、敵の大将の陣取りたる所を大将陣と云ふ(肥後國誌)。俊政の子彦五郎公俊は義武と河内浦より島原に渡りて数年隠遁せしが、後田尻、内田と共に大友に降れり。其後元亀天正以来、城親賢熊本在城の時城に属す。親賢授くるに城の称号を以てす。後三名字も佐々成政に徒ひ所領二百五十町を給ぜらる。由来山上三名字の所領は飽田郡大多尾村、東門寺、出羽村、嶽村、河内村、野出村、平山村、面木村の金峰山中の八箇村にして、玉名郡小天村を合せ九箇村を三家之を領せり。九ケ村の地は三名字居屋敷分として菊池氏以来佐々の時に至るまで検地せざるを以て清正特代に至り三家共浪人となりて初めて検地せしに四千余石ありたりと。(新撰事蹟通考)角田政治著  「肥後人名辞書」より 九州の人々へもどる

※ 正しくは、『上妻新左衛門親則』。 『上妻新左衛門親則』様の御家系(本家)の方よりご連絡を戴きました(2007年6月23日、謹んでここに記載させていただきます)。 
田尻定綱・惟家(山上三名宇)
 金峯山上に住する内田、牛島と共に山の上三名字の一、其先は原田党、大蔵姓、後漢帝の後裔なりと云ふ、旧飽田郡活亀庄嶽村に住す、田尻五世にして子無し、應永十年豊後国緒方惟基の子定網を養って嗣と為す、此れより実家の姓を胃して大神とも称す、田尻は大蔵姓なる以て漢高祖の祠を嶽村に建立し、産土神と為す岳麓寺を草創して苦提寺と為す。角田政治著  「肥後人名辞書」より  九州の人々へもどる

内田宗頼・頼重(山上三名宇)
 
内田氏は牛島、田尻と山の上三名宇の一にして、人吉の相良氏と同祖、藤原鎌足より出づ、相良長頼は建久九年肥後球磨郡の地頭職となり人吉に来り、共の弟宗頼は山鹿郡山井に住し(今下内田村)山井四郎左衛門と云ひ、山井、内田、高橋を領す。共子頼重内田三郎左衡門と云ひ、内田家の祖にして、内田相良と称す、剃髪して浄信と號す。子孫飽田郡活亀庄大多尾村に遷り、代々ここに住す。角田政治著  「肥後人名辞書」より  九州の人々へもどる

2)荒木栄司著  「肥後國衆一揆」より 
 山之上三名字というのは、熊本市の西北の金峰山のふもと一帯を支配していた田尻、牛島、内田氏を指し、他に上妻、面木など云う氏族も連合して行動していた国衆である。この三名字衆は天正八年(1580)ころには隈本を領していた城親賢の配下に入っていて、牛島氏などは城姓を使用していた。 九州の人々へもどる

