山への旅(シリーズ) シリーズTopへ戻る
第2回 福岡市早良区百道浜 よみがえる九州王朝(古田史学) 2006年6月更新
2005年6月11日プロ野球交流戦(ソフトバンクホークスVSヤクルトスワローズ)観戦のため、福岡ドームに行きました。翌日、福岡市博物館で時間を過ごした私は、博物館からの帰りしなに、一冊の本「謡曲のなかの九州王朝(新庄智恵子 著、新泉社)」を求めました。どうやら博物館の常設展示室、能面の世界に展示されていた能面にでも魅入られたせいでしょうか?
●http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/tamago.htm 能のたまごまっぷ 山本能楽堂便り
古代倭の国、半島の百済、そして九州王朝説
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山への旅(シリーズ) 第1回 宮崎県東臼杵郡南郷町:百済王伝説(九州脊梁山地、落人の里)にみるとおり、百済の王さまを約千三百年以上にわたって、まるで自分達の王のごとく祀り続けてきた私たち日本人の祖先のことを考えると、九州と韓半島にまたがる王朝(或いは人間集団)が本当に存在したのではなかったかと思えるのです。そのような王朝(古代倭の国と百済国)が、白村江のたたかい(663年)で、唐、新羅の連合軍に敗北し、韓半島から九州へ、そして、最も山深い脊梁山地へと逃れた。それが、今に伝わる百済王伝説なのではないでしょうか? 或いはもっといえば、白村江の戦いよりももっと以前から、中国大陸或いは韓半島の動乱を逃れ、日本列島に来た人間集団の血が、我々には脈々と受け継がれているのかも知れません。
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また、九州王朝説(古田史学)によると、日本書紀景行紀の「九州大遠征」譚は、九州王朝(北部九州)による九州統一(熊襲征討)譚の盗用といいます。景行天皇(オシロワケ)が北部九州を拠点とする王朝の王だとすると、「書紀」の景行天皇13年の条「高屋宮、御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」また、応神天皇(ホムタワケ)が、筑紫の蚊田に生まれ、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とされたことや、更に「応神紀」の日向諸縣君牛(諸井)の女、髪長媛入内説話(仁徳天皇后妃)など、日向出身の媛が王朝に入内する記事がすんなりと読める気がします。加えて、『日本書紀』仁徳紀二年の条では「磐之媛命を立てて皇后とす。とありますが、仁徳天皇の皇后、磐之媛命は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の女(むすめ)です。そして、この葛城襲津彦も、日向の北西部一帯を根拠にして九州中央山地に勢力を扶植した「ソのクニ」(“ソ”とは、阿蘇山のソ、祖母山のソ)の首長であったと、日高正晴氏は述べています(西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年)。このように、景行、応神、仁徳天皇の記事をみても、これらが、過去のある一時期、北部九州(恐らく筑紫)に拠点をもった王朝の記事であったとすると、違和感なく納得できる気がします。
参考文献
朝鮮からの新しい波 New
海の往来 New
難波の堀江 New
神武天皇と九州 New
多元的国家論 New
東と西のワカタケル大王 New
島津庄 New
参考サイト:
九州王朝説(古田史学)のサイトは、すばらしく充実しています。
● http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html ●http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta3.html 新・古代学の扉 : 古田史学の会
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http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/koga26.html 高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝
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http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/koga44.html 筑後地方の九州年号 古代九州王朝の真実
その他にも、これと関連した興味深いサイトを、いくつか拾ってみました。
●http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m200206 百済王 筑紫の加唐島に出生す 〜その1〜
●http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m290206 百済王 筑紫の加唐島に出生す 〜その2〜
●http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/hakusukinoe.htm白村江のたたかいあまたりしほこ外伝・九州王朝の滅亡
●http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kyusyu2.htm 扶桑としての九州(その2)
●http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m200112 漂泊の民が伝えた聖なる舞い姿 筑紫舞 〜その1〜
●http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m290112 漂泊の民が伝えた聖なる舞い姿 筑紫舞 〜その2〜
●http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper36.html 邪馬台国と神武東征 - 古代統一国家の形成:鷲ア 弘朋氏のページより
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http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper37.html 倭の五王と九州王朝説
- 古代統一国家の形成:鷲ア 弘朋氏のページより
●http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2004/ougon/html/ougon.htm 百済武寧王と倭の王たち
●http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k185.html 洪教授は「日本の15代王である応神天皇が大和政権の実際の設立者であり、彼は百済王族の子孫と推定される」と主張する。
重層する文化、連続する意識 宮崎康平、海原猛、中上健次、古田武彦、谷川健一氏らのアプローチ
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日本神話の考古学 朝日文庫 森浩一 著より 薩摩半島は、縄文時代や弥生時代において、東シナ海沿岸を利用した海上交通の中継地としての役割が大きく、たとえば市来町の市来貝塚(川上遺跡)を標識遺跡とする縄文時代後期の市来式土器は、貝殻で文様をつけるという点において、海との関係の深い集団が用いたものとみられている。この土器の特色は、西日本一帯の海岸に面した遺跡からも出土することであり、遠方まで運ばれている土器として名高い。つまり、市来式土器の背後にある集団は、舟に乗って南島から北部九州、さらに一部は瀬戸内海沿岸地域にまで活発な交易活動に従事していたと推定されている。 この市来式土器を残した集団以後を、隼人系とみる人もいる。北部九州の弥生社会の男の支配者たちは、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の甕棺墓に葬られた死者にみられるように、沖縄本島など南島の海中でしか取れないゴホウラ貝を加工した腕輪を使う根強い風習があった。また女性は、これも南島産のイモ貝を加工した腕輪を使う風習があった。北部九州の弥生社会の支配者層の人びと(その一部を中国人は王とよんだ)にとって、ゴホウラ貝やイモ貝は中国からもたらされる銅鏡にも劣らぬほどのあこがれの品々であった。 阿多隼人といわれた集団は、ゴホウラ貝やイモ貝を南島から北部九州に運ぶうえでも大きな役割を果たしたであろう。この伝統は古墳時代にも続き、大阪府茨木市にある紫金山古墳(四世紀の前方後円墳)では、弥生時代の腕輪を踏襲したゴホウラ貝を加工した貝製品が発掘されている。この古墳では、ゴホウラ貝製の腕輪だけではなく、その形を碧玉で作った腕輪(もしくは腕輪形宝器)も出土している。 このような碧玉製品は、近畿地方の古墳時代前期の代表的な副葬品として古くから知られ、江戸時代にはすでに「鍬形石」の名称がついていた。しかし、江戸時代はもとより一九六〇年代まで、近畿地方の鍬形石が九州のゴホウラ貝製の腕輪に祖形をもつことは知られていなかった。ところが、一九七三年の遺跡探訪の旅で、弥生時代後期の鹿児島県枕崎市松ノ尾遺跡からほとんど鍬形石と同じ形のゴホウラ貝の腕輪が出土しているのに気づき、地元の研究者に学界への発表を依頼したことがある。碧玉製鍬形石のもっとも近い祖形とみてよかろう。このような点からいっても、吾田地方と近畿の大王家との間に何らかのつながりがあったことは事実とみてよかろう。 |
● 弥生式土器の流れ (松本清張 著 邪馬台国 清張通史1 講談社文庫 1986より) よみがえる九州王朝へもどる
阿蘇火山の東から東南にひろがる山塊は宮崎県の大部分、鹿児島の北半部、熊本県の南部をおおい、二千メートル級近い高山が多く、山嶺はいずれも急峻である。球磨川の上流には小さな人吉盆地がある。平野部は宮崎県にみるように海岸線に沿って狭く、それも段丘をなしている。あとは大淀川・一ツ瀬川にはさまれた宮崎平野があるくらいで、鹿児島県となると不毛なシラス(火山噴出物)などの地帯が多い。
地形からみてもそのように、文化的にも九州の南は北から分散し、隔離されてきた。これは考古学的な遺物からもいえることで、南半部には弥生後期のはじめには黒髪式の名でよばれる地域性の強い土器文化があり、これは後期終末までつづいているという。その定着性は、他の文化が入らない隔離性でもあり、それを拒絶する独自な地域性でもある。同じことは、人吉盆地を中心に出土する免田式という土器についてもいえる。南部を中心にできたこの土器文化は、その後も定形化して、古墳時代前期まで南部九州にとどまって残るという。その停滞性は晩期の縄文土器についてもいえ、九州北半部では弥生式土器があらわれると縄文土器はその接点となった夜臼式が早く消えるのに対し、南半部の縄文土器は弥生式土器とかなり長い間共存する。
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●参考図: 九州島における主な前方後円墳の分布
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弥生式土器の流れ: 九州の北部と南部との違いを弥生文化からざっとながめることにしよう。 土器のほうからいうと、前期のもの(従来は遠賀川式と総称されたが、いまは板付T式といっている)が急速に瀬戸内海沿岸地域を通って近畿地方から伊勢湾沿岸に達する。それより以東へは容易にすすまずに停滞し、中期になると逆に西へあともどりしてこんどは各地方で地域性の意匠を身にまといながら、瀬戸内海を通って九州の東部(大分県)に上陸する。 考古学者は、畿内の初期弥生式土器「畿内第T様式」を三段階に分け、それが「ヘラ描き文から櫛描き文へ」と移る中期の「畿内第U様式」となり、それをもまた四段階に分ける。 畿内や山陽・北四国で、ローカルカラ−を身につけた中期後半の弥生式土器(櫛描き文)は、大分県の国東半島に上陸すると、その主流は北部にむかわずに西や西南にひろがる。前者は前にいった熊本県の黒髪式や免田式土器と山岳地帯を通じてふれ合う。この免田式も黒髪U式も熊本県から北にはむかわず、西にのびて天草諸島にまで行く。 いっぽう、畿内より「逆戻り」して大分県から西南へ流れた畿内式土器は宮崎・鹿児島県へ行って後期の成川T・V・V式となってとどまる。 ところが、国東半島に上陸した畿内式土器は前記のように九州北部にはあまり多く入らない。この時期より前から朝鮮海峡沿岸地帯の北九州には須玖式土器といって、赤く色を塗って磨いた美しい壷形土器や大きな甕の土器があらわれていた。 丹塗り研磨土器は朝鮮から流入したものだ。大形の甕は大量の貯蔵用としてつくられ、別な用途では合口甕棺(二個の甕の口を合わせ、中に成人の遺体や副葬品を入れた棺)となる。したがって大形の甕は、他の地域の小形な甕が数リットルしか入らぬのに十数リットルも入る。 大形の弥生式土器は農耕生産の豊かさをものがたる。最初の出土地の名をとった須玖式土器の須玖は、筑紫平野の中にある。美しい丹塗りの研磨壺形土器といい、この巨大な甕といい、北部九州の経済的紫栄がうかがわれる。その繁栄の独自性が国東半島にきた畿内式土器をうけつけなかったのであろう。 もともと自分のところから畿内や伊勢湾沿岸に行った弥生式土器である。本来なら「里帰り」として迎えるべきなのに、北部九州はまことに冷たいことであった。だが、それは九州東部にもどってきたその土器が、以前に送り出したときのものとちがい、畿内や瀬戸内の地域性によって様子が変わっていた、いわば嫁にやった娘が似ても似つかぬ姿になったので、実家ではその「里帰り」をゆるさなかった、といったたとえに近い事情ではなかったろうか。 要は、「経済繁栄国」北部九州の土器に対する好みが、弥生前期とは変わっていたことにもよろう。生活が充実すれば当然趣味も変わってくる。 精巧な丹塗り研磨の壷形土器と大きな甕形土器の時期と一致する合口甕棺や支石墓(これが九州弥生文化の大きな特色)は、福岡県を中心に西は佐賀・長崎県の全域、東は山口県の一部に点在するという東西の横のひろがりとなり、南はだいたい熊本県の宇土半島までだといわれる。これも陸地の連絡はみられず、有明海・不知火海の海路による文化の運搬とみられる。そのわけは、陸路では筑紫平野の南にすぐつづく日田盆地(大分県)あたりがだいたいの限界だからだ。 甕棺に、前漢鏡や細形銅剣・銅矛・銅戈の朝鮮輸入青銅器が副葬されるのもこの須玖式のころだ。それが後になると王莽の「新」や後漢の遺物となる。貸泉が出るのもそのころである。 その後期の北部九州の土器は、朝鮮の無文土器のように文様がほとんど消え、容器もきまった規格でつくられるようになる。農耕生産物がますますふえると、土器も「デザイン選び」よりもっぱら実用的なものの量産にはげむ。 この後期から北部九州では成人用の甕棺葬が消滅する(小児用の甕棺葬は中国その他の国にも多く見られるが、成人用のそれとは区別されている)。それにかわって大陸や朝鮮系の箱式石棺と土壙墓がさかんにおこなわれる。 「その間には明瞭な断絶現象がみとめられ、何か歴史的事情の潜伏をおもわせる」という考古学者もいる(鏡山猛・乙益重隆『新版・考古学講座4』雄山閣刊)。 以上、おもに弥生式土器の前期から後期への移りかわりを九州を中心に、まことに大づかみに述べた。土器の分類は複雑多岐で、編年もなかには動揺しているのもあるが、まあ、だいたいこういうところであろう。 もどる よみがえる九州王朝へもどる |
● 鏡の変遷 森浩一著 日本神話の考古学 1999年 朝日文庫より よみがえる九州王朝へもどる
