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日本民俗文化大系5 山民と海女 第2章/山民の生業と民俗より「山民とは何か」 山にすんだ武士 肥後山間の武家の興亡 山中武士の組織と兵力  山民の概念 山民と山村

農民とか漁民という言葉はよく耳にするが、山民というのは耳なれない言葉である。おそらく民俗学関係の人たちだけが、専門に使っている言葉ではあるまいか。しかしながら、その人たちも正面切って山民とは何ですかと問いかえされると、はっきりした答えはしにくいであろう。だが、ここで「山の民俗」として平地や海岸とはちがった生活をしている人々を考えるとすれば、そのような民俗をささえている人びとを、山民と呼ぶのは適当な言葉に違いない。そこで、ややわずらわしいようだが、はじめにこの呼称で呼ばれる人びとは、どのような性格をもつ集団なのかを考えることにしたい。

山民とは日本人の一部で山地に居住し、山地を利用して生業をいとなんで来た人びとである。だから、それは歴史的に山地と切りはなせない風俗習慣をもつ人びとのことである。

山に住んだ武士  故郷/津江の山々に戻る  山びとの考察へ戻る 五条氏に戻る

「平地の戦乱を避けて山奥に入つた多くの武家の外に、中世には特に山地を撰択した所謂開発領主も少なくなかつたやうである。九州へ往つて見ると、征西将軍宮を補翼して苦節を全うした五条氏の未裔が、今でも筑後(福岡県南西部)八女郡の矢部村大淵に住んで居る。五条頼元の最初の領地は豊後(大分県)玖珠郡の津江の山村であつたが、常に阿蘇火山の外輸山を跋渉して肥後(熊本県)の菊池と連絡を取り、猶筑後に越えては矢部の大淵、筑前(福岡県北部)では朝倉郡の三奈木荘、更に日向(官崎県と鹿児島県の一部)に於ては妖肥辺にも所領があつた。険しい境の山々を縦にも横にも越えて往来したのである。尤もこの場合は平地が敵であつたからの拠(よんどころ)無い交通手段とも言はば言はれるが、全然此種の圧迫を受けなかつた者でも、山を自分の世界として気楽に住んだ武士は随分あつたらしい

例へば肥後国志に依れば、辺春某と云ふ地侍は筑後八女郡の辺春村(現立花町)が名字の地であつて、而も其領分は今の肥後玉名郡緑村(現二加和町)大字山十町・中十町等の村々に及び、国境に近い肥後分の山十町村阪本と云わふ処に居城があつた。其辺春氏の親族には和仁某と云ふ家があつた。此家の領地は今の玉名郡春富村(現三加和町)大字和仁を中心として、筑後側の八女郡白木村(現立花町)の辺に及んで居た。肥後の国境には此類の家が、外にもあつたやうである。彼等は何れも狭小の耕地を以て多くの剛勇を扶持(ふち)し、戦国時代の動揺に耐へて永く家督を保つて居たが、佐々加藤の入部の時に種々の手段を以て滅されてしまつた」これは民俗学の開拓者柳田国男の「山に住んだ武士」という文章の一部である。その主旨は、山を境界とみるのは平地に住む農民的な考えかたであり、近世の農耕社会の所産である。中世には山地を生活空間として、分水界で区劃されない社会をつくっている人びとがあったというのである。山民とは、こういう歴史を背負って現代に生きている人びとのことである。戻る

肥後山間の武家の興亡

柳田は述べていないが、「肥後国志」に伝えられているところによって、もう少しくわしく彼らの社会と意識を考えてみよう。秀吉が九州征討のため乗り込んで来たとき、やはり肥後と筑後にわたる山中に居をかまえた大津山氏という武家があった。応永二年(1395)に河内国(大阪府中東部)からやって来た家で、いまの熊本県玉名郡南関町を本拠として約312町を領した。秀吉がやって来たとき城をひらいて筑後境に出迎えたが、そのとき、秀吉はこう言った。本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと。ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。そこで大津山氏は心平らかならず、同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは多く一味して成政に叛旗をひるがえし、大いに成政を苦しめたのだが、大津山氏はもし成政と会談して和議に応ずるなら三千石を与えようという甘言に乗せられ、城を出て行って暗殺されてしまった。

