山への旅(シリーズ) シリーズTopへ戻る
第3回 豊のくにとヒタカ 2006.6.25up 2010.7.7更新
トヨ(豊) と ヒタカ(日高、比田勝、比多、日田)ヒコ(日子)----天存降臨の痕跡地名?
古事記の天孫降臨神話では、トヨの名をもつ母性神から、日嗣の御子(天津日高日子:アマツヒコヒコ或いはアマツヒタカヒコ)神がお生まれになっています。日嗣の御子は高天が原より葦原中国への降臨を目指します。豊の名をもつ地域の東・南には、しばしば、ヒタカヒコを思わせる地名(ヒタカ、ヒムカ、ヒュウガ)が残されています。これは、日嗣の御子が降臨したもしくは降臨に旅立った場所を今にとどめる地名ではないでしょうか?
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高木の神と天照大御神より、葦原中国への降臨を命じられたアマテラスの御子神である天忍穂耳命(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)は、自分の子供である邇邇藝命(天津日高日子番能邇邇藝命)に天孫降臨を命じます。邇邇藝命の母神は、高木の神のムスメで萬幡豊秋津師比賣命という名です。
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筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に降臨を果たした邇邇藝命は、笠沙の御前で、大山津見神のムスメである神阿多都比賣(亦の名、木花佐久夜比賣)という麗しい美人に出会い結婚します。そしてお生まれになった3人の御子神のうち、火遠理命は海神のムスメ、豊玉比賣と結婚して皇孫鵜葺草葺不合命(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)がお生まれになるのです。
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天孫族の勢力範囲拡大に伴い、天孫降臨神話の舞台となった高千穂のくじふる嶺は西から東(東南)へと推移していったものと思われます。それは、最も早い時代には、対馬にあり、次いで福岡県北部(糸島郡)、そして、さらに福岡県と大分県境の英彦山などではないでしょうか。後世に天孫降臨地論争の舞台となって伝わっている大分・宮崎県境の高千穂町と、宮崎・鹿児島県境の高千穂峯のふたつは、そのいずれにも天孫降臨伝承のもととなる出来事があったはずですが、時代的にはずいぶん後の出来事と思われます。
わたつみの豊旗雲(とよはたくも)に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ

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時代 |
古い |
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新しい |
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地域 |
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トヨ地名 |
豊 |
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豊國 豊比賣神社 豊前坊社(大日孁尊) 辛国息長大姫大目命神社 |
豊前 |
豊後 |
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くじふる嶺 |
高麗山? |
可也山?高祖山? |
香春岳(鷹巣、高原) 忍骨命神社 |
英彦山、鷹栖山 宇佐郡辛国宇豆高島 宇佐八幡 |
二上山(宮崎県西臼杵郡高千穂町) 祖母山 阿蘇山 |
霧島・高千穂峯(宮崎県えびの市) 韓国岳 韓国宇豆峯神社 |
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ヒコ地名 |
比田勝 |
日向山・日向峠 |
日子(英彦山) |
日田・日高 |
日向・日高(人名) |
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地域 |
但馬、丹波、若狭 |
大阪 |
東京 |
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トヨ地名 |
兵庫県豊岡市 |
淀川両岸(豊中、豊島、都島、寝屋川豊里、豊野、他) |
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名古屋市の熱田神社周囲に『豊』の地名が分布(千種区豊年町、東区豊前町、中村区豊国通、豊幡町、豊成町、瑞穂区豊岡通、南区豊田町、豊田、豊) A
乎止与命(宮簀媛命の父) |
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くじふる嶺 |
気比神社 比治山真名井 |
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ヒコ地名 |
豊岡市日高町 |
応神・仁徳(難波宮) |
火高(ヒタカ)、比多加知(ヒタカチ) 氷上姉子神社【名古屋市緑区大高町火上山】 |
皇居(単なる偶然でしょうか?) |
・ 上対馬町豊田/比田勝(港)⇒地図 http7969

田川郡: 香春岳周辺 戻る
●太宰管内志 伊藤常足著 豊前國 田川郡 より
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延喜式に豊前国田川郡あり、田川は多加波と訓ムべし、名義は鷹ノ羽に由ありて負わせたるべし。當郡「彦山ノ縁起」には鷹羽郡と書り、又上古彦山鷹栖ノ窟に鷹来たりて住めりし事をも記せり。
・ 田川郡、彦山に鷹(あるいは鷹の巣)に由来する地名伝承が多いのは、高御産巣日神(鷹・・巣の日の神)のいた領域(高天原)であることを示すため、今に残された地名・伝承でしょうか?
