牧師室'19.3


 ◎ 2019.3 ◎
「死を味わわない」

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、
神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」

<マルコの福音書 9:1>



  思いがけない事が色々起こってくる日々の生活の中で、時にはうろたえ落ち着かない自分の姿を見ることがあります。そんな時に「心配しなくても大丈夫」という声を聞くなら、きっと100%ではないにしても落ち着きを取り戻すことが出来るのではないでしょうか。
  このマルコの福音書9章1節のイエス様のお言葉「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」この言葉で何を私たちに教えようとしておられるのでしょうか。
  実はこの前の8章においてイエス様は弟子たちにこう言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)と。この事で弟子たちは動揺します。マタイの福音書の同じ記事を見ますと、ペテロがイエス様を引き寄せて「主よ。・・・。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(16:22)と言っていさめた、とあります。
  そんな弟子たちを安心させるためにイエス様は「まことに、あなたがたに告げます。・・・」と仰ったのです。その後、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を山に連れて行きました。姿変わりと言われる記事が続いて記されています。
  この記事を読みますと、モーセとエリヤが現れてイエス様と語り合ったとあります。ルカの福音書によれば、次のように記されています。モーセとエリヤが「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」と。
  モーセとエリヤは、律法と預言者を代表しています。そして雲が彼らを覆いその姿が見えなくなると天からの声がありました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」と。
  マタイの福音書では「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と、とあります。また、ルカの福音書では「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」とそれぞれ違った表現がなされています。これらを合わせて見ると、旧約聖書の三箇所を組み合わせたことばであることがわかります。
@詩篇2篇7節「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」

Aイザヤ書42章1節「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」

B申命記18:15「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
  この事から理解できることは、イエス様は預言者、祭司そして王という権威をお持ちになっておられるお方であるということです。つまり、王として国を治め、罪の贖いのためにご自身を犠牲としてささげる祭司として仕え、そして預言者として神の啓示を完成させるのです。
  しかし、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネに、今見たことを御自身の復活の時までは誰にも話してはならないとお命じになりました。この姿変わりの出来事は、復活後でなければ誰も理解できないことをイエス様はご存じだから、その時までは黙っている方が良いと知ってのことなのです。
  もう一つのことを見てみましょう。それは「御姿が変わった。」と言うことです。これは何を意味しているのでしょうか。もし、これが栄光のお姿に変わったのだとするなら、そのまま天の父なる神様の許へお帰りになることが出来たのです。しかし、イエス様はそうはなさらす、再び私たちと同じ姿となって地に降りて来てくださったのです。私たちの罪のために、十字架の苦しみの中へと戻ってこられたのです。
  イエス様はご自分の苦難を予告することによって与えた弟子たちの動揺が、 どんなに大きなものであるかを、誰よりもよくご存じであられました。 ですから「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」と、十字架と復活を通して、死に勝利をし、私たちも主と同じ栄光の姿に変えて下さる事を予告されたのです。「わたしを信じるなら死んでも生きる。大丈夫。安心しなさい、恐れることはない。」と。