この点で、山中の武士は人の言を信じやすく、上方勢の常套手段である和議のさそいに乗る者が多かったようである。たとえば熊本の北、いま鹿本郡鹿央町に霜野という小さな集落がある。ここを本拠として中世にこの付近に威を振るった内空閑という豪族があった。この家系はもと伊賀国(三重県北西部)の名族服部氏の出で、服部というのは例の伊賀・甲賀の忍者を生んでいる。さて、内空閑氏の祖先は元中九年(1392)にこの国にやって来て内空閑地方を領して家名を立てた。空閑というのは文字通り特定の所有者のない土地を指す中世の呼称である。だから当時までは、この肥後の山間には領主の定まらない土地が少なくなかったのだろう。この内空閑氏も一揆に加わって成政に反抗したのだが、当時この一族は養子の兄と実子の弟とに分れて対立し、弟の所領が少なかったのを秀吉が九州平定の時に加増して均分に相続させたのである。そこで兄は不平をもって進んで一揆に加わったが、弟は形勢を見ていた。佐々成政は一揆を鎮圧することができず、国中不取締の故に秀吉から処罰され自殺したが、一揆も秀吉の派遣した軍勢に鎮圧された。この時、内空閑氏の弟は23歳だったが、兄はその実家一族ともども叛乱に加わったのだから殺されたけれども、自分は秀吉から本領を安堵された服部氏の正統だから、もとの城にいても差支えあるまいと兄の城に入って住んでいた。このあたりが山中武士の天下の形勢に疎い悲しさというもので、領国大名しか認めず、中世的な血族の正統性などよりも政治的安定性を重視する時代となっていたことが見抜けなかったのである。単に当主が若かったということではすまされない点であろう。戻る

山中武士の組織と兵力

 『肥後国志』にはこの山中武士たちの生活についての若千の記事がのっている。彼らの社会は兵農分離以前の姿だから、むろん平時は農民として耕作を営み、戦闘となれば武器を執って起ったわけである。城下に住み儒学を信案とする近世の武士とは大いに異なっていた。ここでは比較的くわしい大津山氏の事例を述べてみよう。大津山氏の所領は、肥後と筑後の山間にまたがり、耕地320町、近世の村高に換算して約一万四千石であった。その中心は累代の家臣六名が各100石ほどの土地を下人に耕作させていた。そのほか有力な武士が34人、また若党30人の計約60余人が田一町、畠一町程度を耕作し、戦には騎馬ではせ参ずる。そのほかに力と呼ばれて戦場では雑兵として戦う者が約30名、これらは田五反畠五反ほどを耕作し、その下にさらに下力と呼ばれる田畠三反ほどずつを作る者が数百人あった。これらは農民として名頭と呼ばれる郷民頭六名の支配を受けた。領民の年貢は田を持つ者は人ごとに(面積でなく)3升6合を入れた俵一つを納める。そのほか所持の田一反につき銭100文、畠一反につき銭50文を税として出したという。もちろん、このほかに戦争には軍役として参加の義務があり、天正一四年(1586)に島津氏に属して筑前勢と戦ったときの大津山軍の勢揃えでは、総数250名、うち騎馬武者70人、足軽100人であった。後に大津山氏が佐々成政に追われて城を出たときの人数も約260人というから、この人数が大津山領の兵力とみられる。

大津山氏がその東に領土をもつ辺春一族と戦ったとき、その有力武士小野権之丞は23歳の若さで辺春方の鉄抱に胸を打ち抜かれて死んだ。これを聞いた妻は戦死は武士として当然だから悲しくはないが、夫の仇が討てない女の身が残念だといって20歳で自害した。こうした山中住民の勇猛さはこの事例ばかりではない。このしばらく後に徳川氏が天下を平定して山地住民を討伐したとき、日向肥後の境の椎葉山の住民千余名が捕えられ、140人が首をはねられた。そのとき彼らの妻女ら20余名が即座に自害したという(『徳川実紀』)。女性たちもこのような心がけであったところに、中世山民社会の一端がうかがわれる。戻る