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「倭人伝」では、魂の皇帝が女王ヒミコに与えた詔書のなかに、下賜品の目録が含まれているのは名高いことである。主要な下賜品は毛織物と絹織物であって、全体のほぼ終わりに、銅鏡百枚≠ェ記されている。三世紀の魏の時代には、魏の領域が広がっていた華北の生産力・技術力が衰えていて、銅鏡生産の中心は華中、とくに江南の地に集中していた。そのため、華北では鉄鏡も生産されており、このような前提で「倭人伝」の詔書を読むと、銅鏡ばかりをプレゼントします″という意味が、言外に示されている。 この「倭人伝」の記録から、三世紀の倭人が銅鏡をつよく求めていたことはうかがえるけれども、考古学の資料によると、倭人と銅鏡の出合いは、それより四百年ほど古い、中国の前漢時代にさかのぼる。だが、それは日本列島全体ではなく、弥生時代中ごろには、北部九州、とくに福岡県と佐賀県の人びとだけが大量の銅鏡を手に入れていたのである。主として北部九州だけに流行した大きな土器(甕)を二つ合わせた墓(甕棺)に、青銅製の武器類や南島産の貝で作った腕輪をはじめとする各種の装身具とともに鏡が納められていることから証明される。 弥生時代には、中国人が王とよんだような支配者層の人びとやそれに次ぐ上層の身分の人たちが墓に鏡を入れる風習が、中ごろだけではなく後期にも続いている。これは北部九州に集中しており、現在知られている資料では、大和の弥生遺跡では漢式鏡は一例も出土していない。このことは文化や富の優劣ではなく、銅鏡を墓に入れる習慣を大和の弥生人たちはもたなかったのである。必要なことに限ると、弥生中期は前漢時代の鏡、弥生中期末から後期は後漢時代の鏡が主になっており、それらは同類が中国の遺跡からも出土しているという意味で、中国鏡あるいは舶載鏡とよばれている。この時代、北部九州でも銅鏡の生産が始まっていて、それらは彷製鏡とよばれ、弥生遺跡からはその一部の鋳型も出土している。 弥生時代の彷製鏡は、製作地でいえば倭鏡とよぶべきものであるが、前漢や後漢の鏡より直径が小さく、小型鏡とよばれている。だが、のちに述べるように、この常識は平原古墓の発掘によって、一新されたのである。 弥生時代が終わって、前方後円墳が西日本のみならず東日本でも突如として造営される古墳時代になると、謎の鏡″といわれる三角縁神獣鏡が大流行した。謎といわれる理由は、日本の古墳に大量に出土するにもかかわらず、一部の学者が中国製、それも魏の鏡だという仮説を立て、中国に出土しないという事実を、考古学資料によってではなく言葉の操作でカバーしようとしているという点にある。だが、考古学の方法に徹すれば謎はどこにもなく、江南系の鏡作り工人の渡来によって、さらに弥生時代の発達していた青銅器生産の技術をも取り入れ、おそらく近畿地方が生産の中心になって大量に製作されたと推定される鏡である。この鏡は直径が二二センチ前後で、同時代の中国の尺寸に直せば、ほぼ九寸の大型鏡である。 この鏡は、もちろん広い意味では鏡であるけれども、単なる化粧道具ではなく、不老長寿の信仰を背景に、屍を永久に保存したいとする呪具・葬具の性質をもっていたと、私はみている。考古学的には重視されている鏡ではあるが、その性質を考えると、一部の学者が考えるような舶載鏡であっても、あるいはそのほとんどが日本製(ごく一部は江南での製品の可能性は残る。しかし、魏鏡ではない)であったとしても、その性質上、いま話題にしている八咫鏡の候補からは省いてよかろう。 三角縁神獣鏡は、四世紀代に流行した鏡で、弥生時代を含めて日本の古暮・古墳で出土している数千面の鏡のうち、もっとも数の多い種類の鏡である。三角縁神獣鏡が流行している四世紀代には、数は多くはないけれども直径四五センチ(山口県柳井茶臼山古墳)や直径四○センチ(奈良県柳本大塚古墳)などの超大型鏡、さらに勾玉文鏡(大阪府紫金山古墳)や家屋文鏡(奈良県佐味田宝塚古墳)など、日本的な意匠の鏡も作られている。これらは、単に漢式鏡をコピーしたという意味での彷製鏡に含めるには無理がある。つまり、倭鏡技術の最盛期のほぼ終末を飾った遺品であった。 三角縁神獣鏡の流行が終わるころから、古墳の数はしだいに増え、とくに六世紀代には爆発的ともいえるほど多数の古墳が各地でつくられるようになった。しかし、鏡の流行は弱まっており、当時の工芸技術は、馬具や冠など四世紀にはなかった分野に集中した観がある。このように、銅鏡の製作技術は前の時代よりもかえって衰えている。だから、優秀な鏡を製作することは、五、六世紀にはかなりむずかしいことであったであろう。 |
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東アジアの国際情勢 よみがえる九州王朝へもどる
3世紀後半から5世紀末葉までの時期東アジアと倭人社会との関係は、巨視的に見ると、中国大陸での歴史変動を核とし、これと密接な関係を持って朝鮮地域での諸種族の歴史的展開があり、朝鮮地域での歴史変動に倭人社会が密接にかかわって展開したということができる(倭王権の時代、吉田晶著 新日本新書 1998)。
卑弥呼 台与 志摩宿禰 千熊長彦 倭王旨 木羅斤資(蘇我石川臣の租?) 倭王讃 司馬曹達 沙沙奴跪 沙至比跪 倭王珍 倭王武
筑紫の安致臣・馬飼臣 膳臣斑鳩、吉備臣小梨、日羅 難波吉士 倭王阿毎多利思比狐 赤目子 紀小弓宿禰 紀生磐宿禰(紀大磐宿禰)
筑紫の君磐井 物部大連麁鹿火 欽明 毛野 大伴金村の子磐 狭手彦 内臣の佐伯連 蘇我稲目
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大陸 |
半島 |
列島 |
書紀 |
備考 |
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中国王朝 |
高句麗 |
百済 |
新羅 |
南韓諸国 |
倭 |
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前108漢の武帝、楽浪郡他3郡(玄菟、臨屯、真番)を半島に設置 ;楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国、歳時以って献見;52漢委奴国王の印 |
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漢書地理志 |
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263蜀滅ぶ、265魏滅ぶ |
248東川王没 |
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239倭女王(卑弥呼)帯方郡及び魏に貢献 |
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魏志倭人伝 |
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265西晋建国 280呉滅ぶ |
東夷諸国からの帰化、朝貢(晋書)276-291 |
266倭女王(台与?)西晋に貢献 |
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晋書東夷伝 |
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291八王の乱(西晋弱体化) |
302美川王、玄菟郡攻撃 |
304汾西王楽浪郡攻撃 |
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371北魏 |
331故国原王 |
346近肖古王 |
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364倭国使者志摩宿禰が卓淳国(洛東江中流域)を通じ百済と交渉 |
神功紀46 |
書紀 ※千熊長彦: 職麻那那加比跪(百済紀) 額田部槻本首らの始祖とされる。 ※干支を一巡ずらした記載か?本当は429年(山尾幸久) |
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392広開土王 |
392阿華王 |
392王族実聖を高句麗に人質に出す 418訥祇王 |
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400新羅進攻 |
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広開土王の碑文 |
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420
宗建国 439鮮卑族北魏王朝による華北統一 |
420 長寿王宗へ遣使征東大将軍 |
420久尓辛王宗へ遣使鎮東大将軍に |
434百済と贈り物の交換 |
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421倭王讃 宗への遣使安東将軍に |
神功紀46※ 神功紀62※ |
※讃による中国風「府官制」の導入? ※干支をずらした記載か?(山尾幸久) |
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475大挙して百済を攻撃する。8000人もの捕虜と百済の領土を奪う。 |
457-8蓋鹵王宗への遣使 461弟王昆支を倭国へ人質に 472北魏に入貢し、高句麗の非道を訴える |
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5世紀半ば頃: |
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倭王武の上表文 |
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479宗に替わって南斉建国 |
481高句麗・靺鞨と新羅進攻 519安蔵王 |
479蓋鹵王の弟昆支の子で倭国にいた東城王が百済王となる 495新羅の援軍により高句麗撃 |
481百済・加耶の援軍を得て高句麗・靺鞨を撃退 |
479加羅王茄知「南斉」に遣使 496大加耶王、新羅に白雉を送る 513-4日本人と任那人と頻り児息める。 |
昆支の第2子末多王に兵器と軍士500人をつけて護送、筑紫の安致臣・馬飼臣らが「船師」を率い高句麗と戦う |
雄略紀23 雄略紀8 雄略紀9 継体紀 |
※武寧王:倭国生まれ、島王(斯麻王) |
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549梁候景の乱で実質的に滅びる 東魏滅亡、北斉建国 553 突厥勃興 |
529百済進攻 545安原王没、陽原王即位 548,549東魏へ送使 550北斉送使、百済進攻 554百済進攻失敗 559陽原王没 |
529高句麗により2000名の死者 531-533安羅王の要請で対新羅軍を安羅の乞乇城、久礼山に置く 550高句麗を攻める 551百済聖明王、新羅(大伴狭手彦が率いる)と任那の兵を率い、高句麗を攻める。 554聖王新羅兵に討たれる |
529〜532加羅東南地域に進出 551〜560新羅領土拡大 |
529大加耶王、倭王に新羅に対する援軍派遣要請 532南加羅滅亡 |
紀生磐宿禰(前出の紀大磐宿禰)、任那を本拠に三韓の王となろうとして、官府を整備、自ら「神聖:かみ」を称し、高句麗と通商。生磐は「任那」の左魯那奇他甲背の提案を受け、百済の適莫爾解を殺した。帯山城を築いて百済に通じる道を塞ぎ、百済軍を飢えさせた。怒った百済王は古爾解と莫古解らを派遣し帯山城を攻めた。生磐は帰国したが、百済王は左魯那奇他甲背ら300余人を殺害した。 |
継体紀23 顕宗紀3 欽明記15 |
※1百済本記「日本天皇(継体)及び太子皇子、ともに崩薨りましぬ」 ※2欽明と秦大津父(秦河勝の先祖)の関係 この頃朝鮮に渡ったものとして、筑紫物部、筑紫国造、筑紫火君、阿倍臣、佐伯連、播磨直などがわかる。 |
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577
北斉滅亡 588
陳滅亡 598
隋 高句麗遠征 598 突厥 隋に大敗 |
563 大伴狭手彦、倭国より高句麗遠征
598 遼西遠征、逆に隋に30万の兵力で攻められる。 |
598威徳王没、恵王即位 599法王即位 600法王没 |
562任那宮家を滅ぼす。 575倭国進攻 |
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562 紀男麻呂宿禰が任那出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退 |
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*大伴糠手子連、阿倍目臣、物部贄子連 日羅に国政を聞く |
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607
隋(煬帝)琉球を攻める 612 高句麗遠征(100万の大軍) 618 隋滅亡 唐勃興 |
603 新羅を攻める(高句麗・百済・倭国連合、対 新羅) 613
隋に降伏 624 栄留王唐より国王に認められる。 642 蓋蘇文 栄留王を殺す。太陽王即位 |
621 唐に入貢 641武王没 |
602
隋に送使 603高句麗を迎え撃つ |
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600 倭王 阿毎多利思比狐 隋送使※ |
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※隋書 倭国伝、書紀にはこの遣隋使の記載なし *額田部連比羅夫が飾り馬で迎える。高向玄理、僧旻、南淵請安などを隋におくる |
●別:ワケ 『王族将軍』の問題(上田正昭氏):よみがえる九州王朝へもどる 江上波夫 著 騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ 改版 中公新書 1991
上田氏は、中国の南朝宋の歴史たる『宋書』にのせられている倭王武(雄略天皇)の上表文にまず着目したが、そこには倭王武以前の、日本国内外の征服戦について、「昔より祖禰躬に甲胃をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず」とのべてあり、王権の担い手が征服戦争の主体として意識されていたことを示している。またじっさいに、「上表文」の素材になったであろう国内外征服戦に関する宮廷伝承は、多くのばあい、大王(天皇)自身またはそれにつながる王族将軍を主体として構成されているとして、上田氏は記紀に物語られている応神以前の国内征服戦関係説話の主要なものを五つばかりあげた。@神武天皇東征説話、A四道将軍派遣説話、B景行・仲哀などの天皇親征説話、C日本武尊征討説話、D吉備津彦・武淳河別の出雲振根誅伐説話などで、いずれも説話内容をそのままには受けとりがたいが、問題は、王権の西国から東国への波及が説話のとおりでなかったにしても、古墳文化の展開や県制や屯倉・部制の拡大過程が示しているように、現実に大王(天皇)家を主軸とする中央勢力の浸透が四、五世紀にみられた事実、それが西国をまずはじめとして、のちに東国へとひろがっていった経過から推して、説話の原伝承自体は、まったくの机上プランではなかったと思われる。しかも、それらの征討に活躍する主人公がたんなる豪族でなく、大王(天皇)あるいは王族ないしその関係者と意識された人々によって形づくられていることが、共通の要素となっていることも、『宋書』にいう倭王武上表文の「祖禰」の活躍に対応していると述べ、さらにその王族将軍論の傍証として、「別:ワケ」の問題にふれ、「応神朝以前の国内外征服戦に関する日本側文献の伝承において、その戟闘の主人公を調べてみると、建沼河別(武淳河別)、御諸別、鴨別、荒田別、鹿我別などと、『別』を称するものが意外に多く、日本武尊などの王族将軍についでいる」ことを指摘し、これらが「別」を称しているのは、それなりに注目に値するので、それは誉田別・去来穂別・瑞歯別などのように、「別」は五世紀を中心とした大王(天皇)族の称呼であり、本来、大王・王族を中心に付せられた特別の意義をになうものであったからである、と説いておられる。
● 江上波夫 著 『騎馬民族国家』説の骨子 :よみがえる九州王朝へもどる (松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
江上氏は任那にいた夫余族が日本に渡来したのを二つの波(第一段と第ニ段)に分けた。
第一段: 4世紀の初め頃、弁辰にいた夫余族の集団が海を渡って北部九州に移住し(辰王=祟神天皇)、この地方で政権を立てる。そこに百年くらいとどまって勢力をやしない、
第ニ段: その後(4世紀後半か五世紀のはじめ)に東の畿内に移って統一国家(応神天皇)をつくった。
