山への旅(シリーズ)  シリーズTopへ戻る 

第4回 河童と古代氏族 

2008.5.10up

 

河童と関連しそうな古代氏族の系譜

     橘氏−奈良麻呂、橘諸兄−栗隈氏、美努王県犬養橘三千代− タチバナイラツメ聖徳太子ひさご用明天皇(橘豊日命)、牛飼い − オトタチバナヒメ(水の巫女)…ヤマトタケル

     古要神社、八幡古表神社の住吉神、神相撲、−宇佐八幡宮秦氏秦河勝− 隼人の鎮魂 − 隼人…相撲、牛馬牧

     菅原氏 − 土師氏:天穂日命(出雲臣・武蔵国造・土師連の祖) − 野見宿禰相撲、垂仁天皇(イクメイリヒコ)…隼人?

     平氏

 

古墳造営・鎮魂儀礼(土師)⇒埿部(ハツカシベ、ハセツカべ)、土木工事、ハセツカべ(杖部)⇒軍事行動、ヒョウスベ(兵主部)

土師氏、秦氏、聖徳太子、栗隈氏、橘氏

 

 

         カッパ(河童)の話

         肥後、筑後、豊後の川童【蓬生譚:豊後日田】

         水の神、山の神、田の神

      武蔵人強頸  豊島郡と土師氏

      河内人茨田連衫子

         野見宿禰

         古要神社 八幡古表神社 豊前國宇佐八幡【これこそ河童の原型ではないでしょうか?】

      肥前国杵島郡三法方郷(現;佐賀県武雄市)にある潮見山大明神

      水天宮

      橘氏の足取りと河童伝承

      肥前諫早兵揃村天満宮 

      菊地市原の天地元水神社

      相撲

      滅んだ氏族と河童

      河童を率いる人物と数字九十、九十九、九千

      河童ゆかりの神社紋

      菅原氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02101.htm

      菅原氏の家紋について

 

 

カッパ(河童)の話   風土記日本 第一巻 九州・沖縄篇  平凡社(昭和35年 初版)より

水天宮      もどる

日本の妖怪を代表するものほカッパであろう。いまでは外国にもこれを知るものがだんだんふえてきている。九州はカッパの本場で、この妖怪の活躍するあらゆる種類の話がきかれる。カッパの名称はすこぶる多く、川太郎、ガタロ、川子など川に縁のある名まえが多いが、かならずしも川にいるとはかぎらず、海からくる話もあって、むしろそのはうが古意を伝えているようである。

 カッパは小童の形をし、頭髪はいわゆるオカッパで、頭上にさらをのせ、そのなかに水をたたえている。この水がこばれると神力をうしなってしまう。体じゅう毛がほえているといい、東北地方では赤ら顔という土地が多い.またガメとよんでカメ (亀) のように甲羅をせおった姿にえがかれているものもある。土佐にはカッパに類したシバテング(柴天狗)の話が多い。カッパとテングの合一したものに川テング、磯テング、水テングがある。有馬藩では水テソグを屋敷神としてまつっていたが、これを江戸に勧請したのがいまの水天宮である。カッパといえば、人を川のなかに引きこんで尻ごを抜き、すもうをいどみ、馬の手綱をとって、水中に引きずりこむ話がよく知られている。祇園の祭はこのカッパをまつる例が多く、キュウリを供え物としている。キュウリをたぺて川にはいると、カッパにとられるといい、それを防ぐために仏飯をたぺていくまじないがおこなわれている。

 九州ではカッパよけのまじないに、菅公の遺詠という「ヒョウスべに約束せしを忘るなよ川立男氏も菅原」 という歌がある。川をわたるときこの歌をとなえるとカッパにとられない。肥前諌早に兵揃村というのがあり、そこの天満宮の神職渋江久太夫がカッパの災をのぞく符をだしていたことが古書にみえている。カッパのことをヒョウスべというのはこの兵揃村と関係があるというが、これについては別に一つの伝説がある。左大臣橘諸兄の孫兵部大輔島田丸が神護景雲のころ、春日の社を常陸の鹿島からいまの三笠山にうつすとき、匠工の奉行をつとめた.内匠頭何某が九九の人形をつくって、これに加持したところ、童の形となって神力をあらわし、たちまち工事を落成させてしまった。工事がおわって、この人形を川にすてたのがカッパとなって、人畜に害をあたえた。そこで島田丸がおもむいて災をしずめたので、そののちカッパを兵主部と名づけるにいたったというのである。いまもカッパの害を避けるために、大工の墨うちの糸を身につけるのは、その因縁によるもので、カッパは大工の弟子だという。カッパが人形だったので、両腕が一本になっていて、一方の腕をひけは片方へぬけるという。これが、アイヌのカッパに類したミンズチについてもいわれているのは奇とすべきである。

 

注)

春日大社:平城京の守護の為に創建された御社で、第一殿 茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿 千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿 比売神(ヒメガミ)は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えて祀られている。奈良時代の神護景雲二年(768)、現在地に四所の神殿が創設されたのが始り。

 

 

 