山民の概念

こんな歴史をもって平地人と対抗し、武勇はありながら世なれない素朴さをもって世を渡って来た人びとが、われわれのいう山民の社会をつくって来たのである。柳田国男は山民の性格の特徴として、「正直・潔癖・剛気・片意地・執着・負けぎらひ・復讐心その他」をあげた。そうして、これらをもっとも顕著に発揮した人びととして山伏・修験の徒をあげたのである。山民には漁業をするから漁民、農業を営むゆえに農民といった生業を基本とする区分は通用しない。伐木・箕作木地師・漆工・鉱山師・たたら・炭焼・狩人・鷹匠・修駿等々の山地資源を利用して平地人の要望をみたす仕事をする人びと、いわゆる諸職に従事する人びとが多く含まれる。農耕も世の常の水稲栽培は稀で、焼畑に雑穀や根菜類をつくる稲作以前の農法に従う者が多かった。したがって、彼らの多くは多少とも移動性をもち、山中急坂を上下することをいとわなかったのである。したがって彼らの持ちものは多くは軽量でしかも価値の高いものが多かった。その極端な場合が無形の文化、つまり芸能や信仰だったのである。そうして中世の社会ではそれらは平地の農民から喜んで迎えられ、対等の代価を支払われることができたわけである。一方で山民の立場からすれば、彼らの生産物は焼畑の作物を除いては、すべて交換してはじめて価値を生ずる。木材にしても全属にしても、また芸能や信仰にしてもそうであった。だから、近世の平地人がそれらの価値を認めなくなったり、代用品を生産するようになると山民の立場は弱くなり、山を出て平地の社会にまじって在来の誇りを捨てざるを得ない場合も生れてぎた。

多くの宗教者がそれである。一部の芸能人の中には大名に用いられてやや高い生活を得た刀匠や力士などもあったが、大半は鷹匠のように武士の下風に立たねばならなかったし、木地師のように流浪生活を続けなくてはならぬ者も少なくなかった。いわば山民は近世では敗者の立場にあったといってよい。そして山民としての連帝感も失われて今日に至っているのである。山民の民俗なるものに統一がないのは当然といえよう。戻る

山民と山村

山民の社会が山村である。この場合の村というのは、現代の地方自治行政体としての町村の意味でないことはいうまでもない。山民のみが独立して自治行政を行う土地は現代では全くありえない。それはいま述べたように近世の農耕を主とする政治体制の中では、山民の経済的独立性は維持できなかったからであった。したがって、山村といわれるものは町村に含まれる地域小社会としてしか実在しない。いわゆる小地域協同体的な社会を作っている旧藩政村、あるいはより小さい枝郷といわれる集落程度の大きさにすぎまい。しかしながら、それらの中にたもたれている住民の志向あるいは慣行的価値観の中には、いまだに前代の山間居住者の性格がうかがわれる場合がある。もっとも顕著な特色は、山中を一般平地農民の居住する俗世界と異なった、神聖な世界であるとみなしている点である。私はこれを山中異界観と呼んでいるが、住民たちが山中を山の神という極めて日本的な神格の支配する世界と考え、山中では諸種の戒律を守るか、またはその痕跡を精神面にとどめている点に、山村の特色を求めるのが民俗学的な山村の規定として適当であろう。戻る


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山の民の交通路(講演:井上清一)  第9回熊本地名シンポジウム『熊本の地理と地名』1994より