●彦山流紀(1213)
・ 「月氏国の本主が王者の衣服を脱ぎ、鷹となって、万里の山海を超え、千里の峰に遊ぶ。その御体は石の鷹と変じ、今も霊峰にあり、故に鷹を以って垂迹となる。この因縁をもって、鷹栖としたのである」 鷹巣(鷹栖)山(979m)、高住神社「鷹栖宮」
●彦山縁起(1572)
・ 継体天皇25年(531)魏の国の僧善正が彦山にいり、岩窟で修行中に、豊後國日田郡藤山村(大分県日田市)の猟師藤原恒雄に出会い、殺生の罪を説いた。恒雄は戒めを聞かず、狩を続けるうち、一頭の白鹿を射た。そのとき空中より三羽の鷹が現れ、鹿を蘇生させて逃げ去らせた。恒雄はそれを見て、鷹が神の化身であることを悟り、自らの殺生を恥じ、善正の弟子となり忍辱と名乗り錬行を重ねた。
●香春岳
・ 香春三の岳北麓に長光という集落がある。宇佐八幡の重要神事放生会は神亀4(727)年にはじまる。豊前国国司が勅使となってこの地に来て古宮八幡宮の宮柱長光氏に神鏡の鋳造を命じた。長光氏は三の岳産出の銅をもって、約10日間で神鏡をつくりあげると、企救郡の氏子が神鏡をおさめた神輿をかついで、京都郡の草場八幡宮(豊日別宮)へ送った。その後神鏡は宇佐宮の各末社をめぐって最終的にご神体として、宇佐の本宮におさめられた。香春町採銅所にある古宮八幡宮は宇佐八幡宮放生会の出発点であるが、この神社の神紋は『違い鷹の羽』とのことです。

・香春岳こそ、香春神社の神紋のとおり、菱形山なのだ!
・【オットト!】香春神社の神紋についての考察
豊前地方の多くの神社では御神紋に『三階菱』紋が使われいている。
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当初、これを香春岳(一の岳、二の岳、三の岳)を現すと単純に考えていました。豊前地方の神社のルーツは香春岳(香春神)にありと・・・。
A しかし、江戸時代、細川氏に代わり豊前地方を治めたのは小笠原氏であり、小笠原氏の家紋が『三階菱』紋であり、豊前地方の神社に投影されていたことが事の本質であった。
ところが、豊前小笠原氏のルーツをたどれば甲斐武田氏であり、甲斐武田氏は源頼義の三男源義光(新羅三郎義光)の末孫です。室町時代に記された『見聞諸家紋』という書物には武田氏が『菱』紋を家紋としている由緒がしるしてあります。それによると、永承五(1050)年、源頼義が後冷泉院の勅によって奥州安倍頼時を攻めるにあたり、住吉社に詣でた時に神託があり、旗一流と鎧一領を賜った。それは、その昔、神功皇后が三韓征伐に用いたもので、神功皇后の鎧、脇楯は住吉の御子香良大明神の鎧袖なり。此の裙の紋、割菱なり。三韓帰国後摂津国住吉に鎮座し、寳殿に奉納す。今、霊神の感応により源頼義に之を賜わる。希代と言うべきなり。頼義の三男、新羅三郎義光は季子と雖も父の鐘愛に依り之を伝う。即ち旗と楯無の鎧が是なり。旗は白地無紋、鎧には『松皮菱』あり、故に義光の末裔である当家(武田家)の紋となす。
「住吉の御子香良大明神の鎧袖なり。此の裙の紋、割菱なり。」、住吉の御子香良大明神とは、豊前國香春の神でしょうか、或いは筑後國高良の神でしょうか?
