大分県日田郡中津江村(角川日本地名大辞典より)故郷の山々に戻る 牛島さんのル−ツに戻る 表紙に戻る 九州の人々へもどる
大分県の西南端に位置し,東は熊本県阿蘇郡小国町,西は福岡県八女郡矢部村,南西は熊本県鹿本郡菊鹿町,南は上津江村・熊本県菊池市,北は前津江村に接する。津江山系県立自然公園内にあり,周囲には渡神岳(1150m)・猿駈山(968m)・三国山(993.8m)・尾ノ岳(1040.7m)・酒呑童子山(1180.5m)など900〜1200mの山々が連なり,他町村との間を画する。村の中央を流れる津江川は,上津江村近くて大山川に含流,この合流点は付近を国道387号がかすめるように走る。栃原・梅野・中西・野田の各地区集落は,この津江川沿いまたはその支流に面した小沖積地を中心に立地している。
〔原始〕
良質の黒曜石 村内各地に石斧や石鏃が出土している。津江川上流の津袋谷・御所谷一帯には,宮原遺跡・一ノ瀬遺跡がある。梅野地区の宮園・丸蔵の集落付近,栃原の田ノロ・八所にも縄文遺物が出土している。栃原には岩蔭遺跡もある。田ノロ地区の山中では津江地区ではもっとも良質な黒曜石の原石が採集されており,前津江村曽家,大山町貫見に連なる黒躍石原石産地の一角を占める。このように縄文遺跡は各地に分布するが,弥生・古墳時代の確実な遺跡は発見されていない。村内には古墳と伝える高塚などがいくつかあるが,古墳時代の高塚古墳では残く,多くは自然のものである。わずかに田ノロ地区に,石棺の残片を利用したと見られる地蔵祠がある。いずれにせよ古代にいたるまで農耕を主体とする大きな集落は営まれず,狩猟・採集の生活を営む人々が住んだと見られる。
〔古代・中世〕 戻る
長谷部氏と老松神社 古代の当村域は「和名抄」日田郡石井郷に属したと考えられるが,ほかに当町域を語る史資料は見あたらない。中世は津江山と称される地域に属し,古代末期から大宰府安楽寺領となっていたが,鎌倉期,当地方に入ってきた長谷部氏が安楽寺領などの押領をはじめ,勢力を拡大していった。この長谷部氏と密接な関係をもつ神社として津江地方には老松神社が各地にある。津江地方では老松天満といい,祭神を菅原道真と混同している。老松神はもともと山林の神とされるから,安楽寺の柚山であったことで大宰府から入ったものであろう。
宮園老松神杜の祭札 宮園老松神社(津江神社)には延徳3年(1491)の棟札があり,山城守長谷部信安が社殿を再興したとある。また慶長5年(1600)の棟札には「大檀那梅野村伝右衛門尉長谷部信久」の墨書銘がある。前津江村大字大野老松神社とともに長谷部氏の深い崇拝を受けていた神社であった。当神社では,毎年7月15日に餅搗祭が行われる。「津江由来記」によれば,天福元年(1233)長谷部宗俊が,村内三国山の鬼戸ケ獄に住む賊を討ち,その礼として老松社に社頭をおき,戦間状況を模して餅つきをしたことにはじまるという。小麦3斗3升3合を村の若者たちがついて奉仕者に配る。杵の破片も各戸に配り魔よけとする。創草の伝えの当否はともかく,中世の宮座にかかる行事として貴重なものである。この神社には,的ほがし祭がある。由来は不明だが,五殻豊穣・家内安全を祈り毎年4月15日に行われている。餅搗祭とともに県選択無形民俗文化財となっている。
伝来寺と庭園 中世の津江地方を代表する寺に当村の伝来寺がある。大宇栃野田ノ原にあり,現在真宗大谷派の寺院であるが,寺伝では建久4年(1193),梶原景時らが以仁王の遺児を奉じて長谷部信連を訪ねた時,この地に仮山を築いたことにはじまるという。「豊後国志」は延元3年(1338)の長谷部信雄が兜率・伝来の2寺を建てたとしている。現在の寺については,津江24代長谷部山城守重光が,慶長9年(1604)栃野近辺にあった慈雲山林泉寺を自邸に移したことにはじまり,寛永21年(1644)本願寺より慈雲山林泉寺の山号・寺号を受けた。その後文政年間に堂宇炎上,本堂は天保年中に再建された。この寺の庭園は県名勝となっている名園で,本堂前面の枯山水と,本堂西背面の小池庭が残っている。雄壮な石組み,地形の素朴さを生かしたつくりは,室町後期の地方庭園の代表作の1つとされている。
山城と御所谷 伝来寺の西に山城があり,長谷部一族の遺跡と伝えられている。また鯛生川上流の御所谷と称される谷間には,御所跡と伝えるところがある。津江長谷部氏の拠点としては,前津江村大字大野の老松神社,殿様屋敷周辺と雪が嶽城があるが,この伝来寺と山城の一帯も有カな拠点の1つであったと見られている。
〔近世〕 戻る
江戸期の村々 当村域の村は「正保郷帳」では,栃原・野田・堤・梅野の4か村であるが,元禄14年の「見稲簿」ては野田村から中西村が分村している。その総石高は「正保郷帳」976石余,[見稲簿」1,123石余,「天保郷帳」1,091石余で,村の面積に比して石高は少ないが,津江3か村では最も多い。なお領主は,一時大名領・預地になったこともあるが,大半が幕府領で,貞享3年(1686)以降は日田代官支配地である。
中西村明細帳 慶応3年(1867)中西村明細帳によれば,村石高196石7斗余・定小物成として鉄乾・茶・漆・柿・桑・桔・栗の各分の代銀がおさめられており,村の生活の一端を知りうる。田については,1町5反が一毛作,2町余が二毛作,稲は黒早稲・八八日・くろ餅などの品種が植えられた。畑作は定小物成に一端を知りうるが,ほかに大豆・小豆・ソバ・芋・ダイコン・稗などが植えられた。肥料は田は馬屋こえ・刈敷が第一とされた。ほかに自山藪15か所があり,この山での板材・材木などの稼ぎについても別に運上を収めていた。農閑期にはこの山稼ぎが主な仕事であり,日雇稼ぎ・掘り稼ぎにも出た。当村の戸数91軒・人口399人,うち男206人・女193人,牛馬79疋(うち馬13疋)。村の庄屋は,このころには,大山筋鎌手村の庄屋が兼帯していた。村には祝川・原・敷蔵・長谷・山本・石場・才野・一ノ瀬・柿ノ谷・宮原・鯛生の枝郷があった。
村の生活 山地けわしく,狭い谷間に耕地を営む生活はきびしいものであった。天保9年(1838)の「梅野村書上帳」には,この村は,山間谷間深きところであり,地味はよくなく,耕地は畑が多く,山崩れなども起こりやすいと述べている。このため年々の作も確かでなく,年貢は銀納がみとめられていた。同書上帳には,米1石につき銀85匁,麦1右につき銀55匁,稗1石につき34匁,以下粟56匁,大豆74匁の代銀納であったとしている。こうした状況であったから,村はしばしば凶作に見舞われた。天保7年の飢鐘は中でもひどく,津江筋8か村は三役連署してその窮状を再三日田代官に訴えた(天保飢麓嘆額書)。この中には飢饉の際の非常食について「草蕨が第一だが,冬中に掘りつくしたので,ほかは椎・一井木・楢の実を粉にして水にさらしたうえよくたいて食う」とか「百合根も葛のようにして食すれば極上の食物である。曼珠沙華の根も同様だが,製しかたによっては腹によくない」などと述べている。
中津江村誌 第6編民俗 第1節 農耕より 故郷の山々へ戻る 戻る
中津江村の農業の特徴は、高冷地稲作と焼畑にある。また、山間部の特色を利用した林間の作物も見逃せない。「明治12年豊後日田郡村誌」の栃野村と合瀬村の物産の項を見ると、当時の農業の状態が判明する。栃野村の黄梁(大粟−焼畑の栽培植物)の生産量は、米の70%に達している。また、蕎麦・茶・蒟蒻芋・楮(栲)皮・山葵(わさび)など山村特有の作物も無視することはできない。
「明冶12年豊後日田郡村誌(抜粋)」
◎栃野村物産 米 399石 (約52t)
黄梁 282石6斗 (約36.6t)
蕎麦 8石7斗 (約1131kg)
茶 18188斤 (約11.3t)
拷皮 21600斤 (約13t)
蒟蒻芋 3125斤 (約1.9t) 肥後国二移入
◎合瀬村物産 米 質悪 328石 (約42.6t)
蕎麦 質美 5石6斗 (728kg)
茶 質美 11700斤 (7020kg)
拷皮 質美 18000斤 (10.8t)