箕作りの人達

 何とも不思議な人達の集団であった。身なりは洗い晒のボロに近い木綿の着物に、草履の女達、大きな何枚も重ねた厚手の大風呂敷に包んだ物を青負い、片手には弦鍋を下げ、もう一人の女も大風呂敷の荷物を肩に負い片手に大きな竹筒を下げ、二人共浅黄の布で髪を包んでいた。目付の鋭い地下足袋を履いた男達は、割竹の束や葛の東、欅の厚皮を巻いたもの、桜の皮をいれた布袋など、一緒に新しい箕を五・六枚肩にしていた。四・五人の男達と村から村へと通る小径を、足遠に歩いて、村はずれの森の堂に着くと、男達は新しい箕を持って、家々を廻り箕を売ったり、破れた古箕の修理を引き受けたりして帰ってくる。女たちは石を集めて寵を造り、鍋を掛けて飯を炊く。下げていた大型の竹筒に水を入れ火の傍らに立掛け、新芽を出している茶の枝を折取り、焔の中に差入れ、パチパチ音を立てゝ焼いた茶の葉を摘んで竹筒の中に入れると、美しい緑色の茶が沸く。これも路端の畑から失敬して来た、青菜を洗ってねじ切り、竹筒に入れて湯を入れ味噌を溶して、河原から集めて来た小石を焚火で焼いたものを入れると音を立てゝ味噌の香が漂う汁が出来る。筍の季節では皮付のまゝ焚火で焼いて皮を剥いで切って串に挿して味噌を塗って焼くと田楽が出来る。肉や魚があれぱ、お堂の屋根瓦を脱して焚火に乗せるとフライパンになる。飯が終わるとお堂の床下や崖下の夜露の掛からない処を選んで落葉を集めたり、藁を敷いたりして大風呂敷を着て眠る。翌朝食事が終わると男達は、箕の修理、女達はお堂の附近から豊後笹、観音笹とも言う茎の細い笹を採って来て、葉をこき落して茎だけで、茶碗めご、笊を編んで村の人達に買って貰ったり、米や味噌と交換してもらったりする。二・三日で箕の修理が終り届けると勿然と消えさる。乞食同然の生活をしているが後の始未も見事、何の跡も残さずお堂の花も新しく代へてある。女達が作る茶碗籠も見事な民芸品である。
 ここで、山の民と申しますのは、山窩系統や箕造(みつくり)などの人達です。この人達がいつの時代から肥後の国を歩くようになったか、私の推察では、幕府の諜報員の一種ではないかと思われます。この連中がどんなことをするかというと普段の状態ではなかなか各地方に入り込むことは出来ません。日本の大変革期、関ヶ原合戦後、徳川家康が、敗者の石田・小西を取潰した頃、肥後の改革に努めた加藤清正の時代から、この人達の活動が始ったようです。そのような人達は日常生活に必要な道其を生産する山窩、つまり、箕(み)という穀類選別の用具を通じて、民衆の中から情報を探って、そして伝えていたのではないかというのが、私の想像です。戻る

山の交通路

 山を出て次から次へと里を廻って歩く連中が、一番つかうのは里道、村と村とを結ぶ道路です。これを昔はカサ道と申しています。カサというのは、庶民にゆるされた雨具、肥後ではバッチョ笠といっています。竹の皮を利用した笠で、之は肩巾より少し広くなっていまして、これをかぶりますと、傘の代用になります。この笠道は地図の上では、点線であらわしてある巾五十糎程の小さい歩道です。之を通る人達、不思議なことには、ここを通る人達は山で会いましても、なるべく人に顔が見られないようにして通ります。どうしても狭い道である間係で、顔を合わせるような時は、薮の中に駆けこんで、顔を見せません。そこで、いつの間にか、こういう人達は顔を見られるのがいやだというので、カサ道という名になります。カサは皮膚病の瘡(かさ)に通じます。それがいつの間にかカッタイ道とも呼ぶようになりました。今では差別用語として使われませんが、カッタイとは癩のことです。そういうことで人に顔を見られるのが厭だという、そういう人達がいるのです。このような人達は人里でも、小さい道から道を通って、部落につきましても、お堂などを本拠として炊事をやり、村の中へ入り、新しい箕を売りひろめ、箕を修理するなどの事をやります。其の部落が終ると、次の部落へと移ります。住民の人達ともあまり話しません。話すのはその四、五人の群の中にいる男の人達二、三人が、部落の中を駆け廻って、箕その他の修理などを引き受ける、あるいは新しい箕の注文をとる、この箕が村から村へわたる間所手形みたいなもので、これを持っていると、村の人達は彼らを部落の中へ入れることを許します。このような生活をくり返しながら来る連中が矢部町を三つの集団でやって来ます。この連中がどこへ行くのか、馬見原あたりで忽然といなくなります。のぼって来るのは緑川筋の下の方の甲佐、御船あたりから矢部町へと通りながら箕の修理などをし、それが五月二十日頃です。これがちっとも狂わない。昔から不思議な集団だと思って調べて五十年になります。そこでどこから出て、どこへ行くのかつきとめるために、いろいろと考えをめぐらしまして調査しました。どうも球磨郡の方から下って来て、八代附近に出て、それからわかれて矢部、あるいは阿蘇の南郷谷を通ったような形跡があります。その他はあまり通っておりません。菊池の方もおそらく通っているものと思いますが、そこではこの話をあまり聞きません。とにかく矢部を中心に通っているようです。戻る