もし、香良大明神が香春岳の神であれば、不思議な縁(えにし)の巡り合わせといえそうです。
ちなみに、摂津住吉大社の御神紋は『花菱』紋です。また、筑後高良大社の御神紋は『横木瓜』ですが、これは『花菱』紋でもあります。




【炭坑節】 http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/tankoubushi/page_130.html?type=top
香春岳から 見下ろせば 伊田のたてこうが 真正面
12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ
ひとやま ふたやま みやま越え 奥に咲いたる 八重つつじ
なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花 サノヨイヨイ
月が出た出た 月が出た 三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろ サノヨイヨイ
格子窓から 月がさす サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか 思案なかばに 明けの鐘 サノヨイヨイ
http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/tankoubushi/page_140.html?pg=1

・ 現在の香春岳写真
●宇佐八幡
・ 宇佐八幡が現在地に鎮座するに至るまで、長い変遷があり、序走路があった。八幡神はまず辛嶋氏の神としてあらわれた。「承和縁起」には、大御神ははじめ宇佐郡辛国宇豆高島に天降りまします、とある。
・ 宇佐八幡宮の伝説では、“金刺宮御代(欽明)29年(568)、菱形池の辺の小倉山(菱形山)の麓に鍛冶の翁がいて、多くの人を殺していた。大神比義が行ってみると、林の上に金色の鷹がいるだけであった。そこでお前の仕業かと問うと、たちまち金色の鳩になって飛び去った。そこで比義は五穀を断って三年間精進し、神というのならば自分の前に姿を出してほしいというと3歳の子供が現れ、自分は辛国の城にはじめて八流の幡とともにあまくだって日本の神となった。自分は応神天皇で広幡八幡麻呂と告げた。”
・ 鍛冶の翁は、始め、香春岳の鉱物資源を活用して、そののち、勢力をのばしてきた渡来人(秦氏)集団のことであろう。
・ 宇佐八幡宮写真

九州北部: 豊の国(豊前) と 日田・日高 戻る
●宮崎に追われた日向の国 天皇家と卑弥呼の系図 澤田洋太郎著 1994年 新泉社 より
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ここで、「日向」という土地のことについて、もう少し触れておきたい。九州各地にある「日向」という地名は、古村豊氏の著書『卑弥呼の道は太陽の道』(福岡市・実験古代史学出版部)によると、宮崎県には、もともと「日向」の地名はなく、そのほとんどは、日田周辺に最も多く、日田を中心とし、博多湾・国東半島・宇土半島を結ぶ地域に分布している。
・
福本氏に教えられたことだが、江戸時代末期の日田の歴史学者である森春樹は『造領記』という書物を著し、「允恭天皇の九年の春、豊国を分って前後となし、おのおの八郡を置く。この時までは、なお、比多国とて一の国なりしを、豊後の国に属して郡とぞなし給いける」と書いているという。その根拠は不明だが、当時まで残されていた確実な記録があったことだろう。このことは、最初に述べたように、日田を「トヨの国」 に属させることは地勢的にも不自然であり、本来は西の筑後川中・下流方面とつながっていた、とする感想を支持してくれる。
・
福本氏は、前記の著書で、「六世紀ごろまでは、日向の国と言えば、今日の日田郡とその西側の筑後川流域一帯にまたがる地域だった。それが、後に分割され、日田郡は豊後に組み入れられ、残りは筑前・筑後・肥後に編入された。それとともに、宮崎県が日向と呼ばれるようになった」というように述べている。
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「延喜式」に豊後國日田郡あり、「和名抄」に豊後國日高は比多と有り、高は田を誤るかと思いしかど、「同書九巻」に肥前國小城郡高来は多久とも見えたれば誤りにもあらざるべきか、・・・・・云々。
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同書には、日田の名の由来として、@景行天皇の時代、この地の久津媛の名に由来するという説「風土記」 A鵜葺草葺不合の昔、この地が湖であった時に、飛来した大鷹が湖水に羽を浸したところなので、後に日田という説「豊西記」が紹介してある。
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「国造本紀」に比多国造は志賀高穴穂朝(成務天皇)御世、葛城国造止波足尼を国造に定め賜う。とあり、すなわち、比多(日高)国があったことが紹介してある。
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「延喜式」に豊後國荒田(ありた)驛あり、名の義は荒田直の住めりし処などにて負わせたるべし。「姓氏録」に荒田直は高魂命5世孫剣根命の後なり、と有て、その剣根命と云うは、葛城国造、比多国造等の祖なる事、「神武天皇紀」「国造本紀」らによって知らる。
・ 「風土記」 日田郡靫編郷、欽明天皇の御世、日下部君等祖、邑阿自、靫部に奉仕し、此村に宅を造り、之に住む、斯に因み、靫負村、後人改めて曰く、靫編村云々。「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり《※ 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”との記載もある》。「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々。
