九州の人々へもどる 郷めぐりへ戻る 山への旅にもどる ♪菊池氏のテーマ
・ 中関白藤原道隆四代の後胤 大夫将監則隆 延久年間深川の館に入る【菊池武朝申状】
・ 初代 則隆(大夫将監) 延久二年(1070)菊池へ下向する【菊池風土記】
・ 二代 経隆(若宮、菊池三郎肥後守) 寛仁年中※異賊襲来の時、紫糸鎧に色別の笠を着用し、白葦毛の馬に乗り、博多に打って出て松原を固める。防戦の時、賊の大将を恐れず鋭く矢を賊将の足の裏に射げ討ち取る。そのため九州の兵頭の宣旨を下され、錦の旗を賜る。死後は出田村に若宮と尊祟し祭る。
※ 寛仁三年(1019)の刀伊の入寇 ではなく、 承徳元年(1097年)異賊船100隻が松浦・筑前に来襲のことか?
・ 三代 経頼(兵藤次郎)
・ 四代 経宗(鳥羽院武者所)
・ 五代 経道(鳥羽院武者所)
・ 六代 隆直(菊池九郎肥後守) 寿永、元暦の頃(1182-85)安徳天皇に仕え奉る。この頃鷹羽紋はじまる(これ以前は日足紋)。阿蘇に参詣の時、鷹羽が土器の上に降りたことによって紋にしたという。阿蘇十二宮大明神の歌がある。あさくとも ふかくたのめや菊池川 阿蘇のけふりの たえぬかぎりは
・ 七代 隆定(孫次郎)後鳥羽院の承久合戦の頃、天下武者所に仕え奉る。
・ 八代 能隆(弥次郎)大友豊前守司義直の娘を娶る。承久の合戦(1221)で高名
・ 九代 隆泰(従五位下式部大輔)健治二年(1276)52歳死去
・ 10代 武房(次郎尾)文永2年(1265)蒙古襲来のとき、弟有隆らと共に大功あり、叡聞に達する。次に弘安四年(1276)再び蒙古襲来に際し軍功あり、叡聞に達する。永仁六年(1298)54歳卒
・ 11代 時隆(太郎八郎字) 嘉元二年(1304)17歳、叔父武経と家督を争い利を得たが叔父と刺し違えて死する。
・ 12代 武時(名正竜丸、次郎、法名寂阿) 元弘三年(1333)三月十三日、勅を奉じ博多の平英時が陣に討ち入り頼隆と共に討ち死にする。
・ 13代 武重(次郎、肥後守左京太夫) 建武二年(1335)尊氏反逆のとき上洛し、初め箱根山の合戦に従う。興国三年(1342)八月三日死去、輪足山に葬る。号歓喜院居士
・ 14代 武士(次郎) 21歳で出家し、法名は祖禅寂照。遁世のとき諸国を廻り帰って寺小野の桜を見て詠ずる。 袖ふれし花も昔も忘れずば我すみ染をあわれとはみよ
・ 15代 武光(肥後守、豊田十郎) 勅を奉じ、一品式部卿親王に従い九州統一し、静謐なること24年、九州都督将軍という。武重の同母兄弟は三人である。武時の四男墓は正観寺にあり、応永六年(1373)十一月十六日死去、法名正観寺殿九州都督武光聖厳大居士
・ 16代 武政(肥後守志行大広)33歳早世する。永和四年(1378)八月、阿蘇北宮よりいまの菊池北宮を勧錆する。法名真伝居士、この代守山城を正平22年(1367)に築くという。
・ 17代 武朝(次郎、肥後守中務小輔、右京太夫、左京太夫) 12歳家督、16歳のとき託磨原合戦、明徳四年(1393)に天下統一し、または肥後守右京大夫、応永十年(1409)に早世、45歳、法名元徹また常朝
・ 18代 兼朝(左京大夫、法名元朝)持朝と不和のため佐敷山中に隠棲し、62歳で死去。
・ 19代 持朝(左兵衛肥後守) 文安三年(1446)七月二十八日38歳に早世する。一説には永享五年(1433)十一月十日死去、墓はあり、片角村光善寺の位牌に肥築太守とある。
・ 20代 為邦(次郎、肥後守) 文正元年(1466)37歳に出家 長享二年(1488)十月二十三日死去、法名尖活仍勢居士、59歳 墓は玉祥寺にあり、隠居の後は板井碧岸寺に居する。
・ 21代 重朝(幼名藤菊丸) 明徳二年(1493)十月二十九日死去45歳、法名智顕梅屋正英。文明十三年(1481)8月1日万句の連歌を興行し、月松の題にて発句する。月やしる十がえりの松の千々の秋 これより月松の屋形と称する。孔子堂を建立する。墓は玉祥寺にある。
・ 22代 能運(肥後守従五位下)永正元年(1504)二月十五日死去25歳、法名儀天明綱居士、墓は正観寺内桐木実相院にあり実相院と号する。
・ 23代 政隆 重安の子を継ぎ立てする。永正六年(1509)八月十七日合志郡安国寺にて自害19歳。法名天仙源居士