1)緑川筋の村々 砥用町−石野−藤木−下福良−矢部目丸−津留−管−木原谷
2)矢部中央筋 甲佐早川−水越−矢部猿渡−藤木−千滝−桐原−畑入佐−男成−川内−上川井野−清和大川−蘇陽菅尾
3)大矢裾筋 御船−木倉−上野−七滝−矢部−長谷−水増−金内−田小野−下名連石−御所−清和鶴底−郷ノ原−蘇陽二瀬本

箕作りの原郷

そこで戦友会を開いた人吉で、各地から集まった戦友に聞いてみました。どうも湯山峠を下りて、それが大体三月始めで、それから三月七日に岡原村、三月十日芦北郡津奈木、三月十一日八代郡坂本村、四月一日下益城郡小川町海東。「箕作り」は球磨川に添って下り、一部は津奈木へ出てその後八代で合流して松橋から緑川を遡ってくる。そのスタートを調べてみますと、湯山峠の不土野峠を越えた奥日向一帯(米良・椎葉・諸塚)あたりの訛がかすかに残っている。それで大体この附近であろうということで調査をしました。戻る

奥日向の士地

ここで先程話をした、人の顔を見ない人達は、どこに居った人達かというと、日向、奥日向に早くから来ております、米良山、米良の人達、これは菊池一族の流れです。それから椎葉三人衆と申します。椎葉山の那須氏、大河内の那須氏、向山の那須氏というのが、現在の椎葉ダムのあたりに居た豪族達です。その他にこの椎葉三人衆の中でも元和五年(1619)に幕府領になりましたあと、阿蘇大宮司が治めていた、その支配下にいた人達ですので、明暦二年(1656)に相良藩の支配下に人っております。そういった肥後系統の人達が多い。こういった人達が箕作りとなって、各地に潜入致しましても、いつどこで、顔を見知られた人達と会うかもわからぬ。そういうのを恐れるために、顔を見せないで済むような行動をするわけです。それがこういった隠し道を通って、村々に人り込みます。こういった人達が住んでいた奥日向というところはどういうところかと申しますと、いづれも非常に険しい地形です。食糧を生産する耕地、之が13度以上もあるような急斜面です。これ以上の斜面になると、当然コバ作、つまり焼畑しかできないというような土地です。非常に急斜面で耕土の流出がひどく、畠としては限界であります。こういう所での作業ですから、耕地を耕すのもあげ打という、上の方から下の方の土を、繰り上げて耕地を作るという、非常に難儀な所であります。労多くして収穫は少ない。したがって、僅かの農作物を得るにも、多大の労力が必要です。家族構成もその時代は、数多い家族のうちで、長男だけが家をとり、嫁を迎えて子供をつくる。次男以下はオジンボウ、オバンボウと申しまして、その大家族のなかの糧を得るため労働力としてだけあるという実にみじめな、貧乏な生活ぶりでした。そうやっていても食えないほどの収量です。延岡藩の殿様たちは、年貢は当たり前にとりますし、それで食えない連中はどうやるかと申しますと、期間を限って、他所で食ってこいというようなことで、この連中が箕作りとなって肥後へ、或は他所にも出る。そして箕作りの商いで、米を蓄えて帰って来る。これが五月の末日です。したがって、米どころの矢部を通ります時、その賃銀はほとんど米で貰っています。馬見原境に出る時には、一人で、矢部で集めた米の一斗以上は担いでおります。多く稼いだ人たちは、あれから馬見原境まで持ってゆけばよいので、米を置いて、更に米を買って帰る。それでやっと生活が出来る。このような悲惨な、遊應というよりも、渡り歩きの生活をしている。戻る

