山への旅(シリーズ) シリーズTopへ戻る
第10回−山部の系譜−日下部、山部、海部、隼人の民と健緒組(火君祖)
2010.9.1up

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海人族:安曇、住吉、宗像、宇佐、緒方
志賀海神社 / 住吉神社 / 宗像大社 / 宇佐神宮 / 緒方社
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日下部
大屋田子(日下部君らの祖、末羅)/弟日姫子(松浦佐用姫)(日下部君らの祖、唐津)
日下部君等祖邑阿自(日田郡靫編郷、欽明御世)/草壁保只(高良大明神の神裔)
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健緒組、肥(火)君
肥君(大宝2年戸籍、志摩) / 火君(松浦) / 火君(欽明記(拠地不確実)、玉名) / 肥公もと君(浄水寺碑銘、益城)
武雄社(遅男江命は健緒組命?、屋主忽男武雄心命) / 健軍社(主祭神、健緒組) / 健男霜凝神社(健男霜凝日子、竹田、緒方町)
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山部
阿蘇神社社家宮川一族(山部氏族) / 山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北) / 益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)
● 海部
海部直嶋(三根郷、肥前風土記) / 海部郡(豊後、佐伯)
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隼人族
五島列島(値嘉島、肥前風土記) / 吾田隼人(開聞岳) / 大隅隼人(韓国岳) / 海幸彦、山幸彦
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久米部
肥後国球磨郡久米郷(和名抄) / 久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)/ 久米郷 筑前国志摩郡 / 久(多)米駅 豊前国
『和名抄』(『和名類聚抄』)「久米」の地名は各地に分布している。
(a)久米郷 大和国 高市郡
(b)久米郷 伊勢国 員弁郡
(c)久米郷 常陸国 久慈郡
(d)久米郷 伯耆国 久米郡
(e)久米郡 美作国
(f)久米郷 美作国 久米郡
(g)久米郷 周防国 都濃郡
(h)久米郡 伊与国
(i)久米郷 伊与国 喜多郡
山部の系譜 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
太田亮は『姓氏家系大辞典』の「山部」の項目に次のように述べている。「〔山部〕は太古以来の大民族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、その名の下に隠れしもの多く、なほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称呼中絶せしかば、これを研究する事甚だ難し」
山部の源流は海部と匹敵するほど古いものである。それなのに、山部の名が中世以来消滅した原因の一つは、桓武天皇が山部皇子を名乗っていたことから、その名を侵すことを避けたためである、という。ともあれ海部の地名が今日まで残っているのに対して、山部の地名が海部の地名ほど見当たらないところから、山部が海部に比べて注意を払われていないのは紛れもない。
『古事記』では、応神天皇の条に「海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜ひき」とある。
『日本書紀』にも応神天皇五年の条に「諸国に令して、海人及び山守部を定む」とある。つまり応神天皇の時代に海部と山部は初めてヤマト政権の傘下に組み入れられ、組織されたのであるが、それ以前は独立の集団であった。海部の場合は、筑前の糟屋、怡土、宗像、那珂の諸郡に置かれた海部、海人部が『魂志倭人伝』に記された倭の水人の後裔であったことはほぼたしかであると思われるが、山部も先史時代までさかのぼることができ、もっぱら山猟によって生業を営んでいたと考えられる。