蓬生譚》 豊後日田の国学者 森春樹の“蓬生談”の続編か?      もどる

     東国の火車。北国のかまいたち。四国中国の犬神。西国の河童とて。よく人のいふごとく。この川童西国いづれにも多き中にも。殊に筑後。肥後。豊後多し。

     我が眼のあたり川童の障をなしたるを見しは。この町続川原町といふに。白糸嘉右衛門といへる相撲とり有。その嫡子正市といひしが十四歳の夏六月十二日。この日前日十一日。所の祇園祭礼の山鉾を飾りし家。この日山祝とて。無難に勤たるよろこびを祝ふ事なり。

     これに当りし嘉右衛門が出入の親方吉武屋伊助といへるものゝ宅に。父子ともに行て。暮がたかの正市。親方の一子礒松今の宗右衛門と我弟の四蔵といへる八九歳なるを両人つれて。直に町の後大川則くま川也。これに水浴せに行て。おもふまゝ游遊ばせて。自身にも浴て。幼少二人を先に上げて。

     自分は水中より上らんと片足を上たる時。水に残りし片足の取て引くもの有ければ。引かせながら両人早くそちによれとて。やゝのけて其まゝふりかへりざま。水の中に逆しまに飛入掻まはしければ。何やらん手にさはりしとおぼゆれば。弥したゝかに掻さがして水より上り。二人の幼少を家に連帰りて。日暮には皆と一同湯など遣ひ。夜喰もしたゝめ。暮過て。下男どもが庭にて月代そりて居る。

     傍なる紙荷物の拵ありしに腰打かけ見居たる時。しきりに門先より。正市出よ。昼の勝負せんといふ声聞れども。正市おもふに。子供と喧嘩口論におよびし覚もなく。何事かと不審ながら門口まで立出見れば。直に向ふ川に行狭門道有。其所より町の中まで。数十疋の河伯と見えて立きしり。ひけう也や正市。勝負は得せぬやと罵る。下地気短き生れつきには有。又我は角力とりの子とおもひ居れば。にくきやつばらかなとおもひ。心得たりと飛出行ども。傍なる人々は呼出ず。声も聞かず。何の気もつかで在し内。正市川端の砂の上にいたり。

     勝負せん来よといひつゝ。裸身にて居るまゝ人と角力とるごとく。砂の上にをり合ひたれども。同じくをり合ものもなく。凡五六十疋もあらんとおもふ。おほくの河伯どもとり巻。飛よりては頭を叩。後よりは尻を打。横よりは肩をつき抔する。其手のさはる冷たさ。夏ながら氷などにてさはるかとおもふ斗冷たかりしかども。其手取らば引寄せて打付んと心を静てねらへども。飛より飛除く其早業。やゝ久しき間手にたまらねば。何とぞして足を取てくれんものと。弥地にひれふしねらふ時。河伯ども正市が叶はずして平伏せりとやおもひけん。

     且悦び且笑ふさまにて。声を落し。飛違ひ飛違ひ次第々々に数は増り来りけれども。何とぞ一疋とらへて帰るべしと。息を詰てねらひける内。川の中にもよほど立集ひ見物するやうなる中より。あるが中にも少し背の伸びたる河伯。川の中に立集へるを押わけて陸に上り来り。走り寄て正市が額の所を抓まんとせしを。心得て首をふりければ。目当違ひて。かの河伯が手。我耳の後に来るを。左の手にてかれが手くびを取て。ふりかたげ打んとせしに。かれが手延び延びとなりやうにて。かれがからだ遥下に有て打れねば。右の手にて引しこぎ脇の下までしごき付て。力一ぱい振上。石垣に当て打ければ。きやと一声さけびて忽死たるやうなるを。余の河伯ども立かゝり引ずり。一疋も残らず川に入て失たり。十二日事なれば。月明りにて其始終能見えたりとぞ。

     扨正市おもふやう。このまゝ爰に居ば害あらん。いづれ刃物を持来るべしと急に馳帰り。吉武屋の水棚のもとなる出刃庖丁を取らんと行に。其水棚傍直井有。其井の廻りより水棚の辺。数もしらぬ程河伯ども来り集りをれば。是は叶はじ。我内に帰りてと心得飛出。半町斗走り帰る内。数十疋の河伯ども前後より飛まどひ。足の膝の所を後よりしきり蹴る歟押歟するにて。纔半丁斗間にて二度までこけまろびつれども。起上り起上り我内に走込。

     出刃を取て飛出んとする気色つねならねば。幸父嘉右衛門宿に居合せ。抱止め様子を尋れどもいはず。あれあれそれそれとばかりうろつき騒ぐ故。父壱人にてはもて余し声を立しに。向隣の人々も馳付様子を聞くに。喧嘩したるに相手もなく。いづれつきもの歟何ぞのわざならんといふうち。親方の内にての事しれて。凡考るに。河伯の所為に極りぬとて。押静むれども。容易弱き男二人位ははね返して飛出んとする故。達者の男三四人宛替る替る立かゝり押て。薬を与へ。いのりなどさまざま行ひけれども。しるしなかりければ。

