重層する文化、連続する意識

梅原猛、中上健次(梅原日本学講義 君は弥生人か縄文人か)

江上波夫(騎馬民族国家)

宮崎康平(まぼろしの邪馬台国)

小林惠子(興亡古代史)

谷川健一(白鳥伝説)

古田武彦(失われた日本)

直木孝次郎(日本神話と古代国家)

梅原猛隠された十字架 法隆寺論

李寧煕(枕詞の秘密、天武と持統)

梅原猛(海人と天皇 日本とは何か)

山びとの考察へもどる  九州の山と伝説へもどる


君は弥生人か縄文人か 海原猛、中上健次

 その縄文人はいっとき梅原氏と一心に話し込み、振り返って私をみる。彼は私に似ているのだ。いや、私と言うより私の息子に、母に、兄に似ているのだ。窓の外を一羽の白鳥がよぎる。梅原氏にも、それに耳を傾け続けている私にも、あの白鳥、日本人の深層に飛翔する白鳥が蘇り、そこが紛れもなく現在であるのに同時に古代でもある場所だ、と知らされるのだった。(梅原日本学講義 君は弥生人か縄文人か 梅原猛、中上健次 集英社文庫より) もどる

 

まぼろしの邪馬台国 宮崎康平  (まぼろしの邪馬台国 宮崎康平 講談社文庫より)  

 戦後、古代王朝の論議や邪馬台国論もおおっぴらにできるようになり、幾多のすぐれた研究も発表され、考古学もめざましい展開をみせている。だが、いまだに邪馬台国は確定しない。それは、これらの歴史観に「かくあるべきだ」という精神が底流となって、恐るべき自己埋没が矛盾と混乱を生んでいるからであろう。素朴で純粋なものに対しては、幼椎、低級、非科学的だと考える自負心が、いまや歴史を喪失したその手で、古代史を墨くろぐろと本来の意味さえ判別できないほどに塗りつぷしているのである。私ら九州の者は、郷里の遺跡と文化財と風土を真剣にみつめ、いまこそねじ曲げられた邪馬台国への道と、一部の学者によってもみくちやにされた歴史のぺ−ジを国民の手に取りもどし、自由な者たちの手で、そのしわをのばそう。  昭和四十一年秋  有明海の岸辺にて宮崎康平  もどる

 

騎馬民族国家 江上波夫  

 したがって倭国王の都した大和の国を「秦王国」というのは、三韓時代の辰王朝が倭国に移動してきて都した国という意味に解するのが至当であって、倭国王が辰王朝から出自したところからその名を得たと考えるのが、もっとも合理的と思われる。百済の夫余隆も辰朝の出なりと言っているので、おなじ辰王家から出た倭国王の天皇家が、辰王の国として飛鳥時代まで伝えられていても不思議ではないであろう。百済王家がその滅ぶとぎまで辰(王)朝と伝えているのと相応しるわけである。このようにして、さきにかかげた百済王関係と、倭国王関係の系図がびったりと並列し、かつ三韓時代の辰王家を共通にしたものとして結びつくが、それが二つの王国に分かれて、一つはもとの馬韓が百済に統一されても、そこにずっと居坐って百済の(夫)余王家となったのに対し、他方は加羅(任那)に遷って、日本列島の征服に乗り出し、まず対馬・壱岐・筑紫などを占領し、さらに数代ののち畿内の河内・摂津に都を遷して倭王となり、最後に大和に入って土着の豪族と合作して大和朝廷を創始したが、その後も倭国と百済が密接な関係をもっており、とくに百済が倭国を頼りにしており、倭国は百済を終始援ける立場にあったことも、おなじ王朝の分岐したものとしてはじめて理解できることである。このような両国の関係が、東アジアの五−七世紀の国際関係にどのような役割ないし意義をもったか、今後はそのような問題の解決に取り組みたいと考えている。一九八四年四月(騎馬民族国家 江上波夫 中央新書より) もどる

 

幻の九州王朝 古田武彦 (失われた日本 原書房) (『盗まれた神話』朝日文庫)

 近畿大皇家の誕生は、八世紀初頭(七○一)である。同家の支配層の人々はそのさい、一個の難題に直面した。それは「権力の正統性」の問題だ。七世紀末までは「倭国」だった筑紫の九州王朝である。吉武高木遣跡に見られるように、「三種の神器」を「権力の正統性」のシンボルとする王朝だ。天皇家はその分流だったが、その史実を「回避」し、前王朝(「倭国」)の存在を〃消した〃歴央を構築しようとした。その最初の試みである古事記において、「天武大皇を中心とする作製集団」が当面したのが、この「三種の神器」問題である。
 わたしはかつて、日本書紀の景行紀に現れる長大な説話、景行天皇の「九州大遠征」譚が数々の矛盾をはらんでいる事実を指摘した。