日田代官指揮下の諜報活動

箕作りが活動したのは、熊本では加藤氏治政の時代からだろうと申しましたが、元正年間、藩では肥後入国以来、文録・慶長の朝鮮の役や関ケ原の戦いを経て、肥後一国の領主となり、熊本城を築城し、治水、農地開発などの土木工事にも治績をあげて次第に力をつけてきます。はじめは、徳川家康にも信頼されて南の島津の抑えとして期待されますが、次第に幕府にもその実力を警戒されるようになります。関ケ原以降、僅か十年間で、幕府の飼い犬は虎に変わりました。加藤恐るべしと感じた幕府は秘かに肥後に関する情報収集を日田代官に命じたのでしょうか。九州の幕府の監視役は日田代官です。豊前、豊後は、豊ノ国と言い、物資豊かで海に面して都へも便利よく、力を集中させると大きな対抗勢力になるところから、お互いに反目、対立させて治めようという方式で、鎌倉時代には鎮探題が置かれ、徳川幕府も豊前、豊後には小藩を並立させて統治しました。豊後臼杵藩三万石、日出藩二万五千石、佐伯藩二万石、森藩一万二千石、府内藩二万石、岡藩七万石、杵築藩三万二千石、日向延岡(内藤)藩七万石などです。この時期、肥後は細川藩ですが、その治下に鶴崎まで豊後三郡がありますが、日田郡代領とは入り乱れて情報収集には便利でした。日田郡代が、貧乏な内藤藩の箕作りなどを使って情報収集の指揮に当っていたと思われます。その情報は日田の代官所に残っている。この人達は、箕という通行手形をもって日田に行き来できる。日田郡代 寺西蔵太 豊後日田十一万七千五百石 天保九年(一八三八)調。日田はのちに九州全体の幕領を支配する。西国郡代の陣屋がおかれてから異常の発達をとげ、大名賃しを行った掛屋(かけや)山田・森・広瀬・千原・草野の諸家の存在によって九州金融の中心地となり明治迄つづいた。こけし人形で有名な、東北宮城県の鳴子温泉は東北木地師の本拠で、会津漆器の職人として定住した人もあるが、大部分は漂泊流浪の渡り木地であった。これを利用したのが会津藩主松平侯で東北外様大名、仙台の伊達、盛岡の南部、米沢の上杉、秋田の佐竹等の情報を集めた。その中心となったのが磐城平の内藤藩であった。そのベテランを挺子入として延岡藩へ派遣したのであろう。こういう山村の農民の生活がようやくなくなったのが現在の状況です。昭和三十二、三年頃までは矢部のあたりに入ってきて、謀報活動こそしませんが、昔ながらの生活をしているのが見られました。この研究をやって居りましたら、方々から珍しい研究だというので、盛んにはっぱをかけられ、そして民俗学者の宮本常一先生、この方は三回も私の方へお出になりまして、夜通しでこういう話を繰り返したことがあります。これらの研究が、この頃やっとおおっぴらに発表出来るようになりました。その第一回が、この会です。私はやっと肩の荷をおろしてホッとしたわけです。戻る


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山の人生 柳田国男著 第13「神隠しに奇異なる約束ありしこと」より 

『九桂草堂随筆』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘先生の実験である。「我郷(豊後日田郡)に伏木といふ山村あり。民家の子五、六歳にて、夜泣きて止まず。戸外に追い出す。其の傍らに山あり。声やや遠く山に登るやうに聞こえければ驚きて尋ねしに終に行方知れず。後十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越えと云ふ峯を過ぐるに、麓より怪しき長(たけ)七八尺ばかり、満身に毛生げたる物のぼり来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺れて動かず。其物近づきて人語を為し、汝いづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の児失せたることを聞きたりやと言う。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕ふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐より橡実(とちのみ)にて製したる餅様の物を出し、我父母存命ならば、是を届けてたまはれと謂ふ。何れの地に行きたまふかと問ふに、此れより椎葉山に向ふなりと言ひて別れ、それより路無き断岸に登るを見るに、そのはやきこと鳥の如しといふ。話は余(よ)少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」


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陸の大動脈としての中央構造線  日本の地名 谷川健一著 1997 岩波新書より