※ 武経 始は惟長二位である。阿蘇大宮司惟乗の嫡子 国侍84名の連判誓書をもって申請し、菊池の養君とし、武経となる。之によって、政隆自害する。武経は後に阿蘇、大友に属せず逆意あり、終いに没落したという。隈部親氏、永野運貞、内空閑重載ら相計り、武経を廃して武包を24代とする。
・ 24代 武包(肥後守、22代能運の弟、詫磨武安の子) 諸士一致せざるにより、高来(肥前)に行き、彼の地にて死去、法名宗岳居士
・ 25代 義武(左兵衛督従四位、始は重治、大友修理大夫義長の子、義鑑の弟、宗麟の叔父である) 天文二十三年(1554)十一月豊後において切腹する。法名金圭宗閑居士、この代に断絶する。嫡子は犬房丸という。
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右中弁 |
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師家 |
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右大将 |
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太宰帥 |
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太宰帥 |
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参議正三位 |
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藤原道隆 |
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隆家 |
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経輔 |
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長房 |
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中納言 |
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肥前守 |
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四郎大夫 |
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文時 |
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文定 |
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対馬守 |
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大夫将監 |
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小島次郎 |
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保隆 |
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若宮 |
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経隆2 |
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『源氏物語』と菊池のつわもの よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より Topへもどる