山部は太古以来の大民族であり、さきの指摘のごとく、氏族というよりはむしろ種族と呼んだほうが適切な存在であった。たとえば縄文時代の大遺跡である上野原遺跡(鹿児島県霧島市)から、深さ二メートルにも達する猪のおとし穴が百基近くも発見されている。これは紀元前四千年も昔の話であるから、それを弥生時代や古代にむすびつけるのは困難であるとしても、そこが大隈国府の中心であり、大隈隼人の根拠地であったことは、一応念頭に置いておいてもよいであろう。とすればこれらの地域は狗奴国とも無縁ではなかったと思われる。
山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。
この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。
久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。
ところで、久米族の本拠については諸説がある。土橋寛の「大和東南の山間部」(『古代歌謡論』)あるいは上田正昭の「大和高市郡より宇陀をへて伊勢地方」(「戦闘歌舞の伝流」)という大和を中心とした近畿説である。これらは久米部の近畿地方における活動の拠点であるにしても、久米族の源流とは云い難い。つまり久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族であった。
『魂志倭人伝』に見える「狗奴国」も前述のように「球磨国」のことであろう。KumaとKunaのm音とn音は互いに交換可能であるので、同じ地域とみてよい。ここで狗奴国と表記されているのは明らかに中国人の倭国に対する賎称であって、しかもことさらに狗の字を選んでつけたのは、隼人が犬祖伝説を信奉する卑しい民であることを強調したためと思われる。つまり隼人の先祖の狗奴国は犬の子孫だと蔑視したのである。
隼人 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
『日本書紀』によると、隼人の祖は火闌降命である。火闌降命は彦火火出見尊の兄にあたる。この兄弟を産んだのは大山祇神の娘で吾田鹿葦津姫、またの名を木花開耶姫と称した。人名に吾田の名が冠せられていることから隼人系の女性であることが分かる。父は日向の襲の高千穂峰に天降った天孫の瓊瓊杵尊である。
『古事記』では、最初に生まれた子どもは、隼人阿多君の祖の火照命、次に生まれた子は、火須勢理命、第三番目の子が火遠理命となっている。火照命は海幸彦である。火遠理命はまたの名を日子穂穂手見命といい、山幸彦であった。海草彦山幸彦の葛藤もこの阿多の海岸を舞台に展開されたとするのが最も自然である。大山祇の神の女の木花開耶姫は隼人の女性であり、山幸海幸の神話は山猟と漁撈に明け暮れた隼人の海部と山部の双面性をうかがわせるのである。
日下部 もどる
記紀では、『日下部』は、日向出身の髪長媛(仁徳天皇后妃)の御子(記の所伝では、波多毘能大郎子またの名を大日下王と波多昆能若郎女またの名を若日下部命の二人、紀においては、大草香皇子と幡梭皇女の二人)の名代部として登場する。
二王子難を逃れる。 日高正晴著『西都原古代文化を探る 東アジアの視点から』2003年より もどる
記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)※と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。
伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主−吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。
二王子の逃亡経絡 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
『古事記』によると、市辺忍歯王の王子である意祁王、袁祁王は、父の市辺忍歯王(『日本書紀』の市辺押磐皇子)が雄略帝に殺されたと聞いて逃亡し、山代の苅羽井まできたとき、山代の猪甘と称する老人に食糧を奪われたとある。京都府の城陽市には樺井月神社があって、そこが苅羽井とよばれた当時をしのばせる。おなじ城陽市大字市辺は、市辺押磐皇子が居住したといわれ、市辺には大芝という地名もあるが、大芝は押磐(『紀』)または忍歯(『記』)に由来するものであろう。また市辺は古くは櫟野辺と称したというから、皇子の名の市辺も地名にあやかったものではないか。