3)肥後(河内)牛島氏の考証 熊本県河内町史 柑橘・民俗編 昭和62年より

南北朝時代、室町時代にかけて軍事に活躍して歴史に名をとどめた。はじめ菊池氏に仕え、後では大友氏に従い、その間田尻・牛島・内田氏三名字は山上三名字衆として結束を固め、常に見事な共同作戦を展開して勇名を轟かせた。平時には一族の生活を助け、領民の指導にあたり経済活動農事に力を入れなければ、急変する周囲の情勢に対応できなかったろうし和戦両様の構えは常に怠ることはできなかったことであろう。牛島氏の寄合衆としての活動や山上三名字衆としての活動・時代の制度とその変化、それらに対応する上下関係の変遷などについては阿蘇品氏の中世の詳細な記述を参照されたい。
 牛島刑部助公尚が河内浦に着船し居住始が建久九年(1198)とされているが、阿蘇品氏の研究によれば牛島を平姓とするのも、紀州中山から移ったとするのも、河内へ移ったのを建久九年とするのも共に誤りで、橘公業に肥前長島荘が与えられたのは嘉禎二年(1236)渋江氏を称するようになったのは南北朝期牛島は渋江からの分出であるから、牛島の河内移住は、南北朝期以後ということになる。更に時期を追究すれば、次の所論から十五世紀中葉はいかがであろうか。河内の牛島家の祖を渋江五郎平公尚と称し、その三十四代の裔が牛島公友(清田;せいだ家)、中島家の祖牛島公忠は三十六代、中川内の嫡家の祖俊正は三十八代と各系図は伝えている。渋江は肥前長島庄の橘一族の惣領家であり、渋江を名乗るのは公村からで、二代あとの公経が足利尊氏に属していることからみれば鎌倉後期のことと考えられる。一方、河内の牛島で年代が明らかなのは嫡家の俊正(俊政)が天文十九年(1550)嶽村に於て菊池義武を擁して大友勢と戦い討死しているから、肥前渋江家で言えば、永禄六年(1563)、有馬勢から塩見城を陥され、肥後山鹿へ落ちていく公師と同世代ということになる。渋江公村から公帥までは十二代である。河内牛島では最も古いのは俊正より四代前の公友であるから、渋江と比較するために単純に差引けば差は八代ということになる。また、河内の公友の時期は肥前の公師より四代の祖公代の時期にほぼ近いと考えられる。牛島房童丸が探題渋川満頼を頼んで本家の渋江氏と所領について争論している(小鹿島文書)のが応永十ニ年(1406)で、その争いについて和解ができたのが、牛島公代のころの亨徳四年(1455)である(中村文書)肥前牛島氏の力が拡大しかけているこの時期に河内牛島氏で初めて名の現われる公友がいるということからみれば、十五世紀中葉ごろ牛島氏の河内進出があったと推測される。南北朝時代室町時代を経て、安土桃山時代にはいって豊臣秀吉によって天下は統一され加藤清正が肥後に入国して国を絶やしたので山上三名字衆は揃って家来大勢故育てることができませんから浪人いたしますと断ったのが天正十八年(1590)頃として約四○○年間河内村の実力者であったわけで、浪人後は近世になって再び藩士となったり、河内地侍として農業で生活した家系もあり、旧河内村内には牛島殿御赦免開の開畑が検地帳に残されている。牛島一族も嫡流から分家した傍系がふえていったのであり、やがて幕末から明治維新を迎える段階になるのである。河内町史 柑橘・民俗編(昭和63年)より。

河内町に残る牛島一統の痕跡 
牛嶋公尚 牛嶋三郎左衛門俊政 牛嶋三郎左衛門公俊 牛嶋下野守橘藤七郎公網 牛嶋公明公常 牛嶋喜衛門尉公照 牛嶋七郎左衛門尉公基
夢の上、木下屋敷 大城戸 江月院 厳島神社の建立(由来記) 河内神社の鳥居 天満宮建立 法華経の石碑 河内みかん

山上三名字は海賊だった。 →地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章

4)山田武甫(牛島五次郎)(1831〜1893)   戻る

 山田武甫は憲政の殊勲者といわれている。

 彼は天保二年(1831)十二月、熊本藩に生れた。はじめの名は牛島五次郎。天保九年八歳の時、時習館に入って勉学、嘉永三年、二十歳の時、横井小楠の門に入つた。小楠は彼が情義に厚く至誠のふかいのを知って目をかけ、よく導いてやったようである。嘉永五年、二十二歳の時山田家を嗣いで、これより山田武甫と名を改めた。