平将門と藤原純友の乱のような大規模な兵乱が起きるようになったのは、地方に私的な武装勢力が発生していたからです。私営田地の増加で、その土地の治安維持や、土地の境界争い、水争いなどのいろいろな紛争を自分に有利に処理するために武力が要請されるようになり、「つわもの」と呼ばれる人たちが出てきました。強い人という意味で、漢字では、「兵」と書き、「つわもの」と読まれたようですが、やがて、武者とか武士と呼ばれるようになります。将門も純友も優れた「つわもの」でした。将門のことを『今昔物語』(平安末成立)では「東国二平将門卜云フ兵(つわもの)アリケリ」と紹介し、「弓箭(きゆうせん=弓矢)ヲ以テ身ノ荘(かざり)トシテ、多クノ猛キ兵ヲ集メテ伴トシテ、合戦ヲ以テ業トス」としています。強いだけでなく、ふたりは、高位高官ではありませんが、官職を得て地方の国府の役人としてきた人が私有地として取得した土地に残した子孫であり、地方にあっては身分を認められている人で、強さと身分で人々の信望を待ていたのでした。各地で、こうした人を頭領として、つわもの達が集団となつて成長していきました。当時は、都の方では、彼らを「徒党」と呼んでいます。これらの徒党は政府にとっては、味方になれば頼りがいのある戦力でしたが、いつ敵になるかわからないという存在でした。政府に協力すれば官軍、反乱を起こせば凶徒と呼ばれました。
「合戦を業とした」とありますが、この業≠ヘ「わざ」と読んで、職能、技芸のことで、つわものとは、武芸という技芸、技術を身につけた人だということになります。この時代に発生した新種の職人、芸人の一種というわけです。
肥後のつわものが紫式部の「源氏物語」の「玉蔓(たまかずら)の巻」に登場しています。話の中では、大宰府の少弐(しょうに)に任官して京から赴任してきた貴族の娘が美人であったので、肥後の大夫監(たいふのげん)と呼ばれているつわものが言い寄ったけれども断られ、しかし、執拗、強引に求婚するので、堪らず娘は京へ逃げ帰った、というものです。ここに描かれているつわものは、あまりかっこよくはないのですが、紫式部は「大夫監とて、肥後國に族広くて」、「勢いかめしき兵ありけり」とかいています。肥後の大夫監というのは、肥後出身の大宰府の大監という官職にある人と解釈され、さらに肥後國に一族が広く分布して、とあるので、菊池氏のひとがモデルであろうと考えられています。
刀伊の入寇 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より Topへもどる
菊池則隆が京の公家の日記に初めて名が出ているのは、大宰権少監としてとされていますが、一〇一三年には大宰大監として出ています。府官としては昇進しているわけです。年代から推察すると、紫式部が『源氏物語』でモデルとしたのは、この人でしょう。一〇一四年の冬、当時、中納言で兵部卿であった隆家は大宰権帥として赴任します。隆家は自分から希望したのだといいます。なぜ京を離れて大宰府へ行ったのか、確かな史料はないのですが、ひとつには、父親の道隆の死後、朝廷で勢力を伸ばしてきた藤原道長との権力争いを好まなかったのかということが考えられます。隆家の先任の大宰帥平惟伸は、かなり酷い政治をしたようで、一〇〇四年には宇佐八幡宮の人たちが上京して非道を訴えています。私財を富ますことに専念し、横暴な振る舞いがあったのでしょう。
隆家が赴任した五年後の一〇一九年(寛仁三)四月、刀伊(とい)という異民族が西海道北岸に侵入するという事件が起きました。政則は原田春材その他の府官たちとともに隆家の指揮下で奮戦し、撃退しました。五〇隻の船団で来襲したという侵入軍の兵数こそ違っていましたが、後年の元尭にも比すべき激烈な戦いであったようです。
前肥後国司の藤原定任殺害事件 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より Topへもどる
京に屋敷を構えたという政則が、武家の将来をどう見通し、どのような目的意識をもっていたかは、わかりませんが、菊池氏が京住まいどころか、やがては、大宰府の府官としての地位も失ってしまう原因となつたと思われる事件が起きました。一〇四〇年(長暦四年)、前肥後国司の藤原定任が、京で三人の男に射殺されるという事件が起きました。
その犯人が菊池政隆であるという疑いがかかり、政隆は追われる身になったのでした。藤原定任は後任の国司との間に、いさかいを起こしていたようです。事情は不明ですが、この頃の国司は在任中に自分の蓄財のため、かなり勝手なことをしていましたので、業務の引き継ぎが円滑に行なわれなかった例が多くあったのです。また、任国の人々との紛争もあり、既に述べたように、国によっては、人民が国司の専横や不法行為を政府に訴えたという例もあります。