● 風土記、旧紀、国造本紀など より 火の国のひろがりへもどる
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風土記、記紀 |
旧事本紀、旧事紀 |
国造本紀 より |
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筑紫君祖甕依姫 ・
筑紫君磐井 ・
怡土縣主等祖日矛裔五十跡手 ・
平群臣、早良臣、額田首等祖平群都久(木兔)宿禰 ・
岡縣主祖熊鰐 ・
宗像郡人珂是古 ・
火君祖神八井耳命 ・
豊国値祖菟名手 ・
多臣祖武諸木、国前臣祖菟名手、物部君祖夏花 ・
豊国国前臣祖大倭根子日子賦斗邇命(考霊)御子日子刺肩別命 ・
肥君等祖健緒組 ・
山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北) ・
日下部君等祖邑阿自(日田郡靫編郷、欽明御世) |
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水間君等祖物部阿遅古連公 ・
式国凝別命又国背別命ハ水間君祖 ・
筑紫國国造祖興津與曾命 ・
大原足尼ハ筑紫豊国国造等祖津與曾命ノ子 ・
筑紫聞物部 ・
豊国宇佐国造等祖天三降命 ・
大分国造祖彌多久良命君 ・
城島連祖草名草姫 ・
日向諸縣君祖豊国別命 |
宇佐国造高魂尊孫宇佐都彦命 橿原朝御世 神武 葛城国造剣根命 |
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火国造 大分国造同祖志貴多奈彦命児遲男江命 瑞籬朝御世 祟神 阿蘇国造 火国造同祖神八井耳命孫速瓶玉命 |
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葦北国造吉備津彦命ノ児三井根子命 纏向日代朝御代 景行 |
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筑紫国造阿倍臣同祖大彦命5世孫田道命 志賀宮高穴穂朝御世 政務 ※大彦命ハ筑紫国越国造伊賀臣祖彦大男彦瀬立大稲起命也 豊国造 伊甚国造同祖 宇那足尼 比多国造 葛城国造(同祖) 止波足尼 ※止波足尼ハ葛城国造剣根命ノ子孫? 国前国造 吉備臣同祖吉備都命6世牟佐自命 末羅国造 穂積臣同祖大水口足尼孫矢田稲吉 天草国造 神魂祝命13世孫健島松命 |
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日向国造 豊国別皇子三世孫老男 軽島豊明朝御代 応神 |
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大隅国造 ・・・・仁徳朝 薩摩国造 |
●多氏(神八井耳命の子孫)の足跡 谷川健一著 日本の地名(岩波新書) 1997年より
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多氏が大分君、阿蘇君などと共に神八井耳命を祖と仰ぐ同族であり、その多氏が九州から日本各地へと移住して行った痕跡が今日も残されている。⇒ ☆多(意富、大生)氏の足跡参照
【古事記】多(意富、大生、)氏の同族: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ひたち)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏
九州中部: 大分・熊本・宮崎県境 祖母・阿蘇・高千穂 戻る
●太宰管内志 伊藤常足著 肥後國三巻 阿蘇郡 より
「阿蘇社縁起」孝霊天皇9年勅をして阿蘇の宮を修造し大神を祭る。大神は常に鶴鷹を愛育し給う故に今も鶴栖乳此の地に住めり。鶴栖乳処常鶴沼俗に云う千町牟田。
『日本書紀』宣化天皇元(536)年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた。
●阿蘇宮記(井沢蟠龍)
高知保明神・阿蘇明神・八幡大神の兄弟が筑紫の国、豊前の国を経て日向の国にやってきた・・・云々。
●『阿蘇神社祭祀の研究』 村崎真智子著 法政大学出版局 1993年より
“駒取之祭”: 中世に阿蘇神社では“駒取之祭”が行われた。12月初卯に神馬15頭に鞍を置き幣と榊葉をさし、御嶽の北の御門(第一火口、神霊池)まで率いて登る。これらの神馬に乗って阿蘇大明神(健磐龍命)が御幸し、宮地の社殿に遷る。阿蘇神社では100日間の精進を経た『屋立の女房』が待ち受け、大明神に饗膳するという神事である。この祭りの起源神話として、鷹山(往生岳)の鷹牧には権現・神農・舞官の寵愛する神馬が放たれている。権現(阿蘇大明神)は鴾毛(月毛)の馬、神農(国龍神、草部吉見神)は鹿毛の馬、舞官(新彦神)は栗毛の馬である。権現の月毛の馬は最も優れているが故に、権現はこの馬を「鷹山ノ地主吉松」に与えた。しかし、この月毛の馬は凡眼には見えない。その後宮地に御社(社殿)を作り、阿蘇の御峯から宮遷りをおこなった。この時に鷹牧から神馬15頭を率いてきた。
鷹山・鷹牧: 鷹山・鷹牧は往生岳(狭義の鷹山)とその北西・南西山麓一帯を指しているが、@御前迎えで妃神の御神体とされる神木を迎える山、A下野の狩で大宮司が健磐龍命に捧げる贄を狩る牧でもある。
※比定される地域: 鷹山子安河 9、乙姫神社 9、吉松神社9、垂玉ヨリ湯ノ谷迄ノ間山ノ総名ヲ云フ ⇒ htt=14
※阿蘇山: 阿蘇五岳である高岳(1,592m)を最高峰に、中岳(1,506m)、根子岳(1,408m)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,270m)からなる。往生岳(1238m)は含まない。
●『史料阿蘇』第1集、阿蘇町教育委員会、昭和53年より