たとえば、

(一)中部九州の北辺(筑後、福岡県南辺)や西辺(肥後、熊本県)では現地側の歓迎を受けながら、東北辺(豊前、大分県)や南辺(薩摩、鹿児島県)では現地側の勢力と戦闘を行っている。--->東の大和から来た遠征軍としては、不自然。

(二)日向(始発、宮崎県)から浮羽(終点、福岡県)まで地名を詳述しながら、浮羽から日向まで突如飛躍し、中間の地名がない。---->日向から大和へは海路か。

(三)この「九州大遠征」譚自体、地名の詳密さにおいて、他(周辺)から突出している。異例である。

(四)折角、浮羽(筑後)まで来ながら、北部九州の文明中枢というべき筑前(福岡県北半)へ入っていないのは、不可解だ。

(五)古事記の景行記には、この長大な「九州大遠征」譚が全くない。

以上のうち、一番決定的なのは(五)だ。先に作られた「景行説話」に皆無だったものが、後に作られた日本書紀で突如出現する。片々たる小説話ではない。記・紀を通じてもっとも目立つ一長大説話がここで突如〃プラス〃されている。なぜか。当然この説話全体が「他の主体」のものであったこと、それを切り取ってここに〃活用〃したこと、ハッキリいえばこれを「盗用」したのである。

その「他の主体」とは誰か。‐−筑紫の君である。「筑前」を出発地として「九州一円統一」へと挑戦し、それに成功した「倭国(=九州王朝)」の君主だ(一連の説話より「前つ君」という名称が浮かぶ)。

すなわち、九州王朝の成立譚の一コマからの「盗用」なのである。この視点に立つとき、右の各矛盾はことごとく解消した。もどる

 

列島を覆う日本国=物部王国と倭国=邪馬台国の重構造  谷川健一(白鳥伝説、谷川健一著、小学館ライブラリ-より)

 河内・大和を中心とした領国を支配する物部氏−蝦夷の連合体に対して、九州島から東遷した邪馬台国の主体が戦を挑み征服したということである。もとよりその事実を徴すべき記録はないが、さいわいなことに唐の史書に、それらしきものが述べられている。この唐書の記事に注目したのは私がはじめてではないが、「日本国」と「倭国」との対立を、物部王国と邪馬台国との対立としてとらえたものは私が最初である。この物部王国と邪馬台国の対立の事実は、『日本書紀』の神武東征伝説に深い影を落としている。にもかかわらず、邪馬台国の東遷を神武東征にむすびつける史家が、そこに登場する二ギハヤヒの東遷について深く考えようとしないのが不審である。それではあまりに一方的であり恣意的ではないか。私は奇をてらって、物部氏の東遷を主張しているのでは毛頭ない。正史である『日本書紀』が物部氏の祖神であるニギハヤヒの降臨伝承を抹殺できなかったこと、また神武東征に先立って、ニギハヤヒが九州から大和へ移ったことを認めざるを得なかったこと、そこにはかならずや見落とせない深い仔細があるにちがいないと思い、それを物部氏と邪馬台国の二回にわたる東遷と結びつけて考えたのである。

日本列島の政治変革は例外なく外部からの圧迫によるものであり、周辺世界の変動に連動しているという歴史事実に照らしてみれば、その東遷の時期はおのずから明らかである。すなわち物部氏の場合は、朝鮮半島の混乱に連動して倭国に大乱の起こった時期であり、邪馬台国の場合は、朝鮮半鳥の楽浪・帯方の両郡が消滅した時期と対応しておこなわれた、と考えるのはごく自然で無理がない。そしてこの仮説を裏切る事実は今のところみつかってはいない。

邪馬台国東遷論者の多くは、その東遷を空屋への引っ越し同然に考えている。だが弥生終未期の河内・大和が侵入者に抵抗する政治権力をもたなかったとするほうがおかしいではないか。その政治権力は邪馬台国台に先行して東遷した物部氏を主体とするものであったと私は考える。物部氏はまず河内の日下に根を下ろした。日下は物部王国の発祥の地であり、ヒノモトと称せられた。それを漢字で表記したのが日下である。唐書にいう「日本」はじつに物部王国を指しているのである。「倭国」の中心であった邪馬台国は、「日本国」を支配する物部氏を打倒し、その国号をうばった。