 時あたかも幕末の物情騒然たる時代である。彼はこの時代をバックに大いにうごいた。ことに幕府が長州征伐の命をくだした時は、彼は喜悦氏房らの同志とともに或は藩中の論議をまとめ、或は上洛して土佐の坂太・縫馬や薩摩の西郷隆盛らと会談し束西に奔走したものである。彼の主張は名分を明らかにして長州の非を一たび正した上は、快くこれと和し、薩長肥の三雄藩が手をくんで勤王の師をおこして天下を平定しようというにあつた。越前の中根雪江もしきりにあっせんし、薩摩またこれに同意して彼の説にまとまつたのであるが、出陣した幕府軍の無力を見た薩摩は、にわかに一たん約束した前言をひるがえしてしまった。そこで彼らは歯かみして残念がり、いそぎ国へ帰り、征長の軍に加わって、機を見て適宜の処置を、つまり講和をはかろうと苦心したのである。しかし、長藩の方ではそういう苦心は知らず、高杉晋作らがきて肥後の陣を襲ったので、彼らはやむなくこれを討って退けた。
 そのうちに時勢は日に迫り鳥羽の変となった。しかも熊本の藩論はなお佐幕派が勢力つよくややもすれば国をあやまろうとするので、彼らはすこぶる心をいためたものである。聡明な護久公はこの間にあってよく状勢を洞察して武甫らの説を用い、ようやく維新の大業にあって面目を維持することが出来た。
 やがて護久は長岡是容をあげて藩政をとらせた。武甫は小参事に任せられ、郡政係というものになつた。そこで彼は藩内を巡視してその夷状を視察し、百姓が苛税に苦しんでいるのを見て「今日更始の際、まず雑税を全免じて百姓を救い、人民に仁政のめぐみを与えていただきたい」と意見具申した。同僚いずれも実学派の人々であつたが、このことは藩費の欠乏をきたす心配があるとて、はげしく反対した。しかし彼は少しも退かず論筆実に三一十日に亘り、護久公もこれを諒として彼の議が通り農民が助かった。彼はこの外、民情を察し、平民が木履や雨傘を禁ぜられ、また衣服にも制限があるのを、四民平等の立場から本可としてその差別撤廃を叫び、これも採用された。またこれまでの郡代や総庄屋などの制度を廃し、それを簡易にしたのも彼の力であつた。
 明冶四年、廃藩置県となって彼は熊本県参事に昇任じた。彼はこの間に時習館、再春館を廃し、新たに熊本洋学校と医学校を創立した。横井大平ら急進青年の意見をすすんで用いたところに彼の見識と雅量を見られよう。すなはち洋学校にはジェンズを、医学校にはマスンフェルドをよんですえた。
 明治七年、四十四歳の時、彼は敦賀県令に任ぜられた。がやがて九年、敦賀県が廃止されたので以後彼は断然仕宮をやめ、熊本に帰って実業界に入り、蚕糸業をおこし、桑茶の畑をひらき、蚕業会社の社長になった。一方西南役のあと、県下の人心の動向を察して共立学舎を創立し教育に力をつくした。この問、しばらく熊本師範学校の校長に任ぜられたこともある。
 明治十四年、旧友安場保和が帰省し、それが機となって紫浜会を創設することになつた。彼は宮川房之や喜悦氏房、徳富一敬らと安場にあって議論を重ねた末、一たびは発起人に名をつらねたが、やがて安場らの考うるところ、なすところが官権体護にあると見て、幾月ならずして分離し、別に同志と立憲自由党をつくり、漸次九州の自由主義諸政党と気脈を通じ、ついに同志大懇親会を熊木にひらいで九州改進覚を糾織した。
 明冶二十三年四月、彼は鹿兄島に同志連合大会をひらいて気勢をあげ、七月一日行われた第一期衆議院議員に当選し、上京して立憲自由党結成のため奔走、九月十五日の結覚式には百三十名の代議士をもつて議会にのぞんだ。議会開会後、自由覚肉に紛争がおこう、彼は河野広申や松出正久らと共に板垣伯を訪うて講するところあう、翌年四月の大阪大会では大井憲太郎らの反対派を向うにまわしてついに板垣伯を総理に推した。
 明冶二十五年、再度衆議院議員に当選、この時の第三議会では議長侯補になった。第四議会のはじめから病気にかかったが予算案上奏のため病をおして出席したのがもとで、重態となり、明治二十六年(1893)二月二十三日逝去した。六十三であった。墓は東京の青山墓地にある。