山葵 佳品 津江荘本村ヲ最トス
中津江村誌 第2編歴史より
初見津江山(安楽寺領津江山/津江山と長谷部氏) 戻る
津江山がみえる最古の史料『百練抄』には、嘉禄元年(1225)五月ごろ津江山の住人が耕作中に金銅製銅鉾二本を掘り出したというものである。この短かい文章から判明することは、津江山の実質的所有者、つまり領家が管原道真の霊廟である安楽寺であること、弘安八年(1285)の「豊後国図出帳」「豊後国田代注進状案」より六○年以前に安楽寺領津江山という荘園と同じ性格をもつ「山」が成立していたこと、しかし、山間にひらけた水田が極めて少なかったためか「図田帳」に記載されなかったことなどである。ちなみに「図田帳」の内容は各郷荘の水田数を中心とするが、「内梨畑大略畠地たるにより田代不分明」など、交通の要衝地で、しかも北条一族が地頭識を帯している場合は、畠地でも収載される場合がある。古代の行政区石井郷に含まれる津江山は、日田郡南部の山岳地帯で、北は日田荘、東は肥後国阿蘇郡、南は同国菊池郡・鹿本郡、西は筑後国生葉郡に接し、現在の上津江・中津江・前津江三村と大山町一町の母胎をなしている。長寛元年(1163)立券荘号の日田荘におくれること約六○年の初見ということになるが、この間隔がどこまで縮められるかの史料はない。
長答部信経寄進状と宮三位中将家今旨 延元三年(暦応元年・1338) 津江(長谷部)氏に戻る
次に津江山がみえるのは南北朝期に入ってからのもので、延元三年(暦応元年・1338)のもの三点がある。長答部信経寄進状二点と宮三位中将家今旨がそれで、肥後国広福寺文書として伝えられている。まず、延元三年二月七日付け長谷部信経寄進状は、信経相伝の地である津江山内兵藤村を、寺院建立の由を聞いたので朴木方丈に寄進するというものである。第二点目の延元三年二月一五日付け長答部信経寄進状は、信経重代相伝の地・津江山内兵藤村大平山兜率寺敷地を金輪聖主・宝祚長・天下太平・正法紹隆のために大智上人に寄進するというものである。第一点目にみえる朴木方丈とは第二点目にみえる大智上人のことであるが、朴木とは昔の村の名で、「鳳儀に改め書して、聖護寺の山号になせり」と順敬という僧が注記している。第三点目が延元三年一二月八日付け令旨で、大智上人の請により、その所領豊前国国規矩郡蜷田郷内田地屋敷を津江山兵藤村と交換することを許可するというものである。以上三点の史料からすれぱ、大智上人の寺院建立の趣旨を耳にした長谷部信経は重代相伝の津江山内兵藤村と大平山兜率寺敷地を寄進し、寺の建立を期待した。寄進を受けた大智上人はその期待に副い、宮三位中将家所領規矩郡蜷田郷内の田地屋敷との交換を許可されたということになる。この三点の史料からは安楽寺との関係を物語るものはないが、次に示す観応三年(1352)二月日付け安楽寺領住進状案は、津江山が安楽寺領であったことを確実に示すものである。一豊後国一円 大肥庄 津江山雖有根本神領号、当山専当押領之 真幸庄不知行 豊後国一円の意味は判明しないが、大肥庄は図田帳で、津江山は『百練抄』で安楽寺との関係が確認でき、この注進状案で確定される。しかし、観応三年当時は、津江山は大宰府天満宮(安楽寺は天満宮の神宮寺)の根本神領と呼ばれているものの、津江山専当(長谷部氏 少なくとも鎌倉時代には土着し、荒野・森林を開拓し、安楽寺から山支配の荘官として専当や弁済使に任命された)が押領したと但書が付けられている。
津江山(室町時代) 戻る
安楽寺領津江山が、観応三年(1352)には専当に押領されていたことについては前に述べた。ではその後の津江山はどのような歴史的推移をとったかを、まず確実な史料によって眺めてみたい。寛正六年(1465)二月二日菊池為邦は筑後の五条頼実に、度々の注進を感謝し、菊池為安を用心のため津江向きに出陣させた旨を告げると共に、もし不慮の事態が発生したら相談してほしい、今回のことについては一層の忠節に励んでほしい、と告げている。この事件は、筑後の黒木・三池等の士が、肥後国守護菊池為邦の弟為安等の援助のもとに、大友一五代親繁に反したというものである。四月二○日、為安は筑後高良山別所城一(久留米市)を攻めるが、別所城救援の大友軍志賀親家らによって討ちとられた。三日後の二三日親繁は親家に感状を発している。『肥後国志』によると為安の年齢は三四歳、墓は玉名郡石貫村にあるという。この事件と津江との関係は、菊池氏が筑後高良山に出陣するに当たって、津江氏の動向を牽制するためか、あるいは盟友としての津江氏の本拠地で大友軍と対決しようとしたかのいずれかであったと考えられるが、証明するものがない。次は、永正三年(1506)一○月一三日付けの玖珠郡の士野上新左衛門尉あて大友一九代義長の感状に、筑後国退治に当たって、最初から津江において日夜一生懸命働いたことを賞すとみえる。この感状には筑後退冶とのみ見えるが、他の史料によれぱ肥後国守護識をめぐる抗争のほか、大友家督をねらう大聖院宗心の動きなどがからみ、筑後・肥後・豊後三か国にわたる大規模な事件であったことが判明する。その概要を述べると、南朝一辺倒の菊池氏も、武朝の代の応永五年(1395)幕府に降ったが、所領と肥後国守護職は安堵され、以後、持朝・為邦・重朝と続く。明応二年(1493)重朝病死のあと、その子能運が一二歳で守護となるが、同七年(1498)重臣隈部氏が反し、相良為続もこれに応じた。攻防は能運方の勝利で結着するが、文亀元年(1501)には重朝の叔父宇土為光に守護職を奪われてしまう。しかし、為光も二年後の文亀三年に菊池氏老臣らによって殺され、能運が再ぴ迎え入れられた。この能運が翌永正元年(1504)二三歳で病死したため、一四歳の徒弟政朝が迎えられ、政隆と改名する。ところが、翌年には几庸であるという理由を付けられて放逐され、阿蘇惟長が養子に迎えられることになった。その背後には、阿蘇氏と結んで肥後支配をねらう大友義長の策謀があった。義長の援助のもとに小国から隈府に入った惟長は、政隆を山鹿に追い、阿蘇大宮司職を弟椎豊に譲り、自身は守護となり、名を菊池武経と改めた。また、この混乱に乗じて大聖院宗心は相良氏と手を組み、豊後国内の田原・佐伯氏らと共に大友家督をねらう動さをみせるのである。野上新左衛門尉が筑後退治で津江で辛労したと賞されたのは、山鹿に追われた菊池政隆が筑後にかくれていたのを追撃しようとしたとさのものである。以後、天正七年(1579)十一月二四日付け津江信濃守親信あて大友義統書状に「…当山気仕いに及ばるる由…」とあり、天正十一年(1583)卯月一二日付けで新田掃部助にあてた立花道雪等運署書状に「…三百町分、津江山衆に至り仰せ与えられ侯」とある。このほか、翌天正一二年のものと思われる魚返伊豆人道・小田式部少軸あて大友義統書状に「津江山に至り加勢の儀…」、あるいは立礼道雪・高橋紹運連署書状のあて先が「山御三人」となっており、天正一四年卯月二八日付け朽網宗歴あて大友義統書状には「…津江山三人の事…」などが見える。内容については後に述べる。
戦国末期の津江氏(津江信濃守親信、津江鑑盛の活躍) 戻る 津江(長谷部)氏に戻る
すでに述べたように、室町期の津江については、寛正六年(1465)時点に菊池為安が津江向き用心のため出陣したことと、永正三年(1506)筑後国退治のため津江で日夜辛労に励んだ野上新左衛門尉あてに大友義長が感状を与えたことの二件しか知る史料がない。以後、戦国時代末期までは空白の時間であるといっても過言ではない。戦国末期の天正七年(1579)十一月二四日、大友二二代義統は津江信濃守に、大友家に対する貞心と、筑後攻めの忠節を悦び今後の一層の粉骨を命じている。このあて名の津江信濃守は前津江村長谷部家史料の「津江民歴名」にも該当者はなく、また『豊後国志』にも収録されていない。その検討の前に、本村伝来寺に伝えられているこの史料をかかげてみよう。