隼鷹天神6(祭神 菅原道真 :阿蘇町的石) 由緒 肥後藩主細川綱利公(1661〜1712年執務)が参勤交代のため船で東上の折、海上で天候が悪化し、激しい浪に船が呑まれようとした時、1羽の白鷹がどこからともなく、船柱に飛んで来た。すると怒涛は忽ち静穏となり、つつがなく渡航を終って無事上陸することができた。藩主はその夜旅宿で霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、その霊験あらたかなるに感じ京都で社殿建立を命ぜられた。
●明神山 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より 熊本県内の製鉄遺跡へもどる
・ 阿蘇乙姫下西山遺跡北方の水田や原野には、推定50〜100万トンの阿蘇黄土(褐鉄鉱:酸化第二鉄)が埋蔵している。この阿蘇黄土を焼くといともたやすくベンガラができる。厳島神社の古文書のなかに、平清盛が社殿を建立した際、阿蘇家を通じてベンガラを手に入れたとある。下山西石棺群(しもやまにしせっかんぐん: 阿蘇市乙姫下山西928-2)
・・・大量のベンガラが出土した。
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鷹山の麓には鉱山(明神山)もあった。日本リモナイト鉱業 阿蘇市狩尾289番地0(阿蘇郡黒川村大字乙姫明神山)
・ 阿蘇外輪のスロープにつながる大津町の畑地帯で昭和58年頃(?)に発見された弥生村落の西弥護免遺跡から約300点もの鉄器が発見されている。西弥護免遺跡は阿蘇の二重峠への交通路にも当たり、近くには『多々良』(大津町大字大津字多々良5)という地名もある。段丘伝いに阿蘇からの“まつぼり風”が吹きぬけ、いかにも野鍛冶の営まれたような風土を持っている。
阿蘇往生岳(鷹山)と米塚

●下野の狩 太宰管内志 伊藤常足著 肥後國三巻 阿蘇郡 ( 引用、阿蘇宮記(井沢蟠龍) )より
下野ノ狩は当社の大祭なり。昔日は阿蘇鷹山下野の三の馬場(中ノ馬場、赤水ノ馬場、鬢垣ノ馬場)にて二月卯日大宮司並神官権官各風折烏帽狩衣に夏毛の行縢をはき腰に幣帛をさし白木ノ弓に白羽ノ箭を以って猪鹿を射る。狩場、一に鬢掻にては神官等祓終りて各狩衣装束を着し大宮司に謁す規式あり、二に中の馬場にて狩有り、三に駒立(赤水の馬場ともいう)に至ては野に火をかけ焼狩をなす。大宮司射とむる所の猪鹿を北宮の鳥居の側の木にかけて供す贄かけの木といひて今にあり。下野の狩、狩場比定図。 下野の狩:現地教育委員会 説明文、案内図
九州南部: 豊の国(豊後) と 日向国 戻る
●後に、大和(近畿)の地に東征を果たす神武天皇のモデルとなった人物は、はじめ北九州の地に半島より降臨し、その後徐々に、東へと勢力を拡大していった天孫族の一族であり、その当時、現在の宮崎県まで進出していた部族の皇子ではなかったのでしょうか?或いは初めに拠点を築いた北九州の地をより強大な他の部族によって追われて宮崎の地にまでたどり着いた部族の皇子であったのかもしれません。その人物は、海上交通を得意とする部族(隼人族?)とともに大和の地へと旅立ったのでしょう。
●天武天皇と持統天皇(高天原広野姫天皇:自らを天照大御神になぞらえている?)の時代、隼人の教化と律令体制への統制が試みられたことが、南九州の地に天孫降臨伝承をもたらしたもうひとつの大きな理由と思われます。隼人の強化・統制には豊前国の宇佐八幡勢力(豊)が大きく関与したことが知られています。これは豊前、豊後或いは肥後国住民(数千人にも上る)の南九州への大移動をともなうものでした。また、隼人の畿内への集団移住も行なわれました。
国分市 韓国宇豆峯神社
鹿児島県霧島市(旧隼人町) 大隅一の宮 鹿児島神宮(大隅正八幡、国分八幡)
●さて、白村江の戦いの頃、或いはその歴史的敗北の後、後の天武天皇となる人物は一体どこにいたのでしょうか?もしや、南九州(日向・・・、)の地に息を潜めていたのではないでしょうか?すでに北九州の地は、唐・新羅の進駐軍によってなかば占領状態にあったともいわれます。彼は隼人族の一部や大分君恵尺と結束し、大和の地へと向い、壬申の乱というクーデターに成功した。これが神武東征のモデルではないかという説もあながち嘘には思えません。
●海人と天皇 九州の山紀行 アソ、シオタ、イズミ、蛇の子、鹿の子 髪長姫(モロカタ、ムナカタの姫)と天皇/大海人皇子(天武天皇)
霧島山賊さんの“霧島・牧園・高千穂の風景 動物 植物”より、『冠雪した韓国岳 2009/1/15』
http://pub.ne.jp/u7248362/?entry_id=1902292

尾張: 宮簀媛とヤマトタケル 戻る
@ 名古屋市の熱田神社の周囲に『豊』の地名が分布:
A 熱田神社の南東の地にかつてヒタカと呼ばれた伝承の地がある。
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日本武尊の東征のとき尾張氏の祖、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えて、尊をここにお迎えし、建稲種命の妹の宮簀媛命は尊の妃に成られた。建稲種命、宮簀媛命の父の名は、初代尾張国造:乎止与命(オトヨノミコト)と云う。
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斎山稲荷社(イツキヤマ・イナリ) :字斎山に在り。日本武尊、宮簀媛命、倉稲魂神を祀る。 http://homepage1.nifty.com/menjou-tei/sub-index/sub-index.html より
仲哀天皇元年(192)頃、宮簀媛命、一族に命じてこの地に一社をしつらえ草薙ノ剣を斎かしめ給う。 これより約450年の後、孝徳天皇大化3年(647)神剣、江崎郷機綾(ハタヤ)里に還り給う。(今の熱田神宮の地)その後なほ小祠を残し、日本武尊、宮簀媛命を奉祀した。