横井小楠門下の四天王;(安場保和、山田武甫、宮川房之、嘉悦氏房)

       三秀才:(山田武甫、徳富一敬、嘉悦氏房) 


熊本市河内町に残る牛島一統の痕跡

夢の上、木下屋敷

 夢の上というのは船津・西区の南向きの小高い丘である。牛嶋公尚は建久九年(1198)十二月二十九日肥前国長嶋庄牛嶋から落ちて肥後国池亀庄河内浦に渡り着かるるや世の転変を嘆きつつ「鳴呼世の中は夢のようだ」と云われた。それ以来此の地を夢の上(訛ってヨメの上とも云う)というようになったそうである。それから公尚は中川内区(中川一清氏の家屋)に来られホットウガラの木の下で一夜を明かされるとその翌朝は正治元年(1199)元且であった。ホットウガラの木は昭和三十二年の大水害で流失した。公尚に差上げる食事の皿が無いので、家来が藁をもって皿を作りそれに塩鰯をのせて元且の儀式をすまされたそうである。そこでその子孫は祖先の苦心を忘れぬよう毎年正月元且にはそのしきたりを欠かされなかったそうである。河内町史(昭和63年)より。

大城戸

 大城戸は葛山(つづらやま)区の中程を云い南方の小高い丘を城石と云う。昔の城跡で大きな礎石等あったが今は蜜柑畑に開墾されてない。米の山と云って屋敷跡と思われオモトの野生や石灯麓があった。蔵屋敷や射場の本と云う地名があり、大城戸と云うのは大きな城戸を構えた城門の跡と云われている。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 

江月院 写真2008/3/30

 江月院は清光山(寺院の後に小丘あり)と云って中川内区にある。禅宗曹洞派に属し、本尊は釈迦如来様で川尻大慈寺の末寺である。後二条天皇の乾元元年(1302)大慈寺四世愚谷常賢和尚の開基建立にかかるもので建久九年(1198)牛嶋美作守が河内の里に来られてからこの寺を造営せられたもので開基から七百七十五年の古刹で牛嶋氏の檀那寺で仏餉田・蜜柑畑等あって牛嶋氏の崇敬が篤い現職荒木誠孝和尚は第十五代目である。歴代の和尚中特に六代目仏国和尚は修業の積まれた和尚様で雀の鳴き声もよく聞き分けられたと云い伝えのある程で崇りがあったり、死んで成仏しきれず迷っている者も仏国和尚の読経の功力によって助かるという程の高僧であったらしい。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 

牛嶋三郎左衛門俊政

ころは天文十九年(1550)の春まだ浅き弥生の末つ方であった。大友宗鱗の二万余騎の大軍は汐の如く金峰の南麓より嶽の本城に迫った。城主は山の上の三名字を始めとして芳野の精兵数百菊池義武を擁し豊後勢に一泡ふかせんと血を湧かし肉を躍らせて待ち構えて居た。廿九日の明け方谷間深く立籠めたるさ霧を破って敵の関の声が山河を振わした。「すわ敵ぞ」と云う間もあらず、城戸押開いて打出でたる味方の軍勢、砲の響、矢叫びの音、しばしの間はために天地も崩れんとばかり疑われた。多勢をたのみし大友勢、味方の必死の切先に切り立てられて浮足立って見えた。ここぞと陣頭に馬を躍した牛嶋三郎左衛門俊政・田尻駿河守上妻新左衛門・下田五郎兵衛・東門寺内田織部之亮頼通等、面も振らず脇目もふらず、まっしぐらに敵陣に割って入り、無惨や廿一名の勇士は討死するまで奮戦すること数刻、見る間に屍の山を築いた。さしもの豊後勢も秋の木の葉の散る如く方々に追払われ敵の首数百六十五級討取った。味方のどっと挙げたる勝関は鼓ケ滝の響と相和して山谷を轟かした。時移り人変り早や幾星霜を経た。あわれ嶽村の首塚に建てられた石碑に注ぐ秋雨には特に悲愁を感んぜしむるものがある。今首塚附近に住する者は首塚の本と云う意味から塚本の姓を名乗っている。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 