表の陣衆打入り候に就き、当山気仕いに及ばるる由、尤も余儀なく侯、しかりといえども、親信貞心の覚悟他事なきの条、いよいよ堅固の才覚肝要に侯、しかれば、所行きっと下知を加うべき相談半ばに侯の条、爰許議定の趣、重々使節をもって申すべく侯、今度最前より懇思の心懸、感悦せしめ候の段、成大寺をもって申候、一致に申合せ、ますます馳走粉骨に励まるべきこと祝着たるべく侯、当山衆中に至りては何様力を添うべき事、別儀あるべからず侯、なお朽網三河入道申すべく候、恐々謹言、(原文漢文体)。
津江信濃守殿 (天正七年)十一月二四日 (大友)義統(花押)
この史料に「表の陣衆」とあるのが筑後表在陣衆を指すことは、同日付け肥後相良義陽あて大友義統書状に「筑後表在陣衆異儀なく打入り候事、まずもって肝要に侯」とあることによって明白である。次に津江信濃守が親信という名前であることは、本文中に「親信貞心の覚悟…」とあること、さらに当峙の書式から間違いない。さて、この事件は、天正六年冬、日向延岡の地にキリスト教的理想国家を建設しようとして日向侵攻に実入した大友宗麟以下が、高城をめぐる島津氏との攻防で大敗した結果、今まで大友の磨下であった各国の諸将が離反したために起こったものである。具体的には筑前秋月種実、筑後の筑紫広門の反乱である。翌天正八年には、国東郡を本拠地とする田原親貫と秋月種実の乱に同調して大友一族田北紹鉄が反し、熊牟礼(熊群)城から筑後へ落ちる途中五馬荘井手口で日田郡衆によって討たれる事件がおこる。翌天正九年、今度は肥後小国の士北里左馬助が大友に背いた。大友義統は九月二三日兵を派遣して北里左馬助の城を攻略したが、中島主殿助・平井河内入道喜雲・朽網式部少輔鎮康らの手の者がかなり負傷している。二日後の九月二五日付け問注所刑部少輔統景あて大友円斎(宗麟の別名)書状によると、九月二二日問注所統景の守る城の麓にある田籠村に星野中務が保を築き、そこに反大友勢が結集した時、統景が攻めかけ星野神(甚)五郎以下数人を討ち取ったことを貢したあと、次のように津江のことを知らせている。すなわち、津江信濃守親信の館を阿蘇小国の者どもが攻めかかったので、親信は籠城してしまった。そこで津江氏を援護するため、九月二三日小国表全てに火を放ったので、北里左馬助は城を下り、人質を差し出し深謝したというのがその内容である。天正二年、筑紫広門は筑前三笠郡に兵を進めて大友の部将高橋紐運と対陣し、豊前では広津治部少輔の下毛郡万田城を大友軍が攻め落とすなど、反大友行動は強くなっていく。この時、大友義統は日田郡士坂本道烈・財津龍閑らに、筑後出陣の傲を飛ぱしている。十二月二六日付けで筑後五条氏にあてた義統書状によると、反乱者は田尻中務大軸と龍造寺隆信であるとみえ、前年の天正一○年には上筑後・下筑後の者が逆意を企てたともみえる。続いて、肥筑の逆徒が五条氏を攻める噂があるが、豊後では真偽の判断がつきかねるので、日田郡衆には油断しないよう命じている。いうまでもなく津江親信や鑑国(姓不詳、鑑盛の誤りかと考えられる)と十分協議し、今まで以上の忠節に励むようにと述べている。五条氏は、懐良親王に仕えて九州経営にあたった五条頼元を祖とし、子孫は筑後国八女郡矢部の小豪族として菊池氏に属して南朝の再興を画策する。下って良邦の時大友氏に属すことになるが、その本拠地は津江に接する矢部の山岳地であった関係から、親信との協議を義統より求められたのである。翌天正一二年五月ごろ、津江山が攻められたらしく、六月には玖珠郡衆に救援を命じている。攻め入ったのは黒木氏だったらしく、これを追った大友軍は黒木兵庫頭の籠もる猫尾城を陥れた。この攻略に当たった津江親信・津江鑑盛と五条鎮定の三名には、恩賞として「鎮連居屋敷六町分之内」が与えられた。
朝鮮出兵とその後の津江氏 戻る
国内統一を果たした豊臣秀吉は、明国征服を夢みて、朝鮮に服属と明への先導を要求したが、拒絶された。これによって朝鮮への出陣となるが、豊後大友軍は六○○○名の軍団を編成し、渡海するように命じられた。この六○○○名は全てが戦闘要員というのではなく、水夫・船頭・人夫等を含めてのものである。文禄元年(1592)三月一二日豊後を発った。従う武将は吉続の実弟親家・親盛をはじめとする家臣三三二名のほか、玖珠郡衆七八、国東郡衆三八、日田郡衆一一○、由布院衆二八、戸次衆六四、高田衆一四、山香衆六、緒方衆二二、井田衆四、宇田枝衆八、野津院衆一七の合計七四四名(実際は七二一名)が著到状に名を連らねている。大友軍団最大で、かつ大友一族を中心とする南郡衆の名がみえないのは、天正一四年の島津軍侵入に内応し、糾弾されたためである。日田郡衆は坂本備中守入道道烈を筆頭にした最大規模の隊であるが、津江氏は津江掃部介・同刑郡太軸・同作之水の三名しか確認されない。著到状によると、坂本道烈から書きおこし、従軍僧九名までの一○七名を列記したあとに津江氏三名が書かれている。このことは、大蔵氏の流れを汲む日田郡衆と長谷部姓とが明確に区別されていたためと考えられる。文禄二年、大友吉統の戦陣での行動が問題となり、豊後国を召しあげられることになった。出陣中の大友軍団は、各大名に配分されることになり、津江衆・野津院衆・緒方衆を含む三○一名は福島正則の、日田郡衆を含む人数(欠字のため不詳)は戸田勝隆の指揮下に入った。このあと和議が成立し全員が帰国する。この間、豊後国は秀吉の命による検地、つまり太閣検地が実施され、豊後国四二万石が計り出された。日田郡は秀吉の直轄地-太閣蔵入地となり、翌三年には日田・玖珠蔵入地のうち隈城二万石は毛利高政が、他の二万石は宮本豊盛が代官として支配した。このように旧大友家臣団の領地は太閣蔵入地や諸大名の所領として召しあげられた。したがって、大友旧家臣は新たに大名に仕官するか、帰農するしか生さる途がなくなった。帰農したといっても、大友一族との縁が直ちに切れたわけではなかった。その一例を本村二又津江公人氏所蔵の史料によって示してみよう。史料は、津江孫太郎から津江次郎右衛門にあてたもので、内容は、旧君大友因幡守親間の嫡男孫三朗義武の家督相続に当たり、家老の篠田,武井両人より、家来筋目の人々に何分かの芳志に預かりたいと連絡があった、というものである。その対象者は、かつて感状を与えられた人とか、旧記所待の者となっている。また追申部分に「熊本津江助忠方へも申遣」とあることから、帰農した津江氏、熊本細川氏に仕官した津江氏の存在が分かる。
津江神社と老松大明神 中津江村誌第5編 神社仏閣と文化財より もどる 九州の人々へもどる 故郷の山々に戻る 御前岳と津江権現
南北朝期に津江山と総称された本村・上・前津江村・大山町を中心にした日田市郡に、特徴的にみられるのが老松明神信仰である。すなわち、日田市大肥の老松社のほか、天瀬町の中村社(出口)、大山町の中川原社、前津江村の大野(田代)・赤石・柚木の三社、中津江村の宮園社(梅野)、小原(栃野)、中村(野田)の三社と、上津江村の浦社(川原)等がそれである。この中で出口の中村社・大山の中川原社を除く七社を、津江七社ともいい(津江七社については後述)、また、中川原社や、宮園社より分霊した矢部の黒木社を加えて、津江八社ということもある。
本村の三社と上津江村の一社の祭神は、主神として天神七代地神五代を奉祀している。中津江村内三社は、江戸時代前期までの行政単位であった梅野村・栃野村・野田村のそれぞれの村の鎮守であり、氏神であったわけである。その創建は宮園社が一番古く、治安三年(一〇二三)、宮原に日隈四郎の信仰で、天神地祇一二代を祀ったのがその創始であるといわれている。
両津江の祭神のちがい 中津江村誌第5編 神社仏閣と文化財より 九州の人々へもどる 故郷の山々に戻る
両津江の祭神のちがいを整理してみると、前津江・大山の四老松社には、天神地祇一二神は奉祀されていない。それに比して上津江・中津江の四社は、創立の時の主祭神として天神地祇を祀っている。口津江(前津江村・大山町)は長谷部氏の像代宮として出発し、後世、菅原道真を配祀しているが、奥津江(上津江村・中津江村)は、菅原道真のみでなく、吉祥姫命を一緒に相殿配祀という形で祀っている。奥津江ではややもすると道真よりも、吉祥姫命の方を重視している傾向もみえる。