     其後隈町に郷義弘の脇指を取持せし人ありけるによりて。其宝刀を借て。正市が枕上に置ば。其間は顔も蒲団の下に引入。死たるごとく荒く息もせず。余の刀に替れば忽起上らんとす。しかれども大切の宝刀なれば久しくも止置れず。もてあつかひぐさなりける時。

     筑後国久留米瀬の下尼御前の祠の禰宜某に頼めば。かゝる事は能払ふよしを聞出して。嘉右衛門自ら彼地に行て右の次第を語り頼ければ。禰宜が曰。それははや三四日以前此方にはしれたり。この辺の河童ども例年肥後国阿蘇礼勤にゆく道。いつも参るにはこの国の上妻郡矢部通り。帰りはその日田通りなるをh 久留米−阿蘇の経路 p=。今月九日其地の銭淵に帰り来り。十日の朝は早く立て帰らんせしを。銭淵の河伯ども。明日より祇園会にて。元々面白き事どもあれば。是非滞りて見て行けと留し故。滞りしうち右の事起りしよし。その事につき両三日延引して帰り来り。その届せし也。右正市が打し河伯。直に落命せし故。余の河伯ども憤り強く。又その地の河伯どもゝよしなく留て命を亡したりとて。相ともに怒り憤りつよけれども。随分よきになだめ遣べしとて。御供の飯少しと幣の切たるくれ。この御供は正市に戴かせよ。この幣は右の所に立よとて。授与へける。受て帰り教のまゝにせしかば。程なく正市はもとのごとくなりたれども。つねにねつ起る事ありて。其後十三四歳過て。天明年中一夜豆田町より更て帰る道。今我閑居の下したの堀の端を通る時。堀の中に何やらん夥しき音聞へしとおもふと。身うちしびれるごとくにおぼへ寒くなりて家に帰り。それより陰症の腸寒のごとき病となると。百日程ありて死せり。これ正しく河伯の所為なるべし。尼御前の祠とは。平相国清盛の北の方二位尼君を祝ひ祭りし祠にて。水神のごとく尊敬する也。かの祠より出せる守りといふ物。方二三寸斗の紙に五岳の図のごとき梵字を押たる也。海川ともにこの守を用るに頗験有と云り。故に其禰宜右等の事を司るにや。

     又阿蘇へ礼に行とは。阿蘇郡宮地といふ所歟。坊中といふ方歟。おぼへねども。水神を使ふ那羅円坊といへる坊有。是則阿蘇の宮の社僧修験方の随一なるよし。これがもとに毎歳行事有とぞ。

     又同国菊池郡隈府に。渋江氏にこの河伯を使ふ人有。今の渋江氏は儒者にて古学をとなへ。人物最篤実にて。折々日田にも来り。傍和書の方も心がけ。長瀬七良平抔とも交り有て。予も度々逢見しなれば。水神河伯の事を問けれどもいはず。只自らの家は橘氏にて諸兄の大臣より出て。かの家の祖たる某。高野天皇より水神を静め司るべき勅命を蒙りしより。代々今に至り。水神の事を司れば。河伯にて何にても。海河ともに水中に在らん極りのものは司る也。故有て一度九州にくだりて凡七百年余長く留りぬと語れり。俗称宇内名は公正。父を貞之丞公俊といひし。国侯よりも水神の祭はこの家に仰る也。重て予。諸国里人談といふ雑書の中に。肥前大村に渋江氏秀之丞とかいひし人有よし。これも河伯の事を司るよし見ゆ。是同姓同家にやと答ければ。しか也。今より十六代前とか。兄弟の別家せしよしにて。今も通路するといへり。右宇内儒者にて。しかも篤実の人なれば。白地には語ねども。所により人によりては。随分河伯を自由に呼使ひても見するよし。父貞之丞はひたと此所にも来りし人なれば。この地の若き輩。呼出して見せよと強て乞のぞみければ。是非なく呼寄て見すべしとうけがひけれども。さすがさいはれては恐しくなりて見ざりしとぞ。http://kirarisuigen.blog13.fc2.com/blog-date-20070512.html


 

水の神、山の神、田の神 ・・・五来重(石の宗教:第五章 道祖神信仰より)

五 飛鳥の猿石と河童     もどる

道祖神は単純な庶民信仰に見えるが、その内容はきわめて複雑である。これは祖先の象徴である男根形の石や木でまつる民俗信仰からはじまり、これを形象化して男根露出神像にしたり、男女抱擁神像にしたりした。飛鳥の猿石や道祖神石はまさにこの段階をしめしたもので、文化財、美術史資料としてよりも、宗教史資料、宗教民俗学資料としてきわめて貴重である。

露出神像を猿石といったのは、猿が前を隠さないところから、民衆が命名したのかもしれない。高取城祉の猿石はたしかに猿に似ているが、吉備姫王墓の猿石は胡人や河童に似ている。胡人の顔が出るのは道祖神石とおなじく石工が渡来人だったことを物語るものであろうが、私が河童と推定する表現があるのは問題にする価値がある。