騎馬民族説の有力な支柱の一つは、畿内の後期古墳(主として河内・和泉=大阪府の副葬品が金鋼製の冠・武器・馬具など北方大陸文化系のものになって、前期古墳の弥生式文化を継続した副葬品とはまったくちがったものになっている。それは突然変異的ですらある。この現象は、北方大陸文化をもった夫余族(江上説では北部九州から応神天皇が東遷してきたという)が五世紀のはじめに畿内に入ってきたと考えるほかはないというのである。では、その夫余族は(それが辰王かどうかはともかくとして)すでに四世紀のはじめに北部九州に渡ってきて、約一世紀のあいだその地域にいたはずだから、北部九州の古墳からも、そうした北方大陸系文化の品々が出土するはずである。 しかし、その現象はまったくない。
江上説によれば、任那こそ日本の出発点であって、そこを根拠とし、崇神天皇10)を主役とした天神(外来民族)が北部九州に進撃してここを占領したのが、記紀のつたえるいわゆる天孫降臨の第一回の日本建国、北部九州から畿内に進出した応神天皇を首長とする集団が第二回の日本建国であって、「それは古墳時代後期の開始とも年代的に相応じる」という。後期古墳時代の河内の諸古墳から北方大陸文化系の武器・馬具が出ているのが、外来民族たる夫余族が第二回の「日本建国」をした証拠であるという。では、かれらが第一回の日本建国をした北部九州の地にもそうした武器・馬具が出土しなければならない。むしろ、北部九州のほうが南朝鮮から移ってきた最初の土地であり、約一世紀もいたのだからこっちのほうにこそ北方大陸文化系の豊かな出土品が多く出なければならない。 それが北部九州の古墳から一つも出ないのは、証拠のことからいって江上説の大きな弱点である。
北部九州の前期古墳に属する古墳としては、大分県宇佐市の赤塚古墳、福岡県苅田町の石塚山古墳などが知られている。むしろ前方後円墳は畿内よりもこっちのほうが古いという説があり、前方後円墳の発生は北部九州ではないかという一部の者の意見すら出ている。そうだとすれば、北部九州から畿内へ移った夫余族の東遷説にはまことにつごうがよいわけだが、こまったことに、これら北部九州の前期から中期にかけての古墳の副葬品は畿内の前期古墳のそれとすこしも変わらないのである。 こうなると、畿内後期古墳の北方大陸系の副葬品は、「当時畿内を中心とした日本国家の建設事業がほぼ一段落し、その余力をかって朝鮮半島に進出した結果、朝鮮まできていた東北アジア系文化の大規模な日本輸入」であつた、という騎馬民族説批判のことばが合理的に聞こえそうである。しかし、わたしにはそうとも思えない。「物」だけが日本に輸入されたとは考えられないからだ。「物」は「人が持ってきた」と思うのである。(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
なぜ畿内にむかったのか
北部九州に東北アジア文化系の遺物が出土しないということは、それらを持ってきた南部朝鮮の外来族が北部九州にはこなかったと考えるほかはない。北部九州にないものが、畿内にあるというのは、海峡をわたってきた外来族が、北部九州にはおちつかないで、そのまま瀬戸内海を東に航行して河内に上陸し、ついで大和に入ったということであろう(もっとも、こうした北方大陸系の遺物は、まえにふれたように、畿内の中心だけではなく和歌山県からも群馬県からも茨城県からも出ている。とくに群馬県が多い。これらの物が畿内の中央勢力から地方豪族に分けあたえられたのか、または、直接に人が物を持ってそれらの地方に入ってきたのかは、あとで考えることにする)。 では、なぜ、弁辰からきた夫余族集団は北部九州に住まないで、畿内に永住の地をもとめたのであろうか。
わたしはまえに述べた考えにそって書いてみたい。 北部九州にはすでに南朝鮮から渡来した先住勢力の強力なのができていた。北部九州勢力の強大さは、三世紀の伊都国王が支配する女王国から、六世紀の磐井の叛乱にいたるまでつづいている。 たとえ北部九州地域の内部で抗争があったとしても(つまり女王国が勝ったにしても狗奴国が勝利したにしても)、新しい外来部族にたいしては強く拒絶していたろう。新外来者はたんなる移住ではなく、土地の割込みと占有と奴隷の獲得とをのぞんでいるからである。 夫余族もまた戦闘してまで北部九州に居住の地をもとめようとはしなかった。それは南部朝鮮と北部九州とが海峡をはさんで、漢代以前より種族的にも生活的にもー体だったからである。 こうして夫余族は畿内にむかった。かれらを呼んだのは、それ以前から畿内にいる南朝鮮の移住民勢力であったろう。わたしは、人数にかぎりのある夫余族集団が、なんの下準備もなしに現地にのりこんで行ったとは思えない。かれらがその地に移るためには、かれらを歓迎する現地の勢力があったにちがいない。それが先に畿内に入っていた南朝鮮の移住民であった。 三世紀の畿内はどういう状態であったか。それにもいわゆる部落国家的な土着勢力が、吉備や出雲や高志(越)などとおなじようにあったにちがいないが、北部九州の勢力ほどには強くはなかったであろう。(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
参考論説: 弥生式土器の流れ(松本清張 著 邪馬台国 清張通史1 講談社文庫 1986より)
朝鮮からの新しい波 :よみがえる九州王朝へもどる (松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
秦氏と漢氏のことを記紀や姓氏録などがまとめたのは八世紀よりのちのことであって、すでにこの二大帰化系氏族が奈良朝廷の体制内に豪族としてくみ入れられてからである。たしかな史実と見られることもせいぜい大化改新(六四五)までで、それ以前はわからない。
ひろい意味では朝鮮からの移住民は、弥生時代の前期からはじまっている。それは朝鮮海峡のうちよせる彼のようにくりかえしつづいてきている。それが弥生時代の末期になって、前述のように中国が楽浪・帯方二郡を放棄する情勢から、その地域の中国系の人々(中国官人や商人、ならびに中国生活化された二郡の人々)の渡来が大きな波になって、四世紀はじめの古墳時代に入るきっかけとなったと思われる。
このような古いできごとは、八世紀以後の文献ではまったくつたわらない。というのは、かれらのほとんどが北部九州・吉備・畿内の各地域で土着し、倭人のあいだにとけこんでいたからである。
学界では、たとえば関晃などのように、応神朝の五世紀から六世紀の渡来人を「古い帰化人」とし、そのあとの七世紀の渡来人を「新しい帰化人」と規定している。そういうわけかたをすれば、四世紀から五世紀までの移住民は「古い帰化人」のもう一つまえであるから、「古い古い帰化人」、または「前期の古い帰化人」ということができる。考古学的な時代区分でいえば、古墳時代の前期から中期にかけての移住民集団である。この中期が南朝鮮から新しく外来族が河内と大和盆地に入った時期にあたる。(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
巨大な前方後円墳 (松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より) ☆応神・仁徳王朝
弥生時代は茫漠としているのでいちおうべつとして、朝鮮からの渡来人を年代的に区分してみると、「前期の古い帰化人」=第一期の渡来(四世紀)、「後期の古い帰化人」=第二期の渡来(五世紀)、「新しい帰化人」=第三期の渡来〓六世紀以降)に、整理することができる。 「前期の古い帰化人」は、中国の植民地だった楽浪・帯方郡からきた中国系が多かったので、かれらが持ってきた技術や文化は当然に中国系のものである。だから「前期の古い帰化人」はこれら中国系が大きな構成要素になっているのが特徴だ。そうしてかれらが四世紀はじめに高塚をきずいたというわたしの推測になる。 この「後期の古い帰化人」は、大和盆地にはじぶんらの墳墓をつくらずに河内の台地上にそれをきずいた。とほうもない巨大な前方後円墳である。いうまでもなく羽曳野台地の応神陵といわれるものを中心とした古市古墳群と、入り海の干潟をへだてた西側の台地上にある仁徳陵といわれるものを中心とした百舌鳥古墳群である。この台地は、だいたい標高二十メートルの線である。つまり、この二十メートル線がもっとふるいころの入り海の渚であった。
それでは、なぜにかれらは大和盆地の墳墓と同じ前方後円墳をつくったか、という疑問がまずおこる。 これは早くから土着化した「前期の古い帰化人」を真に従属させるために、彼らのつくった墓のかたちを踏襲する必要があったからだ。その意味では、やはり「郷に入っては郷にしたがえである。かれらとはちがった異形の墓をつくれば、それだけでも土着勢力と対立がのこり、いつまでたっても融和にはならない。墳墓はもっとも民族性が強いからである。それにだいいち夫余族じたいがまた高塚をこのんだ。夫余族の支族が、鴨緑江畔に大王陵や将軍塚をつくった高句麗である。
では、彼らはなぜ大和盆地にじぶんたちの巨大な前方後円墳をつくらなかったのか。 それは大和盆地のまわりの台地にはすでに土着化していた先着移住民によって方円墳がたくさんできていて、そこへ割りこんで新しくつくる場所がなかったからであろう。盆地の中央は湿地帯だが、これは稲作の生産地として確保しておかなければならない。新しい移住集団によって人口も急増したことであろう。
前期古墳群のない盆地の西側の生駒山麓や南側の飛鳥地方には余地がのこっているが、そこはあまりにせますぎる。かれら外来民族は、もっと壮大な方円墳を代々にわたっていくつもつくりたかったのである。それを盆地につくれば、やはり土着勢力にたいして露骨な優位性をしめすことになって、かれらの反感を買うだろう。 となれば、かれらの墳墓の土地は生駒山地や葛城・金剛山脈を西へ出た河内しかない。
もともと河内や和泉あたりはかれらの上陸地点であった。その地形はわかっている。かれらは将来にそなえて、その人り海の干潟をさらに拓いてそこを農耕の生産地にしようともくろんだと思う。その要求のもとになったのは、なんといってもすすみつつある人ロの増加であろう。これまでの「大和王朝発生論」には、とかく人口の増大面が欠落しているか軽視されているかしているように思う。
摂津・河内・和泉(もちろんそのころはそんな行政区分はない)の農耕生産地帯化とともにすすめたのが、台地上の巨大な前方後円墳の築造である。そこは狭小な大和盆地のまわりとはちがい、また土着勢力の墳墓群にも気がねすることもなく、この新天地で自由自在につくることができた。(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
大規模な土木工事(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より) ☆応神・仁徳王朝
河内・和泉の方円墳の代表として仁徳陵を例にとってみよう。 仁徳陵は、全長四百八十五メートル、円形部の高さ三十六メートル、方形部の高さ三十四メ−トル、三重の濠をめぐらす。その四十六万四千平方メートルの平面面積は、エジプト最大のギゼーのピラミッドをゆうに超す。 その築造当時の復原形状の土量は、百四十万五千八百六十六立方メートルすなわち二十三万三千九百三十六立方坪となり、かりに一立方メートルの土量の運搬距離を平均二百五十メートルとみて、それを一日一人とすると、全土量に要する人員はおよそ百四十万六千人に近いものとなり、一日に一千人をつかっても四年近い年月が土量の運搬にかかる。 これは工学博士高橋逸夫の算定にもとづいて考古学者の梅原末治が考案したものである(斎藤忠『日本の古墳研究』所載)。 しかも、これは土はこびだけであって、築造の土木工事のことは除外されての計算である。
応神陵も全長四百十五メートル、円形部の高さ三十六メートル、方形部の高さ三十五メートル、もとは二重の濠をめぐらせていたから、仁穂陵の築造に要した人月と年数とほぼおなじになる。この二つの巨大な前方後円墳は、大和盆地の東側の山麓にならぶ箸墓や崇神陵や景行陵など前期古墳のように丘尾を切断したのとはちがい、台地の地形は多少利用しているものの、ほとんど人工によって封土がきずかれたものである。その設計といい、土木工事の指揮といい、外来民族の中の技術者があたったことはもちろんである。
これだけの多人数が墓つくりに動員され、それに長い年月かかったとすれば、かれらの食糧はどのように補給されたのであろうか。きもちろん大和盆地からそれを輸送したのではあるまい。 ここに、あたりまえのこととして、摂・河・泉の農耕生産地帯の開発がいっしょにすすめられたことが推測できる。いわば大規模の、のちの「屯田兵」的なしくみである。生産地帯の開発をしながら、巨大な墳墓の土木工事をすすめる。あるいは土木工事とならんで開発をおこなったと思われる。そのためにのちの大阪平野にあたる平榔は急速に水田や畑と化していったのであろう。
これに要する人員は奴隷的な諸方の部族民であったにちがいない。土着民のあいだに階級が発生したのは、すでに縄文時代の晩期ごろからと思われ、米作により多くの人手がいるようになった弥生時代には階級の分化がいっそうにすすんだ。少数のつかう者と多数のつかわれる者ができた。 だが、摂・河・泉の生産地開発や大きな前方後円墳築造には、大きな権力の外来部族の首長が、地域の部族らが持つ奴隷的な人民の動員、使役があった。(松本清張 著 空白の世紀 清張通史2 講談社文庫 1986より)
難波の堀江 :よみがえる九州王朝へもどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) ☆応神・仁徳王朝 ☆豊のくにとヒタカに戻る。
難波の堀江 (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)
仁徳紀にみえる堀江は、その後も堀江もしくは難波の堀江としてしばしば文献に登場している。つまり実在の地名だった。もちろん後で検討するように、仁徳天皇十一年の記事がどこまで史実を伝えているかの問題はあるが、おそくとも六世紀初めには掘削が終わっていたとみられる。
難波の堀江は、仏教史にも登場する地名である。欽明天皇の十三年(五五二)に、百済の聖明王が金銅の釈迦仏や経論を献上してきた。有名な事件だが、これをわが国
での仏教の開始とみるのは妥当ではない。それ以前から、仏教はさまざまの形で浸透していて、これも一事件としてとらえるべきである。それはともかく、この仏像のうけいれをめぐつて、物部大連尾輿や中臣連鎌子が反対し、結局、仏像を難波の堀江に流し棄てた。
古代史でいう応神・仁徳の時代は、考古学的にいえば巨大前方後円墳造営の頂点にあり、その意味では巨大古墳の世紀だった。とはいえ、大地を深く掘って、土砂を移軌させた土木工事量の規模では、難波の堀江の開削が他にぬきんでた事業だった。仁徳天皇十一年冬十月の記事をみると、「宮の北の郊原を掘り、南の水を引いて西の海に入る。因りてその水を号けて堀江という」とある。 堀江の記事につづいて、「北の河の滞(海水まじりの水か)を防ぐため、茨田堤を築いた」とある。(記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)
茨田堤 地図
茨田堤は、門真市宮野町にある式内の堤根神社の本殿が鎮座する部分で旧態をのこしている。堤根神社の南東約二〇〇メートルの京阪電鉄大和田駅構内からは銅鐸三個が出土していて、弥生時代にも水の祭祀で埋納したかと推定されているし、堤根神社に接した野口遺跡は、堤根神社に関連した遺跡とみられている。 茨田堤の築造にさいして、仁徳紀は次のような話をのせている。オホサザキが夢を見た。夢のなかで神が教えた。武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の二人に河伯(河の神)を祭らすと、必ず(悪水を)塞ぐことができるだろう。そこで二人を探しだして、河の神を祭ることになった。強頸は泣き悲しみながら水に没して死に、堤は完成した。
衫子は、河の神が犠牲として自分を欲するのなら、先にヒサゴを沈めよ。それができないようでは偽の神だといって、ヒサゴを水に投じたが、沈まず浪の上に浮かんできた。衫子は死ななかったが、堤はできた。そこで人びとは、強頸断間、衫子断間と名をつけた。
『記』の仁徳天皇の段には、茨田堤と茨田三宅については、秦人を使って作ったこと、難波の堀江を掘って(水を)海に通わせたこと、および小椅江を掘ったり墨江の津を定めたことがでている。『紀』では、先ほどの武蔵人と河内人の話のあとに、この年、新羅人が朝貢したので、この役、つまり茨田堤の工事に使ったとある。秦人や新羅人が茨田堤の築堤に関係していることは見逃せない。(記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)
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「姓氏録」 茨田宿禰 多朝臣同祖 彦八耳命之後也。 茨田勝ハ呉国王孫皓ノ後、意富加牟枳君より出ず。(『意富加牟豆美命』との関連?)