両津江とも創建の時の社号は不明であるが、室町時代中期になって何れも老松大明神という杜号を称している。明治三年(一八七〇)大分県の調査の際、奥津江の四社のみは、天神地祇一二神と道真との相殿配祀は不都合であるとの理由で、津江神社と社号を変更させられている。口津江の四社は老松大明神のままで、奥津江だけ変更させられたということば、奥津江の老松社が、皇祖としての天神地祇を主神として奉祀していることによったためと考えられる。
津江での政権移譲 中津江村誌第5編 神社仏閣と文化財より もどる 九州の人々へもどる 故郷の山々に戻る
このように、奥津江・口津江の両津江で同じような老松社を持ちながら、創建・祭神について大きな差異が見られるということば、どのように考えたらよいのか。同じ津江八社が四社ずつ両津江に別れ、創建・祭神の違いがはっきりしていることについて、今までに納得できるような説明はなされていない。両津江の老松社の違いを、老松社の創建されたとする11世紀から14世紀ごろまでの、日田・津江の様子から大胆に推測を試みてみた
・ 日隈四郎藤原信広が天神地祇一二神を、中津江宮原に創祀したのは治安三年(一〇二三)と伝えられているが、ほぼ一〇〇年前の延喜一八年(九一八)には、日田の杉原に大原八幡宮が日田大蔵氏の勧請で建立されている。五年後の延長元年(九二三)には博多に筥崎宮が祀られている。つまり、宇佐八幡の分霊が、周辺に勧請されていたころである。
・ 日田郡司大蔵永利(永季の祖父)が寛弘三年(一〇〇六)、「郡の界に五所の塁を築けり。一つは五馬の亀石山、石井の高井嶽、亘理郷の西針目山、夜開郷の内藤山、大山の烏宿山なり。」と造領記にある。
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その後、長元九年(一〇三六)には、検非遣使早部為行が、竹田・田島・今泉(友田・石井を開発し、天喜三年(一〇五五)には早部為行の子妙香子が、石井別府ほかを太宰府に寄進んている。
これら一連の事跡から推論すれば、一一世紀前半の日田での、日田郡大蔵氏の勢力の及ぶ範囲としては、南は大山、五馬、西部は石井を経て前津江の一部ぐらいではなかったのではなかろうか。上・中津江では日田大蔵氏の勢力とは別に、市の瀬への日隈四郎の入山があり、奥津江はその日隈氏の勢力圏に入っていたのではないか。日隈氏は宮原(後に宮園)・小原・中村・浦での天神地祇奉祀を一つの拠り所として、祭政一致の形で奥津江日隈勢力圏をつくっていたにちがいない。
前津江・大山は日田大蔵氏と奥津江日隈氏との、勢力の干渉地帯であったであろう。しかしその後、早部為行等の開発の進展と、長谷部信連の入山等で日隈氏の勢力は弱まり、その政治権力を長谷部氏へ移譲し、自らは、老松大明神の祭祀を司どる神官としての地位に退いたのであろう。現に日隈氏の系と称する永瀬氏が、現在津江神社・老松社の神官として奉祀している。このような例は、日本の古代にはしばしば見られる政権移譲の形であり、代表例としては、「古事記」 における大国主命の出雲の国譲りの例がある。
相撲の節会と吉祥比売命 中津江村誌第5編 神社仏閣と文化財より もどる 九州の人々へもどる 故郷の山々に戻る
津江山に老松大明神が勧請された大きな理由として、日田郡司大蔵永季(日田殿と言われる)の相撲の節会の伝承がある。この説話は日田地方には広く知られ、彼を祀る日田神社は篤く崇敬されているが、日田を中心として記した史料としての、豊西記・造領記・日田郡司職次第・日田記などに記されている。また、津江大山地区でも、津江神社古事本記・津江由来記・宮園並びに中川原老松大明神縁起書などに残されている。更に中央の史料としての「続日本紀」「日本後紀」等には、天平四年(七三四)・大同三年(八〇八)の相撲の節会の記述が見られる。大蔵永季の相撲の節会の勝利についても、「本朝怪談故事」 には三四年問に一四度の勝利が記され、「相撲日記」「中右記」 「大和記」 等には嘉保二年(一〇九五)の三度にわたる相撲に、永季の勝利が記されている。
「津江神社古事記録」によれば、造領記などとやや異なり、京に召された永季が太宰府の聖廟に参詣する途中、出会った少女子を吉祥比売命として、「(首略)君帝都に到り相撲の節会に当り、彼に対せば乾の方(北西)を見るべし。是全く疑う可からずと言い終りて去る。(中略)太宰府に於て童女の教えし事是全く神教なりと思い、神意に随い乾の方を見るに件の童女出現し、永季の方に向ひ右手を以て自身の額門を押へたり。(中暑)永季帰国し、件の童女を神と祭り吉祥比売命と称へ、宮原神社の殿内に合祀して老松の神と尊称し奉る。依是老松大明神と申し奉るなり。又老松天神とも申すなり。」と記し、童女自ら相撲の最中に乾の方に出現し、永季に神助を与え、永季は件の童女を吉祥比売命として、老松大明神と尊称して宮原社に合祀している。
また、「宮園老松大明神縁起」によれば、彼の童女が自ら 「太宰府の老松の神なり。」と宣言している。更に「山中七邑に老松大明神を勧請し奉る。建武年中(一三三四〜三七)に筑州清原小納言上妻郡に勧請したまふ。同年大山庄に同じく勧請奉る。云々」と、老松大明神を建武年中に山中(津江山か)七村および上妻郡黒木・大山庄中川原にそれぞれ勧請したと記してある。
八女郡黒木町への分社は、前出の古事本記・古事記録によれば、嘉暦二年(一三二七)清原中納言が分社するとあるのとほぼ同じであるが、山中七邑および大山庄への勧請は、ずいぶん前後するようである。
津江神社の通史 中津江村誌第5編 神社仏閣と文化財より もどる 九州の人々へもどる 故郷の山々に戻る
● 「津江神社古事本記」に依れば、「治安三年(一〇二三)八月一五日、日隈四郎藤原信弘、深ク天神地祇ヲ信シテ、当村字宮原二宮殿ヲ創立シ天神七代・地神五代ノ一二柱ヲ勧請シ奉ル。社号不詳」とある。治安三年といえば、藤原道長の子頼通が関白として威をふるい、藤原氏の全盛時代である。
永瀬氏
※ 「藤原信弘の後裔七代、日隈五郎藤原信武の時、以仁王の臣長谷部長兵衛信連逃来り信武を頼り、市瀬に隠れ久しからずして雪ケ嶽城を築き住み、以仁王の側女菊の前は遂に信武に嫁す、この菊の前は 京都八瀬の人永瀬氏なり。これより日隈を改め永瀬を氏として当社に奉仕し世々富豪なり」(津江神社古事記録)。この菊の前の墓は現在市ノ瀬の宝筐印搭といわれる、以仁王の子豊津宮を生み、長谷部信連の子宗俊を生み、その後信連が能登に移った後日隈信武に嫁したのである。藤原信弘の末裔が永瀬となって歴史の舞台に現れるのは慶長八年八月二五日、信長が勘解由となってからのことである。
※ 長谷部信連
● 延久三(一〇七一)一一月朔日、「日田鬼太夫(大蔵)永季(日田郡司)、故アリテ吉祥姫命ヲ相殿二合祀ス、是ヨリ老松大明神卜称奉ルナリ、(又老松ノ神卜申シ又老松天神卜申シ奉ルナリ)」と古事本記にある。「老松大明神由来記」には「延久元己酉(一〇六九)願主 鬼蔵太夫永季ニヨリ再建」とあるが、他の記録によれば殆ど延久三年とあり、また永季が一六歳で初めて相撲の節会に召されたのも三年であり、三年が正しいのではないだろうか。
● 仁安三年(一一六八)八月、宮原より当地津江山に宮杜を移転する。前出の由来記には「延徳三年(一四九一)八月二二日宮原ヨリ梅野村二御転座ナリシ時ノ願主ニハ、津江山城守長谷部信安公御建立ナシ奉リテ御鎮座マシマシケル、今二於テ棟板二書キ記シ遺レリ」とあるが、延徳三年の棟板は現在残っていない。「古事本記」の仁安三年と由来記の延徳三年とは、約三三〇年の差があるが、何れが正しいか不明である。中村津江神社の由来には、同じく長谷部信安が延徳三年社殿を再興とあり、小原津江神社が文明一八年(延徳三年より五年前)小原山に遷宮及再建せりとある。これから見ると、梅野村御転座はともかく、社殿を再建したのが延徳三年というのは信じてもよいかもしれない。