河童は名称からいってもカワワロ (河童)、ガタロ (河太郎)、ミヅチ(水雲)、ミンドチ(同上)、ミヅシ (同上)、ヒョウズ (兵主)、ヒョウスベ (兵主部)など、みな水や河に関係がある。水神や海神は童の形をしているというので、河童とか海童の名がある。ミヅチのチは「チハヤプル」「イチハヤプル」のチまたはイチで、力強い霊のことである。イチはイツともいって「稜威」の漢字をあてるのもそのためである。したがってミヅチは力強く強暴な水神(水霊)ということである。ちかごろの現代仮名遣いでミズチとすると、この意味は分からなくなってしまう。私がこのような穿整をするのは、飛鳥のもう一つの奇石である亀石の意味をあきらかにしたいからである。というのは吉備姫王墓の猿石(私は結界石とよぶ)の第一石の裏の河童は、亀石の頭にのっていることがわかる。したがって飛鳥の謎の亀石も、猿石とつながりがあり、同時に道祖神と関係があるだろうとおもわれる。

河童をヒョウズまたはヒョウスベとよぶ理由は、いろいろ俗説があるがみなこじつけばかりである。各地の兵主神社が水神や河童をまつったことはたしかであるが、私は水神と瓢箪との密接な関係から、瓢の主(瓢主)または瓢に住むもの(瓢住)だったのではないかとおもう。水神は瓢によってまつられることから、おなじ瓜科の胡瓜やヘチマを水神に供えるようになったことはたしかである。これが転化して『日本書紀(仁徳天皇十一年十月条)のように、河伯が堤を築くのに人身御供を要求したけれども、全匏(中空にして栓をした瓢箪)を沈められないので人身御供を許したという話になったのである。河童は山へ帰るときヒョウヒョウと鳴くからヒョウスベというのもこじつけである。しかしこのようなこじつけ話ができるのも、水神である河童は田の収穫がすめば用がなくなるので、山へかえって山の神となる、という水神(田神)山神交代信仰があるからである。

したがって河童は形象化されると、山神の化身である猿と、水神の化身である亀との混合形態で表現される。これが普通の河童が猿の顔と手足と頭髪と体毛、亀の嘴と甲羅と水掻をもつ所以である。そうすると飛鳥の吉備姫王墓猿石の第一石の裏は亀の頭にのった像の顔も嘴を持っており、亀をあらわすとともに猿の手をもっている。表はといえばこれはゴリラのような怪異な猿の顔と体であろう。この石は私の分析と解釈からすれば、河童であることになり、近世に入ってさかんに巷説によって画かれる河童図の祖型が、ここに見出される。これは近世の双体道祖神の祖型が、飛鳥の道祖神石に見出されるとおなじく、まことにおどろくべき事実といわなければならない( http://www.kasugano.com/kankou/asuka/index.html : 飛鳥)。

しかし現在の民俗学が庶民信仰や年中行事、口謡伝承から導き出した、山神水神(田神)交代説という仮説が、古代の石彫にまで適用できるかという疑問と反論が出るかもしれない。これは文献史学では何か書いたものがないと、その歴史事実はないという素朴な実証主義が支配しているからである。しかし石碑があり口碑があるとおなじように、心碑があるというのは柳田国男翁の説で、文献にも石碑にも書かれないで、文字を持たない庶民の口碑(口諦伝承、伝説、昔話) と心碑(庶民信仰、俗信)で、古代から中世、近世、現代まで伝えられる歴史もある。祭や芸能などは体の動作で伝えられるので、これは体碑といってもよいかもしれない。民俗学は伝承を資料(素材)として、庶民の過去の歴史をあきらかにする学問であるが、その伝承は口論伝承と行為伝承と心意伝承であるとする。

水神や山神は記紀神話をもとにした神道では、岡象女神であったり綿津鬼神(海神)大山祇神であったりするが、庶民信仰では水の神、山の神、田の神などと普通名詞でよばれる。そしてこれらの神は水に住む動物や山に住む動物、田畑に出没する動物を化身(正身)として、人間の目に見えるのだと信じられた。水神ならば亀(丹後与謝の管川の浦島子の伝説では海神の娘に化身する)や鰐や蟹、蛇、龍などに化身し、山神ならば猿、猪、狼、熊、山犬、大蛇などに化身する。狐などは田畑に出るので田畑の神(穀霊) の化身とされ、やがて稲荷の化身となったのであろう。

このような庶民信仰の構造のなかで、飛鳥の猿石を見れば、ある時は水神(亀)となり、あるときは山神(猿)となる神を、造型的に表現したものであることが考えられよう。これをその当時、河童とよんだかどうかはわからないが、後世河童とよばれたものの祖型であることはたしかである。このような想像上の霊物(神と人間や動物の中間的な霊的存在)を形象化することは、近世に入ってさかんになり、河童の詫証文や河童の家伝薬などもつくられるので、柳田国男翁は河童は水神の零落した姿だなどと言っている。しかしこれは近世の人間主義が、神や霊物をカリカチュアライズするようになったためであろう。また古代の渡来人も日本人の庶民信仰をすこし茶化して、猿石のような石の造型をつくつたかもしれない。畏れ多い神ならば、形象化することは神の冒とくだったからである。しかし平安末期に措かれた『鳥獣戯画巻』(高山寺蔵)の乙巻には、実在の鳥獣とともに、一般に水犀とよばれる想像上の動物が描かれているのは水の亀と山の一角犀の結合らしく見える。そして水の中を走っているのは、古代の河童と近世の河童の中間形態かもしれないのである。