牛嶋三郎左衛門公俊

船津鑪水(たたらみず)の辺り教員住宅の上に墓石が一基ある。墓石に「梵字 忠浄々仙七分金得所・牛嶋三郎左衛門橘公俊(彦五郎三郎左衛門)元亀二天辛未八月時正敬白」とある。また中川内区に同氏の墓右と思わるのが一基ある。「南無阿弥陀仏釈浄雲、天正元年十月五日硲川討死」とあり氏名がない。この事について『肥後国誌』には左のとおり記してある。天正元年(1573)十月五日小代と三名字と領地を争い遂に武力によって事を決せんと互に日を定めて王名郡の内硲川(玉名市玉名町迫間ならん)にて三名字の大将三人の中牛嶋三郎左衛門公俊・田尻上野惟家討死す。右二箇所の墓碑には鑪水のに牛嶋三郎左衛門と氏名があり場所及び戦死年月日がないので何れが正しいか疑問として河内小学校勤務中、同僚徳永訓導と研究していたが、考証を肥後文教所平野芳洲氏並に後藤是山氏に依頼したら鑪水の墓は逆修の碑であることが分かった。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 

牛嶋下野守橘藤七郎公網

葛山区に阿弥陀堂がある。区民の人達が古い御堂を修復して保存しており、中に木像の阿弥陀仏が安置してある。側に牛嶋氏一統の墓がある。その中の一つの墓石の表には、○雲生院浄楼大居士天正十五年十二月七日(1587)と記し、裏には、牛嶋下野守橘公秀の次男藤七郎公綱は人皇第百八代後陽成院の御宇関白秀吉公の命に依り世々陸奥守殿の与力たり。天正十五年(1587)当国に下着し、玉名郡田中城に於て朧月七日合戦の節和仁勘解由親実の臣松尾日向と組み石壁より落ち相共に戦死せり、維時享保十九年(1734)甲寅年九月七日人皇第百十六代の孝孫牛嶋衛門公續謹銘とある。他の一基は五輪塔にして寺法白水範居士元和五年(1619)九月十日と記してある。他にも文字の消滅した古墳があるようである。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 リンク:仲井克己 Nakai KatsumiのHPより『熊本県三加和町 [和仁(田中)城]参考資料』;http://rizardon.com/~nakai/mikawa.htm

 

牛嶋公明公常之墓

葛山区の上村一男氏の星敷の下の蜜柑畑に永禄二年(1559)俗名牛嶋公明公常と記した石碑がある。俗に下馬落しと云う。昔は墓碑の表を道の方に向けてあったが、その前の道を馬に乗って通る者があるとばたばたと落されるので之はきっと牛嶋公明公常の忌み嫌われるのだろうと横を向けたら止んだと云うことである。河内町史(昭和63年)より。  もどる

 

厳島神社の建立(由来記)