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天福元年(一二三三)「津江三郎長谷部宗俊(古事記録には信俊とある)鬼戸ケ谷ノ賎羽雲ヲ退治ノ時祈願ニヨリ、六月一五目祭典ヲ始ム、此時以仁親王及信弘・信連ノ形代ヲ配祀シ、四先洞一二祝部ヲ定メ、津江殿武運守護ノ氏神卜崇敬シ、再建・修繕等津江長谷部氏ヨリ是ヲ行り」と「古事記録」にあり、「古事本記」 には「梅野ノアバレ祭卜言フ、小麦飯ヲ以テ神供ヲ製スルヲ餅ツキ祭卜言フ」とある。麦餅つき祭の由来である。また、「当社祭組ヲ十三方理卜定メ、内四先導ヲ揉ミ(中西・山本・中川内・鯛生)九方理ノ神外ヲ定ム」と、古事記録の四先洞一二祝部と少し数が異なる。(方理と祝部とは同じ)、何れにしてもこの時祭の組織が固まったものと考えられる。
長谷部家系図写 木地師(轆轤師)の足跡と高倉宮以仁王伝説 山びとの考察へ戻る。
※ 豊後国志を著した唐橋世済が編纂の際に、日田郡隈町の鍋屋伊左衛門(森五石)方に投宿した時、長男森春樹が案内役をつとめ、肥後阿蘇郡北小国江古尾の長谷部系図を紹介したものだと現地の人々はいう。この長谷部家系図写によれば、長谷部長兵衛丞信連、高倉の宮に奉仕し、永万元年(一一六五)の時、高倉宮御謀叛の後、伯耆国(鳥取)日野と申す所に居住す、其子長谷部左近将監信継、建久の比 源頼朝武将たるとき豊後、筑後を賜り所領津江庄司となり大野城を構へ住す、この時津江に七か所の天満宮を奉勧請是を津江七か所老松大明神と称奉る。とあり、これによると信連は伯書国に行き、その子信継が津江に来たことになる。
※ 津江に下ったという信連については、津江由来記のほかに次の説がある。
※ 大野村雪ケ嶽の城跡は、長谷部長兵衛尉信連楯籠りし跡なりと云伝ふ。又、筑後国生葉郡田籠村氏神は土御門院(一一九八〜二〇九)の御宇に当って、豊後の国日田郡津江庄領主長兵衛尉長谷部信連王故有て勧請建立す、別項に、村老の説に曰長谷部長兵衛尉信連来りて孫連綿として津江殿と称せしよし、是俗説也、しかれども津江家の始義連は、信連が猶子にしてありしが、実は高倉宮の女房某にうましめ給ひしなりと、故に其頃当今に恐れはばかりてこの津江に来り、かくれ住しと或人云り、(豊西説話)
※ 関連サイト http://snkcda.cool.ne.jp/mame/1ukiha/2nagaiwa.html
※ 津江郷伝説のなかで、長谷部家系図と津江由来記において高倉宮以仁王が現われてくることは特記さるべきであり、豊後国玖珠郡北山田村戸畑山中の高倉神社、会津高倉宮以仁王伝説、丹波高倉宮以仁王伝説、山城国と四か所に、轆轤師と以仁王との由縁が遺されている。こうした一連の物語は、烏帽子直垂姿で入山してきた初期轆轤師群が自らもたらしきたった伝承だろうと、杉本寿氏は著書木地師制度で述べている。 長谷部信連の流通説には現在これを肯定にも、否定にも決定づけるものは何もない、この津江の地に長谷部姓の隠然たる勢力の伝承は何を物語るものだろうか、今後の究明がまたれる。
● 嘉暦二丁卯(1327)(四月)「古事記録」 に 「清原中納言殿筑後(上妻郡)黒木(河内) 二分社ス(津江神社卜称へ奉ル)、黒木丑ノ宮是ナリ」( )は古事本記。とある。現在の八女郡黒木町である。この後から五年後の元弘二年、鎌倉幕府は後醍醐天皇を隠岐に流し、南北朝争乱の幕が落されることになる。
木地師 中津江村誌 第6編民族より 戻る 山民の概念に戻る。
木地師は轆轤屋(ろくろや)とも呼ばれ、山中の木を切り、轆轤を用いて椀や盆の素木地に整形する職人のことである。近江国小椋谷は全国の木地師の根元地であると考えられており、惟喬親皇始祖伝説を伝えてきた。木地師は独特な伝統文化を持った職人達であった。中津江村祝川に、草に埋もれた木地師の墓が残されている。高さ約60cmの自然石の墓石で、上部に菊花紋が刻まれている。菊花紋を墓石に刻むのは、木地師だけの風習で、美濃・三河・信濃国などで多く見られるが、九州ではこれが唯一の遺物である。「文久二年(1862)藤原姓小椋新助/安政七年(1860)梅屋渾春信女小椋新助妻七十才」という銘文が刻まれている。
明治期ごろ、ここには藤原勝家とともに二軒の藤原家が存在し、惟喬親皇の綸旨と免許状を所持し、水田五反・畑二反・山林御200余町を保持していたという。藤原家の人々は樫・山桑・山桜などを加工して椀・盆・ゴキ(御器−食物を入れる蓋付きの容器)などを製作していたが、江戸末期には資源の枯渇によって木樵りや炭焼きになったという。大正期の中津江村には、兵古山の中腹のサカゾリという所(合鶴の上手)で活動していた木地師がいた。通称木地勝さんと呼ばれた小椋勝一(明治九年〜昭和二七年)である。祖父小椋文内の出身地は木明だが、父小掠集一(嘉永元年〜昭和三年)は九重町野上に本籍があった。おそらく、平家山に住んでいた木地師の一人であったに違いない。平家山の木地師については、近江の氏子駈帖に記載があるという。母フサは滋賀県愛知郡蛭谷村の小椋仙助の娘で、近江の木地師と深い関係があることを窺わせる。また、長兄小椋冨士太郎(明治二年生)は大正一三年に宮崎県西臼杵郡三カ所村に本籍を移しており、彼は地元の娘ハツと結婚している。次兄の喜代一(明治五年生)は、中津江村祝川で本地師をしていた。中津江村合鶴に移住する以前、勝一は前津江村道の下に住んでいたことがあり、やはりその地の娘トモと結婚している。昭和四年ごろに引退して引野に移転し、店を開いた。それまで、勝一は標高690メ-トルほどの合鶴の台地に掘っ立て小屋のような粗未な住居を建て、半工半農の生活をしていた。周辺の兵古山・酒呑童子山・四つ城山の原生林や深い渓谷に成育したケヤキ(欅)の巨木を切り倒し、二尺大の欅盆や御器・椀などを製作していた。欅以外にシロエンジュ(白槐)で盆を作ったりしたという。白槐は大木になるが、数が少なく、目通りは良いが、割れやすい素材であった。欅・白槐以外に、栃や樫なども使用したらしい。勝一さんの二女の矢野スミエさんは、母親のトモさんが「木地師は天皇の分かれなので、官山(だいたい高山にある)は、ただで木を切ってもいい」と言っていたのを記憶している。これは、木地師が惟喬親皇の綸旨の内容(ただし偽文書)を理由に、深山の頂上部の木は自由に伐採しても良いと称していたのと符合する。切り倒した木は、アラケズリ(荒削り)といって、まず鋸で区切って、専用の斧ではつって整形した。妻のトモは勝一とともに荒削りした素材をカマスに入れ、オイコで背負って家まで持ち帰った。そして、雨の日に椀の内割りをしていたトモさんの姿をスミエさんは憶えているという。
小椋勝一の木地師の系統は絶えてしまったが、その伝統は現在の日田のクラフトの中にかすかに伝えられている。産業発展の基盤整備を目的に、日田郡工芸学校が明治40年に設立された。学習年限三年の漆工・蒔絵・挽物・木地・家具の本科が設置された。明治44年になると、卒業生を中心に日田漆器株式会社が設立され、後輩の技術教育も担当するようになった。木地科は薄板製の膳などの素木地を作成するので問題はなかったが、素材の供給で困ったのは、椀や盆の素木地を製作する挽物科であった。そこに現れたのが木地師の小椋勝一であった。工芸学校のために、彼は荒削りの椀の素材を提供するようになったのである。当時、日田郡・玖珠郡周辺では勝一だけが唯一の木地屋であった。彼には、井干原に松野という専属の牛引き(駄賃稼ぎ)がいた。二日に一度、椀の素材を取りに来た。炭ダッに入れた素材をコッテ牛(牡牛)に積んで、日田の工芸学校まで運んだのである《引野》。
木地師の墓 中津江村誌 第6編民族より 戻る 山民の概念に戻る。