定任という人も国司としては立派な人ではなくて、菊池氏の権益を侵すようなことをしたのでしょう。非が、どちらにあったか確かなことは不明ですが、政府の官吏を殺害したとされたのでしたから、犯罪者として追求されることになつたのは仕方ないことでした。政隆は、政則の子の則隆の子です。則隆も大宰少監でした。当時の大宰権帥は隆家です。京の人たちは、権勢を持つ隆家の郎党だから官も遠慮しているのであろうと推測しています。
摂関政治と院政 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より Topへもどる
藤原氏による摂政関白政治が継続して行なわれた時期の政治形態を摂関政治というのですが、平安時代後期の一〇八六年、白河上皇(じょうこう=譲位後の天皇の称号で太上天皇の略語、院、仙洞とも言う)が、摂関への権力、権益の集中を抑制するために、摂関の制約を受けない院で政治を始められました。院は本来は隠居所なのですが、院庁(いんのちょう)という役所があって、院司(いんし)という役職がいて、政庁として機能しました。この政治形態を院政と言います。もっとも政治とは言っても、摂関家に集中して寄進される荘園の増加を抑制して、公領の保持を図るというようなことが主でした。ついでながら、荘園増大を抑制しようとした院にかえって多くの荘園が寄進されるという結果になり、公領の減少を防ぐことはできませんでした。
保元・平治の乱 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より
武士たちの戦場における武者振り(むしゃぶり)を措く戦記や軍記は、古くから、いろいろと善かれていますが、肥後に有縁の武士の戦いぶりが初めて描かれているのは『保元物語」 の「官軍方々手分ケノ事並ビ二親治等生ケ捕ラルル事」という項に登場している宇野親治でしょう。
「保元物語」というのは、保元元年(一一五六)七月、京都でおきた戦乱を記録したものですが、皇室では崇徳(すとく)上皇と後白河天皇が、後継の天皇について意見が違い、不仲であったのでしたが、摂関家でも、関白藤原忠通と弟の左大臣頼長が不仲で、天皇が忠通を重く用いられたので、上皇は天皇に不満を持つ頼長と組んで、源為義、平忠正らの武士たちを集めて、武力で事を解決しようとされたのが戦乱のはじまりでした。この戦いは上皇方の敗北となりました。負けた側に味方して、捕らえられた親治は、肥後の山鹿に流されたという説が肥後のほうでは伝承されています。この伝承について、工藤敬一氏は「山鹿市史」の中で、いろいろな史料に基づく研究の結果、保元三年には、親治は宇野庄に住んでいるので、山鹿に定住してしまった可能性は薄い。あるいは、いったんは山鹿に流されてきたとしても、すぐに許されて帰国したのではないだろうか。やがて、清和源氏の宇野姓を称して肥後の有力な武家として活躍する隈部一族は、親治について来た一族庶子の誰か、あるいは縁者か従者、落胤などが宇野姓を称して、隈部氏となった可能性はないでもない、と述べられています。
隈部氏は戦国時代末期には、肥後で最強の武士団となっていて肥後の歴史で重要な氏族ですので、その祖先について述べてみました。隈部氏のルーツに関心をお持ちの方は『山鹿市史」に詳細な記述がなされていますので、お読みになるとよいでしょう。
肥後に縁のある人ということで、宇野親治について述べましたが、有縁ということでは、この保元の乱で活躍し、親治と同じく院に味方して、やはり島流しにされた源為朝のことも付記しておきます。為朝は、当時の源氏の棟梁であった為義の子のひとりでしたが、大変な乱暴者であって京の人々の顰蹙を買い、そのせいで、父親の為義は為朝を九国(九州という呼称は鎌倉時代に入ってのものです)に追放しました。仁平四年(一一五四)から久寿二年(一一五五)にかけての一年間、為朝は九州の各地の武士たちと争いを起こしています。
為朝は各地に伝承を残していますが、肥後では、益城の木原山に住んでいて、弓の稽古に、飛ぶ鳥を射落としたので、木原山の上空は鳥たちが飛ばなくなつてしまったので、木原山のことを雁回山というようになつたという話が最も流布していますが、ある日、阿蘇宮に参拝した折に、猿が阿蘇大宮司家の宝物を取って逃げ出し、高い塔の屋根に登ったので、皆が手出しができないで騒いでいるところに行き合い、連れていた鶴に命じて取り返させたので、喜んだ大宮司が、娘婿にしたという詰も有名です。戦前においては、鎮西八郎為朝は少年向けの読み物や絵本のヒーローのひとりであり、その武勇渾が語り継がれていたのでしたが、戦後はそういう事がなくなりましたので、為朝伝承も、やがて民間伝承としては消滅するのでしょうか。
