ちょっと素敵な牛島さん達を何故か紹介します。
牛島孝治さんNew040920
語り部の牛島さん New090520
/久留米市バーチャル人権博物館/
牛島さんたちのル−ツに迫る更新080406
(文久4年/1864年生まれ-1926年3月27日没)
福岡県三潴郡鳥飼村(久留米藩掛赤村:現久留米市梅満町)出身、『馬鈴薯王、ポテトキング』、アメリカ合衆国カリフォルニア州開拓者、初代在米日本人会会長
変則中学中洲校(八女市山内)
参照Link: http://www.yasutake.kurume.ed.jp/sugoi/usijima/usijima.htm
(明治33年/1900年生まれ-1997年9月16日没)
日本洋画壇最長老、熊本市出身、文化勲章受賞画家。1927年東京美術学校卒、28年「芝居(赤坂並木坂之段)」で第8回帝展初入選。戦後46年「炎昼」第2回日展特選。49年須田寿らと立軌会創立、54年東京芸大講師、59年助教授、65年教授、68年退官、名誉教授。69年芸術選奨文部大臣賞、81年日本芸術院会員、82年文化功労者、83年文化勲章受賞。
牛島辰熊(柔道日本一)エピソ−ド
(明治37年/1904年生まれ-1985年没)
「スポ−ツとしての柔道、体育としての柔道などとバカなことばかりいっているから日本の柔道は弱くなるんだ。柔道は本来武道なのだから、そうした精神的支柱をとりはずしたら存在意義はなくなってしまうし、強くもならない。そんなものは柔道ではなく格闘術なんだよ」”柔道日本一”の輝かしい戦歴をもつ牛島辰熊は開口一番、たたきつけるような調子で言い切った。80キロを越える堂々たる体格。白髪、鋭い眼光、耳、鼻とすべて大ぶりな造作、気合いを入れるような語り口---”猛虎”の異名をとった往時の迫力はまだ衰えていないようだ。
熊本市横手町生まれ。鎮西中学4年より坪井の江口道場で初めて柔道着を着た。大正12年柔道4段、大正14年。第2回神宮大会県代表、初出場で青年個人の部で優勝、続いて第3、4回と3年連続覇権をにぎる。
昭和8年皇居警察師範、警視庁、学習院、拓大及び東京高商師範兼任、生活に余裕ができると東京・赤坂に牛島塾を開き後進の指導をする(まな弟子、木村政彦;大正4年生まれ、川尻町出身、昭和13-15年、3年連続日本選士権制覇)。
昭和19年牛島は治安維持法の「国政変乱、殺人陰謀」の罪で逮捕、軍法会議にかけられる。牛島は支那事変前から、戦争不拡大を唱える陸軍中将石原莞爾ら反東条派の将校らと親交があった。戦争不拡大論と「力と身体を伸ばし切っての攻撃は必ず敗れる」という牛島柔道の理論が共感を呼び合い、同士意識を育てたのである。昭和18年、ガタルカナルの敗戦を聞き国力以上に手を広げ過ぎたと考えた牛島は、東条を抹殺しなければ国は敗れると思いつめる。そこで同士とともに「大東亜戦局における現戦局に関する観察」と題するク−デタ−計画を練り上げた。計画実行直前に東条政権が崩壊したため、行動に移すまでには至らなかったが、計画書がもれ、法廷に引き出されるはめになったのである。しかし、すでに東京は焼け野原、法廷でも牛島らの憂国の志を認めて禁固1年半、執行猶予2年の寛大な判決を下した。戦後、牛島はいっさいの職を捨て夫人の郷里の一の宮町に引き込みどぶろくばかりを飲んでいたが、25年弟子達が不遇なのを知って上京、国際柔道協会という名のプロ柔道団を組織し弟子、友人30人を集め、東京、北海道を打って回った。戦前から、「柔道の水準を高めるためプロの存在が必要」との信念をもっており、「こうした動きがやがて世界の柔道につながる」と考えたのだそうだが、柔道界には入れられず、事実上講道館から破門された形になった。
東条政権転覆計画やプロ柔道団のエピソ−ドにみるとおり、正しいと思えば、断固として突き進む熱血漢、歯に衣を着せぬため、時に、疎外されたりするけれども、硬骨ぶりをたたえる人も少なくない。
(昭和3年/1928年生まれ)
「自由になることを欲しているならぱ、私たちはたたかわねぱなりません。私に自由を、そうでなけれぱ死を」。独立革命におけるパトリック・へンリーの言葉は、牛島税理士の自由観そのものである。あるがままの心で生きようと願う牛島税理士に共鳴し、自分たちもそうありたいと願った(「牛島税理士訴訟物語”思想・良心の自由を求めて”共栄書房」より)。