大字合瀬字祝川には、木地師の墓がある。「九州路においては、目下のところ唯一無二の菊花御紋所入の御墓である」(杉本寿『本地師制度の研究』第二巻「豊後国の木地師制度」)とあるように、自然右の墓石に菊花の紋章を彫り、その下に次の文字を彫る。文久二年七月吉日六十七才(菊花紋)(梵宇)藤原姓小椋恒助之墓総高121.5cm。その右にもう一基次の文字を彫る墓石がある。(右側面)小椋新助妻安攻七年(正面)梅屋浄春信女申正月廿九日(左側面)行年七十七才この二基以外にも、草に埋もれた墓石が数基散在している。杉本寿氏の前掲書に「近年まで藤原勝家ら三軒があって、綸旨・免許状を所蔵し、水田五段・畑二段・山林二百余町歩を基盤として生活していた」とある(木地師の生活等くわしいことは、本書民俗編参照のこと)。なお近くに権現社の小社があるが、祭る人もいないまま朽ちようとしている。天保二年(1840)正月の墨書銘のある棟札や、天狗の面・鉾の奉納物がある。棟札に天神宮とあるが、木地師の山の神としての信仰もあったと思われる。
中津江村の山神信仰 中津江村誌 第6編民族より 戻る 山民の概念に戻る。
中津江村には山神社が極めて少ない。焼畑、炭焼き、伐採、椎茸栽培、狩猟などの山稼ぎを主とした山村では考えられないことである。大原八幡宮禰宜の橋本氏が、日田方面の山神森にはかなり天神森と呼ばれているものがあると語っていた。中津江村でもそうであるならば、猪野々の田神は「山ノ神ノ本」にあったから、山神が田神に変化した可能性がある。また、才野の「新地」の天神森は、「神社取調帳」には田神森と記してある。あるいは柿ノ谷の「籔塚」の田神森を人々は天神森と称している。以上のことから、本来は山神森であったのに、田神森や天神森と呼ばれるようになったものがあるかもしれない。山神社や山神森が極めて少ないからといって、山神信仰が弱いわけではなく、公簿に記載されなかったものがかなり多い。山神の形代は、原では角取山の中腹のイヌツゲの巨木であったが、枯れてからは近くのイヌシャカキにしている。宮園では樫の巨木の根元に石祠に自然石を納めてある。堤でも樫の巨木の森の中の自然石である。丸蔵では小さな木造の社殿に木彫りの小神像を安置している。神像は明治後期に猪野並平氏が彫ったものである。狩衣・裁着姿のようで、被り物があったらしく頭部に穴があり、太刀でも背負っていたのか背に溝がある。何かをモデルにしたと思われるが、木彫りの山神像は他に類例が無い(氏神の天満社が宮園津江神社に合祀されたため、祈願に不便を感じて山神を氏神として祀ったらしい)。大正時代に数本の三叉矛が奉納されている。大正十五年の「ドウゾナオシテクダサイ」と墨書のあるものは病気平癒祈願であろう。原では山神は三叉矛が好きだと信じている。
・・・・・・・・・正・五・九月の十六日は、山神が木を数える日であるから山仕事をしてはいけない。
・・・・・・・・・山で物をなくした時、「お礼に珍宝を見せますから失せ物を出してください」とお願いすれば良いから、山神は女神であろう(石場)。
鯛生金山の山神信仰 中津江村誌 第6編民族より 戻る 山民の概念に戻る。
金山の坑内では口笛を吹くことや、犬・猿の話をすることは禁忌とされた。
・・・・・・・・口笛は山の神を呼ぶから。
・・・・・・・・犬と猿は犬猿の中といわれるように仲が悪く、犬が石をくわえているので犬や猿の話をすると落盤がある、と筑豊の炭田で信じられていたという。
・・・・・・・・親・兄弟が死亡した場合、忌明けまで一週間は入坑しなかった。
金山の山神社は大三島の大山祇神社を勧請した。山神社は昭和11年に現在地に遷座した。前の山神祠附近には大きな青大将や多くの白蛇がいた。青大将は山神様であろうという。遷座は夜半に行なわれたが物凄い暴風雨であり、その後、産金量が減少したりしたので、山神様が遷座を喜ばなかったと人々は思っているようである。
老松神社(津江神社)の祭り 中津江村誌
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津江神社では、氏子の末端組織のことをホリ(祝部:ほうり)といい、氏子の最高責任者を宮柱と呼んだ。祭りは旧暦三月三日の祈年祭(現在、四月十五日)、旧暦六月十五日の例祭、十一月朔日の新嘗祭と年三度であった。
更衣祭・・・・・日田郡内のほとんどの神社のご神体は木彫神像ではないかと推測される。そしてかなりの神社で御衣替えの神事が行なわれていたようであり、現在でも続けているところがある。津江神社では、奉仕者の語るところでは、一日で苧をうんで御衣に仕立てる、ヒゲリバタ(日限り機)でなければならなかったという。御衣には麻布と和紙のニ種がある。津江地方の御衣の特色は手織りの麻布を用いていることにある。木綿の普及は江戸時代になってからであるので、本来の御衣は麻布であったと思われ、日田郡では古い姿を持続したものといえる。このことは麻が日田郡の主要な生産物であり、県内では最も遅くまで栽培していたことと関連があろう。更衣祭はわれわれが季節に合わせて更衣したり、死後も年回の法事ごとに衣替え料を檀那寺に納めている、ことと関連するのであろうか。この神事は日本人の神観を解明する鍵のひとつとなりそうである。
的ほがし祭り(祈年祭)・・・・・五穀豊穣・家内安全を祈願する。祈年祭の特色は、的射にあるというよりは最高に清浄な神饌にあった。戦前は、元宮地であった宮原集落が草餅を献じていた。草餅は、稗・粟にゴンギョウフツ(母子草)を搗き込んでいた。稗・粟は糞尿を肥料としないカンノ(焼き畑)で栽培し、ゴンギョウフツも牛馬の行かない清らかな所で採り、草餅を運ぶ容器も年ごとに木の皮で作った皮櫃を用いた。的ほがしに使う的は、割った青竹を径90cmくらいの円形にして、真茅を少しあてて両面に紙を貼って的を作る。表面の中央にマッポウシ(黒円)を描き、裏面には「鬼」と太字で書く。祭りの当日は神前に供えて神主がお祓いをし、呪文を唱えながら三度回る。掛け声をかけて三叉の矛で的を突く。拝殿からおろし、座前の人々が主に的射をする。的ほがしの古い姿を、「宮園津江神社」には次のように記してある。3月1日に的貼りをした。径三尺の的を作り、的骨に蓑茅を六角形に組み、両面に紙を貼る。表には二重の円と中央に黒星を描き、裏面に「鬼敵」の二字を書く。竹弓ニ張りと矢十二本を作る。大祓詞が終わって、悪魔退除の呪言を三度唱える。楽員が笛・大太鼓・小太鼓・銅鈸子等で奏楽し、左手に鉾、右手に鈴を持った社人が舞殿を十二回舞い、的の上下・左右・中星を鉾で突く。その後に的持ちが射場に的を立て、祝部二名が的を二度二十四射していた。
餅搗き祭り(例祭)・・・・・小麦餅を搗いて供えるので「餅搗き祭り」と通称する。伝説では、天福元年(1233)、長谷部宗俊が鬼戸ヶ嶽の鬼退治を祝って始めたという。しかし、祭日が旧暦六月十五日であることから考えれば、小麦の収穫を感謝する祭りであろう。いずれにしても、小麦餅を搗く祭りは県内唯一で、カンノ耕作の盛んであった津江地方にふさわしい祭りである。
宮崎県椎葉の的射(春祭り) 椎葉の修験道文化(平成14年) 椎葉民俗芸能博物館より
古枝尾地区の的射・・・・旧暦三月三日(現在4月15日)、竹の輪に毎年1枚の紙を貼り付ける「神の的」。
尾前・向山日添・向山日当・尾手納の神の的・・・・・4月初めの土日。形の小さな神の的を一つ作る。大勢の射手が矢を放つが的が極小のためなかなか当たらない。当てたものが的を持ち帰ることができる。
栂尾地区の的射・・・・1月15日、中山・尾崎・栂尾の3地区が毎年交代で行なう。神の的は各家が正月の注連縄飾りのトビ紙を用い、家族の人数分作って一所に集め、これに矢を放ち悪魔祓いとする。的のことを「鬼の眼」と呼んでいる。
不土野の神の的・・・・・旧暦三月三日、竹の支柱に大的を一つ取り付ける。小的は月の数分(例年12、閏年13)作られ、茅の矢を一年の日数分作る。病気平癒の「がんじょうぜ」(願成就)で「千矢の立願:せんやのりゅうがん」という作法があり、この時は千本の茅の矢を放った。
大藪・大桑の木の神の的・・・・旧暦二月一日、現在中絶。的の中心部の黒丸のことを鬼の目と称している。