為朝は多く九州の武士たちを服属させたと言われていますが、菊池の方では、菊池氏が手厳しく反抗して追い払ったということになつているようです。菊池市にある七坪産神社は為朝の妻と六人の子供を祭ってあるという伝承があります。阿蘇宮でのエピソード自体はお話でしょうが、阿蘇氏系図には、阿蘇大宮司忠国の娘が為朝の妻としてあります。
為朝の乱行が京に訴えられ、為義は呼び返そうとしましたが、為朝は帰京を拒否し、そのため、為義は久寿元年に、官職を解任されています。翌年、為朝は京に帰って、やがて父為義とともに保元の乱に参戦し、華々しく奮戟しましたが、敗れた後は、大島に島流しにされ、配流先で死去しました。
もともと西国は平家の勢力基盤でした。実は、保元の乱の一九年前の保延三年(一一三五)には平清盛が肥後守(肥後知行国主)になっていました。為朝は、そうした平家の勢力削減を狙っていたのかもしれません。そうであったとすれば、やがて、源頼朝が起こした平家との戦いの折には肥後が反平家勢力の拠点のひとつとなりましたから、為朝の努力は報いられたと言っていいでしょう。
この保元の乱と、引き続いて四年後の平治元年(一一五九)に起きた平治の乱は、歴史的に重要な意義のある戦乱でした。平治の乱は、保元の乱後、平清盛が後白河上皇の近臣の藤原通憲(信西)と結んで権勢を強めたのに、源義朝が不満を持ち、藤原信頼と組んで起こしたクーデターで、後白河上皇を幽閉し、通憲を殺すことには成功したものの、清盛との戦いに敗れたという出来事でした。この結果、源氏の勢力は中央においての政治勢力としては消滅し、平家の全盛時代がやって来ました。
仁安二年(一一六七)には清盛は太政大臣となり、それまで、貴族に独占されていた国政の実権を武士である清盛が掌握したのでした。なお、この年、清盛は大功田(だいこうでん=功績のあった人に、その人の子孫まで永代与えられる土地)として八代の地を得ています。また、清盛の娘の徳子(とくこ)が高倉天皇の中宮(ちゆうぐう=天皇の正妃で皇后と同資格、同待遇)となり、安徳天皇の生母となりました。古代王朝貴族の系譜を引く藤原氏が天皇の外戚として権勢を振るったのと同じやり方で清盛も安徳天皇(即位時一歳三カ月)の外祖父となることによって国家権力を掌握したのでした。
平家の力が強く肥後に及んだことを反映する伝承として、荒尾市樺の賀庭寺(かていじ)は保元年間に平重盛の祈願所として創建され、また、富合町木原の六殿宮は治承一年(一一七八)、平重盛の勅願によって、所領の守護神として創建したと言います。矢部町菅の小松神社は、小松大納言と呼ばれていた重盛を祭った神社です。付近を内大臣峡と呼ぶのも、重盛が内大臣であったからです。阿蘇の千光寺の千手観音像も重盛の寄進と伝えられていますし、鹿本町の御宇田には重盛の供養塔と伝えられている石塔があるなど、いずれも重盛なのが気になりますが、平家一門の中では一番人気の高い人であったので、平家にかかわりのある事跡は重盛に帰せられているのでしょう。
平家政権と肥後の武士たち よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より Topへもどる
鎌倉時代に書かれた『源平盛衰記』という書物は、平家政権下の地方武士たちの状態を、「国には目代(もくだい)に随(したが)ひ、庄には預所(あずかりどころ)に仕へて、公事雑役に駈り立てられ、夜も昼も安き事なし」と描写しています。目代(もくだい)というのは、国司の代官で、預所は中央の皇族、貴族、寺社など荘園の所有主のところに置かれた荘園の吏務を管掌する事務所です。要するに、荘園に住む武士たちが、平家一門が多く就任した国司の代官に酷使されたり、荘務に追われて、休む暇もない、と書かれているのですが、それらの業務は、平家一門の国司や荘園主の個人的利益に奉仕するものでした。
菊地隆直と源平合戦 よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司著、熊本出版文化会館、1997年より