 三百年振りに珍しい文献発見

 河内蜜柑で名高い飽託郡河内村の弁天社厳島神社は、河内村大字船津の高台に鎮座し村民から氏神様として尊崇されているが、いつのころ誰が何のため何を祀ってあるか詳かでなかったが、このほど河内村出身の前大坂商船会社の社員岩田丁之氏の帰郷に依って河内村の村上耕作氏(現在は子の行堆氏)が保存していた古びた巻物の中から厳島神社の由来記が判った。之に依れば今を去る三八二年前徳川家康時代慶長十四年(1609)の初夏のころ有名な山の上三名字の一人牛嶋家三十五代牛嶋喜衛門尉公照が当時河内村は海路の要処で中国・斡国と盛んに交通が行われていたので、これら海運に従事する船人の安穏を祈り、併せて村里が平和に無事で五穀が豊積であるように、広島の厳島神社の祭神市杵島媛・田心媛・瑞津媛を合祀し海に面し村を一望に眺めるこのところにお祀りした由来が明らかになった。なお記者は慶長年間の史蹟書類が河内村に発見されたと云うので河内村の史蹟研究に没頭している元河内小学校の首席訓導大森等氏を訪ねると、「先日岩田さんが学校に見えて珍しいものが手に入ったと云って来られたので見せて賞ったら、河内村厳島神社の由来記でした。私も厳島神社に就いては大分調査したが、誰が何のために建立したのかさっぱり判明せず、ただ厳島神社の裏に唐人の塚や三官屋敷の跡があるので、河内村は昔は開港で中国・朝鮮と交通があっていたなあといった程度で、いつごろから交通が開けていたのかはっきりしていなかったのが、今度由来記の発見に依ってこれらもほぼ判明したように思われる。今度の由来記の発見は私共史墳研究者にとっては大きな収獲でした。今後如何なる面白いものが出て来るか知れません。由来記と同時に当時「慶長年間牛嶋氏第三十五代公照の頃村人が農繁期に共同炊事をした日記のようなものも発見されました」と熱心に語った。右の記事は昭和十六年六月十九日熊本日々新聞に掲載のものである。

 

 厳鳥神社由来記

 夫弁財宇賀天女者天地作用

聖主天中天 陰陽根本也

迦陵頻伽声 是天覆無外賀是地載無捨 現三光天子耀徳揮拾万

      国示八大龍王洒恩波拾四海具八臂八大観音。惣体

      荒神八意衆生八識也爰以信心願主開新地起堂舎

      造本尊致供養扇光明女之古風

奉建立大日本国鎮西肥後飽田郡河内村大弁財天精舎一宇

哀愍衆生者

我等今敬礼 模檀毘尼之奮儀垂天女愍御眸知見施主之懇志子孫

      繁栄益千秋万才之家門福寿増長伝億地京言宛之万粟持

      者国主御佳者国主御佳運者金石之金剛威光広照領於万

      邦御官位福禄者勝於等倫名於普天乃至国土泰平村里無

      事貴賎幸楽衆民安穏戸々康寧家々豊鏡者如件

         大檀越加藤肥後守名乗朝臣清正

         慶長十五年戌庚初夏吉目良辰誌記

         大願主牛嶋喜右衛門尉橘公照 封

                 大工 主馬

                 小工 両人

右の古文書は河内町船津西区村上行雄氏の提供に依る。

河内町史(昭和63年)より。

 

 

船津(弁天社厳島)神社

 船津神社は船津東区海岸近くの丘上にある。ここは温泉新地の出来なかった以前は海上曲浦絶勝の地で殊に汐の満ちた時は格別であっただろうと思う。本社の祭神は日本三景の一として有名な厳島神社の祭神市杵島媛命及び田心姫・湍津姫を分祀してある。このお宮には不思議な伝説がある。即ち文化十年(1807)御神体を盗む者があって百方手を配って探したが見つからぬので、別に御神体をお造り申上げたところが、その後氏子の人に御告げがあったのでその通り探したら元の御神体が見つかったと云われている。また境内に大きな舟形をした手水鉢がある。それが珍しいので旧藩時代馬之允某が人夫数十人をもって熊本の自宅に持運ばせようとしたら数十メートル来たかと思うころ急に馬之允はおなかが痛んで苦しみだし、人夫は怪我するやら、どうしても運んで行かれないので、大方神様の崇りだろうと運び返させたら、虫もせき止みやすやすと運び返されたそうである。この神社も十月十五日に大祭を執行するが、以前は九月九日でねんがら祭と云って子供はねんがらを打って勝負を争い非常に賑ったとの事である。河内町史(昭和63年)より。   もどる

 

河内阿蘇神社の鳥居

 河内阿蘇神社の鳥居の奉納もやはり牛嶋氏一党のものである。牛嶋三郎(七郎の誤りか?)左衛門尉公基名主甚三郎公至再建、安永九庚子年十一月十五日(1780)石工大熊喜次郎正吉総右衛門友之・儀右衛門公列と刻してある。今からおよそ211年前である。

