近くの風景(地図;豊後・筑後・肥後の境)
津江とその周辺の山々
(津江とその周辺の市町村)
釈迦ヵ岳1231m、御前岳1211m、渡神岳1150m
渡神岳1997/11/24、釈迦岳に登りました。そこから見た渡神岳です。
伝承木花咲耶姫を祀る津江権現(御前岳) 伝承渡神岳(別名、水晶岳) 伝承南朝哀史
酒呑童子山1180m
小鈴峠のお地蔵様、阿蘇五岳(寝観音像)1997/11/9、酒呑童子山登山途中に撮影しました。
伝承酒呑童子寺
穴川峠、兵戸(藤)峠
兵戸峠(上津江村/菊池市)
伝承鳳儀山聖護寺2001/5/26New
八方ヵ岳1052m
アイラトビカズラ1998/5/4
八方ヵ岳、山頂から見た竜門ダム(鞍岳方面)、
酒呑童子山方面 1999/2/14、20数年ぶりに山頂まで登りました。
伝承相良観音と伝承あいらとびかずら2002/1/5New
鞍岳1119m
鞍岳1997/11/23
鞍岳山頂からみた八方ヶ岳、酒呑童子山、雪の鞍岳1999/1/17
津江とその周辺の市町村
菊池市;風の便り−菊池市から−
八女市;八女市公式ホームページ*Link New!
日田市;ヴァーチャル日田市
酒呑童子寺(中津江村誌平成元年より) もどる 豊後の山へもどる
兵戸山の東中腹に酒呑童子寺跡と称する所がある。この寺の住持に寒厳和尚という名僧が住んでいた。秦の益帝の頃咸陽宮に一宮女が夜おそくまで裁縫をしていたら、一匹の珍しい蛾が飛んできて灯の油にとまった。官女は戯れに縫針を蛾の口に充てると不思議にもおいしそうに食べてしまった。宮女は怪しんで他の針をもって行くとそれも食べてしまった。それから一本一本とあるだけ針を食べてしまった。その蛾は飛んで咸陽宮の屋根に止まり、銅板でふいた屋根を這い始めた。すると蛾のふれるところは皆溶けて燃えはじめ、多くの人々が集って消火につとめたが、大廈高楼のことで力及ばず、ただただ見守るぱかりであった。この時、一人の使者がこの酒呑童子にきて、寒厳和尚に消火に尽力してほしいと嘆願した。和尚は快く承諾して、兵戸山より麓に下り川原川の上流の谷水を盛んに咸陽宮の方に手でかけた。近所の人たちが怪しんで、「何事をなさるのか」と問うたら、和尚は「咸陽宮が焼けているので水をかけているのだ」と答えた。人々は馬鹿馬鹿しいと思ったが、高僧がやることだからと一緒に水をかけはじめた。しばらくして和尚は咸陽宮の方を眺めて「大方鎮火したり」と言い、加勢の者に礼を述べ寺に帰った。その後しばらくたってから秦の朝廷から高位高官の人が来て威陽宮火災の時、和尚の尽力によって大事に至らずして鎮火したることを述べ礼を厚くしたので、今まで疑っていた人々も和尚の言葉の真なることを信じ益々その徳に帰依したということである。津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境) 豊後の山へもどる
聖護寺と大智禅師 (菊池の歴史散歩 平成元年菊池市教育委員会 松岡 智 著より)もどる
聖護寺は大智禅師の開山とされています。その建立の時期については、武時の時代として元徳二年(1330)とする説と、武重の時代とする説とあります。延元三年(1338)三月二十七日の武重の聖護寺寄進状*1が残されています。武重が京都攻防の合戦から離れて帰り、寺小野で旗上げした翌年になります。武重寄進状の中に「東兵藤道より南馬見野の在家の大道」「穴川の在家の西の大川の堀の水尾より風群山、全丁津江境」と、聖護寺寄進地が豊後境までひろがっているように、迫間川上流の鳳儀に寺院はあります。
*1、豊後側にも長谷部信経寄進状があり、聖護寺に対して同じ時期に寄進がなされている。
大智禅師は、正応二年(1290)肥後国宇土郡の長崎村に生まれ、七歳のとき田尻の大慈寺に入り、寒厳和尚について教えを受けました。師の寒巌和尚は、順徳天皇の第三皇子といわれています(後鳥羽上皇の皇子ともいわれる)。最初は曹洞(禅宗)宗の道元禅師に学び、二度も宋(中国)に渡って修業して帰り、後に大慈寺を建立しています。大智禅師が寒巌和尚の大慈寺に入門した時、こんな話が伝わっています。寒巌禅師は、はじめて父親につれられてきた大智禅師に饅頭を出しました。そして、「そちの名は何と申す」と聞きました。すると大智禅師は「万仲でございます」と答えました。大智禅師は幼名を万仲といいました。「歳は幾つだ」「七歳になりました」と答えて、出された饅頭をぺろりと食ぺてしまいました。それで寒巌和尚は、「万仲が饅頭を食ぺるとはこれいかに」と間かれました。「はい大蛇が小蛇を呑むようなものでございます」万仲は即座に答えました。万仲の機智に感心した寒巌和尚は、「利巧な奴だ、小智と名乗るとよかろう」といいました。すると「小智は菩提を妨げますから大智と名乗りとうございます」と言った。という大智禅師の逸話が残っています。そして十七歳の時、京都、鎌倉を巡り、二十五歳で元の国に渡りました。正中元年(1324)には日本に帰り、京都や川尻の大慈寺で修業し、加賀へ行き、そこで祇陀寺を建てました。聖護寺の前に「ひらくち石」という自然石があります。この石には師の寒巌和尚がひらくち(まむし)に咬まれたという伝説も伝わっています。大智禅師は「仮名法語」「十二時法語」*Linkを書いています。菊池一門が帰依した大智禅師は、武光の時代玉名の広福寺に移り、その後肥前高来郡の水月庵に隠栖して、正平二十一年(1366)十二月に亡くなったと伝えられています。津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境) 肥後の山にもどる