 

六 飛鳥の色石その他の奇石    もどる

ところで猿石は結界石で、石を境界に立てて悪魔や悪霊を入れしめないためのものであった。結界石は塞の神ともよばれ道祖神ともよばれたが、猿石では恐ろしい面相で威嚇するために、自然石に造型されたのである。その場合河童を造型するのは、どのような宗教的意味をもつものであろうか。河童が兵主神社などとしてまつられるのは、水の恵みをもとめるとか、豊作をもとめるという祈願のためよりは、洪水を防あつすることを期待したもので、これも水に対する結界である。河童伝説が多く人間に害(尻を抜くなどという)をあたえたので捕えられ、詫証文を書いたことになっているのは、洪水の害に対して再び洪水をおこさない約束をしたことを意味している。佐賀県杵島郡橘村(現武雄市) の潮見神社は河童の主の兵主部をまつったというが、水難除けの歌として、

 

  兵主部よ 約束せしを 忘るなよ 川立ち男 氏も菅原

 

ととなえるという。水難は今は溺死を意味するが、元来は洪水による被害のことである。したがって河童を象った猿石もまた道祖神石、または塞の神石の機能をもったものということができる。

水神の化身を水陸両棲動物の亀としたことは、飛鳥では不思議な亀石にあらわれているといえよう。飛鳥の奇石としてまったく意味不明に帰しているが、何の目的もなしにこんな石を作るはずもない。しかし飛鳥の解説書にはこれを説明したものがないのは、どうしたことであろうか。この石が甘樫丘の南、橘の田圃の中にあるのは、水神すなわち田の神にふさわしい。おそらく飛鳥時代の農民は田の神祭に御幣などを立てて祭をしていたのであろうが、渡来人の石工は亀が水神の化身であると聞いて、これを造型したのであろう。ちかごろの 『飛鳥資料館案内」を見たら、一説に、条里の境を示すのに利用されたというが、本来の用途はわからない。腹に益田岩船と同じ格子状の溝がある。という説明であった。飛鳥の不思議な石をみな条里制で片付けているのが面白い。石にはそのような公的制度として政治史にかかわるよりも、宗教史もしくは民俗にかかわるものが多いのである。

飛鳥にはまたマラ石とよばれる立石がある。川原寺の東の飛鳥川の近くで発掘されたもので、発掘調査もとんだ掘出物をしたものである。このようによばれる特徴が刻まれているが、これは最初に述べたように、道祖神のもっとも原始的なものは、男根形であったということに対応するものであろう。これも自然石の立石だったものが、加工された立石に変化するもので、近世にはずいぶんリアルなものもある。飛鳥にはマラ石のはかに自然石立石が三本(明日香村岡、同上居、同豊浦)あるのも、おなじような宗教的意味があったかもしれない。

男根形の道祖神石が、結界石よりも豊穣信仰に変化したものとして、薩摩に多い「田の神どん」がある。鹿児島周辺から国分市、加治木町あたりの田圃を歩くと、この男根形の「田の神ドん」にぶつかる。その意味を知らないものは不謹慎だといって怒ったり、興味をもったりするが、農民にとっては田の耕作を守護する田の神なのである。この石像は前から見れば大きな笠をかぶった老農夫の座像で、後ろから見れば笠の円頭で構成きれた男根形である。すなわち前面は嵌め絵風に老農夫が彫られているのであるが、もともとは男根形の道祖神を立ててあったのであろうとおもう。 ところが、男根形の道祖神はまたもう一つの変化の道をたどったのであって、これが地蔵石像である。田の畦道に石地蔵が立っているところは京都辺にもあり、美作(岡山県)地方にもある。田植地蔵の昔話ができる所以である。もちろん、結界石として村の境や道の辻に立てられた道祖神は、「村のはずれのお地蔵さん」になったのであるし、辻の地蔵もおなじである。これらの地蔵が多く立像であるのは、最初の祖型が男根形道祖神であった痕跡をのこしたものであろう。しかも京都とその周辺でさかんにおこなわれる地蔵盆というものは、歴史的にも形態的にも道祖神祭、または塞神祭であることは、のちにのべようとおもう。

このように飛鳥の不思議な石造遺物を見てくると、日本人の原始宗教とこれを継承した庶民信仰が造型されたと推定されるものが多い。有名な須弥山石なども、現在の三段組はもと四段粗か五段組だったと考えられるので、やはり男根形になる。『日本書紀』 (斉明天皇五年三月十七日条)に、甘橿丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越の蝦夷に饗たまふ。とあり、また同三年七月十五日には飛鳥寺の西に須弥山を作って孟蘭盆会を設け、また都貨邏人に饗えたという記事には、ただ蕃人をおどろかすような趣向の噴泉を造ったということだけであるが、造型の根本理念は道祖神石を象ったと考えられるのである。