 惟うに郷土の偉人牛嶋氏は嚢祖公尚建久九年十二月廿九日肥前国牛嶋庄より一族郎党肥後国池亀庄河内浦に渡来し中川内区中川一喜氏の屋敷に来て明くれば正治元年正月元日(1199)大将に朝食を上ぐるのに食器がないので縄で皿を作り塩鰯を差上げたと云う。そこで牛嶋氏では正月元日にはその儀式を伝えてお祝いをされたと云う。

 それより菊池氏に属し天正十五年(1587)の戦に参加し後大友氏に仕え元亀・天正以来城親方に属し、天正十五年太閤秀吉九州征伐の時には浅野弾正に見え先手案内の数に加わっている。実に田尻・内田の両氏とともに山の上の三名字と称えられている。即ち葛山には城を構えたところは城石の名があり蔵屋敷や射場の本・大城戸等と云う名が残っているように世乱れては戈をもって立ち、戦収まれば我が郷土の文化開発のため神社を再建し仏閣を建立する等、社寺を崇敬し産業の開発に尺くされた。河内蜜柑も一説には人皇第九十七代後村上天皇の朝菊池氏に申入れて従来の品種より優良なものを八代より取寄せ栽植し農業にいそしまれた。我が国は古来国家のために一家一門数代に亙り忠勤を励まれたのは、忠義の亀鑑たる楠木氏を始め新田氏・名和氏・菊池氏等ありて純忠誠に史上に歴然たるものがあるが、牛嶋氏一党のかくの如き事質は余り世に知られていなかったのはその地が辺陲の地であり、その記録も確然たるものが少なく只郷土の伝説として知る人も抄いのは悲しむべきことである。されば郷土の我らは出来るだけ事蹟を調査し顕彰に努めたい。河内町史(昭和63年)より。

河内阿蘇神社

 河内神社は中川内区の南小高丘にある。別に阿蘇宮ともまた阿蘇十二社大明神とも去う。社は丘を背にして南面し境内は広漠にして老松古梅等老い茂り、前面は悠々たる有明海に臨み風光明媚の地である。本社は旧藩時代五町郷の氏神として崇敬篤く戦前までは郷社として極めて由緒ある社である。祭神は阿蘇郡一の宮町にある官幣大社であった阿蘇神社たる十二宮をお移し祭ってある。この神社をお祭りした由来に就いてはこんな伝説がある。河内に昭和三十二年の大水書のようにその昔大水害があって、村人が今の神社の所から坂を下りて行った民洞の海岸に「つゞら籠」が打上げられていたので、明けて見たら十二の御神体が遣入っていたので、一旦お宮の下の畠の中にある石の上において持ち帰り、村人に話して調べて見たら、大水のため白川が汎濫して流されて来られたので、阿蘇宮の十二神と分ったので、村人が氏神様としてお祭りしたと云われている。今でも拾い上げて一且安置した石を「つゞら石」と云って、その石の上に乗ると「虫のせく」と云っている。また御神体が鯰であるので氏子の人々は鯰は食べないという風習がある。即ち十二の宮と云えば神武天皇の皇子神八井耳命の御子健磐龍命で神武天皇の皇孫に当らせらるる神様始め阿蘇津媛命及び其の御子速瓶王命や其の一族近親の神々を合祀してある。そこで阿蘇十二社大明神と云う。健磐龍命は神武天皇の御東征後九州鎮護の使命を帯びて、阿蘇に入り茲に国土を経営して我が肥後開発の根幹を培われた神様であるから、官幣大社として祭られ、各地方に合祀され県下にある神社の三分の一に近い程あると云う。抑々本社勧進の儀は元正天皇の霊亀元年十二月(七一五)藤原泰忠 狄国降伏の為め阿蘇大明神を河内浦の海岸即ち今の地に祭り、それより年を経て後小松天皇の応永四年(一三九七)九州兵乱の砌り飽田郡池亀庄河内浦一円の領主牛島美作守橘公基「戦に勝たせ給はゞ社を再興して我が家のあらん限り奉祭せん」と祈願し、目出度勝利を得て凱旋し応永二十年九月(一四一三)社を造営せられたものである。現今は十月十五日に大祭を執行するが、そんなゆかりで十二月初卯日であったとの事である。河内町史(昭和63年)より。   もどる