わが国の「正史」の筆頭である『日本書紀』は「社史」のようなものである。そこでは皇祖が大和島根の支配者であることがア・プリオリに宣せられている。つまり、ヤマト朝廷の主権が確立するまでの「前史」が欠落している。そこにはおのれの対立者を正当に扱い、対立者との葛藤を公平に叙するという姿勢は見当たらない。それにもかかわらず、抹消しそこなった部分があって、それが昼間の月のように残っている。それがニギハヤヒの東遷と、その後を追うようにしておこなわれた神武の東征であったと私は考えるのである。

日本歴史を時間的にも空間的にも、もっとも深部において一つの文脈としてとらえることが肝要である。日本の歴史を考古学や民俗学のカを借りて注意ぶかく点検するとき、権力者が抹殺しようとして果たせなかった一つの真実が浮かびあがるのをみることができる。教科書にも日本歴史にも一度も登場しなかった真実がかくされていたことを知る。

日本の歴史には、その裏側におそろしい真実が伏せられている!その真実とは、縄文時代から弥生時代へ、弥生時代から古墳時代へと連綿とたどることのできる歴史であり、天皇家の存在よりも古くから、この島国の中央の部分を支配していた物部氏と蝦夷の歴史である。敗者としての彼らの歴央は抹殺され、ばらばらに解体された。だが、事実の破片を拾い集め、伝承の裏側に流れる意識と照らしあわせることで、もとの形に復元することがまったく不可能なわけではない。その確信のうえに立って、私は「平地人」の歴史の地平から「山人」へと肉追することを試みた。その作業も今や終わりをつげる。もどる

 

神武伝説の形成過程  神武天皇像の成立   直木孝次郎 (日本神話と古代国家 講談社学術文庫 1990 より)

 神武天皇が実在の人物ではなく、大和平定の物語は五世紀後半以降の歴史にもとづいて作られた部分が多いことと、東征の物語も史実を伝えたものでないことを、いままでのところで述べた。神武天皇についての疑問の多くはこれで解明できたと思うが、最後に残る大きな疑問は、それならば、なぜ日本の統一者が九州も南の日向を出発点として大和にはいるという物語が作られたのか、という問題である。

 以下その疑いに答えながら、神武伝説の成立過程を述べて、この小論のまとめとしたい。

 初期の国家の中心となった地域は、やはり奈良盆地の東南部、三輪山の山麓周辺の地であろう。この地域に初期の古墳が多いところからそう考えられるのであって、年代は考古学の研究成果に従えば、三世紀末ないし四世紀初頭と推定される。このころはまだ天皇ということばはなかったが、天皇に相当する地位についたのは、のちに崇神天皇といわれるミマキイリヒコイニエノミコトであろう。それから約一世紀のち、すなわち四世紀末から五世紀初めが、応神天皇・仁徳天皇の時代であるが、この両天皇をはじめとして以下数代の天皇の陵および皇宮が、河内・摂津・和泉(いずれも大阪府)の地にあったことが、『記・紀』に伝えられている。このころから有力になる氏族、たとえば大伴・物部などの氏族も河内・和泉の地方を本拠地としていた。そのほか、種々の事情を総合して考えると、応神・仁徳を中心とする勢力が摂津・河内方面から大和へ侵入して、崇神天皇にはじまる王朝を倒して、新しい王朝を樹立したという推測がなりたつ。

 国家形成の力が西から来たという物語の起こるみなもとは、このことにあったのではあるまいか。神武天皇が日向からくるのと、応神・仁徳が摂津・河内からくるのとでは、西は西でも違いすぎる、といわれるかもしれないが、四世紀末から五世紀初めは、日本が朝鮮に大規模な出兵をこころみていた時期で、兵力輸送の起点となる摂河の地と、朝鮮への前進基地である北九州とは密接な関係にある【(補注) 「四世紀末から五世紀初め」の大規模な出兵、というのは、好大王碑銘文によるが、この時期、朝鮮に侵入した倭兵を送り出した主体については、本稿執筆以降多くの研究があり、大和の政権と考えてよいかどうか、簡単に決めにくい。改めて再考したいと思うが、ここではしばらく発表当時のままにしておく】。

