牧師室'19.1


 ◎ 2019.1 ◎
「涙が宿っても」

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

(旧約聖書 詩篇30:5)



  頭の体操ではありませんが、問題です。「愛する」の反対語は何でしょうか?反対語辞典によりますと、「憎む」とあります。ところが、マザー・テレサは「愛する」の反対は「無関心」だと言いました。
  無視されるって悲しいですよね。「イジメ」と云うのは、暴言を受けたり、意地悪をされたり、それも辛い・悲しいことですが、無視される,相手にされないというのが、最も辛く悲しい「イジメ」だと言われます。挨拶をしたのに、気づいてくれなかった、とか,悲しいですよね。私も、気をつけねばと思います。
  さて、私たちの人生には、楽しいこともあれば、悲しいことも沢山あります。人生は「山」あり「谷」ありです。因みに「山」の反対語は?反対語辞典によりますと、山⇔谷、山⇔野、山⇔海と三つありました。色々使い分けが出来ますよね。ではもう一つ、「喜び」の反対語は?これも反対語辞典では「悲しみ」とあります。
  今日の御言葉、詩篇30篇5節の後半に、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」と詩篇の記者は歌いました。この詩篇30篇には相反する状態を表わすことばが多くあります。「病気と健康」「滅びといのち」「御怒りと恩寵(愛顧)」「夕暮れと朝明け」「涙と喜び」「嘆きと踊り」「順境と逆境」「沈黙と賛美」等です。
  良いことばかりは続きません。しかし悪いことばかりが続く訳でもありません。山があれば谷もあるのです。 それが人生だとダビデは歌うのです。人によって大きいか小さいかの違いはあっても必ず山と谷があるのです。このことを知ることは私たちを大いに安心させます。ところが、私たちの心は山にいるときは傲慢になり「私は決してゆるがされない。大丈夫だ」と思います。また谷底にいるときは「神様は私を無視しておられる。」と不安になり恐れに支配されるのです。
  イエス様はそんな私たちをご覧になり、「信仰の薄い者よ。なぜ恐れるのか?」と御声をかけて下さるのです。主イエス様は約束して下さっているのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)と。
  ダビデも、自分が順境の中にあったとき、傲慢な思いに陥っていました。6節、7節にこうあります。「私が栄えたときに(新共同訳/平穏なときには、口語訳/安らかな時に)、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。(口語訳/わたしをゆるがない山のように堅くされました)」と。健康であることは確かに神の恵みですが、その恵みに狎れると傲慢になります。ですから、病気になったとき、しかも死に至るような病に陥ったとき、ダビデは神が「御顔を隠され」たと感じたようです(7節)。彼は意気消沈し「おじ惑っていました」と正直に告白しています。あのゴリアテと戦ったダビデでさえ、時にはこのような恐れの中に陥ることもあったのです。けれども、ダビデの信仰は、8節に「主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主に憐れみを請います。」とありますように、「御顔を隠された」のではないだろうか、と云うような、そうした状況に支配されることはなかったのです。
  まして、私たちには、死を打ち破り、復活して神の右の御座についておられ,執り成して下さっているイエス様が共にいて下さるのです。
  明日をも知れぬと言われた方の枕許に「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」と書かれた色紙が置いてあった。 この人は、復活の希望を持って,主を仰ぎつつ眠りについたのです。山にいるときも、谷底にいるときも、どんなときでも神の恩寵は注がれ続けていることを覚え、ダビデのように、状況に支配されることなく、「私はとこしえまでも、あなたに感謝します」(12節後半)と主を賛美しつつ歩んで行こうではありませんか。