「埋もれ木の花咲くことのなかりしに実の成る果てのなきぞ悲しき」、治承四年(一一人〇)四月の安徳天皇即位の翌五月、以仁王(もちひとおう=二五1二八〇)の令旨(りょうじ=親王、女院、諸王の出す文書)を受けて、王とともに平家打倒の兵を挙げた源頼政(二〇五〜一一八〇)が、戦い敗れて宇治の平等院の扇の芝で自刃して果てた時に詠んだ辞世と伝えられている和歌です。
以仁王は後白河天皇の王子でしたが、生母が藤原氏で、平家の縁者ではなかったこともあり、兄は二条天皇、弟は高倉天皇となられているのに、親王の宣下(せんげ)も受けられなかった人でした。こうしたことが平家に反抗された下地にはあったのでしょう。頼政は時に七六歳の老武者でした。頼政はさきに触れた隈部親治とおなじく源頼光を祖とする人ですが、頼政は渡辺党の棟梁でした。頼政は平治の乱では義朝の挙兵にくみせず、平家一門が殿上人として栄達するのに伍して、従三位の位階を持つ殿上人となつていた人で、弓の上手であり、『新古今和歌集』、『千載和歌集』に作歌が選ばれているほどの優れた歌人でもありました。宮廷での栄進は、歌人としての才が喜ばれてのものであったかと思われます。しかし、平家全盛、源氏凋落の時期であり、源氏のひとりとして、「埋もれ木」とわが身を嘆じていたのでしょう。「埋もれ木」と亭えば、生母が皇妃でなかったので親王としても認められなかった以仁王も、そうでした。頼政が王の誘いに応じたのは、王の心情への同情もあったのでしょうか。
頼政は奈良興福寺の僧兵と合体しょうとして奈良へ向かう途中、宇治で平家軍の追撃を受け、頼政は以仁王を脱出させるため、とどまって戦い、平等院で自刃、以仁王は南山城まで逃れましたが、平家軍の追撃を振りきれず、加幡川原で戦死されました。
挙兵は失敗に終わったのでしたが、頼政が従三位という源氏武家としては異例の昇進をしたについては、頼政の才を認めていた清盛の推挙があったとされていて、頼政は平家政権の一員と世間にみられていた人でしたので、頼政の挙兵は平家政権内部からの反乱ということで、平家の力の衰えを世間の人々に印象づけたという点で重要な意義を持つ出来事でした。
以仁王の令旨は源行家らによって、頼朝や義仲などに伝達され、源氏旗揚げのきっかけとなったのでした。頼朝が配流されていた伊豆で挙兵したのは、頼政挙兵の三カ月後の八月でしたが、この夏、九州でも、かなりな規模の反平家の動きが起きました
菊池隆直の戦い 菊池一族の興亡、熊本出版文化会館 荒木英司著1988より Topへもどる
治承四年八月(一一八〇)、かって平治の乱で源氏が敗れた際に、伊豆に流されていた源頼朝が、平家打倒の戦いを開始した。諸国でも豪族たちの中に平家の支配から離脱しょうとする動きを示す豪族武士団が現われた。木曽義仲や源義経らの活躍で、四年半後の文治元年三月には、壇の浦の戦いで平家方が負けて、源頼朝が政治の実権を握り、やがて鎌倉に幕府を開いて、鎌倉時代となっていくのであるが、頼朝挙兵の翌月の九月、菊池隆直の兵を主力とする肥後の武士たちが平家の支配に反抗して武装蜂起した。
菊池一族が日本の歴史上の大きな出来事に重大なかかわりを持った最初であった。 このとき、菊池隆直とともに蜂起した肥後の武士として、木原、阿蘇、合志氏などが知られているが、木原氏は四十年ほど前の天養年間には肥後の国府の役人を襲い、多くの財物を奪ったことが知られていて、精強な武士であったようだ。目的が平家の圧政をはねかえすことであれは、目標は、平家の九州支配の拠点である大宰府の攻略であったろうが、始めの頃、隆直たちがどのような作戦行動を展開したかは明かでない。おそらく肥後領内の平家の関係者を襲い、平家領の収穫物や財物を強奪することから始めたのであったろう。
中央での源氏との戦いに忙しい思いをしていた平家の人々は九州の反乱を始めはあまり重要視しなかったが、翌年になると、豊後でも、有力な武士として古くから都の人々にも知られていた緒方惟栄が挙兵し、反乱軍が九州支配の本拠である大宰府に攻め寄せる形勢にあるというような戦況が伝えられるにつれて、容易ならぬ事態であることを悟った平家は隆直を国司にして、なだめようとしたと云われるが、隆直は妥協しょうとはしなかったらしく、平家は筑前守を経験していて九州に地縁を持つ平貞能を隆直討伐軍の司令官として派遣した。