 

 

【橘氏の足取りと河童伝承】  もどる

         佐賀県杵島郡橘村(現武雄市)の潮見神社は嘉禎三年(1237)鎌倉よりこの地の地頭として下向した橘公業公(初代)が河童の主の兵主部(左大臣橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸)を御祭りした神社です。その後、この地の橘氏は渋江氏と名を改め、勢い盛んでありましたが、渋江公勢(13代)が70歳で横死した直後の大永7(1527)年3月、後藤純明(公勢の嫡男で後藤職明の養子となっていた)にこの地を奪い取られています。公勢の三男公親(14代、当時15歳)は、それ以来壱岐の波多氏の許に身を寄せて雌伏していたが、天文11(1542)年8月には一旦長島荘を奪い返すことに成功しました。しかし、同年11月には、再び後藤純明の大軍によって日鼓山城を追われてしまいます。公勢没後、渋江氏は衰勢を辿り始めたのでした。

         その後公親は、龍造寺家を頼って佐嘉の与賀に落ち延びました。また息子の公重と公師(15代)は肥後国山鹿の談議所寺に隠棲した後、同国菊池郡赤星村の山鹿(赤星)重行の許に身を寄せました。後藤純明は、長島荘が本来渋江家の所領だったとして、永禄2(1559)年に公重と公師を「帰参」させ、有馬の侵出に備えさせた。二人は潮見に築城したものの、間もなく永禄3(1560)年9月 −異説は永禄6(1563)10月−有馬純宗に破れ、公重は討ち死にし、公師は妻子のいる菊池へと落ちて行ったのです。一方、後藤純明はすぐに急襲して有馬純宗を討ち果たして潮見城を奪還し、永禄5(1562)年4月、再び公師を帰参させたのですが、公師と貴明の仲は天正7(1579)年頃からまた微妙になり、その後公師は波瀾に富んだ数奇な人生を送ることになりました。

         公師は波佐見、平戸、壱岐などを転々とした後に、客将として大村純忠から波佐見一万石を給されましたが、慶長(1592)年9月に同地で没しております(享年79歳)。公師縁りの各地が、九州でも特に河童の伝承の多い地域であるようです。事実、公師の子孫には、大村氏に仕官して大村姓を賜った大村渋江氏などの他に、波佐見水神社、長崎水神神社などの宮司を勤める家筋があるのです。※肥前諌早に兵揃村というのがあり、そこの天満宮の神職渋江久太夫がカッパの災をのぞく符をだしていたことが古書にみえている。

         また、潮見城で討ち死にした公重が肥後の菊池に残した一人息子公実(後に公成と改名)の息子公通が、寛永11(1634)年、菊池隈府横町に天地元水神社を開いた。菊池渋江家は肥後・筑後・豊後一円に水神(河童)信仰を広めたと言われております。

         兵主部よ(に) 約束せしを 忘るなよ 川立ち男 氏も菅原※九州では水難除けの歌(カッパよけのまじない)に、菅公の遺詠というこの歌をとなえるという。

         河童の伝承は流浪する橘姓渋江氏の足取りと重なり、かの水難除けの歌では菅原氏とも重なってくるのは何故でしょうか?

         多至波奈大女郎  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

         位奈部橘王。推古天皇の御子・尾治皇子の娘。「天寿国曼荼羅繍帳」の作製を推古天皇に願い出たこのヒメは「中の宮」と呼ばれていた。それはヒメの住処が太子の他の二人の妃の住む斑鳩宮と岡本宮の中間に位置していたことに因るという。「繍帳」を蔵する中宮寺はこの宮より発する。「橘」に注目すると、ヤマトタケルの妃、弟橘姫が思い出される。彼女は水の巫女であった。柳田国男の『海神少童』によれば、河童は「橘氏」の眷属である。刺繍というものも「機を織る」のと同様、水のヒメのものではないか。針と糸で、言葉をそこに留め置くのは、処女(をとめ)の仕事であった(高崎正秀『千人針考』参照)。

 

 

【相撲】                              もどる

         相撲 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より

    相撲は神事である。「一人相撲」の相手は神である。河童が人を見れば相撲を取りたがるというのは、この異形の者の人間具さを感じさせる。彼は「水中童子」の異名を持つ。水の神である。そのため相撲神事は農耕儀礼と説かれるが、果たしてそうか。相撲は芸能である。相撲取りもまた異形の者である。そして彼らは宮廷と深くかかわった。「村々で行ふ相撲の事を、草相撲と言ふのは、今では、民間の相撲の意味だと思はれて居る様だが、実は、相撲の古い形は、体に草をつけて行うたのである。これは、古代の信仰では、遠くからやつて来る異人の姿だったのである」(折口信夫『草相撲の話』)。

【滅んだ氏族と河童】   もどる

    豊前、古要神社八幡古表神社 の傀儡子、古要舞(細男舞)及び古要相撲(神相撲)宇佐八幡宮による隼人との戦いの犠牲者を慰める儀礼と思われますが、そこに河童の連想と重なる傀儡子(木製人形)及び舞が神人形としてあやつられているのが、大いに関係がありそうで、気になります。そして、宇佐八幡といえば秦氏族です。

    参考記事: 天武朝と隼人  竹の民俗誌 沖浦和光著 岩波新書(1991)より

     古来、相撲は鎮魂の儀礼であったことから、野見宿禰(土師氏の始祖:土木事業に長けていた)が相撲をとったのも、土木事業や戦闘の犠牲者追悼だったと思われます。

    菅原氏は土師氏の末裔、かの水難除けの歌を詠んだという菅原氏は滅んだ氏族として河童に関連つけられたのでしょうか?それとも、滅んだ者たちを追悼する側の役目を持った者たちを指しているのでしょうか?