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氷上姉子神社【名古屋市緑区大高町火上山】 、熱田神宮境外別宮 http://www.a-namo.com/ku_info/midoriku/page/oodaka.htmより
日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)をお祀りする。古代は氷上山のふもとまで海岸で、熱田とは海上交通で結ばれていた。この地は昔、火上の里(金属生産の山の意味)とよばれていたが、永徳3年(1382)、この社が火災にあったので火の字をきらって氷上とし、火高を大高にあらためたとされる。 日本武尊の死後、火上の里に留め置かれた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を、かねて一族が祭祀を行う場所としていた吾湯市の熱田に祀ったのが、現在の熱田神宮である。 当社は仲哀天皇4年、尾張氏の館趾(現在の末社 元宮)に創建、持統天皇4年(690)に現在地に遷座した。
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成海神社[なるみ]「日本武尊 配 宮簀媛命、建稻種命」 天武天皇の朱鳥元年(六八六年)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座。愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85
http://home.h01.itscom.net/tokaido/4aichi/40narumi.html http://kinosan.fc2web.com/hu5325.htm より
成海神社由緒
成海神社は、天武天皇の朱鳥元年(六八六年)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられる。
寛平二年(八九〇年)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起として
その故地に創祀された。 その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約五九六年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当
って、今の乙子山の地にご遷座したもので現在では当社の御旅所として、礼祭日には 神輿渡御で巡幸しその折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。
当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、 国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。
奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛 (鳴海らを 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも)
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みこと |
お名前 |
亦の名或いは挿話(エピソード) |
宮処 |
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高御産巣日神 |
高皇産霊尊【紀】 |
高天原 |
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天照大御神 |
大日孁貴【紀】 |
高天原 |
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スサノヲ |
速須佐之男命 |
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根の国 |
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正勝吾勝勝速日天忍穂耳命 |
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高天原 |
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萬幡豊秋津師比賣命 |
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高天原 |
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天津日高日子番能邇邇藝命 |
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以下 葦原中国 |
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神阿多都比賣命 |
木花佐久夜比賣、豊吾田津姫(6)【紀】 |
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火遠理命 |
天津日高日子穂穂手見命 |
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豊玉比賣命 |
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天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 |
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玉依比賣命 |