二王子の食糧を奪った猪甘の老人は顔に入墨をしていたと『古事記』は伝える。猪甘は猪飼部で猪(豚)を飼う仕事にあてられた部民である。『古事記』によると、二王子は河内国交野郡葛葉の渡場から淀川を渡って播磨国に入り、身分をかくして縮見(志深)村の首長の家で、馬飼、牛飼の仕事をさせられたという。播磨国山部連の先祖とされている来日部小楯は、あちこちで新嘗祭のための租税や供物をあつめるためにまわっていたが、志深村の首長の家の新室宴に招かれた。それは清寧天皇二年の十一月であり、新嘗祭の頃にあたる。意祁、衰祁の二王子は祝宴の催される室のかまどの傍で「御火焼の小子」のつとめをしていた。灯火が消えないように番する役である。灯火には松の根のアカシが使われたにちがいない。小楯は二王子にも舞ったり歌ったりすることを求めた。それに応じて兄の王子が舞い、弟の王子が歌った。
やまと ちはら おとひ やつこ
倭は そそ茅原 浅茅原 弟日 僕らま
大和はそよそよと茅原の音を立てる国で、私はその浅茅原の弟王である、というのが歌の大意である。ここで歌われる茅原を単なる萱原と解する説もあるが、そうではなく、茅原は葛城地方の地名で、奈良県御所市大字茅原のことである。これは葛城一族の(はえ:クサカンムリに夷)媛を母とする二王子の出自が葛城地方にあったことをはっきり示す証跡として重要である。更に注目されるのは、茅原が役小角(役行者)の出生地ともなっていることである。これは役小角の人となりを知る上で大切な手がかりとなる。
ところで「御火焼の小子」の一人から歌の中で市辺押歯王の子であることを知らされた小楯は、おどろき、二王子のことを都に注進した。姨の飯豊皇女はそれを聞いて大変よろこんで、宮に上らせた、と『古事記』は伝える。この宮というのは飯豊王が住んでいた角刺宮にほかならない。『日本書紀』には、二王子発見にかかわった播磨国司小楯がその後も二王子に仕え、小楯は山守部を管掌する山部連の姓を与えられたとある。『古事記』には来目部小楯は播磨国山部連となっている。
伊予の久米部 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
さきに播磨国に派遣された官吏の伊予来目部小楯が二王子を発見したということを述べたが、彼は伊予の出身で久米部であり、しかも山部連の先祖ということになっている。これはどうしたことか。久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。『国造本紀』に「久味国造ノ軽島豊明朝(応神朝)神魂尊十三世孫伊予主命定賜国造」とあるから、伊予主命は伊予久米部の先祖であろうと『地名辞書』は云っている。久味(クミ)、クマ、クメはたがいに通音である。松山市南部の農村地帯はかつて旧久米郡に属していた。今日の松山市北久米町及び南久米町は『日本地理志料』によると古代には久米郡久米郷に属し、この付近に久米郡を総括する郡家があったとされている。松山市南久米町の東隣の鷹子町に浄土寺がある。幕末に編纂された『愛媛面影』によると、久米の浄土寺の辺に播磨塚という古墳があったという。昔は石室があったが、今は野原にその残欠があるだけといわれている。伝承によると、この播磨塚は、清寧天皇の御世に伊予国人来目部小楯という人物が、播磨守として任地に赴き、役目をおえて伊予に帰り、館をつくって住んだとされるところで、播磨塚と称したという。久米部が久味国造となってからは、このあたりは国造の治所であったらしいことから、石室は国造家一族の墳墓であったと推定される。久米郡のとなりの浮穴郡も同族の浮穴直の発生した地とされている。またその西の喜多郡にも久米郷があるところを見ると、久米部の一族は広い地域を支配したことがうかがわれる。山部連の先祖であった来目部小楯が山部を管理していたことはたしかであるが、『日本書紀』にいうように大嘗(新嘗)の資金をとり立てる役というのは似つかわしくない。それもわざわざ播磨に派遣される必要があるとも思えない。とすれば、実際は二王子は山部によって播磨にかくまわれたというだけであったのではないか、という推測も成り立つ。
葛城の高巫 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