祈祷師と憑きもの 中津江村誌 第6編民族より 戻る 山民の概念に戻る。
祈祷師・・・・・祈祷師は行者や法者と通称される。行者は真言・天台などの仏教系、法者は神道系である。祈祷師で良くあたる人は「マッポウシ様」と尊称される。マッポウシは的ほがしの的の中央の黒円であるから、マッポウシ様は的中する析祷師の意である。祈祷師は、村民の意識や行為にかなりの影響を及ぼしている。荒神様は金物や不浄、あるいは向きの悪さ、水神様も金物や不浄を嫌われて食いつく(崇る)、と信じているのは祈祷師の教えに因るものであろう。原因不明の高熱や、頭痛・腰痛・足痛などの時は祈祷師に頼り、不思議に平癒している。祈祷師は村内では田ノロ・中西に居たが、現在は引野に居る。上津江村の浦や豆生野、日田市夜明の関、佐賀県の鳥栖や八知山などにも居る。丸蔵の観音堂の後方に祀る山神像は、明冶時代未、猪野並平氏が彫ったものであるが(前述)、並平がこの像を祀った経緯は次のようである。猪野官治と息子二人が病死したのは、山神社境内の木を伐採して山神の怒りに触れたからである。山神である大山祇尊を祭れば、福徳を与えて家運を守ると神のお告げがあった、と北海部郡津組村(津久見市)出身の茸(なば)山師が、明治三六年(1903)九月二五日に川村兼一郎に語っている。並平は官治の父であるから、神のお告げに従って山神像を祀ったものであろう。この茸山師は、波平恵美子が林業関係者から祈祷師が出ている、と指摘した一例である。山村だから山神様に食いつかれた例は多い。丁重な祭りや畏敬の念は続いているけれども、山神風(ミサキー死霊風ともいう)に遭うことがあるから厄介である。山神様は人間の眼には見えないが山を歩いている。行き違った時に触れたりすると、突然に頭痛や寒気に襲われて祈梼師に頼ることになる。山神様と同じように水神様もよく食いつく。水の湧き出ている所で、薪用の枯れ枝を捨って帰ったら高熱が出た。考えする人(祈祷師)にみてもらったら、水神様の崇りであると言われた(簾)。小谷の小川に水神様が居られるという場所があり、毎年七夕笹を立てている。妻が夜半にうなされたので行者にみてもらったら、水神様が障っているということであった。早速、塩・米・酒を供えてお断りしたら良くなった。大山町の木屋(木流し)兄弟が泊っていた。水神様の崇りの話をしていた時、木屋の弟の方が崇りなどはないと否定したし翌日、天神ダキに行くと急に弟の足が立たなくなった。行者にみてもらったら永神様の崇りだと言われた(合鶴)。先祖の霊に会いつかれた例もある。田を開くために邪魔になる塚を掘り崩し、塚の上の五輪塔を移動させた。この五輪塔は、合鶴長谷部氏の最も吉い光祖墓と伝えられていた。村の教育委員会が五輪塔の撮影に来たので、撮影し易いように田の畦畔に置いた。その晩から三晩ほど妻が夜半にうなされた。妻はセコの鳴さ声が開こえてうなされたという。行者にみてもらったら、墓を動かされた先祖が怒っているということであった。塩・米・酒を供え、線香・ろうそくを上げてお断りした(合鶴)。祈祷師の手に負えない場合もある。原因不明の火災で住宅が焼失した。行者は天火という運命的な火災だ、と言うのであきらめた。小原の津江神社から火が飛んで来た、という噂もあった。
山伏・・・・・石場では、現在も英彦山参りを続けているように、中津江村は英彦山山伏の勢力圏であったから、昭和初年まで各集落を山伏が回っていた。幣付きの榊でかまどの周囲を抜ってお札をくれたので、米二、三合と銭をお礼にした(原)。勝琳坊が年二回ずつ来た。座に上がって神棚に祝詞を上げて祈祷し、鳥の絵や英彦山神社のお礼をくれた。米・麦一升ずつを与えた(中西)。黒い衣を着た山伏が袋担ぎの子を連れ、米・麦の出来秋に来ていた。庭の戸口の外から、荒神様に参って法螺貝を吹いて祈祷した。お礼は米・麦を一升ずつであった(合鶴)。昭和一二年ごろまで、袋担ぎを連れた山伏が厄抜に来て、父母石宅に泊っていた。子供の足形を白紙に写し取って渡すと、子供のかん虫に効くスジキリの析祷をした、お札を送ってくれた(ニ又)。祝川の上に豊前坊を祭った石祠があり、三又鉾を納めてある。豊前坊は天狗で牛馬神である。祠の前の砂を持ち帰り、他の砂と混ぜて田畑にまいて虫除けにした(中西)。
座頭・・・・・丸蔵には昭和10年ごろまで、晴眼の荒神ザッッ(座頭)が荒神祓に来ていた。庭の戸日に立ったまま、笹琵琶を弾いて読経した。お礼の米一合は持参した袋に入れていた。二又にも、晴眼のザッッが荒神祓に来て、牛馬の絵を刷った牛馬安全のお札をくれた。柿ノ谷にも昭和初年に福岡県柳川方面から来ていた。晴眼だったというから、丸蔵・二又に来たザッッと同一人だったかも知れない。赤星三男氏宅に二、三日泊まり、浄瑠璃を語っていたので「琵琶法師」と呼んだ。お礼は米一升くらいであった。
@狩猟の段取り
中津江村丸蔵地区・・・・・あらかじめ決めておいた場所に猟師が集まり、相談して「とぎり」(猟区)を決めた。足跡などを見ておいて、猪が出入りした数を調べて、「とぎり」の中に猪がいるかを判断した。猪の存在を判断したら、「しがき」(射場)で待つ者と、追い出す者とに分れた。現在は犬で追う「いぬだて」(犬立て)をするが、昔は手負いの猪でなければ「いぬだて」をしなかった。猪の行く場所は決まっているので、必ず「しがき」に現れた。月夜に、餌を探したり、「にた」(泥地)に出て来る猪を撃つのを「よまち」(夜待ち)という。「うじ」(獣道)から三〜五間離れたところに「まちば」(待ち場)を作り、周囲に柴を立て回した。背後を綿密に、前方は銃を撃てるように柴を低くした。
中津江村市ノ瀬地区・・・・・猪の跡を追うことを「とぎり」といった。「とぎり」する人は枝をおいて「しおり」(印)を立てた。これを「しおりをうつ」という。「しおり」を立てると、他の組が同じ猪を追って、同じ「かくら」(猟場)に入ることはできなかった。指揮者自身が「とぎる」ことはなかった。・・・・・・・・・中津江村誌 第6編民族より
宮崎県椎葉山・・・・・猟の当日未明に下検分(「とぎり」役を指す)を出して、猪の潜伏所(「かぐら」と称す)を調べさせる。其の復命を待って猟師は鉄砲を提げて要所(「まぶし」という)に就くと同時に、追人(「せこ」のこと)を放って追い立てるのであるが、此の配所が定まると要所にあるものは、追人から竹笛を以って合図をするまでは、決して物を言わず、咳一つするにしても地に伏して外に漏れぬようにせねばならぬ。・・・・・・・・・明治44年日州新聞記事より
中津江村丸蔵地区・・・・・「さしめ」(肋骨部分)や「こみみ」(耳の下)に当たったり、頸骨を打ち折れば、一発で撃ち殺せる。「ひはら」(肋骨の終わりから尻まで)に当たった場合は、すぐには死なない。腸が傷口を塞いで大量に出血しないからである。「たかじょう」(背骨の上)に当たると、駆けてる猪でもころりとこくる(倒れる)が、1〜2分もすると起き上がって逃げてしまう。・・・・・・・・・中津江村誌 第6編民族より
宮崎県椎葉山・・・・・小肘の外れと云う猪の急所(肺臓や心臓の辺り)をめがけ、上手な猟師になると一撃にして之を倒す。愈よ猪が斃れると撃った猟師は「やまからし」「やまがたな」(短刀)で猪の咽喉を刺し、次に「はいばらい」(尻尾)を切り取って自分が撃倒した証とする。こうして短刀と猪の耳を一つに束ね、即座に“今日の生神三度三代ケクニュウの神山の山東山カウソが岳の猪も鹿も角を傾け、カブを申受け、今成仏さするぞ、南無極”と坊様の引導のようなことを言う。此の猪を第一に撃止めるということは狩猟仲間の最も誇りとする処で、山幸を得る為にオコゼのおまじないをする。元来日向国はオコゼが至って少ないので、之を得ると神のごとく尊祟して猟運を祈るので、オコゼを恭しく白紙に包み、“オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。然すれば紙を解き開きて世の明かりを見せ参らせん。”と、一心に祈りをささげる。幸い祈願が叶うと更に“お陰を以って大猪を獲たり。この上なほ一頭を獲させたまえ。然すれば愈よ世の明かり見せ申さん。”と唱えて、又々一枚白紙で其の上を包む。かくして一頭を得る毎に白紙一枚を加え、父祖伝来のオコゼを持っているものは百数十枚の紙に包んでいる。之が亦大の誇りとするところで、猟に出る時には必ず籠に入れて背負ってゆく。・・・・・・・・・明治44年日州新聞記事より