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『日本書紀』 宣化天皇元年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた。
河内人茨田連衫子 (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) ☆豊のくにとヒタカに戻る。
河内平野は、縄文時代以来、湾・渇・湖があるという特異な地形が原因となつて、洪水になやまされた土地で、難波の堀江の開削以前にも、治水関連の技術は発達していたことが考えられる。
余談になるが、河内に巨大前方後円墳が多いことの理由の一つは、この地での土木技術の発達があったことにあるとみており、「エジプトはナイルのたまもの」ということにならえば、「河内の巨大古墳は河内湖 (の治水) のたまもの」ということができる。 河内人という言葉のひびきに、水利工事のスペシャリストの意味をからめるぼくの見方が有効だとすると、築堤には成功したものの自らを河伯に捧げた武蔵人強頚をどう理解したらよいのか。名の強頚については、手がかりがないので、武蔵人を検討しよう。(記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)
武蔵人強頸 豊島郡と土師氏 (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) ☆豊のくにとヒタカに戻る。 ☆河童と古代氏族にもどる。
浅草寺は東京の観光地としてよく知られているが、ぼくはこの寺の縁起に注目している。推古天皇三十六年(六二八) に、槍前浜成と竹成の兄弟が、漁撈の最中に一体の仏像を網にかけた。それを知った土師真中知が観音像であることを知り、草堂に祭ったのが浅草寺の起源だと伝えている。中世がこの伝説の上限とみる人もいるが、ぼくはご破算にして検討を進めたい。
浅草寺は台東区にあるか、律令体制では武蔵国豊島郡だった。豊島郡とその東隣の葛飾都(今日では東京都) には、元の利根川をはじめ荒川や隅田川などの下流がいくつにも分かれた河口があって、それらの河川がもたらした土砂が弥生時代から古墳時代にかけて急速に陸化を進めた。川の流路は安定せず、大雨があると変わるという状況だったが、次第に島地形の連続する地形になった。難波の別名を八十島ともいい、多数の島からなっているという意識があったように、豊島郡は文字どおり島の豊かな地形だった。このような地形の変遷からみると、『浅草寺縁起』の物語に似たことがあっておかしくないというのがぼくの注目の発端である。
なお、豊島郡の東にある下総国葛飾郡の大嶋郷については、養老五年(七二一) の戸籍が正倉院に伝えられている。「大嶋郷戸籍」には、甲和里、仲村里、鴫俣里の住人千百九十一人が記載されているが、嶋俣や大嶋の地名から島状地形のあったことをうかがわせる。ちなみに甲和の現在の地名が小岩、嶋俣の現在の地名が柴又、寅さんの映画で名高い柴又帝釈天のあたりが嶋俣里であることが発掘によって明らかになつてきた。
武蔵国分寺は東京都国分寺市にある。ここからは、武蔵国の郡名を印した瓦や、ときには人名を刻んだ瓦が数多く出土している。これらは文字瓦と総称されているが、八世紀中ごろの武蔵国を知る好資料である。
武蔵国分寺の文字瓦では、豊島郡白方郷に土師角麻呂、土師部小君、土師部勝万呂の名が見いだせる。豊島郡には湯嶋郷のように、現代の湯島としてうけつがれている地名もあって、一部の人にある江戸(東京)は家康以来″ の思い込みに大修正がいる。それはともかく、土師関係の居住は豊島都では白方郷である。
土師真中知を土師直中知とする説はあるが、積極的な証拠はない。それは保留しても、武蔵国豊島郡に土師氏と土師部民が八世紀にいたことは確実である。『紀』の神話に、アマテラスとスサノヲが誓約をする壮絶なくだりがあり、スサノヲがアマテラスの玉などをかみ砕いて天淳名井にふりそそぎ、その狭霧から生まれたのが天穂日命で、子孫が出雲臣・武蔵国造・土師連であるとしている。神話の伝承とはいえ、土師氏と武蔵国造が同じ遠祖であることは手がかりとなる。
畿内での土師氏が、前方後円墳の造営やそれに付随して埴輪の製作にたずさわったことに疑いの余地はない。とはいえ、土師氏のたずさわった仕事を古墳の造営だけとみることはできないし、まして前方後円墳の造営の終わった六世紀末以降の土師氏の性格に、大きな変化があったことは十分考えられる。
先ほど豊島(郡)や大嶋(郷)と難波の八十島を地理的な共通点で対比した。河川の下流部分として、治水問題で早くから苦心をし、災害に立ち向かうことを重ねるうち、それなりの技術の開発があったとみてよかろう。茨田堤の難工事の個所(断間)を担当した武蔵人とは、河川水利に長年とりくんできた集団のことでなかろうか。そこに土師氏が含まれていたかどうかの確証はないが、その可能性はたかいとおもう。宝亀四年(七七三)に、大和の佐保川の堤の修理に武蔵宿禰(元は丈部直:はせつかべのあたい)不破麻呂があたっていることも参考になる。(記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) ☆豊のくにとヒタカに戻る。 ☆河童と古代氏族にもどる。
● 神武天皇と九州 --東征物語と国家の起源-- : 直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より よみがえる九州王朝へもどる
神武東征物語のもっとも大きなテーマは、日本の最初の統一者は西方から来たという点にあり、それは六世紀後半以降の政治情勢からは説明できない。国家形成の事実が記憶され、伝承されたと考えるべきである。そうすると、物語の主人公である神武天皇も、変形はうけていても、もと実在の人物であったと解せられるではないか。一応もっともな提言のようであるが、この反論が成立するためには、その前提条件として、日本国家の最初の統一者が西から来たという伝承が、歴史的に正しくなければならない。そうしてそれは、まだ証明されていないのである。
いかにも、日本の国家的統一を実現した力が西方から釆たことを論じ、神武東征物語が事実にもとづいているという結論にいたる研究は少なくない。しかしまだ学界の承認をえたと思われるものはない。江上波夫氏によって提唱されたいわゆる騎馬民族説もその一つである。氏によれば、東北アジアの騎馬民族が四世紀前半に朝鮮を経由して北九州に侵入して、ここを占領し、四世紀末から五世紀のはじめに北九州から畿内に進出して日本国家を建設した、というのである。日本の古代文化について示唆するところの多い有益な説であるが、四世紀前半の北九州に、騎馬民族の渡来を示すような遺跡・遺物が、少なくとも現在のところでは発見されていないことが、この説の致命的な欠陥であろう。万一、将来この説を根拠づける資料が発見されたとしても、西方の力が畿内に及ぶのは四世紀末ないし五世紀初頭だから、東征の帝王は応神天皇か仁徳天皇でなければならず、神武天皇は東征を古く見せかけるために創作された架空の人物ということになる。どちらにしても、騎馬民族説は神武の実在の証明にはならないのである。
有名な 『貌志倭人伝』 (正しくは 『三国志、魏書』東夷伝倭人の粂) にみえる邪馬台国を、東征物語に関係させようとする説もある。この説はもちろん邪馬台国が北九州の一角にあったと考えたうえでの話である。そうして、邪馬台国がその南方にある狗奴国と戦い、女王卑弥呼が戦死したという倭人伝の記載に着目し、邪馬台国はこの戦いに敗れて、狗奴国の圧迫をこうむり、卑弥呼の死後東方に移動して、大和を占拠し国家を建設したと考える。あるいは狗奴国が邪馬台国を圧倒し、さらに力を東方にのばして、大和を征討した、とすることもできるだろう。卑弥呼の支配下にあった投馬国の遠征とみる説もある。
しかしこれらの説は、邪馬台国九州説を前提とするほかに、神武東征物語が史実にもとづいているという仮設をも前提とし、この二重の前提のうえにのみ成り立つ論である。邪馬台国畿内説に立てば、この論は一挙に崩壊する。そうして畿内説はまだ九州説によって論破されてはいないのである。また神武東征物語が史実かどうかは、いま考察の対象としている問題である。この場合、神武東征を史実として前提とするのは循環論法にほかならず、論証として無価値である。この前提をとりはずすと、邪馬台国や狗奴国や投馬国の東征・東遷を立証する文献史料は全然ないのである。
しかしそれならば、国家形成をなしとげた勢力が西からこなかったということを証明する資料があるのか、と反問されるかもしれない。一般に、ないことを証明することは困難なのだが、この場合は考古学の資料からすると、大和を中心とする地域に国家を形成させた勢力は、大和・河内地方において生まれたとする見解が有力なのである。こう言いきるためには、日本古代のどの時期のどんな現象をもって国家形成と認めるか、という問題を解決しておかねばならないが、ここでそれを詳しく論じているひまがない。しかし簡略に説明すると、国家形成のためには強力な政治権力者の出現が必要であって、弥生時代の各地の首長にはまだそれだけの力があったと思われない。つぎの古墳時代にはいると、初期の首長でも、弥生時代の首長にくらべて飛躍的に強大な権力をもつに至ったことが、古墳の構造や副葬品から推定できる。そこで日本における国家の形成は、古墳時代の初期にはじまる、とするのが、もっとも妥当な説と考えられる。
それゆえ、もし初期の古墳が北九州で発生し、畿内地方の古墳がその影響をうけて成立したのであれば、国家形成の力は西から来たことになる。しかし現在の考古学者の示すところでは、そのような古い古墳は北九州には存在せず、初期の古墳はまず大和・河内の地域において成立したと認められている【ただし、畿内地方の初期の古墳の副葬品のなかには、剣・鏡など北九州における弥生時代の墳墓の副葬品に類似するものが少なくない。畿内の古墳の成立に北九州の弥生文化の影響のあることは事実であろう。】。したがって日本における国家の形成は、西方から進入した権力者の力によるのではなく、大和・河内方面にあらわれた権力者によってなされたと考えられる。もちろんそれは一人の個人の力ではなく、生産力の発展にもとづく階級分化の発達を基盤とすることはいうまでもない。こうして、まず畿内地方に成立した権力者階級によって、大和を中心とする日本の古代国家が形成されたのである。
神武東征説話が国家形成の史実を伝えたものではないかという疑いが成立しないことは、以上によって明らかになったと思う。
●『多元的国家論』 : 直木孝次郎 著 日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より よみがえる九州王朝へもどる
近年強くなってきた意見の一つに、多元的国家論の発展ということがある。つまり、厳密に国家というと話がむずかしくなるが、初期の国家である政治的統一体は大和あるいは畿内だけで始まったのではなくて、ほかの地域にもそういう国家の成立があったのだという意見のことである。
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★九州 たとえば九州王朝という言葉も使われているが、六世紀ごろまでは、かなり有力な勢力が北九州に存したのではないかという意見がある。弥生時代においては畿内よりも北九州のほうが文化的に、おそらく政治的にも進歩していたということは、多くの人の認めるところであろうと思う。弥生後期の耶馬台国の時代に、北九州が有力であったか畿内が有力であったかは問題であるが、そこにいたる以前の弥生前期・中期では北九州が有力であったといってよいのではないか。 さらに下って六世紀、筑紫の国造といわれている磐井が、豊・肥に拠り新羅と通じて大和政権に反抗した。そしてそれを大和政権が打ち倒すまでは、半独立の勢力が九州に存在したのではないか。最近の岩波講座『日本考古学』第五巻で、甘粕健氏は「岩戸山古墳(筑後) の首長が、それまで対等の同盟関係にあった豊・肥の連合体の最高首長のさらに上位に立って、中・北部九州全域の大連合の最高首長としての強力なヘゲモニーを確立した」(「古墳時代における吉備・筑紫」) と見ておられる。 また、肥後の江田船山古墳からは有名な「ワカタケル大王」の名を刻んだ銀象嵌の刀が出ているが、その古墳からは同時に新羅・百済系の鍍金の冠や沓や純金の耳飾りなど、豊富な服飾品が出ており、それから考えると、磐井が新羅と通じたと 『日本書紀』 に書かれているように、江田船山の首長も南朝鮮とも通じていた、つまり大和政権と、新羅か百済かは確定できないが南朝鮮とに従属していた、いわゆる両属の状態にあったということも考えられるのではないかと思う。 |
★吉備
それから吉備では、弥生末期に、古墳に先行するいわゆる弥生墳丘墓がつくられだす。有名なのは都月坂二号項丘墓で、二〇メートル×一七メートルぐらいの平面積で高さ二メートルあり、その程度のものが岡山県にはほかにいくつかあるが、もっとも大きなものは盾築弥生墳丘墓で、径四三メートルぐらいの円丘に突出部があって、突出部から突出部まで約七〇メートルと推定されている。高さは四・五メートルである。このように大型の墳墓が古墳時代に先立ってあり、その墓の主が支配する政治社会を吉備国家といっていいかどうかは問題であるが、彼は強力な政治権力をもっていたと思われる。その流れがその後も続いて、吉備では古墳中期に造山・作山という三五〇メートル、二七〇メートルの大前方後円墳がつくられる。そして反乱伝承が雄略朝と雄略没後にあって、それまでは吉備は大和政権といわば同盟関係にあり、大和権力のほうが上位にはあったが、ある程度独立的な要素も備えていたと思われる。
★出雲
出雲については、荒神山遺跡から三百五十八本の銅剣、十六本の銅鉾、六個の銅鐸が出て、出雲国というものがクローズアップされた。ただ、これについては評価はまちまちで、そういうものが出たからといって、あまり大きな政治権力があったかどうかわからないという意見もある。島根大学の渡辺貞幸氏などは、畿内なり北九州勢力の影響下にこういうものができたので、独立の強力な政権というべきではないというご意見のようであるが、重視する方がいるのもご承知のとおりである。これよりややおくれて弥生末期には、四隅突出型弥生墳丘墓が安来平野と出雲平野に十数個あり、一部広島県・岡山県、さらに鳥取県に存し、そして石川県にもーつだけ離れてそういうものがある。前方後円墳とは別種の墳墓が弥生末期に成立しているのである。そして神話のうえで、須佐之男命・大国主命など、神話の一つの中心になっているということもご承知のとおりで、門脇禎二氏などは、出雲国の存在を重視しょうという立場である。
したがって神話に出てくる出雲の国ゆずりは、実は崇神朝・垂仁朝のことだという意見もあるが、もっと下げて六世紀を国ゆずりの時期とする説も有力である。出雲国造の神寿詞の奏上は奈良時代、七一六年(霊亀二)が初見であるが、各地に国造がたくさんいたにもかかわらず、出雲がこれを奏上するのはどういうわけなのか、やはり出雲国造が有力であったために、多くの国造を代表するような形で寿詞を奏上するのであろうが、それは出雲があとまで大和政権に対抗したからで、大和政権が完全に支配下に入れるのは六世紀という時期を考えていいのではないかと思う。
また、とくに古田武彦氏は地方国家・地域国家というものを強調している。そして、日本国家の形成を多元的に考えるべきであろうということは、かなり有力な意見になってきている。これは、いまから二十年ぐらい前にはあまり出ていなかった論点であろうと思う。
●東と西のワカタケル大王 稲荷山古墳の鉄剣銘 (松本清張 著 壬申の乱 清張通史5 講談社文庫 1988より) よみがえる九州王朝へもどる
ここで昭和五十三年九月中旬から学界とマスコミとを賑わせた、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘にふれないわけにはゆかない。この古墳は、その十年ほど前に発掘されたが、鉄剣の錆落としを七月にやっているとき、金の光るのに気づき、九月十一日に元興寺の文化財研究所でレントゲンで調べてみて、百十五個の文字が浮かんできた。
辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ上つ祖の名、オオピコ、その児の多(名か)カリノスタネ、その児の名、テイカリノワケ、その児の名、タカシジ?ワケ、その児の名、タカサキワケ、その児の名、ハテイ。その児のタ(名か)、カサヒヨ、その児の名、オノワケノオミ、世々杖刀人の首と為して奉事来(つかえたてまつり)今に至る。ワカタケル大王寺(「など」または「やかた」)シキの宮に在る時、吾天下を佐治し此の百練の利刀を令作(つくらしめ)、吾記す。奉事するは□□也。現在のところ諸学者の一敦した意見は、ワカタケル大王は雄略天皇(ハツセノワカタケル‖大泊瀬幼武天皇〔紀〕)にあたるというのである。
一文の意味は、稲荷山古墳の被葬者(鉄剣の所持者)である武蔵の豪族オノワケノオミが雄略天皇に「杖刀人」(警固隊か。「門番」とも解されている)として奉仕したのを栄誉に思い、オオピコ以下先祖代々の名を鉄剣に金象嵌して誇ったというのである。
この解読には疑問もある。第一に、ワカタケルは「勇ましい若者」または「青年」という普通名詞であって、この上にハツセが付いてはじめて雄略という固有名詞になる。しかし、学者のなかには「大王」は天皇のことだから、ハツセが付いてなくても雄略のことに間違いないと言うものもある。 けれども「大王」はたんに「王の敬称」という東洋史学者宮崎市定の説がある。氏はその「天皇なる称号の由来について」(「思想」一九七八年四月号)の中で、国語辞典には「大王」は「@王の敬称、A親王の称」とあって、「近時の学者が考えているような、王の上に立つ王、王中の王というような解釈は何処にも見当らない。国語においても大王は、わが君、わが殿と、貴人を尊んでいう敬称に過ぎなかったのである」といい、隅田八幡宮蔵の画像鏡銘文中にある「大王」についても、「これも大王を単なる王位の者に対する敬称と読む方が自然であり、無理にこれを歴代の天皇中の一方に宛てはめて、その称号とする必要はない」と述べている。 そういえば、聖徳太子も「大王」といわれ(天寿国繍帳の銘)、その長子山背大兄王も「尻大王」(上宮記)といわれた。また書紀の天武元年六月条(壬申の乱前紀)では、高坂王・若狭王をそれぞれ「おおきみ」と調ませている。高坂王も椎狭王も皇族ではなく、その系譜さえわからない小豪族である。
部族の首長(豪族)は部族民にキミと呼ばれ、漢字ではそれを「王」と書くが、それにさらに敬称をつけてオオキミとよんだのであろう。それが漢字になると「大王」だが、「王」と書いてオオキミと言う訓はその常習からきたのであろう。
岸俊男は、東は武蔵(稲荷山古墳)、西は肥後(江田船山古墳)からワカタケル大王と書いた剣と刀が出ていることは、「ワカタケル大王というのを、中央のワカタケル大王に、つまり大和朝廷の雄略に当ててもいい、そういうことになってくるのではないか」(「シンポジウム・鉄剣の謎と古代日本」の中での発言)といっているが、武蔵にも肥後にもそれぞれのワカタケル大王(若い首長)がいたという解釈もできる。東西両方の畿内より遠くはなれた僻地にワカタケル大王の名が遺っていたからといって、上記のようにそれがただちに中央に結びつくとはかぎらない。シキの宮にしても埼玉県には志木という旧い地名もあるのである。
筑紫君磐井の戦い(527-530?年頃) よみがえる九州王朝へもどる
●筑紫の君磐井の戦争 筑紫の君磐井の戦争 東アジアのなかの古代国家 山尾幸久 著1999年 新日本出版社 より
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五二九年、百済が対高句麗戦で大敗を喫すると、新羅がにわかに加羅東南地域に攻勢を加えはじめた。加羅諸国に王たらんとしていた大加羅の異脳王は、直ちに、新羅との婚姻による盟約を破棄し、しばらく冷却状態にあったヤマト王権に親らおもむき、継体に援軍を要請した。安羅王(咸安) は百済聖明主に乞師した。
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五三〇年、ヤマト王権は大加羅王の要請に応えようとした。何しろ加羅東南地域の金海・昌原などは、六世紀第T四半期のヤマト王権にとって、恒常的活動の場だったからである。「香椎潟」にあった磐井の勢力下の港湾を王直属の国家施設として提供させ、まず九州で徴兵して、軍事動員態勢を敷こうとした。
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磐井は継体の手前勝手なおしつけに屈するか抗するか迷いに迷った。だが、大躍進中の新羅の使者が磐井を君主として遇し、派兵阻止を要請した時、百済・ヤマトの関係に対するに新羅・ツクシという国際関係への展望をひらいたと思う。九州独立国家は可能だと考えたのではないか。彼ははっきり命令を拒否し決戦もやむなしと臍を固めた。
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王の対外的権能に対して、不可欠の要衝の地の不服従。それは王権の否認である。継体の喉頸には九寸五分(ヒ首) がつきつけられたといえる。五三一年、これが主因で、ヤマトに継体とその後継者と見られていた勾大兄を排除する政変が惹き起こされた。即位したのはかねてからのヤマト王権期待の星、「天つ神の御子」欽明だった。ヤマト王権は物部集団の首領を総大将とする軍を九州に派遣した。
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両軍の規模、戦闘のもよう、それは全く何もわからない。磐井軍の数は岩戸山古墳を築いた何千何万という人々で想像するしかない。久留米付近で攻防があった。洛東江河口に進軍していた新羅軍が一部動いた可能性もある。遠来の「国家」の侵略軍に、「くに」を守るために結束した九州勢が放けたとは、不可解千万である。恐らくお得意の謀略や裏切りがあったのであろう。結局、磐井は、殺された。日本古代史のダイナミックな可能性は、すべて磐井と共に岩戸山古墳にほうむり去られたのである。
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五三二年、孤立無援のまま南加羅王は新羅の軍門に降った。あい前後して卓淳・喙己呑も新羅軍が占領し、百済軍に支援された安羅と対峠することになった。
●東アジア地域世界において日本古代の国家形成を考える。 筑紫の君磐井の戦争 東アジアのなかの古代国家 山尾幸久 著1999年 新日本出版社 より
1)筆者(山尾氏)は「日本史」の成立を670年代、680年代と見ている。それ以前は東アジア・北アジア世界の中で「倭人」や「蝦夷」の種族の時代である。北陸や東北地方南部(新潟・福島あたり)から九州中部(宮崎・熊本あたり)までにおいて、670年以後、東アジア地域世界の中で、領域国家と、民族的規模での国家公権とが、中央支配集団による生産労働に従う人々に対する権力事業の結果として、成立した。
2)民族的規模での領域国家の公権力を対外的に独立させる。中国の唐の皇帝支配を手本に統一新羅(669-676頃成立)の王に優先する。
3)このような至上の課題を実現するため、中央支配集団は民衆の生活習慣の世界にまで働きかけて、あろうことか社会の経済の仕組みまでを改造してしまおうとした。670年代からの不退転の決心によるこの企てを軽く見てはならないのである。
4)この人民画一化の体制は、唐が手本でも何でもないほど弱り始めた740年代ごろから、日本では無理だし、無意味だとわかり、なし崩し的に放棄されたと見てよい。社会の現実に対応する国家の土地・人民の実際的掌握、支配と搾取は、それによってもっとしっかりとしたものになった。
5)670年から740年の国家体制の骨組み
@領域国家「日本」の公権力を具現化する「天皇」および天皇の公権的全土万民統治理念(古事記神話)を樹立する。
A「公民」を納税責任共同組織「戸」に編成し、徴税・徴兵組織「里」ごとの籍でとらえる。
B「戸」ごとに「公地」を給付し、「公民」が一切の個別的従属をもたずに国家公権だけに依存する再生産のシステムをつくる。
「磐井の乱」の本がなぜそこまでいう必要があるのか。理由はただ一つ。『古事記』『日本書紀』の形式によって、つまり過去の陳述という形式を借りて、天皇が自己への言及を企てた時代、それが、この体制創出、国家改造の真っ只中であったこと、そのことを知ってほしいからである。
極論すれば、天武ドクトリンのイデアの形象化である。この枠組みによって、4世紀代から天皇の祖先は全国を統一し、「筑紫国造」は筑前・筑後の領域統治を天皇から委ねられた行政官だったなどと意味づけている。とんでもない。
●「国造制度」はあったのか 筑紫の君磐井の戦争 東アジアのなかの古代国家 山尾幸久 著1999年 新日本出版社 より
「書紀」の文に、「筑紫国造」がにわかに「火・豊の二国」を襲って占拠したとある。8世紀はじめの「継体紀」の編者は、反逆者を「筑紫」の行政区画を管轄する天皇の地方官と考えていたのだ。要するに、「行政区画」された「領域」を管轄する「地方官」、それが日本史上に現れる条件は、7世紀第3四半期まではなかったのである。5世紀後半〜6世紀前半に「国造制度」があったわけではない。
●天武ドクトリンのイデアの形象化: 筑紫の君磐井の戦争 東アジアのなかの古代国家 山尾幸久 著1999年 新日本出版社 より よみがえる九州王朝へもどる
『古事記』と『日本書記』とに共通して、神々の意思が実現する過程として、体系的な国家形成史が描かれている。天皇による全国統治の行政制度「国造」制が敷かれたというのは、何とその中に出てくるのである。神話的な縁起であり由緒である。『古事記』と『日本書記』とに共通する、ということは他でもない天武天皇の時代に決定された歴史像に近いわけであるが、それはおよそ次のよう内容である。
T 神武: 天つ神が降臨した聖地から天つ神の御子が来臨して、「中州」(奈良盆地)を平定して「天皇」位を創始した。
U 崇神〜成務
(1)崇神 a 畿内を治め、畿内地域で貢納制などの国家統治を始めた。 b 畿外の服従しないものを平定させた。
(2)崇神・垂仁 神祇祭祀の制度をととのえた(大神・墨坂・大阪・出雲・伊勢・石上など)
(3)景行 a 諸皇子を全国に「封」建した。 b ヤマトタケルが“夷荻”を征討した。
(4)政務 服属した“夷荻”を外まわりとする“華夏”において、天皇の全土万民統治の行政区画と地方官制度をととのえた。
V 仲哀〜応神
(1)仲哀 住吉大神らが皇后に託して海外の金銀財宝の国を帰服させてやろうというが、信じなかったので逝去した。
(2)神功皇后 「胎中天皇」(応神)をはらんだ皇后の時、朝鮮の王を封建して藩臣とする帝国体制が実現した。
(3)応神 「神の国・・・・・日本」の「聖の王・・・・・天皇」に海外から雄族の祖先が「帰化」した。
この神秘的歴史の本質は何であろうか。7世紀後半の天武天皇が、今創り出そうとしている理想国家は、唐皇帝の支配を手本にしたものなどでは全くないというのである。理念も性質も、規模も構造も、かつてひとたび実在した「聖帝:ひじりのみかど」仁徳の黄金時代の再現であり、復活であると意味づけているのである。最も困るのは、古墳時代の考古学者の解釈が、『古事記』『日本書記』に頼っていることである。
朝鮮半島と日本列島とにおける王権・国家・民族の形成の共時性ひとつをとってみても、日本古代の歴史的環境として、中国皇帝を盟主とする東アジア規模での政治的構造があったこと、これは全く疑うことができない。
● 地名のコピーは物語る(ワンセットの地名がコピーされている): よみがえる九州王朝へもどる
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澤田洋太郎/日本古代史の歩き方 彩流社(1998年)p150 より @
福岡県甘木市周辺の地名が、ワンセットになって奈良県大和平野の周囲にそのまま移されている。どちらも南から東回りに、「高田・朝倉・カグ山・タカトリ山・山田・田原・笠置山・御笠山・池田・三井」 朝倉郡三輪町ml 朝倉 麻氐良布神社 三輪町 大己貴神社tm 三笠郡ml A
甘木と佐賀県鳥栖市を結ぶ線上に、西から東に「布留・高橋・春日・奈良」:日本書紀・武列紀歌謡:“いそのかみ(石上)、布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に大宅過ぎ 春日のかすかを過ぎ・・・” B
平群、曽我(蘇我)、羽田、巨勢、葛木(葛城)という地名が、北九州と近畿地方に揃っている。これに佐賀県の基肆と和歌山(紀伊)を加えると、武内宿禰の6人の子たちの名前に合致する。 C
豊前・豊後、丹後、尾張を結ぶ地名 「あま」、「おおの」、「ひじのまない」、“羽衣伝説”、「舞鶴」、「海部」 以上、澤田洋太郎/日本古代史の歩き方 彩流社(1998年)p150 より引用。 @ 古事記・日本書紀のくりかえし記述するように、近畿の天皇家は『九州』からやってきた。従って、先祖の地、「博多湾と周辺」の吉武高木・三雲・須久岡本・井原・平原といった、最古の弥生王墓、「三種の神器の密集地帯」に対する遥拝が行なわれたのである。さらにその王者たちが筑紫に到来する前の地、壱岐・対馬なる「天国」(海人国)の「天神」(海人神)に対する遥拝を行なうことこれがこの高台における儀礼だった。従って、この「高台:方台付き円墳」=“前方後円墳”の本質は「周辺型、陪王墳」である。 A 好太王が倭軍と交戦していた「4世紀後半から5世紀はじめ」の時期、日本列島の中央部(近畿)には、応神陵古墳や仁徳陵古墳もしくはその前後の巨大古墳が存在した。これに対して、筑紫の場合、「銚子塚古墳※」など、はるかにスケールが小さかった。この比較から見て、やはり「好太王碑の中の『倭』」の中心勢力は近畿、そのように考える論者は多いかもしれない。しかし、好太王碑にしめされているような「高句麗軍と倭軍との反復された死闘」の中で、同時に「巨大古墳の建造」など、到底不可能なのだ。この点、日本書紀以前の“近畿天皇家内の伝承”を基本としたと見られる古事記において、「応神天皇」や「仁徳天皇」の項に、これらの“半島内死闘の痕跡”が皆無であること、これは偶然ではないであろう。筑紫なる王権を、本流の宗主国としながらも、敢て「半島内の死闘」に対して深入りしなかった近畿分流王朝(いわゆる「天皇家」)の姿勢こそ、あのような巨大古墳群を造成することのできた時代背景なのではあるまいか。 ※ 好太王碑の示す「4世紀後半から5世紀はじめ」に当たるとされる筑紫の「銚子塚古墳」は、中型古墳というべき規模だが、「黄金鏡:後漢式鏡に黄金を塗布したもの」が出土しているのに対して、近畿ではその類を見ない。 ※ 好太王自身の古墳も、応神陵や仁徳陵に比較するとき、はるかに小規模であり、むしろ「銚子塚古墳」などのような中型古墳というべき規模である。 森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より ・
たとえば五世紀、六世紀頃を例にとると、朝鮮半島で最大の古墳といっても、百十メートルクラスの双円墳が慶州に二つあるだけなんです。百十メートルクラスの古墳といえば、日本列島の場合、それこそ南九州から東北に至るまで、あちらこちらに出てきます。ですから日本の場合は決して、頭に浮かびがちな、大和なり河内なりにその時点での最高唯一の力があって、それ以外の地域ははるかにそれより劣るということは、古墳のあり方からはまったく言えないわけです。 ・
だから、どうしても大和朝廷を中心に考えている図式というのは、僕は古墳に即しても、なかなか合わないのではないかと思います。 |
●壬申の乱 壬申大乱 古田武彦著 2001 東洋書林より、 よみがえる九州王朝へもどる
1) 白村江で連戦連勝した唐の一大船団は、今や、日本列島、特に西半部を大きく「制圧」していたのである。それでなければ、「8年間に6回」も、筑紫へと唐の使節団や軍団が到来することは不可能だ。また、「陸上」の軍事的中枢地を支配し続けることもまた、およそ不可能なのではあるまいか。