 

天満宮建立

天満官は中川内区にある。天満宮と云えば祭神は誰れも管原道真であることは知っての通りである。お宮の建立年月日は不明であるが牛嶋一党の建立になったものらしい。加藤清正の藩治時代慶長十四年(1609)己酉八日牛嶋喜右衛門公照が再建せられ、徳川吉宗の時代寛保二年壬戊八月(1742)牛嶋七郎右衛門公基が修理し爾来今日に至ったもので境内には樟の老木と老梅とが植えられている。河内町史(昭和63年)より。   もどる

 

法華経の石碑

法華経の石碑は葛山区の東端山口にある。牛嶋公基の建立という。右碑の表には「法華経・安永己亥八年九月吉目(1779)石千妙法蓮華経」と刻してある。今からおよそ二一二年前に建てられたものであり、伝うるところに依れば海から小石を拾ってそれに一つ一つ法華経の経文を記して納められたと云う、一字一右塔である。昔からここに祈願すれば病気その他災難が遁れるといっている。今もローソク・線香が上っていて参詣者が絶えない。河内町史(昭和63年)より。   もどる

 

河内みかんと牛嶋七郎左衛門尉公基

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塩屋神社

塩屋神社は塩屋区の西北端県道の上にある。此処も晴れた日には有明海は鏡の如く、温泉岳は呼べば答えんばかりに間近に見え境内に梅樹を多く植え誠に眺望のよい処である。本社の祭神も河内神社の祭神と同しく阿蘇若宮であり、伝うるところに依れば河内神社より分祀されたものと云う。塩屋から小森に越す坂を「ヘふり坂」というが、あれは御幣振り坂といっていたのが、何時の間にか云いならされたのであり、大明神から御幣を振りつつ払い清めつつあの坂を通って行かれたのであるとの事である。この神様は大そう勇敢な御方で特別白色を忌み嫌われたと見えて、前面の海上を白帆を掛げた舟が通ると風もないのに覆り、また白馬に乗って通ると落馬したそうであるから社の向きを今の方角に換えられたそうである。河内町史(昭和63年)より。

 

白浜神社

白浜神社は白浜区の白浜分校の東、高燥の地にある。本社の祭神は大山津見之命と申上げ伊邪那岐命・伊邪那美命が八尋殿でお産みになった神様で俗に山の神と申す御方で山野を御守り下さる神様である。抑々本社勧請の儀は昭和六年十月(1931)本社創建四百年祭を執行し藤森金太郎氏の奉納にかかる記念碑に依って明らかである。左に記すれば、

 天文元年(1543)当村字狸谷に鎮座其後兵乱の為め社殿焼失以来仮神殿に奉安し慶応四年(1868)社殿改築明治四十年十二月(1907)地を丸尾山にトし御遷座の運びに至る。而して本年は鎮座の起原より四百年に相当す。裁に有志相諜り氏神の加護を祈り御霊を慰めんため氏子の赤誠を集め祭典を行えり。昭和六年十月建築費奉納藤森金太郎

河内町史(昭和63年)より。

 

山の神

葛山区の大城戸から清田区に行く道の近くに大木がありそこに山の神をお祀りしてあったが昭和三十二年の大水害でなくなった。河内町史(昭和63年)より。

 

水神社

「西出村(今の中川内区内)より南方に大楠の株あり水神を祭る」と古記録にある。今もその地区を西出と呼んでいる。その神様の御神体が流されて亀石の上野敬之の屋敷に祭られていたが之も昭和三十二年の大水害に流されてしまった。河内町史(昭和63年)より。 

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