    土木工事や戦闘をおこなうのは兵士の集団であり、それらを取りまとめるものがひょうずべ(兵主部、兵頭、、、)で河童の頭領という連想も浮びます。

    水天宮(尼御前社=二位の尼、平清盛の妻)にまつわる河童伝承には、壇ノ浦で滅んだ平家一門の連想が付加されている。

 

【河童を率いる人物と数字九十、九十九、九千】   もどる

     左大臣橘諸兄の孫兵部大輔島田丸が神護景雲のころ、春日の社を常陸の鹿島からいまの三笠山にうつすとき、匠工の奉行をつとめた.内匠頭何某が九九の人形をつくって、これに加持したところ、童の形となって神力をあらわし、たちまち工事を落成させてしまった。工事がおわって、この人形を川にすてたのがカッパとなって、人畜に害をあたえた。そこで島田丸がおもむいて災をしずめたので、そののちカッパを兵主部と名づけるにいたったというのである。いまもカッパの害を避けるために、大工の墨うちの糸を身につけるのは、その因縁によるもので、カッパは大工の弟子だという。

    九千坊と名乗るカッパの大将

九十瀬入道(こせにゅうどう)は、平清盛(たいらのきよもり)の生まれ変りであり、巨勢川(こせがわ=昔は巨瀬川を巨勢川と書いた)に棲むカッパ3000匹を束ねる頭領である

 

 

       古要神社http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=4&target=place より      もどる

       神紋解説ページへ!!
剣花菱

国指定重要文化財(民俗資料)
古要神社の傀儡子(六〇体)及び古要舞と古要相撲 

 今から一二五三年の昔、養老三年(七一九)八月元正天皇の時代、大隈日向の隼人族が大陸(新羅)からの援助を得て数万の軍兵となり大和朝廷に叛いた。この時朝廷は宇佐八幡宮へ勅使を遣わし御神託を仰いだので、豊前国司宇努男人は八幡宮の神輿を奉じて、賊軍の征討に赴きこれを平定し、養老七年(七二三)無事還幸された。しかしその後隼人族数千の怨魂のたたりか各地に悪疫蔓延のため、その霊を供養すべく天平十六年(七四四)八月十五日最初の放生会を仮宮(和間の浮殿)にて行ったが武家政権の発生によりこの行事は次第に廃退した。応永年間の八月にも古式により行われたが間もなく衰え、元和三年(一六一七)八月細川忠興公によって宇佐八幡宮の放生会としてようやく再興された。この放生会の際舞わせたり相撲をとらせたりする傀儡子(木製人形)及び舞が当社の神人形であり、民俗資料として国指定の重要文化財である境内の埋蔵庫に保存されておりこの神事は旧暦閏年の十月十二日に奉納される。

昭和四十七年記
中津市教育委員会
三保の文化財を守る会

古要神社の傀儡子

 舞は、獅子頭と小豆童子が東西に控え、御幣持・ハヤシカタの神々・磯良神・細男役の神などが次々と登場しては素朴な動作をして退場します。途中、磯良神が舞台正面に位置したとき、ハヤシを中断し”のりごと”が唱えられます。相撲は、東西12組の人形を取らせ、半ばから西方が負け続けますが、最後には小兵の住吉さまが東方をなぎ倒し、祇園さまにも勝って終了します。

 静かでおごそかな舞に続いて活発でユーモラスな相撲はすばらしく、吉冨町の八幡古表神社に伝わる”細男舞(傀儡子の舞)と神相撲”とともに、日本最古の人形操りといわれ、我国の人形芝居のルーツとして、国の文化財に指定されています。

傀儡子 60体 ・お舞人形26体・小豆童子2体

・相撲人形30体・獅子頭2面

 国指定重要有形民俗文化財 指定 昭和31年4月26日

傀儡子の舞及び相撲

 国指定重要無形民俗文化財 指定 昭和58年1月11日

 

      八幡古表神社http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=4&target=placeより      もどる

      神紋解説ページへ!!
花菱

国指定・重要文化財・無形民俗文化財 昭和五八年一月一一日指定

細男舞・神相撲

国指定・重要文化財・有形民俗文化財 昭和三一年四月二六日指定

 