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神倭伊波禮毘古命 |
豊御毛沼命、若御毛沼命、彦火火出見【紀】 |
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綏靖 |
神沼河耳命 |
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葛城高岡宮 |
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安寧 |
師木津日子玉手見命 |
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片塩浮穴宮 |
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懿徳 |
大倭日子鉏友命 |
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軽境岡宮 |
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孝昭 |
御眞津日子訶恵志根命 |
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葛城掖上宮 |
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考安 |
大倭帯日子国押人命 |
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葛城室秋津島宮 |
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大倭根子日子賦斗邇命 |
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黒田廬戸宮 |
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考元 |
大倭根子日子国玖琉命 |
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軽堺原宮 |
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開化 |
若倭根子日子大毘毘命 |
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春日伊邪河宮 |
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御眞木入日子印恵 |
その皇子、豊城命(上毛野君・下毛野君の祖)に東を治めしむ。 |
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伊久米入毘古伊佐知命 |
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纏向珠城宮 |
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大帯日子淤斯呂和気天皇 |
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成務 |
若帯日子天皇 |
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仲哀 |
帯中日子天皇 |
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穴門豊浦宮 |
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息長帯比賣命 |
その祖父は天日槍の末裔タジマ比多訶 忍熊王(紀伊国日高、紀直豊耳) |
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品陀和気命 |
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軽島明宮、難波大隅宮 |
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大雀命 |
難波高津宮 |
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履中 |
伊邪本和気命 |
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伊波禮若櫻宮 |
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反正 |
蝮水歯別命 |
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多治比柴垣宮 |
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允恭 |
男浅津間若子宿禰命 |
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遠飛鳥宮 「飛鳥」 |
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安康 |
穴穂御子 |
石上穴穂宮 「石上」 |
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大長谷若建命 |
豊国奇巫【新撰姓氏録】 |
長谷朝倉宮 「長谷」 |
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清寧 |
白髪大倭根子命 |