熊本県上益郡御船町生まれ。旧陸軍第918部隊の軍属で、軍国少年のひとりであった。敗戦を奉天で迎え、1946年8月に引き揚げる。旧満州の大地で体験した戦争の惨禍に基づき平和主義の信条を形成する。1947年9月、御船税務署に大蔵事務官として就職。インフレと食料不足、物不足の混乱期であり、税負担率は戦前戦後を通じて最高水準を記録し、税金の滞納もまた記録的な状況であった。全国財務労働組合御船・山鹿支部の委員長に選出され、労働者及び市民とともに民主的な運動を拡げていく。そうした中、昭和電工社長が復興金融公庫融資に際し政官界首脳に贈賄した「昭電疑獄」が表面化し、多くの国民とともに憤ることになる。1949(昭和24)年7月、前記運動を理由に税務署を免職になる。しかし、彼の信条は揺るがなかった。1961(昭和36)年12月、税理士試験に合格し、翌年2月に税理士登録。不当な税務調査に対する抗議、税金裁判への関与、消費税反対運動、納税者の人権に関する講演、諸外国の制度視察など納税者の人権の擁護者・救済者としての活動を精力的にこなしつつ現在に至っている。
「牛島税理士訴訟」のうた(詩人;加藤修)
昭和53年(1978年)
税理士会は牛島税理土に命じた
政治連盟奇付金5000円をよこせと
それは税理士法改正の資金だと
牛島税理士は拒んだ
政治連盟は選挙のたぴに自民党の候補を推薦する
おまけに税理士法は改悪だ
おととし集めた金は政治連盟から政治家にわたっている
高裁・裁判長はいった
拒む者が間違っていると
果たしてそうだろうか
国労事件で最高裁はすでに決断している
組合のためだから社会党候補への献金強制は
許されるという理論は通らないことを
それは何10円という低い金額であっても
だから税理士会のためだから特定候補も応援する
政治団体への献金強制は許されるという理論も
また通らない
思想・信条・良心の自由
ゆずることのできない憲法上の権利
まして税理土会は強制加入
まして税理士会は公益のための存在
まして税理士会は政治的に中立
そして政治献金は自発的意志にもとづくもの
牛島税理士は税理士の権利を奪われた
そしてそれは15年後のいまもつづいている
いま、最高裁でのたたかい
高裁の「ワイロのおすすめ判決」をくつがえすために
日本の民主主義のために
1996年3月19日最高裁勝訴判決!
(「牛島税理士訴訟物語”思想・良心の自由を求めて” 牛島税理士訴訟弁護団編 共栄書房」より)
牛島龍介さん(24ftの外洋ヨット、サナトス号を駆って太平洋を単独往復横断した青年)
古田武彦著 失われた日本 原書房より
わたしの研究を支えてくれたのは、日本の冒険心あふれる青年たちだった。
(a)掘江謙一(1962)〈経路〉西宮→サンフランシスコ〈日数〉三か月と一日
(b)鹿島郁夫(1967)〈経路〉ロサンゼルス→横浜〈日数〉三か月と十日
(c)牛島龍介(1969)〈経路〉博多→サンフランシスコ〈日数〉二か月と二十日
(d)牛島龍介(1970)〈経路〉エンセネダ(メキシコ北端)→博多〈日数〉二か月と二十七日
これらの冒険は、発動機なしのヨットで行われた。すなわち、その動力は潮流と風だけであった。この経験はしめす、日本列島から北アメリカヘの渡航日数は、約三か月前後であることを。また、さらに注目すべきことは、鹿島郁夫氏と牛島龍介氏の帰路の航海記録は、「北アメリカから日本列島へ」という、逆コースもまた、ほぼ同程度の日数で「可能」であることをしめしている。この事実は重要だ。なぜなら、アメリカ大陸側から日本列島への〃情報伝達〃もまた、可能であったことをしめすからである。「倭人の情報を、中国側が(倭人伝に)記録した」とわたしは書いたが、そのためには「倭人の帰航」というテーマが不可欠だ。この点、右の鹿島・牛島両氏の航海記録は、貴重な証言を提供しているのである。古田武彦著 失われた日本 原書房より
貿易風の旅人 牛島龍介 著 新書判/336頁/定価 本体835円(税別)
1969年、24ftの外洋ヨット〈サナトス〉号を駆って太平洋を単独往復横断した青年が、メキシコから日本への復路で綴った海、人、船、そして犬との対話。自己を厳しく見つめた独特の雰囲気が漂う文章が、本書を単なる航海記とは一味違ったものにしている。原著『犬と私の太平洋』(朝日新聞社刊)を改めて編集し直したもの。
1945年4月、熊本県八代市で養豚業も営む農家に生まれる。高校中退後、八代市内の精肉店で13年間に渡り修業。1977年に独立、「肉のうしじま」を開業。1999年、肉の表示に不正が多いことから、不正表示を調査する市民団体「あ〜消費者の目」を設立。
http://www.shinfujin.gr.jp/news/2002/4-4.html
参議院会議録、第154回国会 農林水産委員会 第13号 平成十四年六月六日(木曜日): http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/154/0010/15406060010013c.html
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8B%8D%93%87%8DF%8E%A1/list.html