葛城一族は仁徳帝以来、大王家と縁が深かった。葛城襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となって、履中、反正、允恭など、のちの天皇となる御子たちを生んでいる。葦田宿禰は磐之媛と同じく葛城襲津彦の子である。葦田宿禰の娘の黒媛は、仁徳帝の子の履中帝の皇妃となっている。「履中紀」によると、この黒媛は市辺押磐皇子と飯豊皇女を生んでいる。葦田宿禰の子に蟻臣があるが、蟻臣の娘の(はえ:クサカンムリに夷)媛は市辺押磐皇子と婚し、億計、弘計の二王子を生んだ。二王子とはのちの顕宗、仁賢の二天皇である。(はえ:クサカンムリに夷)媛は葛城襲津彦の曾孫にあたる。また雄略帝は、葛城円大臣の娘の韓媛を妃としている。こうして安康天皇を除く六人の大王が葛城氏から后妃を迎えていることになる。葛城氏が代々大王家に対抗する外戚として隠然とした力をもっていたことはこうしたことから容易に察せられる。
飯豊皇女も葛城氏を背景とした高巫であった。折口信夫によると、飯豊皇女は神と大王の間に立って、神の意志を伝えるナカツスメラミコトであった。『日本書紀』は、清寧帝の崩後、次の天皇が不在の間、忍海の角刺官で一時的に政治を見たことがある、と伝えている。その政治も神の意志を託宣の形で伝えるものであった。折口信夫は、飯豊皇女は雄略・清寧両朝宮廷において神の意志を聞いて居られたにちがいない、そこで近親の有力者をことごとく殺した雄略帝も、おそらく飯豊皇女の巫威にはさからうわけにはいかなかったのではないか、と云つている。
こうして見れば、葛城氏の勢威は、雄略帝のときにいちじるしく衰えたとはいえ、まだ余脈を保って、次の顕宗、仁賢の時代に引きつがれることになった。ちなみに飯豊青尊の「青」は若狭の青の郷(福井県高浜町)に由来する。飯豊青尊はまたの名を青海皇女とも呼ばれた。青の郷には青海神社が鎮座するところから、飯豊皇女はこの地に由縁があると推測される。あるいは飯豊皇女の御名代のあったところであろう。そしてこのことは市辺押磐皇子の二王子の逃走経路とつながる。すなわち、『日本書紀』によると、二王子はまず丹波〔後〕国与謝郡にひとまず難を避け、それから播磨に逃れるのであるが、若狭の青の郷と丹波〔後〕の与謝郡は近接した場所にある。
隼人、葛城の山人との関係 谷川健一著『古代学への招待』2010年より もどる
山部と二王子の逃亡の話は深く絡まっている。市辺忍歯王が殺された悲劇の舞台に登場するのは狭狭城山君の韓(代巾)であり、また韓(代巾)と同族の倭(代巾)の妹の置目老媼であった。そうしてみれば市辺忍歯王の物語に山部が介入するのは偶然とは言いがたい。前述したように、京都府城陽市に市辺という大字があり、その下の小字に大芝がある。これは市辺忍歯王の名を地名として今に伝えたものにほかならなぬ。その市辺と大住とは木津川を隔てているが、直線距離で四キロくらいしか離れていない。
二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。さきの山城国の大住郷の首長であった大住忌寸も山守の名をもっていた。『古事記』の安康天皇の条に意祁・衰祁の二王子は父王が殺されたと聞いて逃げ、「山代の苅羽井に到りまして、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひつ」とある。その老人は山代の猪飼であったという。山代の苅羽井は、隼人の移住地の大住の地であった。そこからこの顔に入墨をした面黥ける老人も異族ではなかったかと想像されるのである。『日本書紀』には、神武帝に従った大久米命が目のふちに入墨をしていた、とあるから、この入墨の老人も隼人族に属していたのではあるまいか。大住郷の大住忌寸山守が山守部の首長であったことから、猪飼の老人も山守部に属していたかも知れない。葛城の山人との関係も見逃しがたい。二王子には母方の葛城氏の血が流れている。二王子の姨の飯豊皇女も、葛城氏を背景とした高巫であった。
市辺忍歯王と袁祁・意祁の二王子の逃亡の物語はもともと山部の間に伝えられた物語であり、各地の山部の力によって二王子が庇護されたことを強調したものであった。それが後に宮廷側にとり入れられ、都合のよいように潤色、改変をほどこされた公算が大きいと見なければならぬ。
「ソ」の地域 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
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「ソのクニ」という地域は、古くから阿蘇山を中心とする地帯(阿蘇山、祖母山)から南霧島山一帯にかけての呼称であり、日向、肥後、大隅の三国に囲まれた山岳地帯周辺に、古く「ソ」という勢力圏が存在していたのではないか?「ソ」の中心地域は、宮崎県の高千穂一帯、それに熊本県阿蘇郡、さらに大分県直入郡地方を含めた地帯と考えられる。