 松田壽男は「丹生の研究」の中で、「伊勢の丹生から西に、数々の丹生をつらねて豊後の丹生まで、地質学での中央構造線は、まさしく「丹生通り」を形成している」と言う。これを中央構造線に展開した南朝方の動きと重ね含わせて見ると、吉野から紀ノ川を下り、和泉の南から淡路の沼島をへて、阿波に通じる海上交通権は淡路島西南端の町阿万(兵庫県三原郡南淡町)と沼島の水軍がにぎっていた。阿波の山岳武士は阿万や沼島の水軍のたすけを借りて吉野方と通じていた。古代の阿波忌部の流れをひく木屋平の三木氏や祖谷山の菅生氏、落合氏など阿波山岳武士はよく北朝方と対抗した。徳島県では東流する吉野川ぞいの道を上流の方にむかっていくことを「空」の方にいくという。これら山岳党も「空」の方に住んでいた。また山伏が吉野方の密使として活躍したことは知られているが、木屋平の松家氏のもとには、山伏によってもたらされたというこよりによって髪にむすびつけた文書が残っている。小さい紙に書かれた後村上天皇の綸旨で、「もとどりの綸旨」と呼ばれるものである。

吉野川をさかのぽって西にむかうと、伊予は河野氏の一族が宮方と武家方にわかれていた。そのほか瀬戸内の水軍にも南朝方についたものがある。忽那島に拠る忽那氏もその一人で、忽那義範は懐良親王を三年の間、忽那島で庇護し、そのあと九州に送りとどけた。九州の中央構造線は佐賀関半島の周辺にはじまり、九州山地を横断して熊本県八代市に達している。そこにはさまざまな豪族がひしめいていた。南朝方に立つものには、肥後の菊池、阿蘇、名和などの一党があった。懐良親王は肥後の菊池氏の援助を受けて、九州北部に勢威を張ったが、晩年は力振わず、筑後の矢部か肥後の八代かどちらかで死んだといわれる。仮りに親王の終焉の地が名和氏一族の根拠地の肥後の八代とすれば、南朝(宮)方の活動は、天竜川の東がわの大河原の渓谷からはじまって、さいごは中央構造線の西のはしの八代で終えたことになる。もちろん官方も武家方も入り乱れて対峙しあらそっているから、単純化することには慎重な手続きを踏まなければならないが、大局的に見て、南朝(宮)方が中央構造線上に展開したという私の仮説はけっしてあやまりがないものと思う。そして南朝(宮)方をたすけたのは、古来その自然の道を往来する「歩き筋」と呼ばれる猟師、サンカ、木地屋、鉱山師、鍛冶屋、鋳物屋など漂泊の徒であり、それに山伏などの修験者も加わった。

そこは山の民の移動路であるばかりでなく、交易路でもあった。猟師のもたらす毛皮や肉、木地屋の盆や椀、サンカの箕細工、鉱山師による水銀などの鉱物の採掘が、ときには南朝(宮)方の生活を支え、またその軍資金となったはずである。中央構造線上に展開した南朝方は山民を味方につけ、平野部に展開する武家方とたたかった。かつて柳田国男は山人と平地人のたたかいを大昔の日本列島に描いたが、その延長は南北朝の戦いまでもち越され、その戦いが最後になったと思われるのである。楠木正成の千早の戦法は、大軍をおびきよせ、山谷にひっぱりこむ山岳戦争である。負けそうになれば山奥か谷底かに逃げこむ。これは今も昔も変らぬ山民のゲリラ戦法で、これは吉野にもあてはまる。南朝方が、山岳地帯に身をよせたのは、かならずしも窮追のためとばかりとは言えず、むしろ山民の伝統的な戦法に依拠したところが大きい。しかし山民の勢力は敗退し、室町時代以降の日本の歴史は平野部に重心を移して現代にいたったが、黒潮が海上の大動脈として日本文化に大きな役割を果してきた時代があったように、中央構造線が陸における日本文化の大動脈として寄与した時代があったことを忘れ去るわけにはいかない。

 

        平清盛の全盛時代、高倉宮以仁王(後白河天皇の第二皇子)は諸国の源氏に激(平家討伐の綸旨)を飛ばしたのも、『山民』たちの足に拠ったと見えます。

        木地師の足跡と高倉宮以仁王伝説

http://www.ouchi-yamamotoya.com/ouchi/ouchi.html

http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/takakura/takakura.htm

http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunken8.html#takakurajayb

 

 

 

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