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伊波禮甕栗宮 「伊波禮」 |
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忍海郎女 |
飯豊王、飯豊青皇女【紀】 |
忍海角刺宮 |
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顕宗 |
袁祁石巣別命 |
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近飛鳥宮 「飛鳥」 |
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仁賢 |
意祁命 |
日鷹吉志を高句麗に派遣 |
石上広高宮 「石上」 |
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武列 |
小長谷若雀命 |
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長谷列木宮 「長谷」 |
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袁本杼命 |
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河内の樟葉、山背の筒城、弟国 伊波禮玉穂宮 「伊波禮」 |
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安閑 |
広國押建金日命 |
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勾金箸宮 |
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宣化 |
建小広國押楯命 |
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檜隈廬入野宮 |
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天國押波流岐広庭天皇 |
難波の堀江(552) |
師木島大宮 |
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沼名倉太玉敷命 |
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他田宮 |
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橘豊日命 |
豊国法師【紀】 |
池辺宮 |
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祟峻 |
長谷部若雀天皇 |
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倉椅柴垣宮 |
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豊御食炊屋比賣命 |
額田部皇女 推古九年辛酉歳(601) |
小治田宮 |
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厩戸皇子(聖徳太子) |
厩戸豊聡耳命 |
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舒明【以下日本書紀】 |
息長足日広額天皇【以下日本書紀】 |
【以下日本書紀】 |
飛鳥岡本宮、田中宮、厩坂宮、百済宮 |
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天豊財重日足姫天皇 |
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飛鳥板蓋宮、川原宮、後飛鳥岡本宮、朝倉橘広庭宮 |
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孝徳 |
天万豊日天皇 |
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難波長柄豊埼宮 |
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天命開別尊 |
葛城皇子、開別皇子 |
近江宮 |
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弘文 |
大友皇子 |
大友皇子、伊賀皇子 |
近江宮 |
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天渟中原瀛真人天皇 |
大海人皇子 |
飛鳥浄御原宮 |
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高天原広野姫天皇 |
鵜野讃良皇女 |
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文武【以下続日本紀】 |
天之真宗豊祖父天皇【以下続日本紀】 |
軽皇子【以下続日本紀】 |
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元明 |
日本根子天津御代豊國成姫天皇 |
阿閉皇女 |
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日本根子高端浄足姫天皇 |
氷高(ひだか)皇女 |
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天璽国押開豊櫻彦天皇 |
首皇子 |
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