山への旅(シリーズ) シリーズTopへ戻る
第17回 大善寺玉垂宮と天建寺葛城神社 2011.11.13up
筑後平野を取り巻く山岳地帯
葛城とは水間(三潴)を2分する筑後川の北岸地域
筑後川北岸の製鉄地帯(寒水川流域)
鬼と子供たち 鬼夜(大善寺玉垂宮)

久留米市大善寺玉垂宮


みやき町天建寺 葛城一言主神社

2011年11月13日撮影 牛島稔大 もどる
谷川健一著 “賎民の異神と芸能” 河出書房新社2009年より
『日本書紀』によると、雄略天皇は四年、五年と二度にわたって葛城山に狩猟に出かけている。五年の春二月の狩猟のときは、怒り狂った猪におそわれている。四年の春二月の狩猟のときには、天皇に面貌容儀のよく似た丈の高い人に出会っている。天皇はこの人は神であるとは知っていたが、あえて誰であるかと問うと、丈の高い人は、自分は現人之神である、と答え、また一事(言)主神であると告げた。天皇と一言主神は一緒に狩猟を楽しんだ。さいごに一言主神は来目水(くめかわ)まで天皇を見送ったとある。
『古事記』にも同様の記事が載っているが、内容はやや異っている。雄略帝は葛城山でふしぎな人と出会った。向い側の山をのぼる人がいたが、その人の行列は天皇の行列と全く同じ格好であった。天皇が誰かと問うと、天皇の問いと同じ答えが返ってきた。天皇が怒って矢をつがえると「自分は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神ぞ」と言った。天皇は「わが大神が現世に姿を現わされた現人神であるのは恐れ多いことだ」と恐縮し、太刀と弓矢を捨て百官の人たちの衣服を脱がせて礼拝し献じた。一言主大神はよろこんで贈り物を受けた。天皇が帰るとき、大神は山の稜線をわたって、長谷の山頂から朝倉宮に近いところまで降って天皇を送った、という話である。この『古事記』の挿話は、馬を並べて狩りをしたという『日本書紀』の記事とは趣がちがっていて、宗教的雰囲気をつよくただよわせている点に特徴がある。 もどる
・ @葛城一言主神社、A久留米と久米寺、B長谷(山)-朝倉宮: 大和と筑紫の奇妙な相似配置関係
・ 大和にあって筑紫にない葛城山 ―――→ 本来葛城山はなかった!?
・ 来目水(くめかわ)の謎
・ 大和の高取川http://g.co/maps/edjsw ・・・・・その先は久米寺
・ 筑紫の小石原川http://g.co/maps/v9q4r ・・・・その先は久留米
谷川健一著 “賎民の異神と芸能” 河出書房新社2009年より
『日本霊異記』上巻第二十八に、「役の優婆塞は、賀茂役の公、今の高賀茂の朝臣といふひとなりき」とある。高賀茂の姓は葛城の賀茂氏にもとづく。『新撰姓氏録』逸文の「賀茂朝臣本系」の項を見ると、神護景雲二年(七六八)には、従五位下賀茂朝臣諸雄と従五位下賀茂朝臣田守が高賀茂朝臣の姓を賜ったとある。翌年にも大和国葛上郡人正六位上賀茂朝臣清浜が高賀茂朝臣の姓を賜ったとある。こうして高賀茂が賀茂の姓に由来することが分かるのであるが、高鴨神の名もそのころに文献に登場する。
『続日本紀』の天平宝字八年(七六四)十一月の記事によると「高鴨神を大和葛上郡に祠る。高鴨神は法臣円興・弟中衛将監従五位下賀茂朝臣田守ら言さく 『昔、大泊瀬天皇葛城山に狩りしたまひし時、老人有りて、毎に天皇と相逐ひて獲を争ふ。天皇は怒りて、その人を土左国に流したまふ。先祖の主れる神化して老夫となり、ここに放逐せらるる』とまうす。今前記を検ふるに、その事を見ず。是に、天皇乃ち田守を遺して、これを迎へて本処に祠らしむ」とある。これを見ると高鴨神を葛城に祀ったのは天平宝字八年のことに属する。そのいきさつは次のごとくである。法臣円興や賀茂朝臣田守らが云うには、昔、雄略天皇が葛城山に狩をされたとき、老人がいていつも天皇と獲物を争っていた。天皇は怒ってその人を土佐国に流した。その老人というのは私たちの先祖の神の化身だった。それが放逐されてしまったので、かえしてほしいと訴えた。天皇は田守をつかわして、土佐から葛城にもどし、本拠である高鴨に祀らせた、と云うものである。ここにいう老人は高鴨神で一言主神と同じとされている。
役の優婆塞も高賀茂朝臣というからには高鴨神の祭祀にかかわっていたにちがいない。「賀茂の役の公」ともされているが、その役とはおそらく高鴨神の祭祀の役ではなかったかと考えられる。『土佐国風土記』逸文では、土佐の高賀茂の大社の祭神は一言主神となっていることからすれば、高賀茂朝臣である役小角と一言主神との関係は深いものがあったと見なければならない。云わば同族の神とも見なすことができるのである。 もどる
谷川健一著 “賎民の異神と芸能” 河出書房新社2009年より
役小角についての公式な歴史書の記事は、『続日本紀』に見えるものが唯一である。文武天皇三年(六九九) 五月二十四日の記録に次のように述べられている。
丁丑、役者小角伊豆島に流さる。初め小角葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足が師なりき。後にその能を害ひて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配さる。世相伝へて云はく、「小角能く鬼神を役使して、水を汲み薪を採らしむ。若し命を用ゐずは、即ち呪を以て縛る」といふ。
役小角が葛木山に住んで呪術を使っていたが、弟子の韓国連広足に、妖術で人を惑わしたと讒言された。そこで役小角は遠隔の地の伊豆島に流罪に処せられたというのである。世間では「小角は鬼神をよく役使して、水を汲み、薪を採らしめた。もし命令にそむくことがあると、呪術をもって縛った」と噂されたという。
「その能を害ひて」とあるのは役小角の能力が有害なので、と解せられる。小角の高い能力を広足が嫉んだのは間違いない。
『続日本紀』に役小角を讒言したとある弟子の韓国連広足は『新撰姓氏録』によると「采女臣同祖、武烈天皇の御世、韓国に遣はされ、復命の日に姓を韓国連と賜ふ」とある。采女臣はニギハヤヒ六世の孫のイカガシコオの孫とあるから、韓国連も物部氏の系譜である。『続日本紀』の天平三年丙子条では、物部韓国連広足とある。先祖の物部氏が韓国に派遣されたことがあるというので、韓国を姓としたとされている。
『続日本紀』によると、天平四年十月、物部韓国連広足は典薬頭に任命されている。宮人の医療を担当し、医師らを養成する機関である典薬寮の長官が典薬頭である。神亀の頃には典薬寮に属する呪禁師としてみえる (家伝下)。呪禁とは杖刀をもち呪文を唱えて、一定の作法をおこない、病災を防ぎ除く道教の方術である。符禁というのは、霊符を用いた呪禁である。
「呪を持するとは、経の呪を謂うなり、道術符禁、道士法を謂うなり、今、辛国連これをおこなう」と『令集解』巻七僧尼令の古記に述べられている。韓国連(辛国連)広足は、神亀の頃、典薬寮の呪禁師として、道教等の呪術的医療をおこない、天平四年には典薬頭となったのである。 もどる
日本書紀、古事記に書かれた雄略帝と一言主神の出会いの記事は、雄略帝の『長谷の朝倉宮』が
福岡県朝倉市長谷山(http://g.co/maps/ffj7j)あたりにあったことを示しているように思える。
※ 来目水(久留米川?・・・朝倉の長谷山を流れる小石原川は、牛木、甘木、馬田、三井郡太刀洗(大堰)を経て、筑後川に合流し、久留米市へと至。)もどる
※ 注意:『永禄年間秋月種実が大和国長谷の観音を安置してより長谷山に改めたという(続風土記付録:角川日本地名大辞典)』説は無視しています。
朝倉市(朝倉宮)の北方山岳地帯“三郡山、宝満山、大根地山、古処山、馬見山ライン”を越えると、嘉麻市(延喜式;嘉摩郡、和名抄;嘉摩=加万)です。
安閑天皇の御代の鎌屯倉の比定地とされる。カマ—>カモ一族の本拠地ではないか。
すなわち、筑後平野の北方山岳地帯(=葛城)の北側(嘉麻市)にカモ一族の根拠地があった。
朝倉市長谷山 ☆ 2012/1/8 牛島稔太撮影