応神・仁徳の勢力の本来の基盤は大阪平野であるが、彼らが強大になった直接の原因は朝鮮出兵に関与したことにあり、その勢力範囲が北九州にまでひろがっていたことは、十分に考えられるであろう。神武東征の起点を九州におく構想は、これから生まれたものと思われる。 ただし、応神・仁徳王朝が九州から立ちあらわれたのでは、それ以前から大和に存在する崇神王朝の権威を打ちやぶることができない。そこで、応神・仁徳王朝成立後、若干の年数がたったのち、九州から征服者があらわれたのは崇神天皇以前のこととし、その征服者−神武天皇− によって作られた国を崇神王朝がうけつぎ、さらに応神・仁徳王朝がうけついだという建国物語が形成されたのであろう。その時期は、大伴・物部両氏が権勢をふるっていた五世紀後半のころと推定する。そうしてこのころ、大和政権の勢力はようやく九州南部にまで伸びていた。この地は開拓前線であり、新付の地であるが、それだけに大和の貴族にとっては霊力にみちた神秘の地と見られた。それが、神武天皇の出発点を北九州ではなく、南九州の日向とした理由であろう。もどる

 

万葉集は韓国語で読まれたものだった  李寧煕(枕詞の秘密、天武と持統 文春文庫)

・たらちねの、たまほこの、にきたつに・……。これらの枕詞は「意味が失われたまま伝承された和歌の修辞語」とされてきた。しかし古代韓国語で読むと驚くべき意味がうかびあがってくる!なぜ「あしひきの」は山・峰にかかるのか。「そらみつ大和」とはいかなる意味なのか。

・天武天皇の正体は?持統天皇の吉野通いの意味するものは?「万葉集」を韓国語で読み解くことによって、そこに秘められた驚くべき真実が明らかになる。「万葉集」は、血ぬられた古代の政争を記録した、もう一つの「記紀」だったのだ。歴史・国文学界に衝撃を与えた「もう一つの万葉集」「枕詞の秘密」に続く解読シリーズ第三弾!  もどる

古代日本を東アジア史の中に位置づける  小林惠子(興亡古代史 文藝春秋)

 神武、応神、仁徳、継体、聖徳太子、孝徳、天智、天武・・・これら「倭王」達の中に日本列島生まれは一人もいない! 驚愕の日本古代通史

・卑弥呼は江南の巫術者・許氏だった。
・神武天皇は248年9月に安芸(広島)で死去した。
・応神天皇は五胡十六国の中の秦の一族・苻洛だった。
・仁徳天皇は高句麗の英主・広開土王(好太王)だった。
・聖徳太子は中央アジアの遊牧民・西突厥の達頭可汗だった。
・大化の改新の主役:
 中大兄は百済王子・翹岐、大海人は高句麗将・蓋蘇文、藤原鎌足は百済の大官・智積だった。
・壬申の乱は、大友皇子と高市皇子の兄弟争いだった。
・天武天皇をクーデタで殺した真犯人は大津皇子だった。
・持統天皇とは、天武皇后鵜野ではなく、高市皇子だった。

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隠された十字架 法隆寺論 海原猛

 門の中央を閉ざす柱、一千二百年の秘仏・救世観音---古の息吹を今に伝え、日本人の郷愁を呼ぶ美しき法隆寺に秘められた数々の謎。その奥に浮かび上がる、封じ込められた怨霊の影。権謀術数渦巻く古代国家の勝者と敗者を追い、あくことを知らぬ真理への情熱と、通説を打破する大胆な仮説で、権力により歪曲され抹殺された古代史の真実に華麗に挑戦する、海原日本学白熱の論考。(隠された十字架 法隆寺論 海原猛 新潮社 昭和47年5月) もどる

 

海人と天皇 日本とは何か    梅原猛・・・母たちの系図

 推古天皇以下6人の女帝が輩出した飛鳥・奈良時代。この女帝の時代に律令国家体制を整えた藤原氏の野望は、天皇を象徴的権威とし自らの手に実権を奪った。一一古代天皇論を展開する著者は一つの伝承に直面する。聖武天皇の母・宮子が海人の娘であったという紀州道成寺にのこる伝承である。正史では隠蔽されたこの、事実、を検証し、古代権力者たちの壮大なロマンと陰謀を読み解く。
 聖武帝の不安と虚勢、異様なまでの仏教への帰依は何故か?孝謙女帝の、王を奴に、奴を王にへという身分制破壊への意志と、素性定かならざる道鏡への異常な愛は何に由来するのか?両天皇の母であり祖母である宮子が伝承どおり海人の娘であったという仮説は、その謎を解く。一一女帝の時代を背景に、後の時代をも決定した古代象徴天皇制の核心を解明する〈梅原日本学〉の新展開。(海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 新潮文庫より)  もどる