2) 「大分君恵尺」が壬申の乱で活躍したことは有名だ。しかし、その活躍が近畿内の「陸地」に限られていることは不審だ。なぜならば、彼の本拠地は「大分」すなわち、九州の一画だ。当然九州の陸地とともに、九州内の水軍、それも瀬戸内海領域の西域は、彼の勢力範囲内に入っていたのではあるまいか。もう一つ、注目すべき重大事がある。それは九州内の諸豪族、その大半は「筑紫の君」すなわち、「倭国(九州王朝)の天子」に従って、州柔城の陸戦や白村江の海戦に参加し、その多くは、或いは海中に没し、或いは唐側の捕囚の身となっていた、と考えてほぼ誤りないのではあるまいか。これに対し、「大分君恵尺」はちがった。すなわち、かれは白村江の戦いなどに参加しなかった。中大兄皇子と中臣鎌足の「方向転換」に従って、「斉明天皇の喪」を「名分」として、対唐戦闘態勢からの離脱を決断したのである。『日本列島へ到来した勝者、その唐軍(水軍と陸軍)を迎えた「列島内、親唐勢力」の筆頭は、この大分君恵尺である。唐軍に対する最大の九州内協力勢力であった』。
3) 「天武紀の『壬申の乱』の『吉野』と、持統紀に氾濫する『吉野』群は、同一で、九州の肥前の吉野である」。すなわち、「壬申の乱」はやはり、従来信じられてきたような「近江と吉野と関が原」という、小さな近畿周辺のデルタの中だけで展開されたものではなかった。七世紀の白村江以後、くりかえし、執拗なくらい、日本列島の九州の一角にやってきて、中国(唐)中心の「大義名分」のもと、西日本を中心に軍事的制圧体制を敷きつづけてきた、唐軍の動きと無関係ではなかった。
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大海人皇子軍 |
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赤染造徳足 |
県犬養連大伴 |
県主族都野/津真利 |
安斗連阿加布/智徳 |
荒田尾直赤麻呂 |
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五百木部東人/君木枝 |
胆香瓦臣安倍 |
石川王 |
出雲臣狛 |
忌部首子人/色布知 |
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逢臣志摩 |
大分君恵尺/稚臣 |
大蔵直広隅 |
大伴朴本連大国 |
大伴連/友国/吹負/馬来田/御行/安麻呂 |
多臣品治 |
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置始多久/置始連兎 |
小墾田猪手 |
尾張連大隅/馬身 |
甲斐勇者 |
各牟勝小牧 |
膳臣摩漏 |
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蚊屋忌寸木間 |
紀臣阿閉麻呂/大音/堅麻呂 |
黄書造大伴 |
百済淳武微子 |
国造族馬手/甥/雲方 |
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倉垣直麻呂 |
駒田勝忍人 |
佐伯連大目 |
坂田公雷 |
坂上直老/国麻呂/熊毛 |
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坂本臣財 |
佐味君少麻呂 |
勝枚夫 |
当麻公国見/広嶋 |
当麻真人広麻呂 |
高田首新家 |
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勇士来目 |
竹田大徳 |
高市県主許梅 |
田中臣足麻呂 |
谷直根麻呂 |
民直大火/小鮪 |
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小子部連鉏鉤 |
調首淡海 |
徳麻呂 |
舎人連糠虫 |
長尾直真墨 |
難波吉士三綱 |
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漆部友背 |
根連金身 |
土師連馬手/真敷 |
羽田公大人/矢国 |
秦造熊/綱手 |
泥部目氏枳 |
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文直成覚 |
書直智徳/書首根摩呂 |
古市黒麻呂 |
不破勝族吉麻呂 |
星川臣麻呂 |
路直益人 |
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宮勝木実 |
三輪君子首/高市麻呂 |
身毛君広 |
村国連男依 |
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山背直小林/部小田 |
山辺君安麻呂 |
稚桜部臣五百瀬 |
和珥部臣君手 |
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大友皇子軍 |
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いお井の造鯨 |
壱伎史韓国 |
韋那公磐鍬 |
犬養連五十君 |
大野君果安 |
忍坂直大摩呂 |
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紀臣大人 |
樟使主磐手 |
来目臣塩籠 |
巨瀬臣人 |
社戸臣大口 |
佐伯連男 |
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境部連薬 |
蘇我臣赤兄/果安 |
高坂王 |
田辺史小隅 |
谷直塩手 |
智尊 |
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中臣連金 |
土師連千嶋 |
秦友足 |
書直薬 |
穂積臣五百枝/百足 |
物部首日向/連麻呂 |
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山部王 |
稚狭王 |
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●古代日本の都 戻る 古代日本という国は白村江の戦い(663)、壬申の乱(672)を経て、持統天皇による藤原京遷都(694)、そして大宝令施行(701)により国家としての体制を確立した。
よみがえる九州王朝へもどる
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645 |
大化の改新(蘇我入鹿没) |
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654 |
孝徳没 |
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658 |
有馬皇子の変 |
比羅夫 蝦夷を討つ |
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660 |
百済の鬼室福信 日本に援軍を請う |
比羅夫 粛慎を討つ |
唐、百済を滅ぼす |
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661 |
斉明、中大兄ら政府を九州朝倉に置く、伊勢王没 |
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663 |
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664 |
対馬、壱岐、筑紫に防人、烽を置く |
爵位26階 |
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666-7 |
百済男女2千余人を東国に移置(666)、大津京遷都(667) |
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天智帝即位、沙門道行草薙剣を盗む |
近江令公布 |
唐、高句麗を滅ぼす |
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669-71 |
蘇我赤兄筑紫率、藤原鎌足没(669)、庚午年籍作成、法隆寺焼亡(670)、大海人吉野に去る(671/10月)、天智帝没(671/12月) |
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672 |
3月使者を筑紫に派遣し喪を郭らに告ぐ、5月甲冑弓矢などを郭に与える。6月壬申の乱勃発 |
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673 |
大海人(天武)即位 |
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676-9 |
王卿を京、畿内に派して人ごとの兵を校す、この年、新城に都せんとして果たさず(676)天皇、皇后、六皇子と吉野宮に赴き誓盟をなす(679) |
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681 |
草壁を皇太子に立てる |
律令、法式修定を宣す |
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682-4 |
連、真人(皇族)、朝臣、宿禰の姓を諸氏に与える、八色の姓制定(684)、大官を畿内に派し都たるべき地をさがす。また、使いを信濃にも遣わす(684)、天皇宮地(後の藤原京の地か)を定める(684)、信濃国の図を進上(684) |
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685 |
諸王らを京、畿内に派し、人夫の兵を校せしむ。歌男、歌女、笛吹者をしてその子孫に伝えて歌笛を習わしむ、天皇病にかかる。大官を派して畿内の役に任ず |
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難波宮焼亡。草薙剣を熱田社に移送、天武没(9月9日)、大津皇子謀反事件(10月2日)、皇子死す(10月3日) |
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690-1 |
皇太后(持統)即位(690)、大三輪ら18氏をして祖先の墓(纂)記を提出させる(691) |
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693 |
服色による身分的差別を定める |
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694 |
郡司の叙位、藤原宮遷都 |
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696 |
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697 |
軽皇子(文武)即位 |
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699 |
役小角を伊豆に流す |
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701 |
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702 |
持統帝没 |
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●古事記完成(712)、日本書紀完成(720)
天武朝と隼人 竹の民俗誌 沖浦和光著 岩波新書(1991)より
南九州の隼人を畿内周辺に移住させて、彼らに特別の役務を課したのは天武天皇であった。六七二年の壬申の乱に大海人皇子が勝利すると、飛鳥浄御原に即位して、矢継早に天皇制の強固な地固めに着手した。天皇の支配体制を内外に宣明するためには、どうしても(化外の民)−東北の蝦夷と南九州の隼人−を征服して王化に浴させねばならなかった。 ヤマト王朝内部の支配体制が固まってくると、天武は辺境の地への探索を強め、(化外の民)の内属化が急速に推進された。多禰(種子島)、披玖(屋久島)、阿麻弥(奄美大島)など南西諸島まで手を伸ばしたのも天武朝であった。すでに五世紀末から帰順した隼人の一部の畿内移住は行われていたようであるが、七世紀後半の天武朝に入ると隼人の集団的な強制移住が次々に実施された。『紀』においても、隼人に関する記事がにわかに多出するのは天武朝に入ってからである。隼人という呼称が朝廷で正式に採用されたのもその頃であろう。『紀』の天武一一年(六八二)七月の条には、「隼人多く来り、万物を嘉す。是日、大隅隼人、阿多隼人と朝庭に相撲す。大隅隼人勝つ」と記されている。また天武天皇の死に際しては、大隅と阿多の隼人が、魁師に率いられて喪がり宮のシノビゴトにあたっている。シノビゴトは、貴人の死に際してその生前の功徳などを霊前で述べる儀礼であるが、この場合も隼人の持つ呪力が活用されたのである。
参考資料: 畿内の牧 森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より
竹取物語(かぐや姫伝説) 竹の民俗誌 沖浦和光著 岩波新書(1991)より 壬申の乱と神武東征物語へ戻る
加納諸平は和歌山藩の史料編纂に尽力した江戸末期の国学者で文献考証の達人であった。彼はその『竹取物語考』で五人のモデルの実在性について詳しく調べた。そして、ここに登場する五人の貴人は、いずれも『日本書紀』持統天皇10年10月17日の条に登場する実在の人物であることを明らかにした。この五人の貴人はこの物語ではその性格や人柄が誇張されて登場してくるが、いずれも672年の壬申の乱から天武・持統朝にかけて実際に活躍した貴族がモデルになっていると指摘した。
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車持皇子: 藤原不比等 彼の母=車持君国子
A
石作皇子: 丹比真人嶋
B
あべの右大臣: 安倍御主人
C
大伴の大納言: 大伴御行
D
いそのかみの中納言: 石上麻呂
高市皇子暗殺説 ← 上の五人をその下手人たちとする説がある。
●奈良時代以前の筑紫・豊・肥の有力者: 日向系皇統と日下部氏へもどる よみがえる九州王朝へもどる
筑紫の君磐井の戦争 東アジアのなかの古代国家 山尾幸久 著1999年 新日本出版社 より
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国 |
郡 |
姓 |
出処 |
備考 国造名 |
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筑前 |
志摩 |
委文(しどり)連 |
飛鳥藤原木簡 |
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大宝2年戸籍 |
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生(みぶ)君 |
大宝2年戸籍 |
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許世(こせ)部直 |
大宝2年戸籍 |
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中臣志斐連 |
続紀もと中臣部 |
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早良 |
正倉院文書 |
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早良勝 |
正倉院文書 |
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那珂 |
類聚国史 |
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糟屋 |
つきしね(春米)連 |
妙心寺鐘銘 |
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宗像 |
胸肩君(朝臣) |
神代記(天武紀) |
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御使君 |
紀(拠地不確実) |