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「ソ」とは「山岳地帯」という意味か、となると、更に北の久住山(クジフル)や玖珠、耶馬溪なども含まれるのかも知れない? その意味で、米良鹿物語も興味深い。
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井上光貞氏は前掲の『日本国家の起源』の中で、ソツ彦について、次のように解訳をしています。「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かしたものかであろう」。
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この葛城ソツ彦は地方豪族という見解に対して、上田正昭氏は『大和朝廷』(一九六七年)の中で、また、井上辰雄氏は『隼人と大和政権』(一九七四年)において、それぞれ、ソツ彦を大和の葛城出身者とみなしています。はたしてそうでしょうか。私は、襲の出身者とみなしたい。しかし、この場合の襲は、前述した井上光貞氏の論説のように、熊襲の意味ではなく、繰り返し説いているように、広い範囲の「ソのクニ」の意味です。「ソツ彦」とは「ソの首長」という意味であり、日向中央山地を中心にして勢力圏を形成したと推測される「ソのクニ」と、極めて密接な関係にある人物と推定されます。
日田郡の日下部君等祖、邑阿自 伊藤常足著 『太宰管内志』 豊後國三巻日田郡より もどる
「風土記」 日田郡靫編郷、欽明天皇の御世、日下部君等祖、邑阿自、靫部に奉仕し、此村に宅を造り、之に住む、斯に因み、靫負村、後人改めて曰く、靫編村云々。「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり。
「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々。
高良山 『稲員家文書五一通(近世文書)』 広川町郷土史研究会編:「稲員氏の歴史と文書」佐々木四十臣氏(同会顧問)より もどる
「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応三年(一二九〇)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在は広川町)に移り館所を構え田戸七〇町を領したことに、広川稲員氏の歴史が始まる。南北朝時代の稲員氏の動静は不詳であるが、戦国時代に入ると一貫して豊後大友氏の旗下として行動し、在地豪族としての地歩を固めながら、高良社神管頭としても大きな役割を担った。稲員孫右衛門安則(一六三三〜一七〇七)の孫安綱が著した「高良玉垂宮旧傳祭祀神職略記」によると、(前略)八人神管の頭領にして、同社の諸式令の行務・御幸・遷宮ならびに神輿一件の司職にて、先駈の吏務あり。金鼓具の護人を司り、且つ当社の重器三種の神宝出納職たり(以下略)ということからも、いかに大きな役割を占めていたかがうかがえよう。(中略)
稲員氏は天正十六年(一五八八)から寶暦二年(一七五二)に至る一六五年間、八代にわたり広川谷において大庄屋職を勤めた。中でも前掲した稲員孫右衛門安則は『家勤記得集』を著したのをはじめ、数多くの記録類を書き残したことで知られる人物であり、広川谷のみならず、あまたの水利土工を手がけて抜きん出た事蹟をも残している。はたまた寛文九年(一六六九)大祝保正・座主寂源ともに、絶えて久しかった高良社御神幸の復活を成し遂げたことは、同社の歴史においても燦然と輝く功績といえよう。」

草部吉見神社 (新・阿蘇学、第3版 熊本日々新聞社1994年) もどる
井上辰雄筑波大教授は、草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。「日下部」というのは、雄略天皇の后妃※の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだ【肥後国合志郡擬大領 日下部辰吉 白亀を献ず、三代実録廿九巻※】という。
阿蘇市吉松神社 (阿蘇神社祭祀の研究、村崎真智子著1993年) もどる
鷹山(往生岳とその北西-南西の山麓一帯のかなり広い範囲、下野の狩り神事を行う原野一帯の一部、御前迎え神事の妃神となる樫の神木をとりに行く場所)の地主神を吉松神といい、神農ともいい、国龍神(草部吉見神ともいう)とされている。
その他の日下部氏族 もどる
・ 古代日向伝承の継承者【難波連大形(元草香部吉士大形)】