↓ 朝倉市長谷山と野鳥川(朝倉市長谷山) 牛島稔太・写真2012/1/8


荷持田村(のとりたのふれ、のとりのあれだ:甘木市秋月野鳥)の羽白熊驚(一説に古処山に住んだ)という土賊ありて、人民を悩ます。
長谷山と小石原川(朝倉市下淵区) 牛島稔太・写真2012/1/8


その北岸の山岳地帯に葛城王朝があったのではないでしょうか?
筑後川北岸の製鉄地帯
三根郡 太宰管内志
葛木一言主神社 葛木郷 物部經津主神 物部郷 漢部郷 米多郷 千栗郷 千栗八幡社
或いは
●
鬼夜(大善寺玉垂宮) 写真:2012年1月7日 牛島稔太・撮影
汐井 禊ぎ 玉垂宮の屋根 恵比寿社の傍らで時を待つ鬼っ子



夜の行事を飾る大松明廻しは、直径1m余り、全長13mの六本の大松明が、裸の若者たちによって支えられ、火の粉を散らしながら本殿の周りを勇壮に廻ります。
【くるめんもん.com http://kurumenmon.com/daizenji/oniyo/oniyosetumei.htm より】
この間、鬼役は姿を隠したまま、シャグマの子供たちに囲まれて鬼堂の周囲を7回半回り、社前の霰川で禊をして神殿に帰るという珍しい行事で、
我が国の鬼の民俗を考える上で極めて示唆に富む行事といわれます。
【くるめんもん.com http://kurumenmon.com/daizenji/oniyo/oniyosetumei.htm より】
郷めぐりへもどる
貝と月と竹 海の道へもどる