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御笠 |
筑紫君 |
筑後風土記 |
筑紫国造 筑前国御笠郡筑紫神社 |
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益城連 |
続紀。もと宗形部 |
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筑後 |
三潴 |
水沼君 |
神代記・雄略紀 |
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上妻 |
筑紫君 |
筑紫風土記 |
筑紫国造 筑後国上妻郡太田郷 |
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豊前 |
京都 |
膳臣 |
日本霊異記 |
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楉田勝 |
続日本紀 |
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仲津 |
高桑臣 |
大宝2年戸籍 |
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大宝2年戸籍 |
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膳臣 |
続日本紀 |
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豊国直 |
豊後国風土記 |
豊国造 仲津郡仲津郷 |
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築上 |
佐伯直 |
続紀(カバネ不確実) |
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上毛 |
膳臣 |
大宝2年戸籍 |
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紀臣 |
続紀(カバネ不確実) |
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下毛 |
勇山連 |
続紀(カバネ不確実) |
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宇佐 |
宇佐君 |
続日本紀 |
菟狭国造 宇佐郡宇佐駅 |
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大神朝臣 |
続紀 |
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韓嶋勝 |
天智紀 |
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豊後 |
日田 |
日下部連 |
正倉院文書 |
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豊後国風土記 |
比多国造 日田郡靫編郷 |
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玖珠 |
国前臣 |
正倉院文書 |
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直入 |
物部君 |
紀(拠地不確実) |
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海部 |
海部公 |
続紀 もとカバネ君 |
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大分 |
天武壬申紀 |
大分国造 大分郡茬隈郷 |
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国前 |
国前臣 |
孝霊記・景行記 |
国前国造 国埼郡国前郷 |
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肥前 |
三根 |
海部直 |
肥前風土記 |
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米多君 |
応神記・続紀 |
竺志米多国造 三根郡米多郷 |
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佐嘉 |
佐賀君 |
霊異記 |
末羅国造 葛津(立)国造 |
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松浦 |
日下部君 |
肥前国風土記 |
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霊異記 |
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高来 |
神代直 |
肥前風土記 |
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玉名 |
日置 |
瀬川出土墓誌銘 |
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欽明記(拠地不確実) |
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阿蘇 |
阿蘇君 |
神武記 |
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建部君 |
写経(拠地不確実) |
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飽田 |
建部君 |
平城宮木簡 |
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益城 |
大伴君 |
万葉集 |
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浄水寺碑銘 もと君 |
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正倉院文書 |
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八代 |
肥前風土記 |
火国造 八代郡肥伊郷 |
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葦北 |
敏達紀 |
火葦北国造 葦北郡芦北郷 |
海の往来 風土記日本 第一巻 九州・沖縄篇 平凡社(昭和35年 初版)より よみがえる九州王朝へもどる
朝鮮の難民
任那の日本府
アジア大陸と日本との交流がきわめて古くからおこなわれていたことは、弥生・古墳時代に見られる金属器や墳墓形式の伝来、また中国書にあらわれた倭国(日本)についての記事で知られているが、こうした中からヤマト政権の力がつよめられ、ととのってくるいっぽう、朝鮮半島もめまぐるしい変化をとげて新羅と百済という新しい国家が誕生する。四世紀半ばからその後半にかけてのことである。日本もまた半島最南部の任那をおさえて植民地経営にのりだすのである。このように日本の古代史はその背景に大陸の動きを背負って展開していく。なかでも新羅と百済はわが国内の情勢に重大な影響をおよばした国であった。
新羅
いったい朝鮮半島は、その東側の新羅と西側の百済とでは文化も社会構造もかなりちがっていた。東部は新羅の国のきずかれたところであり、そこでは「和白」とよばれる族長会議をもち、そこで推された共同の王をいただく共同体的な体制がながくのこされ、やがて貴族の会議にかわっても国王をきめるなどの重大な仕事がそこでとりはからわれた。やがて王は世襲とかわっていくが、また「花郎」という貴族仲間があって、それが戦士として戦争にでていった。だいたい新羅は山が海にせまって平地にめぐまれなかったが、多くの砂鉄を出し、その精錬が古くからおこなわれており、鉄をもつことによって戦いにもつよく、日本からもこの鉄を取りにいったという。彼我の交通はなかなか盛んであったらしく、允恭天皇がなくなられたときくと、四五三年、新羅壬は八〇そうの調船と八〇人の楽人をおくって弔問したという。
百済
いっぽう、半島の西部には馬韓五〇余国があったが、その北部諸国が統一され、独立して百済といった。この国は稲作を中心にした農耕が発達した。ところが農耕民族は一カ所に定住する者が多く、生産にたずさわっていて平和を愛するところから戦争がじょぅずではなかった。百済もその実権をもって政治を支配していたのは、高句麗族とおなじ扶余族で、この民族ほもと満州(中国の東北)方面に勢力をもっていた。
ところが百済は陸路を中国(シナ)へたどることができたばかりでなく、沿岸には島が実に多くそこにはまた船も多くて、この国の人々は船を利用して海岸づたいに華南(南シナ)とも往来していた。そして中国の南北朝(三一九〜五八八年)のころには南方の王朝とたえず往来していた。日本もまた南朝の宋などと往来し、仏教は南朝から百済をへて日本に伝わってきたのである。稲作農耕などもおそらくこのルートから日本にもたらされたものもあったであろうと思われるが、そうだとすれば、わたしたちほ朝鮮半島をへて鉄と稲作という大きな生産文化をうけいれたのである。とくに稲作は百済では土着の下層民によって行われたものであり、それらは支配者としての異民族の圧迫にたえかねて、海をこえて日本にきたものが少なくなかうたようである。
そして雄略天皇のとき梁との政治交渉を最後に、推古天皇の一五(六〇七)年、小野妹子が隋につかわされるまでの一四〇年あまりの間、政治的な交渉はたえていたのであるが、新羅や百済と日本との間の往来はきわめて盛んで、公の使者はかりでなく一般民衆の往来もじつに多かった。
天智天皇の六六〇年に百済が新羅にほろばされたとき、日本に逃げてきた者の数は記録せられているだけでも五千人に近いのである。じつさいにはもっと多くの人たちがきたものと思われる。それ以前−やほり百済から日本にきた弓月君とその率いてきた秦人の数が、欽明天皇の元(五四〇)年には七、〇五三戸に達していたといわれ、人数にして一〇万人にのばると考えられ、主として近畿に定住したのである。そして九州でも秦人は勢力をもち、太宰大監泰時広は延久五(一〇七三)年に肥前小城郡(佐賀県)の私領五八三町歩を売った記録があるから、いかに大きな根をはっていたかがわかり、朝鮮海峡はこうした来住者の渡航や半島と親縁のある人々の往来でにぎわっていたであろう。
とくに天智天皇が百済回復戦におくった兵力は二万七千人にのぼったといわれ、当時の大船は一隻に150人内外乗ることができたとして180隻、50人ぐらい乗ったとして540隻にのぼる大船が必要になる。すくなくもそれほどの船がこの時代にはあったと見てよいかと思う。
遣 隋 使
小野妹子
中国も隋によって南北朝が統一され、日本との間に、国交が再開せられるに至った。そのおもな目的は日本に仏教をとりいれ、また日本の文化水準を高めることによって国家統一の実をあげることにあったから、遣隋使に多くの留学生、留学僧をともなわせた。政府が積極的な意志のもとに学生や学問僧を大陸におくったのは、文献に見えるところではこの時が初めであり、統一国家としての完成を期しての新しい出発であった。
さて小野妹子は推古天白十五年に隋にわたり、翌年隋使 裴世清とともにかえり、さらに翌々年裴世清をおくって留学生をともなって隋におもむいた。
この留学生の多くは帰化人であった。ついで推古の二二年に犬上御田相が渡航したが、隋はそれから一二年後にはろび唐がこれにかわった。この航路は古くから百済との間におこなわれていたものを利用し、山東半島にいたって上陸し、そこから陸行したのである。
遣 唐 使
入唐費用
隋に代った唐にたいしても日本は使いをおくった。欽明天皇の二(六三〇)年がその初めであり、承和五(八三八)年までの間約二〇〇年間に十七回の遣唐使任命があり、そのうち二回は中止しているから渡航したのほ全部で一五回であった。平均すれば二二年に一回くらいの割合で派遣せられたことになる。
そして第一八回に菅原道真が大使に任命せられたとき(寛平六年)、中止を奏上してやんだものである。その理由は唐が内乱のために治安がわるくなり、そのうえ海上遭難の多いことを理由にしているが、現実には民間の通商が
大きく伸びていったこともまた大きな原因であろう.遣唐使というのは政府から遣わされる大がかりのものであり、大使が任命せられて出発するまでに一〜三年の準備がかかっている。そのうえ経費もばくだいなものであった。たとえば直接遣唐使の費用とはいえないが、大牢府は蕃客(外国使節)儲米として三、八四〇石の米を常備する規定になっていたというから、遣唐使にはもっと多くの経費を要したであろう。
航海安全と持衰
そして使者の入居費用や留学費にはおびただしい砂金や絹が貨幣のかわりに与えられた。また航海中は糒を常食にし生水で渇をいやし、東シナ海を横断しなければならなかったのである。わが国のおくれた航海技術では季節風を利用することをまったく知らず、むしろ逆風をついて船をすすめていったからそれだけ難破することも多かった。「魏志倭人伝」には、日本の邪馬台国から大陸に使者が舟でやってくるときには、その中の一人は髪をすかず、ノミやシラミをとらず、白い麻の着物はよごれたままであり、女ほ近づけず、喪中の人のようにしており、これを持衰というとあり、もし無事に到着できれはほうびをもらえるが、海が荒れるときは持衰のつつしみが足りなかったからといって殺されるという記事がのっている。しばしば暴風に見舞われた遣唐船にも神主をのせて航海の安全を祈った。
入唐の海路
そしてこの往来によってもたらされた文化も学問もそれほほとんど奈良、京都を中心とする政治の完成に役だてられ、地方が直接にうるおうことは少なかったのである。そのうえ天智天皇の二(六六三)年、百済におくった遠征軍が白村江の戦いで唐軍に大敗してから、百済を経由して唐にいく道は一応とぎされたのである。これは日本にとっては大きないたでであって、遣唐使船は南島路をとることになった。この海路は那ノ津(博多)をでて平戸から南下し、多執(種子)、夜久(屋久)、吐火羅(宝)、奄美(奄美大島)から東シナ海へ、あるいはさらに南下し度感(徳之島)、阿児奈波(沖縄)、球美(久米)、信覚 (石垣) の諸島を経、そこから東シナ海を横断して中国大陸の沿岸ぞいに揚子江の河口に達するものである。このルートはずっと古くからひらけていたものである。庶民の道であって政府の公道というようなものではなかったが、第七次の遣唐使船からほこの航路がとられることになった。
ところが奈良時代の終りごろから、たぶん中国からの一般商船は北路も南島絡もとらないで、いきなり東シナ海をよこぎって九州西岸に達するものが多くなってきたようである。日本の船もそれにならって、第一四次船の時から大洋を一直線によこぎることになったが、中国の船が造船術もすすみ大洋を横断する能力をもっていたのにくらべて、日本の船は造船術がおくれていて、百済船の手法により船底が平らで、十分に波をきることができなかったとみえ遭難があいついだ。追風で順調にいけは三昼夜でわたれる海であるが、あいつぐ遭難もおこり、ついに中止となるのである。
しかし、商船の往来はようやく多く、平安時代の学問僧の大半は商船を利用して大陸にわたっている。その商船は唐のものばかりでなく新羅のものもまたしだいに数をまし、新羅のものは朝鮮半島の西岸を航行したもののようで、その数がますにつれて海賊になやまされほじめている。
国民意識の目ざめ 異民族の移住と侵入