貞能は、平家方についた筑前の原田種直の協力で隆直を菊池の本拠に追い込み、包囲作戦の後、貞能着任後約八ケ月の義和二年(1182)四月にようやく隆直を降伏させた。降伏した後、隆直は一族郎等を率いて、京都へ帰任する貞能とともに上京し、以降、檀の浦の戦いまでを平家側について戦う。源氏に追われた平家が九州を根拠地にして体制を立て直そうと、九州入りしたとき、平家の大宰府入りを阻止しようと攻め寄せてきた緒方惟栄の軍と戦ったのは隆直であったという。戦後、隆直は源氏方の手で京都で斬られたが、平家物語には、源義経が兄の頼朝に追われたとき、緒方惟栄を頼って九州へ渡ろうとしたところ、惟栄は、頼みを承諾する条件として隆直を斬殺するよう要請したので、義経が殺させたと書かれている。
平家打倒を果たした頼朝が鎌倉に幕府を開いて日本の統治を開始し、新しく源氏の時代になったのだが、菊池一族は源氏に対する反抗者として肩身の狭い思いをすることになり、不運であった。しかし九州の有力な武士としての実力は失うことなく維持し続けていく。一族の武力が再び世に認められたのは、百年ほど後の蒙古襲来の際であった。
なお、緒方惟栄は平家の権力を頼みに圧政を続けていた宇佐八幡宮大宮司と戦い、八幡宮を焼くなどの戦果を挙げ、また、平家の九州人りを妨害して軍功は大きかったのだが、戦後は頼朝に派遣されて豊後を領するようになった中原氏(後の大友氏)の支配下で勢力を失っていく。なお、惟栄についてほ、歌曲「荒城の月」で有名な大分県竹田市の岡城は頼朝に追われた義経を迎えるために惟栄が築城したのがこの城の起源という伝承がある。また、鹿本郡菊鹿町の相良寺は、国指定天然記念物のアイラトビカズラで有名であるが、トビカズラの名称は惟栄がこの寺を焼討ちしたとき、本尊の観音様がこの木に飛び移って火を逃れられたことからつけられた、という伝承がある。焼討ちほ、惟栄が平家の大宰府入りを阻止しょうと北上する途中で行ったのであったろうか。雄将緒方三郎惟栄も肥後では悪者扱いされているのほ仕方ないことであろう。この寺に就いては、不動明壬像が菊池武光の守り本尊であったと伝えられていることを付記しておきたい。
承久の乱−菊池一族、朝廷の幕府打倒計画に参加 菊池一族の興亡、熊本出版文化会館 荒木英司著1988より Topへもどる
源氏の世となって、当然のことながら、肥後からほ次第に平家の息のかかっていた人々が追われ、代って、源氏ゆかりの氏族が、肥後に所領を得て移住してくるようになった。 球磨・人吉には相良氏がやってきた。伝承では、阿蘇の北里氏も寿永の頃に移住してきた氏族であると云われ、史実かどうかほわからないが、住みついた当初は菊池の兵の攻撃を受けたという。いずれにしろ、地元に以前から住んでいた人々にとっては迷惑であったことは間違いなく。相良氏も始めのうちは、土地の武士たちとの戦いに明け暮れたようである。
承久三年(1221)、鎌倉幕府の北条一族を中心とする武家の政治に反感を抱きつづけていた京都の朝廷が反幕府勢力の武士たちを掠りにして、幕府打倒の兵を挙げようとした。朝廷がこの時期に幕府打倒に踏みきったのほ、頼朝の死以降においてほ、鎌倉の有力者たちの間で勢力争いが絶えず、その争いの中で勢力を増し執権という将軍につぐ地位を占めて幕府の実権を握った北条氏の支配体制が整わないうちに幕府を倒してしまおうと意図されたものであった。この計画は大事に至らない前に幕府が察知し、当時の執権北条義時ほ子の泰時らに二〇万の大軍を率いさせて京都に攻め寄せた。
この大軍の前に寡勢の朝廷側の抵抗は弱く、後鳥羽上皇始め皇族を含む関係者達が島流しなどの処分をうけた。この乱に際して、当時の菊池家督の菊池能隆の親族たちが後鳥羽上皇側に属して戦った。戦後の幕府の処分は厳しいもので、菊池氏も所領を数か所没収された。武家政権の圧政を跳ね返えす好機として朝廷側に立った菊池氏であったが、結果は裏目に出たのであった。この承久の乱に就いては、「武朝申し状」には、能隆は京都大番役を勤めていたので、叔父二人を上京させていた。この二人が戦った、と書かれている。
大番役というのほ、鎌倉幕府が御家人に勤めさせていた任務で、交替で京都の御所や幕府の警備にあたった。御家人というのは鎌倉の将軍と主従関係を結んだ武士のことであり、菊池家督が、何時の頃からどのような機縁で御家人となったかは、はっきりしていないが、幕府が倒れた時期の家督武時まで、歴代、御家人であったようだ。