B解体・分配
中津江村丸蔵地区・・・・・猪が取れると、銃を2発撃って合図した。四脚を縄で縛る。縛り方に特別の作法はなかった。鼻を引きずらないように、鼻もくくって四脚のほうに引き付けておく。火を焚いて良い場所まで担いで運んだ。解体することを「とく」(解く)という。「やんぼうちょう」(山包丁)で猪の腹を割いて、「はら」(内臓)を出した。ます、「やまんかみ」(山ん神=心臓のこと)を串に刺して山ん神に「ほこう」(供える)。耳を後ろに倒して「やんぼうちょう」のひらを「みかえし」して切り、「いばす」(胆のう)と共に一番矢(最初に打った人、「はつや」ともいう)に与えた。「いばす」は胃薬になる。犬も「てぐし」(串に刺した内臓?)は一人前である。「あかふく」(肺)、「そまげー」(肝臓)、「いぶくろ」(胃)。火を焚いて串に刺した「はら」をおきの上で焼いた。「はつや」の人が「やまんかみ」を食べるまでほかの人は食べられなかった。
中津江村市ノ瀬地区・・・・・市ノ瀬では、猪を「とく」場所は決まっていた。集落内の川岸にある山の神のある所で、まず、猟師の「とうりょう」が、肝を十文字に切って、“山の神に「ほかい」奉る”と唱えて、石の上に載せたり、木の又に掛けたりした。肉だけ切り取ったあばら骨と頭骨を「もとやま?」に供え、“おかげで摂れました。あとまた、「りゅう」(猟)をお願いします”という。生まれて初めて猪を射た者が開く祝宴のことを「やぐちきり」(矢口切り)といった。「やぐち」を切ると、それからは「しがき」にも立てるようになった。家族に妊婦のいる猟師を「ごみ」といい、狩の仲間に入れるのを嫌った。獣が獲れない時には「りゅうまつり」(猟祭り)をした。御神酒と「ごく」(御供)としてオコゼを山の神に供えた。もし、十頭の猪を獲ろうと思えば、十枚の紙で包んで、“獲らせてくれれば、これを皆とって「ほかい」(供え)奉る”といって祈った。最後にオコゼを山の神にあげた。この猟祭の方法は天草の人が教えてくれるまでは知らなかったという。正・五・九(月)の十六日は山の神の祭日なので山に行くと良くないという。正月二十日は「ハツルハツカ」といい、山の神の餅つきの日である。この日に山で餅のにおいをかぐと、「くされ」(らい病)になるといった。山の神の姿は女で、そばに杖をついた男がいて、使いは犬と山鳥だという。山鳥にだまされて、いくら撃っても命中しないことがある。その時は筑後柳川のクロサキサマ(大牟田市黒埼玉垂神社のことか?)に行って拝んでもらう。ここで山の神のお姿(神像を刷った護符)を出している。狩の初めの時にこの宮に参って、鉄砲に祈祷してもらうこともあった。・・・・・・・・・中津江村誌 第6編民族より
宮崎県椎葉山・・・・・獲った猪は現場において直ちに分配する事もあるが、大抵は「おたどこ」(小田床:村里の分配する場所)に持ち帰って、丸な儘神へ供えて厳重に儀式を行なって後、「解き」に取り掛かる。「解き」を終えると執刀者は短刀を肉の上に×形に置て、“「かぶら」は山の神越前のきさき(こうざき殿)に参らする。骨をば御先御崎に参らする。「草脇」をば今日の日の三代ケクニュウ御に差上ぐ。登るは山が五万五千、降るは山が五万五千、合わせて十一万の御山の御神本山本地に居直りたもうて、数の獲物を引き手向けたび玉へり。半向の水も清ければしゃうげんして人々生く。南無極楽々々々々”と唱える。而して後に分配するので、当日第一の功名者なる射手には前足と胆とを与え、なお残りの肉を分かつ時にも射手を第一にして、「草脇」というところを与える。「こうざき」と称する猪の心臓と紙の旗とを「こうざき殿」に献上する。「こうざき殿」とは猟師の祭っている猪の心臓で、オコゼと同じような迷信からきたものであろう。「こうざき殿」は巌石、又は大木の下雨露のかからざる所に奇石を置き、折々「かけぐり」(篠竹等で作った即製の献酒筒)を献ず。と、祭文のようなものを読み上げる。“諸行無常是 生滅法 生滅為寂滅為楽 ひがふぐんせいのもの助かるといへども助からず。人に食してぶつくわ(仏果)に至れ。願以斯切徳平等生一切おんゆにく、百さいちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし。”こうして、例の心臓すなわち「こうざき殿」を埋葬する。・・・・・・・・・明治44年日州新聞記事より
宮崎県綾・・・・・「ふくまる祭」、「ふく」は肺で、「まる」は心臓であるから、「ふくまる祭」をする人は、「ふく」と「まる」を受ける者、すなわち、猪を射止めた人である。肺を二片づつに切り心臓を三片にきるので七片になるが、これを「ちかた柴」の枝に一片づつ刺して七串にする。祭った七串の中で、心臓の一番先の一片を飼い犬に食わせる。あとの六串を御客に出す。御客といっても初矢祝」をさせぬ者はこの串の肉を戴くことはできない。「初矢祝:はつやいわい」とは生まれて初めて猪を射た者が開く祝宴のことをいう。・・・・・・・・・明治40年日州新聞記事より
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椎葉神楽の最初の演目「板起こし」 椎葉の修験道文化(平成14年) 椎葉民俗芸能博物館より
地区によって、若干の差異はあるが、猪や鹿の肉を唱教(しょうぎょう)を唱えて俎板の上で切り、舞手である「ほうりこ」(祝子)や参列者に肉を配り、神と共に饗食する儀式である。また、肉は火の神や水の神など多数の神々への贅としても用いられる。
板起こしの唱行(嶽之枝尾地区)・・・・・・・・・・・ばんばんすえて、ばんすえて、黄金まじりのばんすえて、此のばんな、如何なる匠の造りばん、日田の大工と竹田のばんじょうがかな(鉋)かけて、み山桜にかんばをもちて、やところとしたるばんなれば、これやこぼれやばんのよね、こぼらばゆれゆればんのよね、あしきことも、ほかいちだいにおこいたよ、およきことも、、うちじゅぜんにもおこいたよ、お障子のらいかいとさぬれば、家にわっほう波すえて、おかまの前にわ四人の檜の木の波すえて、えん座のさかもり始めたよ、おなそのものにするものは、猪しし、かのしし、女魚も男い魚も揃えたよ、ほうちょう小刀、まな板まなばし揃えたよ、切ったりひいたり、千年ゆうとゆうと、さかなをとり、万年ゆとゆうと、肴を戴く、じょうじょう神はおりえまします。
椎葉村大河内神楽の板起しの唱行・・・・・・・・・・・・・ばんばんすえて、ばんすえて、如何なる匠の作りばん、飛騨の匠と、武田の番匠、鉋借り掛けて、御山桜のかばを持ち、八所閉じたるばんなれば、言うにやこぼれしばんの世に、こぼらば世に出よ、ばんの世に、世起き事をば内じゅ前にもお越えたよ、あしき事をば外一段にもお越えたよ、しゅじの来拝、時来ぬれば、蓮華の酒盛り初めては、其の肴に切るものは、猪の獅子、鹿の獅子、大魚も小魚も庖丁小刀、まな板、まな箸、揃えては切ったり、盛ったり、千年表と言う鶴の甲をこそ切る、万年表と言う亀の甲をこそ切る。
● 『日田の大工(飛騨の匠)と竹田の番匠』・・・・・・・参考リンク;http://www.e-obs.com/heo/heodata/n144.htm
中津江村の民俗として、1)山の神信仰における三叉矛の奉納、2)津江神社の的ほがし祭り、3)狩猟儀礼 を見てみました。1)は、宮崎県南郷町神門神社や尾鈴山に、そして、2)と3)は宮崎県椎葉山に、そっくりのものが見られます。これらの習俗は、古い古い山の神(山神)信仰に、大宰府(天神)信仰や修験道信仰、そして山師(特に広範囲な移動性をもった木地師等)の民間信仰が重層されて形成されたものと思われます。