吾平山相良寺(相良観音)もどる
吾平山相良寺は、天台宗祖伝教大師最澄上人が弘仁5年(814年)に聞かれたお寺である。源平時代・平家にしたがっていた菊池隆直の一党が相良の地にこもった所を、
源氏方の武将、緒方三郎惟栄に攻められたため、本堂をはじめ、99もあったと言われる坊舎全てが焼矢した。その後、永正(1504-21年:室町時代)年間に千手観音が再興され、明治時代の廃仏毀釈の法難も逃れ、明治13年に現在の本堂を再建し、第88世御住職尾崎行詮法印を迎えてから約130年経過し、今日に至っている。當山は、祈願寺なので様々な趣旨の御祈祷に来られる方が多いが、特に昔から安産、子授けに霊験があると言われている。その由来は、61代朱雀天皇の時代にさかのぼる。朱雀天皇の時、皇后が子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのかは定かではないが、当時、皇室の勅使がご来山になり、七日間本堂にこもられ、折願された所、無事に62代村上天皇がお生まれになられた事に端を発する。また、當山には、国指定天然記念物のアイラトビカズラ樹がある。昭和27年3月29日に国の特別天然記念物に指定されたが、この樹は豆科の植物で、結実しない珍しい植物である。開花する時期は、4月下旬より5月中旬で、色は紫赤色で「しもくれん」に似ている。このトピ力ズラには伝説がある。最初に述べた源平合戦の頃、源氏方の武将緒方三郎が相良寺を焼き討ちした時、観音様がこのカズラに飛び移り難をさけられたと言われ、また、一説には観音様がこのカズラに姿を変えられ、武将の乗馬の足を絡ませ、落馬した所を残兵がその首を討ちとったとも伝えられている。また、このトビカズラが多数開花する年は、国に異変のある事が多いため優曇華(うどんげ)とも呼ばれている。相良寺の御本尊は、千手観音で、木彫りの座像では日本最大と言われており、毎日多くの善男善女が様々な願いを祈念されている。・・・・・・・・・・・・・相良寺住職・千田晃彰
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あいらとびかずら:菊池隆直vs緒方惟栄「よくわかる熊本の歴史(1)、荒木栄司1997」よりもどる
源平の戦いは、結局、平家に不利となり、寿永二年、平家は九州で戦力を立て直そうとしたのでしたが、緒方惟栄が大宰府に迫り、使者を送って大幸府からの立ち退きを求めたので、抗する力を失っていた平家は四国の屋島に移りました。屋島から一ノ谷へ転出したところを源義経に追い出されて、結局、元暦二年(1185)三月二四日、壇の浦で滅亡しました。この戦いでは、菊池隆直の摘男隆長が戦死するなど、菊地一族の人々も平家と運命を共にしています。
ここで、緒方惟栄についての、肥後の伝承を付記しておきます。菊鹿町に相良(あいら)観音というお寺があり、アイラトビカズラという珍しい木があるというので有名ですが、この名は、昔、緒方惟栄が、菊池氏の信仰が篤いこの観音を焼き打ちした時、本尊の観音さまが火から逃れて、このカズラの木に飛ぴ移られたので、トビカズラと呼ばれるようになったということです。お話ですから、もっともらしい考証をしてもしようがありませんが、惟栄軍は大宰府へ進撃する際、豊前路を臼杵惟隆、植田有網、肥後路を惟栄、日田永秀がその中間の道からというように三方から総勢三万で進撃したといわれていまして、惟栄は菊池氏の抵抗を突破するのに手間取って臼杵や日田勢よりも進撃速度が遅れたとされています。緒方庄から肥後、筑後を通ろうとしたのを菊池氏に阻まれ、戦いがあったことは事実のようですから、戦時にはよくあることで、寺院の焼き打ちも事実かも知れません。戦後、頼朝と義経の確執が始まり、関東に勢力を確保した頼朝に対抗するため、義経は九州に向かおうとしました。義経は緒方惟栄に協力を求めました。「平家物語」によりますと、惟栄は条件を出しました。義経が拘東していた菊地隆直を引き渡してほしい。隆直は年来の敵であるから殺してしまいたい、というのでした。隆直の身柄を義経から受け取ると、惟栄は六条河原に連れ出して殺害してしまった、とあります。この隆直の最後を述べた「平家物語」の「判官都落」という部分には、次のように記されています。ここに緒方三郎惟義は、平家を九国の中へも入れずして、追ひ出すほどの多勢の者なり。「われに頼まれよ」と(判官義経が)宜(のたま)ヘば、「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年来の敵(かたき)で候間、賜はって斬って後、頼まれ奉らん」と申しければ、判官左右なく賜うでげり。やがて六条河原へ引き出してぞ斬りてける。津江とその周辺の山々(地図;豊後・筑後・肥後の境) 肥後の山にもどる