但し、系図には、第四代の経宗と第五代経直は、鳥羽院の武者所に勤任していたと書かれている。宮廷や院では、独自に警護のための武者を常備していた。鎌倉御家人としての役目として鳥羽院の警備にあたっていたのではなく、鳥羽院の要請で院の武士として勤めていたということになる。承久の乱に際会した能隆も武者所の勤めのため親族を上京させていたのだという言葉をどう解釈するかの問題なのだが、能隆の孫の武房、その子の武時は鎌倉御家人であったと思われる事蹟を残している。確言はできないが、能隆の場合も鎌倉御家人であったとしていいのではないであろうか。
承久の乱以降、第十代家督の武房のときに蒙古襲来という事件が起きるまでの約五十年間の菊池氏の動静は、はっきりしない。
蒙古襲来 菊池一族の興亡、熊本出版文化会館 荒木英司著1988より Topへもどる
文永・弘安の役と呼ばれている鎌倉時代の文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の元軍の襲来は日本を国家として服属させることを目的とした本格的な侵略であった。元はこの時より七〇年ほど前にジンギスカンが建国した蒙古帝国の後身で、この時期の元首はジンギスカンの孫フビライであった。元と国号を称したのはフビライで、ヨーロッパ・アジアにまたがる大帝国に成長していた。元の日本への服属要求の使者が何度も渡来してきた。朝廷・鎌倉幕府は一貫して元の要求を拒否する方針をとった。
幕府は元の武力進攻の公算が大きいと判断し、九州の武士たちに準備を進めさせた。九州に所領を持つ鎌倉御家人は九州に来て戦いに備えた。肥後の野原庄(荒尾)に小代氏が移住してきたのはこの時期であった。この時期の菊他家の家督は第十代の菊池武房で、武房も幕府の指示で博多に出陣する。なお、日本軍の総指揮は大宰少弐で、肥前守護であった武藤一族がとり、武房は形式的には肥後守護の少弐資能配下の肥後守護代安達盛宗の指示で出陣したものであったろう。
文永の役
元の大遠征軍が来改したのほ文永十一年十月五日、対馬に上陸したのが戦闘の始まりで、十四日にほ壱岐に上陸、数日後には平戸、鷹島を襲い、十九日には博多湾に現れ今津に上陸し、博多へ進撃を開始した。この部隊は翌二十日、主力の揚陸を援護するため赤坂の占拠を意図して進攻して来た。この赤坂の高地は戦術上重要な地点であったので元軍が占拠しょうとしたのであったが、この重要地帯の守備についていたのは武房らであった。
武房はいっしょにいた五百騎ほどの日本軍の先頭に立って、元軍の中に突入した。この日の日没までの奮戦の末、元軍の進撃を阻止することに成功した。その夜は元軍は船に引き上げたが、結局、再度の上陸作戦は諦めてその夜のうちに撤退してしまい、文永の役と呼ばれている戦いは終った。
元軍の進撃をまず阻んだのは武房らであり、菊池一族を中心とする肥後武士団の名声は改めて高まったのであった。赤坂のような重要地点の守備を引き覆りていたことがすでに菊池一族に対して当時の他の武士たちが高い評価を与えていたことを示すものと言えよう。
弘安の役
元は日本征服を諦めなかった。服属を求める使者たちが派遣されてきた。幕府の態度は変らなかった。元軍が再び遠征してくることは間違いないと考えられた。幕府は上陸予想地帯に防塁を築いて元軍を水際で叩いて上陸を阻止することを考え、九州の有力者に分担させて海岸に石塁を築かせた。武房ら肥後の武士たちが担当したのは生の松原一帯であった。この防塁は大きな効果を上げることになった。
弘安四年(1281)五月二十一日、まず対馬に襲いかかった元軍は、ついで博多湾岸に上陸しようとしたが、防塁に布陣した日本軍に迎撃されて上陸できなかった。元軍はその夜は志賀の島に停泊した。日本の武士たちのなかには小舟で元船に夜襲をかける者もあった。翌朝、元軍はおりからの暴風雨に悩まされながら撤退していった。この役での武房の戦闘参加の様子は伝えられていない。おそらくは生の松原一帯の防衛を担当して元軍の上陸を阻止して戦ったことと思われる。
《つづき》
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菊池市深川



日の丸の扇を持つ武士は菊池武房 馬上の武士は竹崎季長