ひとつの地域にほっきりした国家が成立せず、だいたい血のつながりのある人々の住む範囲で共同体をつくり、さらにこれが発展してクニとよんでいたころまでの間は、異民族がやってきて空間の地へ住んでも、在来者はそれに対してたいして迫害はしなかったもののようである。つまりかなり自由な気持で移動しつつ適当な場所に住みついたのであろう。大和朝廷をつくった皇室の祖先も、古事記、日本書紀にあるように、西から東へ移動していったものであろち。この人々はその移動に船を用い、阿多、安曇などの海部の民を率いていたことによっても知られるとおり、つまり単なる農耕民族ではなかったようである。だからその初めは戦闘的であったが、しだいに農耕民の上にたってその支配者らしい体制をとってきて国家を統一する。そして統一が完成すればするはど国民意識ほほっきりし、国境がはっきりしてくる。だから海外からきた者も国家の指図にしたがって、定住する場所におちつかねばならなくなる。だから白村江の敗戦から後は、日本にのがれてきた半島人たちもそれぞれ指定せられた土地におちついて、新しい郡や村をつくった。美濃の席田郡、武蔵の新羅郡、高麗郡などはそうした郡であった。
このように新しい土地を与えられたものはよいとして、国境がはっきりしそれぞれ両方で城をきずいて警戒をはじめると、もう庶民の比較的自由な移動はできなくなり、武力によっで定住者をおびやかすようになってくる。貞観一一(869)年にほ豊前国の調貢船の絹綿が新羅の海賊にうばわれ、寛平五(893)年にはおなじく新羅の賊が肥後国(熊本県)飽田郡に侵入して人家をやき松浦(長崎県)に去っている。さらに寛平六(894)年には対馬を犯している。これらの賊徒は生活に窮し、そのうえ行き場がないから九州沿岸をおそったのであって、もう群をなしてきた者を定住させるだけのゆとりは日本、とくに九州にはなくなっていたのである。これにたいして唐は新羅商人の国内移住をみとめていたようで、円仁の入唐求法巡礼行記によると、山東半島のあなたこなたに多くの新羅人が住んでいたとあり、唐会要にも新羅の飢人がたくさん浙江省の東の方へやってきたともしるしている。
いずれにしても新羅の窮乏ははなはだしく、日本の国家統一以前ならば何千人というほどの移住がおこなわれたのであろうが、それがゆるされず、しばしば使いを日本におくっているが太宰府でほ相手にしなかった。
刀伊の賊 女真きたる
こうしたところへ、寛仁三年(1019)三月二十七日、50そうあまりの兵船がとつぜ対馬をおそい、ついで壱岐をおそい、四月七日には筑前恰土郡に押しよせ、志摩、早良の二郡をかすめ、能古島(残島)を占領して博多湾にはいった。そこで一二日にわが兵はこれと戦って外洋に追い払ったが、十三日には肥前(佐賀県)松浦をおそい、それから北に去った。目的は人と物をとることで、対馬では銀穴をやき、壱岐でほ国守藤原理忠はじめ人民、法師、童、女二五二人を殺し、女ら二三九人を捕え、志摩郡では二二人を殺し、四三五人と牛馬七四頭を捕えている。これはあきらかにいままでの新羅人の賊とはおもむきを異にしている。人をとるというのは古い戦争の大きな目的の一つで、人を奴隷として使い、労働力をえようとするものであった。これを刀伊の賊といった。捕えられた日本人は新羅がまた刀伊と戦って奪いかえし、日本におくりとどけてくれた。刀伊は新羅の北、いまの成鏡道あたりに立国した女真のことであった。
海外進出の意気 老松堂の日本行録
こうして海のかなたからくる者の老の半ばはわれわれの生命をおびやかすものであり、そういうことが九州沿岸の人々にしだいにつよい国民意識をうえつけていった。ずっと後の記録になるが老松堂の日本行録(一四二〇年)によると「博多では城がなく、夜になると賊が人を殺すことが多かったが、その賊を揃えることができなかった。そこで代官の伊東氏が町の岐路に門をつくって夜は閉ざすようにした」とある。これは直接、外寇の警戒のために門をつくったのではないが、西辺の町はたえず半ば不安にさらされていたのである。しかしそのため半島との往来がなかったわけでほなく、庶民の間では国境の禁をおかして往来していたのである。貞観八(八六六)年に「対馬の卜部乙尿麻呂というものが新羅まで鵜をとりにいって新羅でつかまった」と大宰府から京都の政府へ知らせがあった.この男は、のち脱獄して逃げてかえり、新羅が対馬をとる計画をたてていると報告しているから、ことによるとスパイだったかも知れないが、一方なぜ鵜を新羅までとりにいったかというと、大宰府が年年鵜を政府におさめねばならなかったからである。中央ではこれを鵜飼いに使用した.しかも鵜は九州西海岸には至るところにいた。乙尿麻呂などは血の気の多い男であっただろうが、そういう人は少なくなかったと思われる。肥前(長崎県)御厨庄小値賀島の地頭清原是包は、鎌倉時代の初め高麗と事をかまえて地頭をやめさせられているが、これなどもどうやら朝鮮まで押しよせていったらしい。
島津圧 風土記日本 第一巻 九州・沖縄篇 平凡社(昭和35年 初版)より よみがえる九州王朝へもどる 島津氏へもどる
北九州の条里制
南九州は異族(熊襲と隼人)のわだかまる地方であった。こうした辺境の地と、ヤマト政権がはやくから重要な地方とみなしていた北九州とでは社会のなりたつ事情もかなり違つていた。わが国では大化改新もしくはそのまえから、班田収授の法が唐の制度にならって、政治的、産業的にひらけた地方におこなわれ、土地を筋目ただしく割って、貢租をとるにも、農業をおこなうにも便利なようにした。これを条里制と呼んでいる。条里制は近畿の先進地方についで北九州の筑前、筑後地方にひろく見られたが、なかでも佐賀平野の北部は全国でも模範的な条里制がおこなわれたところであった。それたいして南九州はどうであったか。
日本一の大庄園
天平二(七三〇)年に大牢府から申し立てた言葉に、大隅薩摩両国の百姓のもつている田はことごとく墾田で、それをうけついで耕作し、あらためることを願わない。もし班田収授をおこなったら、喧訴が多いだろうと述べているのは、この地方で水田が開拓されたのほ比較的に新しいことであり、しかも耕作民の水田にたいする権利が強いことをしめしている。と同時に、大化以前にほかの地方では存在していたと思われる水田割替も、この地方にはおこなわれていず、共同体的な性格がよわかったと考えられるのである。
したがってこの地方では、大がかりな土地の囲いこみを反撥するような社会条件がなく、大きな庄園の成立する条件があったのである。この地方に、共同体的性格がよわかったことは、この地方の住民である隼人や肥人が、本来的な農耕民でなかったことにもとづいている。隼人が南海の島々、または海岸に沿う吾田地方を本拠にしていたこと、肥人が九州山地の山間に本拠をおく部族であったことのために、彼ら自身の手で農耕が急速に発展していくことは期待されない。このことは彼らの社会のなかで、階級が分化していくことを停滞させ、小さな地主たちの分立するのもゆっくりとおこなわれていった。そうしたわけで、南九州地帯には小さな庄園がこまかく分れて存在せず、数十町とか数百町歩の大庄園が数多く成立していたのである。その最大なものが島津庄である.
平季基
島津庄のおこりは、後一条天皇の万寿年間(1024〜1028)に、大宰大監(大宰府の裁判・警察をつかさどる長官)である平季基が、その弟といっしょに日向国諸県郡の島津の地にやってきて、所有主のない荒野をひらき、墾田を得てこれを宇治関白頼通に寄進したことにはじまる。平季基は、万寿三(一〇二六)年から四年のころに大宰大監であった実在の人物であり、長元三(一〇三〇)年には上京もしている。したがって島津庄の起りに関するこの話は、事実を伝えたものといえる。
九州で、大宰府の官人によって広大な庄園があちこちに開かれたことは、宇佐神領大鏡にもいくつかの例がある。大宰府が九州の総元締の地位をしめていたことから、官人の権威は高く、その官人としての地位を利用して、土民を動員し、墾田開発をしたものであろう。そしてこの地方の社会情勢ほ、はじめから広い地域を占有することを可能にしたのであった。すなわち建久園田帳に日向島津庄中一円庄とある三俣院七〇〇町、島津院三〇〇町はもちろん、北郷三〇〇町、中郷一八〇町、南中郷二〇〇町なども庄園となつてまもなくして、島津庄内にふくまれたものと思われる。島津院は、延喜兵部式に、日向国駅馬、嶋津各五匹とある地で、今日の都城市郡元町がその地にあたる。また三俣院は、同式にある三俣駅の地、今日の宮崎県北諸県郡山之口村付近、北郷、中郷はこれまた都城市付近である。こうして建久八(1197)年には二、二〇〇町歩におよぶ庄園が諸県群内にあったのである。島津庄が大隅薩摩の両国にもひろがっていくのは、まえに述べた万寿年間から110数年をへた保延年中(1135〜1141年)以後のことである。日向国内におけるこのような発展は、おそらくそれ以前のことと考えてあやまりがないだろう。しかもこうした広大な一円にわたる庄園を、短い年月の間に開発した平季基の子孫については、はっきりしたことがわからないのである。
さて平季基の寄進によって領家となったのは摂関家であり、摂関家はさらに春日杜を本家と仰いだ。これほ藤原家領の一般的な形式であって、このことが島津庄の一円庄地や寄郡地がひろがっていくきっかけとなったのである。大隅国における島津庄は、深川院一五〇余町、財部院一〇〇余町、多禰島五〇〇余町で、この三カ所は保延年間(1135〜1141年)以後に、また保延からさらに10数年後の仁平三(1153)年に、寄郡715町八段が成立した。
保延年問は中央において関白忠実が、摂関領を確立しょうと努力しているときであり、大隅国での島津庄の成立もそれと無関係ではあるまい。薩摩国内において最初に成立した島津庄は、和泉郡三五〇町で、これも成立はだいたい保延前ぐらいにあたる。薩摩国内の島津荘一円領635町のうち二八五町をしめる伊作郡二〇〇町、日置北郷・同南郷八五町の地は、それまで島津庄寄郡であったが、源平の内乱がこの地方にまでおよび、百姓が逃散して庄園と国衙両方の課役をつとめることができないというので、時の領主平重澄が一円庄領として寄進したものである。
島津庄の寄郡
こうしてみると島津庄の発展の時期がほぼおしはかられるのであって、その時期は院政期から鎌倉期初頭ということになる。しかもこの庄園にあってほかに見られないのは「寄郡」なるものの存在である。建久園田帳によると、島津庄寄郡は日向国に一、八一七町、大隅国に七一五町余、薩摩国内でおよそ二、五〇〇町、あわせて五、000余町に達する。これにたいして一円庄領は、日向、大隅、薩摩三国で三、四〇〇余町となり、一円庄と寄郡との合計は八、五〇〇町におよんでいる。この寄郡はなかば租税を納めない土地であって、ときに公領ともよはれ、雑役を国家にはたすことを免ぜられた田地である。雑役免は大和国においてとくに興福寺領に厖大なものが見られたが、諸国いたるところにあったものである。宇佐八幡宮領にもいちじるしいが、その規模の大きさでは、大和国興福寺領雑役免と島津庄寄郡とにならぶものはない。雑役免の成立は、庄園内の名主が国役を免れるために、有力領主にじぶんの名田の雑役を寄進し、有力領主の政治的圧力によって国街がこれを承認するという経過をたどるのがふつうであり、島津庄寄郡の場合もおなじであったと思われる。ただ雑役免を寄郡と称した例ははかにない。それぞれの寄郡をみると、河辺郡、高城郡、谷山郡などの郡名のもののほかに、宮里郷、祁答院、牛屎院など、郷、院を号するものがはなはだ多い。院を号する地名の多いこともまた、薩隅の特徴である。院というものほもと役所のことで、倉庫の事務をとる所を倉院といい、延暦一四(七九五)年、郷ごとに一院をおいて、租税をここに納めさせたが、つづいて毎郷をあらためて、もよりの郷にはその中央に一院をおいて共通に用いさせたのである。もともと租税は郡衛のあるところの倉院に納めていたのがあらためられたわけで、郡家以外に郡内の適当な地に倉院をつくって租税を出納するため、院は郡家と同等の機能を果したのである。しかし薩摩大隅地方では、倉院を管掌する院司に、郡司とおなじように土地の豪族がなったため、院司でありながら郡司と称するものさえあった。郷というのは、いうまでもなく律令制にもとづく行政区画であるが、薩摩大隅では、郷も院とおなじようにして郡と対等の地位を占めた。そして、郡司、郷司、院司は、いずれも古くからの土豪の家のものがなった。薩摩大隅の肝属氏、その支流である和泉氏、安楽氏また平姓を名のる伊作、川辺、頴娃、給黍、薩摩、別府、揖宿、知覧、阿多などの諸豪族はみなこれである。かれらはその管轄下の土地をはやくから私領化して、みずから領主化し、いっばうでは国衛官人となり、いっぽうでは日向島津庄の領家藤原氏の権勢をかりるために、その他を島津庄の寄郡としたのである。島津氏の祖島津忠久が、島津庄下司職に任ぜられた元暦二(一一八五)年ごろの島津庄はほぼこうしたありさまであった。そして島津氏がこれら豪族をしたがえて、日向、大隅、薩摩を統一したのは、忠久からかぞえて一四代目の勝久のころであった。
その間、四世紀もの年月が三州の山野に流れていったのである。
阿多氏と為朝
島津庄が平安末に急速に大きく広がっていったころ、薩摩半島の南西部阿多郡の郡司で阿多平四郎忠景というものがたいへん勢力をふるっていた。阿多氏は平四郎と名乗っているものでもわかるように、平姓を称する豪族であった。もともとこの地方には平姓をとなえる豪族がすこぶる多く、彼らは島津庄を開いた平季基とおなじように、いずれも大宰府の役人であったろうといわれている。けれども阿多の地名については、はやくも日本書紀に、ニニギノミコトのお妃コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)は吾田の大山祇のむすめで、神武天皇が日向にいたとき、阿多のオハシノキミ(小椅君)の妹アヒラヒメ(阿比良比売)をめとったとつたえ、またニニギノミコトは高天原から日本にうつるとき、吾田の長屋笠狭崎に上陸したともつたえている。またこの地は隼人族の原住地ともいわれていることから、これらは伝説的ではあるが、古代の阿多地方にヤマト朝廷に対立するような部族が存在していたことは、うち消すことができないようである。平安末にあらわれる阿多平民がその系統をひくものとはいいえないにしても、平安末この地に、薩摩大隅にわたる威力をもつものが起ってくる可能性はふるくからあったわけである。阿多平四郎忠景は、のちには薩摩権守に任ぜられ、大隅国では槍前篤房なるもののあとおしをして、大隅国の古寺台明寺領を押えさせ、また忠景の弟忠友はあちこちの庄園を押領するなど、その勢力は薩摩大隅両国におよんだ。源為義の子為朝が九州にくだって身がってにふるまっていたことは、藤原頼長の日記などにも見えるところであるが、保元物語によると、為朝は「幼少より不敵にして兄にも所をおかず、傍若無人なりしかば、身に添えて都に置きなば悪しかりなんとて、父不孝して、十三の歳より鎮西のほうへ追い下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を傳(めのと)とし、肥後国阿曽平四郎忠景が子、三郎忠国が婿になって、君よりもたまわらぬ九国の総追捕使と号して、筑紫をしたがえんと」したとある。この阿曽は阿多をあやまったもので、為朝の九州における活動は、阿多氏らの武士の後援があずかって力あったものと考えられるのである。文治年中(1185〜1190年)に、為朝の子といわれる上西門院判官代義実が豊後冠者と号して謀叛し、国衛に乱入して、そこに保管してあった薩摩国の田地台帳(図田帳という)などを破りすてたことがあり、為朝と薩摩武士との関係が深かったことをしめしている。為朝は、父為義が解官させられるといわれおどかされて京都に帰ったが、忠景は平家の世となってからその圧迫をうけ、貴海島(鬼界ガ島)に逃亡した。平家は家人筑後守平家貞をつかわしてさらに貴海島を追討させたが、さすが水軍に長じた平氏の軍船も、数度の渡海にいずれも失敗したのである。のちの伝説ではあるが、為朝は平家に捕えられて伊豆大島に流されたが、ひそかにのがれて南島にいたり、鬼ガ島を征服して大里接司の妹をめとり、その産んだ尊敦が浦添接司となって琉球の尚家をたてたというのも作り話であったとしたところで、為朝と阿多氏との関係が大きな意味を待つたということは考えられるのである。
まえに述べたように、為朝を支援した阿多忠景は貴海島にのがれ、平家貞がその追捕のために薩摩にくだり、薩隅は平家の勢力下にはいることとなった。有名な平忠度が薩摩守になったのはこのころのことである。阿多氏も、のちの治承、寿永の源平争いの時期には、阿多四郎宜澄なる者が平家に味方して、鎌倉幕府に所領を没収されるはど平家がわにかたむいた。
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