傀儡子四七躰

当宮や宇佐神宮の縁起によると、養老三年(七一九)に大隈・日向の隼人反乱の時に戦場において伎楽を奏したのが最初である。
天平一六年(七四四)隼人族の霊を慰めるため宇佐の和間海上において放生会を執行、その時、美女・美童の木像によって古を表わす細男伎楽を奏し、神相撲を演じて、それを例とすることとなつた。この細男舞、神相撲を奏する神像のことを傀儡子と言い、舞二〇体・相撲二二体その他五体、計四七体が残つており、その大体が鎌倉時代の作と推定されている。
舞の神像は着衣であるが、相撲の方は裸体に褌姿である。
四年に一度、八月六日(潮時の都合によつて変更もある)の午前中に放生会の船上にて行われ、その夜、神舞殿でも約一時間半かけて演じられる。

中津市の古要神社同様、隼人の霊を慰める

宇佐神宮放生会に、傀儡子芝居が奉納された。

−境内説明板より−

 

当社の神相撲では、まず勝抜相撲で、西方大将の住吉大神が、連勝。

飛掛相撲で、東方五神と、西方住吉大神の対戦でも、住吉大神が勝ち。

最後の、東方総出の十一神と西方住吉大神の押合相撲でも、住吉大神が勝つ。

住吉大神の偉大さのみがクローズアップされるシナリオだ。

住吉大神の傀儡子は、他の神々よりも小さく、そして黒い。

ひょっとすると、住吉大神は、南方系、隼人の神だったのではないだろうか。

ちょっと、そんな気がした。

 

相撲人形による押合相撲

 

 

       肥前国杵島郡三法方郷(現;佐賀県武雄市)にある潮見山大明神        もどる

 

       御誓文の石

       肥前 橘町

       潮見神社河童伝説

       肥前諫早兵揃村天満宮 

 

 

 

       菊地市原の天地元水神社      もどる

参考*Link  河童関連のリンク     

 

http://www.kanagawa-u.ac.jp/05/ken_nihon/05/16/002.html

http://kirarisuigen.blog13.fc2.com/blog-date-20070512.html

 

http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/nakasima.htm

http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/nakasim3.htm

 

 

       久留米市 水天宮(尼子御前大明神) 全国水天宮総社  社司は代々真木氏。平知盛の子孫と伝える。幕末の尊王家 真木和泉は22代祠司。    もどる

 

http://kirarisuigen.blog13.fc2.com/blog-date-20070512.html

肥後平真城村o(現在の菊池郡大津町)伊勢の真木神社

 

 

      水天宮                         もどる

御社号

水天宮

御祭神

天御中主大神
安徳天皇(第81代)
建礼門院(高倉天皇の中宮 安徳天皇の母)
二位ノ尼(平清盛の妻 建礼門院の母)

御由来

文政元年(1818年) 江戸三田赤羽の有馬藩邸に時の殿様 有馬頼徳公が、領地久留米水天宮の御分社を神主に命じ建てられたのが由来です。

平家物語のクライマックスである壇ノ浦の戦い。
平清盛の血を引く当時8歳の安徳天皇は、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位ノ尼に抱かれ、母の建礼門院と入水しました。
追っ手を逃れた官女の按察使局(あぜちのつぼね)が辿りついたのは九州の筑後川。
局は二位ノ尼に頼まれたとおり、霊を慰めるため川のほとりに祠を建てました。

その後、有馬忠頼公により、久留米市に7000坪の敷地が寄進され社殿が造られました。

沙羅双樹の花の色 2 :http://www.g-k.gr.jp/~rei/Doodad/trip/memory/16%20sarasouju%202.htm より

          :http://4travel.jp/traveler/ayumiakane/album/10137189/


水天宮の入口


御社紋の椿



       河童の総元締 門司市の天疫神社:九州で河童にゆかりのある神社といえば久留米の水天宮だが,その水天宮で大祭をやるときはこの社に奉賽使を送ることが明治初年までつづいたという。

  http://moji-blog.seesaa.net/article/6523183.html                      もどる

 

       八女市山内 水天宮                                  

● 八女市祈祷院 水天宮                                  もどる

 

ここの水天宮さんの瓦紋は、紛れもない橘紋でした。

 

九州以外の神社

       穴師大兵主神社

奈良県桜井市穴師

穴師の丸に陰橘

相撲神社あり

 

 

       兵主神社(豊岡市赤石)

扁額に「兵主神社住吉大明神」とあるので

住吉三神も配祀されているのだろう。

覆屋内の祠に花菱紋が付けられていた。

住吉大社と同じ紋なので、相殿の住吉大明神の紋かもしれない。

 

【河童ゆかりの神社紋】     もどる

神紋解説ページへ!!神紋解説ページへ!!

  橘氏ゆかりの神社         水天宮         古要神社        八幡古表神社

    橘紋            椿(?)橘 紋      剣花菱紋         花菱紋

   潮見神社

   天地元水神社

 

 

 

(山びとの考察)

九州の山と伝説に戻る

古代氏族と山の民

神々の系譜

母たちの系図へ

九州の人々へ  九州の古寺一覧へ
九州に残る英雄伝説  
宗教者(聖人)伝  九州の白鳥(神社)地名

山への旅シリーズに戻る

重層する文化、連続する意識へ

(表紙に戻る)